6 / 17
魔血女王
第二始祖
しおりを挟む
「おい、おい」
乱暴に肩を揺さぶられて、ミルラは暗黒の底に沈んだ意識が無理矢理現実の水面に引き上げられるのを感じた。
ああ、この耳元で銅鑼を叩かれているような声はガランドだ。
ミルラはぼんやりとそんな事を思いながら、ひどく億劫に瞼を開いた。
瞼を開けば心配そうな顔でこちらを見下ろすガランドと、周囲を警戒している様子のアルニの二人が映る。
「そんなに大声を出さなくても聞こえているよ……ガランド」
まるで宙に浮いているようにふわふわとした意識を覚醒させようと、ミルラは何度か首を振り、左右のこめかみを痛みを感じる位に強く揉む。
「まったく、姿が見えないと思ったらこんな所で寝転んでいるとはな。お前だったら今がどういう事態か分かっている筈だ。
お前、おれ達が見つけなかったらどうするつもりだったんだ?」
ゲルドーラの城壁が見える位置とはいえ、こんな所で無防備に寝ていては万が一という事も十分にあり得る。
ガランドのミルラへの苦言は当然の事であった。
意識がはっきりとしてきたミルラもガランドの言う通りだと思うから、強く反論する事はしなかった。
だがその代わりにミルラはつい先ほどまで自分が、あの同性の自分でさえ妖しいときめきに胸を疼かせるバンパイアと戦っていた事を思い出し、咄嗟に引き千切られた襟元を隠した。
そこにはあの忌まわしい過去で着けられた消えない二つの吸血痕がある。
それを見られれば、自分はバンパイアの犠牲者としてわずかな憐みとそれに万倍する憎悪の視線を向けられる。
「え、ええ。悪かったわね。ちょっと……」
「ちょっと、なんだよ? まがりなりにも冒険者のお前がろくに警戒もしないでこんな所で気を失っているなんざ、どう考えてもおかしい。何があった?」
「なにっ……て……」
ガランドは見る間に顔色を青くして行くミルラに、すわ何事かと内心で驚く。
この口は悪いが肝の据わった少女が、こうまで分かりやすく顔色を変えるなどただ事ではない。
そうだ、とミルラは思い出していた。
忘れたくても忘れられない忌まわしいあの記憶。
夜の闇の中、清らかな満月の光の中で禍々しく輝くあの赤い二つの輝き。
首筋に食いこむ鋭く冷たく、そして甘美なあの痛み。そこから二つの牙を通してじゅるじゅると血を吸われる音。
そしてそれを成したあのバンパイアとは、比較にならぬほどに美しく強大なタンブル・ウィードを。
自分はタンブル・ウィードに血を吸われ――!?
「あ、ああああ!?」
「どうした、ミルラ」
がくがくと身体を震わせるミルラの姿に、ガランドやアルニまでも驚きの視線を寄せる中、ミルラはおそるおそる首筋に手をやり、ある筈の感触が無い事に気付くと何度も何度も首筋に触れ続ける。
ミルラの突然の行動にガランドやアルニは互いに顔を見合わせていたが、首筋をやたらと気にするミルラの仕草から、バンパイアの恐怖が根強い土地に生まれた者として、それがなにを意味するのかをすぐに悟った。
「ミルラ、お前、まさかタンブル・ウィードに手を出したのか?」
ミルラが過剰なまでにタンブル・ウィードに対して敵意を抱いていた事を思い出し、ガランドはまさかタンブル・ウィードに挑んだのかと問うが、ミルラはガランド達の問いに答える余裕は無い様子であった。
何度触っても指先に吸血痕が触れる事は無く、冒険者稼業で負った大小の傷痕ばかりが指先を擽るばかり。
「そんな、でも……どうして?」
バンパイアの犠牲者が他のバンパイアに血を吸われた時にどうなるのかを、ミルラは知らなかった。
バンパイア達の間で既に他のバンパイアが血を吸った相手から血を吸う事は、饗宴などの場合を除けばマナー違反とされる行為であり、滅多に行われる事では無い。
では犠牲者が他のバンパイアに血を吸われた時どうなるのか、と言えばまずほとんどの場合において、犠牲者に変化は起きない。
最初に血を吸ったバンパイアがバンパイアとしての親のままだし、バンパイア化が加速あるいは遅延する事も無い。
だが何事にも例外がある様に複数のバンパイアによる吸血においても、犠牲者の支配権が新たに血を吸ったバンパイアに移るケースが存在する。
新たなバンパイアが最初に血を吸ったバンパイアよりも格が高く強大なバンパイアであった場合、支配権が移って犠牲者の肉体・精神状態も新たな親となったバンパイアの裁量しだいとなる。
ミルラの場合はバンパイアとして極めて格の高いタンブル・ウィードに吸血された事で、ミルラの支配権はタンブル・ウィードへと移った。
バンパイアが血を吸う場合、相手を眷属へと変えるか否かはわずかな例外を除いて自由自在。
そしてタンブル・ウィードは、ミルラが吸血によって受けたかつての祝福、しかし他種族にとっては呪いであろうそれを自らの吸血で上書きし、中途半端にバンパイアと化していたミルラの肉体を人間のそれへと戻したのだ。
ミルラの様子からどうやらバンパイアと化してはいないようだが、やはりタンブル・ウィードとなにかあったらしいと察し、ガランドはなんて事をと頭を抱える。
だがガランドの嘆きやアルニの呆れた顔など、ミルラにはまるで気にならなかった。
冬の風に苛まれている様に冷たかった身体にぬくもりが戻り、暖かな血が心臓から送り出されて全身を巡っている。
全身を激しく疼かせる血への渇望もなく、ガランドやアルニを見ても彼らの全身を巡る血管に意識が吸い寄せられる事も無い。
ああ、自分は人間に戻れたのだ、とミルラはようやく理解し、心の中に様々な感情が湧き起こり、まともな思考をする事が出来ない。
滅ぼしてもなお自分を蝕んでいたバンパイアの呪いが消え去り、忌まわしい化け物へと変わりつつあった自分の身体と精神が本来あるべき人間のモノへと戻っている!
「ちくしょう、ちくしょう、あいつ、こんな事をして……」
ミルラはぺたんと腰を落として赤子のように泣きじゃくり出した。
タンブル・ウィードへの感謝はある。それでもなお消えぬバンパイアへの怒りと憎悪もある。
唐突に呪いから解放された事への戸惑いと喜びと、言葉にできないいくつもの感情がどろどろに混ざり合い、後から後から止まぬ涙を流すミルラの口から出たのは、悪罵の皮を被った感謝の声だった。
*
闇の中に閉ざされた荒野を行く一台の馬車があった。
六本の脚を持つ魔馬が地を蹴る度に大きく土が抉れて、凄まじい速度で馬車は進み巻きあげられた土煙が風に流されてゆく。
御者台には長剣を片手に持つタンブル・ウィードが立ち、眼前の地平線を埋め尽くす動く死者の群れに、妖美という言葉以外に例えようの無い瞳を向けている。
ニックやガランドに別れを告げ、ゲルドーラを後にしたタンブル・ウィードは高位のバンパイアとしての超知覚能力と探査魔法の併用によって、西方に広がる死者達の群れを見つけてはこれを尽く殲滅していた。
いったいどれだけの死者が蘇ったものか、すでにタンブル・ウィードが土に還した死者達の数は十万を越える。
前方の死者達へと向け、タンブル・ウィードは右手の長剣を右から左へと横一文字に動かした。
ゆうに一千メートルはある両者の距離は、いかなタンブル・ウィードの魔技といえども斬撃は届かぬと見えたが、長剣の刃が一瞬溶けた鉄のように波打ち、直後刃がぐんぐんと伸びるのを月と星々は目撃した。
タンブル・ウィードが振るう直前、長剣は一千メートルの距離を埋める長大な刃と変わり、横一文字の斬撃はタンブル・ウィードの行く道を塞ぐ一千を越す死者達の腰の位置で上下に斬断してのけた。
長剣を振り切った時には既に刃は尋常な長さへと戻っており、タンブル・ウィードはそれを右手一本で握ったまま、鞘に戻す事をしなかった。
一千の死者達は長剣に宿る魔力とタンブル・ウィードの技によって、死肉を動かす魔法も斬られて動かなくなっていたが、ただ一人だけ大地に立つ孤影をタンブル・ウィードの瞳は認めていたのである。
タンブル・ウィードの魔法視力は、その影の全身から煙のように立ち昇る真っ黒い闘気を見ていた。
はるか東方の島国で侍と呼ばれる者達が纏う鎧を身につけ、月光も斬り裂くかのように妖しく輝く刃を右手に下げたその死者の名はレッキマル。
陽光の下で一度だけ刃を交わした死者に対し、タンブル・ウィードは十メートルの位置で馬車を止め、御者台から軽やかに舞い降りた。
音も無く、地に落ちる影も無く大地に降り立つタンブル・ウィードを、レッキマルは歓喜と感嘆の眼差しで迎えた。
まるで風にさらわれるかのような、流麗なタンブル・ウィードの身のこなしがレッキマルの心に与えたのは、嘘偽りの無い感動であった。
「一日千秋の思イデ貴殿と再びまミエる時を待ってイたゾ。バンパイアよ」
「私は貴方と手合わせをしなくても良かったですけれど」
最初の邂逅と異なり、両者は既に獲物を抜いている。
前回の対決ではタンブル・ウィードの圧倒的な技量の前に、レッキマルが一敗地に塗れて退いたが再度姿を見せた以上、それなりに勝機はあるのだろう。
「前回は太陽の下で刃を交わしました。しかし今は夜。太陽は退き月の姿が覗く闇の時刻。
バンパイアを相手に夜に戦いを挑む事の愚を知らぬわけもなし。エンゴクとやらに秘策でも授かりましたか?」
タンブル・ウィードの右手に握られた長剣の切っ先は斜めに傾いで大地を差し、不動のまま。レッキマルは面頬の奥で小さく笑ったようであった。
上下に両断された死者達で埋め尽くされた大地の上で、生ける死者達の会合は続く。
生ある者が耳を傾ける事は許されぬ、死に属する者達の世界の話が。
「拙者とて所詮は捨てゴマに過ギヌ。正面から持テル全力にて戦いを挑ムノミ。だがソノ前に我が主が貴殿ニ挨拶をシタイとの事だ」
タンブル・ウィードは、レッキマルの体内で黒々とした禍々しい魔力が胎動するのを感じ取った。
エンゴクというリッチが、創造物であるレッキマルとの霊的繋がりを介し、その咽喉を借りて喋ろうとしているのだ。
タンブル・ウィードはこのような事態を引き起こしたリッチがどのような性根の主か、と知るために、長剣を振るう事をせずにエンゴクとやらが喋り出すのを待つ。
「下僕の咽喉にて失礼をする。拙僧がエンゴクじゃ」
レッキマルの口が開いて、レッキマルではない声がタンブル・ウィードに話しかけて来た。
好々爺を想起するような穏やかな声音であったが、レッキマルを介してなお発せられる声が宿す霊力の高さに気付かぬタンブル・ウィードではない。
「改めて名乗る必要もありますまい。
ご老体、なぜ安寧の眠りについていた死者達を目覚めさせ、生ある者達に襲いかからせているのか……。その理由を問いたい」
「ほっほっほ、若い者はせっかちでいかん。バンパイアたるお主であれば時は急ぐものではあるまいに」
「私にとっての時と人間の方々の時とではいささか意味合いが異なります。このたびの事態で被害を被っているのは主に人間の方々。
事を急ぎもしましょう。言葉遊びをするつもりはありません。力づくにでもお答えいただく」
タンブル・ウィードの放つ鬼気がその冷たさを増し、レッキマルの全身から噴きでていた闘気に真っ向から襲いかかる。
「出来るかな? 拙僧はあくまでレッキマルを介しているにすぎぬ。レッキマルを万に斬り裂こうとも拙僧に苦痛はないが?」
「出来ないとお思いか?」
タンブル・ウィードの放つ雰囲気の変化をレッキマルを介して感じ取り、遠方に居るエンゴクが余裕のある態度を崩す。
「これは、レッキマルの話から玉を引いたかと思い至ったのは間違いでは無かった。バンパイアノーブル、いやロード?
いやいやいや、その程度でこのエンゴクの死せる肉体を慄かせる事は出来ぬ。善哉善哉、思わぬ玉を拾ったもの」
タンブル・ウィードが戯言に付き合ってはおれぬ、と眼差しに敵意の色を混ぜた時、エンゴクとは別にレッキマルが自らの意思で肉体を動かした。
レッキマルは左手の中に隠し持っていた細長い硝子瓶を口元に運ぶ。
そして封入されていた銀色の液体を一息に飲み干して、空になった硝子瓶を放り投げる。
レッキマルの手から硝子瓶が離れた瞬間、長剣を右上段に振りあげたタンブル・ウィードの黒影が、その目の前にあった。
「おお、これは苛烈な」
レッキマルの口から零れるエンゴクの言葉とは別に、レッキマルは頭頂を真っ二つにしに来たタンブル・ウィードの一閃を、同じく閃光と見間違う速さの一太刀で弾き返す。
両者の刀剣が打ち合った空間を中心に黒と赤、二色の光の火花が生じて四方へと広がる。
両者の放つ鬼気と死気の激突が、物理的な現象となって生じた火花だ。
肩幅に足を広げたレッキマルの右手が月光に霞む。
輪郭が朧に溶けて見えるほどの速さで振るわれるレッキマルの斬撃を、タンブル・ウィードは等しい速さで長剣を操り、一つも見逃すことなく刃を打ち合わせる。
秒間百、いや一千にも迫ろうかという常軌を逸した神速の斬撃の応酬は、一太刀一太刀に並みのバンパイアなど即座に灰に還ってしまうほどの破滅の魔力と意識とが込められている。
「レッキマルがいましがた飲んだのは、拙僧が特別に調合した霊薬でな。神酒ソーマをなんとか再現できぬかと試行錯誤した過程で出来たもの。
ソーマにはならなかった失敗作ではあるが、生者死者を選ばずに肉体を十倍にも百倍にも強靭にする強化薬にはなった。
それを服用したレッキマルを相手に互角に剣を振るうとは、いやはや世界は広いのう。そうは思わぬかレッキマル」
「主殿の……おっしゃルトオリ、かト。ぬうん!」
斬撃の合間に同じ口から異なる意思の言葉が放たれ、奇妙な一人芝居が行われた。
それを見るタンブル・ウィードの目はレッキマルを、レッキマルをというよりはその背後に存在するエンゴクを見ているかのようである。
水に沈むようにして膝を曲げたタンブル・ウィードが、横一閃でレッキマルの両膝を斬り飛ばしに動いた。
これに応じたレッキマルは大きく後方へと跳躍し、タンブル・ウィードの長剣に虚空を斬らせる。
爪先の力だけで十メートルほど後退したレッキマルは、愛刀の柄を両手で握り直して右八双に構えた。
打ち込む側が一つの隙も見出す事の出来ない、剣に生きる者が理想とする様な構えである。
その肉体が死者を継ぎ接ぎにしたものであったとしても、それを動かす意思は紛れもなく練達の剣士に他ならない。
「タンブル・ウィードよ、我が手ニアルハ百の人間と千を越す野の獣の血を捧げ、名も無き鬼に鍛えさせたという伝説の妖魔の刀。
一度抜けば死を味あワズには鞘に収まラぬ。銘は鮮血。如何にお主とてこれに斬られレバ、傷はやすやすと癒えぬ」
「ふむ、言うだけの禍々しさはある。されどそれは私を斬る事が出来たならの話」
言外にお前では私を斬れぬと告げるタンブル・ウィードに、レッキマルは激昂するでもなく面頬の奥で深く笑ったようであった。
堪らぬ、と喜んでいるのだろう。自分が死力を尽くしても及ばぬかもしれぬ強敵と戦う。これほどに戦場に生きる者の心を震わせる事があろうか。
「ぬかせ!」
嚥下した強化薬が肉体により深く浸透しているのか、タンブル・ウィードへと踏み込んだレッキマルは、先程までと比して更なる速さを獲得していた。
風を貫き、降り注ぐ月光を散らし、動く死者が大地を駆ける。その手に携えるは血と死とに飢える妖刀。
タンブル・ウィードは長剣を正眼に構え、真っ向から受ける体勢を整える。このたおやかなる美女は不退転の三文字を信条としているものか。
目撃したのは月と闇。風は両者の戦いに慄き、その肌に触れる事さえ恐れて先程から吹く事を忘れている。
「けぇえあああああああ!!!」
空を飛ぶ鳥も落とさんばかりに夜の静寂を打ち破るレッキマルの絶叫。
服用した強化薬の作用とレッキマル自身の技量により、その踏みこみと足運びは転移魔法を使ったのかと錯覚するほどに速く清流の如く淀みが無い。
タンブル・ウィードの首で、腹で、左右の腕で、足で無数の火花が散る。
修羅道に落ちてなお笑いながら刃を振るう悪鬼の如きレッキマルに対し、紫銀の髪を翻す妖美女は冷厳なる表情を崩すことなく長剣で応じ続ける。
はたして死せる剣鬼の刃を受けるタンブル・ウィードの心中は水鏡の如く澄み切った清明なるものか、それとも果てなき無限の虚空の如くか。
地面に触れる寸前まで振り下ろされたタンブル・ウィードの長剣の切っ先が、まるでレッキマルに吸い寄せられるように跳ねた。
切っ先は三歩退いて長剣の刃圏から退避した筈のレッキマルの顎先を掠め、溢れたどす黒い血がぱっと空中に赤黒い花を咲かせる。
レッキマルは痛みを失った筈の死せる肉体に走る激痛に驚愕し、歓喜し、感謝しながらタンブル・ウィードのがら空きの左脇腹へと、妖刀鮮血で美しい孤月を描く。
タンブル・ウィードの柔肉を貪らんと吼え猛る妖刀は、しかし虚空に残るタンブル・ウィードの残像だけを斬った。
レッキマルがタンブル・ウィードの長剣を避けたのと同様に、タンブル・ウィードもまた目にも止まらぬ神速の動きで後方へと下がり、妖刀を回避していたのだ。
強化薬を服用したレッキマルの目を持ってしても残像しか映せぬタンブル・ウィードの速さ、そして自身の肉体を完全に掌握して操縦する技量に、レッキマルの口元に鬼神も後退りするような笑みが浮かび上がった。
「おお、オおオオ、なんたる強敵である事か。
拙者を形作る無数の猛者共がついぞ出会わなかった、望んでも得られなかった敵を、死せし今、我得たり!」
まさにこの世の春が来たと言わんばかりに歓喜の念を全身から噴出させるレッキマルだが、それと同時に彼を形作る死者達を繋ぎ合せた肉体から糸のように細い白煙が立ち上り、腐った肉の匂いがぷんと漂い始めた。
レッキマルの身に付けたこれもまた妖鎧とでも言うべき東国の甲冑の下の肉体がゆっくりと、しかし確かに崩壊をし始めている、とタンブル・ウィードは見抜いていた。
「死者といえども、いえ死者であるからこそ死への恐れは拭えずあるはず。肉体の滅びを覚悟した上で薬を?」
なんと業の深い、そう嘆く響きを交えたタンブル・ウィードの声に、レッキマルは何をおかしなことを言う、と笑い飛ばす。
この死者は己の選択肢をわずかも後悔しておらず、また崩れゆく肉体を惜しみもせず、嘆いてもいない。
「これは異なコトヲ。女人といえど、いっそ羨ましいホドの剣を振ルウのだ。己が培った全身全霊の技を振るう喜ビヲ知ラぬとは言わせぬ。
この喜びのままに死するならば何を恐れる事ガアロウか。
ましてや今ココニある拙者ハ、二度目の生をいや生とは言い難イガ、ま、望外の好機ヲ与えられた果報者。生死に拘泥はせぬ」
「やれやれ主への忠義よりもおのれの欲求が第一とは、困った下僕じゃわい」
闘争の歓喜に促されて饒舌になっていたレッキマルの口から、呆れを隠さぬエンゴクの声が零れ出た。
同じ口から異なる二つの意思の言葉が交互に放たれて、再び奇妙な一人芝居めいた会話が行われる。
「蘇らせて頂イタ御恩は忘れてオリまセぬ。この崩れゆく体が出来る最後の御奉公。多少の我儘はお目溢しくださってもよろしいかと」
「かっかっか、いけしゃあしゃあとどの口が抜かす。おっとこの口か。
お前にはまだまだ働いて貰いたい所であったが、この敵が相手では仕方あるまい。
これまでの忠に免じて我欲を満たさんとする行いは見逃そう。
さあ、存分に死合うが良い。お前が飲んだ薬が肉体を完全に崩壊させるまでそう時間は無いぞ」
「委細承知!」
タンブル・ウィードは互いの事を良く理解している様な二人のやり取りを前にしても、毛の一筋ほども気を抜く事はせず、残された時間を示す崩壊の白煙を全身から噴き出して迫りくるレッキマルに応ずるように駆けた。
両者が交差するその直前、レッキマルが奥歯に仕込んでいた丸薬を噛み潰した。
先程服用した強化薬の効能を更に強めた霊薬が、口内から瞬時に全身へと浸透して行く。
もはや免れぬ肉体の崩壊を更に加速させてなお、タンブル・ウィードとの死闘を、その先にある勝利を求めるレッキマルの執念のなんたる凄まじさ。
数多の戦士や騎士、魔獣や亜人、悪魔の死体から選りすぐった部品を用い、エンゴクの霊的外科手術と外道の秘儀で形作られたレッキマルの肉体は、二度に渡って服用された強化薬の効用に耐えきれず血管も神経も筋繊維も骨も、何もかもが千切れ、あるいは砕け、あるいは弾けている。
それでもなおレッキマルは駆けた。それでもなおレッキマルは妖刀を振るった。全ては、恐ろしくも素晴らしい敵に一太刀を浴びせんが為!
「きぃいあぁあああ!!」
それ自体が刃の鋭さを備えているかのような叫びは、レッキマルの咽喉から迸っていた。
継ぎ接ぎにされた死体に宿った己の名すら知らぬ武人の魂が放つ、最後の叫び、消えゆく寸前の輝き!
例え偽りの生命を与えられた死体であろうと、この瞬間のレッキマルが武人では無いと世の誰が否定できただろうか。
頭上天高く、それこそ夜天の月まで斬り裂かんばかりに振りあげられた妖刀鮮血が、光そのものとしか見えぬ速さでタンブル・ウィードの頭頂へ。
天から地へと落ちるレッキマルの斬撃に対し、月夜に迸る銀の一閃はタンブル・ウィードの手元から放たれていた。
銀の一閃が通り過ぎた後、おぞましい銘を持つ妖刀は真っ二つに断たれ、それを握っていたレッキマルもまた兜と胴丸ごと肉体の中心線を断たれて左右に分かれる。
どす黒い腐った血と薬液の混合液がばしゃばしゃと断面から溢れて地面を濡らすのを見届けても、タンブル・ウィードは長剣を鞘には納めなかった。
レッキマルを動かす死霊魔法も同時に断っているが、レッキマルとエンゴクの繋がりは敢えて残る様に斬ったのである。
はたして左右に別れたレッキマルの唇が動いて、年甲斐も無くうきうきと弾むようなエンゴクの声が闇を震わせた。
「いや、お見事。レッキマルが斬られた瞬間、拙僧にも久しく忘れていた痛みが襲ってきおった。
そして礼を申さなければなるまい。レッキマルがその霊魂さえも貴殿に斬られた瞬間に感じていたのはまさに至福の喜びよ。
見事本懐を果たして存在を終えた様じゃ。主として感謝せねばなるまい。
しかし、我が傑作が無理を重ねてもなお及ばぬとは、やはり見込み通り貴殿はロイヤル級のバンパイアであるようだな。
生きた個体をこうして目の当たりにするのは、久方のことゆえ何とも心弾む事」
「次は貴方自身を斬ってあげましょう」
「おお、なんと恐ろしい眼差しである事か。拙僧の知る限り、そのような目が出来るのは貴殿で二人目よ。さて勝者には報いねばなるまいなあ。
取り敢えず貴殿の知りたがっていた今回の事態を引き起こした理由について、聞かせてしんぜよう」
エンゴクが時間稼ぎに口を開いている可能性も考慮し、タンブル・ウィードは心身両方の知覚を鋭敏に研ぎ澄ましながら、エンゴクの次の言葉を待つ。
「拙僧は庵に籠り、呪法魔導の探究に心身を注いでおる。
その中のある古代呪法の解明に取り掛かっておってな。『呪愚=煮具螺巣の召喚の法』は存じておるかな?」
「邪神の中でも地上に住まう者達とかけ離れた思考形態を持つ異形の大神の一柱。だがそれを召喚して何を求める。
なによりかの邪神をこの地上に召喚すれば少なくともこの大陸に住まう者達に、霊的な災厄が齎されるは必定。そうなれば貴様とて無事では済むまい」
明らかにタンブル・ウィードの言葉に含まれる険が強くなる。
エンゴクが口にした邪神の名は、特に忌まわしいとされる一派に属する邪神の名であった。
「そう殺気立たずともよい。拙僧とてかの神に破壊や滅びを願おうと言うのではない。拙僧が欲しいのはかの神の召喚に際し開かれる次元回廊の波長よ。
それを特定できれば上位次元への精神的回廊を繋げる事が可能となる。
さすれば我が魂は上位次元との霊的邂逅によって研磨され、より高みと深みへ行く事が出来よう」
「貴様たちのような人種は何故そのように己の事ばかりを考え、他の者達へ及ぼす被害を考える事が出来ぬのか。
ならば生者の血と魂を求めるのは、邪神召喚に必要だからか?」
「かっかっか、かの神は大食らいでなあ。以前から拙僧が貯め込んでいた魔力や贄どもでは足りぬと仰せよ。
特に貴殿に邪魔されたお陰で、集まりがどうにも悪くてな。
拙僧の邪魔をせんでくれると大変ありがたいのだが、望むものがあれば拙僧で用意できるものなら用意しよう」
「私が望む物があるとしたなら二つ。一つはすぐに死者達を元の眠りに戻す事。
そして今回の事態を引き起こした責任をその命でもって償う事。これをすぐに行うと言うのならば、邪魔はいたしません」
「いやはや、なんとも無理な事を申されるものよな。
そうそう、レッキマルの目を通じて見させて頂いたが、貴殿は何故あの避難民達を守っておったのかな?
血を対価に、などとそこらのバンパイアの考えるような事が理由ではあるまい」
ふいにこれまで美貌を嫌悪の色に染めていたタンブル・ウィードが、表情を和らげた。
彼女がゲルドーラまで守り続けた人々の中で、太陽のように明るい笑みを浮かべる少年の事を思い出したのだ。
「一人の少年に傭兵として雇われたのです。十枚の銅貨でね」
「雇われた? 銅貨十枚で?」
エンゴクは魔導に生きる不死者とてそれなりに経済に対する概念や価値観は有しているらしく、タンブル・ウィードがわずか十枚の銅貨で雇われたと言う事に、心底驚いた声音を出す。
「なんとも、我が魔導の追及をたった十枚の銅貨で阻害されるとは」
初めてエンゴクの声に怒りの響きが混じるのに対し、タンブル・ウィードは誇らしげに答えた。
「私にとって一万枚の金貨よりも、いえ、世界のなにより価値のある銅貨でした。その銅貨に比べれば貴様の用意する何物も無価値に等しい」
「そうまで言われては拙僧も覚悟を決めねばなるまい。
生きたロイヤル・バンパイア、捕らえてその髪の一本、肉の一片、血の一滴に至るまでとくと研究してしんぜよう」
「悠長にお喋りをしてくれたおかげで貴様の居場所を把握できました。すぐにその首を取りに行きます。
冥界の神々に対する犯した罪の釈明でも考えておきなさい」
ニックやガランドが耳にした事の無い、冷酷の極みと言ってよい声で告げるタンブル・ウィードの眼には必殺の決意が炎のように揺れていた。
*
エンゴクが拠点とする庵は、ゲルドーラより北西に馬を走らせて一ヶ月ほどの距離にある山中にあった。
タンブル・ウィードがニックの祖母やその他の語り部から聴き取った話では、かつてこの地を訪れた異国の僧侶が、更なる修行を求めて近隣の山々へ籠り荒行を重ねていたという。
人々を襲う魔獣やバンパイアをその法力によって退けた僧侶は近隣の人々から大変な尊敬を受けていたが、ある日、土地の誰もが足を踏み入れぬこの山へと向かい、以後、その姿を見る者は無かったと言う。
この僧侶が今回の事態を引き起こしたリッチ、すなわちエンゴクでは、とタンブル・ウィードは推測し、探査魔法と超知覚がそれを確信に変えて馬車を走らせていた。
山は天高く育った木々が陽光を遮る為に常にうす暗く、雑草が生い茂り苔に覆われた岩が無数に転がっている為に、まともに歩くのも難しい山中は人の足が踏み入る事を拒絶し、棲息する数多の肉食獣や妖精の類は近隣の人々によって恐怖の代名詞だ。
山頂に近い山腹に穿たれた天然の洞窟の奥深くに、人工的に造られた広大な空間があり、そこにエンゴクはリッチとなる以前に庵を立てて今に至るまで魔導の探究に勤しんでいる。
庵そのものは質素な作りで寂れた味わいのあるものであったが、エンゴクの放つ瘴気や死気が充満していて、常人では一歩足を踏み入れただけで衰弱死してしまう事だろう。
エンゴクを恐れて山に住まう獣や魔物さえ決して近づこうとしない庵に、今はエンゴク以外にも別の気配があった。
「かような仕儀となりまして、この度の召喚実験は目下停滞しております。何とお詫び申し上げれば良いか、我が師よ」
がらんとした庵の中で床の間に飾られた鏡に向けて頭を垂れるのは、骨に生皮を張りつけたとしか見えない人型の異形だった。
墨染の僧衣とその上に絢爛豪華な袈裟を纏ったソレが、エンゴクであった。
落ち込んだ眼窩には鬼火のような黒い光が輝きを放ち、磨き抜かれた板間に正座した小柄な姿からは数百年を閲したリッチでなければ纏い得ぬ異様な存在感を纏っている。
『あなたが詫びる事はありませんよ。それよりも話に出て来たロイヤル・バンパイアの事が気掛かりですね。
始祖六家は全て死に絶えた筈ですが生き残りが居たとなれば、傍流かあるいは秘されていた隠し子か。
ふふ、どちらにせよ、いえ、そうでない方が面白い』
エンゴクが師と呼び、鏡に映し出されているのは、絶世の美女ともあるいは絶世の美男とも言える不可思議な容貌を持つ人間だった。
リッチとなったエンゴクが心底から畏まり、敬意を向けている事から相手がエンゴク以上に優れた魔法使いである事はまず間違いがない。
鏡に映し出された顔は二十代の若い容貌を保っていたが、エンゴクの師であるのなら数百年かあるいは千年に迫る時を生きているのだろう。
「拙僧の下を訪れると申しておりました故、そう時を置かずして相対する事となりましょう。
師が御所望とあらば生かしたまま捕らえて、お送りいたしまする。まあ、大変厳しい、いや不可能と言うのが本音ですがの」
『ふふふ、期待してよいのやら悪いのやら。召喚実験以上にそのロイヤル・バンパイアの方が面白そうですね』
「正直に申せば拙僧も師と同じ心持ちにて、かの者が我が庵を訪れるのを今か今かと待ち望んでおります。しかし、拙僧の力では及びますまい。
いやいや、今生の終わりに師に負けず劣らず美しく、そして恐ろしい敵とまみえる事が出来たのは正しく僥倖にございますなあ」
「ほう、貴方がそうまで言う相手ですか。貴方は私が取った弟子達の中でも優秀な弟子なのですが」
「ほっほっほ、これはこれは、師の下で学んでいた時にはついぞお聞かせくださらなかった言葉にございますな。良い冥土の土産が出来ました。
では、師よ、我が目は御身の目、我が耳は御身の耳、かの者との戦いをどうぞ御照覧下さりませ」
エンゴクが軽く頭を下げた瞬間、鏡の向こうの師との間に霊的な繋がりが生じ、エンゴクの五感のみならず第六感までもが師に共有される。
「ええ。貴方が居なくなるのは少しばかり寂しいですが、それ以上に貴方の戦いが楽しみですよ、エンゴク」
「まこと、拙僧も同じ思いにて」
同じ考えである事を確認した師弟は、互いに無邪気とも言える笑みを浮かべた。
ひたすらに知的好奇心に突き動かされているという点では、彼らは純粋と言えなくもない。
純粋な者ほど思わぬ過ちを犯す。そして時には過ちを過ちとは思わず、純粋なままに災いを振りまく魔性ともなる。
エンゴクとその師は紛れもなく存在するだけで、自分以外の生命に危険を及ぼす魔性の類であった。
師との連絡を終えたエンゴクは、錦織の座布団に座したままかすかに念じ、ふわりと座布団ごと浮かび上がる。思念による浮遊魔法だ。
そのまま滑るように庵を出て、エンゴクは夜の闇に飲まれた山腹から麓にかけてまで見下ろした。
普段なら夜行性の鳥獣達の息遣いや争いの気配が伝わると言うのに、今はしんと静まり返り自分達の存在を静寂の帳でひた隠しにしているかのよう。
「ほぉう、これはなんとも凄まじい闘気に魔力。
まだ麓であろうにここまで伝わってくるとは。
いざ戦いとなればこれがどこまで天上知らずに高まるのやら」
闇よりなお暗い光が輝くエンゴクの形なき目は、スレイプニル達の牽引する馬車から降り立つタンブル・ウィードの姿を確かに捕らえていた。
山麓で馬車を止めて降り立ったタンブル・ウィードもまたエンゴクの姿を認めており、共に不死者の王と畏怖される最強のアンデッドの対峙と相成ったのであった。
「む、せっかちな女菩薩よ」
エンゴクはさほど焦ってはいない声で呟くと、左手に持っていた紫水晶から削り出された数珠を素早い動作で眼前に突き出した。
馬車から降り立ったタンブル・ウィードが、長剣を長弓へと変えると月と闇、そして自身の魔力で造り出した矢を引き絞るのが見えたのである。
真っ黒い弓につがえられた白く輝く光の矢に込められた力が、極大魔法にも匹敵するほどのものである事に、エンゴクの肉の落ち切った口元に笑みが浮かぶ。
「なんたる力よ、百八神将護国方陣!」
一国を覆うほどの最上級防御法術を、ただ一人の己を守る為に詠唱を破棄して簡易発動し、エンゴクは狙い過たず自分に放たれた光の矢を防ぐ。
巨大な方陣の中に百八の仏神の描かれた曼荼羅が輝きを発し、邪悪な術者とは正反対の白い清浄な光が迫りくるバンパイアの光の矢と激突して、無数の光の粉に変えて防ぎ切った。
タンブル・ウィードにとって挨拶代りの一撃ではあったが、その代わり一撃に莫大な魔力を込めた一撃だった。
その一撃を完全に防ぎ切った事に、タンブル・ウィードは若干エンゴクの力量を上方修正する。
長弓を長剣へと戻したタンブル・ウィードの唇が、短い言葉を詩のように囁くのに合わせ、エンゴクは両手を合掌させて攻撃の為の呪力を一息に練り上げる。
エンゴクの呪力が驚異的な速度で高まるのと、タンブル・ウィードの姿がエンゴクの背後に突如として出現するのはほぼ同時。
直線距離にして四千メートルはあった距離を転移魔法で瞬時に詰めたタンブル・ウィードも、それを読んですぐさま背後を振り返り攻撃呪法を叩き込むエンゴクも、常軌を逸した実力者であった。
「五十二呪霊法の四十四、黒炎黒縄!」
冥界で罪人を責め立てる炎が、四十四本の縄の形状を取りエンゴクの背後に出現したタンブル・ウィードへ四方八方から迫りくる。
タンブル・ウィードはエンゴクへと向けて半ば振り下ろしていた長剣の軌道を、技と筋力で曲げるや体を旋回させて黒い炎の縄を尽く斬り飛ばした。
その間にエンゴクは座布団ごと後方へ下がり、十本の指を無数の形に組み合わせて次なる呪法を放つ。
「世界の始まりよりある火 森羅万象を焦がせ 何物をも灰とし塵と変え 灰と塵さえもさらに燃やし尽くさん 天魔燃滅!」
エンゴクは最後に左右の人差し指と薬指を伸ばして合掌し、指先を向けたその先に居るタンブル・ウィードを、未だ存在する原初の混沌より生じた最初の火が召喚され包みこむ。
あくまで物質世界で存在可能な次元にまで劣化された最初の火だが、それは真なる火、真火と呼ばれる特別な火。
物質世界に存在する森羅万象を物理と霊の区別なく燃やしつくす、火あるいは燃やす、燃えるという概念の具現。
いかな防御魔法や防具も意味を成さぬ絶対攻撃、あるいは絶対貫通と称される最高位攻撃魔法の一つである。
バンパイアやヒドラ、トロールなどのように高い再生能力を持つ者であっても、存在の根幹を成す魂さえも燃やしつくす火である為に、一度この最初の火で燃やされればその傷は魂を癒さぬ限り癒える事は無い。
これは例えタンブル・ウィードであっても同じ話で、ロイヤル・バンパイアの不滅性さえ燃やす火を受ければ、タンブル・ウィードとて灰さえ残らずに燃やし尽くされるだろう。
「むぅ、出来るものなら生け捕りに、と滅びぬと分かって放った呪ではあるが、ここまで効かぬとは」
信じられないと言うわずかな思いを含んだ言葉がエンゴクの口から零れたのは、赤々と燃える真火の只中に変わらずに立つタンブル・ウィードの影を認めたからであった。
真火の中のタンブル・ウィードが長剣を一振るいした時、森羅万象を燃やしつくす筈の真なる火は消え去り、傷一つないタンブル・ウィードの姿が露わとなる。
「なるほど、何処に隠していたものか。その鎧が貴殿を守ったようだな。しかし、それは……」
真火が完全に消え去った時、タンブル・ウィードが纏っているのは黒薔薇の意匠が凝らされた黒衣ではなかった。
その全身に、黒衣同様に光の無い闇から紡いだように真っ黒い鎧を纏っていたのである。
首元から両肩、指先までを覆う黒い装甲にはタンブル・ウィードの好む薔薇の意匠が凝らされ、腰元には装甲と同じように薔薇の刺繍が施されたスカートが裾を広げている。
スカートの下の太腿や脛、足も上半身と同様に漆黒の装甲で覆われ、剥き出しの頭以外は完全に鎧によって守られていた。
「月の光は衣に、夜の闇は鎧となりて我が身を守らん。月夜に立つ不滅王ジークライナス」
タンブル・ウィードの呟きは、その身に纏う鎧を呼び出す為の呪文と鎧の名前なのだろう。
尋常ならざる魔力と格の違う存在感を放つ闇の鎧を前に、エンゴクの黒い瞳が大きく明滅する。
それはこの老いさらばえたリッチの激しい興奮の表れだった。
「ジークライナス……! その名を冠した鎧は紛れもなくバンパイア始祖六家に伝わる六神器の一つ。
そしてこの老骨の魂さえも惑わすこの世ならざる美貌を持つロイヤル・バンパイアは、伝え聞く六家史上最強の吸血女王ドラミナ・ペイオリール・ヴァルキュリオスか!!」
「誰かにその名前を呼ばれるのは久方ぶりの事。もっとも、その名前は貴様などという不浄なる者では無くあの方に呼んで頂きたかった……」
タンブル・ウィートという偽名ではなく、真実の名前を告げられた事にタンブル・ウィードことドラミナは不愉快そうに優美というも愚かしい美貌を歪め、しかしその口から零れたのは想い人への切ない思いに揺れる乙女の声であった。
「ふむ、しかしヴァルキュリオス家に伝わる神器は無形器ヴァルキュリオスのはず。
そしてその鎧は他の六家の神器。そして他の六家の神器を扱えぬがロイヤル・バンパイアの理」
始祖六家のバンパイアが他の六家の神器を操る――このあり得ぬ筈の事態を前に、エンゴクは思考を巡らしたが答えはすぐに分かった。
歴史上ただ一人だけ全ての神器を操ったバンパイアが存在していたではないか。それはバンパイアと言う種の始まりを語る伝説の存在だった。
「そうか、始祖か。バンパイアの始まりたる始祖。貴殿は始祖に等しき存在、第二の始祖となったか。
グロースグリアの凶王ジオールに滅ぼされたものと思うておったが、生き延びておったようだの。となると、ジオールめを滅ぼしたのは貴殿かな?
拙僧の知る限り最強最悪のバンパイアと化したジオールを、三竜帝三龍皇や我が師以外の一体誰が滅ぼせるものかと思うておったが、なるほど貴殿がかの悪鬼を滅ぼしたか。
善哉善哉、滅国の女王よ、復讐を果たせてさぞや満足された事でしょうな」
エンゴクの推測通り、ドラミナはジオールが滅びた際にジオールが収集していた他の六家の神器を継承しており、更には六家の血を吸わねば扱う資格を得られない筈の他の神器を自在に操る力を得ていた。
ドラミナに思い当たる節は一つしかなかった。ジオールとの最後の戦いの直前に、ドランから与えられた血。
戦いの最中に体内にまるで太陽が生じたかのような莫大な力を授けてくれたあの血が、ドラミナの身体のみならず魂にまで作用して、その霊格を更なる高みへと導いたのだ。
既にドラミナの肉体からドランの血を飲んだ直後のような絶対的な力は失われているが、それでも以前よりも力は増し、バンパイアの始祖と同等以上の高みにまで昇華された魂からは、はるかに質の増した霊力が汲めども尽きぬ泉のように溢れだしている。
ドランの血を飲み、ジオールが滅びた事によってドラミナはこの世で唯一、始祖六家の神器を継承する資格を持った存在となったのだ。
「よもや神が鍛え上げた神の為の真性の神器をこの目にできるとは、これは望外の喜びである事よ。なんと胸の弾むことか」
カカと嬉しげに笑うエンゴクに対し、ドラミナは右手に握るありふれた造りの長剣の切っ先を突きつける。
このありふれた長剣こそが、使い手の意思に応じてあらゆる形態を取る無形の神器ザ・ヴァルキュリオス。
今はドラミナが想いを寄せる男が愛用している長剣と同じ形をしているが、宿す神性と力は紛れもなく最高位の神器として不足のないもの。
「では我が法力、呪力、魔導の技がどこまで通じるか確かめさせて頂きましょうぞ」
パン、と乾いた音を立ててエンゴクが両手を打ち合わせ、歯茎がむき出しになった口からくぐもった言葉が零れ出る。
「北を閉ざすは暗螺天 東を塞ぐは冥黄天 南を埋めるは魔響天 西を潰すは凶抗天 四方は天外の魔境となり冥魔の世とならん 六道逆輪廻・餓鬼道!」
タンブル・ウィードを中心として四方に真っ黒い炎の形状を取った異次元の力が出現し方陣を描くと、方陣内部が地上世界から隔離されて異なる世界へと空間が連結される。
大魔界に住まう邪神の力を借りた法力は、方陣内部に冥界に存在する地獄の一つから、絶え間ない餓えに襲われ、罪を償いきるまでその餓えを満たす事叶わぬ餓鬼達を召喚した。
無数の餓鬼達が寄り集まったソレは餓鬼玉と呼ばれる存在で、ほとんどの歯が抜け落ちた口だけをいくつもいくつも集めて無理矢理一つの肉塊にした、見るもおぞましい存在であった。
この世にあらざるあの世の存在として、地獄の瘴気と死の気を放つ餓鬼玉は一抱えほどのものが数十以上、方陣の中に出現している。
生ある者もそうでない者も、それが例え岩や鉄、石や木であろう口に入るものなら、満たされぬ餓えのままに食らい尽くす餓鬼玉達は、出現と同時に方陣の中に閉じ込められたドラミナに気付くと我先にと柔らかな女の肉を貪ろうと黄色く濁った唾液を滴らせる。
そのまま子羊に群がる餓狼の群れさながらドラミナに襲い掛かると見えた餓鬼玉達は、しかしながらドラミナを認識した直後に動きを止める。
餓えによって突き動かされる餓鬼玉からすればあり得ないこの行動の理由を、エンゴクはすぐさま看破してこれ以上面白い事は無いと大きく笑う。
「かっかっかっか、いやさ、ここまで来ると笑いしか出ぬ! よもや餓鬼達さえ惑わす美とは! 貴殿はまさしく魔性の美の主、魔貌とでも言うべきか」
餓鬼玉達が動きだすよりも早く、ドラミナの手のヴァルキュリオスが乱舞する光としか見えぬ速さで振るわれて、餓鬼玉を尽く寸断し蠢く汚らわしい細かな肉塊へと変える。
本来地獄に繋がれ、贖罪の最中にある餓鬼達はそれでも滅びる事は無いが、彼らが蠢動し口をぱくぱくと閉口しているのは、自分達を睥睨する吸血女王に心奪われ、一時でも飢餓を忘却しているからに違いあるまい。
「なるほど凄まじい。しかしながら餓鬼道はなにも餓鬼を招くばかりが芸ではありませぬぞ」
ドラミナは方陣から脱出するべくヴァルキュリオスに魔力を注ごうとし、方陣内部の空間そのものに新たな変化が起きた事を察した。
現在方陣内部は地獄の餓鬼道へと連結している。ドラミナは一時的にとはいえ、餓鬼道へと堕ちたに等しい状況にある。
つまり、ドラミナは足元の餓鬼玉達と同様に満たされぬ餓えに襲われ始めたのだ。
「腹が減っては戦は出来ぬと言うが、さて、バンパイアである貴殿は血への渇望にどうされる? 己の腕に牙を突き立てて己が血を貪られるのか?
バンパイアが餓えの極限にまで追い込まれたならどうなるのか、いや、これは見物よ」
餓鬼道に落ちた瞬間から飢餓は始まる。元よりバンパイアは血の飢えで死ぬ事の無い存在であるが、飢え死にする事が無い為に生きたまま果てしない飢餓に陥る事もあり得る。
だが可能性だけは論じられても、誰もが見た事の無かった実例を、それも史上最強最美のバンパイアクイーンで確かめられるのだ。エンゴクの顔は歓喜に輝いてさえいる。
しかし、エンゴクがつぶさに観察する中、ドラミナが飢餓に苦しむ様子は一向に訪れない。
そればかりか漆黒の鎧と想い人の品を真似た長剣を持つ妖美女は、その全身から方陣が軋む音を立てるほどの魔力を放出し始めたではないか。
それはエンゴクの想像を越えて高まり続け、世界を隔てる壁である方陣を軋ませている事からもどれほど非常識であるかが分かる。
そして、ドラミナがヴァルキュリオスを振りあげ、方陣のある一点を目がけて振り下ろす。
キン、と甲高い音と共に方陣が縦一文字に割れ、更に無数の罅が走って光の粒子へと変わって砕け散る。
この世と地獄を繋ぐ次元回廊さえも斬り裂く、ドラミナの常識外の斬撃だ。
地獄との連結が立たれた事によって餓鬼玉達は瞬きをする間も無く消え去り、制御を間違えればこの世の全てを食らい尽くしても止まらぬ存在が居た事など、まるで夢幻であったかのよう。
「ふむ、やはり意思ある者では貴殿の顔に惑わされてしまうか。にしてもまるで飢餓に見舞われた様子も無いのは、他の六家の神器の力か?
となれば……聖餐杯か、いや失策失策。拙僧とした事がその杯を持つ者に持久戦などと愚かな事をしたわ」
バンパイア六神器の一つ、月夜を満たす豊饒王ライヴィオラ。
それは資格を持つ所持者の霊魂、血肉と同一化して所持者の血を無限に増やして活力を与え続け、同時に餓えから解放する聖なる血の杯。
この杯の所有者となったドラミナは、いまや吸血を必要とせず常に血を供給され続ける状態にあり魔力や体力が枯渇する事は無いのだ。
「貴様こそただのリッチにしてはあまりにも強大すぎる。
事前に大規模な準備を行っていたわけでもないのに、地獄そのものを一時的にこの世に連結するなど尋常ではない」
「これでも生まれは超人種でしてな。ただ人からなるリッチよりは多少おまけがあったのですよ。
しかしリッチとはどうにも風情の無い呼び名。破戒僧とはいえここは即身仏と呼んで頂きたい」
クリスティーナやザグルス、バストレルと同様にこの枯れ果てた死せる僧もまた、人に限りなく近い超人種であったらしい。
リッチはそこまで至る要因があまりにも難しい為その個体数は極めて少なく、同様に超人種もまた血統によって発生するものではない為、稀有な存在だ。
超人種のリッチなどひょっとすればこの世界にエンゴク唯一人かもしれない。さしずめスペリオルリッチとでも言おうか。
「超人種、よもやリッチ同様に希少な種がそうなるとは。だがこれで納得も行く。
元より超人種として高かった霊格が、リッチとなった事で更なる高みに達したと言うわけか。
だが即身仏などと貴様が口にするな。
御仏の道を歩む者のみがそう呼ばれるに相応しい。魔導の探究の為に自ら不死者となった貴様に、そんな資格は無い」
「かっかっか、これは手厳し……!」
エンゴクの笑みが途切れたのは、このリッチの知覚の及ばぬ速さで振るわれたヴァルキュリオスが、距離の隔たりを越えてその左腕を肩口から斬り飛ばした為であった。
そして同時に枯れ切った肉体のみならず霊魂にもまで襲い掛かる激烈な痛みに、エンゴクの舌の根は凍りつく。
元来リッチとは物質界、星幽界に跨って存在する特殊なアンデッドだ。仮に物質界の肉体が損傷を負ったとしても、星幽界側の肉体が無事である為にすぐさま損傷は癒えるかそもそも傷つく事が無いし、その逆もまた然り。
その為、リッチに対抗するには物質界と星幽界の肉体を同時に傷つけるか、その繋がりを断って別個に対処するか、封印するなどが有効となる。
ドラミナの場合は彼女自身の霊格と神器によって、物質界と星幽界にあるエンゴクの肉体を同時に斬っている。
「おお、これは、ぐぬ。かつてこの身に課した荒行がいかに生温かったか分かると言うもの。実に貴重な体験をさせていただきましたぞ、女菩薩」
エンゴクは存在の核を成す霊魂の情報から肉体を再生しようとし、それが実行できない事から二つの世界に跨る肉体のみならず、己の魂まで斬られた事を理解し、初めての体験に高揚を覚える。
第二の始祖吸血鬼と化したドラミナは、そんなエンゴクの様子に美眉をわずかも動かさず、止めの一撃をくれるべく機を伺っている。
「さて神器たるその鎧の護りを抜くには、やはり神域の力を振るうか近しい格の神の力を借りる他ありますまい。これはまた難題である事!」
エンゴクは右手に持っていた数珠をドラミナへと投げつけると、空中で糸が切れてばらばらになった数珠の珠ひとつひとつが内包していたエンゴクの呪力を解放する。
直径十メートルに及ぶリッチの呪力は、触れた大地も風も月光さえも汚辱して負の力で汚染し尽くし、ドラミナは二十を越す紫色の光の球体の只中に飲み込まれた。
エンゴクは後方へと高速で後退しながら、右手だけで素早く印を結んでドラミナにも通用するだろう一撃を繰り出すべく呪言を連ねる。
「雷とは神鳴らす神音 天を揺るがせ 地に轟け 神よ落ちよ 神よ鳴らせ雷を ラハ・ヴァジュラ!」
かっと見開かれたエンゴクの眼前に虚空から白い稲妻が生じ、バチバチと激しい音を立てるそれは徐々に収束して長さ二メートルほどの槍の形状を取る。
呪力の解放が終わり、歪に抉られた大地が露わとなった時、そこにはエンゴクの予想通り無傷のドラミナの姿があった。
だが時間は稼げた。エンゴクの口角が大きくつり上がり、ドラミナへと稲妻の槍が投じられる。雷光の速さで迫る稲妻の槍をドラミナは縦に構えたヴァルキュリオスで受けた。
稲妻を操る高位の邪神の神威を顕現した槍の半ばまでヴァルキュリオスは斬り込み、月と夜の二神の神器と稲妻の邪神の力はごく短時間の膠着状態を造り出し、ドラミナが更にと踏み込みヴァルキュリオスの力を注いだ瞬間、二つの力の拮抗は崩れて四方へと拡散する。
標高七千メートルを越すこの霊山の上半分が内側から溢れた稲妻によって粉砕され、それでもなお物足りぬと、邪神の稲妻は夜天の頂きへと飽きることなく伸びて行く。
山麓に留まらずはるか遠方にまで稲妻が轟き、大地は地震に見舞われたかのように震える。
ドラミナとヴァルキュリオスによってラハ・ヴァジュラが斬り裂かれた時、解放された稲妻はこの大陸全土を覆い尽くしたのである。
「さしもの神器も同じ神域の力が相手では、と言いたかったものだが……」
稲妻が消え去った後、しんと静まり返った夜空には、消耗した様子こそあるが傷を負ってはいないドラミナの姿がそこにあった。
足場となっていた大地も先程の稲妻によって吹き飛び、ドラミナは背中から大きな蝙蝠の翼を広げて空中に滞空している。
「正直、貴様の事を侮っていたと言わざるを得ないようですね」
それはドラミナの偽らざる本音であった。この身に宿した神器の力が無ければ、ドラミナは再生に長い時間を要する傷を心身に負っていた事だろう。
「かかかか、これはたいそうなお褒めの言葉を頂戴いたした。もう少し踏ん張れば大人しく捕まるか、灰になってくださるかな?」
「私を前によくぞまだそのような大言を吐いたもの。その胆力に免じ、一撃で滅ぼしてくれるぞ、リッチよ」
「かか、お優しい方である事よ。同じ不死者のよしみにて見逃してはくれませぬのか?」
とはいうもののエンゴクは見逃して貰えるとは露ほども思っていないことが、声の響きから分かる。
「エンゴク、貴様は元は生ける者であったが故に一つ思い違いをしている。我らバンパイアと貴様のようなアンデットとでは不死者としての意味合いが異なる。
貴様らは生まれ持った自然なる命を失い、死を経験してなお蘇ったが故に不自然なる命を得た死なずの者。
されど我らバンパイアは死を持ってしても滅びを迎えぬ、本当の死を知らずに滅びる定めの者。
貴様らは死を知るが故に死を恐れ蘇った。しかして我らは死を知る事が出来ぬゆえに死なず滅びる者。死は我らに縁遠き者と嘯きながら、死を甘美なるかなと憧れ、恐れる」
「ほう、これはこれは。よもや女王陛下からそのような貴重なお言葉を賜る事が出来るとは、今宵はなんと素晴らしき夜である事か」
終始余裕の態度を崩さぬエンゴクは、なにもこの状況からドラミナを退ける逆転の秘策があるわけではない。
ほどなく迎えるだろう二度目の死に対する恐怖よりも、バンパイアの第二始祖と呼ぶべき存在となったドラミナへの好奇心が圧倒的に勝っている。
「ふむ、この期に及んでなお恐怖の色ひとつ見せぬのは大したもの。冥界でとくと罪の釈明を行うが良い」
「かかか、師よ! この女菩薩は思った以上に面白き存在でございましたぞ。かか、かかかかかか!」
ドラミナは愛剣ヴァルキュリオスを縦に一閃、横に一閃し、物質界と星幽界に跨るリッチの存在を呆気なく十字に斬り捨てた。
エンゴクはその存在が完全にこの世界から消滅するまでの間、滅びの苦痛など知らぬ気にカカカとひたすらに笑い続けていた。
「主と言い下僕と言い、笑いながら逝くか。これでは犠牲となった方々が浮かばれぬ」
ドラミナの言葉は月の光と夜の闇に溶けて消えた。
*
雲海を眼下に望む峻嶮な山の中腹に、豪奢な館が建てられていた。
敷地の中に広大な湖を持つ館の東屋の一つで、一人の男とも女とも見える若者が白い石材のテーブルの上に銅板の書籍を広げて視線を巡らしていた。
周囲に咲き誇る様々な色彩を持つ花弁が風に舞い散り、若者の黒髪に数枚の花弁がまるで恋する少女のように纏わりついている。
不意に若者が銅板の魔導書から視線を外し、青く澄み切った空の彼方へと映す。
若者はテーブルの上に置かれていた白磁器のティーカップを手に取り、霊水で薄めた紅茶の味を楽しんでから、溜息と共に呆れたような呟きを零す。
性別を超越した美人の物憂げな姿は、世の諸人の心を奪ってその場に足を止めさせて時の流れを忘れさせるだろう。
「ザグルスに続きエンゴクまで逝きましたか。私の弟子がこの短期間でこうも続けて逝ってしまうとは、初めての事ですね」
若者の名前はバストレル。人類最強最悪の魔法使いとして、広くその悪名と絶大なる魔法の力を知られた大魔導だ。
二十歳をいくらも越えていないと見える若々しい容貌を持ちながら、その実数百年以上を生きる超人種の大魔法使いは、エンゴクに哀悼の意を表するようにしばし目を閉じ、再び開いた時にはもうこの世に居ない弟子の事など忘れた様子であった。
バストレルが軽く右手を上げると、つい先ほどまで何もなかった筈のバストレルの隣の空間に、一部の隙も無く完璧に執事服を着こなした老人が出現する。
「各地に散った皆に一月以内に参集するよう伝令を発しなさい。これより吸血鬼狩りの準備に入ります。そう、この上なく美しく恐ろしい吸血鬼の女王を狩る為に」
老執事に柔らかな声で命じたバストレルの瞳は空の青を映さず、虹色の光に輝いていた。ドランが古神竜の力を振るう時と同じ虹色の光に。
乱暴に肩を揺さぶられて、ミルラは暗黒の底に沈んだ意識が無理矢理現実の水面に引き上げられるのを感じた。
ああ、この耳元で銅鑼を叩かれているような声はガランドだ。
ミルラはぼんやりとそんな事を思いながら、ひどく億劫に瞼を開いた。
瞼を開けば心配そうな顔でこちらを見下ろすガランドと、周囲を警戒している様子のアルニの二人が映る。
「そんなに大声を出さなくても聞こえているよ……ガランド」
まるで宙に浮いているようにふわふわとした意識を覚醒させようと、ミルラは何度か首を振り、左右のこめかみを痛みを感じる位に強く揉む。
「まったく、姿が見えないと思ったらこんな所で寝転んでいるとはな。お前だったら今がどういう事態か分かっている筈だ。
お前、おれ達が見つけなかったらどうするつもりだったんだ?」
ゲルドーラの城壁が見える位置とはいえ、こんな所で無防備に寝ていては万が一という事も十分にあり得る。
ガランドのミルラへの苦言は当然の事であった。
意識がはっきりとしてきたミルラもガランドの言う通りだと思うから、強く反論する事はしなかった。
だがその代わりにミルラはつい先ほどまで自分が、あの同性の自分でさえ妖しいときめきに胸を疼かせるバンパイアと戦っていた事を思い出し、咄嗟に引き千切られた襟元を隠した。
そこにはあの忌まわしい過去で着けられた消えない二つの吸血痕がある。
それを見られれば、自分はバンパイアの犠牲者としてわずかな憐みとそれに万倍する憎悪の視線を向けられる。
「え、ええ。悪かったわね。ちょっと……」
「ちょっと、なんだよ? まがりなりにも冒険者のお前がろくに警戒もしないでこんな所で気を失っているなんざ、どう考えてもおかしい。何があった?」
「なにっ……て……」
ガランドは見る間に顔色を青くして行くミルラに、すわ何事かと内心で驚く。
この口は悪いが肝の据わった少女が、こうまで分かりやすく顔色を変えるなどただ事ではない。
そうだ、とミルラは思い出していた。
忘れたくても忘れられない忌まわしいあの記憶。
夜の闇の中、清らかな満月の光の中で禍々しく輝くあの赤い二つの輝き。
首筋に食いこむ鋭く冷たく、そして甘美なあの痛み。そこから二つの牙を通してじゅるじゅると血を吸われる音。
そしてそれを成したあのバンパイアとは、比較にならぬほどに美しく強大なタンブル・ウィードを。
自分はタンブル・ウィードに血を吸われ――!?
「あ、ああああ!?」
「どうした、ミルラ」
がくがくと身体を震わせるミルラの姿に、ガランドやアルニまでも驚きの視線を寄せる中、ミルラはおそるおそる首筋に手をやり、ある筈の感触が無い事に気付くと何度も何度も首筋に触れ続ける。
ミルラの突然の行動にガランドやアルニは互いに顔を見合わせていたが、首筋をやたらと気にするミルラの仕草から、バンパイアの恐怖が根強い土地に生まれた者として、それがなにを意味するのかをすぐに悟った。
「ミルラ、お前、まさかタンブル・ウィードに手を出したのか?」
ミルラが過剰なまでにタンブル・ウィードに対して敵意を抱いていた事を思い出し、ガランドはまさかタンブル・ウィードに挑んだのかと問うが、ミルラはガランド達の問いに答える余裕は無い様子であった。
何度触っても指先に吸血痕が触れる事は無く、冒険者稼業で負った大小の傷痕ばかりが指先を擽るばかり。
「そんな、でも……どうして?」
バンパイアの犠牲者が他のバンパイアに血を吸われた時にどうなるのかを、ミルラは知らなかった。
バンパイア達の間で既に他のバンパイアが血を吸った相手から血を吸う事は、饗宴などの場合を除けばマナー違反とされる行為であり、滅多に行われる事では無い。
では犠牲者が他のバンパイアに血を吸われた時どうなるのか、と言えばまずほとんどの場合において、犠牲者に変化は起きない。
最初に血を吸ったバンパイアがバンパイアとしての親のままだし、バンパイア化が加速あるいは遅延する事も無い。
だが何事にも例外がある様に複数のバンパイアによる吸血においても、犠牲者の支配権が新たに血を吸ったバンパイアに移るケースが存在する。
新たなバンパイアが最初に血を吸ったバンパイアよりも格が高く強大なバンパイアであった場合、支配権が移って犠牲者の肉体・精神状態も新たな親となったバンパイアの裁量しだいとなる。
ミルラの場合はバンパイアとして極めて格の高いタンブル・ウィードに吸血された事で、ミルラの支配権はタンブル・ウィードへと移った。
バンパイアが血を吸う場合、相手を眷属へと変えるか否かはわずかな例外を除いて自由自在。
そしてタンブル・ウィードは、ミルラが吸血によって受けたかつての祝福、しかし他種族にとっては呪いであろうそれを自らの吸血で上書きし、中途半端にバンパイアと化していたミルラの肉体を人間のそれへと戻したのだ。
ミルラの様子からどうやらバンパイアと化してはいないようだが、やはりタンブル・ウィードとなにかあったらしいと察し、ガランドはなんて事をと頭を抱える。
だがガランドの嘆きやアルニの呆れた顔など、ミルラにはまるで気にならなかった。
冬の風に苛まれている様に冷たかった身体にぬくもりが戻り、暖かな血が心臓から送り出されて全身を巡っている。
全身を激しく疼かせる血への渇望もなく、ガランドやアルニを見ても彼らの全身を巡る血管に意識が吸い寄せられる事も無い。
ああ、自分は人間に戻れたのだ、とミルラはようやく理解し、心の中に様々な感情が湧き起こり、まともな思考をする事が出来ない。
滅ぼしてもなお自分を蝕んでいたバンパイアの呪いが消え去り、忌まわしい化け物へと変わりつつあった自分の身体と精神が本来あるべき人間のモノへと戻っている!
「ちくしょう、ちくしょう、あいつ、こんな事をして……」
ミルラはぺたんと腰を落として赤子のように泣きじゃくり出した。
タンブル・ウィードへの感謝はある。それでもなお消えぬバンパイアへの怒りと憎悪もある。
唐突に呪いから解放された事への戸惑いと喜びと、言葉にできないいくつもの感情がどろどろに混ざり合い、後から後から止まぬ涙を流すミルラの口から出たのは、悪罵の皮を被った感謝の声だった。
*
闇の中に閉ざされた荒野を行く一台の馬車があった。
六本の脚を持つ魔馬が地を蹴る度に大きく土が抉れて、凄まじい速度で馬車は進み巻きあげられた土煙が風に流されてゆく。
御者台には長剣を片手に持つタンブル・ウィードが立ち、眼前の地平線を埋め尽くす動く死者の群れに、妖美という言葉以外に例えようの無い瞳を向けている。
ニックやガランドに別れを告げ、ゲルドーラを後にしたタンブル・ウィードは高位のバンパイアとしての超知覚能力と探査魔法の併用によって、西方に広がる死者達の群れを見つけてはこれを尽く殲滅していた。
いったいどれだけの死者が蘇ったものか、すでにタンブル・ウィードが土に還した死者達の数は十万を越える。
前方の死者達へと向け、タンブル・ウィードは右手の長剣を右から左へと横一文字に動かした。
ゆうに一千メートルはある両者の距離は、いかなタンブル・ウィードの魔技といえども斬撃は届かぬと見えたが、長剣の刃が一瞬溶けた鉄のように波打ち、直後刃がぐんぐんと伸びるのを月と星々は目撃した。
タンブル・ウィードが振るう直前、長剣は一千メートルの距離を埋める長大な刃と変わり、横一文字の斬撃はタンブル・ウィードの行く道を塞ぐ一千を越す死者達の腰の位置で上下に斬断してのけた。
長剣を振り切った時には既に刃は尋常な長さへと戻っており、タンブル・ウィードはそれを右手一本で握ったまま、鞘に戻す事をしなかった。
一千の死者達は長剣に宿る魔力とタンブル・ウィードの技によって、死肉を動かす魔法も斬られて動かなくなっていたが、ただ一人だけ大地に立つ孤影をタンブル・ウィードの瞳は認めていたのである。
タンブル・ウィードの魔法視力は、その影の全身から煙のように立ち昇る真っ黒い闘気を見ていた。
はるか東方の島国で侍と呼ばれる者達が纏う鎧を身につけ、月光も斬り裂くかのように妖しく輝く刃を右手に下げたその死者の名はレッキマル。
陽光の下で一度だけ刃を交わした死者に対し、タンブル・ウィードは十メートルの位置で馬車を止め、御者台から軽やかに舞い降りた。
音も無く、地に落ちる影も無く大地に降り立つタンブル・ウィードを、レッキマルは歓喜と感嘆の眼差しで迎えた。
まるで風にさらわれるかのような、流麗なタンブル・ウィードの身のこなしがレッキマルの心に与えたのは、嘘偽りの無い感動であった。
「一日千秋の思イデ貴殿と再びまミエる時を待ってイたゾ。バンパイアよ」
「私は貴方と手合わせをしなくても良かったですけれど」
最初の邂逅と異なり、両者は既に獲物を抜いている。
前回の対決ではタンブル・ウィードの圧倒的な技量の前に、レッキマルが一敗地に塗れて退いたが再度姿を見せた以上、それなりに勝機はあるのだろう。
「前回は太陽の下で刃を交わしました。しかし今は夜。太陽は退き月の姿が覗く闇の時刻。
バンパイアを相手に夜に戦いを挑む事の愚を知らぬわけもなし。エンゴクとやらに秘策でも授かりましたか?」
タンブル・ウィードの右手に握られた長剣の切っ先は斜めに傾いで大地を差し、不動のまま。レッキマルは面頬の奥で小さく笑ったようであった。
上下に両断された死者達で埋め尽くされた大地の上で、生ける死者達の会合は続く。
生ある者が耳を傾ける事は許されぬ、死に属する者達の世界の話が。
「拙者とて所詮は捨てゴマに過ギヌ。正面から持テル全力にて戦いを挑ムノミ。だがソノ前に我が主が貴殿ニ挨拶をシタイとの事だ」
タンブル・ウィードは、レッキマルの体内で黒々とした禍々しい魔力が胎動するのを感じ取った。
エンゴクというリッチが、創造物であるレッキマルとの霊的繋がりを介し、その咽喉を借りて喋ろうとしているのだ。
タンブル・ウィードはこのような事態を引き起こしたリッチがどのような性根の主か、と知るために、長剣を振るう事をせずにエンゴクとやらが喋り出すのを待つ。
「下僕の咽喉にて失礼をする。拙僧がエンゴクじゃ」
レッキマルの口が開いて、レッキマルではない声がタンブル・ウィードに話しかけて来た。
好々爺を想起するような穏やかな声音であったが、レッキマルを介してなお発せられる声が宿す霊力の高さに気付かぬタンブル・ウィードではない。
「改めて名乗る必要もありますまい。
ご老体、なぜ安寧の眠りについていた死者達を目覚めさせ、生ある者達に襲いかからせているのか……。その理由を問いたい」
「ほっほっほ、若い者はせっかちでいかん。バンパイアたるお主であれば時は急ぐものではあるまいに」
「私にとっての時と人間の方々の時とではいささか意味合いが異なります。このたびの事態で被害を被っているのは主に人間の方々。
事を急ぎもしましょう。言葉遊びをするつもりはありません。力づくにでもお答えいただく」
タンブル・ウィードの放つ鬼気がその冷たさを増し、レッキマルの全身から噴きでていた闘気に真っ向から襲いかかる。
「出来るかな? 拙僧はあくまでレッキマルを介しているにすぎぬ。レッキマルを万に斬り裂こうとも拙僧に苦痛はないが?」
「出来ないとお思いか?」
タンブル・ウィードの放つ雰囲気の変化をレッキマルを介して感じ取り、遠方に居るエンゴクが余裕のある態度を崩す。
「これは、レッキマルの話から玉を引いたかと思い至ったのは間違いでは無かった。バンパイアノーブル、いやロード?
いやいやいや、その程度でこのエンゴクの死せる肉体を慄かせる事は出来ぬ。善哉善哉、思わぬ玉を拾ったもの」
タンブル・ウィードが戯言に付き合ってはおれぬ、と眼差しに敵意の色を混ぜた時、エンゴクとは別にレッキマルが自らの意思で肉体を動かした。
レッキマルは左手の中に隠し持っていた細長い硝子瓶を口元に運ぶ。
そして封入されていた銀色の液体を一息に飲み干して、空になった硝子瓶を放り投げる。
レッキマルの手から硝子瓶が離れた瞬間、長剣を右上段に振りあげたタンブル・ウィードの黒影が、その目の前にあった。
「おお、これは苛烈な」
レッキマルの口から零れるエンゴクの言葉とは別に、レッキマルは頭頂を真っ二つにしに来たタンブル・ウィードの一閃を、同じく閃光と見間違う速さの一太刀で弾き返す。
両者の刀剣が打ち合った空間を中心に黒と赤、二色の光の火花が生じて四方へと広がる。
両者の放つ鬼気と死気の激突が、物理的な現象となって生じた火花だ。
肩幅に足を広げたレッキマルの右手が月光に霞む。
輪郭が朧に溶けて見えるほどの速さで振るわれるレッキマルの斬撃を、タンブル・ウィードは等しい速さで長剣を操り、一つも見逃すことなく刃を打ち合わせる。
秒間百、いや一千にも迫ろうかという常軌を逸した神速の斬撃の応酬は、一太刀一太刀に並みのバンパイアなど即座に灰に還ってしまうほどの破滅の魔力と意識とが込められている。
「レッキマルがいましがた飲んだのは、拙僧が特別に調合した霊薬でな。神酒ソーマをなんとか再現できぬかと試行錯誤した過程で出来たもの。
ソーマにはならなかった失敗作ではあるが、生者死者を選ばずに肉体を十倍にも百倍にも強靭にする強化薬にはなった。
それを服用したレッキマルを相手に互角に剣を振るうとは、いやはや世界は広いのう。そうは思わぬかレッキマル」
「主殿の……おっしゃルトオリ、かト。ぬうん!」
斬撃の合間に同じ口から異なる意思の言葉が放たれ、奇妙な一人芝居が行われた。
それを見るタンブル・ウィードの目はレッキマルを、レッキマルをというよりはその背後に存在するエンゴクを見ているかのようである。
水に沈むようにして膝を曲げたタンブル・ウィードが、横一閃でレッキマルの両膝を斬り飛ばしに動いた。
これに応じたレッキマルは大きく後方へと跳躍し、タンブル・ウィードの長剣に虚空を斬らせる。
爪先の力だけで十メートルほど後退したレッキマルは、愛刀の柄を両手で握り直して右八双に構えた。
打ち込む側が一つの隙も見出す事の出来ない、剣に生きる者が理想とする様な構えである。
その肉体が死者を継ぎ接ぎにしたものであったとしても、それを動かす意思は紛れもなく練達の剣士に他ならない。
「タンブル・ウィードよ、我が手ニアルハ百の人間と千を越す野の獣の血を捧げ、名も無き鬼に鍛えさせたという伝説の妖魔の刀。
一度抜けば死を味あワズには鞘に収まラぬ。銘は鮮血。如何にお主とてこれに斬られレバ、傷はやすやすと癒えぬ」
「ふむ、言うだけの禍々しさはある。されどそれは私を斬る事が出来たならの話」
言外にお前では私を斬れぬと告げるタンブル・ウィードに、レッキマルは激昂するでもなく面頬の奥で深く笑ったようであった。
堪らぬ、と喜んでいるのだろう。自分が死力を尽くしても及ばぬかもしれぬ強敵と戦う。これほどに戦場に生きる者の心を震わせる事があろうか。
「ぬかせ!」
嚥下した強化薬が肉体により深く浸透しているのか、タンブル・ウィードへと踏み込んだレッキマルは、先程までと比して更なる速さを獲得していた。
風を貫き、降り注ぐ月光を散らし、動く死者が大地を駆ける。その手に携えるは血と死とに飢える妖刀。
タンブル・ウィードは長剣を正眼に構え、真っ向から受ける体勢を整える。このたおやかなる美女は不退転の三文字を信条としているものか。
目撃したのは月と闇。風は両者の戦いに慄き、その肌に触れる事さえ恐れて先程から吹く事を忘れている。
「けぇえあああああああ!!!」
空を飛ぶ鳥も落とさんばかりに夜の静寂を打ち破るレッキマルの絶叫。
服用した強化薬の作用とレッキマル自身の技量により、その踏みこみと足運びは転移魔法を使ったのかと錯覚するほどに速く清流の如く淀みが無い。
タンブル・ウィードの首で、腹で、左右の腕で、足で無数の火花が散る。
修羅道に落ちてなお笑いながら刃を振るう悪鬼の如きレッキマルに対し、紫銀の髪を翻す妖美女は冷厳なる表情を崩すことなく長剣で応じ続ける。
はたして死せる剣鬼の刃を受けるタンブル・ウィードの心中は水鏡の如く澄み切った清明なるものか、それとも果てなき無限の虚空の如くか。
地面に触れる寸前まで振り下ろされたタンブル・ウィードの長剣の切っ先が、まるでレッキマルに吸い寄せられるように跳ねた。
切っ先は三歩退いて長剣の刃圏から退避した筈のレッキマルの顎先を掠め、溢れたどす黒い血がぱっと空中に赤黒い花を咲かせる。
レッキマルは痛みを失った筈の死せる肉体に走る激痛に驚愕し、歓喜し、感謝しながらタンブル・ウィードのがら空きの左脇腹へと、妖刀鮮血で美しい孤月を描く。
タンブル・ウィードの柔肉を貪らんと吼え猛る妖刀は、しかし虚空に残るタンブル・ウィードの残像だけを斬った。
レッキマルがタンブル・ウィードの長剣を避けたのと同様に、タンブル・ウィードもまた目にも止まらぬ神速の動きで後方へと下がり、妖刀を回避していたのだ。
強化薬を服用したレッキマルの目を持ってしても残像しか映せぬタンブル・ウィードの速さ、そして自身の肉体を完全に掌握して操縦する技量に、レッキマルの口元に鬼神も後退りするような笑みが浮かび上がった。
「おお、オおオオ、なんたる強敵である事か。
拙者を形作る無数の猛者共がついぞ出会わなかった、望んでも得られなかった敵を、死せし今、我得たり!」
まさにこの世の春が来たと言わんばかりに歓喜の念を全身から噴出させるレッキマルだが、それと同時に彼を形作る死者達を繋ぎ合せた肉体から糸のように細い白煙が立ち上り、腐った肉の匂いがぷんと漂い始めた。
レッキマルの身に付けたこれもまた妖鎧とでも言うべき東国の甲冑の下の肉体がゆっくりと、しかし確かに崩壊をし始めている、とタンブル・ウィードは見抜いていた。
「死者といえども、いえ死者であるからこそ死への恐れは拭えずあるはず。肉体の滅びを覚悟した上で薬を?」
なんと業の深い、そう嘆く響きを交えたタンブル・ウィードの声に、レッキマルは何をおかしなことを言う、と笑い飛ばす。
この死者は己の選択肢をわずかも後悔しておらず、また崩れゆく肉体を惜しみもせず、嘆いてもいない。
「これは異なコトヲ。女人といえど、いっそ羨ましいホドの剣を振ルウのだ。己が培った全身全霊の技を振るう喜ビヲ知ラぬとは言わせぬ。
この喜びのままに死するならば何を恐れる事ガアロウか。
ましてや今ココニある拙者ハ、二度目の生をいや生とは言い難イガ、ま、望外の好機ヲ与えられた果報者。生死に拘泥はせぬ」
「やれやれ主への忠義よりもおのれの欲求が第一とは、困った下僕じゃわい」
闘争の歓喜に促されて饒舌になっていたレッキマルの口から、呆れを隠さぬエンゴクの声が零れ出た。
同じ口から異なる二つの意思の言葉が交互に放たれて、再び奇妙な一人芝居めいた会話が行われる。
「蘇らせて頂イタ御恩は忘れてオリまセぬ。この崩れゆく体が出来る最後の御奉公。多少の我儘はお目溢しくださってもよろしいかと」
「かっかっか、いけしゃあしゃあとどの口が抜かす。おっとこの口か。
お前にはまだまだ働いて貰いたい所であったが、この敵が相手では仕方あるまい。
これまでの忠に免じて我欲を満たさんとする行いは見逃そう。
さあ、存分に死合うが良い。お前が飲んだ薬が肉体を完全に崩壊させるまでそう時間は無いぞ」
「委細承知!」
タンブル・ウィードは互いの事を良く理解している様な二人のやり取りを前にしても、毛の一筋ほども気を抜く事はせず、残された時間を示す崩壊の白煙を全身から噴き出して迫りくるレッキマルに応ずるように駆けた。
両者が交差するその直前、レッキマルが奥歯に仕込んでいた丸薬を噛み潰した。
先程服用した強化薬の効能を更に強めた霊薬が、口内から瞬時に全身へと浸透して行く。
もはや免れぬ肉体の崩壊を更に加速させてなお、タンブル・ウィードとの死闘を、その先にある勝利を求めるレッキマルの執念のなんたる凄まじさ。
数多の戦士や騎士、魔獣や亜人、悪魔の死体から選りすぐった部品を用い、エンゴクの霊的外科手術と外道の秘儀で形作られたレッキマルの肉体は、二度に渡って服用された強化薬の効用に耐えきれず血管も神経も筋繊維も骨も、何もかもが千切れ、あるいは砕け、あるいは弾けている。
それでもなおレッキマルは駆けた。それでもなおレッキマルは妖刀を振るった。全ては、恐ろしくも素晴らしい敵に一太刀を浴びせんが為!
「きぃいあぁあああ!!」
それ自体が刃の鋭さを備えているかのような叫びは、レッキマルの咽喉から迸っていた。
継ぎ接ぎにされた死体に宿った己の名すら知らぬ武人の魂が放つ、最後の叫び、消えゆく寸前の輝き!
例え偽りの生命を与えられた死体であろうと、この瞬間のレッキマルが武人では無いと世の誰が否定できただろうか。
頭上天高く、それこそ夜天の月まで斬り裂かんばかりに振りあげられた妖刀鮮血が、光そのものとしか見えぬ速さでタンブル・ウィードの頭頂へ。
天から地へと落ちるレッキマルの斬撃に対し、月夜に迸る銀の一閃はタンブル・ウィードの手元から放たれていた。
銀の一閃が通り過ぎた後、おぞましい銘を持つ妖刀は真っ二つに断たれ、それを握っていたレッキマルもまた兜と胴丸ごと肉体の中心線を断たれて左右に分かれる。
どす黒い腐った血と薬液の混合液がばしゃばしゃと断面から溢れて地面を濡らすのを見届けても、タンブル・ウィードは長剣を鞘には納めなかった。
レッキマルを動かす死霊魔法も同時に断っているが、レッキマルとエンゴクの繋がりは敢えて残る様に斬ったのである。
はたして左右に別れたレッキマルの唇が動いて、年甲斐も無くうきうきと弾むようなエンゴクの声が闇を震わせた。
「いや、お見事。レッキマルが斬られた瞬間、拙僧にも久しく忘れていた痛みが襲ってきおった。
そして礼を申さなければなるまい。レッキマルがその霊魂さえも貴殿に斬られた瞬間に感じていたのはまさに至福の喜びよ。
見事本懐を果たして存在を終えた様じゃ。主として感謝せねばなるまい。
しかし、我が傑作が無理を重ねてもなお及ばぬとは、やはり見込み通り貴殿はロイヤル級のバンパイアであるようだな。
生きた個体をこうして目の当たりにするのは、久方のことゆえ何とも心弾む事」
「次は貴方自身を斬ってあげましょう」
「おお、なんと恐ろしい眼差しである事か。拙僧の知る限り、そのような目が出来るのは貴殿で二人目よ。さて勝者には報いねばなるまいなあ。
取り敢えず貴殿の知りたがっていた今回の事態を引き起こした理由について、聞かせてしんぜよう」
エンゴクが時間稼ぎに口を開いている可能性も考慮し、タンブル・ウィードは心身両方の知覚を鋭敏に研ぎ澄ましながら、エンゴクの次の言葉を待つ。
「拙僧は庵に籠り、呪法魔導の探究に心身を注いでおる。
その中のある古代呪法の解明に取り掛かっておってな。『呪愚=煮具螺巣の召喚の法』は存じておるかな?」
「邪神の中でも地上に住まう者達とかけ離れた思考形態を持つ異形の大神の一柱。だがそれを召喚して何を求める。
なによりかの邪神をこの地上に召喚すれば少なくともこの大陸に住まう者達に、霊的な災厄が齎されるは必定。そうなれば貴様とて無事では済むまい」
明らかにタンブル・ウィードの言葉に含まれる険が強くなる。
エンゴクが口にした邪神の名は、特に忌まわしいとされる一派に属する邪神の名であった。
「そう殺気立たずともよい。拙僧とてかの神に破壊や滅びを願おうと言うのではない。拙僧が欲しいのはかの神の召喚に際し開かれる次元回廊の波長よ。
それを特定できれば上位次元への精神的回廊を繋げる事が可能となる。
さすれば我が魂は上位次元との霊的邂逅によって研磨され、より高みと深みへ行く事が出来よう」
「貴様たちのような人種は何故そのように己の事ばかりを考え、他の者達へ及ぼす被害を考える事が出来ぬのか。
ならば生者の血と魂を求めるのは、邪神召喚に必要だからか?」
「かっかっか、かの神は大食らいでなあ。以前から拙僧が貯め込んでいた魔力や贄どもでは足りぬと仰せよ。
特に貴殿に邪魔されたお陰で、集まりがどうにも悪くてな。
拙僧の邪魔をせんでくれると大変ありがたいのだが、望むものがあれば拙僧で用意できるものなら用意しよう」
「私が望む物があるとしたなら二つ。一つはすぐに死者達を元の眠りに戻す事。
そして今回の事態を引き起こした責任をその命でもって償う事。これをすぐに行うと言うのならば、邪魔はいたしません」
「いやはや、なんとも無理な事を申されるものよな。
そうそう、レッキマルの目を通じて見させて頂いたが、貴殿は何故あの避難民達を守っておったのかな?
血を対価に、などとそこらのバンパイアの考えるような事が理由ではあるまい」
ふいにこれまで美貌を嫌悪の色に染めていたタンブル・ウィードが、表情を和らげた。
彼女がゲルドーラまで守り続けた人々の中で、太陽のように明るい笑みを浮かべる少年の事を思い出したのだ。
「一人の少年に傭兵として雇われたのです。十枚の銅貨でね」
「雇われた? 銅貨十枚で?」
エンゴクは魔導に生きる不死者とてそれなりに経済に対する概念や価値観は有しているらしく、タンブル・ウィードがわずか十枚の銅貨で雇われたと言う事に、心底驚いた声音を出す。
「なんとも、我が魔導の追及をたった十枚の銅貨で阻害されるとは」
初めてエンゴクの声に怒りの響きが混じるのに対し、タンブル・ウィードは誇らしげに答えた。
「私にとって一万枚の金貨よりも、いえ、世界のなにより価値のある銅貨でした。その銅貨に比べれば貴様の用意する何物も無価値に等しい」
「そうまで言われては拙僧も覚悟を決めねばなるまい。
生きたロイヤル・バンパイア、捕らえてその髪の一本、肉の一片、血の一滴に至るまでとくと研究してしんぜよう」
「悠長にお喋りをしてくれたおかげで貴様の居場所を把握できました。すぐにその首を取りに行きます。
冥界の神々に対する犯した罪の釈明でも考えておきなさい」
ニックやガランドが耳にした事の無い、冷酷の極みと言ってよい声で告げるタンブル・ウィードの眼には必殺の決意が炎のように揺れていた。
*
エンゴクが拠点とする庵は、ゲルドーラより北西に馬を走らせて一ヶ月ほどの距離にある山中にあった。
タンブル・ウィードがニックの祖母やその他の語り部から聴き取った話では、かつてこの地を訪れた異国の僧侶が、更なる修行を求めて近隣の山々へ籠り荒行を重ねていたという。
人々を襲う魔獣やバンパイアをその法力によって退けた僧侶は近隣の人々から大変な尊敬を受けていたが、ある日、土地の誰もが足を踏み入れぬこの山へと向かい、以後、その姿を見る者は無かったと言う。
この僧侶が今回の事態を引き起こしたリッチ、すなわちエンゴクでは、とタンブル・ウィードは推測し、探査魔法と超知覚がそれを確信に変えて馬車を走らせていた。
山は天高く育った木々が陽光を遮る為に常にうす暗く、雑草が生い茂り苔に覆われた岩が無数に転がっている為に、まともに歩くのも難しい山中は人の足が踏み入る事を拒絶し、棲息する数多の肉食獣や妖精の類は近隣の人々によって恐怖の代名詞だ。
山頂に近い山腹に穿たれた天然の洞窟の奥深くに、人工的に造られた広大な空間があり、そこにエンゴクはリッチとなる以前に庵を立てて今に至るまで魔導の探究に勤しんでいる。
庵そのものは質素な作りで寂れた味わいのあるものであったが、エンゴクの放つ瘴気や死気が充満していて、常人では一歩足を踏み入れただけで衰弱死してしまう事だろう。
エンゴクを恐れて山に住まう獣や魔物さえ決して近づこうとしない庵に、今はエンゴク以外にも別の気配があった。
「かような仕儀となりまして、この度の召喚実験は目下停滞しております。何とお詫び申し上げれば良いか、我が師よ」
がらんとした庵の中で床の間に飾られた鏡に向けて頭を垂れるのは、骨に生皮を張りつけたとしか見えない人型の異形だった。
墨染の僧衣とその上に絢爛豪華な袈裟を纏ったソレが、エンゴクであった。
落ち込んだ眼窩には鬼火のような黒い光が輝きを放ち、磨き抜かれた板間に正座した小柄な姿からは数百年を閲したリッチでなければ纏い得ぬ異様な存在感を纏っている。
『あなたが詫びる事はありませんよ。それよりも話に出て来たロイヤル・バンパイアの事が気掛かりですね。
始祖六家は全て死に絶えた筈ですが生き残りが居たとなれば、傍流かあるいは秘されていた隠し子か。
ふふ、どちらにせよ、いえ、そうでない方が面白い』
エンゴクが師と呼び、鏡に映し出されているのは、絶世の美女ともあるいは絶世の美男とも言える不可思議な容貌を持つ人間だった。
リッチとなったエンゴクが心底から畏まり、敬意を向けている事から相手がエンゴク以上に優れた魔法使いである事はまず間違いがない。
鏡に映し出された顔は二十代の若い容貌を保っていたが、エンゴクの師であるのなら数百年かあるいは千年に迫る時を生きているのだろう。
「拙僧の下を訪れると申しておりました故、そう時を置かずして相対する事となりましょう。
師が御所望とあらば生かしたまま捕らえて、お送りいたしまする。まあ、大変厳しい、いや不可能と言うのが本音ですがの」
『ふふふ、期待してよいのやら悪いのやら。召喚実験以上にそのロイヤル・バンパイアの方が面白そうですね』
「正直に申せば拙僧も師と同じ心持ちにて、かの者が我が庵を訪れるのを今か今かと待ち望んでおります。しかし、拙僧の力では及びますまい。
いやいや、今生の終わりに師に負けず劣らず美しく、そして恐ろしい敵とまみえる事が出来たのは正しく僥倖にございますなあ」
「ほう、貴方がそうまで言う相手ですか。貴方は私が取った弟子達の中でも優秀な弟子なのですが」
「ほっほっほ、これはこれは、師の下で学んでいた時にはついぞお聞かせくださらなかった言葉にございますな。良い冥土の土産が出来ました。
では、師よ、我が目は御身の目、我が耳は御身の耳、かの者との戦いをどうぞ御照覧下さりませ」
エンゴクが軽く頭を下げた瞬間、鏡の向こうの師との間に霊的な繋がりが生じ、エンゴクの五感のみならず第六感までもが師に共有される。
「ええ。貴方が居なくなるのは少しばかり寂しいですが、それ以上に貴方の戦いが楽しみですよ、エンゴク」
「まこと、拙僧も同じ思いにて」
同じ考えである事を確認した師弟は、互いに無邪気とも言える笑みを浮かべた。
ひたすらに知的好奇心に突き動かされているという点では、彼らは純粋と言えなくもない。
純粋な者ほど思わぬ過ちを犯す。そして時には過ちを過ちとは思わず、純粋なままに災いを振りまく魔性ともなる。
エンゴクとその師は紛れもなく存在するだけで、自分以外の生命に危険を及ぼす魔性の類であった。
師との連絡を終えたエンゴクは、錦織の座布団に座したままかすかに念じ、ふわりと座布団ごと浮かび上がる。思念による浮遊魔法だ。
そのまま滑るように庵を出て、エンゴクは夜の闇に飲まれた山腹から麓にかけてまで見下ろした。
普段なら夜行性の鳥獣達の息遣いや争いの気配が伝わると言うのに、今はしんと静まり返り自分達の存在を静寂の帳でひた隠しにしているかのよう。
「ほぉう、これはなんとも凄まじい闘気に魔力。
まだ麓であろうにここまで伝わってくるとは。
いざ戦いとなればこれがどこまで天上知らずに高まるのやら」
闇よりなお暗い光が輝くエンゴクの形なき目は、スレイプニル達の牽引する馬車から降り立つタンブル・ウィードの姿を確かに捕らえていた。
山麓で馬車を止めて降り立ったタンブル・ウィードもまたエンゴクの姿を認めており、共に不死者の王と畏怖される最強のアンデッドの対峙と相成ったのであった。
「む、せっかちな女菩薩よ」
エンゴクはさほど焦ってはいない声で呟くと、左手に持っていた紫水晶から削り出された数珠を素早い動作で眼前に突き出した。
馬車から降り立ったタンブル・ウィードが、長剣を長弓へと変えると月と闇、そして自身の魔力で造り出した矢を引き絞るのが見えたのである。
真っ黒い弓につがえられた白く輝く光の矢に込められた力が、極大魔法にも匹敵するほどのものである事に、エンゴクの肉の落ち切った口元に笑みが浮かぶ。
「なんたる力よ、百八神将護国方陣!」
一国を覆うほどの最上級防御法術を、ただ一人の己を守る為に詠唱を破棄して簡易発動し、エンゴクは狙い過たず自分に放たれた光の矢を防ぐ。
巨大な方陣の中に百八の仏神の描かれた曼荼羅が輝きを発し、邪悪な術者とは正反対の白い清浄な光が迫りくるバンパイアの光の矢と激突して、無数の光の粉に変えて防ぎ切った。
タンブル・ウィードにとって挨拶代りの一撃ではあったが、その代わり一撃に莫大な魔力を込めた一撃だった。
その一撃を完全に防ぎ切った事に、タンブル・ウィードは若干エンゴクの力量を上方修正する。
長弓を長剣へと戻したタンブル・ウィードの唇が、短い言葉を詩のように囁くのに合わせ、エンゴクは両手を合掌させて攻撃の為の呪力を一息に練り上げる。
エンゴクの呪力が驚異的な速度で高まるのと、タンブル・ウィードの姿がエンゴクの背後に突如として出現するのはほぼ同時。
直線距離にして四千メートルはあった距離を転移魔法で瞬時に詰めたタンブル・ウィードも、それを読んですぐさま背後を振り返り攻撃呪法を叩き込むエンゴクも、常軌を逸した実力者であった。
「五十二呪霊法の四十四、黒炎黒縄!」
冥界で罪人を責め立てる炎が、四十四本の縄の形状を取りエンゴクの背後に出現したタンブル・ウィードへ四方八方から迫りくる。
タンブル・ウィードはエンゴクへと向けて半ば振り下ろしていた長剣の軌道を、技と筋力で曲げるや体を旋回させて黒い炎の縄を尽く斬り飛ばした。
その間にエンゴクは座布団ごと後方へ下がり、十本の指を無数の形に組み合わせて次なる呪法を放つ。
「世界の始まりよりある火 森羅万象を焦がせ 何物をも灰とし塵と変え 灰と塵さえもさらに燃やし尽くさん 天魔燃滅!」
エンゴクは最後に左右の人差し指と薬指を伸ばして合掌し、指先を向けたその先に居るタンブル・ウィードを、未だ存在する原初の混沌より生じた最初の火が召喚され包みこむ。
あくまで物質世界で存在可能な次元にまで劣化された最初の火だが、それは真なる火、真火と呼ばれる特別な火。
物質世界に存在する森羅万象を物理と霊の区別なく燃やしつくす、火あるいは燃やす、燃えるという概念の具現。
いかな防御魔法や防具も意味を成さぬ絶対攻撃、あるいは絶対貫通と称される最高位攻撃魔法の一つである。
バンパイアやヒドラ、トロールなどのように高い再生能力を持つ者であっても、存在の根幹を成す魂さえも燃やしつくす火である為に、一度この最初の火で燃やされればその傷は魂を癒さぬ限り癒える事は無い。
これは例えタンブル・ウィードであっても同じ話で、ロイヤル・バンパイアの不滅性さえ燃やす火を受ければ、タンブル・ウィードとて灰さえ残らずに燃やし尽くされるだろう。
「むぅ、出来るものなら生け捕りに、と滅びぬと分かって放った呪ではあるが、ここまで効かぬとは」
信じられないと言うわずかな思いを含んだ言葉がエンゴクの口から零れたのは、赤々と燃える真火の只中に変わらずに立つタンブル・ウィードの影を認めたからであった。
真火の中のタンブル・ウィードが長剣を一振るいした時、森羅万象を燃やしつくす筈の真なる火は消え去り、傷一つないタンブル・ウィードの姿が露わとなる。
「なるほど、何処に隠していたものか。その鎧が貴殿を守ったようだな。しかし、それは……」
真火が完全に消え去った時、タンブル・ウィードが纏っているのは黒薔薇の意匠が凝らされた黒衣ではなかった。
その全身に、黒衣同様に光の無い闇から紡いだように真っ黒い鎧を纏っていたのである。
首元から両肩、指先までを覆う黒い装甲にはタンブル・ウィードの好む薔薇の意匠が凝らされ、腰元には装甲と同じように薔薇の刺繍が施されたスカートが裾を広げている。
スカートの下の太腿や脛、足も上半身と同様に漆黒の装甲で覆われ、剥き出しの頭以外は完全に鎧によって守られていた。
「月の光は衣に、夜の闇は鎧となりて我が身を守らん。月夜に立つ不滅王ジークライナス」
タンブル・ウィードの呟きは、その身に纏う鎧を呼び出す為の呪文と鎧の名前なのだろう。
尋常ならざる魔力と格の違う存在感を放つ闇の鎧を前に、エンゴクの黒い瞳が大きく明滅する。
それはこの老いさらばえたリッチの激しい興奮の表れだった。
「ジークライナス……! その名を冠した鎧は紛れもなくバンパイア始祖六家に伝わる六神器の一つ。
そしてこの老骨の魂さえも惑わすこの世ならざる美貌を持つロイヤル・バンパイアは、伝え聞く六家史上最強の吸血女王ドラミナ・ペイオリール・ヴァルキュリオスか!!」
「誰かにその名前を呼ばれるのは久方ぶりの事。もっとも、その名前は貴様などという不浄なる者では無くあの方に呼んで頂きたかった……」
タンブル・ウィートという偽名ではなく、真実の名前を告げられた事にタンブル・ウィードことドラミナは不愉快そうに優美というも愚かしい美貌を歪め、しかしその口から零れたのは想い人への切ない思いに揺れる乙女の声であった。
「ふむ、しかしヴァルキュリオス家に伝わる神器は無形器ヴァルキュリオスのはず。
そしてその鎧は他の六家の神器。そして他の六家の神器を扱えぬがロイヤル・バンパイアの理」
始祖六家のバンパイアが他の六家の神器を操る――このあり得ぬ筈の事態を前に、エンゴクは思考を巡らしたが答えはすぐに分かった。
歴史上ただ一人だけ全ての神器を操ったバンパイアが存在していたではないか。それはバンパイアと言う種の始まりを語る伝説の存在だった。
「そうか、始祖か。バンパイアの始まりたる始祖。貴殿は始祖に等しき存在、第二の始祖となったか。
グロースグリアの凶王ジオールに滅ぼされたものと思うておったが、生き延びておったようだの。となると、ジオールめを滅ぼしたのは貴殿かな?
拙僧の知る限り最強最悪のバンパイアと化したジオールを、三竜帝三龍皇や我が師以外の一体誰が滅ぼせるものかと思うておったが、なるほど貴殿がかの悪鬼を滅ぼしたか。
善哉善哉、滅国の女王よ、復讐を果たせてさぞや満足された事でしょうな」
エンゴクの推測通り、ドラミナはジオールが滅びた際にジオールが収集していた他の六家の神器を継承しており、更には六家の血を吸わねば扱う資格を得られない筈の他の神器を自在に操る力を得ていた。
ドラミナに思い当たる節は一つしかなかった。ジオールとの最後の戦いの直前に、ドランから与えられた血。
戦いの最中に体内にまるで太陽が生じたかのような莫大な力を授けてくれたあの血が、ドラミナの身体のみならず魂にまで作用して、その霊格を更なる高みへと導いたのだ。
既にドラミナの肉体からドランの血を飲んだ直後のような絶対的な力は失われているが、それでも以前よりも力は増し、バンパイアの始祖と同等以上の高みにまで昇華された魂からは、はるかに質の増した霊力が汲めども尽きぬ泉のように溢れだしている。
ドランの血を飲み、ジオールが滅びた事によってドラミナはこの世で唯一、始祖六家の神器を継承する資格を持った存在となったのだ。
「よもや神が鍛え上げた神の為の真性の神器をこの目にできるとは、これは望外の喜びである事よ。なんと胸の弾むことか」
カカと嬉しげに笑うエンゴクに対し、ドラミナは右手に握るありふれた造りの長剣の切っ先を突きつける。
このありふれた長剣こそが、使い手の意思に応じてあらゆる形態を取る無形の神器ザ・ヴァルキュリオス。
今はドラミナが想いを寄せる男が愛用している長剣と同じ形をしているが、宿す神性と力は紛れもなく最高位の神器として不足のないもの。
「では我が法力、呪力、魔導の技がどこまで通じるか確かめさせて頂きましょうぞ」
パン、と乾いた音を立ててエンゴクが両手を打ち合わせ、歯茎がむき出しになった口からくぐもった言葉が零れ出る。
「北を閉ざすは暗螺天 東を塞ぐは冥黄天 南を埋めるは魔響天 西を潰すは凶抗天 四方は天外の魔境となり冥魔の世とならん 六道逆輪廻・餓鬼道!」
タンブル・ウィードを中心として四方に真っ黒い炎の形状を取った異次元の力が出現し方陣を描くと、方陣内部が地上世界から隔離されて異なる世界へと空間が連結される。
大魔界に住まう邪神の力を借りた法力は、方陣内部に冥界に存在する地獄の一つから、絶え間ない餓えに襲われ、罪を償いきるまでその餓えを満たす事叶わぬ餓鬼達を召喚した。
無数の餓鬼達が寄り集まったソレは餓鬼玉と呼ばれる存在で、ほとんどの歯が抜け落ちた口だけをいくつもいくつも集めて無理矢理一つの肉塊にした、見るもおぞましい存在であった。
この世にあらざるあの世の存在として、地獄の瘴気と死の気を放つ餓鬼玉は一抱えほどのものが数十以上、方陣の中に出現している。
生ある者もそうでない者も、それが例え岩や鉄、石や木であろう口に入るものなら、満たされぬ餓えのままに食らい尽くす餓鬼玉達は、出現と同時に方陣の中に閉じ込められたドラミナに気付くと我先にと柔らかな女の肉を貪ろうと黄色く濁った唾液を滴らせる。
そのまま子羊に群がる餓狼の群れさながらドラミナに襲い掛かると見えた餓鬼玉達は、しかしながらドラミナを認識した直後に動きを止める。
餓えによって突き動かされる餓鬼玉からすればあり得ないこの行動の理由を、エンゴクはすぐさま看破してこれ以上面白い事は無いと大きく笑う。
「かっかっかっか、いやさ、ここまで来ると笑いしか出ぬ! よもや餓鬼達さえ惑わす美とは! 貴殿はまさしく魔性の美の主、魔貌とでも言うべきか」
餓鬼玉達が動きだすよりも早く、ドラミナの手のヴァルキュリオスが乱舞する光としか見えぬ速さで振るわれて、餓鬼玉を尽く寸断し蠢く汚らわしい細かな肉塊へと変える。
本来地獄に繋がれ、贖罪の最中にある餓鬼達はそれでも滅びる事は無いが、彼らが蠢動し口をぱくぱくと閉口しているのは、自分達を睥睨する吸血女王に心奪われ、一時でも飢餓を忘却しているからに違いあるまい。
「なるほど凄まじい。しかしながら餓鬼道はなにも餓鬼を招くばかりが芸ではありませぬぞ」
ドラミナは方陣から脱出するべくヴァルキュリオスに魔力を注ごうとし、方陣内部の空間そのものに新たな変化が起きた事を察した。
現在方陣内部は地獄の餓鬼道へと連結している。ドラミナは一時的にとはいえ、餓鬼道へと堕ちたに等しい状況にある。
つまり、ドラミナは足元の餓鬼玉達と同様に満たされぬ餓えに襲われ始めたのだ。
「腹が減っては戦は出来ぬと言うが、さて、バンパイアである貴殿は血への渇望にどうされる? 己の腕に牙を突き立てて己が血を貪られるのか?
バンパイアが餓えの極限にまで追い込まれたならどうなるのか、いや、これは見物よ」
餓鬼道に落ちた瞬間から飢餓は始まる。元よりバンパイアは血の飢えで死ぬ事の無い存在であるが、飢え死にする事が無い為に生きたまま果てしない飢餓に陥る事もあり得る。
だが可能性だけは論じられても、誰もが見た事の無かった実例を、それも史上最強最美のバンパイアクイーンで確かめられるのだ。エンゴクの顔は歓喜に輝いてさえいる。
しかし、エンゴクがつぶさに観察する中、ドラミナが飢餓に苦しむ様子は一向に訪れない。
そればかりか漆黒の鎧と想い人の品を真似た長剣を持つ妖美女は、その全身から方陣が軋む音を立てるほどの魔力を放出し始めたではないか。
それはエンゴクの想像を越えて高まり続け、世界を隔てる壁である方陣を軋ませている事からもどれほど非常識であるかが分かる。
そして、ドラミナがヴァルキュリオスを振りあげ、方陣のある一点を目がけて振り下ろす。
キン、と甲高い音と共に方陣が縦一文字に割れ、更に無数の罅が走って光の粒子へと変わって砕け散る。
この世と地獄を繋ぐ次元回廊さえも斬り裂く、ドラミナの常識外の斬撃だ。
地獄との連結が立たれた事によって餓鬼玉達は瞬きをする間も無く消え去り、制御を間違えればこの世の全てを食らい尽くしても止まらぬ存在が居た事など、まるで夢幻であったかのよう。
「ふむ、やはり意思ある者では貴殿の顔に惑わされてしまうか。にしてもまるで飢餓に見舞われた様子も無いのは、他の六家の神器の力か?
となれば……聖餐杯か、いや失策失策。拙僧とした事がその杯を持つ者に持久戦などと愚かな事をしたわ」
バンパイア六神器の一つ、月夜を満たす豊饒王ライヴィオラ。
それは資格を持つ所持者の霊魂、血肉と同一化して所持者の血を無限に増やして活力を与え続け、同時に餓えから解放する聖なる血の杯。
この杯の所有者となったドラミナは、いまや吸血を必要とせず常に血を供給され続ける状態にあり魔力や体力が枯渇する事は無いのだ。
「貴様こそただのリッチにしてはあまりにも強大すぎる。
事前に大規模な準備を行っていたわけでもないのに、地獄そのものを一時的にこの世に連結するなど尋常ではない」
「これでも生まれは超人種でしてな。ただ人からなるリッチよりは多少おまけがあったのですよ。
しかしリッチとはどうにも風情の無い呼び名。破戒僧とはいえここは即身仏と呼んで頂きたい」
クリスティーナやザグルス、バストレルと同様にこの枯れ果てた死せる僧もまた、人に限りなく近い超人種であったらしい。
リッチはそこまで至る要因があまりにも難しい為その個体数は極めて少なく、同様に超人種もまた血統によって発生するものではない為、稀有な存在だ。
超人種のリッチなどひょっとすればこの世界にエンゴク唯一人かもしれない。さしずめスペリオルリッチとでも言おうか。
「超人種、よもやリッチ同様に希少な種がそうなるとは。だがこれで納得も行く。
元より超人種として高かった霊格が、リッチとなった事で更なる高みに達したと言うわけか。
だが即身仏などと貴様が口にするな。
御仏の道を歩む者のみがそう呼ばれるに相応しい。魔導の探究の為に自ら不死者となった貴様に、そんな資格は無い」
「かっかっか、これは手厳し……!」
エンゴクの笑みが途切れたのは、このリッチの知覚の及ばぬ速さで振るわれたヴァルキュリオスが、距離の隔たりを越えてその左腕を肩口から斬り飛ばした為であった。
そして同時に枯れ切った肉体のみならず霊魂にもまで襲い掛かる激烈な痛みに、エンゴクの舌の根は凍りつく。
元来リッチとは物質界、星幽界に跨って存在する特殊なアンデッドだ。仮に物質界の肉体が損傷を負ったとしても、星幽界側の肉体が無事である為にすぐさま損傷は癒えるかそもそも傷つく事が無いし、その逆もまた然り。
その為、リッチに対抗するには物質界と星幽界の肉体を同時に傷つけるか、その繋がりを断って別個に対処するか、封印するなどが有効となる。
ドラミナの場合は彼女自身の霊格と神器によって、物質界と星幽界にあるエンゴクの肉体を同時に斬っている。
「おお、これは、ぐぬ。かつてこの身に課した荒行がいかに生温かったか分かると言うもの。実に貴重な体験をさせていただきましたぞ、女菩薩」
エンゴクは存在の核を成す霊魂の情報から肉体を再生しようとし、それが実行できない事から二つの世界に跨る肉体のみならず、己の魂まで斬られた事を理解し、初めての体験に高揚を覚える。
第二の始祖吸血鬼と化したドラミナは、そんなエンゴクの様子に美眉をわずかも動かさず、止めの一撃をくれるべく機を伺っている。
「さて神器たるその鎧の護りを抜くには、やはり神域の力を振るうか近しい格の神の力を借りる他ありますまい。これはまた難題である事!」
エンゴクは右手に持っていた数珠をドラミナへと投げつけると、空中で糸が切れてばらばらになった数珠の珠ひとつひとつが内包していたエンゴクの呪力を解放する。
直径十メートルに及ぶリッチの呪力は、触れた大地も風も月光さえも汚辱して負の力で汚染し尽くし、ドラミナは二十を越す紫色の光の球体の只中に飲み込まれた。
エンゴクは後方へと高速で後退しながら、右手だけで素早く印を結んでドラミナにも通用するだろう一撃を繰り出すべく呪言を連ねる。
「雷とは神鳴らす神音 天を揺るがせ 地に轟け 神よ落ちよ 神よ鳴らせ雷を ラハ・ヴァジュラ!」
かっと見開かれたエンゴクの眼前に虚空から白い稲妻が生じ、バチバチと激しい音を立てるそれは徐々に収束して長さ二メートルほどの槍の形状を取る。
呪力の解放が終わり、歪に抉られた大地が露わとなった時、そこにはエンゴクの予想通り無傷のドラミナの姿があった。
だが時間は稼げた。エンゴクの口角が大きくつり上がり、ドラミナへと稲妻の槍が投じられる。雷光の速さで迫る稲妻の槍をドラミナは縦に構えたヴァルキュリオスで受けた。
稲妻を操る高位の邪神の神威を顕現した槍の半ばまでヴァルキュリオスは斬り込み、月と夜の二神の神器と稲妻の邪神の力はごく短時間の膠着状態を造り出し、ドラミナが更にと踏み込みヴァルキュリオスの力を注いだ瞬間、二つの力の拮抗は崩れて四方へと拡散する。
標高七千メートルを越すこの霊山の上半分が内側から溢れた稲妻によって粉砕され、それでもなお物足りぬと、邪神の稲妻は夜天の頂きへと飽きることなく伸びて行く。
山麓に留まらずはるか遠方にまで稲妻が轟き、大地は地震に見舞われたかのように震える。
ドラミナとヴァルキュリオスによってラハ・ヴァジュラが斬り裂かれた時、解放された稲妻はこの大陸全土を覆い尽くしたのである。
「さしもの神器も同じ神域の力が相手では、と言いたかったものだが……」
稲妻が消え去った後、しんと静まり返った夜空には、消耗した様子こそあるが傷を負ってはいないドラミナの姿がそこにあった。
足場となっていた大地も先程の稲妻によって吹き飛び、ドラミナは背中から大きな蝙蝠の翼を広げて空中に滞空している。
「正直、貴様の事を侮っていたと言わざるを得ないようですね」
それはドラミナの偽らざる本音であった。この身に宿した神器の力が無ければ、ドラミナは再生に長い時間を要する傷を心身に負っていた事だろう。
「かかかか、これはたいそうなお褒めの言葉を頂戴いたした。もう少し踏ん張れば大人しく捕まるか、灰になってくださるかな?」
「私を前によくぞまだそのような大言を吐いたもの。その胆力に免じ、一撃で滅ぼしてくれるぞ、リッチよ」
「かか、お優しい方である事よ。同じ不死者のよしみにて見逃してはくれませぬのか?」
とはいうもののエンゴクは見逃して貰えるとは露ほども思っていないことが、声の響きから分かる。
「エンゴク、貴様は元は生ける者であったが故に一つ思い違いをしている。我らバンパイアと貴様のようなアンデットとでは不死者としての意味合いが異なる。
貴様らは生まれ持った自然なる命を失い、死を経験してなお蘇ったが故に不自然なる命を得た死なずの者。
されど我らバンパイアは死を持ってしても滅びを迎えぬ、本当の死を知らずに滅びる定めの者。
貴様らは死を知るが故に死を恐れ蘇った。しかして我らは死を知る事が出来ぬゆえに死なず滅びる者。死は我らに縁遠き者と嘯きながら、死を甘美なるかなと憧れ、恐れる」
「ほう、これはこれは。よもや女王陛下からそのような貴重なお言葉を賜る事が出来るとは、今宵はなんと素晴らしき夜である事か」
終始余裕の態度を崩さぬエンゴクは、なにもこの状況からドラミナを退ける逆転の秘策があるわけではない。
ほどなく迎えるだろう二度目の死に対する恐怖よりも、バンパイアの第二始祖と呼ぶべき存在となったドラミナへの好奇心が圧倒的に勝っている。
「ふむ、この期に及んでなお恐怖の色ひとつ見せぬのは大したもの。冥界でとくと罪の釈明を行うが良い」
「かかか、師よ! この女菩薩は思った以上に面白き存在でございましたぞ。かか、かかかかかか!」
ドラミナは愛剣ヴァルキュリオスを縦に一閃、横に一閃し、物質界と星幽界に跨るリッチの存在を呆気なく十字に斬り捨てた。
エンゴクはその存在が完全にこの世界から消滅するまでの間、滅びの苦痛など知らぬ気にカカカとひたすらに笑い続けていた。
「主と言い下僕と言い、笑いながら逝くか。これでは犠牲となった方々が浮かばれぬ」
ドラミナの言葉は月の光と夜の闇に溶けて消えた。
*
雲海を眼下に望む峻嶮な山の中腹に、豪奢な館が建てられていた。
敷地の中に広大な湖を持つ館の東屋の一つで、一人の男とも女とも見える若者が白い石材のテーブルの上に銅板の書籍を広げて視線を巡らしていた。
周囲に咲き誇る様々な色彩を持つ花弁が風に舞い散り、若者の黒髪に数枚の花弁がまるで恋する少女のように纏わりついている。
不意に若者が銅板の魔導書から視線を外し、青く澄み切った空の彼方へと映す。
若者はテーブルの上に置かれていた白磁器のティーカップを手に取り、霊水で薄めた紅茶の味を楽しんでから、溜息と共に呆れたような呟きを零す。
性別を超越した美人の物憂げな姿は、世の諸人の心を奪ってその場に足を止めさせて時の流れを忘れさせるだろう。
「ザグルスに続きエンゴクまで逝きましたか。私の弟子がこの短期間でこうも続けて逝ってしまうとは、初めての事ですね」
若者の名前はバストレル。人類最強最悪の魔法使いとして、広くその悪名と絶大なる魔法の力を知られた大魔導だ。
二十歳をいくらも越えていないと見える若々しい容貌を持ちながら、その実数百年以上を生きる超人種の大魔法使いは、エンゴクに哀悼の意を表するようにしばし目を閉じ、再び開いた時にはもうこの世に居ない弟子の事など忘れた様子であった。
バストレルが軽く右手を上げると、つい先ほどまで何もなかった筈のバストレルの隣の空間に、一部の隙も無く完璧に執事服を着こなした老人が出現する。
「各地に散った皆に一月以内に参集するよう伝令を発しなさい。これより吸血鬼狩りの準備に入ります。そう、この上なく美しく恐ろしい吸血鬼の女王を狩る為に」
老執事に柔らかな声で命じたバストレルの瞳は空の青を映さず、虹色の光に輝いていた。ドランが古神竜の力を振るう時と同じ虹色の光に。
4
あなたにおすすめの小説
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
友人(勇者)に恋人も幼馴染も取られたけど悔しくない。 だって俺は転生者だから。
石のやっさん
ファンタジー
パーティでお荷物扱いされていた魔法戦士のセレスは、とうとう勇者でありパーティーリーダーのリヒトにクビを宣告されてしまう。幼馴染も恋人も全部リヒトの物で、居場所がどこにもない状態だった。
だが、此の状態は彼にとっては『本当の幸せ』を掴む事に必要だった
何故なら、彼は『転生者』だから…
今度は違う切り口からのアプローチ。
追放の話しの一話は、前作とかなり似ていますが2話からは、かなり変わります。
こうご期待。
【完結】あなたに知られたくなかった
ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。
5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。
そんなセレナに起きた奇跡とは?
英雄一家は国を去る【一話完結】
青緑 ネトロア
ファンタジー
婚約者との舞踏会中、火急の知らせにより領地へ帰り、3年かけて魔物大発生を収めたテレジア。3年振りに王都へ戻ったが、国の一大事から護った一家へ言い渡されたのは、テレジアの婚約破棄だった。
- - - - - - - - - - - - -
ただいま後日談の加筆を計画中です。
2025/06/22
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる