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11.七海の弱点(3)
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「演奏会の件だが、晴太郎様の返事はまだか?」
「申し訳ありません、まだ迷っていらっしゃる様子で……」
「まだ迷ってるのか。なんとか説得できないのか」
二人きりになった時から予想はついていたが、やはりその話かと七海は内心ため息をついた。演奏会は今月末に迫っている。焦る気持ちもわかるが、焦ったところで良い返事が得られるとも限らない。
「頼むぞ。晴太郎様の演奏は、社長夫人の演奏にそっくりだからな。大勢の人が彼女の演奏を感じたいと思っている」
「彼女のって……演奏するのは、晴太郎様ですよ? 夫人じゃない」
「分かっているが、仕方がない。お前は見たこと無いかもしれないが、晴太郎様は本当にあの方に似ている……あの人の陰が強すぎる」
晴太郎が演奏会に出なくなった原因はこれだ。望まれているのは晴太郎自身の演奏ではなく、彼女の演奏にそっくりな演奏。誰も晴太郎の演奏という本質を見ようとしない事に、彼は悩んでピアノを弾く事をやめてしまった。
みんな悪気があるわけではない。悪意がないからこそ、晴太郎は悩んでしまっている。
「とにかく、なんとか説得してくれ。いいな?」
「……承知、致しました」
なぜ、誰も彼を見てあげようとしないのか。晴太郎が天才と呼ばれるのはその遺伝子のおかげではない。一生懸命練習して、誰よりも努力して天才と呼ばれるようになったのだ。その努力を知っている七海は、誰も彼自身の演奏を見ようとしないことに腹が立って仕方がない。ぐっと奥歯を噛み締める。亡くなった天才ピアニストの存在はそんなにも大きいものなのか。
デッキに戻ると既に幸太郎の姿はなく、代わりに紗香と黒木が晴太郎と話していた。
「あら、七海……どうしたの? 顔、怖くなってるわよ」
「えっ、すみません……」
「高嶋にお説教でもされたのかしら?」
紗香に指摘されてはっとした。説教では無いが、たしかに良い気分になるような話ではなかった。
「七海、もしかして俺のせいで怒られたのか?」
「いいえ、怒られてませんよ。大丈夫です」
「じゃあやっぱり、具合が悪いのか? 疲れてるのか?」
バスの中での事が重なり、晴太郎に心配を掛けてしまったようだ。オロオロしながら七海を見上げている。心配をかけないようにと無理やり口角を上げるが、きっと上手く笑えていない。先ほど高嶋に言われた事がどうしても胸に引っかかる。
「七海、疲れてるなら今日はゆっくり温泉に入りましょうよ」
「温泉、ですか?」
「ええ。今日の宿の温泉、すごいのよ! あと、お刺身も美味しいらしいの。楽しみね!」
どうやら七海が来る前に宿の話で盛り上がっていたようだ。幸太郎と話していた時とは一変、晴太郎もにこにこと楽しそうにしている。
「お刺身ですか。やはり、海が近いと良いですね」
「そうなの~! でね、東北と言ったらお米が美味しいでしょ?」
「東京で食べるご飯より美味いのか?」
「晴ちゃんにはまだわからないかも。ご飯も美味しいけど……日本酒がすっごく美味しいの!」
目をキラキラとさせながら日本酒のおいしさを力説する紗香。この可憐な見た目とは裏腹に、彼女も酒豪だった事を思い出す。酒豪揃いの中条家でも、飛び抜けて強かった。
「黒木も七海も、今日は遠慮しないでいっぱい飲んでいいのよ!」
——この人のペースで飲んだら、多分死ぬ。
いつも仲良くして貰ってはいるが、今日の夕食の時だけは紗香に近づかないようにしようと七海は思った。
「申し訳ありません、まだ迷っていらっしゃる様子で……」
「まだ迷ってるのか。なんとか説得できないのか」
二人きりになった時から予想はついていたが、やはりその話かと七海は内心ため息をついた。演奏会は今月末に迫っている。焦る気持ちもわかるが、焦ったところで良い返事が得られるとも限らない。
「頼むぞ。晴太郎様の演奏は、社長夫人の演奏にそっくりだからな。大勢の人が彼女の演奏を感じたいと思っている」
「彼女のって……演奏するのは、晴太郎様ですよ? 夫人じゃない」
「分かっているが、仕方がない。お前は見たこと無いかもしれないが、晴太郎様は本当にあの方に似ている……あの人の陰が強すぎる」
晴太郎が演奏会に出なくなった原因はこれだ。望まれているのは晴太郎自身の演奏ではなく、彼女の演奏にそっくりな演奏。誰も晴太郎の演奏という本質を見ようとしない事に、彼は悩んでピアノを弾く事をやめてしまった。
みんな悪気があるわけではない。悪意がないからこそ、晴太郎は悩んでしまっている。
「とにかく、なんとか説得してくれ。いいな?」
「……承知、致しました」
なぜ、誰も彼を見てあげようとしないのか。晴太郎が天才と呼ばれるのはその遺伝子のおかげではない。一生懸命練習して、誰よりも努力して天才と呼ばれるようになったのだ。その努力を知っている七海は、誰も彼自身の演奏を見ようとしないことに腹が立って仕方がない。ぐっと奥歯を噛み締める。亡くなった天才ピアニストの存在はそんなにも大きいものなのか。
デッキに戻ると既に幸太郎の姿はなく、代わりに紗香と黒木が晴太郎と話していた。
「あら、七海……どうしたの? 顔、怖くなってるわよ」
「えっ、すみません……」
「高嶋にお説教でもされたのかしら?」
紗香に指摘されてはっとした。説教では無いが、たしかに良い気分になるような話ではなかった。
「七海、もしかして俺のせいで怒られたのか?」
「いいえ、怒られてませんよ。大丈夫です」
「じゃあやっぱり、具合が悪いのか? 疲れてるのか?」
バスの中での事が重なり、晴太郎に心配を掛けてしまったようだ。オロオロしながら七海を見上げている。心配をかけないようにと無理やり口角を上げるが、きっと上手く笑えていない。先ほど高嶋に言われた事がどうしても胸に引っかかる。
「七海、疲れてるなら今日はゆっくり温泉に入りましょうよ」
「温泉、ですか?」
「ええ。今日の宿の温泉、すごいのよ! あと、お刺身も美味しいらしいの。楽しみね!」
どうやら七海が来る前に宿の話で盛り上がっていたようだ。幸太郎と話していた時とは一変、晴太郎もにこにこと楽しそうにしている。
「お刺身ですか。やはり、海が近いと良いですね」
「そうなの~! でね、東北と言ったらお米が美味しいでしょ?」
「東京で食べるご飯より美味いのか?」
「晴ちゃんにはまだわからないかも。ご飯も美味しいけど……日本酒がすっごく美味しいの!」
目をキラキラとさせながら日本酒のおいしさを力説する紗香。この可憐な見た目とは裏腹に、彼女も酒豪だった事を思い出す。酒豪揃いの中条家でも、飛び抜けて強かった。
「黒木も七海も、今日は遠慮しないでいっぱい飲んでいいのよ!」
——この人のペースで飲んだら、多分死ぬ。
いつも仲良くして貰ってはいるが、今日の夕食の時だけは紗香に近づかないようにしようと七海は思った。
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