10㎡の戦争-エンペラーガーディアン-

フェーベ

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エンペラーガーディアン

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湿度を含んだ冷たい微風が頬を撫でる。なだらかな丘陵地のところどころに樹高1mほどの這松が生える草原は、地表面近くまで濃霧で覆われているため極めて視界は悪かった。我に返った綾瀬コウが最初に目にした光景がそれだった。一瞬、夢の中にいるようなそんな錯覚に捉われたが、頬に感じるゆるやかな風が夢であることを否定した。足元には小さい花がいくつも咲いている。エンペラーガーディアンの世界に来てしまったのだ。突如真っ白な空間が闇に覆われ、意識を失ってどれくらい経つのか。ここが6畳ほどの空間のままで、VRの類なのか、どこか別の場所に連れてこられたのかは判然としない。真っ先にコウが気づいたのは隣にいたはずの椎名さくらの姿が見えないという事実だ。

焦るな、落ち着け。状況を整理して理解しなければ。コウはふーっと長い息を一つ吐き、高鳴る鼓動を抑えようとした。意識は失ったものの、そう長い時間は経っていないはずた。ならばここが本当の占守島とは考えられない。占守島は千島列島最北端のロシア領だからだ。次にコウは自分が軍服を身に纏っていることに気がついたが、さくらを探すことが先決だ。濃霧の中、右も左も分からなかったが、建物の影のような物がぼんやり霧の向こうに見える。そこに向かおうと草に覆われた緩やかな登り坂を歩き始める。足に伝わる感触は本物のようだった。

ふと視線を下に向けたときに、胸に縫い付けてある階級章が目に写った。赤地に金のライン、星が1つ。少尉の証だ。この時、コウの脳裏に疑問と不安が一気によぎった。なぜこれが少尉の階級章だと知っているのか。確かにゲームのルールには少尉、とあった。その記憶がこの階級章の認識につながったのかも知れない。だとすると。さくらはどんな役割を担わされているのか。女性兵士など聞いたことがない。ゲームだから関係ないのだろうか。コウの不安はますます大きくなり、やがて叫びながら走り出した。
「椎名ー!」
がちゃがちゃという腰の装備品に気をとられ、這松に足を引っ掛けてコウは派手に転んだ。音の正体は腰に吊った軍刀だった。鞘に手を掛け引いてみるとすっと刃の部分が見えてくる。コウはぞっとしてすぐ元に戻した。地面に散らばったのは実包。それも腰の弾入れに突っ込む。転んだ拍子に捲れた袖口を直そうとして、時計に気がついた。時刻は10時。明るさからすると午前だろう。

1945年8月15日。あと2時間で戦争は終わる。この占守島を始め、対ソ連戦線以外は。コウは時計のフェースにあるボタンを押してみた。碁盤の目のようなものが浮かび、中心で赤い点が点滅している。2度、3度と押すと赤い点が小さくなり端に青い点が現れた。更に押すと赤と青はますます小さくなり、隅に灰色の点が複数現れる。どうやらGPSのような機能らしい。赤が自分。青がさくらだろう。そして複数ある灰色が他のプレイヤーとみて間違いなさそうだ。縮尺は分からないが、さくらを確認できたことでコウの不安は幾分か和らいだ。点が重なるように進んで行けばきっとさくらがいる。それに同じ時計を着けているさくらも同様にコウを探しているはずだ。

GPSを頼りに足元に気をつけながら進んで行くと、人影が近づいてくるのが見える。霧のせいではっきりと姿を捉えることは出来ないが、さくらではない。相手は走っているようだ。どんどんコウに近づき、土を蹴る音が聞こえてくる。
「綾瀬少尉殿、ここにおられましたか。」
相手の顔を認識したとき、コウは愕然とした。初めて見るはずの背筋を伸ばし敬礼するその人物が誰なのか、認識したからだ。知っているはずもないのに。そしてそれはバーチャルではなく、紛れもなく「人間」だった。

一気に記憶が蘇るような、いや正確には新しいデータをロードしたような、と言った方が近い表現か。脳に電気が走るような感覚とともに所属部隊から目の前の人物を始め、同じ部隊の人間の顔と姓名階級が溢れ出す。綾瀬コウが不安に思っていたことの一つ。エンペラーガーディアンが始まるとして、突然その場にコウが姿を現すことになるのか、それとも始めからその場にいたことになるのか。前者の場合、共に参加させられた椎名さくらと2人きりでゲームを進めることになるが、少尉という階級が意味を成さない。後者の場合は、どうやってコウたちプレイヤーの存在を認識させるのか。またプレイヤーは周りをどう認識するのか。

その答えは後者で、スムーズなゲーム進行のために最低限必要なことを脳にインプットすることだったのだ。
「綾瀬少尉殿、総員司令部前に集合であります。」
「あ、うん。わかってる」
杉田甲子郎軍曹に返した言葉をマズかったかな、とも思ったが彼は気にする様子はなさそうだ。それにしても、とコウは考えを巡らせる。踏みしめる大地の感触や空気、霧の合間に見せる景色。どれをとってもあの白い空間とは思えない。それに後ろからついてくる杉田軍曹。クローンのようなものなのか。信じられないし信じたくもないが、現実のような気がしてならなかった。司令部の場所もわからないのに先を歩く不安はあったが、間違えたとしたら杉田が教えてくれるに違いない。

第73旅団独立歩兵第283大隊第1中隊第5小隊。それが綾瀬コウ少尉の所属だ。おそらく武器の扱いも出来るのだろう。ただ、地理地形はまったくのようだった。自分の足で歩け、ということか。できるだけ早くさくらを見つけ出しソ連が戦端を開く前に地理を叩き込まなければならない。
「杉田軍曹、今どういう状況?」
コウの問いの意図を杉田は勘違いしたのかも知れない。
「はっ。満州、樺太にソ連が攻め入り我が友軍が撃滅すべく奮戦しているとのことですが、何分情報が錯綜しておりまして。」
コウの小隊には4つの分隊があり、総員約50名。その分隊長の1人が杉田だった。
「もっと普通に喋ってよ。」
それこそ杉田には理解出来なかったのだろう。はっ?と素っ頓狂な声を出してコウの意図を探ろうとする。いいから。とコウは尚もせっつくように言ってみた。
「いえ、それでは他の兵に示しが...。」と口ごもる。コウは振り返って杉田を睨みつけた。正直なところ、コウには彼の言葉遣いが理解出来なかった。軍隊言葉で続けられると大切な情報が得られない、そんな危機感からだった。
「小隊長がそうおっしゃるのであれば。」
と、ようやく杉田が折れた。

改めてコウは占守島の状況を聞いた。杉田は不思議そうな顔をしたが、ありがたいことに丁寧に説明してくれた。
占守島に配備された第73旅団基幹の守備隊は帝国陸海軍合わせて約8500人で、現役兵が大多数である。北海道、本州防衛のため、航空機のほとんどは転出したが、最新鋭の戦車連隊が配備されている。防衛陣地も地下壕やトーチカなども含め強固に構築されていて、島を南北に貫く占守街道周辺には多数の守備陣地がある。食料、武器弾薬の備蓄も豊富で、いつ敵が上陸を試みようとも殲滅出来る。コウは杉田の言葉の一言一句を脳裏に焼き付けた。

設営隊が建築したであろう簡易な木造建物の司令部前に多くの将兵が整列している。杉田に促されコウもその列に加わった。霧は薄くなってきていて、青い空が広がっているのが分かる。学校一つ分くらいはいるのではないかと思うほどの人数がいるが、誰もが姿勢を正し、一糸乱れず整然と並んでいる。

終戦を告げる玉音放送が流れようとしていた。
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