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翼、異空はばたいて
翼、異空はばたいて
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風の中に雨の気配を感じて、シュリュは舌打ちしたい気分に陥った。
シュリュの茜色の癖っ毛は使い古した革の飛行帽の中に押し込められ、琥珀色の瞳は分厚いゴーグルの奥に隠れている。
今年で十七になるシュリュは年相応に女性的な柔らかさを持った健康的な体に育っていたが、今は野暮ったいデザインのツナギを来ているから遠目に見れば男か女かも分かるまい。
シュリュは腰のベルトに固定した鞄からガラス瓶を取り出して、半分程残っていた黄金の蜂蜜酒を一口飲む。
蜂蜜酒のとろりとした触感が舌に触れ、馥郁たる蜂蜜の香りが口の中に溢れ、鼻孔をくすぐった直後、シュリュの全身に酩酊と快楽の混ざり合った感覚が走る。それと同時にシュリュの瞳がぼんやりと黄金色に発光する。
蜂蜜酒、蜂蜜酒、ああ、黄金の蜂蜜酒! シュリュの肉体のみならず精神、魂までもがその知覚範囲を大きく広げ、遥かなる霊的な高次世界にも異なる法則が支配する異世界までが見通せる。
そのまま空の果て、星雲の彼方にまで飛んで行ってしまいそうになる心をどうにか宥めて、シュリュは目の前と全身をつつみこむ現実に意識を切り替える。
シュリュは今、空を飛んでいた。上を見上げても下を見敢えても、果てが存在しない無限の青空である。大地は空の中にぽつぽつと浮かんでいる大小の浮島に限られる。
そんな空に生きるシュリュの姿は、昆虫の羽のように透き通った翼を側面から生やした三角形の乗り物の上にあった。
椅子に腰かけたシュリュの腰と台座を命綱が結び、台座から伸びた二本の湾曲した棒をシュリュの手が握って操作する事で台座の後部にある舵を切り、乗り物の進行方向を操作している。
加速と減速は棒を捻る事で行い、上昇と下降は棒を上下に動かす事で行う。
この空と浮島ばかりが広がる世界で、一般的な乗り物であるフライパーだ。このフライパーに乗り、島と島との間を行き来して郵便物を配達するのがシュリュの生業なのだが、どうにも今日は具合が悪い。
今日の風に混じる雨の匂い、生き物の臭気、湿度、粘度、魔力、神性の気配、それら全てがただの自然現象ではない事を暗に示していた。
まだ雨粒の混じらない風を切って進みながら、シュリュは愚痴を漏らす。
「参ったなあ、次の島までまだ距離があるのに、あいつらが出てきたら……」
フライパーは台座部分の両脇から取り込んだ大気を内部で加熱し、放出する事で大気のある場所なら半永久的に飛行できる乗り物だが、シュリュの懸念している『あいつら』を易々と振り切れる程の速度は出ない。
あいつらの所為でシュリュのような配達人がこれまでに何人犠牲になってきた事か。シュリュはベルトに括りつけた短剣にそっと触れた。頼りない事この上ないちっぽけな短剣が、シュリュの身を守る唯一の術であった。
風に乗って漂流している大小の岩石を避け、見慣れた浮島の数々を横目に通り慣れた風の流れに乗っていると、直に気流の分かれ道を示す道しるべの柱が貫通している巨大な浮き岩が見えてくる。
ここまで来ればもう二時間程で届け先の目的地に到着できる。あいつらに怯えるのはそれまでの辛抱だと、シュリュは操縦棒を握る手に力を込め直す。
しかし、改めて集中し直し、操縦棒を握った直後にシュリュの口元に浮かんでいた笑みが引きつった物に変わった。
気が弛んだからというわけではあるまいが、操縦棒に取りつけられている後方確認用の鏡に、上空から降下して来て自分の背後を取ったあいつらの姿が写り込んだのだ。
「うそでしょ、こんな人里に近いところであいつらと遭遇するなんて」
あいつらは人間と変わらぬ肌色の体を持ち、絹のような美しい光沢を放つ白い布の服を纏い、そして首から上は奇怪な事に魚そのものであった。
何処を見ているとも判別しがたい黒目がほぼ全てを埋める瞳に、びっしりと鋭い歯の並ぶ鋭角の口。見間違いようのない魚の頭を人間達が、空をまるで水の中に居るかのように『泳いでいる』!
青光する鱗に包まれた魚の頭と女ならばたおやかで男ならば逞しい人間の体を持つこれらが、シュリュの言う『あいつら』であり、正式にはフォルマウスと呼ばれている。
シュリュは顔だけでなく全身から冷や汗を噴きながら、フライパーに掛る負担を無視して一気に加速する。
「手入れは欠かしてないんだけどな!」
ぐん、とフライパーは加速を見せるがそれでも空中を泳ぐフォルマウス達の方が速く、徐々に距離が詰められているのは傍目にも明らかだ。
フォルマウス達の瞳に殺意の色や飢餓の輝きは宿っていない。だからこそ余計にシュリュを始め、このHの領域に住まう者達にとって恐怖の対象であった。
Cの領域からやってくるフォルマウス達にとって、シュリュ達を殺害する事は意識した殺人でもなければ、食事でもない。単なる作業に過ぎないのだ。
ただ淡々と作業して殺戮行為を繰り返す、おぞましい天災ども!
フォルマウス達の頭から発せられる生臭い臭いがしたような気がして、シュリュは背後を確かめる手間すら惜しみ、右手で短剣を抜き放ち、同時に叫ぶ。
神よ、神よ、黄金の蜂蜜酒を授けてくださった我らの神よ、どうかお助けを!
「いあ、いあ、フスタールの風よ!」
Hの領域に住む全ての生命の神たるフスタールのおぞましき名を叫ぶと、短剣に込められた神の加護が発動して、背後のフォルマウス達とは別に真下から襲いかかろうとしていたフォルマウスの五体を見えざる風の刃がぶつ切りにする。
シュリュが下から聞こえてきた表現しがたい呻き声に気付き、つられてフライパーから下を覗きこめば、真っ赤な血を四方にぶちまけたフォルマウスのバラバラ死体が空の彼方へと落ちてゆくところだった。
魚頭からは分からなかったが、服がはがれて露わになった裸体が一瞬、シュリュの瞳に映り込み、自分よりも二つか三つ年下の少女だったのが分かった。
「どどど、どんなもんよ!」
年下だからどうした。あいつらはこっちを問答無用で殺しにくる相手だ。同情等欠片もしてやるものかと、大声を張り上げたのが良くなかった。
操縦に対する意識が逸れてしまった為に、背後から速度を上げて食いついてきたフォルマウスに気付くのが遅れてしまったのだ。
「っあ!?」
思考するよりも早く肉体が真っ先に動き、首から上を齧り取られるところを咄嗟に急旋回する事で、左肩の布地を持っていかれるだけで何とかやり過ごす。
目まぐるしく変わる視界と急旋回によって体の内臓が押し潰されそうになる程の負荷に襲われながら、シュリュは必死に意識を繋いだ。
蜂蜜酒を飲んでいなかったら、急旋回と同時に意識が吹っ飛んで、フライパーは操縦不能になり、フォルマウス達の牙に掛っていただろう。
一匹目を避けたところで二匹目、三匹目とフォルマウス達は群れで狩りをする魚となって、シュリュに休む暇を与えずに襲いかかってくる。
圧倒的弱者の立場に在るシュリュを弄ぼうという意識もなく、最短で命を奪おうとしているだけの動きだ。
短剣はもう駄目だ。偉大なるフスタールの加護はみだりに与えられるものではない。今の一度で加護は失われて、ただの古ぼけた青銅の短剣になってしまった。
どうにかして、自力でフォルマウス達を振り切らねば!
ガチン、ガチン、とシュリュの耳に、間近で牙と牙の噛み合う恐ろしい音が次々と届いてくる。
その度にシュリュの心臓は跳ね上がり、寿命がごっそりと削られる思いだ。寿命ばかりか神経だって削られているに違いない。
「ああ、今度は飛行帽の端を齧られた。今度はフライパーを掠めた! 買い換えたばっかりなのに、どれだけ頑張って節約したと思ってんのよ!!
ああ、くそ、くそ、こんなところで死にたくないのに。ああ、もっともっと空を飛びたいのに、もっと遠くまで、どこまでも飛んで行きたいのに!」
いつの間にかシュリュの前方へと回り込んだ三匹のフォルマウスに気付いて、シュリュの脳裏にこれまでの記憶が走馬灯のように走る。その中にこの状況を打破できる記憶があればと足掻く生存本能が見せる映像には、しかし、救いがない。
前に三匹、後ろに四匹、一体どれだけ細かく食い千切られてしまうのか、最後に考えるのがそんな事なのかと絶望するシュリュの瞳に、前方のフォルマウスの奥からこちらへと向かってくるフライパーが映る。
助けが来た? そう都合よく行く事があるのか、もしそうならば偉大な支配者フスタールへの今月の捧げものを奮発しなければ!
絶望から一転、滑稽な程歓喜に満ちたシュリュだが、そのフライパーに乗っている緑色の髪の快活そうな少女が、こちらの状況をまるで理解していない様子でにこやかに手を振っているのに気付き、再び絶望へと感情を大きく変える。
絶望、喜び、絶望と目まぐるしく変わる心模様に、シュリュは今にも卒倒してしまいそうだった。
それでも体は更なる犠牲者が出ないようにと、せめて警告を発する事を選んでいた。窮地においてこのような行動が咄嗟に出てくるのが、シュリュという少女の善性の表れだった。
「逃げなさ――」
「やあああっと人間見つけたよ! 良かった、良かった!!」
元気の塊のような声がシュリュの鼓膜を盛大に叩き、ついでパチン! と小気味よい位の指を弾く音が続き、その音はいったい何だったのか、フォルマウス達の首が一斉に跳ね飛ばされた。
まるでしっちゃかめっちゃかな脚本で動く演劇の一幕みたいな突然の事態に、シュリュの口からは言葉にならない単語の羅列が零れ出る。
「は、え、あえ?」
綺麗に魚の頭と人間の体の部分で斬り分けられフォルマウス達が海中に沈むように、空の下へと落ちてゆく姿を見ながら、シュリュは気付いていた。
黄金の蜂蜜酒によって拡張され、鋭敏化された霊的知覚能力が、眼前の少女が起こした風によって、フォルマウス達の首が断たれた事をシュリュに理解させていたのだ。
「か、かぜ、風の刃であいつらを?」
自分に言い聞かせるように事実を口にするシュリュの左側に、先程の少女が見事な操縦でフライパーを横付けした。
「そうだよ~。ぼくは風の扱いに掛けてはちょっと自慢できるのさ!」
いつの間にか距離を縮めていた少女の顔には、自慢気な表情が浮かんでおり、その陽気さがつい今しがたまで死を覚悟していたシュリュの心の緊張を瞬く間にほぐしてくれた。
シュリュより三つか四つは年下だろうか。フライパーで浮島間を飛ぶ的には欠かせない飛行服と所々髪の毛が零れている飛行帽も若草色だ。首には真っ白いマフラーを巻き、腰に小さめの鞄を括りつけている。
「えっと、た、助けてくれてありがとう?」
「あははは、そこは疑問に思わなくっていいよ。あの生臭連中はぼくも嫌いでね。助けるつもりで助けたんだから、変に心配しなくっていいとも!」
大声で笑い飛ばす少女の様子に毒気を抜かれて、シュリュはこの少女を信じる事にした。
これで騙されているようならば、それは自分の見る目がなかったのだと諦める他ないだろう。そう思わせる人徳のようなものが目の前の少女にはあった。これで詐欺師だったら、世の誰であろうとも騙せるに違いない。
「ところで、私は見ての通りの配達人なのだけれど、貴女は?」
シュリュは左の二の腕に巻いた配達人の腕章を見せながら問う。
「ぼく? ぼくはねえ、旅人だよ。観光客って言い換えてもいいね。一つのところに留まっているのが出来ない性分でね。年がら年中、色んなところを見て回っているのさ。でもここらへんはほとんど来た事がなくって、ちょっと迷子になりかけていたんだよね」
「迷子……じゃあ、そこにフォルマウスに追われている私がやってきたって事?」
「そーそー、なぁんか、上から生臭いのが来るのが見えたから大急ぎで行ってみたら、君が追いかけ回されていたってわけ。助けたいから助けたってのもあるけど、それに加えて道を教えて欲しいっていう下心もあったのさ!」
「そう、そうなの。どっちにしろ、私は助けられた側だし、改めてお礼を言わせて貰うわ。ありがとう。それじゃあ、私の行き先はセエナっていう図書館都市なのだけれど、貴女もそこに行くので構わない?」
「うん、問題ないよ、ありがとう! 遅れちゃったけど、ぼくは、うん、トラブリって呼んでよ」
「トラブリ? ここら辺ではあまり聞かない名前ね。遠くから来たって感じがするわ。私はシュリュよ。それにしてもトラブリの風の扱いはすごいわね。
ウェディゴやビャーキイでもないのに、あそこまで風を操れるなんて、フスタールの御加護が相当強力なのね」
「うん? フスタール?」
「あら、貴女の生まれたところでは違う呼び方? このHの領域の支配者にして王たる神の御名じゃないの。
本当の御名は私達の喉では発声出来ないから、フスタール以外にもフスタタ、ハストゥル、ハースターとか、地方毎に呼び名が違うから、聞き覚えがない事もあるのでしょうね」
「あはは、そうそう、それだよ。それにしても自分を崇める者達が違う名前で呼んでも許してくれるなんて、懐が広いよね!」
シュリュはトラブリが何か苦笑している風なのが気に掛ったが、構わず話を続けた。神が寛大であるのには同意だったからだ。
「ええ、そうね。黄金の蜂蜜酒と空を飛ぶ手段を私達にお与えになり、大図書館から知識や技術をお分けくださる偉大なる神」
「うんうん、そうそう、そうだったね。いやいや、ぼくって忘れっぽくてね。このHの領域はそういう場所だったよ。ははは、『■#$~』は上手くやっているねえ」
感心した様子で言うトラブリの言葉の中に、何か聞くに堪えない、金属を無理やり引き裂いたような音が混じったのに、シュリュが盛大に顔を顰めた。
何だ、トラブリは何を口にしようとした? トラブリは何と口にした? 何かの単語、名前、動作? 何を、ナニを?
トラブリはシュリュに聞かせるべきではない名前を聞かせてしまった事に気付き、先程から大きかった声を更に張り上げる。
「いやー、フスタール、フスタール、フスタールね。ここでは神様の名前はフスタールと呼べばいいんだよね。シュリュのお陰で一つ勉強になったよ、あっはっはっはっは!」
「え、あ、ああ、そう、そうね。緊張が解けたせいか、ちょっとぼうっとしちゃったみたい。これじゃフライパーから落っこっちゃうわ。
それじゃ、気を取り直してセエナに向かうわよ。フォルマウスから逃げる為に無我夢中だったから、ちょっと気流から外れてしまったけれど、三時間もあれば着くでしょ」
「そうかい、ならそれまでの間、君の身の安全はぼくが保証しよう。」
正気に戻ったシュリュの様子に、トラブリはこっそりと安堵のため息を零して、シュリュの先導につき従ってセエナという図書館都市とやらを目指す。
トラブリにとって別にどこに行こうとも構わないのだが、取りあえず今回の目標は決まったし、何やら騒動の切っ掛けになりそうな子とも接触できた。これから奇妙奇天烈な風が吹くだろう、とトラブリは機嫌よく口笛を吹くのだった。
幸いにしてこれ以上のフォルマウスの襲撃はなく、シュリュとトラブリの二人組はセエナ図書館都市へ予定通りの時刻で到着できた。
シュリュとしては到着予定時刻を一時間以上超過しての到着であったが、途中でフォルマウスの襲撃があったとなれば、それも仕方のない事と仕事の評価に傷はつかなかった。
むしろよく生きて無事に荷物を届けてくれたと、荷物である石板を受け取った係の者から称賛された位である。
シュリュが荷物を届けている間、シュリュは図書館都市を田舎から上京してきたおのぼりさんそのままに、周りの光景を楽しげに眺めている。
セエナに限らず図書館都市とは文字通り、スエラノ大図書館の分館としての機能を有しており、スエラノ大図書館に収蔵されている書物の写本を収蔵し、またあるいは大図書館に送られる前の書簡や石板を精査する機能と役目を有する。
その性質上、図書館としての機能性こそが第一であり、都市としての居住性等は二の次だ。
それを証明するように都市の住人達の住居は、巨大黒いブロックを積み重ねられた本棚の中に埋もれるように建てられており、その周囲を大きさも形状も様々な書籍や巻物、石板に銅板、水晶上の物体などが埋め尽くしている。
シュリュのような人間以外にも円錐形の色とりどりの奉仕種族が本棚を忙しくなく行き来して、目録の確認や整理整頓に勤しんでいた。
「ふんふむ、ふんふむ、図書館都市とは言い得て妙な名前だね。■#……じゃなくってフスタールがどこまで図書を重視しているかっていうと、かなり疑問だけどさ。まあ、ここの人達が言うところの『C』の連中よりはいいかな?」
「おおい、トラブリ、お待たせ!」
トラブリが背中を預けていた黒いブロックの扉が開き、配達物の受け渡しと事情説明の終わったシュリュが顔を見せる。
「お疲れ様。仕事は問題なかった?」
「ええ、今回は事情が事情だからね。それで、トラブリは何か面白い物を見つけられた?」
「この図書館都市自体が面白いもので構成されているよ。今んところは見ていて飽きは来ないかな。でもお腹は減ったな! シュリュはここでどこか美味しいものを食べさせてくれるところを知らない?」
「それなら私がいつも通っているところがあるから、そこに行きましょう。私はこのままセエナで一泊してゆくけれど、トラブリはどうするの」
「そうだね、せっかくだからぼくも一泊位はしていこうっかな。何から何まで君に頼って申し訳ないけれど、宿も教えてくれると嬉しいな」
「貴女は命の恩人なのだから、それ位はどうって事ないわよ。それじゃ、まずは腹ごしらえからね。もう良い時間だし、満席になる前に席を確保しないと」
「おーし、急ごう!」
「おー!」
シュリュが案内したのは配達人を始め、島と島とを行き来する者達向けの安価な宿の一つだった。
Hの領域において仕事は全て公営――支配者たるフスタールへの奉仕に連なると定められている為、所謂サービス業の価格設定は買い換えたばかりのフライパーの修理費用の見積もりを見て、顔を引きつらせたシュリュにはありがたいものとなっている。
図書館都市を構築している黒いブロックの中をくりぬいた中に、食事処兼宿屋『琥珀の羽』はあった。シュリュと同じように配達人の身分証である腕章を着けた者や、司書の下働きをしている者達が詰めかけていて、五十人分の席は八割方埋まっている。
床や天井ばかり机もブロックと同じ素材で作られており、開け放たれた窓から差し込む夕暮れの光と天井から無数に吊るされたランプが食堂を照らし出している。
シュリュもそうだが、誰もかれもが黄色や黄金、琥珀色の瞳をしていて、これは先祖代々黄金の蜂蜜酒を摂取し続けてきた影響だ、とトラブリは気付いた。まあ、トラブリにとってはどうでもいい事である。
シュリュは慣れた様子で受付の中年の女性に話しかけて、トラブリの分まで部屋を取ってくれた。そのまま店員に案内された三階の部屋に荷物を置いて、飛行服を着替えてから一階の食堂で腹ごしらえだ。
シュリュは黒いシャツと深緑色のズボン姿で、トラブリも色が上下とも薄緑色と言うだけでシュリュと全く同じだ。どちらも柄などはない簡素極まりない意匠だ。洒落っ気の欠片もない。
「おばちゃん、とりあえず黄銅の蜂蜜酒をジョッキで二つ。それに適当におすすめを持ってきて!」
通い慣れているシュリュに注文を任せたトラブリだが、他にも何があるのかなとメニューに目を通す。
Hの領域の住人が愛飲している蜂蜜酒だが、最高のものは神々とその眷属から下賜される『黄金』の蜂蜜酒で、そこから『白金』、『銀』、『黄銅』と格が下がるようだ。
まもなく冷たい水の粒をいくつも滴らせたジョッキが運ばれ、羊肉を中心とした串焼きや揚げ物、生野菜のサラダ、羊のチーズがずらずらとテーブルの上に並べられてゆく。
「おお、いいねいいね、お腹がぐーぐー鳴るよ。それにしても羊肉が山盛りだね」
「フスタールは羊飼いの神でもあるから、Hの領域では家畜と言ったら羊だし、羊といったら家畜よ。やだ、そんな事も忘れたの? ド忘れにしてもひどいわね。
さあ、食べましょう。今日の疲れを癒し、明日への活力とする為には何はともあれ食べて飲むに限るわ。まずは蜂蜜酒よ、蜂蜜酒!」
「ははは、周りもそうだけれど皆、蜂蜜酒が好きだね」
シュリュ達以外の客も飲んでいるのは羊のミルクか蜂蜜酒、あるいは蜂蜜酒を使ったカクテルばかりだ。他の酒の類は一切注文されておらず、そもそもメニューにも存在していなかった。
「そりゃあね、私達にとっては命の水、最も身近な神の恩寵ですもの。好み以前に呼吸をするのと同じで、飲むのが当たり前のものよ。旅人とはいえHの領域の住人なら、貴女だってそうでしょう」
「まあね。幸いぼくにとっては好きな味だし。それではシュリュの仕事が終わった事とお互いの無事に」
「それと新しい出会いに」
乾杯! と二人の少女の声が唱和して、ジョッキの中身は見る間に少女達の喉が鳴るのにつれて、胃袋におさまるのだった。
シュリュは、黄金の蜂蜜酒と比べればどうしても味は落ちるが、確かに微量の魔力が込められた黄銅の蜂蜜酒を次々と胃の奥に流し込みながら、向かいに座るトラブリと他愛無い話に耽っていた。
他の客達は皆自分達の話に夢中で、ただの配達人と旅人の会話を気にも留めていない。
幼げな外見のトラブリだが酒には強いようで、物ごころついた時から蜂蜜酒に浸かって生きてきたシュリュに負けず劣らずの勢いで蜂蜜酒を空にしている。
「そういえばシュリュのフライパーは随分と古かったわね。もし思い入れがあるようだったら悪いけど、物を大事にするのにも限度があるんじゃないの?」
「まー、見た目はボロっちいし、乗っているぼくよりも見ている方が不安になっても仕方ないよね。でもぼくにとっては長い付き合いの相棒さ。元々は不時着でもしたのか、半分壊れて土に埋もれていたのを引っ張り出して、どうにかこうにか修理したんだぜ。
手間暇かけて、苦労もした分、愛着はひとしおだよ。あれで見た目も中身も古いったらありゃしないけれど、ぼく専用に調整してあるからね。他人にはガラクタでもぼくには最高の相棒なんだ」
「へー、簡単な修理なら誰だって出来るけど、壊れたフライパーをもう一度問題なく飛べる位に修理するなんて、中々難しい話よ。トラブリって器用なのね」
「ありがと。フライパーで空を飛ぶのが気に入っていてね。旅人っていうか風来坊をやっているのも、好きなだけ好きなように空を飛びたいって考えがあるからさ。風来坊っていいよね、ほら、風来ってさ。風と共に来るって解釈できるでしょ?
まあ、定職につかずにあっちをふらふら、こっちをふらふらとしているもんだから、色々と言われる事はあるんだけれどね」
「自由人ねえ。でも空を飛ぶのが気に入っているっていうのは、私も分かるわ。私が司書業務や神官職に就かずに配達人をしているのも、フライパーで色んな場所を飛び回れるからだしね」
「神の影響か、ここの領域の住人は誰だって空を飛ぶのが好きって言うか、ごく当たり前の事として受け入れるけど、君はその中でも一等突き抜けているのかな」
「かもね。時々、どこまでもずっとず~っと空を飛び続けていたいって思う事があるくらいなのよ。フライパーじゃなくって、自分に翼が生えてどんな所へも風のように飛んでゆく事が出来たら、どんなに良いだろうって」
「んん、なるほど、それは大いに共感できるよ。ここは飛ぶものにとって過ごしやすい、あるいは都合が良いように作られているから、好きなだけ飛んで行けるならそりゃあとってもいいだろうな」
心の底から共感した顔を見せるトラブリにシュリュは機嫌を良くしたが、これ以上言葉を重ねると流石に周りの客達に咎められるかもしれないと声を小さくする。
「話が合うわねえ。皆、空を飛ぶのは嫌いじゃないけれど、それよりも神への奉仕が第一だって言うから、あまり声を大にしては言えないのよ」
「まあ、ここに限らず『領域』の住人というのはえてしてそういうもんさ」
最初からそう創られた、連れてこられてからそうされてしまったのが、目の前のシュリュを含めた各領域の住人達なのだと、トラブリは言葉にはせず、胸の内で呟いた。
「君のその夢が叶うにせよ、配達人として働くにせよ、Cの領域の連中とのイザコザがひと段落するまでは、安心して空を飛ぶ事も出来ないだろうね」
「Cの領域の連中との争いは今に始まった話じゃないし、それこそ私達人間が生まれる前からの話だから、連中との争いが無くなった状態っていうのはちょっと想像がつかなかったりするの。これも声を大にしては言えないけどね」
「どっちも総大将がしぶといからねぇ。でも最近の感じだとあっちは随分と大胆な攻勢に出ている様子らしいじゃない」
「私みたいな下っ端には想像しか出来ないけれど、きっとウェディゴのエルダーやロードビャーキー、それに王が対策を考えているわよ。これまであいつらを滅ぼす事は出来なかったけれど、あいつらも私達を滅ぼす事は出来なかったのだから」
「それじゃあ、終わらない堂々巡りだなあ」
うんざりとした調子であけすけに言うトラブリに、シュリュは心から同意した。Hの領域の住人としては落第ものの返答だが、不思議とトラブリ相手になら口にしても大丈夫だと感じられる。
シュリュよりもトラブリの方が、遥かにHの領域の住人らしくない雰囲気を持っているからだろう。
「だからって滅ぼされるわけにもゆかないもの」
「それもそうかあ」
「そうよ~」
「そうだねえ、あっはっはっは」
何がおかしいのか誤魔化すように笑いだしたトラブリにつられてシュリュも笑い出し、二人は手に持ってジョッキに並々と注がれている蜂蜜酒を一息に飲み干した。
それからも更にお互いのこれまで見聞きしてきた場所の話をし、お腹がいっぱいになるまで蜂蜜酒を呑み、美味なる料理に舌鼓を打ったシュリュは実にいい気分のままベッドの中に潜り込んだ。
明日は断腸の思いでフライパーを修理に出し、財布の中身をうんと軽くしてから配達人の仕事を見つくろって、このセエナ図書館都市とおさらばだ。
トラブリという気持ちの良い命の恩人ともお別れになるが、シュリュ以上に自由な気風のトラブリとはまたどこか別の場所で再会できるのではないかと、密かに期待していた。
「ああ、良い夢見れそ」
暖かな布団に包まれて、まどろみに誘われたシュリュは本心から疑いもせずにそう信じて子供のように無邪気で、無垢な願いを口にした。
眠りに落ちた意識が次に覚醒した時、シュリュの体内時計は睡眠時間が三時間だと告げた。重く感じられる瞼を開くと、こちらを覗きこむトラブリの顔があった。彼女に肩を揺さぶられた事で、目を覚ましたらしかった。
「やあ、シュリュ。眠っているところ悪いんだけど、すぐにこの都市を離れるよ。そうしないとまずい事になりそうだからね」
「ここを離れるって、一体どうして?」
穏やかではないトラブリの発言に完全に目が覚めたシュリュは、上半身を起こしながらトラブリに問いかけた。もう頭の中に残っていた眠気は吹っ飛んでいる。
トラブリはそんなシュリュの手を引っ張り、ベッドから半強制的に引きずり出しながら簡潔に答えた。シュリュを起こしに来るまでの間に、返答を考えていたのだろう。
「単純明快な話でね。ここ、Cの領域の連中に襲われている最中なんだよね」
「……へ、え、ええ!? 嘘でしょ、こんな大きな都市に連中がやってきているの!」
「本当の本当だって。そこの窓からちょっと外を覗いてごらんよ。分かりやすくCの連中が空を塞いでいるから」
トラブリが手を放してくれたのに合わせ、シュリュは大急ぎで部屋の窓へと駆け寄る。
そんな、まさか、とトラブリの言葉を受け入れられない理性が叫んでいたが、緑色の少女の言う通りに空を見上げれば、見間違いようもない魚頭のフォルマウス共がうようよと蠢いて空を塞ぎ、我が物顔で虚空を泳いでいるではないか。
ああ、そればかりか!
「うっそ、空に海が出来ている。海が空を塞いでいるの!?」
まさにそうとしか表現できない光景が、この図書館都市の空に発生していた。既に夜になり世界は暗黒に呑まれているが、それでも図書館都市では休まずに働く奉仕生物と夜勤の司書達が居る為に、無数の照明が灯されて場所によっては昼間と変わらぬ明るさだ。
そのお陰もあって、シュリュには底といってよいのか、終わりの見えない膨大な水の層が空いっぱいに広がっている異常な光景が見えてしまった。
シュリュが『海』と表現したのも無理のない巨大なスケールの水が、確かに重力に逆らって存在している。海中を悠々と泳ぐ多種多様なフォルマウス達の姿に気付き、シュリュは背筋に悪寒を走らせた。
「これは、ちょっと、どうしようもないんじゃない」
急速に胸の中で広がる恐怖と絶望に精神を脅かされるシュリュの口元には、もはや笑うしかないと引きつった笑みが浮かんでいた。
そんなシュリュとは対照的に、トラブリはフォルマウスの大群と彼らの領域が突如として出現した事を何ら脅威と認識していない様子で、シュリュの肩を軽く叩く。
「ほらほら、都市の住人の大部分は戦うつもりらしいけれど、君に戦う力なんてないでしょ。だったらさっさとここから逃げて生き延びるに限るよ」
「そうね、そう、そうだけど、私達だけ逃げ出すなんて」
「気に病む必要はないと思うよ。さっき、司書の一人がそこら中を飛び回って、配達人は荷物を受け取ってからセエナから逃げるようにって叫んでいたからね。
ここに残って足止めをする者と奪われるわけにはいかない貴重品を持ち出す者とで、役割分担をしているってわけさ」
「な、なるほど」
「多分、Cの領域の連中にとってあんまり嬉しくない代物が図書館都市で見つかったか、作り出したかしたんだろうね。それを察して一気に攻め落としに来たってところかな?
どうあれ、ここから逃げ出すのが一番ってのには変わりないけれどね。さ、荷物を持って、着替えて、そしたらフライパーのところへまっしぐらだ。分かった?」
既に着替えを済ませて荷物も足元に置いてあるトラブリに、シュリュは首の関節が壊れたかのようにブンブンと縦に振って答えた。
シュリュが着替えている間に事態は一気に加速を見せて、夜の静寂を打ち破る争いの喧騒が図書館都市全体に響き渡り始めている。
フォルマウス達からすれば頭上の海をそのまま図書館都市にぶつけたいところだろうが、それは図書館都市を覆うフスタールの加護が阻んでいる為、絶対的に有利な場での戦いが出来ずにいるようだ。
頭上の海から飛び出したフォルマウス達が次々と図書館都市へと落下してゆき、あちこちで図書館の警備をしていた戦闘担当の司書達と戦いを始めている。
着替え終えたシュリュがトラブリ共々他の宿泊客達に揉まれながら外に出た時、プンと鼻孔の奥まで入り込んできた磯の臭いに、シュリュはヤバイと本気で悟った。
Hの領域であるこの図書館都市で、Cの領域側である磯の臭いがしたのだ。この場の支配権がC側に乗り移りつつある確かな証左となる。今はまだ空中だけで済んでいるが、市内にも強い影響が出始める予兆だろう。これはヤバイ。
修理前のフライパーを預けていた屋根付きの駐機場に辿りつき、エンジンに火を入れて暖機する間も惜しみ、表通りに飛び出す。
「うっわ、大惨事じゃないの」
頭上のみならず都市でも、全身が魚の鱗に覆われて、より神に近付いた大型のフォルマウス達と司書の変身したウェディゴやビャーキー達が死闘を繰り広げている。
毛むくじゃらの巨人の姿をしたウェディゴ達は都市に降り立ったフォルマウス達に勇猛果敢に挑みかかり、フォルマウスの牙が自分の首筋につきたてられても意に介さず、長く白い毛に覆われた腕をフォルマウスの首に回すと、的確に彼らの呼吸器官である鰓を塞ぎつつ一気に締めあげ始める。
天空は海に塞がれたが、図書館都市の市街はまだフスタールの加護が機能しており、ウェディゴ達に有利に働いているのだ。
ガラス片のように細かい牙の生えそろったフォルマウス達に全身を齧られながら、一体のウェディゴが一匹また一匹とフォルマウス達を捕まえて、その頭を握り潰している。
白かった毛並みは瞬く間にフォルマウスの返り血で染まり、血染めのウェディゴ達が次々と増えている。
市街はフスタール側が優位であったが、頭上の戦いは逆に若干不利であった。既に空は『空』ではなく『海』へと変わりつつあり、まだ水が降りてきていない筈の空中でも、よく見れば気泡がぶくぶくと生じ、フォルマウスと戦うビャーキー達の体が濡れているではないか。
かろうじて呼吸は出来ているが、Cの影響が強くなれば水もないのに『空中で溺れる』羽目になるだろう。
蝙蝠のような翼の生えた蟻の如き外見を持つビャーキーが、人間の如き皮膚と目と口それぞれに牙の生えそろった蛸足が絡みつき、断末魔を上げる暇もなく全身を貪られる様を見て、シュリュはその惨さに言葉を失った。
堪らず足を止めてしまったシュリュを再起動させたのは、やはりトラブリであった。常人ならば何度も発狂を繰り返す異形の戦場の中にあって、この少女は顔色を変えるどころか冷や汗一つかいていない。
強靭な精神力と称えるべきか、状況同様に正気とはいえぬ感性の持ち主なのか。
「ほら、足を止めないの、シュリュ。フライパーの操作に集中しなよ」
「あ、ああ、そうね。よし、まずは司書達の庁舎へ行きましょう。そこでここから持ち出す資料を受け取って全力で逃げるわ!」
「ええ~、資料は受け取んなくてもいいんじゃないの?」
「他の配達人が資料を受け取っているっていうのに、私だけ手ぶらで逃げたら沽券に関わるわ。でもこれは私個人の矜持の問題だから、トラブリは逃げていいわよ」
「もう、そんな風に言われてはいそうですかって置いて逃げたら、兄妹達に何を言われるかわかったもんじゃないよ。それじゃ、さっさと行こうよ」
「ええ!」
二人のフライパーは弾丸のように飛び出して、ポツポツと降り出し始めた海水の雨の中を突き進む。
降り立ったフォルマウス達と迎え撃つウェディゴやビャーキーらの戦闘の余波によって、図書館都市の書架と家屋は次々と破壊されて、二人は降り注ぐ巨大な書籍や石板に銅板、黒いブロック片の隙間を縫うように飛ばなければならなかった。
シュリュは、目と鼻の先に巨大なブロック片が落下し、粉塵と衝撃波に煽られたフライパーを必死に立て直して庁舎を目指す。
時折周囲を見渡せば、自分達のように庁舎へと向かう他の配達人の姿が見え、そのうちの何人かがフォルマウス達に群がられて、殺される場面がちらほらとあった。
「シュリュ、右九十度に急旋回!」
有無を言わさぬトラブリの命令に、シュリュは何故と思う間もなく従った。
「!!」
相棒には相当な無茶をさせる形になったが、急旋回したシュリュをかすめるようなギリギリの位置に上空から一匹のビャーキーが墜落してきた。
全身をフォルマウス達に齧り取られ、肉の内側が露出して悪臭を放つ血が絶え間なく溢れだしている。急旋回の勢いを殺すのに苦戦し、咄嗟にその場で停止したシュリュが止めていた息と緊張と共に吐き出すと、息も絶え絶えのビャーキーに話しかけられた。
フスタールの祝福によって人間から変身したビャーキーは、変身後でも問題なく人語を操る事が出来る。
「そ、そこの配達人、よ。これを、これを王へ。キングイエローへと、届け、よ。これ、これこそ、C達の狙う…………だ」
ビャーキーは、自分の命よりも重要であると固く抱きしめていた四角い物体をシュリュへと差し出す。
黄ばんだ油紙で包まれたそれは、書籍のようにも石板のようにも見えるが、フスタールの化身たるキングイエローへの品となれば、軽率にその中身を確かめる愚は犯せない。
最悪の場合、包装を解いて中身の品を見た瞬間に発狂する可能性だってある。
シュリュへと手を伸ばした姿勢で息絶えたビャーキーに、シュリュは一秒だけ瞑目する事で敬意を示す。
フスタールの配達人として、何としてもこの荷物をキングイエローへ届けなければならない、そう使命の炎に燃えるシュリュが手を伸ばした矢先、横から伸びたトラブリが荷物の上に小さなメダルを置いた。
トラブリの突然の行動にシュリュは目を丸くしたが、荷物の上に置かれた物体の方が彼女の意識を引く。それはシュリュの見た事のない意匠をしていた。
「これは、七芒星? いえ、一角が二股に分かれているから八芒星?」
「本当は角が七つなのだけれど、七つの内の一つは二つだからね。だから、一つが二つで七芒星は八芒星になるんだよ」
トラブリの言う内容は、その意味が分かる者にとって、特にそれが大魔界に属する者であったらこの上ない恐怖と絶望に直結するものだったが、幸いにしてシュリュにはさっぱり要領を得ない内容だった。
「?????」
「あんまり気にしなくていいよ。とにかくこれはぼくのとっておきのお守りだから、持っといてよ」
「……ありがとう」
「うん、素直でよろしい」
シュリュはビャーキーから預かった荷物を鞄の奥へと仕舞いこみ、落としてしまわないようにロープで厳重に自分の体と鞄を結ぶ。一秒が惜しい緊張感に苛まれる中、作業を終えて再びフライパーを加速させる。
事態は刻一刻と図書館都市側の形勢が不利となっていっており、落下してくるビャーキーの数が次々と増している。有利であった筈のウェディゴ達も息苦しさを感じている様子を見せ始め、動きもまるで水の中に居るかのように鈍くなってきている。
「こんなに早く都市が追い込まれるなんて!」
「不意打ちなんだから仕方ないよ。あっちは入念に準備してきたんだろうしね」
Cの側の性質上、火の手はほとんど上がっていないが、地響きを立てて崩れる書架や倒れ伏すウェディゴにビャーキー達の姿を見れば、もはやこの図書館都市の陥落は時間の問題でしかない。
二人が都市の外縁部にようやく到着し、少しずつフォルマウス達の上げる気色悪い咆哮が遠ざかり、シュリュは少しだけ自分に安堵する事を許した。
キングイエローの座します大図書館までは決して楽な道のりではないが、何としてもあの息絶えたビャーキーから託された使命を果たさなければならないと、シュリュの瞳には決意の炎が燃えていた。
「ぱっちん!」
トラブリが右手で指を鳴らすのと同時に、二人に頭上から襲いかかってきた上半身が烏賊のフォルマウス達の体が真っ二つになる。
シュリュを救った時と同じ鋭い風の刃が、二人をCの眷属達の脅威から守っていた。
「シュリュは前だけ見ていて。襲ってくる連中は全部ぼくが片づけるから! それ、パッチンパッチンパチパッチン!」
小気味よく指を鳴らす音が連続し、シュリュの持つ何かに気付いたのか殺到してくるフォルマウス達のぶつ切りが周囲にぶちまけられる。
「そい! せい! はい! どりゃ! おりゃ! むりゃ! ほいっと!」
面倒くさくなってきたのか、指を鳴らすのを止めて、トラブリは全方向に視界が開かれているかのように、四方八方から急速に襲いかかってくるフォルマウス達を悉く返り討ちにする。
二人は水中に投じられた血の滴る新鮮な餌で、フォルマウス達はそれに群がる肉食魚の大群という構図が出来上がっている。二人がすぐさま跡形も残さずにフォルマウス達の胃におさまらないのは、ひとえにトラブリの異常なまでの戦闘能力にある。
既にCの影響が強くなっているこの場所で、これだけ強力な風の力を立て続けに行使できるトラブリをシュリュが怪しまなかったのは、トラブリの明朗快活な人柄と恩人を怪しむ精神的余裕がなかったからだ。
この調子なら脱出できるとシュリュが思った瞬間を狙ったかのように、トラブリがのんびりと聞き逃すわけにはいかない言葉を口にした。それは前だけを見ていたシュリュが思わず背後を振り返る程の内容だった。
「ありゃあ、シュリュ、海が落ちてくるよ」
「は、え、はいぃ!?」
思わず振り返ったシュリュの視線の先で、これまで図書館都市の上空を埋め尽くしていた膨大な量の海水が、ついに都市へと目掛けて降り注ぎ始めたのだ。
海が空から落下してくるという一瞬自分の目と正気を疑う光景に、シュリュはフライパーの操作を忘れかけたが、落下した海水が尋常ではない速度で自分達に迫って来ているのに気付くと、さっと顔色を青くする。
「なによ、あの海水、速過ぎる!」
「Cが生み出した海水だ。音より何倍も速く流すのなんて、欠伸をする位に簡単だろうね」
何を呑気に――そうシュリュが抗議するよりも早く、見る間に距離を詰めていた膨大な海水がシュリュを逃すまいと飲みこんだ。シュリュに、抗う術はない。
誰もが言う。
私達の血も肉も骨も髪も、命も心も神の為にあると。
皆が言う。
信仰を捧げよう、尊敬を捧げよう、魂を捧げよう、思想を捧げよう。
父も母も友も、見知らぬ誰かも言う。
私達は全て神により選ばれた。神により生かされている。神に与えられた命、神に生かされている命。だから私達の全ては神たるフスタールの為にある。
でも、ああでも、そうだと頷く自分の心の中に、でも、と何度も繰り返し呟く別の自分が居る。
自分以外の全員が口を揃え、それが正しいと、絶対であると信じて告げる言葉に納得しない自分が居る。それだけではないはずだ。それしかないわけがない。自分は、それは嫌だといつも心のどこかで叫んでいるのだ。
フスタールなど知った事か。信仰など知った事か。望んでもないのに押し付けられた思想も、信仰も、クソ食らえ!
私はここではない何処かの空を、何時までも飛んで行きたい。青い空の果ての果て、どこまでも高く、どこまでも遠く、風になって空に溶けるように飛んで行きたいのだ。
だから、フスタールへの信仰も崇敬も使命も、私には邪魔でしかない。私を縛る鎖なのだ。手足に嵌められた枷なのだ。何時の日にか必ず引き千切ってやる、壊して、放り捨てて、自由に羽ばたいてやる!
――そこまで叫んで、目が覚めた。
シュリュの途切れた記憶の最後の光景は、頭上から降り注いで図書館都市を丸ごと飲み込む膨大な海水の津波。図書館都市を根こそぎ洗い流し、逃げる自分達をも飲みこまんと迫る壁のような灰色の海水だ。
アレに飲み込まれれば圧倒的な質量と速度によって五体は粉砕されるか、あるいは海水の中を泳いでいたフォルマウスに襲われていたに違いない。
意識が途切れる寸前に抱いた恐怖がどっと蘇り、シュリュは荒い息を吐き出しながら、周囲に視線を巡らせる。最後まで傍らに居た頼もしくも不思議な風来坊トラブリの姿を求めたのだ。
ひょっとしたら自分がフォルマウスに捕まったのではないか、という恐怖を感じて咄嗟にトラブリが居れば、彼女は無事だろうかと考えたのである。
しかし、シュリュに返ってきた声はトラブリとは似ても似つかぬ、力強く張りがあり重厚な響きを持った男性の声だった。
「闘志むき出しの唸り声だったが、どんな夢を見ていたのかね?」
思わず声の発生源を振り返れば、倒木に腰かけた巨漢の老人がシュリュの方を向いていた。
黒眼鏡をかけたその老人は、灰色のトレンチコートを纏い、銀製の鷲の飾りの着いたステッキを左手に握っている。
トレンチコートとその下のブルーのスーツを押し上げる肉体は衣服越しにも鍛え抜かれているのが見て取れ、活力に満ちた声と合わせて“衰えた”という印象が一切ない。
「ゆ、夢は見ていないです、はい」
シュリュからすれば怪しい事この上ない老人であるが、不思議と警戒心は湧いて来ず、老人の声が雰囲気からしてシュリュを案じているらしいのは確かだった。
シュリュが改めて自分の置かれた状況を確かめてみれば、三方を崖に囲まれた狭隘な場所で、野営用の寝袋の上に寝かされていたらしい。
老人とシュリュの間には焚火とその上に置かれて、湯気を噴いている金属製のポットがあった。嗅いだ記憶はないが、芳しい香りが辺りに広がっている。
状況を考えれば津波に飲まれて流された自分を、この老人が助けてくれたと解釈するべきだろうか。少なくともあの状況でシュリュが自力で助かる術は存在しない。
その考えがシュリュの顔に出ていたのか、老人が微笑して今に到るまでの事情を説明してくれた。あっという間に相手の懐に入り込む術に長けた微笑だ。
「私がここで休んでいたら、もう一人の少女が君を連れてやって来たのさ。私も少しばかり手を貸したが、君の介抱をしたのはそちらのお嬢さんだよ」
「やあやあ、シュリュ。無事に目を覚ましたようで何よりだ!」
聞こえてきた元気な声を振り返れば、老人とは違い、岩の上に立って、むふーと大きな安堵の息を零したトラブリの姿がある。
傷一つなく服にも乱れた様子はなく、何時もと変わらぬ元気いっぱいなその姿に、シュリュは言葉にならなかった息を吐きだした。
「あ、ああ、あ~~~~」
「なにそれ? はっはっは、さてはぼくのピンピンした姿を見て気が弛み過ぎたな? 可愛いじゃないのさ」
けらけらと笑い、トラブリは岩の上に腰を下ろした。
「私は本気で心配したのよ! でも、無事でよかったわ。それにそちらの紳士がおっしゃるには私をここに連れて来てくれたのもトラブリだって言うし、借りが出来ちゃったわね」
「君と僕の仲なんだから、気にしなくていいさ。君を休ませる場所を提供してくれたのは、こちらの紳士こと」
「ラズルベリィだ。何があったかは知らないが、取りあえず今はゆっくりと体を休めたまえ。トラブリ君はそんな必要は無さそうだがね」
ラズルベリィと名乗った老紳士の意見には、シュリュもまったくもって同意だった。トラブリは出会った時から一度も疲れた様子を見せた事がなく、死ぬまで元気で居続けるのではなかろうか。
ラズルベリィは金属製のカップを手に、そこへポットから黒い液体を注いだ。更にカップへ角砂糖を二つ程投入してから、シュリュへと差し出す。
「勝手に砂糖を入れてしまったが、構わなかったかね? コーヒーだ。喉は渇いていないかね?」
「コーヒー?」
「ん? ああ、そうか。この領域、いや、ここら辺では出回っていない飲み物だったのを忘れていた。素晴らしい香りだろう。初めて飲む人間にとっては苦いかもしれないが、口に合えば幸いだ」
先にラズルベリィからコーヒーをご馳走になっていたトラブリが、三分の一程残っているカップの中身をシュリュに見せながら、からからと小気味よく笑う。
「香りが素晴らしいのは同意だけれど、何も加えずにそのままだとぼくには苦いね。ミルクを足して砂糖か蜂蜜を入れて飲むのが一番好みに合っているよ」
「好みは人それぞれだからな」
ラズルベリィとトラブリの視線に促されて、シュリュは砂糖入りのコーヒーに口をつけた。一口含んだ瞬間から鼻孔までをあっという間に満たす香ばしい匂いに目を細め、慣れない苦みとその中に混じる砂糖の甘さに目を白黒とさせる。
飲み慣れない人間には、トラブリのようにミルクなり飲み慣れたものを加えた方がよさそうだ、というのがシュリュの偽らざる感想だ。
「確かに苦いですね」
「ふふ、初めてコーヒーを飲めば、そういう感想になるだろう。どうしてこんな苦いものを、とまで言われなかっただけ、良しとしよう。ではご友人のお嬢さんに倣ってミルクを加えるかね? 山羊のしかないが……」
まるで、山羊以外に乳を搾る家畜が居るかのようなラズルベリィの言葉に、シュリュは知的な容貌と雰囲気を併せ持つ老紳士が何を言っているのか、理解に苦しんだ。
「? ミルクは山羊から搾るものですよね?」
シュリュを含めHの領域の住人にとっては至極当たり前の事を口にすると、ラズルベリィはコーヒーのように味わいのある苦みを交えた笑みを零した。自嘲らしきものがほんのわずかに含まれている。
「ああ、ああ、そうだ。そうだとも。ここでは山羊のミルクしかない。フスタール神の領域であるが故に、山羊しかいないからね。牛の姿は見られないのだったね」
「ウシ?」
まるでトラブリと会話をしている時のようなちぐはぐさに、シュリュは小首を傾げる。
ラズルベリィはそんなシュリュの様子には構わず、山羊のミルクを入れた金属製の水筒を差しだした。先程から惜しげもなく振る舞ってくれているが、どうやってこの恩を返そうか、とシュリュは考えて、ささやかな疑問を忘れる。
トラブリに倣ってミルクを加えると、コーヒーは随分と飲みやすくなった。引き換えに多少温くなってしまったが、それでも体を温めてくれるだけの効果はある。
「そういえば、私達はあの津波に飲まれたのに、よく助かったわね」
シュリュはコーヒーを飲み干してから改めて自分達の状態を確かめて、しみじみと呟いた。体が濡れている様子もないし、服だって乾ききっている。
シュリュとトラブリは、現在、飛行服のインナー姿に毛布を巻き付けたスタイルだが、二人の肌も髪もさらさらと乾いた状態を維持している。
「そこはほら、ぼくが君と自分の周囲に小規模な風の壁を作ってね。津波に流されるままにはなったけれど、体が濡れるのだけは死守したよ」
「そう、改めてお礼を言うわ。ありがとう、トラブリ。貴女には何度も命を助けて貰ったわね。どうやって借りを返せばいいのか、頭の痛い問題だわ」
「ははは、まあ、良いってことさ。ぼくが助けたくて助けているのだからね。借りとして数えるのは、君が明確にぼくに対して助けてって言った時だけでいいよ」
「それ、私に都合が良すぎない?」
「ぼくにとってはそれでいいの。君にとって都合が良すぎたとしても、ぼくからすればぼくの心が一番納得する形を通しているのだから、ぼくにとっても都合の良い選択肢なんだよ? だから気にしなくっていいとも!」
「何だか、貴女に頼ってばっかり。何時の日にか自分では何にも出来なくなる日が来てしまいそうで怖いわ」
「ありゃ、それはよくない。とてもよくないよ、シュリュ。人間は何時だって自分の足で立ち、自分の理性と知性で自らを律せられるように心掛けるべきだ。実際に出来るか、出来ないかは、まあ、人それぞれとしても心掛ける位の事はしなきゃ」
「分かっているってば。だから危機感を抱いているんじゃないの。ああ、何だか、トラブリが何時も通りで安心したら、眠くなってきちゃった。今って、何時位なのかしら?」
「ん~、夜明けを少し過ぎた位かな。お腹は減っているだろうけれど、とりあえずもう一回寝ておいたら? また目を覚ました時にお腹を満たせばいいさ」
「じゃあ、お言葉に甘えようかしら。でもお昼になる前には起こしてね。ラズルベリィさん、もう少しだけこの寝袋をお借りしてもよろしいでしょうか」
「いや、それ位は構わないよ。私はもう一泊してゆく予定だからね。気にせずに体を休めると良い。とんでもない体験をしたばかりで心身共に疲れきっているだろう」
「ありがとうございます。何から何まで甘えてしまって……」
直にシュリュからは健やかな寝息が聞こえ始め、早々に彼女が夢の国に旅立ったのがトラブリとラズルベリィには察せられた。
トラブリは残していたミルク入りのコーヒーを飲み干して、ラズルベリィに曇りのない笑顔を向けてお礼の言葉を口にする。
「コーヒー、ご馳走様。それにこの焚火とシュリュの寝袋も、ありがとう。お陰でシュリュをゆっくりと休められたよ」
「それは何より。うむ、ぐっすりと眠っている様子だ。コーヒーはあまり口には合わなかったようで、少々残念だがね」
「ここでは飲めない品だったからね。水と山羊のミルクと蜂蜜酒位しか知らない舌には、ちょっと難しい飲み物だよ。そう残念がる事もないさ」
「うむ、そう考えるとしよう。さて、コーヒーがこのHの領域では飲めない物であると知る君は、一体何者なのだね?」
これまでの穏やかな雰囲気がわずかになりを潜め、ラズルベリィの左手がステッキを握る力がわずかに増す。
たちまちの内にラズルベリィの体内を高濃度の魔力が循環するのを感じ取り、トラブリは楽しげに笑みを浮かべる。あるいは、可愛い事をするものだと、“圧倒的な上位者”として微笑ましく感じたのかもしれない。
「ぼくの正体を問う君もまた何故コーヒーをこの領域に持ち込めたのか、この領域には存在しない牛を知っていたのかと、君と同じ疑問をぼくも抱かざるを得ないわけだけれども。
なんて事はない。君はこの領域やC、Y、Iとかの領域の住人ではなく、地上世界からその英知と魔術によって、Hの領域を訪れた正真正銘の人間なのだろう?」
ラズルベリィは誤魔化す事の無意味さを悟っていたらしく、正直に答える。眼前の少女の何が自分にそうさせたのかは、この老紳士自身にも分からない事だった。
「驚いたな。見ただけで分かるものなのかね? それなりに探知を誤魔化す為の手筈は整えているが。ああ、失言は重ねてしまったか」
「はは、失言はうっかりだったという事にしておこう。今回は見た時に分かったよ。ぼくは兄妹に比べると特別目が良いわけじゃないけれど、君達よりも色んなモノが見えるからね! 君もその目で見えていた時には見えなかったものが、今は見えているのだろう?」
「う、む。かつてこの領域を訪れた私は、図書館の一つでフスタール神の蓄えた知識の一端を垣間見た。それを断章という形で著した事もあったが、私は見たそれに耐えきれずに我が目を抉り出し、光を失った。
もはや我が眼は春の訪れと共に咲いた花を映す事はない。夏の暑い日に立ち昇る陽炎も。秋の夜を照らす満ちた月の姿も輝きも。冬の寒い日に大地を覆い尽くす雪の白も。
全ては代償だ。人間の身で神の領域の知識を得た事の代償が、我が両の眼だったと納得する他あるまいよ。そのお陰で私はフスタール神の力を借りる魔術や、他の領域の神々に対する対抗手段を知り、人々に伝える事が出来るのだからね」
「なるほど、殊勝なものだ。だが、それでも失った光景を惜しむ気持ちはあるだろう?」
ある意味で容赦のないトラブリの指摘に、ラズルベリィは苦笑を浮かべる事すら出来なかった。初めて会う人間ではないナニカである少女は、これ以上なく的確にラズルベリリィの心の奥深くを抉り抜いてきた。
「参ったな。こうまで容赦なく言い当てられると笑う事も出来ん」
「我ながら失礼な物言いをしたものだと呆れているけれど、ごめんね! 大丈夫、大丈夫、君にとってその惜しむ気持ちはとぉっても大事だよ。その気持ちを忘れずに持ち続ける事が、君が魔道に堕ちず、狂気に染まらず、人間のままで居続ける秘訣って奴さ」
「……これは、思いもかけない事を言われたものだ。失ったものを惜しむ気持ちこそが人間で居続けるのに必要、か。貴女は随分と幼い外見をしているが、その能力といい、やはりどこかしらの神性に類する御方か?」
「神性、神性ね。う~ん、そう言われると結構違うんだけど、そういう風に勘違いされる事もあるなあ。立場的にはなんだろうなあ、君達人間にとっては味方よりの中立、中庸? 的な感じだよ。積極的に君らに害を成そうとは欠片も思っていないけれどね」
トラブリの言葉を何処まで信じるか、という疑問はラズルベリィの中にはなかった。底の読み取れぬ眼前の少女が、真実神性に類するか比肩する存在であるのならば、ラズルベリィにわざわざ偽りを述べる必要などあるまい。
記憶を適当にいじくり回すか、精神を破壊する方が余程簡単だろう。
「疑う気持ちが微塵も湧かないのは、やはり次元の違う相手だと魂が理解しているからなのか。では問わせていただきたいが、何故、この少女、シュリュでしたか。シュリュに肩入れを? このHの領域の住人がどういう存在かはご存じでしょう」
はっきりと言葉遣いを変えてきたラズルベリィに、トラブリは陽気な笑みを浮かべてあっけらかんと答えた。偽りを口にする必要がない程、彼我の格が違うのもあるが、そもそもトラブリの性格が根本から嘘を吐くのに向いていないのだ。
「まあねえ、芯から徹底的に尽くす奉仕種族を一から創造することだって出来るのに、わざわざ地上から攫ってきた人間達に思想の刷り込みを施して信者に仕立て上げているってんだから、趣味が悪いったらありゃしないよ」
「しかし、その悪趣味の結果であるこの領域の住人を助けておられますが?」
「はっきり言うと贔屓だね!」
「贔屓」
「そうとも贔屓さ。このHの領域の住人は先祖の代から長く黄金の蜂蜜酒を飲み続けたのと、この領域に住み続けた事で遺伝子と魂双方の段階で、フスタールの色に染まっている。
人間である前に、Hの領域の存在に変容していると言えるわけだね。ぼくがこの領域に来てから見た人間達は、全員がフスタールの命令一つでウェディゴやビャーキーになる事を粛々とかつ嬉々として受け入れる精神が出来あがっていた」
トラブリが語るように、このHの領域に住まう住人達は、フスタールかその眷属達からの思念一つで即座に異形の怪物へと変貌するだけの要素を備えた存在へと変わってしまっている。
普段は人間とまるで変わらぬ仕草を見せ、日常を重ねるが一度有事とあれば全員が人間の姿と心を捨てて、フスタールの眷属への道を歓喜しながら走り切るのだ。
だが、トラブリは唯一見つけた例外たる少女を、慈しみの眼差しで見る。
「けれどもこの子は、シュリュだけは違う。この娘は、もしそう命じられたとしても躊躇し、抵抗を見せるだろう。抵抗がまったくの無意味であるのは残念だけれど、抵抗するだけの叶えたい夢を抱いているからね。
そしてシュリュの抱く夢はぼくにとって、非常に共感しやすくてかつ親愛の情を寄せるに足るものだった。
なのでぼくは、シュリュがHの領域の住人である前に人間である事、共感出来る夢を持っている事。この二つを理由としてこの子を思いっきり贔屓しているのさ」
「数多いHの領域の住人の中で、彼女だけを特別視しているというわけですか。成程、それは贔屓以外の何物でもない」
堂々と贔屓している、と宣言するトラブリの態度たるや、いっそ清々しい程だ。他のHの領域の住人からすれば、シュリュのような不信心者を、と憤るかもしれないが、そんな相手にトラブリは思いっきり“あかんべえ”の一つでもするだろう。
「そーいう事。ぼくにとってシュリュは君とて似たようなものさ。魔道の徒ではあるが、それ以前に人間としての善性と良心を良しとしている君とね」
「そう言われると、はは、年甲斐もなく照れますな。しかしここ最近、Cからの攻撃が大分活発化していますが、必然的に貴女もCとHの争いに関わらざるを得なくなるでしょう。どこまで介入なさるのですか?」
「CとHのどっちにも貸し借りはないし、因縁も興味もないから、ぼくが気に掛けている内はっていうひどい前提の上で、シュリュの気が済むまでは付き合うさ。出来れば穏便な方向で、シュリュの夢も叶えてあげたいとも思っているよ」
「まだ私には貴女がどれ程の、あるいはどこの世界からの来訪者か測りかねていますが、真性の神を相手に随分と余裕がおありの様子ですな」
「まあね。ぼくもこれで結構古いんでね。それにしてもここら辺の領域の連中は自分が腰を上げるよりも、眷属や信者を使っての争いが好みだねえ。自分達自身で決着を着ける方が手っ取り早いだろうに。
ラズルベリィ君、君も厄介なのに巻き込まれたと思ったらすぐに地上に帰りなさい。それがちょっと間に合いそうになかったら、YIの領域にでも逃げ込むと良い。くれぐれもYIの方だよ? Yじゃないからね」
「YIというと蛇の神ですか」
「そそ。彼は自分とこの信者と蛇に無体を働かなければ、他所者が羽を休める位は許してくれる度量があるし、人間にも理解しやすい恩恵と庇護を与える、ここら辺じゃかなり珍しい高次存在だからね。
他の領域の連中の追手の目を晦ますなり、一休みするなりする時の選択肢の一つに入れておくと良い」
「ますます貴女が何者であるのか興味が湧いてきますが、安易に興味に突き動かされては痛い目を見ると学んできましたからな。これ以上の質問は控えましょう」
「そう? ぼくは探られて痛いお腹はないから気にしないけどな」
「では前言を撤回する事になりますが、シュリュが大事に抱えているモノについて少々。私が気付いているのですから貴女ならとっくに把握しておいででしょう。あれは……」
ラズルベリィの言うアレとは、図書館都市で瀕死のビャーキーからシュリュに託された油紙に包まれた物体の事だ。シュリュはトラブリに介抱されている間も決して手放そうとはせず、少しばかりトラブリをてこずらせた。
何が包まれているのかは、トラブリもラズルベリィも直接確かめてはいないが、超常の力を持つ二人には、既にシュリュに託された物が何なのか把握できているらしい。
「言わずもがな、いや、言わぬが花だよ、ラズルベリィ君。キングイエローの元までアレを届けるのが目下の目的で、そこから後、シュリュがどうするのか、どうしたいのかが、ぼくの最大の関心事だ。
シュリュは中を見て良いとは言われていないし、キングイエローの元へ運んで行った先で、自分が何を運んだのかを知るべきだろう」
「貴女がそのようにお考えなのでしたら、私からは何も言いますまい」
「物分かりが良くてよろしい」
トラブリは上機嫌にウィンクなどしてみせた。ひどく下手くそなウィンクであった。
シュリュがトラブリに起こされたのは、頼んでいた通り昼前の時間帯だった。
空腹を刺激する良い匂いがシュリュの眠っていた神経を盛大に乱打して、ぱっちりと目が開いたもので頭の中は実にすっきりとしている。ただし、お腹が空いた、という言葉が頭の中で乱舞しているけれども。
ラズルベリィは昼食に関しても面倒を見てくれて、シュリュは配達人に必須の味気ない保存食を齧らずに済んだ。
組み立て式の簡易テーブルを三人で囲み、手早く調理した昼食を摂る。
分厚く切った羊肉のハムを焙ってから蜂蜜を塗り、そこにマスタードを足してトーストにしたものを口いっぱいに頬張り、シュリュは食欲が満たされてゆく幸福を堪能した。
シュリュの旺盛な食欲を見て、ラズルベリィは微笑ましそうに目を細める。トラブリはと言えば、こちらもシュリュ同様にラズルベリィから提供された、握り拳大のゆで卵に塩を振って食べている。
ラズルベリィは薄めに入れたコーヒーを飲みながら、これからの予定についてシュリュに尋ねた。
「君達はこれからどうするのだね? 大図書館に向かうとは聞いたが、そこまでの道程はかなり物騒な事になっていると思うぞ」
「Cの連中がかなり本腰を入れて攻めて込んできているみたいだからね。H側としては不意を突かれた感じなのも、後手に回っている原因だ」
ゆで卵を食べ終えたトラブリもラズルベリィと同意見だった。つい先日、図書館都市の陥落する現場に居合わせたシュリュも、心の底から同意できる話だ。
Cの側の攻撃が都市一つで済むとは思えないし、最近、フォルマウス達の行動が活発化していたのだって、C側の大攻勢の前兆だったのだろう。
「その話をするなら、個々が具体的に何処かを教えて貰えると助かります」
図書館都市を水没させた津波に流されてここに辿りついた以上、シュリュが自分達の居場所を把握していないのは当然だ。
それもそうかと用意の良いラズルベリィは懐から地図を取り出して、現在位置を指で指示した。三人が居るのは円柱の形をした浮島で、中心部まで盾に走っている亀裂の中に身を潜めている状態だ。
「我々が居るのがこの島だ。ここから大図書館までは道中にいくつか村や町があるが、図書館都市がフォルマウスの大群に襲われたとあっては、無事かどうか怪しいな」
ラズルベリィの言う通り、大図書館に辿りつくまでの道のりには大小の村や町の名前が書かれているが、先日、シュリュとトラブリを襲った奇禍を考えるとこれらの町も無事とは考え難い。
Cの側が本気でHの領域の壊滅を目論んでいるのならば、フスタールの化身の一つであるキングイエローの抹殺は重要な目標の一つだろう。そうなると当然の事ながら、キングイエローの座する大図書館を目指して侵攻を進める事になる。
その大図書館を目指すとなれば、近づけば近づく程にその危険度もまた比例して高まるのだ。ラズルベリィはそれを理解しているか、と視線でシュリュに問いかけた。
「この状況で大図書館を目指す危険については、分かっているつもりです。それでも私はHの領域の住人として、フスタールに奉仕する義務があります。何としてもあの荷物を、大図書館のキングイエローに献上しなければ」
Hの領域の住人らしからぬ、とトラブリに気に入られているシュリュだが、いざという場面に追いやられるまでは、生まれた時からHの領域の掟と教義を教え込まれて育った為に、自分の生命よりもフスタールを優先する言動を取るようだ。
トラブリはそれが面白なくて顔を顰めたが、ラズルベリィはそれを見なかった事にして言葉を重ねる。コーヒーは空になっていた。
「そう答えるだろうとは思っていたが、実際にそう言われるとな……。ふむ、ならば私も途中まで同行しよう。私は故あって大図書館に足を踏み入れる事の叶わぬ身だが、道中の護衛ならば出来る」
「え、でも、危険なところに行くわけですし、これ以上ラズルベリィさんにお世話になるわけには行きません」
ラズルベリィの提案をとんでもないと首を横に振って遠慮するシュリュに、ラズルベリィは年長者の包容力に満ちた笑みを浮かべる。苦み走った大人の渋みのある笑みだ。
「ふっ、このまま君達と別れてどうにかなってしまうのではないかと、気を揉む方が私にはよっぽど苦しい事だ。それに肝心要の大図書館の中にまでは足を運ばないのだから、気にしないでくれたまえ。むしろ中途半端な事を、と責められても仕方ないと思うよ」
「チュウトハンパな事をー!」
と冗談めかした口を挟んだのは、これまで黙って話を聞いていたトラブリである。ラズルベリィの提案が余程お気に召したのか、にこにこと笑みを浮かべている。
子供そのもののトラブリの行動に、ラズルベリィは気を悪くした様子はなく、それどころか更に笑みを深めてみせた。どこまでも大人の余裕を持った男だ。
「ふふ、そうそう、トラブリ君のようにね」
「う、ううん、トラブリは大胆過ぎるというか図太いというか、一緒に居ると頼もしいけれど気苦労が積もるわ」
「わっはっはっは、気苦労を掛ける分、襲いかかってくるフォルマウスは千切っては投げ、千切っては投げて蹴散らしてみせるとも!」
実際、トラブリの実力の高さに関しては、目の前で実証されたのでシュリュとしてはぐうの音も出ない。出ないのだが、うむむむ、と唸る位の事はする。
「うむむむ、反論できないのが腹立つ~。でも頼りにしている!」
「うん、素直でよろしい! どんどん頼ってよ。ぼくは頼られれば頼られる程調子に乗って、調子に乗れば乗る程、力を発揮する子なんで!」
この時ばかりは、シュリュとラズルベリィの心境は一致していただろう。
いっそ清々しい程の馬鹿正直さだが、なんとも小憎らしい! と。そして小憎らしくもその小さな体がどうしようもない程頼り甲斐があるのも事実なのだから、頭の痛い事だ。
兎にも角にも現在位置と今後の行動方針の大まかな枠が決まり、昼食も済んだ後はいざ行動に移るのみである。
食器類を片づけ、火の始末を終えてから、ラズルベリィは大きな岩の向こうへと二人を案内した。大岩の影になって見えていなかった向こう側には、シュリュとトラブリのフライパーと巨大な乗り物らしい物体が鎮座していた。
「私のフラリン~!」
シュリュは修理に出す予定だった長年の相棒の姿に、思わず愛称を叫びながら抱きついた。おいおいと涙を流しながらフライパーに頬ずりをするシュリュの姿には、さしものトラブリも思わず叫ばずにはいられなかった。
「え、フラリンって言うの、そのフライパー? 初耳!! まあ、愛用の道具に強い愛着を持つのは良い事だよ、うん」
「ここでは半身と言ってよい程に身近な道具のようだから、彼女の反応もそう珍しくはないのだがね」
よっこらしょ、とこればかりは外見の年齢に相応しい声を掛けて、ラズルベリィが愛機の後部にある収納スペースへ荷物を仕舞いこむ。
シュリュとトラブリのフライパーがあくまで一般規格に留まるのに対して、ラズルベリィのそれは非正規品か完全オーダーメイドのワンオフ品であるのは明白であった。
ようやく愛機への頬ずりを止めたシュリュが、それを見て感嘆の声を上げる。
「うわ、でっか。これって、カスタムメイド? でも、私の知っているどのフライパーの面影もないし、特注の一品ものですか?」
「ああ、私の足兼翼だよ。その名をゼファー!」
シュリュ達の使用するフライパーが台座に翼の生えた外見をしているのに、ラズルベリィのゼファーは全長四メートルに達しようかという巨大さだ。
船をひっくり返したような機体を覆う深い青の装甲は徹底的に研磨されて眩い輝きを纏い、機首は猛禽類の頭部を思わせる円形の線と鋭さを兼ね備えている。
特にシュリュの目を引いたのは機体前後の左右から伸びる、四つのブレードホイールだ。
機体の青とは異なる白銀の輝きを纏うそれは、通常のフライパーではまずあり得ない部位である。
「こりゃまたイカツイなあ。大抵のフォルネウスは跳ね飛ばせそうというか、この物騒な車輪でミンチにでもするのかい?」
「必要とあらばね。勝手ながら、君達のフライパーの調子を確かめさせて貰ったよ。図書館都市から脱出する際の無茶で、多少痛んでいる部品が目立ったが、私の方で修理しておいた。
問題なく飛べる筈だが、途中で不具合を感じたらすぐに言ってくれ。勝手に修理した張本人として責任を取らねばならないからね」
「修理まで! 本当に何から何までありがとうございます」
「なに、紳士として当然の事をしたまでだよ」
それに、ようやく出会えたまともな人間だからね、とラズルベリィが口にせず、胸の内に留めたのをシュリュが分かる筈もなかった。トラブリは、まあ、なんとなく察していてもおかしくはない。
愛機の具合を確かめ終えて、三人そろって出発の準備を進める事になった。その最中、シュリュが飛行服へ着替えていると、おもむろにトラブリが近付いて来て、シュリュが護身用に携えていた短剣を差しだしてきた。
「あれ、私の短剣じゃない。いつの間にって、ああ、介抱してくれた時かしら?」
「いやあ、すっかり渡しそびれちゃってごめんね。ぼくの方で加護を込め直しておいたからさ、今度からは一回こっきりじゃなく何度か風を使えるから、バンバン振り回すと良いよ」
「え、嘘、本当? 加護をもう一度与えて貰う為に、神殿に行かなくっちゃって思っていたんだけれど、トラブリってそんなことまで出来ちゃうの?」
「あっはっはっは、どうだ、すごいでしょ!」
ちなみにトラブリは一言もフスタールの加護とは口にしていないのだが、シュリュは加護と言えばフスタールのものと思い込んでいるから、何の加護が与えられたのか疑問にすら思っていない。
トラブリもトラブリで、そんなシュリュの勘違いを知っているのにも関わらず、そのままにしておくのだから困ったものだ。トラブリとしてはお気に入りのシュリュが、フスタールを感じさせるものを手にしているのが気に入らないから、という理由だろう。
シュリュの元にフスタール以外の加護が込められた短剣が渡り、着替えも終わった事で出立の準備は整った。それぞれの愛機の心臓に火が入り、水の魔性が闊歩し始めた空へと三人は飛び出した。
「さあ、それでは行くとしよう。願わくは道中が平穏であらんことを」
ラズルベリィの平穏を願う対象がフスタールでない事を知ったなら、シュリュはどんな顔をした事だろうか。
浮島から飛び出した三人はシュリュを真ん中に左をトラブリが、右をラズルベリィが固める横並びで速度を合わせて飛ぶ。
緑と青の斑模様の大空には、無造作に千切って浮かべたわたあめのような雲が浮かび、何時もと変わらぬ風景に、シュリュは先日の図書館都市の一件が夢か幻であるかのように思えた。
「ねえねえ、シュリュ~。シュリュはこれまでどんな風に暮らしてきたの? ご両親や家族は? ちなみにぼくは七人兄妹で親はいないよ~」
「え? ええ、私も親は十四の時にいなくなったから、もういないわ。いなくなったと言うか出ていったというか。兄妹はいないわ」
「んん? 悪い事聞いちゃったかなあって思ったけど、なんか違うニュアンスの返事だね?」
首を捻るトラブリに、Hの領域の事情について詳しいラズルベリィが補足を入れた。
「シュリュ君が言っているのは、ご両親が人間ではなくなった事ではないのかね? お亡くなりになったわけではないが、人間ではなくなり、自分の前からはいなくなってしまったという事情では?」
「ええ、まあ、ラズルベリィさんの言う通りです。私が配達人になって、一人でも暮らしているようになったのと、神託が下った時期が一致してね。
両親は私に財産の全てを残してから、それぞれウェディゴとビャーキーに姿を変えて、フスタールの眷属の末席に名を連ねる事になったわ。だから居なくなりはしたけれど、死に別れたとは違うってわけ」
「ふうん、人間ではなくなった、か。それってさ、死に別れるより良いのか悪いのかは言及しないけど、きつくなかったかい?」
「トラブリは本当、なんていうか遠慮がないって言うか人の心の中に踏み込んでくるわね……。普通なら口を噤むか話したくないって断るところなんだけれど。でも、そうねえ、きつかったわ。
ウェディゴやビャーキーになって、フスタールのお傍に近づく事は紛れもない栄誉であるのだけれど、私は悲しかったし寂しかったわ。なんでかしらね。
周りの人達は皆、父と母を褒め千切って、素晴らしい、栄誉な事だって言うんだけど、どうしても心から共感は出来なかった。これって私の方がおかしいのよ。それにとうの両親がこの上なく喜んでいたんだもの。だから私も喜ばないといけなかったんだけど……」
トラブリは黙ってシュリュの話を聞き続け、その横顔をじっと見つめ続けた。
「ぼくはそんなシュリュが好きだよ。ここの領域の他の住人達みたいに、フスタールの為に魂の一片まで捧げるのを喜びとするのを、ただ黙々と受け入れるっていう姿勢はちょっとどうかと思うわけで」
「トラブリ、そう言ってくれるのはとても嬉しいけれど、私達以外の人達にそんな事を言っちゃだめよ。それって、ものすごく不遜で不敬な話なんだから、聞いた全員が顔を顰めるかなんて事をって殴りかかって来てもおかしくないのよ?」
「なあに、それ位の空気はぼくだって読めるさ!」
本当かな? とシュリュは大いに疑問に抱いたが、本人がここまで自信満々に言うのだからと、寛大にも信じてあげる事にした。
この上なく頼りになるトラブリであっても、簡単には信じられない言動というものもまた確かにあるのだ。
一時はしんみりとした雰囲気になったものの、それから間もなくトラブリは何時もの陽気で無邪気な少女に戻り、道中に賑やかさが戻った。
幸いにしてフォルマウス達の影を見ずに空を飛び続ける事が出来たのは、翌日の昼過ぎまでだった。
これまで通り風を切って大図書館近くに続く気流に乗っていたシュリュの頬を、どこからか振ってきた雨粒が叩き、途端にひんやりとした冷気と磯の臭いがシュリュを襲ったのである。
「雨、ううん、この磯の臭いは……!」
「ふむ、なるべく主要な気流を外れて飛んできたが、流石にそろそろCの連中の侵攻ルートと重なり始めるか。さあ、シュリュ君、トラブリ君、ここからはいささか荒事が待ち構えているぞ。用意はいいかな?」
瞬く間に近づいてくる異界の瘴気と磯の臭い、そして寄せては返す波の音に、シュリュは大きな音を立てて唾を飲み込む。
見上げた空の向こうには、ああ、何という事だろう! 浮島を呑みこみながら広がり続ける灰色の海が広がっているではないか。無数のフォルマウスや巨大な水棲生物達が生みの中を泳ぎ回り、時折、飲みこんだ浮島に群がっては土や木々を問わず貪り食らっている。
いったいどれだけの島や住人達がこの海に飲み込まれ、命を落とした事だろう。思わず身震いするシュリュの恐怖に呼応するようにして、視線の先に広がる分厚い海からザアザアと激しい音を立てて海水の豪雨が降り注ぎ始める。
皮膚に穴が開きそうな勢いで降り注いでくる豪雨は、逃げ場のない広範囲に及んでおり、フライパーの全速力でも回避が間に合わない速さだ。
もうだめだ、と本能的に死を理解したシュリュを救ったのは、彼女を中心に全方位へと突如として生じた風の壁だった。
「シュリュ~、お守りをあげたぼくに感謝してよね」
「え、は、あ、ああ! 貴女のくれたお守りのお陰なの!?」
「そそ。これ位の雨なら死ぬまで降られても、君を濡らしやしないよ。さて、シュリュは大図書館へ向けて全速力! ぼくとラズルベリィ君は気持ち悪いのを片づけるのに集中って事で!」
「それが妥当だろうね。そうら、私達の臭いをかぎつけたフォルマウス達が群れを成して押し寄せて来ているぞ。あれで、魚を始め海の中の生物は嗅覚が鋭いからな」
ラズルベリィの言う通り、広がり続ける海の中から小さな湖程の水たまりが分離して、内部で蠢く数百、あるいは千にも届こうかというフォルマウス達ごと、シュリュ達を目指してフライパー顔負けの速度で迫ってくるではないか。
「トラブリ、ラズルベリィさん!」
「一刻も早くフスタールの勢力内に逃げ込むのが最善手だよ、シュリュ。そこまで君を守りきればぼくらの勝ちだ。この状況で君が真っ先にするべきは?」
「っ、それは、トラブリの言う最善手通りに行動する事。それが結局は三人全員が助かる道に繋がるから!」
「良く出来ました。なら、その通りに行動してくれるかい」
「分かった!!」
自分の無力さへの苛立ちからか、怒鳴り返したシュリュが、全速力でフライパーを飛ばすのを見届けて、トラブリはにしし、と悪戯猫のように笑う。
トラブリはシュリュを先に行かせる為にわざとフライパーの速度を落とし、ラズルベリィに散歩にでも行くような気軽さで声を掛けた。
「さあ、ラズルベリィ君、ぼく達はシュリュに傷一つ着けないのを目標に頑張ろうか」
「うむ、大図書館から事態に気付いたフスタールの眷属が来るまで、早ければざっと三十分程。年老いた身では多少の無茶をしなければなりませんが、御身ならば話は別ですかな?」
シュリュの耳には届かない距離であるから、ラズルベリィのトラブリに対する態度はいずこかの神性に対するものへと改まっている。
トラブリはその変化を気にした様子はなく、水たまりの中から弾丸のように飛び出してきたフォルマウス達に目を向けている。Cの領域の影響力が増している証左にか、フォルマウス達は今や全身に鱗を纏い、全身に纏う魔力の質も一段階、二段階も向上している。
トラブリにとっては誤差の範疇でしかないが、ここまでC側がH側に食い込んでくるなど、滅多にない事だったろう。これもまたトラブリにはどうでもよい事であるが。
「健康を維持する為の適度な運動の範疇かなあ」
「食後の散歩程度ですか。では。ダグォンやハイドアラが姿を見せたなら、お任せしてしまいましょうか」
「なんならC相手でも良いくらいさ。さあ、大図書館を目前にして大立ち回りだ。いっちょ、派手に行こうか!」
びょう、と風が吹いた。トラブリの短い髪が煽られ、少女を中核としてHの領域に満ちる神気とは異なる峻烈にして凄絶なる風に、ラズルベリィは半ば信じがたい思いでトラブリを見た。
風の性質を強く帯びるHの領域で、他の神性がここまで強烈に自己の力で風を起こせるとは、という驚愕とそれをHに知られる事をまるで恐れていないのが分かったからである。
本当にHですら相手にならぬ力を備えている故の自信からなのか、それとも単なる考えなしなのか。一時的にとはいえ運命共同体となったラズルベリィとしては、是非とも前者であって欲しい。
先手を取ったのは豪雨よりも早く空を泳ぐフォルマウス達であった。様々な魚の頭部を持ったフォルマウス達は周囲の雨を吸い込むと、レーザーさながらに高圧の水流を放出してきたのだ。
人体はおろか巨岩も切断する速度で放出された細い水流は、トラブリとラズルベリィ一人一人に数十本単位で群がり、トラブリはこれに向けて操縦棒から右手を放し、それを大きく振るう動きを見せた。
「風の爪ってところかな!」
トラブリが自らの能力によって放った真空の大断層は、フォルマウス達の水流ばかりか周囲の豪雨すらも巻き込んで吹き飛ばし、群れなすフォルマウス達の一角がごっそりと消し飛んでいた。
無数の肉片となったフォルマウス達が、風に吹き飛ばされて彼方へと消し飛んだ光景には、ラズルベリィも黒眼鏡に隠れている目を丸くする他なかった。
「君達Cの領域の住人達の失敗は、ぼくがこのHの領域を訪れていた事! 君達の不運はぼくがシュリュを肩入れする位に気に入った事! 君達にとっての不条理はCとHの立場が逆だったら、ぼくは君達の側に立っていただろう事!
つまり、全部まとめてひっくるめると、君達は色々と間が悪かった。本当にこれに尽きる。ま、同情も憐憫もない。だからこその不条理、理不尽ってもんだよね!」
幸か不幸か、まったくもってその通りだとトラブリに指摘を入れる者は、この場にはいなかった。
魚面の男、女、老人、若者、子供、それらに加えて全身青黒い鱗の魚巨人、蛸巨人、烏賊巨人、目玉がいくつもある鯨に甲殻類と最初からそうあれと狂った造作を与えられた異形達、しかし、Cの領域においては正常な住人達が、Hの領域の一角を埋め尽くしている。
ラズルベリィは腐った海水の臭いをまき散らしながら迫りくるフォルマウス達を見えない目で見て、愛機ゼファーのエンジンに燃料たる黄金の蜂蜜酒を盛大に注ぎ込み、四つのブレードホイールを最高速度で回転させる。
「やれやれ! 黄金の蜂蜜酒の補充に来てみればここまで大規模な戦いに関与する事になるとは、とんだ風がこの領域に吹き込んだものだ!」
ビャーキーの体内に存在する飛翔器官を人工的に再現したフーンドライブを内蔵した機体は、数トンを越えるゼファーの機体に音速を軽々と越える速度を与え、また操縦者であるラズルベリィを魔術的に保護した。
フスタールの力を借りた魔術を行使するラズルベリィに、フォルマウス達はそのギョロギョロとした目玉を向けると、周囲の空気を吸い込んで肺を限界一杯まで膨らませた。
吸い込まれた空気はフォルマウス達の体内で水へと変換され、それが細く窄まった魚の口から超高速で放出される。先程、トラブリが風の爪で無効化した水のレーザーだ。
改めて放たれた水のレーザーの雨の中へとゼファーは突っ込み、巨大な機体とラズルベリィを貫く寸前、ブレードホイールのかき乱した大気の壁がレーザーの全てを弾き飛ばし、無数の飛沫に変える。
黄金の蜂蜜酒を燃焼し、膨大な魔力へと変換したフーンドライブがCとHの神気の混じり合う大気を吸引し、エーテルをろ過して推進力並びにホイールやシャフト、ギアにシリンダーと機体の各部品に付与された術式によって魔法へと変える。
ラズルベリィの詠唱が無くとも発動した魔法により、ゼファーは自由に空を飛び、巨体に音を越える速度を与え、機体を保護する防御結界を多重に展開し、ブレードホイールは風を纏ってフォルマウスを殺戮する車輪となる。
「さて、魚介類のミンチ作りの時間か。多少の汚れは許せよ。ゼファー、マキシマムドライブ!」
ゼファーとラズルベリィは一陣の荒れ狂う暴風となり、フォルマウスの群れの中へと正面から突撃した。
フォルマウスの反応は、恐れずに正面から食い殺そうと大口を開いて襲いかかる者、左右や背後に回り込んで隙を突かんとする者、他の同胞を盾に様子見を図る者等。
彼らにとって共通したのはゼファーの速度とその殺傷能力が、想像をはるかに超える凶悪さであった事だ。
耳をつんざく甲高い回転音を発するブレードホイールが形成する、楕円形の小規模な竜巻に、果敢にも襲いかかろうとしていた者は言うに及ばず距離を取ろうとしていた者さえ吸い寄せられてしまう。
自ら命を散らすが如きフォルマウス達に待ち受けていたのは、竜巻に飲み込まれて頑健な鱗とCの魔力による守りごと数千の肉片に裁断される運命だった。
向こう側が透けて見える程の薄造りにされたフォルマウス達は、直後、合計四つの竜巻の境目で生じる暴風に巻き込まれて、芥子粒よりも小さな肉片と細かく粉砕された上で竜巻の外へと排出される。
如何に敵対している人間ならぬ異形相手とはいえ、ここまでとことん殺傷せしめるとは、ラズルベリィの容赦のなさの表れとも、そこまでしなければならない相手だとも言える。
ゼファーの竜巻に巻き込まれれば一秒とて命はないと悟ったフォルマウス達は、我先にと距離を取り始めた。それでも目の前の人間から逃げる為ではなく、先程の水のレーザーを始め、巨大な水の砲弾を精製する等、遠距離から確実に仕留める為の行動であった。
同胞が瞬く間に殺戮されても戦意を鈍らせないフォルマウス達の姿には、生命と魂の全てを彼らの神に捧げる事しか考えていない不気味さに満ち満ちていたが、ラズルベリィにとっては見慣れたものだった。
「死への恐怖等、はるか昔の先祖の代から取り除かれているとはいえ、毎度毎度、よくも自分の命を顧みずに襲いかかってくるものだ。だからこそこちらもこうまで苛烈にやらざるを得なくなる!」
距離を置くフォルマウス達に対し、ラズルベリィはその場でゼファーを回転させ、竜巻という形でブレードホイールの周囲に形成していた風の魔力を解き放ち、四方を取り囲むフォルマウス達へ鋭利な風の刃として解き放った。
重く鋭い断頭台の刃の如く、フォルマウス達の首が断たれ、同じように胴体が断たれる事で、フォルマウスの輪切りが大量生産される。
「雑魚相手なら問題はないが……ちぃ、ダグォンやハイドアラに近い領域のエルダーが混じっているか。ゼファーではいささか荷が重い」
ラズルベリィが手持ちの魔術兵器だけでは苦戦を免れぬと判断した敵は、通常の個体の十倍近い体躯にまで成長したフォルマウスのエルダーだ。
Cの眷属神であるダグォンよりはまだマシな相手ではあるが、ラズルベリィをしても単純にその巨大な質量と膨大な魔力を相手取るには相応の準備が必要となる。
左右に四つの目と嘴を生やした二足歩行の鯨めいた姿のエルダーフォルマウスが三体、通常サイズのフォルマウス達をかき分けるように姿を見せて、三体ともに全力で逃げているシュリュにおぞましい二十四の瞳を向けていた。
同胞を殺戮しているラズルベリィよりもシュリュが持つあの包みの中身が、彼らにとってはるかに優先順位が高い事の証左である。
見る者へおぞましさからくる吐き気と体をすくませる威圧感を放つエルダーに、それでもラズルベリィが足止めをすべくゼファーの機首を切った瞬間、彼の目はそれを見た。
「おお、これは竜か!?」
ラズルベリィの瞳は尋常な光を失って久しい。その代わりに妖魔の正体を看破する浄眼や、邪眼や催眠眼に対する無効・耐性を有する守護眼等の能力を複数備えた特殊な義眼をはめ込んでいる。
ただの人間の目では決して見られない『モノ』を見られるようにする特殊な義眼は、これまでトラブリの事を溌剌と輝く緑色の人型として捉えていた。
肉体情報のみならず魂や精神、更には繋がっている縁や因果に到るまでを総合し、多角的に視覚情報に落とし込んだものなのだが、それが今は光こそ同じ緑色だが明らかに竜と分かるシルエットを映し出している。
ラズルベリィの義眼がトラブリをより正確に捕捉出来たのには、大図書館で別れる事になると判断したトラブリが悪戯心と置き土産に、という考えの元これまでの人間の真似からラズルベリィが認識できる範囲でわざと真実を見せたという理由がある。
そしてラズルベリィが驚嘆したのは、魂は竜だが実際には人間の姿のまま、エルダー三体を腕の一振りで八つ裂きにしたのを見たからだった。
ゼファーでさえ草で作った小舟に見えるエルダーの巨体を前に、ジャンクパーツを寄せ集めたフライパーに跨るトラブリは、恐怖など生まれた時から知らぬと言わんばかりの好戦的な笑みを浮かべていた。
「そこまで大きくなるのに一万年、二万年? それとももっと長くかい? ぼくからしたら、単位が億年に変わっても若いな。その若い命、ここで散らし、魂はCの元へ還るといい……んだけれど、君らの場合、還ってもアレな扱いされるだけだよね。
君ら自身は喜びをもって受け入れるから何とも面倒なのだけれど、傍から見ていると痛々しいまでの奉仕と献身と、そして教育だ」
圧倒的な強者としての自負と傲慢が、トラブリに憐憫をこれ以上なく詰め込んだ言葉を吐かせた。
CもHもわざわざ地上から連れてきた人間達を繁殖させ、余計な手間暇をかけて思想を刷り込む悪趣味な行いにより、人間達は自分達の命と魂を捧げる事に疑問さえ抱かない状態にまでなり果ててしまっている。
トラブリから見てそれは実に不愉快で、気分の悪くなる話だった。だからこそ、感情のままに振る舞い、生きてきた至上の超越者はこの瞬間も自分の感情に従って、Cへの嫌がらせも兼ねた行いを実行した。
「よし、君らにとっては余計な事だろうが、その魂をCの野郎の胃袋に行かせるのはなんだかムカつくので、冥界に送っちゃうから。これ、決定事項なのでよろしく!」
トラブリは拒否や異論を一切受け付けない勢いで宣言すると、そっと掌を上に向けた右手を口元に持ってきて、ふー! と強く息を吐きだした。
それで何かが起きるとは思えないなんて事のない動作だが、次の瞬間に生じたのは天変地異を思わせる現象だった。
トラブリが息を吐く動作を行うや否や、それこそ山すらひっくり返してしまいそうな程猛烈な暴風が生じて、彼女の正面に居たフォルマウス達に抵抗すら許さずに、空に広がっていた海よりも更に向こう側へと吹き飛ばしてしまう。
あまりに強烈過ぎる風の勢いに、フォルマウス達は風に呑まれた瞬間には絶命しており、姿を見せていたフォルマウスの過半数が命を落とす結果になった。
トラブリの起こした風の影響は凄まじく、着実にHの空を侵食していたCの海全体が痛みを堪えるように震えて、侵食の速度を著しく落とし始めている。
フォルマウス達を吹き飛ばした風もそうだが、それ以上にこの十秒に満たない一連の事態を見ていたラズルベリィを驚嘆させたのは、絶命したフォルマウス達の魂がCの領域へは行かずに、こことは異なる次元に――冥界に強制的に転移させられるのを、義眼が捉えたからだった。
彼の位置からではトラブリの言葉は届かなかったが、その眼はフォルマウス達とCの魂の繋がりが強制的に断たれるのを目撃したのだが、これは長くCと戦い続けているラズルベリィをして初めてみる光景だった。
フォルマウス達の魂がCに渡れば、それはそのままCの強化に繋がる為、倒したフォルマウスの魂を破壊するか、冥界送りにされる光景を目にした事はある。
だがそれも精々、一度に多くて数十かそこらだが、今回のような大規模な『縁切り』と『冥界送り』は、練達の魔術師たるラズルベリィも驚く以外に術がない。
事前に入念な準備と儀式を行うでもなく、即興でやってのけるなど人間業ではない。だが、それはラズルベリィの義眼が捉えたトラブリの姿に信憑性を持たせる方向に働いた。
「並の竜種ではあそこまでの芸当は出来まい。神に対抗できる程の格を持つ竜種となれば、最低でも真竜以上の個体か。ある意味では神々よりも遭遇するのが困難な存在と出くわすとは、いやはや、人生とは何があるか分からんな」
一応は命を賭けた戦場の只中ではあるのだが、共に闘う相手の大まかな正体があまりに珍妙奇天烈かつ極めて希少なものだと推察できたラズルベリィは、しばしその驚きに浸り続けるのだった。
トラブリとラズルベリィがフォルマウス達を一方的に葬っていた頃、シュリュは背後を振り返る暇も惜しんで、ひたすらにフライパーを飛ばし続けていた。
もしシュリュがトラブリとラズルベリィの戦う様を見ていたなら、ここまで必死になる必要はないのでは? とすぐに思い到っただろうが、今の彼女は自分の為に命懸けで足止めしてくれている二人の為に、一秒でも早く大図書館の防衛圏内に到着しなくては、と使命感に燃えていた。
このボタンの掛け違いのような微妙なすれ違いによって、シュリュの顔は必死の色一色に染まり切り、まだかまだかと心は逸るばかり。
フライパーの加速に耐える為、シュリュは残していた最後の黄金の蜂蜜酒を取り出し、最後の一滴までを一気に飲み干した。口に含んだ瞬間から全身に到るまで芳しい香りが行き渡り、全細胞が驚きに目を見開いて蘇るかのよう。
肉体のみならず精神にも影響が及び、これまで高速で流れて行った周囲の風景がゆっくりとしたものに変わり、時間感覚さえも変わる。
そうしてシュリュの精神は肉体を飛び出し、更にはHの領域さえも飛び出していった。
遥か星の海の果てで原初の海に誕生した単細胞生物、今まさに終焉を迎えようとしている太陽の最後の輝きと熱、楕円に歪んだ暗黒の重力場に飲まれる星、冷え切った惑星に降り注ぐ無数の流星群。
ああ、巨大なガス雲にたゆたう紐状の物体は生物なのか。赤黒い土ばかりの星に大穴を開けているミミズ達の気色悪さ。極彩色の森の中に実る果実を奪い合う多種多様な生き物共。
どれもこれも人間の正気を揺さぶり、壊し、狂わせ、深淵の彼方へと連れ去る悪夢の如き姿ばかり。黄金の蜂蜜酒によって精神が正気と狂気の狭間で揺れている状態でなかったなら、シュリュはたちまちの内に発狂して脳だけでなく魂までも狂ってしまっただろう。
一瞬が無限大にも拡大化される感覚の中で、シュリュは明確にこちらへ呼びかける声を聞いた。それは狂気の外宇宙をさまようシュリュの精神をたちまちの内に鎮める程に厳かで、理性と正気に満たされていた。
「ほう、ヴ■ト■の気配がする精神がさまよっているかと思えば、黄金の蜂蜜酒の効果とヴリ■■の加護が相まって、ここに近づく道標となったか」
天の全てを覆うかのように広がる翼。
推し量る事さえ出来ない力に満ちた巨躯を覆う暗黒の鱗。
聖賢という言葉が相応しい知性の輝きを秘めた銀の瞳。
恐ろしく強大で、神々しい程に威厳溢れる竜が、遥かな高位の次元から砂漠に落ちた真珠にも等しいシュリュを見つけ、呼びかける事で狂気に陥るのを防いでくれているのだ。
言葉もないシュリュに、銀眼黒鱗の竜は穏やかに言葉を重ねる。
「行くがいい。精神がさまよっている間に流れた時間は無に等しいが、戻れなければそれとて救いにはなるまい。我が同胞の加護を受けたる少女よ、戻るべき場所へ戻り、成すべき事を成すのだ」
ぐん、とシュリュは体が強く引っ張られる感覚に襲われた。焦点が定まり、意識が明確になるのと同時に精神が肉体へと引き寄せられているのだ。
例え黄金の蜂蜜酒を服用しても辿りつけない高みからこちらを見ている竜が、最後にこう声をかけてきた。助言だろうか。
「ああ、それと肉体に戻ったらすぐに『風よ』と叫ぶと良い。そなたの身を助ける事になるだろう」
それは――
「どういう意味って、あれ?」
はっきりと自分の喉から出された声に、シュリュは精神が肉体へと戻ってきた事を実感する。あの高みより届けられた声の主は一体何者であったのか。
自分に加護を与えたと言うヴ■■ラ――なぜか正確な発音が聞き取れず思い出す事も出来ない――とは何者なのか。
シュリュの疑問は心の中に溢れかえらんばかりだったが、それも頭上からさしかかった巨大な影に注意を逸らされた。
「あ、あわわわわ」
それはトラブリとラズルベリィが戦っているフォルマウスの群れから、斥候として別行動を取っていた巨大なフォルマウスだった。
直径三十メートル以上、全長九千メートル以上にも届く、ぬめりを帯びた深緑色の海鼠は、ガラス片のような牙が何十万本も生えそろった口を開いて、シュリュを丸呑みにしようと頭上から落下してくる!
そのあまりの巨大さに思考停止するシュリュだったが、恐怖に強張る彼女の脳裏に黒き竜からの助言がよぎる。意識するまでもなく腰のベルトに差し込んだ短剣に手を伸ばし、鞘から抜き放ちながらあらんかぎりの大声で叫ぶ。
「風よ!」
頭上の海鼠フォルマウスに比べれば爪楊枝のような短剣だったが、シュリュの呼び掛けに呼応して眩い翡翠色の輝きを発し、輝きは風へと変わった海鼠フォルマウスの口の中へと伸び続け、物理的な強度が意味を成さぬ狂風となる。
シュリュがぽかんと見つめる先で海鼠フォルマウスの体が内側からボコボコと凹凸が生じ、間もなく空気を入れ過ぎた風船のように限界まで膨れ上がり、破裂するのと同時に青い血と深緑と淡いピンク色の肉片を周囲へとまき散らす。
ザアァっと音を立てて降り注いでくる青い血の雨と肉片の霰が降り注いでくるのに、シュリュはまた違った悲鳴を発した。
「ぎゃああああ!?」
あの巨体から降り注ぐ血液の量は半端ではなく、巻き込まれれば全身が返り血に染まるどころかあまりの重量に全身の骨が砕かれてしまうだろう。それを察したシュリュの悲鳴が尾を引く中、奇怪な鳥の鳴き声が空を震わせた。
「GIIIYAAAAAAAAA!!」
「この鳴き声は!」
鳴き声の持ち主である蝙蝠とも鳥とも似つかぬ巨大な生物が、彼方から雲に見える程の数で急速に接近してくる。
それらはビャーキーの中でもフォルマウスのエルダーと同様に長い時を生きて、巨体と強大な魔力を獲得したロード種。ロードビャーキー達だ。
図書館都市でシュリュにあの包みを託したビャーキーの数倍から数十倍にもなる巨躯を持つロード達は、海鼠フォルマウスの血の雨の中に嬉々として飛び込み、ついでに目一杯口を開いて忌々しい海魔の肉片をつまみ食いして行った。
頭上を超高速で通過するロードビャーキーによって発生した衝撃波がシュリュに襲いかかるが、幸いにして右手に握ったままの短剣が守護の結界を張り巡らせた為、傷一つ負わずに済んだ。
シュリュが大図書館の防衛圏内に到達したのと、ラズルベリィとトラブリがフォルマウス達を相手に大規模な戦闘を行ったおかげで、H側も素早い行動が取れたようだ。
ロードビャーキー達にやや遅れて、大気を白く濁らせる冷気を纏うウェディゴのエルダーや通常のウェディゴ、ビャーキーの大群も徐々にこちらに近づいて来ている。
信仰する神の眷属達の姿を認めて、シュリュは大いに安堵したが、かといってその安堵に長く浸る事は出来なかった。ロードビャーキー達は近づいてくるCの眷属を迎撃する為に姿を見せたのであって、『シュリュを助ける為』に姿を見せたのではない。
今は短剣が守ってくれているが、直に激しい戦闘が発生してその余波が間断なく襲いかかってくるだろう。
それに思い立ったシュリュは顔色を青白く変えて、フライパーの進行方向を少しだけ逸らす。大図書館へ向かうのは変わらないが、戦域からなるべく離れられるようにしようというわけだ。
そんなシュリュの傍らに、ロードビャーキー達の参戦に合わせて戦場を離れたトラブリがフライパーを横付けしてくる。傷一つないその姿に、シュリュは心底安堵するのと同時につくづく規格外なのだなと痛感する。
「トラブリ、大丈夫、怪我はしていない?」
「へーきだよ。御覧の通り、怪我一つないともさ。君もかすり傷一つないね、良かった、良かった」
「貴女のくれたお守りと加護を込め直してくれた短剣のお陰よ。お守りの方はちょっと実感は湧いていないのだけれど、短剣の方はすっごい効果ね。あのでっかい気持ち悪いのが一撃よ、一撃」
シュリュが嬉しそうに右手の短剣をブンブンと振り回して見せるのに、トラブリはあっはっは、と機嫌良く笑う。与えたおもちゃに喜んでくれる親戚の子供を前にしたような笑みだ。
「それは良かった。そうでなくっちゃ、君に渡した意味がない」
「ええ、本当に助かったわ。それと、ラズルベリィさんは?」
「ラズルベリィ君か。彼はこの場から去ったよ。ロードビャーキー達に姿を見られたくなかったようだ。どうやら結構深めの溝が彼らの間には広がっているらしいよ。君のこれからの人生の安全と幸運を祈るってさ。どこまでも紳士に出来ているよね」
「そうだったの。改めて助けていただいたお礼を言いたかったのだけれど、ラズルベリィさんに事情があるなら、お別れを言えないのも仕方がないわね。その代わり、この恩は長く覚えておく事にしましょ」
「それ位の義理堅さでちょうどいいんじゃないかな。さ、大図書館へ行こう。Cの連中もフスタール側があれだけ反撃してきたら、ぼくらを追いかけるどころじゃないだろう」
「そうね。同じフスタールを崇める者とはいえ、役割分担はきっちりしているし、私達に護衛を付けてくれる様子は微塵もないし。自分達でさっさと大図書館に到着するのが一番だわ」
「そういう事さ」
実際、二人の言う通りで姿を見せたフスタールの眷属達はただの一体も、シュリュ達に視線を向ける者さえいない。C側がフスタール相手に全戦力を振り分けているのをこれ幸いと、ふたりはそそくさと戦場を離れるのだった。
幸いにしてC側の侵食は先程の海が最前線であった為、シュリュとトラブリはフォルマウス達と交戦する事を避けて、大図書館に到着する事が出来た。
このHの領域の中核たる大図書館は、名前そのままにひたすらに巨大な図書館だ。
図書館都市のように居住区画が整備されてはおらず、大小無数の黒く四角いブロックが積み上げられ、紙、布、革、粘土、石、青銅、水晶、翡翠、琥珀にヒイイロカネ……と膨大な素材の書籍が収蔵されている。
今もどこかの宇宙から収拾された書籍や、あるいはフスタールの知識を書き写した書籍が書棚の空いているスペースへとビャーキーやウェディゴ、円錐形の生物、人間からなる司書達の手によって収蔵作業が行われている最中だ。
大図書館にはCからの大攻勢の最中であっても各地から多くの配達人や司書達が訪れており、二人は外部からやって来た者の為に整備された気流にフライパーを乗せて、ゆったりとした速度で大図書館の内部へと向かっていた。
大図書館の敷地に入る際に、ビャーキーにキングイエローへの献上物があると包みを見せたところ、そのままビャーキーが先導役となり、他の訪問者達とは別のところへ案内される運びとなったのである。
すぐにキングイエローとの面会が叶うのか、あるいはその従者とまずは面通しをするのかは、これから分かる事だ。
「大図書館、ここが大図書館!」
「シュリュはさっきから興奮しているね。というか語彙が死んでいるよ。もうちょっと頑張ってここを称賛する言葉を紡ぎだす方がいいんじゃないの? ぼくは遠慮しとくけど」
Hの領域の住人からすれば信奉する神のお膝元である大図書館は、生涯で一度は訪れる事を夢見る場所だ。
図らずも大図書館を訪れる事になったシュリュは、先程から興奮を隠さずに頬を紅潮させてあっちを見てはこっちを見て、幼い子供のように騒ぎ立てている。
ただこのように興奮して騒ぎ立てているのはシュリュばかりでなく、他の来訪者の中にも似たような者達が居て、あちらこちらからきゃあきゃあとはしゃぐ声が聞こえて来ている。
「だって、大図書館なのよ。フスタールの化身たるキングイエローが座しますいと貴き神の社。このHの領域の心臓にも等しき都市。ああ、なんて、なんて素晴らし……おえええ」
大図書館に対する賛美の言葉が湯水のように湧いて出てくるシュリュだったが、突然口元を抑えて、苦しげに呻き出す。それはシュリュばかりでなく、先程までシュリュと同じようにはしゃいでいた者達も、次々と苦しみ、呻き声をあげ始めているではないか。
「そこで吐きそうになる辺りが、この場所が人間向きじゃない証拠だね。君らからしたら、ここは神の為の場なのだから当たり前だって話なんだろうけれどさ」
トラブリは実に不快気に大図書館の構造物を見回した。途方もない重量を感じさせる黒いブロックは綺麗な直線を描いているのに、見つめていると不意にぐにゃりと線が歪んで見える。
ブロックが積み上げられた壁や床は確かに直線を描いている筈なのに、時折緩やかに、またあるいは鋭角に曲がって見えるのだ。
曲がり角の先に自分の後ろ姿が見えるなど序の口で、前に進んだ筈がいつの間にか後ろを向き、左に曲がった筈が右に進んでいるといった現象が頻発している。
先導役のビャーキーがいなければ、ただの配達人や司書等は一生目的地に辿り着けないまま、大図書館の中を迷い続ける危険すらある。
人間の感覚ではなく、神々の感覚によって建造された場。トラブリの言う通り、ここは断じて人間の為の場所ではなかった。
その感覚の差がシュリュの三半規管と脳に影響を与えて、重大な嘔吐感を齎している。
幸い、シュリュにはトラブリに贈られたお守りがある為、すぐに嘔吐感から解放された。
最初から嘔吐感を感じさせない事も出来たろうが、そこまでしては周囲との反応の差を訝しまれるだろうとトラブリが判断したのだろう。
どれ程の時間をビャーキーに先導されたのかも、感覚が曖昧になっていたシュリュには分からなかったが、気付けば白い霧を周囲に包まれた広大な場所に立っていた。
傍らにトラブリの姿はなく、彼女の姿を求めて周囲を見回そうとしたが、自分の眼前に立つ人影に気付いた瞬間、シュリュの全身は硬直した。
襤褸のような黄色い衣を纏い、顔には青白い仮面を着けている。ただそれだけが特徴のナニカだが、シュリュには分かった。この仮面の人物、いや、存在こそがキングイエローであると。
王への敬意を示すべく膝を突こうとするシュリュだったが、硬直した体はピクリとも動こうとはせず、どんどんと体が冷えてゆく事だけが分かる。
「お、おう、王よ」
キングイエローはフスタールの化身である。人間の道理は持たない。人間の倫理は不要。人間の感情など埒外。キングイエローは長い袖に隠れた右腕をシュリュの方へと向けて差し出した。
シュリュはキングイエローが時に人間の魂を食べるという噂を思い出したが、この時ばかりは求められているのがあの包みであると間違えなかった。
強張る指を無理やり動かし、震えるままに黄ばんだ油紙に包まれたそれを差し出す。図書館都市で託されてから、命懸けで守り続けたナニカを、袖に隠れたままの右手で受け取るのを見なかった。
この間、あまりの恐ろしさから、シュリュはずっと自分の足元を見続けていたのである。
キングイエローの姿を直視する事は避けられたが、しかし、聞こえてしまった。蜂の羽音のような、それでいて金属と金属の擦れる音にも似たキングイエローの声を。あるいはそれは思念であったかもしれない。
“魔物の咆哮、ネクロノミコン、キタブ・アル=アジフ、ソノ断片”
それが、シュリュがこの大図書館へと運びこんだモノの正体であるらしかった。
シュリュは白い霧の何処かから出現したいくつもの気配が、自分とキングイエローを取り囲むのを敏感に感じ取った。
視線はまだ石の床に縫いつけたられたように固定したままだが、言葉として認識できない金属の擦れるような音が数を増している。
それがキングイエロー達の会話なのか、それとも感情の発露であったのかは、シュリュには分からないがおそらく不機嫌ではないのだろう、と感じていた。
(ネクロノミコン、魔物の咆哮、それ程重要な代物だったの?)
神たるフスタールの眷属キングイエローの眼鏡に叶ったと言うのなら、Hの領域の住人たるシュリュにとってこれほど喜ばしい事はない。ない筈なのだが、シュリュは同時にこれから起こる事が決して良いとは言えないのではないかとも感じ取っていた。
まず、Hの領域に生まれ育った人間の中ではシュリュのみが持つ感覚であったろう。シュリュ以外の者だったなら、自分が役に立てた事の喜びとキングイエロー達への畏怖のみで心身を満たしている。
そしてシュリュにとっての問題は、傍らにトラブリがいない事もそうなのだが、次に何をするのか、であった。
こうしてキングイエローに献上品を届けられた以上、目下の目的がない。他の配達人達と同じように戦いに向けての物資の運搬業務を与えられるのか、それともビャーキーやウェディゴに変えられて、『戦わされるのか』。
戦える、ではなく、戦わされる、と考えるあたりがシュリュの異端の表れであり、同時に自分を変えられる事への途方もない恐怖が彼女の心の中に生じた。
キングイエローを前にした時とは異なる恐怖と血の気の引く感覚に、シュリュは我知らず震えている自分の体を抱きしめた。
(いや、いやいやいや! 私を私でない何かに変えられるのは嫌。ウェディゴやビャーキー『なんか』に変えられたくない!!)
フスタールやキングイエローにとって、Hの領域の住人は道具であり、家畜であり、それ以上でもそれ以下でもない。
そんなモノが心中で自分達への拒否の念を抱いた事に気付いたのか、キングイエローの仮面の向きがわずかにシュリュへと向けられる。キングイエローが目を有しているかは謎だが、彼がはっきりとシュリュを認識したのは確かだ。
遺伝子から魂に到るまで先祖代々洗脳してきた存在を前に、シュリュの体は強張り、咽喉はからからに乾いて、視界が揺らぎ始める。心がどれだけ拒否しようとも、シュリュの体は眼前の存在が逆らう事を許されないのだと、肉体は知っているのだ。
“――――”
ああ、また虫の羽音のような、金属の擦れるよ4u南ガ聞コe瑠………………………。
*
*
*
*
「やあやあやあ、シュリュ、ぼうっとしてどうしたんだい!」
「え、あ、え?」
脳を直接揺さぶられているみたいに、シュリュの意識をぐわんぐわんと揺さぶったのは、鼻がくっつきそうな距離でこちらを見つめているトラブリの大声だった。
大図書館に到着してからいつの間にかいなくなっていたトラブリが目の前に居る事もそうだが、気付けばシュリュもまた先程までキングイエローと対峙していた白い霧の空間ではなく、黒いブロックに囲まれた部屋にあるベッドの上に腰かけていた。
「えええ、あれ、あれ、あれ? 私、ビャーキーにもウェディゴにもなって、ない?」
てっきりあのまま意思を無視されてどちらかに変えられるとばかり思ったのだが、そうはならずに済んだらしい。どうして変えられなかったのか、さっぱり分からないし、どうしてこの部屋に居るのかも同じく分からないが、とりあえずは無事らしい。
「やだなあ、君は正真正銘人間のままだとも。ぼくが君と初めて出会った時と変わらないまんまだね。それで、キングイエローにはきちんと渡せたかい?」
トラブリはシュリュの困惑をよそに、この大図書館に来た最大の目的の達成について問いかけてきた。彼女なら聞くまでもなく知っていそうなものだが、シュリュの口から直接聞きたいのかもしれない。
「えーと、白い、霧の中で、黄色い襤褸みたいな布、青白い仮面で……あ、ああ! そう、そうよ、そうそう。私、ちゃんとキングイエローに渡したわ。なんだっけ、アル・アジフとかなんとかって口にされていたわ」
「ふーん、アル・アジフねえ。詩集だったかなあ?」
「ええ、詩集なの? キングイエローって詩人か、それとも詩を好んでいらっしゃるのかしら? なんというか、思っていたのと全然違うわねえ」
「ぼくの記憶違いかもしれないけれどね。砂の国の詩人が狂気と正気の狭間で書き記したんじゃなかったかな。まあ、君は託された物をちゃんと届けるべき相手に届けたのだから、胸を張りなって」
トラブリはそう言うと、シュリュの腰かけているベッドの向かいに置かれているベッドに腰を下ろした。改めて部屋を見回してみれば、一辺十メートル程の広さがある。
二人のベッドの間にはやはり黒いブロックを組み合わせた机が置かれており、その上には水差しがある。天井に近い高さのところに横に長い窓があり、そこから光が差し込んでいる。
出入り口は、シュリュの正面にあるいやに重厚な雰囲気を感じさせる扉ひとつきりのようだ。フォルマウス達が全力で拳を打ちつけても、ビクともしそうにない。
二人の荷物は壁際にまとめて置かれていて、フライパーまである。もう少し大切に扱って欲しいな、とシュリュは思わず愚痴を零さずにはいられなかった。
「ここって大図書館の居住区? ていうかトラブリは今まで何処に居たのよ。気付いたら姿が見えなくなっていて、心配したのよ」
「ぼくから言わせりゃ、シュリュの方が居なくなったのだけれどね。途中でシュリュだけがキングイエローに招かれたんだよ。ちょっと強めの風が吹いたと思ったら、あら不思議、シュリュの姿が消えてなくなっていましたとさ」
「それは、そうか、キングイエローならそれ位出来るし、そう言われるとそうとしか思えなくなるわ」
「“そう”が多いね。ぼくは招いていない相手だから、呼ぼうとしないのは当然の話さ。見たところ、お偉いさんとの話し合いで随分と緊張したみたいだね。
人間の魂を食べるって言う話のある相手だし、疲れもするだろう。今は眠ったら? ぐっすり眠れそうな疲れた顔をしているよ」
「やだ、そんなに顔に出てる?」
「出てる出てる。そのままじゃお肌が荒れる事間違いなしだね!」
「不安になる事を言わないでよ~~。でも、ああ~、言われてみるとちょっと体が疲れているっていうか、気力がしおしおに萎えている感じがするわ。それじゃあ、ちょっとお言葉に甘えて横になるわね」
「うん、そうしなよ。お呼びがかかったら、ちゃんと起こしてあげるから」
「ええ、お願いね、トラブリ。おやすみなさい」
「おやすみ、シュリュ」
黒いブロックの上に敷かれた敷布団は意外な程に心地よく、枕と毛布の使い心地も申し分ない。優しいトラブリの声に誘われるようにして、シュリュはすぐさま寝入った。
シュリュがあっという間に健やかな寝息を立て始めるのを確認してから、トラブリはベッドの端の方へと手を伸ばした。そこには、つい先程まで存在していなかった黒電話がポツンと置かれている。
電話線の繋がっていない黒電話の受話器を手にとって、トラブリはシュリュには聞こえないように大気の振動を制御しながら口を開く。
「もしもしというのだったかな? こちらはトラブリ、こちらはトラブリ~」
『うむ、よく聞こえていますよ。こちらはラズルベリィ。シュリュ君は無事ですかな? トラブリ殿』
「怪我一つないともさ。さっき、キングイエローのところにネクロノミコンを献上してきたばっかりだよ。今は精神的な疲労でぐっすりとおねむさ」
『“おねむ”ですか。かの黄衣の王と対面し、精神的な疲労だけで済んでいるのならば、まさしく御の字でしょう。それも貴女の御加護ですかな?』
受話器に耳を傾けたまま、トラブリは悪戯の成功した子供のように笑う。どうやらラズルベリィの指摘は正鵠を射ているらしい。
「素面の彼女を対面させるのは、ちょっと危険だからね」
『その通りですが、しかし、シュリュは自分が守った物が偽物であると知らぬままなので?』
「うん。C側をかく乱する為の大量の囮の内の一つにすぎないというのは、まだ知らないままだよ。知る必要もないさ」
『それもそうですな。ところでHの側は本物を入手したとお考えですか?』
ラズルベリィの声音に強張りが混じった事に、トラブリはそれもそうかな、と心中で同情の念を抱いた。
どの世界に置いても必ず同じ人物が書き記すかの書物は、使い様によっては惑星の命運を左右する規模の力を持つが、同時にCやHに対する対抗手段が記された希書でもある。
邪神側に所有される事は、人類側にとって大きな危険と損害に直結する。
「うーうん、それはないと思うなあ。ぼくも実物を見た事はないけれど、あれは確かにCやHらに関して、かなり詳細な内容を記した書物ではある。
けれども、この大図書館の中にそれらしい書物の気配はないし、もしあるとしたならCやH以外の連中も自分達の弱点を知られてはならじと介入しようとするでしょ。まあ、あれはまだ地上世界のどこかを彷徨っているはずだしねえ」
『かの書が邪神やその崇拝者達の手元に渡っていないのであれば、それは朗報ですが、これから貴女達はどうされるのです? 今回のC側の侵攻はこれまで頻発していた者に比べ、力が入っているように見受けられます』
「オクトゥルを始め、最近、邪神連中がかなり数を減らしたし、カラヴィスも活動を停止しているし、邪神同士の勢力争いが過熱しているのさ。ここらで一つ、目の上のタンコブの宿敵を片付けたくもなるってことじゃないのかな?
これからどうするかってのは、ま、シュリュと一緒にこの大図書館を見て回って決める事にしているよ。お互い、どうしてもしたい事もなければ、しなければならない事も無くなってしまったね。手持無沙汰で困る予定~」
『その大図書館にいてそのような事を言えるのは、貴女達位のものでしょう。シュリュ君は大図書館に留まる事を望むかもしれませんが、そうなればCとHの本格的な争いに巻き込まれる可能性が高まるでしょう』
「十中八九、そうなるよ。一日二日、ここに留まるだけならば大丈夫だろうけれど、シュリュはまだ自分の事をHの領域の住人だっていう認識があるから、そうするでしょ。
でも、あの子、どうもウェディゴやビャーキーなんかに変えられそうになったのを拒絶した風なんだよね。そんな異端者をキングイエロー達が見逃すか、ちょっと気になっているところさ」
『フスタール達からすれば、順調に教育が上手くいっているところに現れた例外。例外が生まれた理由を調べ、検証を重ねるか、それとも排除するかは、五分五分ですな。どちらでも貴女が居れば好きにはさせますまい』
「短い付き合いだったけれど、ぼくの事を良く分かっているね。花丸を上げよう! こっちはこういうわけだから、君は安心して好きな所へ行くといい。こっちがどうなるかは、すぐに分かるだろうしね」
『そのようになりそうですね。では、不要とは思いますが、貴女の武運とシュリュの無事を遠き地より祈りましょう』
「そうしてくれると嬉しいね。君も無理はしないように。それじゃあね」
クスクスと忍び笑いを漏らしながら、トラブリは音を立てないように受話器を黒電話へと戻す。チン、と音を立てて受話器が置かれると同時に、黒電話は大気に溶けるようにして消えた。
フォルマウス達との戦いの後、姿を消していたラズルベリィが、トラブリとの連絡用に大図書館に忍ばせた通信魔法、それが黒電話の正体だ。
「しかし黒電話とは、ラズルベリィ君の故郷の品であったのかな?」
*
ラズルベリィとの連絡を終え、シュリュが目を覚ました後、トラブリ達は咎め立てる者もなく大図書館の中を歩き回っていた。
円錐型の生物や慌ただしい様子のビャーキー達フスタールの眷属は、まるでシュリュとトラブリの姿が見えていないかのような素振りで、視線を向ける事すらしない。
大図書館の間を交わされた黒曜石の如く輝く黒い通路を練り歩きながら、シュリュは不思議で堪らないとしきりに首を捻る。
「あれからなあんにも言われないのもそうだけれど、こうして好き勝手に大図書館の中を歩き回っても注意一つされないってどういうこと?
そりゃあ、所蔵されている書物を読もうと思っても、一文字も読めないし、私達に何かまずい事が出来るってわけでもないけどさ」
「小さすぎて眼中にないって印象を受けるね。誰にも咎められないっていうのはありがたいけれど、こうまで何もされないとなるとぼくらもする事がないやね。
もう大図書館を離れてどっか行く? 一度は来たいところだって言うけれど、来てみたら案外見るものもないでしょ」
「いや、まあ、ええっと、そうね? こう、人間が観光するのを前提としていないから過ごしにくいと言うか、やっぱり神々とその眷属の為の場所ってだけはあると思うの」
「なるべく穏便な言い方をするとそうなるね。ぼくとしては一刻も早くここから出て行った方がいいと思うけどね」
「戦場になるから?」
シュリュとて、流石にそれが分からない程鈍くはなかったようだ。間髪いれず答えたシュリュに、トラブリは兄の口癖を真似た。
「ふんむ、そうだね。今更隠してもしょうがないから言うけれど、てかまあ、ぼくの見立てだけれどさ、そりゃあ、戦いになるとも。
ならないわけがないじゃないって位、戦いになるのは確実だね。シュリュは配達人だろう? 戦う力を持っていないんだから、逃げてもよくない? それともウェディゴやビャーキーになるのが望み?」
この時、トラブリはいつもの気楽な調子の笑みを浮かべてこそいたが、瞳も心もわずかばかりとも笑ってはいなかった。シュリュの返答次第では、Cが来る前にこの大図書館は壊滅していたかもしれない瞬間である。
場合によっては自分の返答がこの大図書館を跡形もなく消滅させるとは知らず、シュリュは暗闇に迷った子供のように泣き出しそうな顔になった。
「トラブリ、私ね、キングイエローに眷属に変えられるんじゃないかって考えた時、本当はそんな事を考える事だって許されないのに、嫌だって思った。それだけは嫌だって、私を私でないものに変えられるのは嫌だって思った。
だって、私は、まだ何処にも行っていない! 本当に行ってみたいと思ったところに、心から行きたいと願う場所すら見つけていないのに、この領域から何処にも行けなくなる存在になんて、なりたくない!!」
何処に誰の耳があるかもしれないと言うのに、シュリュの言葉は徐々に熱を帯びて最後には絶叫と変わらぬものと変わっていた。もしHの領域の住人に聞かれていたならば、シュリュは背信者として一切の慈悲なく処断される、極めて危険な発言だ。
トラブリはシュリュの偽らざる本音を、ただただ慈しみ深い笑みと共に聞き届けた。幼げな少年と見まごう少女とは思えぬ、慈母を思わせる笑み。
「そう、自分の本当の願いを見つけたんだね。まずは第一歩。たったの一歩だけれど、とても意味のある一歩だ。魂の隷属者から自由なる魂の持ち主に戻る為の、大いなる一歩だと、このぼくが認めよう!」」
「トラブリ? えっと、そんなに大それたことを言ったのかしら、私。それにどうしてそこまで嬉しそうなの?」
「はっはっは、君がぼくの期待以上の答えを返してくれたからだともさ! いやあ、これは実に気分が良い。良いった良いや! あっはっはっは!!」
「まあ、トラブリを喜ばせられたのなら、良かったわ」
どことなく疲れたような、肩透かしを食らったような顔になるシュリュに対して、トラブリはまだ笑っていたが、茶目っ気を示すようにあの下手くそなウィンクをしてみせた。
機嫌が良い時にする癖のようなものなのだろう。
この時、言葉にこそしなかったが、トラブリは実に内心で飛び跳ねているような状態だった。こういう答えが返ってくるなら、『キングイエローがシュリュに手を出す前に彼女を連れ出した』甲斐があったというもの。
加えて、この大図書館の中にフスタールですら察知できない隠し部屋を作り、そこにシュリュを匿った上で大図書館の司書達に認識されないようにまでしているのだ。
今に到るまで大図書館の誰にも見咎められず、自由気ままに大図書館の中を歩いてみて回れていたのも、全てトラブリの仕業なのである。
「ふふふ、ぼくも土壇場になる前に君の本心が聞けて良かったよ」
「土壇場? 土壇場って?」
「ふむん、今回、C側はかなり力を入れているのが分かった時点で、H側もこれは本腰で迎え撃たなければって考えたのだろうね。
C側が無視できず、それなりに信憑性のある囮としてネクロノミコンを始め、名の知れた魔本や奇書、神器を手に入れたと流布して、C側の行動を促進させた。そうして自分達の領域奥深くまで、拙速を尊んで侵入するように誘導して見せた。
それに囮にした器物の類も、全部が全部、偽物ってわけじゃない。星の位置、エーテルの流れ、次元の壁の向こうにある宇宙との位置関係、それらを考慮してCの力を抑止するように陣を敷いている」
「トラブリ、貴女、どうしてそんな事が分かるの? 実はフスタールに近しいところにいる神性だったりするの? それとも、まさか、貴女、Cの側……?」
余りにも事情に精通しすぎているトラブリの発言に、シュリュの脳裏には多くの可能性が浮かび上がり、挙句に最低最悪の可能性としてトラブリが自分とは敵であるC側の存在では、という疑いまで浮かび上がる始末。
もちろん、そんなわけはないのだが、トラブリにしてもまさかC側かと疑われるのは予想外だったようで、しばしきょとんとした顔で目を丸くして見せた。
この少女の真の素性を考えれば、ただの人間の少女がこのような表情をさせたと言うのは、ちょっとした偉業だったかもしれない。
「ないないない、それはないよ、シュリュ。というかよりにもよってその発想が出てきちゃうかー。あちゃーって感じだよ、ほんとに。CでもHでも別の勢力と言われるかな、位は考えていたのだけれどね。そこは安心して良いよ。ぼくは君の敵じゃない」
まあ、この領域の味方でもないけれどね、とまでは口にせず、トラブリは胸を張って堂々と宣言した。
自らになんら恥じ入るところはないと言わんばかりのトラブリの態度には、根拠なしに相手に信じさせる自信に満ち溢れていて、シュリュは信じたかった、というのもあるが、トラブリが自分の敵ではないとすんなりと信じた。
「そう、本当にそうならどんなに良いか」
「本当だってば。でもまあ、シュリュとのんびり話していられるのも、そろそろおしまいっぽいんだよね。どうやら怪獣大決戦か、邪神大決戦がそろそろ開幕しそうなんだよね」
「それって、どういう? 私にも分かるように言って!」
「上、上、ほら、Cの領域からわざわざ出張ってきた海が、もうこの大図書館の上に来ているよ。半分位はH側がわざと誘い込んだんだけどね。さて、こりゃ、ぼくも二柱に拳骨をくれる位はしないとかな?」
これまでC側の侵略は海という目に見える領域が、横に広がりながらHの領域を侵食して来ていた。こういっては何だが、実に分かりやすい形で行われてきたと言えるだろう。
Hの領域の中心地である大図書館近辺にまで、フォルマウスを始めとした海魔の蠢く海が迫って来ていたのは、シュリュやトラブリも実際に目にしたところである。
シュリュが大図書館でキングイエローと謁見し、その後の意識喪失状態から復帰してトラブリと大図書館を見学していた間に、C側の侵略の魔の手は一気にH側の首元にまで迫っていた。
トラブリが、C側がもう来た、と告げるのにわずか遅れてシュリュは頭上を見上げた。
大図書館の空が突如として曇天に変わったように、周囲が暗く翳ったからであったし、加えて磯臭い風が頭上から叩きつけるように吹きつけてきたからであった。
「あ、あわわわわ!?」
翳りと磯臭さの正体は、否応なくすぐさま理解できた。シュリュとしては理解できてしまった、と大いに嘆きたいのが本音である。
頭上の空一面を覆い尽くす灰色の海が垂直に落ちて来ているのだ。Cの海がこれまでの粘体生物のように横へ広がる動きから縦に伸びる動きへと変えて、はるかな高高度にまで伸びてから一気に滝のように落ちて来ている!
「空なのに魚頭が泳いだり、でっかい水たまりが広がって来りとか、Cの連中の所為で色々と変なものを見てきたけれど、これって、ものすごく危なくない!?」
思わず愚痴っぽく叫ぶシュリュに、トラブリが面白そうに笑いながら答える。Cの海が急接近して来ているのにもかかわらず、精神が汚染される様子もなく、単純に動揺しているだけだ。
そしてまた、ただその場にぼうっと突っ立っていても出来る事は何もないと、二人とも大急ぎで部屋を目指して駆け出し始めていた。
「危ないのは危ないよ。でもフスタール達だって間抜けじゃないんだ。一気に懐にまで攻め込まれた場合の対策だって、少しは講じているでしょ。このまんまあの海に大図書館が押し潰されるなんて、呆気ない結末にはならないよ。ほら」
およそシュリュの視界の及ぶ範囲を埋め尽くしていた海が、いよいよ大図書館を押し潰すと感じる程接近したところで、透明の壁にぶつかったように落下が止まり、その代わりに大図書館を球形に包みこんでいる不可視の壁に沿って流れた。
お腹の底の底まで響く膨大な水の流れる音と共に、見る間に空の下へと落ちてゆく海水とその中に紛れている海魔の姿を、シュリュは目を丸くして見る事しかできない。
「流石に大図書館の守りは固いよね。それでもあれだけの質量とCの神通力が籠っている海水の直撃だもの。守る側の力も大分削がれちゃうけど」
トラブリの言葉を証明するかのように、ミシミシと軋む嫌な音がシュリュの耳に届く。
海水を受け止めていた不可視の壁に白い亀裂が走り、そこから少しずつ海水が滲むよう浸透し始め、それらは程なくして大きな水滴となって内部に海魔を満々と湛えながら滴り落ちた。
空中で弾けた水滴は、無数の飛沫を雨と変えて大図書館へと大量の海魔と共に落下し、程なくして海魔達は『落下』から『泳ぎ』に変わる。
無論、H側も黙ってこれを見過ごす筈もない。大図書館側も円錐型の司書達を始め、ビャーキーやウェディゴ達が大図書館のあらゆるところから姿を見せて、水泳中の海魔達へと襲いかかった。
魚頭人身の巨人が水かきのある腕を振り上げて、冷気を纏う毛むくじゃらのウェディゴの肩口へと叩きつける。腕が動くのに合わせて大気中に水泡が浮かび上がり、その場が海中へと変わりつつあることを暗示していた。そこまでC側の侵食が進んでいるのだ。
ドオン、と落雷の如き轟音がウェディゴの右肩で発し、ウェディゴの顔にくっきりと苦悶の表情が浮かび上がるが、苦痛はそのままに魚巨人の首筋に鰓ごとまとめて噛みついて反撃する。
魚巨人は首筋にウェディゴを食らいつかせたままぐるぐると大気中を回転し、何とか引き剥がそうと足掻くも、首筋からウェディゴの冷気が体内へと侵入するのを許してしまった事で、体の内側から凍りついて間もなく体表まで白く濁らせて砕けた。
砕けた魚巨人には目もくれず、次の獲物を探すウェディゴに休む間を与えずに通常の大きさのフォルマウス達が雲霞の如く襲いかかる。
ナイフの如く鋭い牙をガチガチと鳴らし、フォルマウス達はウェディゴの巨腕に叩き潰され、握り潰され、凍らされるのも構わずに少しずつウェディゴの肉を食い千切ってゆく。
ウェディゴの白い毛並みが見る間に赤く染まり、流れ出る自らの血も凍らせた巨体は、絶命と同時に空を飛ぶ力もまた失って、あるかも分からない空の底へとまっさかさまに落ちてゆく。
他にも水と風の力を持つ魔性達の戦いは苛烈を極めて行く。軟体動物めいた姿の海魔が吐いた、粘度の高い毒の墨に巻かれたビャーキーの群れが喉を掻き毟り、全身の穴という穴から血を噴き、苦しみ悶えながら死んでゆく。
魔力に満ちた風を鋭い刃と鎧として纏い、海魔の群れに飛び込んではみじん切りになった死体を量産しているロードビャーキーは、天使のように愛らしい白い海魔を次の目標と定めて超音速で飛翔した。
白く透けた体の中に赤い臓器や脳のようなものを持ち、体の左右から翼のように鰭をはためかせているその海魔は、愛嬌のある形をしていた頭部を四つに割り、そこに隠れていた無数の牙を露わにして、突撃してきたロードビャーキーに正面から食らいつく。
速度の乗っていたロードビャーキーは直前で軌道を変える事が出来ずに白い海魔と衝突し、その胴体を八つ裂きにしたが、残る白い海魔の口に胸から上をバクリと食い千切られて相討ちに終わった。
他にも海に生息するあらゆる生物の面影をどこかしらに持ち、同時に吐き気を催す醜悪さを兼ね備えた膨大な数の海魔達が、同じく尋常な生物とは思えない超常の狂気を交えた造作のフスタールの眷属達と一秒と休む事もなく殺し合い続けている。
既に大図書館近隣の半ば海水へと変わりつつある大気には、CとH双方の眷属の流血と死の間際に発せられた怨嗟に瘴気が広がっていて、何の対抗手段も持たぬ常人では即死を免れない程に穢れている。
「うわうわうわ、ええっと、数はこっちの方が多い? でもまだまだ海の方もたっぷり残っているし、包囲されている分は不利よね? ね!?」
そんな中でシュリュがきゃあきゃあ、と元気よく悲鳴交じりに叫んでいられるのは、言うまでもないがトラブリから渡されたお守りの守護があるからに他ならない。
「おお、シュリュってば言葉は慌てているけれど、ちゃんと状況を把握できているね。でも前座同士の戦いっていう段階だよ。本命はCとHの眷属神……う~ん、ひょっとしたらCとH両方の分霊あたりまで出てくるかな?
いやあ、そいつらが戦い始めたら大図書館が崩壊するか、C側が文字通り全滅寸前まで行くかの両極端になりそうな予感!」
「それって私的には一大事なんですけれど! いや、あっちの連中がズタボロになるだけなら、全然構わないけれどね!?」
「まあ、そうそう都合よくはいかないよ。長年の大敵だもの。Hは滅ぼされずに今日まで生きているわけだけれど、Cの側もそれはおんなじだからねえ。
今のところ、ぼくの見立てでC側の奇襲は、コストを考えるとあちらさんの想定の七割位の成功かなあ。そんでもって、H側の迎撃はこれでやっぱり七割成功かな?」
「『これで』って、さっき貴女の言っていた対策? 何、これから何か起きるっていうの? もう情報過多で頭の中がパンパンになっている気分だわ」
「ははは、そろそろ新情報の供給も尽きてくる頃さ。H側は懐まで侵入されたわけだけれど、事前に想定出来ているのなら、迎え撃つ為の罠を張れるってもんだよ。
失敗した時のリスクは当然大きいけれど、今回はリターンを選んだみたいだね。ほら、海が風に閉じ込められるよ?」
「閉じ込められる?」
実のところ、大図書館を守る不可視の壁はこれが最後の守りだ、これさえ突破すれば喉笛に食らいつけるとC側に思い込ませる為のH側の囮だった。
大図書館を囲う不可視の壁の更に外側にもう一枚、物理法則に喧嘩を売るような光の速さで吹く気流が生じて、縦に落下している最中の海を半ばから遮ったのである。ブツン、と腸を切断するような音が聞こえてきそうな光景だった。
切断された海の先端側が逆にHの罠の中に閉じ込められた形となり、海の根元の側は慌てたように新たに出現した気流へ何度も突撃を繰り返すが、その度に大きな飛沫を上げて跳ね返されている。
一応、まだ自分の所属だという認識のあるシュリュは、なんとなく事態が好転したと判断して、おおーと感嘆の声を上げた。
「おやおや、そのまま見ておいでよ、シュリュ。どっちも大物が顔を見せる気になったみたいだ。痺れを切らしたか、早々に決着にする気になったかね」
「大物ってこっちで言ったら、ひょっとしてキングイエロー?」
「うーん、フスタールもといHの本体はまだ出てくる気はないみたいだし、化身が出てくるのが妥当かな。お? C側は眷属神が出てくるみたいだ。今の君なら直視しても発狂はしないでしょ」
「怖い事言わないで!」
シュリュが心底から悲鳴を上げたが切っ掛けになったわけではあるまいが、新たな気流によって切り落とされた水溜りの中から、全身を能力の鱗で包み、背中から紫色の蛸脚を生やした巨大な魚巨人がずるりと姿を見せる。
今まさに魚卵から孵化したかのようにぬらぬらと全身に粘液を纏うソレは、ダグォンと呼ばれるC側の魚神の一種であった。全高百メートルにも達するダグォンは、生まれ落ちるのと同時に大きく口を開いて咆哮を上げる。
世界の果てにまで響き渡り、感受性の高い芸術家や赤子を狂気の淵へと叩き落とす邪神の咆哮であった。
「うひゃ!? うるさい!」
もっとも、トラブリの加護を受けるシュリュからすれば、単純に大声がうるさいと言うだけだったが。
C側の大物が姿を見せたのに応じ、H側もまたこれに応じた。シュリュから偽のネクロノミコンを受け取った、大図書館の仮初の主キングイエローの出陣である。
CとHの瘴気が入り混じる大気に大きな渦が突如として生じ、黄色く濁った渦は周囲のフォルマウス達を瞬く間に腐敗させ、目に見えぬ程細かな破片にまで粉砕してゆく。
いち早く脅威を悟ったフォルマウスや大型の海魔達が次々と渦へと身を投じて行くが、彼らの献身的とも言える特攻は何の結果を生む事もなく、むしろその魂をCに渡る前にキングイエローが貪って糧にしてしまった。
フォルマウス達が自分達の行いの無意味さを悟り、動きを止める中でいよいよ黄色い渦の中からキングイエローが姿を見せる。
シュリュと対峙した時と変わらぬボロボロの黄色い布のマント、そして詳細に語る事の出来ぬ冒涜的な彫刻の施された青黒い仮面、肌の露出は一切なく、姿どころか発する気配のみで人間の生命と魂を汚辱し、粉砕する超常的な狂気存在。
ダグォンと対峙すべく全高百メートル超の巨躯となって顕現したキングイエローは、威嚇の咆哮を終えたダグォンと三百メートル程の距離を置いて対峙する。
「おーおー、流石に地の利と化身である分、キングイエローの方が有利かなあ。遮断された海がどれだけ早く大図書館に乗り込めるかが、勝負の胆だね、うん」
大図書館の中に出現した超巨体と超狂気を誇る存在の激突にも、トラブリは呑気な感想しか出て来ない。そもそも彼女の方が狂気は兎も角として、その他の部分に於いて大きく超越しているからこその余裕と呑気さだ。
そんなトラブリは彼女が大図書館の中に勝手に用意しておいた部屋に到着しており、今はシュリュが大急ぎで荷物とフライパーの用意を終えるのを待っているところだった。
「トラブリ、ごめん、待たせちゃった!」
部屋の外の廊下で待っていたトラブリの元に、息せき切らしたシュリュがフライパーを担いだ姿で飛び出してきた。Hの領域の人間ならば、この状況でも逃げ出さずにC側と戦おうとするところだが、シュリュは大図書館からの脱出を選択している。
これだけでもシュリュがH側の人間としては異端であり、トラブリの影響が強くあるとはいえ、長年に渡るH側の思想教育と洗脳も完全ではない事の証左だった。
「気にしない気にしない。といってもまあ、大図書館の周囲ごとまとめて封鎖されちゃっているから、遠くに逃げるって選択肢は取れないからね。なるべく激戦区から離れて、フォルマウス達から隠れて戦いが終わるのを待つしかないかな」
この時、トラブリは何か言いたそうな顔をしたが、シュリュは苦しい選択しかない事への悲観だろうと追求する事をしなかった。
まさかトラブリならば力で――いや、力でしか――この事態を解決できる等とは、夢にも思っていないからである。
「流石に私達だけでこの状況から脱出するのは無理よね。だからといってあの戦いの中に飛び込むのも無理な話だし」
シュリュの見上げる先では、次々と姿を見せるフォルマウス達とHの眷属達が自らの命を捨てた死闘を繰り広げており、その中心にして最大の激戦はやはりダグォンとキングイエローの戦いであった。
ダグォンの腕が水を掻く動きをすると、かの魚神の周囲に色とりどりの水が無から生じる。とある宇宙の惑星を覆う強酸性の海、無数のバクテリアが生息しあらゆる有機物を捕食する人食いの海、あらゆる毒素が混じり合い秒単位で新たな毒が発生する泡立つ紫の海。
海という概念が適用される恐るべき海が、ダグォンの神通力によってあらゆる宇宙からかき集められていた。
対するキングイエローは黄衣の袖で風を起こすようにふわりふわりと動かす。水に対するは風。海に対するは嵐。
それは宇宙の暗黒を駆ける太陽風。それは氷河に閉ざされた惑星に荒れ狂う極々低温の風。それは物理法則を無視して超光速にまで達した風。
互いに神性の領域にまで達した存在である為に、彼らの用いる攻撃手段には全て神通力が付与され、加えて地上世界の物理・霊的法則を無視して思い描いた現象や結果を即座に発生させられる。
両者の権限と力を考慮すればまだまだ様子見でしかない力の行使だったが、海と風の激突によって発生した余波は、周囲で戦っていた眷属達には到底耐えきれぬ破壊力を秘めていた。
一体どんな環境で育ったのか、三千メートル級の巨大な鯨型の海魔でさえ強酸の波を浴びれば骨も残さず溶け消え、太陽風をもろに浴びたロードビャーキー達は超高温のプラズマに全身を焼き尽くされて熱を感じる間もなく消し飛んだ。
敵と味方の区別なく力を振るう超越者達によって、次々と大図書館内部の生命は数を減らしてゆき、フライパーに乗って大図書館からの離脱を目指すシュリュとトラブリ達に、かろうじて原型を留めていた死体がボトボトと降り注ぎ始める。
二人にとって不幸だったのは、降り注ぐ死体の中に実に直径五十メートルにも及ぶ海魔の目玉が狙いすましたかのように落下してきた事だった。
トラブリが冷静に黄色い瞳の目玉を吹き飛ばそうと指を鳴らそうとしたその寸前、必死にフライパーを操縦していたシュリュがほとんど本能的に腰のベルトに差し込んでいた短剣を引き抜く。
「風よ!」
黄金の蜂蜜酒を一気飲みして過剰摂取した所為で精神が彷徨った時に、声を掛けてくれた黒い竜を思い出しながら、シュリュはほとんど考える間もなく短剣に込められた加護を開放していた。
短剣から再び凄烈に無慈悲なる風が解放されるや、二人を押し潰そうとしていた巨大な目玉は真っ二つになったばかりか、風に押されて大きく左右へと吹き飛んで大図書館の一角を崩壊させながら突っ込んでいった。
「あちゃあ、威力あり過ぎよ、この短剣。ねえ、トラブリ!」
フライパーの操縦は止めぬまま、シュリュは傍らを飛ぶトラブリへある確信を持って話しかけた。トラブリの方もそろそろかな、と思っていたので、特に動揺した素振りは見せない。
「な~に~?」
「また気の抜ける声を出して。この短剣に込められている加護って、フスタールの力じゃないんでしょ? フスタールの力だとこう、肌の泡立つ感覚がするけれど、貴女に加護を掛け直して貰ってかはそんな事が全然ないのだもの。いくらなんでも怪しむわ!」
「だっはっはっは、ついにバレたか!」
「ちょっと、その笑い方ははしたないわよ。話を戻すけど、貴女ってHとかCとかとは別のところか来たの?
この間、黄金の蜂蜜酒の一気飲みで自我があやふやになっていた時に、何だかおっきくて、ものすごく偉い感じのする竜に話しかけられた気がするんだけれど、その時に貴女の事を何か話したような、話さなかったような……う~~ん」
「ああ、シュリュの精神がちょっと拡散しすぎて希薄になっていた時の話? その竜はぼくの身内だよ。一応、こっちにも竜の知識はあるんだったね。まあ、そこまで詳細な内容じゃないけれどさ」
「今、あの時の竜が身内って言った? じゃじゃじゃじゃ、じゃあ、トラブリも?」
「姿を変える位は簡単だしね。それとHの領域に来たのは本当に観光のつもりだったんだよ? 君を助けたのだって、こりゃいけないって思っただけで、別の意図なんてなかったし。そこから先は君の事を気に入ったから、とっても贔屓しているのさ」
「どこからどう見ても人間の女の子だけれど、あれだけ胆が据わっていて、不思議な雰囲気を持っているのだから、人間じゃないって言われてもそんなに疑う気にはなれないわ」
「それは良かった。君に疑われるとはとても傷つくからね」
「どこまで本気なんだか。それで、これから貴女はどうするの? 私の事を抜きにすればここから脱出する位は出来るんじゃないの?」
「んー、楽勝だけれど、ぼくが今日までここに留まっていたのって、シュリュの事が気掛かりだったからだし、CとHが本格的に戦い始めたからといって、君の事を放り捨てて行くわけにはいかないさ」
「数奇な運命っていうのかしら、こういうの」
「運命の敷いたレール位なら全部引き剥がせるから、運命みたいに何かに導かれたとか定められていたという事はないよ~。ん、キングイエローがまた痺れを切らしたみたいだね」
海と風の激しい争いの中、死した眷属の魂を食べながら戦っていたキングイエローが、硬直しつつある戦況に変化を加えるべく、仮面の奥から冥府の底で亡者を凍らせる風のような声を周囲に発した。
C側のフォルマウスや海魔達は、そのキングイエローの声と思念を浴びるやその場で内側から破裂して汚い花火となったが、ウェディゴやビャーキー達は逆に寿命を縮める代わりに一時的な強大な力を付与されて、異様に膨張した肉体と血走った目のままフォルマウス達へと襲いかかる。
「ふんむ、大図書館の外に居る眷属を呼び寄せ、戦力を集中して一気に叩き潰す感じか。それに眷属の大部分を使い捨てにするつもりだな」
キングイエローの声に呼応したウェディゴの一体が、海魔に頭の半分を齧られてもなお命尽きるまで暴れ回り、最後には全身を腐らせて死ぬ姿に、トラブリは嫌悪を隠さない。
大図書館の外に居た者達はまだしも、内部でキングイエローの声を聞いた眷属はほぼ全員が自我を喪失して、フォルマウス達を殺傷するだけの存在になり果ててしまっている。
大図書館近隣を取り巻く風の牢獄とCの海の向こう、それこそ三百六十度ありとあらゆる方向から、黒い雲のように見える膨大な数のHの眷属達が姿を見せて、近づいて来ている。
すぐさま数千万、数億の単位での戦いが始まるだろう。トラブリは所詮その程度と気にも留めておらず、心を砕いているのは傍らで茫然とし始めたシュリュのフライパーが墜落しないように気流で包みこんで保護する事だった。
キングイエローの声と思念を受けて発狂しなかった唯一のHの領域の住人、それがシュリュだ。その彼女もキングイエローに呼びかけられ続けられて、正気と狂気の狭間で揺れ動いている。
焦点がズレてぼんやりとした顔つきになっているシュリュは、この瞬間、キングイエローの思念に心を囚われていた。
瞳は周囲の光景を映しておらず、彼女の瞳にはキングイエローと謁見した時の謎の空間が広がっており、その中に巨体と化したキングイエローが支配者の如く立って、シュリュを見下ろしている。
キングイエローの思念を人間が正確に理解する事は不可能に近いが、それを敢えて人間に通じるように翻訳するのならばこうだろう。
“血ヲ、肉ヲ、魂ヲ捧ゲヨ。眷属ヨ、信仰ヲ持ツ者ヨ”
シュリュの頭の中で、心の中でキングイエローの命令が何重にも響き渡り、それ以外の音は一切耳に入ってこず、体の感覚も喪失してしまっている。
聞こえるのはキングイエローの声。見えるのはキングイエローの姿。思考を占めるのはキングイエローからの命令のみ。
他の者達が嬉々としてそうしたように、シュリュもまたそうしなければならないし、そうする事が何よりの喜びであると物心つく前から教え込まれてきたのだ。キングイエローの声を受け入れ、思念に全身を委ね、そうして凍てつく風を纏う巨人か星の世界を飛翔する飛行生物へ!
「う、ううう、ううう」
“拒ムナ。ソレハ幸福。ソレハ歓喜。ソレハ安心。ソレハ不変。ソレハ永久”
「い、や、いや。いやよ。私は、私で居たい。まだ……私はなにも、何もしていないの、だから」
“来タレ。来タレ。来タレ。我ガ声ヲ。声ヲ、声ヲ、声ヲ、聞ケ!”
「いや! さっきから一方的に、押しつけがましく、聞きたくもない声を聞かせて来て、何様のつもりよ!?
誰もかれも貴方の為に生きてきたからって、私までそうする義理はない! 分かった! 分かったなら、さっさと黙れ、うるっさいのよ! そのキンキン声!!」
言ってやった。ああ、そうだ、言ってやったぞ! 生まれてからずっと敬い、崇め、信じてきた神の化身に、とんでもない事を言った。言ってしまった。言ってった!!
ああ、なんて畏れ多いのだろう。そしてそれ以上になんて痛快で、めちゃくちゃに気持ちいのだろう! これまでずっと自分の人生を縛り、進む道を定めてきた神に、思いっきり唾を吐いてやったのだ。
なんて罰当たりで、なんて不義理で、なんて背徳的な罪悪感と快感なのだろう。
シュリュの心が溶岩のように熱く煮え滾る感情の奔流に浮かされる中、キングイエローの意識がそっとシュリュに伸ばされる。
怒りや不快と呼ぶ程の意識をキングイエローが抱いたわけではない。ただ、己の意にそぐわぬものを排除しようとしただけの事。キングイエローにとって、シュリュは羽虫にすら劣る小者だ。
しかし、羽虫以下、いや、羽虫未満だとしても、それは恐るべき竜の庇護を受ける羽虫なのだと、キングイエローは知らない。
キングイエローがシュリュの意識を磨り潰し、狂気の奥底まで突き落とすのは一瞬で十分だったが、同時に竜の庇護が届くのにもまた十分であった。
「あっはっはっはっは! そうそう、そうでなくっちゃ! ぼくは割とマイラールみたいに人間が神々から自立するのがいいんじゃない? て考えているから、シュリュの啖呵は気持ちが良いねえ!」
気持ちの良い風が後ろから吹いてきた、とシュリュが気付くと、彼女の意識は現実の世界へと連れ戻されていた。
傍らには変わらずトラブリの姿があり、頭上ではCとH双方の怪物共が殺し合いを続けているし、その死骸が降り注ぐ中でトラブリはこれ以上ないと言う程、にっかりと笑っている。
「シュリュ、この場はぼくが収めて見せるとも。ただま、ちょっと君が帰省するのが難しくなる収め方しかぼくには思いつかないわけなのだけれど、いかが?」
「なんでそんな急にって、ああ、でも貴女ならそれ位の事が出来るのね?」
「まあ、ね」
「そう、友達は何人か居るけれど、両親はもう変わっちゃったし、さっきキングイエローにもどえらい暴言を吐いちゃったし、もうここに居場所はないわ。ていうか、自分で居場所は失くしたんだから、出て行くしかないと思うわ」
はあ、と特大の溜息を零すシュリュに、トラブリはししし、と笑うばかり。今朝までは困難ことになるとは思っていなかっただろうシュリュに、少しくらいは責任を感じているだろうが、この笑みを見ているとどうにも怪しい。
「そう、それは良かった。とりあえず君が好きに飛べそうな場所まで連れて行こうとは思っていたんだけれど、少しは君に恨み節をぶつけられても仕方ないとビビってたからね」
「これまで散々振り回しておいて今更じゃない? もちろん、それ以上に貴女にたくさん助けられて、たくさん感謝しているのも本当だけれど」
「いやはや、好きな相手には嫌われたくないと怖がるのはぼくだって君らと変わらないさ。さあ、それじゃあ、シュリュ、一時のお別れだ。このままただまっすぐフライパーを飛ばすんだ。そうすれば君はもう何も縛るもののない空に辿りつける」
「説明が全然足りていないと思うわ。それで、シュリュは大丈夫なの? 危ない事はしない?」
「物騒な事はするけれど、ぼくが危ないって事はないよ。まったくね。一時の別れなんて言い方をしたけれど、またすぐに会えるよ。拍子抜けする位呆気なくね」
「そう、貴女は隠し事をするけれど嘘は吐いて来なかった……筈だと思うから、信じるわ」
「うん、よしよし。それじゃ、全速力でかっ飛ばすんだ。ピカって光ったら、それが移動の合図だからね」
「本当に大雑把な説明ね。信じるからね?」
「だいじょーぶ。ぼくは約束を破らないよ」
そう言って相変わらず下手くそなウィンクをするトラブリに毒気を抜かれ、シュリュは一度だけ深呼吸をして覚悟を固める。さあ、これで生まれ育ったこの世界とはおさらばらしい。
「いざ、自由なる世界へってね!」
少しだけ震えた声音でシュリュはフライパーの操縦かんを握り直し、エンジンへの負荷に目を瞑って、トラブリの言う通り全速力を出させる。
ぐんぐんとシュリュの姿が遠ざかり、彼女がある程度離れたところでトラブリはふうっと息を吐いた。
たんぽぽの綿位しか吹けないような吐息だが、それはシュリュの頭上に降り注いでいた死骸と大図書館の破片を全て吹き飛ばし、彼女の進路上にある障害物の全てを薙ぎ払う。
そしてシュリュを邪魔するものが消え去った直後、トラブリが言ったようにシュリュがフライパーごと光に包まれると、彼女の姿はもうこの世界には存在していなかった。
「ふふん、これでシュリュの安全は確保できたから、そろそろ拳骨を上げに行きますか」
トラブリはふわりと自分のフライパーから飛び降りると、フライパーと旅荷物をどこかへと仕舞いこみ、細めた瞳を頭上の二柱へと向ける。
大図書館内部の大気はキングイエローの支配下とダグォンの影響下にあるが、トラブリにとってはここが誰の支配下であろうが影響下であろうが、意味のない事であった。
そう、トラブリ――始原の七竜の一柱、ヴリトラにとっては!
人間の少女の姿から十二枚の翼と八本の尾を持つ、始祖竜の翼より生まれし最高位の竜たる超越者の姿へと戻った『ヴリトラ』は、竜らしき咆哮を上げる事はせず、ただ一陣の風となってキングイエローとダグォンの間に割って入る。
それまで大図書館に満ちていた大気とはまるで異なる、清涼にして膨大な力の宿る風が大図書館内部を見たし、二柱の神の瘴気は微塵も残らない。
ヴリトラの姿を認めた瞬間のキングイエローとダグォンひいてはその眷属達の反応は、『無』であった。
彼らは認めたくなかったのだ。始原の七竜の一柱が、彼らの領域に居る事を。そしてヴリトラが戦うつもりでこの場に姿を見せた事を。そして何より自分達が始原の七竜と遭遇してしまったと言う、何よりも認めがたき事実を!
ここで反応を見せてしまっては、ヴリトラがここに居る事を認めてしまうではないか。
「うーん、さて、拳骨一発とは考えたものの、本来ぼくは外様も外様、他所者もいいところだ。ここで君らを叩きのめし過ぎのも過剰な干渉というもの。ちょいと粋じゃないやね。なので、これで済ますよ」
キングイエロー達の巨躯に勝るとも劣らぬ大きさで顕現したヴリトラが言うや否や、彼女の姿は消えて、最初はキングイエローの前に、続いてダグォンの前に。そしてヴリトラの右手が伸びるや、二柱のデコをピン! と弾いた。
直後、二柱の巨体はこの世界の果ての果てへと吹き飛び、同時に発生した余波がまだ生き残っていたフォルマウスやウェディゴ達を巻き込んで、素粒子すら残さぬ程に破壊し尽くした。
「滅ぼさない位に手加減したし、これから何億年か気絶するか。キングイエロー経由でフスタールにも一発叩き込んでおいたし。
さてさて、その間に残った人間君達が信仰を捨てるか、それとも信仰を維持するか、あるいは気絶したキングイエローを起こすかは知ったこっちゃないけれど、ほったらかしなのも無責任すぎるかあ。
う~ん、いずれここの人間達が次元の壁を越える技術を獲得した時の事を考えると、内側から外へ出る分には自由、フスタールの火事場泥棒を狙う連中が干渉出来ないように外からは入ってこられないように結界でも貼っとくかあ」
ヴリトラは、めんどくさ、ぼく向きじゃない、バハムートかドラゴンの得意分野だよ、とブツブツ呟きながら、自分の手で神を排除したばかりの世界のアフターケアに勤しむ。
不向きとはいえ古神竜たるヴリトラの構築した結界は、神々の基準からしても極めて堅牢なものとなり、何よりもこの結界に不用意に干渉すれば竜界に警報が届くぞ、と分かりやすく警告してある事が最大の目玉だった。
フスタールが気絶している隙を狙ってこの領域に手を出せば、それはヴリトラへの敵対宣言とみなされるのだ。誰が好きこのんで古神竜と敵対すると言うのか。
「さて、シュリュは、うん、無事に竜界に辿りついているね。技術水準が同じ位の避難してきた子達の星に送り届けたし、ぼくの仲介があれば生活していけると思うけど、頑張ろうっと!」
既に用はないとばかりにHの領域には興味を失ったヴリトラは、シュリュが思った通りの場所に到着している事を視認し、ほっと安堵の息。
まったくもって理不尽、まったくもって不条理、まったくもって無責任。まさに他と隔絶した力を持つ超越者だからこそ可能な、出鱈目な振る舞いそのものだった。
フスタールが昏倒したとはいえ、ヴリトラの結界のあるHの領域は他の邪神からの侵略の魔の手は及ばぬだろうが、そうではないCの領域は主たる神の昏倒を良い事に、膨大な数の侵略を受ける事になるだろう。
誰かがその事をヴリトラに追求したとして、彼女はあっけらかんとこういうだろう。
「風は勝手気ままに吹くもんさ。彼らのところには良い風が吹かなかったんだね」
ただ、それだけの事だと。
<終>
シュリュの茜色の癖っ毛は使い古した革の飛行帽の中に押し込められ、琥珀色の瞳は分厚いゴーグルの奥に隠れている。
今年で十七になるシュリュは年相応に女性的な柔らかさを持った健康的な体に育っていたが、今は野暮ったいデザインのツナギを来ているから遠目に見れば男か女かも分かるまい。
シュリュは腰のベルトに固定した鞄からガラス瓶を取り出して、半分程残っていた黄金の蜂蜜酒を一口飲む。
蜂蜜酒のとろりとした触感が舌に触れ、馥郁たる蜂蜜の香りが口の中に溢れ、鼻孔をくすぐった直後、シュリュの全身に酩酊と快楽の混ざり合った感覚が走る。それと同時にシュリュの瞳がぼんやりと黄金色に発光する。
蜂蜜酒、蜂蜜酒、ああ、黄金の蜂蜜酒! シュリュの肉体のみならず精神、魂までもがその知覚範囲を大きく広げ、遥かなる霊的な高次世界にも異なる法則が支配する異世界までが見通せる。
そのまま空の果て、星雲の彼方にまで飛んで行ってしまいそうになる心をどうにか宥めて、シュリュは目の前と全身をつつみこむ現実に意識を切り替える。
シュリュは今、空を飛んでいた。上を見上げても下を見敢えても、果てが存在しない無限の青空である。大地は空の中にぽつぽつと浮かんでいる大小の浮島に限られる。
そんな空に生きるシュリュの姿は、昆虫の羽のように透き通った翼を側面から生やした三角形の乗り物の上にあった。
椅子に腰かけたシュリュの腰と台座を命綱が結び、台座から伸びた二本の湾曲した棒をシュリュの手が握って操作する事で台座の後部にある舵を切り、乗り物の進行方向を操作している。
加速と減速は棒を捻る事で行い、上昇と下降は棒を上下に動かす事で行う。
この空と浮島ばかりが広がる世界で、一般的な乗り物であるフライパーだ。このフライパーに乗り、島と島との間を行き来して郵便物を配達するのがシュリュの生業なのだが、どうにも今日は具合が悪い。
今日の風に混じる雨の匂い、生き物の臭気、湿度、粘度、魔力、神性の気配、それら全てがただの自然現象ではない事を暗に示していた。
まだ雨粒の混じらない風を切って進みながら、シュリュは愚痴を漏らす。
「参ったなあ、次の島までまだ距離があるのに、あいつらが出てきたら……」
フライパーは台座部分の両脇から取り込んだ大気を内部で加熱し、放出する事で大気のある場所なら半永久的に飛行できる乗り物だが、シュリュの懸念している『あいつら』を易々と振り切れる程の速度は出ない。
あいつらの所為でシュリュのような配達人がこれまでに何人犠牲になってきた事か。シュリュはベルトに括りつけた短剣にそっと触れた。頼りない事この上ないちっぽけな短剣が、シュリュの身を守る唯一の術であった。
風に乗って漂流している大小の岩石を避け、見慣れた浮島の数々を横目に通り慣れた風の流れに乗っていると、直に気流の分かれ道を示す道しるべの柱が貫通している巨大な浮き岩が見えてくる。
ここまで来ればもう二時間程で届け先の目的地に到着できる。あいつらに怯えるのはそれまでの辛抱だと、シュリュは操縦棒を握る手に力を込め直す。
しかし、改めて集中し直し、操縦棒を握った直後にシュリュの口元に浮かんでいた笑みが引きつった物に変わった。
気が弛んだからというわけではあるまいが、操縦棒に取りつけられている後方確認用の鏡に、上空から降下して来て自分の背後を取ったあいつらの姿が写り込んだのだ。
「うそでしょ、こんな人里に近いところであいつらと遭遇するなんて」
あいつらは人間と変わらぬ肌色の体を持ち、絹のような美しい光沢を放つ白い布の服を纏い、そして首から上は奇怪な事に魚そのものであった。
何処を見ているとも判別しがたい黒目がほぼ全てを埋める瞳に、びっしりと鋭い歯の並ぶ鋭角の口。見間違いようのない魚の頭を人間達が、空をまるで水の中に居るかのように『泳いでいる』!
青光する鱗に包まれた魚の頭と女ならばたおやかで男ならば逞しい人間の体を持つこれらが、シュリュの言う『あいつら』であり、正式にはフォルマウスと呼ばれている。
シュリュは顔だけでなく全身から冷や汗を噴きながら、フライパーに掛る負担を無視して一気に加速する。
「手入れは欠かしてないんだけどな!」
ぐん、とフライパーは加速を見せるがそれでも空中を泳ぐフォルマウス達の方が速く、徐々に距離が詰められているのは傍目にも明らかだ。
フォルマウス達の瞳に殺意の色や飢餓の輝きは宿っていない。だからこそ余計にシュリュを始め、このHの領域に住まう者達にとって恐怖の対象であった。
Cの領域からやってくるフォルマウス達にとって、シュリュ達を殺害する事は意識した殺人でもなければ、食事でもない。単なる作業に過ぎないのだ。
ただ淡々と作業して殺戮行為を繰り返す、おぞましい天災ども!
フォルマウス達の頭から発せられる生臭い臭いがしたような気がして、シュリュは背後を確かめる手間すら惜しみ、右手で短剣を抜き放ち、同時に叫ぶ。
神よ、神よ、黄金の蜂蜜酒を授けてくださった我らの神よ、どうかお助けを!
「いあ、いあ、フスタールの風よ!」
Hの領域に住む全ての生命の神たるフスタールのおぞましき名を叫ぶと、短剣に込められた神の加護が発動して、背後のフォルマウス達とは別に真下から襲いかかろうとしていたフォルマウスの五体を見えざる風の刃がぶつ切りにする。
シュリュが下から聞こえてきた表現しがたい呻き声に気付き、つられてフライパーから下を覗きこめば、真っ赤な血を四方にぶちまけたフォルマウスのバラバラ死体が空の彼方へと落ちてゆくところだった。
魚頭からは分からなかったが、服がはがれて露わになった裸体が一瞬、シュリュの瞳に映り込み、自分よりも二つか三つ年下の少女だったのが分かった。
「どどど、どんなもんよ!」
年下だからどうした。あいつらはこっちを問答無用で殺しにくる相手だ。同情等欠片もしてやるものかと、大声を張り上げたのが良くなかった。
操縦に対する意識が逸れてしまった為に、背後から速度を上げて食いついてきたフォルマウスに気付くのが遅れてしまったのだ。
「っあ!?」
思考するよりも早く肉体が真っ先に動き、首から上を齧り取られるところを咄嗟に急旋回する事で、左肩の布地を持っていかれるだけで何とかやり過ごす。
目まぐるしく変わる視界と急旋回によって体の内臓が押し潰されそうになる程の負荷に襲われながら、シュリュは必死に意識を繋いだ。
蜂蜜酒を飲んでいなかったら、急旋回と同時に意識が吹っ飛んで、フライパーは操縦不能になり、フォルマウス達の牙に掛っていただろう。
一匹目を避けたところで二匹目、三匹目とフォルマウス達は群れで狩りをする魚となって、シュリュに休む暇を与えずに襲いかかってくる。
圧倒的弱者の立場に在るシュリュを弄ぼうという意識もなく、最短で命を奪おうとしているだけの動きだ。
短剣はもう駄目だ。偉大なるフスタールの加護はみだりに与えられるものではない。今の一度で加護は失われて、ただの古ぼけた青銅の短剣になってしまった。
どうにかして、自力でフォルマウス達を振り切らねば!
ガチン、ガチン、とシュリュの耳に、間近で牙と牙の噛み合う恐ろしい音が次々と届いてくる。
その度にシュリュの心臓は跳ね上がり、寿命がごっそりと削られる思いだ。寿命ばかりか神経だって削られているに違いない。
「ああ、今度は飛行帽の端を齧られた。今度はフライパーを掠めた! 買い換えたばっかりなのに、どれだけ頑張って節約したと思ってんのよ!!
ああ、くそ、くそ、こんなところで死にたくないのに。ああ、もっともっと空を飛びたいのに、もっと遠くまで、どこまでも飛んで行きたいのに!」
いつの間にかシュリュの前方へと回り込んだ三匹のフォルマウスに気付いて、シュリュの脳裏にこれまでの記憶が走馬灯のように走る。その中にこの状況を打破できる記憶があればと足掻く生存本能が見せる映像には、しかし、救いがない。
前に三匹、後ろに四匹、一体どれだけ細かく食い千切られてしまうのか、最後に考えるのがそんな事なのかと絶望するシュリュの瞳に、前方のフォルマウスの奥からこちらへと向かってくるフライパーが映る。
助けが来た? そう都合よく行く事があるのか、もしそうならば偉大な支配者フスタールへの今月の捧げものを奮発しなければ!
絶望から一転、滑稽な程歓喜に満ちたシュリュだが、そのフライパーに乗っている緑色の髪の快活そうな少女が、こちらの状況をまるで理解していない様子でにこやかに手を振っているのに気付き、再び絶望へと感情を大きく変える。
絶望、喜び、絶望と目まぐるしく変わる心模様に、シュリュは今にも卒倒してしまいそうだった。
それでも体は更なる犠牲者が出ないようにと、せめて警告を発する事を選んでいた。窮地においてこのような行動が咄嗟に出てくるのが、シュリュという少女の善性の表れだった。
「逃げなさ――」
「やあああっと人間見つけたよ! 良かった、良かった!!」
元気の塊のような声がシュリュの鼓膜を盛大に叩き、ついでパチン! と小気味よい位の指を弾く音が続き、その音はいったい何だったのか、フォルマウス達の首が一斉に跳ね飛ばされた。
まるでしっちゃかめっちゃかな脚本で動く演劇の一幕みたいな突然の事態に、シュリュの口からは言葉にならない単語の羅列が零れ出る。
「は、え、あえ?」
綺麗に魚の頭と人間の体の部分で斬り分けられフォルマウス達が海中に沈むように、空の下へと落ちてゆく姿を見ながら、シュリュは気付いていた。
黄金の蜂蜜酒によって拡張され、鋭敏化された霊的知覚能力が、眼前の少女が起こした風によって、フォルマウス達の首が断たれた事をシュリュに理解させていたのだ。
「か、かぜ、風の刃であいつらを?」
自分に言い聞かせるように事実を口にするシュリュの左側に、先程の少女が見事な操縦でフライパーを横付けした。
「そうだよ~。ぼくは風の扱いに掛けてはちょっと自慢できるのさ!」
いつの間にか距離を縮めていた少女の顔には、自慢気な表情が浮かんでおり、その陽気さがつい今しがたまで死を覚悟していたシュリュの心の緊張を瞬く間にほぐしてくれた。
シュリュより三つか四つは年下だろうか。フライパーで浮島間を飛ぶ的には欠かせない飛行服と所々髪の毛が零れている飛行帽も若草色だ。首には真っ白いマフラーを巻き、腰に小さめの鞄を括りつけている。
「えっと、た、助けてくれてありがとう?」
「あははは、そこは疑問に思わなくっていいよ。あの生臭連中はぼくも嫌いでね。助けるつもりで助けたんだから、変に心配しなくっていいとも!」
大声で笑い飛ばす少女の様子に毒気を抜かれて、シュリュはこの少女を信じる事にした。
これで騙されているようならば、それは自分の見る目がなかったのだと諦める他ないだろう。そう思わせる人徳のようなものが目の前の少女にはあった。これで詐欺師だったら、世の誰であろうとも騙せるに違いない。
「ところで、私は見ての通りの配達人なのだけれど、貴女は?」
シュリュは左の二の腕に巻いた配達人の腕章を見せながら問う。
「ぼく? ぼくはねえ、旅人だよ。観光客って言い換えてもいいね。一つのところに留まっているのが出来ない性分でね。年がら年中、色んなところを見て回っているのさ。でもここらへんはほとんど来た事がなくって、ちょっと迷子になりかけていたんだよね」
「迷子……じゃあ、そこにフォルマウスに追われている私がやってきたって事?」
「そーそー、なぁんか、上から生臭いのが来るのが見えたから大急ぎで行ってみたら、君が追いかけ回されていたってわけ。助けたいから助けたってのもあるけど、それに加えて道を教えて欲しいっていう下心もあったのさ!」
「そう、そうなの。どっちにしろ、私は助けられた側だし、改めてお礼を言わせて貰うわ。ありがとう。それじゃあ、私の行き先はセエナっていう図書館都市なのだけれど、貴女もそこに行くので構わない?」
「うん、問題ないよ、ありがとう! 遅れちゃったけど、ぼくは、うん、トラブリって呼んでよ」
「トラブリ? ここら辺ではあまり聞かない名前ね。遠くから来たって感じがするわ。私はシュリュよ。それにしてもトラブリの風の扱いはすごいわね。
ウェディゴやビャーキイでもないのに、あそこまで風を操れるなんて、フスタールの御加護が相当強力なのね」
「うん? フスタール?」
「あら、貴女の生まれたところでは違う呼び方? このHの領域の支配者にして王たる神の御名じゃないの。
本当の御名は私達の喉では発声出来ないから、フスタール以外にもフスタタ、ハストゥル、ハースターとか、地方毎に呼び名が違うから、聞き覚えがない事もあるのでしょうね」
「あはは、そうそう、それだよ。それにしても自分を崇める者達が違う名前で呼んでも許してくれるなんて、懐が広いよね!」
シュリュはトラブリが何か苦笑している風なのが気に掛ったが、構わず話を続けた。神が寛大であるのには同意だったからだ。
「ええ、そうね。黄金の蜂蜜酒と空を飛ぶ手段を私達にお与えになり、大図書館から知識や技術をお分けくださる偉大なる神」
「うんうん、そうそう、そうだったね。いやいや、ぼくって忘れっぽくてね。このHの領域はそういう場所だったよ。ははは、『■#$~』は上手くやっているねえ」
感心した様子で言うトラブリの言葉の中に、何か聞くに堪えない、金属を無理やり引き裂いたような音が混じったのに、シュリュが盛大に顔を顰めた。
何だ、トラブリは何を口にしようとした? トラブリは何と口にした? 何かの単語、名前、動作? 何を、ナニを?
トラブリはシュリュに聞かせるべきではない名前を聞かせてしまった事に気付き、先程から大きかった声を更に張り上げる。
「いやー、フスタール、フスタール、フスタールね。ここでは神様の名前はフスタールと呼べばいいんだよね。シュリュのお陰で一つ勉強になったよ、あっはっはっはっは!」
「え、あ、ああ、そう、そうね。緊張が解けたせいか、ちょっとぼうっとしちゃったみたい。これじゃフライパーから落っこっちゃうわ。
それじゃ、気を取り直してセエナに向かうわよ。フォルマウスから逃げる為に無我夢中だったから、ちょっと気流から外れてしまったけれど、三時間もあれば着くでしょ」
「そうかい、ならそれまでの間、君の身の安全はぼくが保証しよう。」
正気に戻ったシュリュの様子に、トラブリはこっそりと安堵のため息を零して、シュリュの先導につき従ってセエナという図書館都市とやらを目指す。
トラブリにとって別にどこに行こうとも構わないのだが、取りあえず今回の目標は決まったし、何やら騒動の切っ掛けになりそうな子とも接触できた。これから奇妙奇天烈な風が吹くだろう、とトラブリは機嫌よく口笛を吹くのだった。
幸いにしてこれ以上のフォルマウスの襲撃はなく、シュリュとトラブリの二人組はセエナ図書館都市へ予定通りの時刻で到着できた。
シュリュとしては到着予定時刻を一時間以上超過しての到着であったが、途中でフォルマウスの襲撃があったとなれば、それも仕方のない事と仕事の評価に傷はつかなかった。
むしろよく生きて無事に荷物を届けてくれたと、荷物である石板を受け取った係の者から称賛された位である。
シュリュが荷物を届けている間、シュリュは図書館都市を田舎から上京してきたおのぼりさんそのままに、周りの光景を楽しげに眺めている。
セエナに限らず図書館都市とは文字通り、スエラノ大図書館の分館としての機能を有しており、スエラノ大図書館に収蔵されている書物の写本を収蔵し、またあるいは大図書館に送られる前の書簡や石板を精査する機能と役目を有する。
その性質上、図書館としての機能性こそが第一であり、都市としての居住性等は二の次だ。
それを証明するように都市の住人達の住居は、巨大黒いブロックを積み重ねられた本棚の中に埋もれるように建てられており、その周囲を大きさも形状も様々な書籍や巻物、石板に銅板、水晶上の物体などが埋め尽くしている。
シュリュのような人間以外にも円錐形の色とりどりの奉仕種族が本棚を忙しくなく行き来して、目録の確認や整理整頓に勤しんでいた。
「ふんふむ、ふんふむ、図書館都市とは言い得て妙な名前だね。■#……じゃなくってフスタールがどこまで図書を重視しているかっていうと、かなり疑問だけどさ。まあ、ここの人達が言うところの『C』の連中よりはいいかな?」
「おおい、トラブリ、お待たせ!」
トラブリが背中を預けていた黒いブロックの扉が開き、配達物の受け渡しと事情説明の終わったシュリュが顔を見せる。
「お疲れ様。仕事は問題なかった?」
「ええ、今回は事情が事情だからね。それで、トラブリは何か面白い物を見つけられた?」
「この図書館都市自体が面白いもので構成されているよ。今んところは見ていて飽きは来ないかな。でもお腹は減ったな! シュリュはここでどこか美味しいものを食べさせてくれるところを知らない?」
「それなら私がいつも通っているところがあるから、そこに行きましょう。私はこのままセエナで一泊してゆくけれど、トラブリはどうするの」
「そうだね、せっかくだからぼくも一泊位はしていこうっかな。何から何まで君に頼って申し訳ないけれど、宿も教えてくれると嬉しいな」
「貴女は命の恩人なのだから、それ位はどうって事ないわよ。それじゃ、まずは腹ごしらえからね。もう良い時間だし、満席になる前に席を確保しないと」
「おーし、急ごう!」
「おー!」
シュリュが案内したのは配達人を始め、島と島とを行き来する者達向けの安価な宿の一つだった。
Hの領域において仕事は全て公営――支配者たるフスタールへの奉仕に連なると定められている為、所謂サービス業の価格設定は買い換えたばかりのフライパーの修理費用の見積もりを見て、顔を引きつらせたシュリュにはありがたいものとなっている。
図書館都市を構築している黒いブロックの中をくりぬいた中に、食事処兼宿屋『琥珀の羽』はあった。シュリュと同じように配達人の身分証である腕章を着けた者や、司書の下働きをしている者達が詰めかけていて、五十人分の席は八割方埋まっている。
床や天井ばかり机もブロックと同じ素材で作られており、開け放たれた窓から差し込む夕暮れの光と天井から無数に吊るされたランプが食堂を照らし出している。
シュリュもそうだが、誰もかれもが黄色や黄金、琥珀色の瞳をしていて、これは先祖代々黄金の蜂蜜酒を摂取し続けてきた影響だ、とトラブリは気付いた。まあ、トラブリにとってはどうでもいい事である。
シュリュは慣れた様子で受付の中年の女性に話しかけて、トラブリの分まで部屋を取ってくれた。そのまま店員に案内された三階の部屋に荷物を置いて、飛行服を着替えてから一階の食堂で腹ごしらえだ。
シュリュは黒いシャツと深緑色のズボン姿で、トラブリも色が上下とも薄緑色と言うだけでシュリュと全く同じだ。どちらも柄などはない簡素極まりない意匠だ。洒落っ気の欠片もない。
「おばちゃん、とりあえず黄銅の蜂蜜酒をジョッキで二つ。それに適当におすすめを持ってきて!」
通い慣れているシュリュに注文を任せたトラブリだが、他にも何があるのかなとメニューに目を通す。
Hの領域の住人が愛飲している蜂蜜酒だが、最高のものは神々とその眷属から下賜される『黄金』の蜂蜜酒で、そこから『白金』、『銀』、『黄銅』と格が下がるようだ。
まもなく冷たい水の粒をいくつも滴らせたジョッキが運ばれ、羊肉を中心とした串焼きや揚げ物、生野菜のサラダ、羊のチーズがずらずらとテーブルの上に並べられてゆく。
「おお、いいねいいね、お腹がぐーぐー鳴るよ。それにしても羊肉が山盛りだね」
「フスタールは羊飼いの神でもあるから、Hの領域では家畜と言ったら羊だし、羊といったら家畜よ。やだ、そんな事も忘れたの? ド忘れにしてもひどいわね。
さあ、食べましょう。今日の疲れを癒し、明日への活力とする為には何はともあれ食べて飲むに限るわ。まずは蜂蜜酒よ、蜂蜜酒!」
「ははは、周りもそうだけれど皆、蜂蜜酒が好きだね」
シュリュ達以外の客も飲んでいるのは羊のミルクか蜂蜜酒、あるいは蜂蜜酒を使ったカクテルばかりだ。他の酒の類は一切注文されておらず、そもそもメニューにも存在していなかった。
「そりゃあね、私達にとっては命の水、最も身近な神の恩寵ですもの。好み以前に呼吸をするのと同じで、飲むのが当たり前のものよ。旅人とはいえHの領域の住人なら、貴女だってそうでしょう」
「まあね。幸いぼくにとっては好きな味だし。それではシュリュの仕事が終わった事とお互いの無事に」
「それと新しい出会いに」
乾杯! と二人の少女の声が唱和して、ジョッキの中身は見る間に少女達の喉が鳴るのにつれて、胃袋におさまるのだった。
シュリュは、黄金の蜂蜜酒と比べればどうしても味は落ちるが、確かに微量の魔力が込められた黄銅の蜂蜜酒を次々と胃の奥に流し込みながら、向かいに座るトラブリと他愛無い話に耽っていた。
他の客達は皆自分達の話に夢中で、ただの配達人と旅人の会話を気にも留めていない。
幼げな外見のトラブリだが酒には強いようで、物ごころついた時から蜂蜜酒に浸かって生きてきたシュリュに負けず劣らずの勢いで蜂蜜酒を空にしている。
「そういえばシュリュのフライパーは随分と古かったわね。もし思い入れがあるようだったら悪いけど、物を大事にするのにも限度があるんじゃないの?」
「まー、見た目はボロっちいし、乗っているぼくよりも見ている方が不安になっても仕方ないよね。でもぼくにとっては長い付き合いの相棒さ。元々は不時着でもしたのか、半分壊れて土に埋もれていたのを引っ張り出して、どうにかこうにか修理したんだぜ。
手間暇かけて、苦労もした分、愛着はひとしおだよ。あれで見た目も中身も古いったらありゃしないけれど、ぼく専用に調整してあるからね。他人にはガラクタでもぼくには最高の相棒なんだ」
「へー、簡単な修理なら誰だって出来るけど、壊れたフライパーをもう一度問題なく飛べる位に修理するなんて、中々難しい話よ。トラブリって器用なのね」
「ありがと。フライパーで空を飛ぶのが気に入っていてね。旅人っていうか風来坊をやっているのも、好きなだけ好きなように空を飛びたいって考えがあるからさ。風来坊っていいよね、ほら、風来ってさ。風と共に来るって解釈できるでしょ?
まあ、定職につかずにあっちをふらふら、こっちをふらふらとしているもんだから、色々と言われる事はあるんだけれどね」
「自由人ねえ。でも空を飛ぶのが気に入っているっていうのは、私も分かるわ。私が司書業務や神官職に就かずに配達人をしているのも、フライパーで色んな場所を飛び回れるからだしね」
「神の影響か、ここの領域の住人は誰だって空を飛ぶのが好きって言うか、ごく当たり前の事として受け入れるけど、君はその中でも一等突き抜けているのかな」
「かもね。時々、どこまでもずっとず~っと空を飛び続けていたいって思う事があるくらいなのよ。フライパーじゃなくって、自分に翼が生えてどんな所へも風のように飛んでゆく事が出来たら、どんなに良いだろうって」
「んん、なるほど、それは大いに共感できるよ。ここは飛ぶものにとって過ごしやすい、あるいは都合が良いように作られているから、好きなだけ飛んで行けるならそりゃあとってもいいだろうな」
心の底から共感した顔を見せるトラブリにシュリュは機嫌を良くしたが、これ以上言葉を重ねると流石に周りの客達に咎められるかもしれないと声を小さくする。
「話が合うわねえ。皆、空を飛ぶのは嫌いじゃないけれど、それよりも神への奉仕が第一だって言うから、あまり声を大にしては言えないのよ」
「まあ、ここに限らず『領域』の住人というのはえてしてそういうもんさ」
最初からそう創られた、連れてこられてからそうされてしまったのが、目の前のシュリュを含めた各領域の住人達なのだと、トラブリは言葉にはせず、胸の内で呟いた。
「君のその夢が叶うにせよ、配達人として働くにせよ、Cの領域の連中とのイザコザがひと段落するまでは、安心して空を飛ぶ事も出来ないだろうね」
「Cの領域の連中との争いは今に始まった話じゃないし、それこそ私達人間が生まれる前からの話だから、連中との争いが無くなった状態っていうのはちょっと想像がつかなかったりするの。これも声を大にしては言えないけどね」
「どっちも総大将がしぶといからねぇ。でも最近の感じだとあっちは随分と大胆な攻勢に出ている様子らしいじゃない」
「私みたいな下っ端には想像しか出来ないけれど、きっとウェディゴのエルダーやロードビャーキー、それに王が対策を考えているわよ。これまであいつらを滅ぼす事は出来なかったけれど、あいつらも私達を滅ぼす事は出来なかったのだから」
「それじゃあ、終わらない堂々巡りだなあ」
うんざりとした調子であけすけに言うトラブリに、シュリュは心から同意した。Hの領域の住人としては落第ものの返答だが、不思議とトラブリ相手になら口にしても大丈夫だと感じられる。
シュリュよりもトラブリの方が、遥かにHの領域の住人らしくない雰囲気を持っているからだろう。
「だからって滅ぼされるわけにもゆかないもの」
「それもそうかあ」
「そうよ~」
「そうだねえ、あっはっはっは」
何がおかしいのか誤魔化すように笑いだしたトラブリにつられてシュリュも笑い出し、二人は手に持ってジョッキに並々と注がれている蜂蜜酒を一息に飲み干した。
それからも更にお互いのこれまで見聞きしてきた場所の話をし、お腹がいっぱいになるまで蜂蜜酒を呑み、美味なる料理に舌鼓を打ったシュリュは実にいい気分のままベッドの中に潜り込んだ。
明日は断腸の思いでフライパーを修理に出し、財布の中身をうんと軽くしてから配達人の仕事を見つくろって、このセエナ図書館都市とおさらばだ。
トラブリという気持ちの良い命の恩人ともお別れになるが、シュリュ以上に自由な気風のトラブリとはまたどこか別の場所で再会できるのではないかと、密かに期待していた。
「ああ、良い夢見れそ」
暖かな布団に包まれて、まどろみに誘われたシュリュは本心から疑いもせずにそう信じて子供のように無邪気で、無垢な願いを口にした。
眠りに落ちた意識が次に覚醒した時、シュリュの体内時計は睡眠時間が三時間だと告げた。重く感じられる瞼を開くと、こちらを覗きこむトラブリの顔があった。彼女に肩を揺さぶられた事で、目を覚ましたらしかった。
「やあ、シュリュ。眠っているところ悪いんだけど、すぐにこの都市を離れるよ。そうしないとまずい事になりそうだからね」
「ここを離れるって、一体どうして?」
穏やかではないトラブリの発言に完全に目が覚めたシュリュは、上半身を起こしながらトラブリに問いかけた。もう頭の中に残っていた眠気は吹っ飛んでいる。
トラブリはそんなシュリュの手を引っ張り、ベッドから半強制的に引きずり出しながら簡潔に答えた。シュリュを起こしに来るまでの間に、返答を考えていたのだろう。
「単純明快な話でね。ここ、Cの領域の連中に襲われている最中なんだよね」
「……へ、え、ええ!? 嘘でしょ、こんな大きな都市に連中がやってきているの!」
「本当の本当だって。そこの窓からちょっと外を覗いてごらんよ。分かりやすくCの連中が空を塞いでいるから」
トラブリが手を放してくれたのに合わせ、シュリュは大急ぎで部屋の窓へと駆け寄る。
そんな、まさか、とトラブリの言葉を受け入れられない理性が叫んでいたが、緑色の少女の言う通りに空を見上げれば、見間違いようもない魚頭のフォルマウス共がうようよと蠢いて空を塞ぎ、我が物顔で虚空を泳いでいるではないか。
ああ、そればかりか!
「うっそ、空に海が出来ている。海が空を塞いでいるの!?」
まさにそうとしか表現できない光景が、この図書館都市の空に発生していた。既に夜になり世界は暗黒に呑まれているが、それでも図書館都市では休まずに働く奉仕生物と夜勤の司書達が居る為に、無数の照明が灯されて場所によっては昼間と変わらぬ明るさだ。
そのお陰もあって、シュリュには底といってよいのか、終わりの見えない膨大な水の層が空いっぱいに広がっている異常な光景が見えてしまった。
シュリュが『海』と表現したのも無理のない巨大なスケールの水が、確かに重力に逆らって存在している。海中を悠々と泳ぐ多種多様なフォルマウス達の姿に気付き、シュリュは背筋に悪寒を走らせた。
「これは、ちょっと、どうしようもないんじゃない」
急速に胸の中で広がる恐怖と絶望に精神を脅かされるシュリュの口元には、もはや笑うしかないと引きつった笑みが浮かんでいた。
そんなシュリュとは対照的に、トラブリはフォルマウスの大群と彼らの領域が突如として出現した事を何ら脅威と認識していない様子で、シュリュの肩を軽く叩く。
「ほらほら、都市の住人の大部分は戦うつもりらしいけれど、君に戦う力なんてないでしょ。だったらさっさとここから逃げて生き延びるに限るよ」
「そうね、そう、そうだけど、私達だけ逃げ出すなんて」
「気に病む必要はないと思うよ。さっき、司書の一人がそこら中を飛び回って、配達人は荷物を受け取ってからセエナから逃げるようにって叫んでいたからね。
ここに残って足止めをする者と奪われるわけにはいかない貴重品を持ち出す者とで、役割分担をしているってわけさ」
「な、なるほど」
「多分、Cの領域の連中にとってあんまり嬉しくない代物が図書館都市で見つかったか、作り出したかしたんだろうね。それを察して一気に攻め落としに来たってところかな?
どうあれ、ここから逃げ出すのが一番ってのには変わりないけれどね。さ、荷物を持って、着替えて、そしたらフライパーのところへまっしぐらだ。分かった?」
既に着替えを済ませて荷物も足元に置いてあるトラブリに、シュリュは首の関節が壊れたかのようにブンブンと縦に振って答えた。
シュリュが着替えている間に事態は一気に加速を見せて、夜の静寂を打ち破る争いの喧騒が図書館都市全体に響き渡り始めている。
フォルマウス達からすれば頭上の海をそのまま図書館都市にぶつけたいところだろうが、それは図書館都市を覆うフスタールの加護が阻んでいる為、絶対的に有利な場での戦いが出来ずにいるようだ。
頭上の海から飛び出したフォルマウス達が次々と図書館都市へと落下してゆき、あちこちで図書館の警備をしていた戦闘担当の司書達と戦いを始めている。
着替え終えたシュリュがトラブリ共々他の宿泊客達に揉まれながら外に出た時、プンと鼻孔の奥まで入り込んできた磯の臭いに、シュリュはヤバイと本気で悟った。
Hの領域であるこの図書館都市で、Cの領域側である磯の臭いがしたのだ。この場の支配権がC側に乗り移りつつある確かな証左となる。今はまだ空中だけで済んでいるが、市内にも強い影響が出始める予兆だろう。これはヤバイ。
修理前のフライパーを預けていた屋根付きの駐機場に辿りつき、エンジンに火を入れて暖機する間も惜しみ、表通りに飛び出す。
「うっわ、大惨事じゃないの」
頭上のみならず都市でも、全身が魚の鱗に覆われて、より神に近付いた大型のフォルマウス達と司書の変身したウェディゴやビャーキー達が死闘を繰り広げている。
毛むくじゃらの巨人の姿をしたウェディゴ達は都市に降り立ったフォルマウス達に勇猛果敢に挑みかかり、フォルマウスの牙が自分の首筋につきたてられても意に介さず、長く白い毛に覆われた腕をフォルマウスの首に回すと、的確に彼らの呼吸器官である鰓を塞ぎつつ一気に締めあげ始める。
天空は海に塞がれたが、図書館都市の市街はまだフスタールの加護が機能しており、ウェディゴ達に有利に働いているのだ。
ガラス片のように細かい牙の生えそろったフォルマウス達に全身を齧られながら、一体のウェディゴが一匹また一匹とフォルマウス達を捕まえて、その頭を握り潰している。
白かった毛並みは瞬く間にフォルマウスの返り血で染まり、血染めのウェディゴ達が次々と増えている。
市街はフスタール側が優位であったが、頭上の戦いは逆に若干不利であった。既に空は『空』ではなく『海』へと変わりつつあり、まだ水が降りてきていない筈の空中でも、よく見れば気泡がぶくぶくと生じ、フォルマウスと戦うビャーキー達の体が濡れているではないか。
かろうじて呼吸は出来ているが、Cの影響が強くなれば水もないのに『空中で溺れる』羽目になるだろう。
蝙蝠のような翼の生えた蟻の如き外見を持つビャーキーが、人間の如き皮膚と目と口それぞれに牙の生えそろった蛸足が絡みつき、断末魔を上げる暇もなく全身を貪られる様を見て、シュリュはその惨さに言葉を失った。
堪らず足を止めてしまったシュリュを再起動させたのは、やはりトラブリであった。常人ならば何度も発狂を繰り返す異形の戦場の中にあって、この少女は顔色を変えるどころか冷や汗一つかいていない。
強靭な精神力と称えるべきか、状況同様に正気とはいえぬ感性の持ち主なのか。
「ほら、足を止めないの、シュリュ。フライパーの操作に集中しなよ」
「あ、ああ、そうね。よし、まずは司書達の庁舎へ行きましょう。そこでここから持ち出す資料を受け取って全力で逃げるわ!」
「ええ~、資料は受け取んなくてもいいんじゃないの?」
「他の配達人が資料を受け取っているっていうのに、私だけ手ぶらで逃げたら沽券に関わるわ。でもこれは私個人の矜持の問題だから、トラブリは逃げていいわよ」
「もう、そんな風に言われてはいそうですかって置いて逃げたら、兄妹達に何を言われるかわかったもんじゃないよ。それじゃ、さっさと行こうよ」
「ええ!」
二人のフライパーは弾丸のように飛び出して、ポツポツと降り出し始めた海水の雨の中を突き進む。
降り立ったフォルマウス達と迎え撃つウェディゴやビャーキーらの戦闘の余波によって、図書館都市の書架と家屋は次々と破壊されて、二人は降り注ぐ巨大な書籍や石板に銅板、黒いブロック片の隙間を縫うように飛ばなければならなかった。
シュリュは、目と鼻の先に巨大なブロック片が落下し、粉塵と衝撃波に煽られたフライパーを必死に立て直して庁舎を目指す。
時折周囲を見渡せば、自分達のように庁舎へと向かう他の配達人の姿が見え、そのうちの何人かがフォルマウス達に群がられて、殺される場面がちらほらとあった。
「シュリュ、右九十度に急旋回!」
有無を言わさぬトラブリの命令に、シュリュは何故と思う間もなく従った。
「!!」
相棒には相当な無茶をさせる形になったが、急旋回したシュリュをかすめるようなギリギリの位置に上空から一匹のビャーキーが墜落してきた。
全身をフォルマウス達に齧り取られ、肉の内側が露出して悪臭を放つ血が絶え間なく溢れだしている。急旋回の勢いを殺すのに苦戦し、咄嗟にその場で停止したシュリュが止めていた息と緊張と共に吐き出すと、息も絶え絶えのビャーキーに話しかけられた。
フスタールの祝福によって人間から変身したビャーキーは、変身後でも問題なく人語を操る事が出来る。
「そ、そこの配達人、よ。これを、これを王へ。キングイエローへと、届け、よ。これ、これこそ、C達の狙う…………だ」
ビャーキーは、自分の命よりも重要であると固く抱きしめていた四角い物体をシュリュへと差し出す。
黄ばんだ油紙で包まれたそれは、書籍のようにも石板のようにも見えるが、フスタールの化身たるキングイエローへの品となれば、軽率にその中身を確かめる愚は犯せない。
最悪の場合、包装を解いて中身の品を見た瞬間に発狂する可能性だってある。
シュリュへと手を伸ばした姿勢で息絶えたビャーキーに、シュリュは一秒だけ瞑目する事で敬意を示す。
フスタールの配達人として、何としてもこの荷物をキングイエローへ届けなければならない、そう使命の炎に燃えるシュリュが手を伸ばした矢先、横から伸びたトラブリが荷物の上に小さなメダルを置いた。
トラブリの突然の行動にシュリュは目を丸くしたが、荷物の上に置かれた物体の方が彼女の意識を引く。それはシュリュの見た事のない意匠をしていた。
「これは、七芒星? いえ、一角が二股に分かれているから八芒星?」
「本当は角が七つなのだけれど、七つの内の一つは二つだからね。だから、一つが二つで七芒星は八芒星になるんだよ」
トラブリの言う内容は、その意味が分かる者にとって、特にそれが大魔界に属する者であったらこの上ない恐怖と絶望に直結するものだったが、幸いにしてシュリュにはさっぱり要領を得ない内容だった。
「?????」
「あんまり気にしなくていいよ。とにかくこれはぼくのとっておきのお守りだから、持っといてよ」
「……ありがとう」
「うん、素直でよろしい」
シュリュはビャーキーから預かった荷物を鞄の奥へと仕舞いこみ、落としてしまわないようにロープで厳重に自分の体と鞄を結ぶ。一秒が惜しい緊張感に苛まれる中、作業を終えて再びフライパーを加速させる。
事態は刻一刻と図書館都市側の形勢が不利となっていっており、落下してくるビャーキーの数が次々と増している。有利であった筈のウェディゴ達も息苦しさを感じている様子を見せ始め、動きもまるで水の中に居るかのように鈍くなってきている。
「こんなに早く都市が追い込まれるなんて!」
「不意打ちなんだから仕方ないよ。あっちは入念に準備してきたんだろうしね」
Cの側の性質上、火の手はほとんど上がっていないが、地響きを立てて崩れる書架や倒れ伏すウェディゴにビャーキー達の姿を見れば、もはやこの図書館都市の陥落は時間の問題でしかない。
二人が都市の外縁部にようやく到着し、少しずつフォルマウス達の上げる気色悪い咆哮が遠ざかり、シュリュは少しだけ自分に安堵する事を許した。
キングイエローの座します大図書館までは決して楽な道のりではないが、何としてもあの息絶えたビャーキーから託された使命を果たさなければならないと、シュリュの瞳には決意の炎が燃えていた。
「ぱっちん!」
トラブリが右手で指を鳴らすのと同時に、二人に頭上から襲いかかってきた上半身が烏賊のフォルマウス達の体が真っ二つになる。
シュリュを救った時と同じ鋭い風の刃が、二人をCの眷属達の脅威から守っていた。
「シュリュは前だけ見ていて。襲ってくる連中は全部ぼくが片づけるから! それ、パッチンパッチンパチパッチン!」
小気味よく指を鳴らす音が連続し、シュリュの持つ何かに気付いたのか殺到してくるフォルマウス達のぶつ切りが周囲にぶちまけられる。
「そい! せい! はい! どりゃ! おりゃ! むりゃ! ほいっと!」
面倒くさくなってきたのか、指を鳴らすのを止めて、トラブリは全方向に視界が開かれているかのように、四方八方から急速に襲いかかってくるフォルマウス達を悉く返り討ちにする。
二人は水中に投じられた血の滴る新鮮な餌で、フォルマウス達はそれに群がる肉食魚の大群という構図が出来上がっている。二人がすぐさま跡形も残さずにフォルマウス達の胃におさまらないのは、ひとえにトラブリの異常なまでの戦闘能力にある。
既にCの影響が強くなっているこの場所で、これだけ強力な風の力を立て続けに行使できるトラブリをシュリュが怪しまなかったのは、トラブリの明朗快活な人柄と恩人を怪しむ精神的余裕がなかったからだ。
この調子なら脱出できるとシュリュが思った瞬間を狙ったかのように、トラブリがのんびりと聞き逃すわけにはいかない言葉を口にした。それは前だけを見ていたシュリュが思わず背後を振り返る程の内容だった。
「ありゃあ、シュリュ、海が落ちてくるよ」
「は、え、はいぃ!?」
思わず振り返ったシュリュの視線の先で、これまで図書館都市の上空を埋め尽くしていた膨大な量の海水が、ついに都市へと目掛けて降り注ぎ始めたのだ。
海が空から落下してくるという一瞬自分の目と正気を疑う光景に、シュリュはフライパーの操作を忘れかけたが、落下した海水が尋常ではない速度で自分達に迫って来ているのに気付くと、さっと顔色を青くする。
「なによ、あの海水、速過ぎる!」
「Cが生み出した海水だ。音より何倍も速く流すのなんて、欠伸をする位に簡単だろうね」
何を呑気に――そうシュリュが抗議するよりも早く、見る間に距離を詰めていた膨大な海水がシュリュを逃すまいと飲みこんだ。シュリュに、抗う術はない。
誰もが言う。
私達の血も肉も骨も髪も、命も心も神の為にあると。
皆が言う。
信仰を捧げよう、尊敬を捧げよう、魂を捧げよう、思想を捧げよう。
父も母も友も、見知らぬ誰かも言う。
私達は全て神により選ばれた。神により生かされている。神に与えられた命、神に生かされている命。だから私達の全ては神たるフスタールの為にある。
でも、ああでも、そうだと頷く自分の心の中に、でも、と何度も繰り返し呟く別の自分が居る。
自分以外の全員が口を揃え、それが正しいと、絶対であると信じて告げる言葉に納得しない自分が居る。それだけではないはずだ。それしかないわけがない。自分は、それは嫌だといつも心のどこかで叫んでいるのだ。
フスタールなど知った事か。信仰など知った事か。望んでもないのに押し付けられた思想も、信仰も、クソ食らえ!
私はここではない何処かの空を、何時までも飛んで行きたい。青い空の果ての果て、どこまでも高く、どこまでも遠く、風になって空に溶けるように飛んで行きたいのだ。
だから、フスタールへの信仰も崇敬も使命も、私には邪魔でしかない。私を縛る鎖なのだ。手足に嵌められた枷なのだ。何時の日にか必ず引き千切ってやる、壊して、放り捨てて、自由に羽ばたいてやる!
――そこまで叫んで、目が覚めた。
シュリュの途切れた記憶の最後の光景は、頭上から降り注いで図書館都市を丸ごと飲み込む膨大な海水の津波。図書館都市を根こそぎ洗い流し、逃げる自分達をも飲みこまんと迫る壁のような灰色の海水だ。
アレに飲み込まれれば圧倒的な質量と速度によって五体は粉砕されるか、あるいは海水の中を泳いでいたフォルマウスに襲われていたに違いない。
意識が途切れる寸前に抱いた恐怖がどっと蘇り、シュリュは荒い息を吐き出しながら、周囲に視線を巡らせる。最後まで傍らに居た頼もしくも不思議な風来坊トラブリの姿を求めたのだ。
ひょっとしたら自分がフォルマウスに捕まったのではないか、という恐怖を感じて咄嗟にトラブリが居れば、彼女は無事だろうかと考えたのである。
しかし、シュリュに返ってきた声はトラブリとは似ても似つかぬ、力強く張りがあり重厚な響きを持った男性の声だった。
「闘志むき出しの唸り声だったが、どんな夢を見ていたのかね?」
思わず声の発生源を振り返れば、倒木に腰かけた巨漢の老人がシュリュの方を向いていた。
黒眼鏡をかけたその老人は、灰色のトレンチコートを纏い、銀製の鷲の飾りの着いたステッキを左手に握っている。
トレンチコートとその下のブルーのスーツを押し上げる肉体は衣服越しにも鍛え抜かれているのが見て取れ、活力に満ちた声と合わせて“衰えた”という印象が一切ない。
「ゆ、夢は見ていないです、はい」
シュリュからすれば怪しい事この上ない老人であるが、不思議と警戒心は湧いて来ず、老人の声が雰囲気からしてシュリュを案じているらしいのは確かだった。
シュリュが改めて自分の置かれた状況を確かめてみれば、三方を崖に囲まれた狭隘な場所で、野営用の寝袋の上に寝かされていたらしい。
老人とシュリュの間には焚火とその上に置かれて、湯気を噴いている金属製のポットがあった。嗅いだ記憶はないが、芳しい香りが辺りに広がっている。
状況を考えれば津波に飲まれて流された自分を、この老人が助けてくれたと解釈するべきだろうか。少なくともあの状況でシュリュが自力で助かる術は存在しない。
その考えがシュリュの顔に出ていたのか、老人が微笑して今に到るまでの事情を説明してくれた。あっという間に相手の懐に入り込む術に長けた微笑だ。
「私がここで休んでいたら、もう一人の少女が君を連れてやって来たのさ。私も少しばかり手を貸したが、君の介抱をしたのはそちらのお嬢さんだよ」
「やあやあ、シュリュ。無事に目を覚ましたようで何よりだ!」
聞こえてきた元気な声を振り返れば、老人とは違い、岩の上に立って、むふーと大きな安堵の息を零したトラブリの姿がある。
傷一つなく服にも乱れた様子はなく、何時もと変わらぬ元気いっぱいなその姿に、シュリュは言葉にならなかった息を吐きだした。
「あ、ああ、あ~~~~」
「なにそれ? はっはっは、さてはぼくのピンピンした姿を見て気が弛み過ぎたな? 可愛いじゃないのさ」
けらけらと笑い、トラブリは岩の上に腰を下ろした。
「私は本気で心配したのよ! でも、無事でよかったわ。それにそちらの紳士がおっしゃるには私をここに連れて来てくれたのもトラブリだって言うし、借りが出来ちゃったわね」
「君と僕の仲なんだから、気にしなくていいさ。君を休ませる場所を提供してくれたのは、こちらの紳士こと」
「ラズルベリィだ。何があったかは知らないが、取りあえず今はゆっくりと体を休めたまえ。トラブリ君はそんな必要は無さそうだがね」
ラズルベリィと名乗った老紳士の意見には、シュリュもまったくもって同意だった。トラブリは出会った時から一度も疲れた様子を見せた事がなく、死ぬまで元気で居続けるのではなかろうか。
ラズルベリィは金属製のカップを手に、そこへポットから黒い液体を注いだ。更にカップへ角砂糖を二つ程投入してから、シュリュへと差し出す。
「勝手に砂糖を入れてしまったが、構わなかったかね? コーヒーだ。喉は渇いていないかね?」
「コーヒー?」
「ん? ああ、そうか。この領域、いや、ここら辺では出回っていない飲み物だったのを忘れていた。素晴らしい香りだろう。初めて飲む人間にとっては苦いかもしれないが、口に合えば幸いだ」
先にラズルベリィからコーヒーをご馳走になっていたトラブリが、三分の一程残っているカップの中身をシュリュに見せながら、からからと小気味よく笑う。
「香りが素晴らしいのは同意だけれど、何も加えずにそのままだとぼくには苦いね。ミルクを足して砂糖か蜂蜜を入れて飲むのが一番好みに合っているよ」
「好みは人それぞれだからな」
ラズルベリィとトラブリの視線に促されて、シュリュは砂糖入りのコーヒーに口をつけた。一口含んだ瞬間から鼻孔までをあっという間に満たす香ばしい匂いに目を細め、慣れない苦みとその中に混じる砂糖の甘さに目を白黒とさせる。
飲み慣れない人間には、トラブリのようにミルクなり飲み慣れたものを加えた方がよさそうだ、というのがシュリュの偽らざる感想だ。
「確かに苦いですね」
「ふふ、初めてコーヒーを飲めば、そういう感想になるだろう。どうしてこんな苦いものを、とまで言われなかっただけ、良しとしよう。ではご友人のお嬢さんに倣ってミルクを加えるかね? 山羊のしかないが……」
まるで、山羊以外に乳を搾る家畜が居るかのようなラズルベリィの言葉に、シュリュは知的な容貌と雰囲気を併せ持つ老紳士が何を言っているのか、理解に苦しんだ。
「? ミルクは山羊から搾るものですよね?」
シュリュを含めHの領域の住人にとっては至極当たり前の事を口にすると、ラズルベリィはコーヒーのように味わいのある苦みを交えた笑みを零した。自嘲らしきものがほんのわずかに含まれている。
「ああ、ああ、そうだ。そうだとも。ここでは山羊のミルクしかない。フスタール神の領域であるが故に、山羊しかいないからね。牛の姿は見られないのだったね」
「ウシ?」
まるでトラブリと会話をしている時のようなちぐはぐさに、シュリュは小首を傾げる。
ラズルベリィはそんなシュリュの様子には構わず、山羊のミルクを入れた金属製の水筒を差しだした。先程から惜しげもなく振る舞ってくれているが、どうやってこの恩を返そうか、とシュリュは考えて、ささやかな疑問を忘れる。
トラブリに倣ってミルクを加えると、コーヒーは随分と飲みやすくなった。引き換えに多少温くなってしまったが、それでも体を温めてくれるだけの効果はある。
「そういえば、私達はあの津波に飲まれたのに、よく助かったわね」
シュリュはコーヒーを飲み干してから改めて自分達の状態を確かめて、しみじみと呟いた。体が濡れている様子もないし、服だって乾ききっている。
シュリュとトラブリは、現在、飛行服のインナー姿に毛布を巻き付けたスタイルだが、二人の肌も髪もさらさらと乾いた状態を維持している。
「そこはほら、ぼくが君と自分の周囲に小規模な風の壁を作ってね。津波に流されるままにはなったけれど、体が濡れるのだけは死守したよ」
「そう、改めてお礼を言うわ。ありがとう、トラブリ。貴女には何度も命を助けて貰ったわね。どうやって借りを返せばいいのか、頭の痛い問題だわ」
「ははは、まあ、良いってことさ。ぼくが助けたくて助けているのだからね。借りとして数えるのは、君が明確にぼくに対して助けてって言った時だけでいいよ」
「それ、私に都合が良すぎない?」
「ぼくにとってはそれでいいの。君にとって都合が良すぎたとしても、ぼくからすればぼくの心が一番納得する形を通しているのだから、ぼくにとっても都合の良い選択肢なんだよ? だから気にしなくっていいとも!」
「何だか、貴女に頼ってばっかり。何時の日にか自分では何にも出来なくなる日が来てしまいそうで怖いわ」
「ありゃ、それはよくない。とてもよくないよ、シュリュ。人間は何時だって自分の足で立ち、自分の理性と知性で自らを律せられるように心掛けるべきだ。実際に出来るか、出来ないかは、まあ、人それぞれとしても心掛ける位の事はしなきゃ」
「分かっているってば。だから危機感を抱いているんじゃないの。ああ、何だか、トラブリが何時も通りで安心したら、眠くなってきちゃった。今って、何時位なのかしら?」
「ん~、夜明けを少し過ぎた位かな。お腹は減っているだろうけれど、とりあえずもう一回寝ておいたら? また目を覚ました時にお腹を満たせばいいさ」
「じゃあ、お言葉に甘えようかしら。でもお昼になる前には起こしてね。ラズルベリィさん、もう少しだけこの寝袋をお借りしてもよろしいでしょうか」
「いや、それ位は構わないよ。私はもう一泊してゆく予定だからね。気にせずに体を休めると良い。とんでもない体験をしたばかりで心身共に疲れきっているだろう」
「ありがとうございます。何から何まで甘えてしまって……」
直にシュリュからは健やかな寝息が聞こえ始め、早々に彼女が夢の国に旅立ったのがトラブリとラズルベリィには察せられた。
トラブリは残していたミルク入りのコーヒーを飲み干して、ラズルベリィに曇りのない笑顔を向けてお礼の言葉を口にする。
「コーヒー、ご馳走様。それにこの焚火とシュリュの寝袋も、ありがとう。お陰でシュリュをゆっくりと休められたよ」
「それは何より。うむ、ぐっすりと眠っている様子だ。コーヒーはあまり口には合わなかったようで、少々残念だがね」
「ここでは飲めない品だったからね。水と山羊のミルクと蜂蜜酒位しか知らない舌には、ちょっと難しい飲み物だよ。そう残念がる事もないさ」
「うむ、そう考えるとしよう。さて、コーヒーがこのHの領域では飲めない物であると知る君は、一体何者なのだね?」
これまでの穏やかな雰囲気がわずかになりを潜め、ラズルベリィの左手がステッキを握る力がわずかに増す。
たちまちの内にラズルベリィの体内を高濃度の魔力が循環するのを感じ取り、トラブリは楽しげに笑みを浮かべる。あるいは、可愛い事をするものだと、“圧倒的な上位者”として微笑ましく感じたのかもしれない。
「ぼくの正体を問う君もまた何故コーヒーをこの領域に持ち込めたのか、この領域には存在しない牛を知っていたのかと、君と同じ疑問をぼくも抱かざるを得ないわけだけれども。
なんて事はない。君はこの領域やC、Y、Iとかの領域の住人ではなく、地上世界からその英知と魔術によって、Hの領域を訪れた正真正銘の人間なのだろう?」
ラズルベリィは誤魔化す事の無意味さを悟っていたらしく、正直に答える。眼前の少女の何が自分にそうさせたのかは、この老紳士自身にも分からない事だった。
「驚いたな。見ただけで分かるものなのかね? それなりに探知を誤魔化す為の手筈は整えているが。ああ、失言は重ねてしまったか」
「はは、失言はうっかりだったという事にしておこう。今回は見た時に分かったよ。ぼくは兄妹に比べると特別目が良いわけじゃないけれど、君達よりも色んなモノが見えるからね! 君もその目で見えていた時には見えなかったものが、今は見えているのだろう?」
「う、む。かつてこの領域を訪れた私は、図書館の一つでフスタール神の蓄えた知識の一端を垣間見た。それを断章という形で著した事もあったが、私は見たそれに耐えきれずに我が目を抉り出し、光を失った。
もはや我が眼は春の訪れと共に咲いた花を映す事はない。夏の暑い日に立ち昇る陽炎も。秋の夜を照らす満ちた月の姿も輝きも。冬の寒い日に大地を覆い尽くす雪の白も。
全ては代償だ。人間の身で神の領域の知識を得た事の代償が、我が両の眼だったと納得する他あるまいよ。そのお陰で私はフスタール神の力を借りる魔術や、他の領域の神々に対する対抗手段を知り、人々に伝える事が出来るのだからね」
「なるほど、殊勝なものだ。だが、それでも失った光景を惜しむ気持ちはあるだろう?」
ある意味で容赦のないトラブリの指摘に、ラズルベリィは苦笑を浮かべる事すら出来なかった。初めて会う人間ではないナニカである少女は、これ以上なく的確にラズルベリリィの心の奥深くを抉り抜いてきた。
「参ったな。こうまで容赦なく言い当てられると笑う事も出来ん」
「我ながら失礼な物言いをしたものだと呆れているけれど、ごめんね! 大丈夫、大丈夫、君にとってその惜しむ気持ちはとぉっても大事だよ。その気持ちを忘れずに持ち続ける事が、君が魔道に堕ちず、狂気に染まらず、人間のままで居続ける秘訣って奴さ」
「……これは、思いもかけない事を言われたものだ。失ったものを惜しむ気持ちこそが人間で居続けるのに必要、か。貴女は随分と幼い外見をしているが、その能力といい、やはりどこかしらの神性に類する御方か?」
「神性、神性ね。う~ん、そう言われると結構違うんだけど、そういう風に勘違いされる事もあるなあ。立場的にはなんだろうなあ、君達人間にとっては味方よりの中立、中庸? 的な感じだよ。積極的に君らに害を成そうとは欠片も思っていないけれどね」
トラブリの言葉を何処まで信じるか、という疑問はラズルベリィの中にはなかった。底の読み取れぬ眼前の少女が、真実神性に類するか比肩する存在であるのならば、ラズルベリィにわざわざ偽りを述べる必要などあるまい。
記憶を適当にいじくり回すか、精神を破壊する方が余程簡単だろう。
「疑う気持ちが微塵も湧かないのは、やはり次元の違う相手だと魂が理解しているからなのか。では問わせていただきたいが、何故、この少女、シュリュでしたか。シュリュに肩入れを? このHの領域の住人がどういう存在かはご存じでしょう」
はっきりと言葉遣いを変えてきたラズルベリィに、トラブリは陽気な笑みを浮かべてあっけらかんと答えた。偽りを口にする必要がない程、彼我の格が違うのもあるが、そもそもトラブリの性格が根本から嘘を吐くのに向いていないのだ。
「まあねえ、芯から徹底的に尽くす奉仕種族を一から創造することだって出来るのに、わざわざ地上から攫ってきた人間達に思想の刷り込みを施して信者に仕立て上げているってんだから、趣味が悪いったらありゃしないよ」
「しかし、その悪趣味の結果であるこの領域の住人を助けておられますが?」
「はっきり言うと贔屓だね!」
「贔屓」
「そうとも贔屓さ。このHの領域の住人は先祖の代から長く黄金の蜂蜜酒を飲み続けたのと、この領域に住み続けた事で遺伝子と魂双方の段階で、フスタールの色に染まっている。
人間である前に、Hの領域の存在に変容していると言えるわけだね。ぼくがこの領域に来てから見た人間達は、全員がフスタールの命令一つでウェディゴやビャーキーになる事を粛々とかつ嬉々として受け入れる精神が出来あがっていた」
トラブリが語るように、このHの領域に住まう住人達は、フスタールかその眷属達からの思念一つで即座に異形の怪物へと変貌するだけの要素を備えた存在へと変わってしまっている。
普段は人間とまるで変わらぬ仕草を見せ、日常を重ねるが一度有事とあれば全員が人間の姿と心を捨てて、フスタールの眷属への道を歓喜しながら走り切るのだ。
だが、トラブリは唯一見つけた例外たる少女を、慈しみの眼差しで見る。
「けれどもこの子は、シュリュだけは違う。この娘は、もしそう命じられたとしても躊躇し、抵抗を見せるだろう。抵抗がまったくの無意味であるのは残念だけれど、抵抗するだけの叶えたい夢を抱いているからね。
そしてシュリュの抱く夢はぼくにとって、非常に共感しやすくてかつ親愛の情を寄せるに足るものだった。
なのでぼくは、シュリュがHの領域の住人である前に人間である事、共感出来る夢を持っている事。この二つを理由としてこの子を思いっきり贔屓しているのさ」
「数多いHの領域の住人の中で、彼女だけを特別視しているというわけですか。成程、それは贔屓以外の何物でもない」
堂々と贔屓している、と宣言するトラブリの態度たるや、いっそ清々しい程だ。他のHの領域の住人からすれば、シュリュのような不信心者を、と憤るかもしれないが、そんな相手にトラブリは思いっきり“あかんべえ”の一つでもするだろう。
「そーいう事。ぼくにとってシュリュは君とて似たようなものさ。魔道の徒ではあるが、それ以前に人間としての善性と良心を良しとしている君とね」
「そう言われると、はは、年甲斐もなく照れますな。しかしここ最近、Cからの攻撃が大分活発化していますが、必然的に貴女もCとHの争いに関わらざるを得なくなるでしょう。どこまで介入なさるのですか?」
「CとHのどっちにも貸し借りはないし、因縁も興味もないから、ぼくが気に掛けている内はっていうひどい前提の上で、シュリュの気が済むまでは付き合うさ。出来れば穏便な方向で、シュリュの夢も叶えてあげたいとも思っているよ」
「まだ私には貴女がどれ程の、あるいはどこの世界からの来訪者か測りかねていますが、真性の神を相手に随分と余裕がおありの様子ですな」
「まあね。ぼくもこれで結構古いんでね。それにしてもここら辺の領域の連中は自分が腰を上げるよりも、眷属や信者を使っての争いが好みだねえ。自分達自身で決着を着ける方が手っ取り早いだろうに。
ラズルベリィ君、君も厄介なのに巻き込まれたと思ったらすぐに地上に帰りなさい。それがちょっと間に合いそうになかったら、YIの領域にでも逃げ込むと良い。くれぐれもYIの方だよ? Yじゃないからね」
「YIというと蛇の神ですか」
「そそ。彼は自分とこの信者と蛇に無体を働かなければ、他所者が羽を休める位は許してくれる度量があるし、人間にも理解しやすい恩恵と庇護を与える、ここら辺じゃかなり珍しい高次存在だからね。
他の領域の連中の追手の目を晦ますなり、一休みするなりする時の選択肢の一つに入れておくと良い」
「ますます貴女が何者であるのか興味が湧いてきますが、安易に興味に突き動かされては痛い目を見ると学んできましたからな。これ以上の質問は控えましょう」
「そう? ぼくは探られて痛いお腹はないから気にしないけどな」
「では前言を撤回する事になりますが、シュリュが大事に抱えているモノについて少々。私が気付いているのですから貴女ならとっくに把握しておいででしょう。あれは……」
ラズルベリィの言うアレとは、図書館都市で瀕死のビャーキーからシュリュに託された油紙に包まれた物体の事だ。シュリュはトラブリに介抱されている間も決して手放そうとはせず、少しばかりトラブリをてこずらせた。
何が包まれているのかは、トラブリもラズルベリィも直接確かめてはいないが、超常の力を持つ二人には、既にシュリュに託された物が何なのか把握できているらしい。
「言わずもがな、いや、言わぬが花だよ、ラズルベリィ君。キングイエローの元までアレを届けるのが目下の目的で、そこから後、シュリュがどうするのか、どうしたいのかが、ぼくの最大の関心事だ。
シュリュは中を見て良いとは言われていないし、キングイエローの元へ運んで行った先で、自分が何を運んだのかを知るべきだろう」
「貴女がそのようにお考えなのでしたら、私からは何も言いますまい」
「物分かりが良くてよろしい」
トラブリは上機嫌にウィンクなどしてみせた。ひどく下手くそなウィンクであった。
シュリュがトラブリに起こされたのは、頼んでいた通り昼前の時間帯だった。
空腹を刺激する良い匂いがシュリュの眠っていた神経を盛大に乱打して、ぱっちりと目が開いたもので頭の中は実にすっきりとしている。ただし、お腹が空いた、という言葉が頭の中で乱舞しているけれども。
ラズルベリィは昼食に関しても面倒を見てくれて、シュリュは配達人に必須の味気ない保存食を齧らずに済んだ。
組み立て式の簡易テーブルを三人で囲み、手早く調理した昼食を摂る。
分厚く切った羊肉のハムを焙ってから蜂蜜を塗り、そこにマスタードを足してトーストにしたものを口いっぱいに頬張り、シュリュは食欲が満たされてゆく幸福を堪能した。
シュリュの旺盛な食欲を見て、ラズルベリィは微笑ましそうに目を細める。トラブリはと言えば、こちらもシュリュ同様にラズルベリィから提供された、握り拳大のゆで卵に塩を振って食べている。
ラズルベリィは薄めに入れたコーヒーを飲みながら、これからの予定についてシュリュに尋ねた。
「君達はこれからどうするのだね? 大図書館に向かうとは聞いたが、そこまでの道程はかなり物騒な事になっていると思うぞ」
「Cの連中がかなり本腰を入れて攻めて込んできているみたいだからね。H側としては不意を突かれた感じなのも、後手に回っている原因だ」
ゆで卵を食べ終えたトラブリもラズルベリィと同意見だった。つい先日、図書館都市の陥落する現場に居合わせたシュリュも、心の底から同意できる話だ。
Cの側の攻撃が都市一つで済むとは思えないし、最近、フォルマウス達の行動が活発化していたのだって、C側の大攻勢の前兆だったのだろう。
「その話をするなら、個々が具体的に何処かを教えて貰えると助かります」
図書館都市を水没させた津波に流されてここに辿りついた以上、シュリュが自分達の居場所を把握していないのは当然だ。
それもそうかと用意の良いラズルベリィは懐から地図を取り出して、現在位置を指で指示した。三人が居るのは円柱の形をした浮島で、中心部まで盾に走っている亀裂の中に身を潜めている状態だ。
「我々が居るのがこの島だ。ここから大図書館までは道中にいくつか村や町があるが、図書館都市がフォルマウスの大群に襲われたとあっては、無事かどうか怪しいな」
ラズルベリィの言う通り、大図書館に辿りつくまでの道のりには大小の村や町の名前が書かれているが、先日、シュリュとトラブリを襲った奇禍を考えるとこれらの町も無事とは考え難い。
Cの側が本気でHの領域の壊滅を目論んでいるのならば、フスタールの化身の一つであるキングイエローの抹殺は重要な目標の一つだろう。そうなると当然の事ながら、キングイエローの座する大図書館を目指して侵攻を進める事になる。
その大図書館を目指すとなれば、近づけば近づく程にその危険度もまた比例して高まるのだ。ラズルベリィはそれを理解しているか、と視線でシュリュに問いかけた。
「この状況で大図書館を目指す危険については、分かっているつもりです。それでも私はHの領域の住人として、フスタールに奉仕する義務があります。何としてもあの荷物を、大図書館のキングイエローに献上しなければ」
Hの領域の住人らしからぬ、とトラブリに気に入られているシュリュだが、いざという場面に追いやられるまでは、生まれた時からHの領域の掟と教義を教え込まれて育った為に、自分の生命よりもフスタールを優先する言動を取るようだ。
トラブリはそれが面白なくて顔を顰めたが、ラズルベリィはそれを見なかった事にして言葉を重ねる。コーヒーは空になっていた。
「そう答えるだろうとは思っていたが、実際にそう言われるとな……。ふむ、ならば私も途中まで同行しよう。私は故あって大図書館に足を踏み入れる事の叶わぬ身だが、道中の護衛ならば出来る」
「え、でも、危険なところに行くわけですし、これ以上ラズルベリィさんにお世話になるわけには行きません」
ラズルベリィの提案をとんでもないと首を横に振って遠慮するシュリュに、ラズルベリィは年長者の包容力に満ちた笑みを浮かべる。苦み走った大人の渋みのある笑みだ。
「ふっ、このまま君達と別れてどうにかなってしまうのではないかと、気を揉む方が私にはよっぽど苦しい事だ。それに肝心要の大図書館の中にまでは足を運ばないのだから、気にしないでくれたまえ。むしろ中途半端な事を、と責められても仕方ないと思うよ」
「チュウトハンパな事をー!」
と冗談めかした口を挟んだのは、これまで黙って話を聞いていたトラブリである。ラズルベリィの提案が余程お気に召したのか、にこにこと笑みを浮かべている。
子供そのもののトラブリの行動に、ラズルベリィは気を悪くした様子はなく、それどころか更に笑みを深めてみせた。どこまでも大人の余裕を持った男だ。
「ふふ、そうそう、トラブリ君のようにね」
「う、ううん、トラブリは大胆過ぎるというか図太いというか、一緒に居ると頼もしいけれど気苦労が積もるわ」
「わっはっはっは、気苦労を掛ける分、襲いかかってくるフォルマウスは千切っては投げ、千切っては投げて蹴散らしてみせるとも!」
実際、トラブリの実力の高さに関しては、目の前で実証されたのでシュリュとしてはぐうの音も出ない。出ないのだが、うむむむ、と唸る位の事はする。
「うむむむ、反論できないのが腹立つ~。でも頼りにしている!」
「うん、素直でよろしい! どんどん頼ってよ。ぼくは頼られれば頼られる程調子に乗って、調子に乗れば乗る程、力を発揮する子なんで!」
この時ばかりは、シュリュとラズルベリィの心境は一致していただろう。
いっそ清々しい程の馬鹿正直さだが、なんとも小憎らしい! と。そして小憎らしくもその小さな体がどうしようもない程頼り甲斐があるのも事実なのだから、頭の痛い事だ。
兎にも角にも現在位置と今後の行動方針の大まかな枠が決まり、昼食も済んだ後はいざ行動に移るのみである。
食器類を片づけ、火の始末を終えてから、ラズルベリィは大きな岩の向こうへと二人を案内した。大岩の影になって見えていなかった向こう側には、シュリュとトラブリのフライパーと巨大な乗り物らしい物体が鎮座していた。
「私のフラリン~!」
シュリュは修理に出す予定だった長年の相棒の姿に、思わず愛称を叫びながら抱きついた。おいおいと涙を流しながらフライパーに頬ずりをするシュリュの姿には、さしものトラブリも思わず叫ばずにはいられなかった。
「え、フラリンって言うの、そのフライパー? 初耳!! まあ、愛用の道具に強い愛着を持つのは良い事だよ、うん」
「ここでは半身と言ってよい程に身近な道具のようだから、彼女の反応もそう珍しくはないのだがね」
よっこらしょ、とこればかりは外見の年齢に相応しい声を掛けて、ラズルベリィが愛機の後部にある収納スペースへ荷物を仕舞いこむ。
シュリュとトラブリのフライパーがあくまで一般規格に留まるのに対して、ラズルベリィのそれは非正規品か完全オーダーメイドのワンオフ品であるのは明白であった。
ようやく愛機への頬ずりを止めたシュリュが、それを見て感嘆の声を上げる。
「うわ、でっか。これって、カスタムメイド? でも、私の知っているどのフライパーの面影もないし、特注の一品ものですか?」
「ああ、私の足兼翼だよ。その名をゼファー!」
シュリュ達の使用するフライパーが台座に翼の生えた外見をしているのに、ラズルベリィのゼファーは全長四メートルに達しようかという巨大さだ。
船をひっくり返したような機体を覆う深い青の装甲は徹底的に研磨されて眩い輝きを纏い、機首は猛禽類の頭部を思わせる円形の線と鋭さを兼ね備えている。
特にシュリュの目を引いたのは機体前後の左右から伸びる、四つのブレードホイールだ。
機体の青とは異なる白銀の輝きを纏うそれは、通常のフライパーではまずあり得ない部位である。
「こりゃまたイカツイなあ。大抵のフォルネウスは跳ね飛ばせそうというか、この物騒な車輪でミンチにでもするのかい?」
「必要とあらばね。勝手ながら、君達のフライパーの調子を確かめさせて貰ったよ。図書館都市から脱出する際の無茶で、多少痛んでいる部品が目立ったが、私の方で修理しておいた。
問題なく飛べる筈だが、途中で不具合を感じたらすぐに言ってくれ。勝手に修理した張本人として責任を取らねばならないからね」
「修理まで! 本当に何から何までありがとうございます」
「なに、紳士として当然の事をしたまでだよ」
それに、ようやく出会えたまともな人間だからね、とラズルベリィが口にせず、胸の内に留めたのをシュリュが分かる筈もなかった。トラブリは、まあ、なんとなく察していてもおかしくはない。
愛機の具合を確かめ終えて、三人そろって出発の準備を進める事になった。その最中、シュリュが飛行服へ着替えていると、おもむろにトラブリが近付いて来て、シュリュが護身用に携えていた短剣を差しだしてきた。
「あれ、私の短剣じゃない。いつの間にって、ああ、介抱してくれた時かしら?」
「いやあ、すっかり渡しそびれちゃってごめんね。ぼくの方で加護を込め直しておいたからさ、今度からは一回こっきりじゃなく何度か風を使えるから、バンバン振り回すと良いよ」
「え、嘘、本当? 加護をもう一度与えて貰う為に、神殿に行かなくっちゃって思っていたんだけれど、トラブリってそんなことまで出来ちゃうの?」
「あっはっはっは、どうだ、すごいでしょ!」
ちなみにトラブリは一言もフスタールの加護とは口にしていないのだが、シュリュは加護と言えばフスタールのものと思い込んでいるから、何の加護が与えられたのか疑問にすら思っていない。
トラブリもトラブリで、そんなシュリュの勘違いを知っているのにも関わらず、そのままにしておくのだから困ったものだ。トラブリとしてはお気に入りのシュリュが、フスタールを感じさせるものを手にしているのが気に入らないから、という理由だろう。
シュリュの元にフスタール以外の加護が込められた短剣が渡り、着替えも終わった事で出立の準備は整った。それぞれの愛機の心臓に火が入り、水の魔性が闊歩し始めた空へと三人は飛び出した。
「さあ、それでは行くとしよう。願わくは道中が平穏であらんことを」
ラズルベリィの平穏を願う対象がフスタールでない事を知ったなら、シュリュはどんな顔をした事だろうか。
浮島から飛び出した三人はシュリュを真ん中に左をトラブリが、右をラズルベリィが固める横並びで速度を合わせて飛ぶ。
緑と青の斑模様の大空には、無造作に千切って浮かべたわたあめのような雲が浮かび、何時もと変わらぬ風景に、シュリュは先日の図書館都市の一件が夢か幻であるかのように思えた。
「ねえねえ、シュリュ~。シュリュはこれまでどんな風に暮らしてきたの? ご両親や家族は? ちなみにぼくは七人兄妹で親はいないよ~」
「え? ええ、私も親は十四の時にいなくなったから、もういないわ。いなくなったと言うか出ていったというか。兄妹はいないわ」
「んん? 悪い事聞いちゃったかなあって思ったけど、なんか違うニュアンスの返事だね?」
首を捻るトラブリに、Hの領域の事情について詳しいラズルベリィが補足を入れた。
「シュリュ君が言っているのは、ご両親が人間ではなくなった事ではないのかね? お亡くなりになったわけではないが、人間ではなくなり、自分の前からはいなくなってしまったという事情では?」
「ええ、まあ、ラズルベリィさんの言う通りです。私が配達人になって、一人でも暮らしているようになったのと、神託が下った時期が一致してね。
両親は私に財産の全てを残してから、それぞれウェディゴとビャーキーに姿を変えて、フスタールの眷属の末席に名を連ねる事になったわ。だから居なくなりはしたけれど、死に別れたとは違うってわけ」
「ふうん、人間ではなくなった、か。それってさ、死に別れるより良いのか悪いのかは言及しないけど、きつくなかったかい?」
「トラブリは本当、なんていうか遠慮がないって言うか人の心の中に踏み込んでくるわね……。普通なら口を噤むか話したくないって断るところなんだけれど。でも、そうねえ、きつかったわ。
ウェディゴやビャーキーになって、フスタールのお傍に近づく事は紛れもない栄誉であるのだけれど、私は悲しかったし寂しかったわ。なんでかしらね。
周りの人達は皆、父と母を褒め千切って、素晴らしい、栄誉な事だって言うんだけど、どうしても心から共感は出来なかった。これって私の方がおかしいのよ。それにとうの両親がこの上なく喜んでいたんだもの。だから私も喜ばないといけなかったんだけど……」
トラブリは黙ってシュリュの話を聞き続け、その横顔をじっと見つめ続けた。
「ぼくはそんなシュリュが好きだよ。ここの領域の他の住人達みたいに、フスタールの為に魂の一片まで捧げるのを喜びとするのを、ただ黙々と受け入れるっていう姿勢はちょっとどうかと思うわけで」
「トラブリ、そう言ってくれるのはとても嬉しいけれど、私達以外の人達にそんな事を言っちゃだめよ。それって、ものすごく不遜で不敬な話なんだから、聞いた全員が顔を顰めるかなんて事をって殴りかかって来てもおかしくないのよ?」
「なあに、それ位の空気はぼくだって読めるさ!」
本当かな? とシュリュは大いに疑問に抱いたが、本人がここまで自信満々に言うのだからと、寛大にも信じてあげる事にした。
この上なく頼りになるトラブリであっても、簡単には信じられない言動というものもまた確かにあるのだ。
一時はしんみりとした雰囲気になったものの、それから間もなくトラブリは何時もの陽気で無邪気な少女に戻り、道中に賑やかさが戻った。
幸いにしてフォルマウス達の影を見ずに空を飛び続ける事が出来たのは、翌日の昼過ぎまでだった。
これまで通り風を切って大図書館近くに続く気流に乗っていたシュリュの頬を、どこからか振ってきた雨粒が叩き、途端にひんやりとした冷気と磯の臭いがシュリュを襲ったのである。
「雨、ううん、この磯の臭いは……!」
「ふむ、なるべく主要な気流を外れて飛んできたが、流石にそろそろCの連中の侵攻ルートと重なり始めるか。さあ、シュリュ君、トラブリ君、ここからはいささか荒事が待ち構えているぞ。用意はいいかな?」
瞬く間に近づいてくる異界の瘴気と磯の臭い、そして寄せては返す波の音に、シュリュは大きな音を立てて唾を飲み込む。
見上げた空の向こうには、ああ、何という事だろう! 浮島を呑みこみながら広がり続ける灰色の海が広がっているではないか。無数のフォルマウスや巨大な水棲生物達が生みの中を泳ぎ回り、時折、飲みこんだ浮島に群がっては土や木々を問わず貪り食らっている。
いったいどれだけの島や住人達がこの海に飲み込まれ、命を落とした事だろう。思わず身震いするシュリュの恐怖に呼応するようにして、視線の先に広がる分厚い海からザアザアと激しい音を立てて海水の豪雨が降り注ぎ始める。
皮膚に穴が開きそうな勢いで降り注いでくる豪雨は、逃げ場のない広範囲に及んでおり、フライパーの全速力でも回避が間に合わない速さだ。
もうだめだ、と本能的に死を理解したシュリュを救ったのは、彼女を中心に全方位へと突如として生じた風の壁だった。
「シュリュ~、お守りをあげたぼくに感謝してよね」
「え、は、あ、ああ! 貴女のくれたお守りのお陰なの!?」
「そそ。これ位の雨なら死ぬまで降られても、君を濡らしやしないよ。さて、シュリュは大図書館へ向けて全速力! ぼくとラズルベリィ君は気持ち悪いのを片づけるのに集中って事で!」
「それが妥当だろうね。そうら、私達の臭いをかぎつけたフォルマウス達が群れを成して押し寄せて来ているぞ。あれで、魚を始め海の中の生物は嗅覚が鋭いからな」
ラズルベリィの言う通り、広がり続ける海の中から小さな湖程の水たまりが分離して、内部で蠢く数百、あるいは千にも届こうかというフォルマウス達ごと、シュリュ達を目指してフライパー顔負けの速度で迫ってくるではないか。
「トラブリ、ラズルベリィさん!」
「一刻も早くフスタールの勢力内に逃げ込むのが最善手だよ、シュリュ。そこまで君を守りきればぼくらの勝ちだ。この状況で君が真っ先にするべきは?」
「っ、それは、トラブリの言う最善手通りに行動する事。それが結局は三人全員が助かる道に繋がるから!」
「良く出来ました。なら、その通りに行動してくれるかい」
「分かった!!」
自分の無力さへの苛立ちからか、怒鳴り返したシュリュが、全速力でフライパーを飛ばすのを見届けて、トラブリはにしし、と悪戯猫のように笑う。
トラブリはシュリュを先に行かせる為にわざとフライパーの速度を落とし、ラズルベリィに散歩にでも行くような気軽さで声を掛けた。
「さあ、ラズルベリィ君、ぼく達はシュリュに傷一つ着けないのを目標に頑張ろうか」
「うむ、大図書館から事態に気付いたフスタールの眷属が来るまで、早ければざっと三十分程。年老いた身では多少の無茶をしなければなりませんが、御身ならば話は別ですかな?」
シュリュの耳には届かない距離であるから、ラズルベリィのトラブリに対する態度はいずこかの神性に対するものへと改まっている。
トラブリはその変化を気にした様子はなく、水たまりの中から弾丸のように飛び出してきたフォルマウス達に目を向けている。Cの領域の影響力が増している証左にか、フォルマウス達は今や全身に鱗を纏い、全身に纏う魔力の質も一段階、二段階も向上している。
トラブリにとっては誤差の範疇でしかないが、ここまでC側がH側に食い込んでくるなど、滅多にない事だったろう。これもまたトラブリにはどうでもよい事であるが。
「健康を維持する為の適度な運動の範疇かなあ」
「食後の散歩程度ですか。では。ダグォンやハイドアラが姿を見せたなら、お任せしてしまいましょうか」
「なんならC相手でも良いくらいさ。さあ、大図書館を目前にして大立ち回りだ。いっちょ、派手に行こうか!」
びょう、と風が吹いた。トラブリの短い髪が煽られ、少女を中核としてHの領域に満ちる神気とは異なる峻烈にして凄絶なる風に、ラズルベリィは半ば信じがたい思いでトラブリを見た。
風の性質を強く帯びるHの領域で、他の神性がここまで強烈に自己の力で風を起こせるとは、という驚愕とそれをHに知られる事をまるで恐れていないのが分かったからである。
本当にHですら相手にならぬ力を備えている故の自信からなのか、それとも単なる考えなしなのか。一時的にとはいえ運命共同体となったラズルベリィとしては、是非とも前者であって欲しい。
先手を取ったのは豪雨よりも早く空を泳ぐフォルマウス達であった。様々な魚の頭部を持ったフォルマウス達は周囲の雨を吸い込むと、レーザーさながらに高圧の水流を放出してきたのだ。
人体はおろか巨岩も切断する速度で放出された細い水流は、トラブリとラズルベリィ一人一人に数十本単位で群がり、トラブリはこれに向けて操縦棒から右手を放し、それを大きく振るう動きを見せた。
「風の爪ってところかな!」
トラブリが自らの能力によって放った真空の大断層は、フォルマウス達の水流ばかりか周囲の豪雨すらも巻き込んで吹き飛ばし、群れなすフォルマウス達の一角がごっそりと消し飛んでいた。
無数の肉片となったフォルマウス達が、風に吹き飛ばされて彼方へと消し飛んだ光景には、ラズルベリィも黒眼鏡に隠れている目を丸くする他なかった。
「君達Cの領域の住人達の失敗は、ぼくがこのHの領域を訪れていた事! 君達の不運はぼくがシュリュを肩入れする位に気に入った事! 君達にとっての不条理はCとHの立場が逆だったら、ぼくは君達の側に立っていただろう事!
つまり、全部まとめてひっくるめると、君達は色々と間が悪かった。本当にこれに尽きる。ま、同情も憐憫もない。だからこその不条理、理不尽ってもんだよね!」
幸か不幸か、まったくもってその通りだとトラブリに指摘を入れる者は、この場にはいなかった。
魚面の男、女、老人、若者、子供、それらに加えて全身青黒い鱗の魚巨人、蛸巨人、烏賊巨人、目玉がいくつもある鯨に甲殻類と最初からそうあれと狂った造作を与えられた異形達、しかし、Cの領域においては正常な住人達が、Hの領域の一角を埋め尽くしている。
ラズルベリィは腐った海水の臭いをまき散らしながら迫りくるフォルマウス達を見えない目で見て、愛機ゼファーのエンジンに燃料たる黄金の蜂蜜酒を盛大に注ぎ込み、四つのブレードホイールを最高速度で回転させる。
「やれやれ! 黄金の蜂蜜酒の補充に来てみればここまで大規模な戦いに関与する事になるとは、とんだ風がこの領域に吹き込んだものだ!」
ビャーキーの体内に存在する飛翔器官を人工的に再現したフーンドライブを内蔵した機体は、数トンを越えるゼファーの機体に音速を軽々と越える速度を与え、また操縦者であるラズルベリィを魔術的に保護した。
フスタールの力を借りた魔術を行使するラズルベリィに、フォルマウス達はそのギョロギョロとした目玉を向けると、周囲の空気を吸い込んで肺を限界一杯まで膨らませた。
吸い込まれた空気はフォルマウス達の体内で水へと変換され、それが細く窄まった魚の口から超高速で放出される。先程、トラブリが風の爪で無効化した水のレーザーだ。
改めて放たれた水のレーザーの雨の中へとゼファーは突っ込み、巨大な機体とラズルベリィを貫く寸前、ブレードホイールのかき乱した大気の壁がレーザーの全てを弾き飛ばし、無数の飛沫に変える。
黄金の蜂蜜酒を燃焼し、膨大な魔力へと変換したフーンドライブがCとHの神気の混じり合う大気を吸引し、エーテルをろ過して推進力並びにホイールやシャフト、ギアにシリンダーと機体の各部品に付与された術式によって魔法へと変える。
ラズルベリィの詠唱が無くとも発動した魔法により、ゼファーは自由に空を飛び、巨体に音を越える速度を与え、機体を保護する防御結界を多重に展開し、ブレードホイールは風を纏ってフォルマウスを殺戮する車輪となる。
「さて、魚介類のミンチ作りの時間か。多少の汚れは許せよ。ゼファー、マキシマムドライブ!」
ゼファーとラズルベリィは一陣の荒れ狂う暴風となり、フォルマウスの群れの中へと正面から突撃した。
フォルマウスの反応は、恐れずに正面から食い殺そうと大口を開いて襲いかかる者、左右や背後に回り込んで隙を突かんとする者、他の同胞を盾に様子見を図る者等。
彼らにとって共通したのはゼファーの速度とその殺傷能力が、想像をはるかに超える凶悪さであった事だ。
耳をつんざく甲高い回転音を発するブレードホイールが形成する、楕円形の小規模な竜巻に、果敢にも襲いかかろうとしていた者は言うに及ばず距離を取ろうとしていた者さえ吸い寄せられてしまう。
自ら命を散らすが如きフォルマウス達に待ち受けていたのは、竜巻に飲み込まれて頑健な鱗とCの魔力による守りごと数千の肉片に裁断される運命だった。
向こう側が透けて見える程の薄造りにされたフォルマウス達は、直後、合計四つの竜巻の境目で生じる暴風に巻き込まれて、芥子粒よりも小さな肉片と細かく粉砕された上で竜巻の外へと排出される。
如何に敵対している人間ならぬ異形相手とはいえ、ここまでとことん殺傷せしめるとは、ラズルベリィの容赦のなさの表れとも、そこまでしなければならない相手だとも言える。
ゼファーの竜巻に巻き込まれれば一秒とて命はないと悟ったフォルマウス達は、我先にと距離を取り始めた。それでも目の前の人間から逃げる為ではなく、先程の水のレーザーを始め、巨大な水の砲弾を精製する等、遠距離から確実に仕留める為の行動であった。
同胞が瞬く間に殺戮されても戦意を鈍らせないフォルマウス達の姿には、生命と魂の全てを彼らの神に捧げる事しか考えていない不気味さに満ち満ちていたが、ラズルベリィにとっては見慣れたものだった。
「死への恐怖等、はるか昔の先祖の代から取り除かれているとはいえ、毎度毎度、よくも自分の命を顧みずに襲いかかってくるものだ。だからこそこちらもこうまで苛烈にやらざるを得なくなる!」
距離を置くフォルマウス達に対し、ラズルベリィはその場でゼファーを回転させ、竜巻という形でブレードホイールの周囲に形成していた風の魔力を解き放ち、四方を取り囲むフォルマウス達へ鋭利な風の刃として解き放った。
重く鋭い断頭台の刃の如く、フォルマウス達の首が断たれ、同じように胴体が断たれる事で、フォルマウスの輪切りが大量生産される。
「雑魚相手なら問題はないが……ちぃ、ダグォンやハイドアラに近い領域のエルダーが混じっているか。ゼファーではいささか荷が重い」
ラズルベリィが手持ちの魔術兵器だけでは苦戦を免れぬと判断した敵は、通常の個体の十倍近い体躯にまで成長したフォルマウスのエルダーだ。
Cの眷属神であるダグォンよりはまだマシな相手ではあるが、ラズルベリィをしても単純にその巨大な質量と膨大な魔力を相手取るには相応の準備が必要となる。
左右に四つの目と嘴を生やした二足歩行の鯨めいた姿のエルダーフォルマウスが三体、通常サイズのフォルマウス達をかき分けるように姿を見せて、三体ともに全力で逃げているシュリュにおぞましい二十四の瞳を向けていた。
同胞を殺戮しているラズルベリィよりもシュリュが持つあの包みの中身が、彼らにとってはるかに優先順位が高い事の証左である。
見る者へおぞましさからくる吐き気と体をすくませる威圧感を放つエルダーに、それでもラズルベリィが足止めをすべくゼファーの機首を切った瞬間、彼の目はそれを見た。
「おお、これは竜か!?」
ラズルベリィの瞳は尋常な光を失って久しい。その代わりに妖魔の正体を看破する浄眼や、邪眼や催眠眼に対する無効・耐性を有する守護眼等の能力を複数備えた特殊な義眼をはめ込んでいる。
ただの人間の目では決して見られない『モノ』を見られるようにする特殊な義眼は、これまでトラブリの事を溌剌と輝く緑色の人型として捉えていた。
肉体情報のみならず魂や精神、更には繋がっている縁や因果に到るまでを総合し、多角的に視覚情報に落とし込んだものなのだが、それが今は光こそ同じ緑色だが明らかに竜と分かるシルエットを映し出している。
ラズルベリィの義眼がトラブリをより正確に捕捉出来たのには、大図書館で別れる事になると判断したトラブリが悪戯心と置き土産に、という考えの元これまでの人間の真似からラズルベリィが認識できる範囲でわざと真実を見せたという理由がある。
そしてラズルベリィが驚嘆したのは、魂は竜だが実際には人間の姿のまま、エルダー三体を腕の一振りで八つ裂きにしたのを見たからだった。
ゼファーでさえ草で作った小舟に見えるエルダーの巨体を前に、ジャンクパーツを寄せ集めたフライパーに跨るトラブリは、恐怖など生まれた時から知らぬと言わんばかりの好戦的な笑みを浮かべていた。
「そこまで大きくなるのに一万年、二万年? それとももっと長くかい? ぼくからしたら、単位が億年に変わっても若いな。その若い命、ここで散らし、魂はCの元へ還るといい……んだけれど、君らの場合、還ってもアレな扱いされるだけだよね。
君ら自身は喜びをもって受け入れるから何とも面倒なのだけれど、傍から見ていると痛々しいまでの奉仕と献身と、そして教育だ」
圧倒的な強者としての自負と傲慢が、トラブリに憐憫をこれ以上なく詰め込んだ言葉を吐かせた。
CもHもわざわざ地上から連れてきた人間達を繁殖させ、余計な手間暇をかけて思想を刷り込む悪趣味な行いにより、人間達は自分達の命と魂を捧げる事に疑問さえ抱かない状態にまでなり果ててしまっている。
トラブリから見てそれは実に不愉快で、気分の悪くなる話だった。だからこそ、感情のままに振る舞い、生きてきた至上の超越者はこの瞬間も自分の感情に従って、Cへの嫌がらせも兼ねた行いを実行した。
「よし、君らにとっては余計な事だろうが、その魂をCの野郎の胃袋に行かせるのはなんだかムカつくので、冥界に送っちゃうから。これ、決定事項なのでよろしく!」
トラブリは拒否や異論を一切受け付けない勢いで宣言すると、そっと掌を上に向けた右手を口元に持ってきて、ふー! と強く息を吐きだした。
それで何かが起きるとは思えないなんて事のない動作だが、次の瞬間に生じたのは天変地異を思わせる現象だった。
トラブリが息を吐く動作を行うや否や、それこそ山すらひっくり返してしまいそうな程猛烈な暴風が生じて、彼女の正面に居たフォルマウス達に抵抗すら許さずに、空に広がっていた海よりも更に向こう側へと吹き飛ばしてしまう。
あまりに強烈過ぎる風の勢いに、フォルマウス達は風に呑まれた瞬間には絶命しており、姿を見せていたフォルマウスの過半数が命を落とす結果になった。
トラブリの起こした風の影響は凄まじく、着実にHの空を侵食していたCの海全体が痛みを堪えるように震えて、侵食の速度を著しく落とし始めている。
フォルマウス達を吹き飛ばした風もそうだが、それ以上にこの十秒に満たない一連の事態を見ていたラズルベリィを驚嘆させたのは、絶命したフォルマウス達の魂がCの領域へは行かずに、こことは異なる次元に――冥界に強制的に転移させられるのを、義眼が捉えたからだった。
彼の位置からではトラブリの言葉は届かなかったが、その眼はフォルマウス達とCの魂の繋がりが強制的に断たれるのを目撃したのだが、これは長くCと戦い続けているラズルベリィをして初めてみる光景だった。
フォルマウス達の魂がCに渡れば、それはそのままCの強化に繋がる為、倒したフォルマウスの魂を破壊するか、冥界送りにされる光景を目にした事はある。
だがそれも精々、一度に多くて数十かそこらだが、今回のような大規模な『縁切り』と『冥界送り』は、練達の魔術師たるラズルベリィも驚く以外に術がない。
事前に入念な準備と儀式を行うでもなく、即興でやってのけるなど人間業ではない。だが、それはラズルベリィの義眼が捉えたトラブリの姿に信憑性を持たせる方向に働いた。
「並の竜種ではあそこまでの芸当は出来まい。神に対抗できる程の格を持つ竜種となれば、最低でも真竜以上の個体か。ある意味では神々よりも遭遇するのが困難な存在と出くわすとは、いやはや、人生とは何があるか分からんな」
一応は命を賭けた戦場の只中ではあるのだが、共に闘う相手の大まかな正体があまりに珍妙奇天烈かつ極めて希少なものだと推察できたラズルベリィは、しばしその驚きに浸り続けるのだった。
トラブリとラズルベリィがフォルマウス達を一方的に葬っていた頃、シュリュは背後を振り返る暇も惜しんで、ひたすらにフライパーを飛ばし続けていた。
もしシュリュがトラブリとラズルベリィの戦う様を見ていたなら、ここまで必死になる必要はないのでは? とすぐに思い到っただろうが、今の彼女は自分の為に命懸けで足止めしてくれている二人の為に、一秒でも早く大図書館の防衛圏内に到着しなくては、と使命感に燃えていた。
このボタンの掛け違いのような微妙なすれ違いによって、シュリュの顔は必死の色一色に染まり切り、まだかまだかと心は逸るばかり。
フライパーの加速に耐える為、シュリュは残していた最後の黄金の蜂蜜酒を取り出し、最後の一滴までを一気に飲み干した。口に含んだ瞬間から全身に到るまで芳しい香りが行き渡り、全細胞が驚きに目を見開いて蘇るかのよう。
肉体のみならず精神にも影響が及び、これまで高速で流れて行った周囲の風景がゆっくりとしたものに変わり、時間感覚さえも変わる。
そうしてシュリュの精神は肉体を飛び出し、更にはHの領域さえも飛び出していった。
遥か星の海の果てで原初の海に誕生した単細胞生物、今まさに終焉を迎えようとしている太陽の最後の輝きと熱、楕円に歪んだ暗黒の重力場に飲まれる星、冷え切った惑星に降り注ぐ無数の流星群。
ああ、巨大なガス雲にたゆたう紐状の物体は生物なのか。赤黒い土ばかりの星に大穴を開けているミミズ達の気色悪さ。極彩色の森の中に実る果実を奪い合う多種多様な生き物共。
どれもこれも人間の正気を揺さぶり、壊し、狂わせ、深淵の彼方へと連れ去る悪夢の如き姿ばかり。黄金の蜂蜜酒によって精神が正気と狂気の狭間で揺れている状態でなかったなら、シュリュはたちまちの内に発狂して脳だけでなく魂までも狂ってしまっただろう。
一瞬が無限大にも拡大化される感覚の中で、シュリュは明確にこちらへ呼びかける声を聞いた。それは狂気の外宇宙をさまようシュリュの精神をたちまちの内に鎮める程に厳かで、理性と正気に満たされていた。
「ほう、ヴ■ト■の気配がする精神がさまよっているかと思えば、黄金の蜂蜜酒の効果とヴリ■■の加護が相まって、ここに近づく道標となったか」
天の全てを覆うかのように広がる翼。
推し量る事さえ出来ない力に満ちた巨躯を覆う暗黒の鱗。
聖賢という言葉が相応しい知性の輝きを秘めた銀の瞳。
恐ろしく強大で、神々しい程に威厳溢れる竜が、遥かな高位の次元から砂漠に落ちた真珠にも等しいシュリュを見つけ、呼びかける事で狂気に陥るのを防いでくれているのだ。
言葉もないシュリュに、銀眼黒鱗の竜は穏やかに言葉を重ねる。
「行くがいい。精神がさまよっている間に流れた時間は無に等しいが、戻れなければそれとて救いにはなるまい。我が同胞の加護を受けたる少女よ、戻るべき場所へ戻り、成すべき事を成すのだ」
ぐん、とシュリュは体が強く引っ張られる感覚に襲われた。焦点が定まり、意識が明確になるのと同時に精神が肉体へと引き寄せられているのだ。
例え黄金の蜂蜜酒を服用しても辿りつけない高みからこちらを見ている竜が、最後にこう声をかけてきた。助言だろうか。
「ああ、それと肉体に戻ったらすぐに『風よ』と叫ぶと良い。そなたの身を助ける事になるだろう」
それは――
「どういう意味って、あれ?」
はっきりと自分の喉から出された声に、シュリュは精神が肉体へと戻ってきた事を実感する。あの高みより届けられた声の主は一体何者であったのか。
自分に加護を与えたと言うヴ■■ラ――なぜか正確な発音が聞き取れず思い出す事も出来ない――とは何者なのか。
シュリュの疑問は心の中に溢れかえらんばかりだったが、それも頭上からさしかかった巨大な影に注意を逸らされた。
「あ、あわわわわ」
それはトラブリとラズルベリィが戦っているフォルマウスの群れから、斥候として別行動を取っていた巨大なフォルマウスだった。
直径三十メートル以上、全長九千メートル以上にも届く、ぬめりを帯びた深緑色の海鼠は、ガラス片のような牙が何十万本も生えそろった口を開いて、シュリュを丸呑みにしようと頭上から落下してくる!
そのあまりの巨大さに思考停止するシュリュだったが、恐怖に強張る彼女の脳裏に黒き竜からの助言がよぎる。意識するまでもなく腰のベルトに差し込んだ短剣に手を伸ばし、鞘から抜き放ちながらあらんかぎりの大声で叫ぶ。
「風よ!」
頭上の海鼠フォルマウスに比べれば爪楊枝のような短剣だったが、シュリュの呼び掛けに呼応して眩い翡翠色の輝きを発し、輝きは風へと変わった海鼠フォルマウスの口の中へと伸び続け、物理的な強度が意味を成さぬ狂風となる。
シュリュがぽかんと見つめる先で海鼠フォルマウスの体が内側からボコボコと凹凸が生じ、間もなく空気を入れ過ぎた風船のように限界まで膨れ上がり、破裂するのと同時に青い血と深緑と淡いピンク色の肉片を周囲へとまき散らす。
ザアァっと音を立てて降り注いでくる青い血の雨と肉片の霰が降り注いでくるのに、シュリュはまた違った悲鳴を発した。
「ぎゃああああ!?」
あの巨体から降り注ぐ血液の量は半端ではなく、巻き込まれれば全身が返り血に染まるどころかあまりの重量に全身の骨が砕かれてしまうだろう。それを察したシュリュの悲鳴が尾を引く中、奇怪な鳥の鳴き声が空を震わせた。
「GIIIYAAAAAAAAA!!」
「この鳴き声は!」
鳴き声の持ち主である蝙蝠とも鳥とも似つかぬ巨大な生物が、彼方から雲に見える程の数で急速に接近してくる。
それらはビャーキーの中でもフォルマウスのエルダーと同様に長い時を生きて、巨体と強大な魔力を獲得したロード種。ロードビャーキー達だ。
図書館都市でシュリュにあの包みを託したビャーキーの数倍から数十倍にもなる巨躯を持つロード達は、海鼠フォルマウスの血の雨の中に嬉々として飛び込み、ついでに目一杯口を開いて忌々しい海魔の肉片をつまみ食いして行った。
頭上を超高速で通過するロードビャーキーによって発生した衝撃波がシュリュに襲いかかるが、幸いにして右手に握ったままの短剣が守護の結界を張り巡らせた為、傷一つ負わずに済んだ。
シュリュが大図書館の防衛圏内に到達したのと、ラズルベリィとトラブリがフォルマウス達を相手に大規模な戦闘を行ったおかげで、H側も素早い行動が取れたようだ。
ロードビャーキー達にやや遅れて、大気を白く濁らせる冷気を纏うウェディゴのエルダーや通常のウェディゴ、ビャーキーの大群も徐々にこちらに近づいて来ている。
信仰する神の眷属達の姿を認めて、シュリュは大いに安堵したが、かといってその安堵に長く浸る事は出来なかった。ロードビャーキー達は近づいてくるCの眷属を迎撃する為に姿を見せたのであって、『シュリュを助ける為』に姿を見せたのではない。
今は短剣が守ってくれているが、直に激しい戦闘が発生してその余波が間断なく襲いかかってくるだろう。
それに思い立ったシュリュは顔色を青白く変えて、フライパーの進行方向を少しだけ逸らす。大図書館へ向かうのは変わらないが、戦域からなるべく離れられるようにしようというわけだ。
そんなシュリュの傍らに、ロードビャーキー達の参戦に合わせて戦場を離れたトラブリがフライパーを横付けしてくる。傷一つないその姿に、シュリュは心底安堵するのと同時につくづく規格外なのだなと痛感する。
「トラブリ、大丈夫、怪我はしていない?」
「へーきだよ。御覧の通り、怪我一つないともさ。君もかすり傷一つないね、良かった、良かった」
「貴女のくれたお守りと加護を込め直してくれた短剣のお陰よ。お守りの方はちょっと実感は湧いていないのだけれど、短剣の方はすっごい効果ね。あのでっかい気持ち悪いのが一撃よ、一撃」
シュリュが嬉しそうに右手の短剣をブンブンと振り回して見せるのに、トラブリはあっはっは、と機嫌良く笑う。与えたおもちゃに喜んでくれる親戚の子供を前にしたような笑みだ。
「それは良かった。そうでなくっちゃ、君に渡した意味がない」
「ええ、本当に助かったわ。それと、ラズルベリィさんは?」
「ラズルベリィ君か。彼はこの場から去ったよ。ロードビャーキー達に姿を見られたくなかったようだ。どうやら結構深めの溝が彼らの間には広がっているらしいよ。君のこれからの人生の安全と幸運を祈るってさ。どこまでも紳士に出来ているよね」
「そうだったの。改めて助けていただいたお礼を言いたかったのだけれど、ラズルベリィさんに事情があるなら、お別れを言えないのも仕方がないわね。その代わり、この恩は長く覚えておく事にしましょ」
「それ位の義理堅さでちょうどいいんじゃないかな。さ、大図書館へ行こう。Cの連中もフスタール側があれだけ反撃してきたら、ぼくらを追いかけるどころじゃないだろう」
「そうね。同じフスタールを崇める者とはいえ、役割分担はきっちりしているし、私達に護衛を付けてくれる様子は微塵もないし。自分達でさっさと大図書館に到着するのが一番だわ」
「そういう事さ」
実際、二人の言う通りで姿を見せたフスタールの眷属達はただの一体も、シュリュ達に視線を向ける者さえいない。C側がフスタール相手に全戦力を振り分けているのをこれ幸いと、ふたりはそそくさと戦場を離れるのだった。
幸いにしてC側の侵食は先程の海が最前線であった為、シュリュとトラブリはフォルマウス達と交戦する事を避けて、大図書館に到着する事が出来た。
このHの領域の中核たる大図書館は、名前そのままにひたすらに巨大な図書館だ。
図書館都市のように居住区画が整備されてはおらず、大小無数の黒く四角いブロックが積み上げられ、紙、布、革、粘土、石、青銅、水晶、翡翠、琥珀にヒイイロカネ……と膨大な素材の書籍が収蔵されている。
今もどこかの宇宙から収拾された書籍や、あるいはフスタールの知識を書き写した書籍が書棚の空いているスペースへとビャーキーやウェディゴ、円錐形の生物、人間からなる司書達の手によって収蔵作業が行われている最中だ。
大図書館にはCからの大攻勢の最中であっても各地から多くの配達人や司書達が訪れており、二人は外部からやって来た者の為に整備された気流にフライパーを乗せて、ゆったりとした速度で大図書館の内部へと向かっていた。
大図書館の敷地に入る際に、ビャーキーにキングイエローへの献上物があると包みを見せたところ、そのままビャーキーが先導役となり、他の訪問者達とは別のところへ案内される運びとなったのである。
すぐにキングイエローとの面会が叶うのか、あるいはその従者とまずは面通しをするのかは、これから分かる事だ。
「大図書館、ここが大図書館!」
「シュリュはさっきから興奮しているね。というか語彙が死んでいるよ。もうちょっと頑張ってここを称賛する言葉を紡ぎだす方がいいんじゃないの? ぼくは遠慮しとくけど」
Hの領域の住人からすれば信奉する神のお膝元である大図書館は、生涯で一度は訪れる事を夢見る場所だ。
図らずも大図書館を訪れる事になったシュリュは、先程から興奮を隠さずに頬を紅潮させてあっちを見てはこっちを見て、幼い子供のように騒ぎ立てている。
ただこのように興奮して騒ぎ立てているのはシュリュばかりでなく、他の来訪者の中にも似たような者達が居て、あちらこちらからきゃあきゃあとはしゃぐ声が聞こえて来ている。
「だって、大図書館なのよ。フスタールの化身たるキングイエローが座しますいと貴き神の社。このHの領域の心臓にも等しき都市。ああ、なんて、なんて素晴らし……おえええ」
大図書館に対する賛美の言葉が湯水のように湧いて出てくるシュリュだったが、突然口元を抑えて、苦しげに呻き出す。それはシュリュばかりでなく、先程までシュリュと同じようにはしゃいでいた者達も、次々と苦しみ、呻き声をあげ始めているではないか。
「そこで吐きそうになる辺りが、この場所が人間向きじゃない証拠だね。君らからしたら、ここは神の為の場なのだから当たり前だって話なんだろうけれどさ」
トラブリは実に不快気に大図書館の構造物を見回した。途方もない重量を感じさせる黒いブロックは綺麗な直線を描いているのに、見つめていると不意にぐにゃりと線が歪んで見える。
ブロックが積み上げられた壁や床は確かに直線を描いている筈なのに、時折緩やかに、またあるいは鋭角に曲がって見えるのだ。
曲がり角の先に自分の後ろ姿が見えるなど序の口で、前に進んだ筈がいつの間にか後ろを向き、左に曲がった筈が右に進んでいるといった現象が頻発している。
先導役のビャーキーがいなければ、ただの配達人や司書等は一生目的地に辿り着けないまま、大図書館の中を迷い続ける危険すらある。
人間の感覚ではなく、神々の感覚によって建造された場。トラブリの言う通り、ここは断じて人間の為の場所ではなかった。
その感覚の差がシュリュの三半規管と脳に影響を与えて、重大な嘔吐感を齎している。
幸い、シュリュにはトラブリに贈られたお守りがある為、すぐに嘔吐感から解放された。
最初から嘔吐感を感じさせない事も出来たろうが、そこまでしては周囲との反応の差を訝しまれるだろうとトラブリが判断したのだろう。
どれ程の時間をビャーキーに先導されたのかも、感覚が曖昧になっていたシュリュには分からなかったが、気付けば白い霧を周囲に包まれた広大な場所に立っていた。
傍らにトラブリの姿はなく、彼女の姿を求めて周囲を見回そうとしたが、自分の眼前に立つ人影に気付いた瞬間、シュリュの全身は硬直した。
襤褸のような黄色い衣を纏い、顔には青白い仮面を着けている。ただそれだけが特徴のナニカだが、シュリュには分かった。この仮面の人物、いや、存在こそがキングイエローであると。
王への敬意を示すべく膝を突こうとするシュリュだったが、硬直した体はピクリとも動こうとはせず、どんどんと体が冷えてゆく事だけが分かる。
「お、おう、王よ」
キングイエローはフスタールの化身である。人間の道理は持たない。人間の倫理は不要。人間の感情など埒外。キングイエローは長い袖に隠れた右腕をシュリュの方へと向けて差し出した。
シュリュはキングイエローが時に人間の魂を食べるという噂を思い出したが、この時ばかりは求められているのがあの包みであると間違えなかった。
強張る指を無理やり動かし、震えるままに黄ばんだ油紙に包まれたそれを差し出す。図書館都市で託されてから、命懸けで守り続けたナニカを、袖に隠れたままの右手で受け取るのを見なかった。
この間、あまりの恐ろしさから、シュリュはずっと自分の足元を見続けていたのである。
キングイエローの姿を直視する事は避けられたが、しかし、聞こえてしまった。蜂の羽音のような、それでいて金属と金属の擦れる音にも似たキングイエローの声を。あるいはそれは思念であったかもしれない。
“魔物の咆哮、ネクロノミコン、キタブ・アル=アジフ、ソノ断片”
それが、シュリュがこの大図書館へと運びこんだモノの正体であるらしかった。
シュリュは白い霧の何処かから出現したいくつもの気配が、自分とキングイエローを取り囲むのを敏感に感じ取った。
視線はまだ石の床に縫いつけたられたように固定したままだが、言葉として認識できない金属の擦れるような音が数を増している。
それがキングイエロー達の会話なのか、それとも感情の発露であったのかは、シュリュには分からないがおそらく不機嫌ではないのだろう、と感じていた。
(ネクロノミコン、魔物の咆哮、それ程重要な代物だったの?)
神たるフスタールの眷属キングイエローの眼鏡に叶ったと言うのなら、Hの領域の住人たるシュリュにとってこれほど喜ばしい事はない。ない筈なのだが、シュリュは同時にこれから起こる事が決して良いとは言えないのではないかとも感じ取っていた。
まず、Hの領域に生まれ育った人間の中ではシュリュのみが持つ感覚であったろう。シュリュ以外の者だったなら、自分が役に立てた事の喜びとキングイエロー達への畏怖のみで心身を満たしている。
そしてシュリュにとっての問題は、傍らにトラブリがいない事もそうなのだが、次に何をするのか、であった。
こうしてキングイエローに献上品を届けられた以上、目下の目的がない。他の配達人達と同じように戦いに向けての物資の運搬業務を与えられるのか、それともビャーキーやウェディゴに変えられて、『戦わされるのか』。
戦える、ではなく、戦わされる、と考えるあたりがシュリュの異端の表れであり、同時に自分を変えられる事への途方もない恐怖が彼女の心の中に生じた。
キングイエローを前にした時とは異なる恐怖と血の気の引く感覚に、シュリュは我知らず震えている自分の体を抱きしめた。
(いや、いやいやいや! 私を私でない何かに変えられるのは嫌。ウェディゴやビャーキー『なんか』に変えられたくない!!)
フスタールやキングイエローにとって、Hの領域の住人は道具であり、家畜であり、それ以上でもそれ以下でもない。
そんなモノが心中で自分達への拒否の念を抱いた事に気付いたのか、キングイエローの仮面の向きがわずかにシュリュへと向けられる。キングイエローが目を有しているかは謎だが、彼がはっきりとシュリュを認識したのは確かだ。
遺伝子から魂に到るまで先祖代々洗脳してきた存在を前に、シュリュの体は強張り、咽喉はからからに乾いて、視界が揺らぎ始める。心がどれだけ拒否しようとも、シュリュの体は眼前の存在が逆らう事を許されないのだと、肉体は知っているのだ。
“――――”
ああ、また虫の羽音のような、金属の擦れるよ4u南ガ聞コe瑠………………………。
*
*
*
*
「やあやあやあ、シュリュ、ぼうっとしてどうしたんだい!」
「え、あ、え?」
脳を直接揺さぶられているみたいに、シュリュの意識をぐわんぐわんと揺さぶったのは、鼻がくっつきそうな距離でこちらを見つめているトラブリの大声だった。
大図書館に到着してからいつの間にかいなくなっていたトラブリが目の前に居る事もそうだが、気付けばシュリュもまた先程までキングイエローと対峙していた白い霧の空間ではなく、黒いブロックに囲まれた部屋にあるベッドの上に腰かけていた。
「えええ、あれ、あれ、あれ? 私、ビャーキーにもウェディゴにもなって、ない?」
てっきりあのまま意思を無視されてどちらかに変えられるとばかり思ったのだが、そうはならずに済んだらしい。どうして変えられなかったのか、さっぱり分からないし、どうしてこの部屋に居るのかも同じく分からないが、とりあえずは無事らしい。
「やだなあ、君は正真正銘人間のままだとも。ぼくが君と初めて出会った時と変わらないまんまだね。それで、キングイエローにはきちんと渡せたかい?」
トラブリはシュリュの困惑をよそに、この大図書館に来た最大の目的の達成について問いかけてきた。彼女なら聞くまでもなく知っていそうなものだが、シュリュの口から直接聞きたいのかもしれない。
「えーと、白い、霧の中で、黄色い襤褸みたいな布、青白い仮面で……あ、ああ! そう、そうよ、そうそう。私、ちゃんとキングイエローに渡したわ。なんだっけ、アル・アジフとかなんとかって口にされていたわ」
「ふーん、アル・アジフねえ。詩集だったかなあ?」
「ええ、詩集なの? キングイエローって詩人か、それとも詩を好んでいらっしゃるのかしら? なんというか、思っていたのと全然違うわねえ」
「ぼくの記憶違いかもしれないけれどね。砂の国の詩人が狂気と正気の狭間で書き記したんじゃなかったかな。まあ、君は託された物をちゃんと届けるべき相手に届けたのだから、胸を張りなって」
トラブリはそう言うと、シュリュの腰かけているベッドの向かいに置かれているベッドに腰を下ろした。改めて部屋を見回してみれば、一辺十メートル程の広さがある。
二人のベッドの間にはやはり黒いブロックを組み合わせた机が置かれており、その上には水差しがある。天井に近い高さのところに横に長い窓があり、そこから光が差し込んでいる。
出入り口は、シュリュの正面にあるいやに重厚な雰囲気を感じさせる扉ひとつきりのようだ。フォルマウス達が全力で拳を打ちつけても、ビクともしそうにない。
二人の荷物は壁際にまとめて置かれていて、フライパーまである。もう少し大切に扱って欲しいな、とシュリュは思わず愚痴を零さずにはいられなかった。
「ここって大図書館の居住区? ていうかトラブリは今まで何処に居たのよ。気付いたら姿が見えなくなっていて、心配したのよ」
「ぼくから言わせりゃ、シュリュの方が居なくなったのだけれどね。途中でシュリュだけがキングイエローに招かれたんだよ。ちょっと強めの風が吹いたと思ったら、あら不思議、シュリュの姿が消えてなくなっていましたとさ」
「それは、そうか、キングイエローならそれ位出来るし、そう言われるとそうとしか思えなくなるわ」
「“そう”が多いね。ぼくは招いていない相手だから、呼ぼうとしないのは当然の話さ。見たところ、お偉いさんとの話し合いで随分と緊張したみたいだね。
人間の魂を食べるって言う話のある相手だし、疲れもするだろう。今は眠ったら? ぐっすり眠れそうな疲れた顔をしているよ」
「やだ、そんなに顔に出てる?」
「出てる出てる。そのままじゃお肌が荒れる事間違いなしだね!」
「不安になる事を言わないでよ~~。でも、ああ~、言われてみるとちょっと体が疲れているっていうか、気力がしおしおに萎えている感じがするわ。それじゃあ、ちょっとお言葉に甘えて横になるわね」
「うん、そうしなよ。お呼びがかかったら、ちゃんと起こしてあげるから」
「ええ、お願いね、トラブリ。おやすみなさい」
「おやすみ、シュリュ」
黒いブロックの上に敷かれた敷布団は意外な程に心地よく、枕と毛布の使い心地も申し分ない。優しいトラブリの声に誘われるようにして、シュリュはすぐさま寝入った。
シュリュがあっという間に健やかな寝息を立て始めるのを確認してから、トラブリはベッドの端の方へと手を伸ばした。そこには、つい先程まで存在していなかった黒電話がポツンと置かれている。
電話線の繋がっていない黒電話の受話器を手にとって、トラブリはシュリュには聞こえないように大気の振動を制御しながら口を開く。
「もしもしというのだったかな? こちらはトラブリ、こちらはトラブリ~」
『うむ、よく聞こえていますよ。こちらはラズルベリィ。シュリュ君は無事ですかな? トラブリ殿』
「怪我一つないともさ。さっき、キングイエローのところにネクロノミコンを献上してきたばっかりだよ。今は精神的な疲労でぐっすりとおねむさ」
『“おねむ”ですか。かの黄衣の王と対面し、精神的な疲労だけで済んでいるのならば、まさしく御の字でしょう。それも貴女の御加護ですかな?』
受話器に耳を傾けたまま、トラブリは悪戯の成功した子供のように笑う。どうやらラズルベリィの指摘は正鵠を射ているらしい。
「素面の彼女を対面させるのは、ちょっと危険だからね」
『その通りですが、しかし、シュリュは自分が守った物が偽物であると知らぬままなので?』
「うん。C側をかく乱する為の大量の囮の内の一つにすぎないというのは、まだ知らないままだよ。知る必要もないさ」
『それもそうですな。ところでHの側は本物を入手したとお考えですか?』
ラズルベリィの声音に強張りが混じった事に、トラブリはそれもそうかな、と心中で同情の念を抱いた。
どの世界に置いても必ず同じ人物が書き記すかの書物は、使い様によっては惑星の命運を左右する規模の力を持つが、同時にCやHに対する対抗手段が記された希書でもある。
邪神側に所有される事は、人類側にとって大きな危険と損害に直結する。
「うーうん、それはないと思うなあ。ぼくも実物を見た事はないけれど、あれは確かにCやHらに関して、かなり詳細な内容を記した書物ではある。
けれども、この大図書館の中にそれらしい書物の気配はないし、もしあるとしたならCやH以外の連中も自分達の弱点を知られてはならじと介入しようとするでしょ。まあ、あれはまだ地上世界のどこかを彷徨っているはずだしねえ」
『かの書が邪神やその崇拝者達の手元に渡っていないのであれば、それは朗報ですが、これから貴女達はどうされるのです? 今回のC側の侵攻はこれまで頻発していた者に比べ、力が入っているように見受けられます』
「オクトゥルを始め、最近、邪神連中がかなり数を減らしたし、カラヴィスも活動を停止しているし、邪神同士の勢力争いが過熱しているのさ。ここらで一つ、目の上のタンコブの宿敵を片付けたくもなるってことじゃないのかな?
これからどうするかってのは、ま、シュリュと一緒にこの大図書館を見て回って決める事にしているよ。お互い、どうしてもしたい事もなければ、しなければならない事も無くなってしまったね。手持無沙汰で困る予定~」
『その大図書館にいてそのような事を言えるのは、貴女達位のものでしょう。シュリュ君は大図書館に留まる事を望むかもしれませんが、そうなればCとHの本格的な争いに巻き込まれる可能性が高まるでしょう』
「十中八九、そうなるよ。一日二日、ここに留まるだけならば大丈夫だろうけれど、シュリュはまだ自分の事をHの領域の住人だっていう認識があるから、そうするでしょ。
でも、あの子、どうもウェディゴやビャーキーなんかに変えられそうになったのを拒絶した風なんだよね。そんな異端者をキングイエロー達が見逃すか、ちょっと気になっているところさ」
『フスタール達からすれば、順調に教育が上手くいっているところに現れた例外。例外が生まれた理由を調べ、検証を重ねるか、それとも排除するかは、五分五分ですな。どちらでも貴女が居れば好きにはさせますまい』
「短い付き合いだったけれど、ぼくの事を良く分かっているね。花丸を上げよう! こっちはこういうわけだから、君は安心して好きな所へ行くといい。こっちがどうなるかは、すぐに分かるだろうしね」
『そのようになりそうですね。では、不要とは思いますが、貴女の武運とシュリュの無事を遠き地より祈りましょう』
「そうしてくれると嬉しいね。君も無理はしないように。それじゃあね」
クスクスと忍び笑いを漏らしながら、トラブリは音を立てないように受話器を黒電話へと戻す。チン、と音を立てて受話器が置かれると同時に、黒電話は大気に溶けるようにして消えた。
フォルマウス達との戦いの後、姿を消していたラズルベリィが、トラブリとの連絡用に大図書館に忍ばせた通信魔法、それが黒電話の正体だ。
「しかし黒電話とは、ラズルベリィ君の故郷の品であったのかな?」
*
ラズルベリィとの連絡を終え、シュリュが目を覚ました後、トラブリ達は咎め立てる者もなく大図書館の中を歩き回っていた。
円錐型の生物や慌ただしい様子のビャーキー達フスタールの眷属は、まるでシュリュとトラブリの姿が見えていないかのような素振りで、視線を向ける事すらしない。
大図書館の間を交わされた黒曜石の如く輝く黒い通路を練り歩きながら、シュリュは不思議で堪らないとしきりに首を捻る。
「あれからなあんにも言われないのもそうだけれど、こうして好き勝手に大図書館の中を歩き回っても注意一つされないってどういうこと?
そりゃあ、所蔵されている書物を読もうと思っても、一文字も読めないし、私達に何かまずい事が出来るってわけでもないけどさ」
「小さすぎて眼中にないって印象を受けるね。誰にも咎められないっていうのはありがたいけれど、こうまで何もされないとなるとぼくらもする事がないやね。
もう大図書館を離れてどっか行く? 一度は来たいところだって言うけれど、来てみたら案外見るものもないでしょ」
「いや、まあ、ええっと、そうね? こう、人間が観光するのを前提としていないから過ごしにくいと言うか、やっぱり神々とその眷属の為の場所ってだけはあると思うの」
「なるべく穏便な言い方をするとそうなるね。ぼくとしては一刻も早くここから出て行った方がいいと思うけどね」
「戦場になるから?」
シュリュとて、流石にそれが分からない程鈍くはなかったようだ。間髪いれず答えたシュリュに、トラブリは兄の口癖を真似た。
「ふんむ、そうだね。今更隠してもしょうがないから言うけれど、てかまあ、ぼくの見立てだけれどさ、そりゃあ、戦いになるとも。
ならないわけがないじゃないって位、戦いになるのは確実だね。シュリュは配達人だろう? 戦う力を持っていないんだから、逃げてもよくない? それともウェディゴやビャーキーになるのが望み?」
この時、トラブリはいつもの気楽な調子の笑みを浮かべてこそいたが、瞳も心もわずかばかりとも笑ってはいなかった。シュリュの返答次第では、Cが来る前にこの大図書館は壊滅していたかもしれない瞬間である。
場合によっては自分の返答がこの大図書館を跡形もなく消滅させるとは知らず、シュリュは暗闇に迷った子供のように泣き出しそうな顔になった。
「トラブリ、私ね、キングイエローに眷属に変えられるんじゃないかって考えた時、本当はそんな事を考える事だって許されないのに、嫌だって思った。それだけは嫌だって、私を私でないものに変えられるのは嫌だって思った。
だって、私は、まだ何処にも行っていない! 本当に行ってみたいと思ったところに、心から行きたいと願う場所すら見つけていないのに、この領域から何処にも行けなくなる存在になんて、なりたくない!!」
何処に誰の耳があるかもしれないと言うのに、シュリュの言葉は徐々に熱を帯びて最後には絶叫と変わらぬものと変わっていた。もしHの領域の住人に聞かれていたならば、シュリュは背信者として一切の慈悲なく処断される、極めて危険な発言だ。
トラブリはシュリュの偽らざる本音を、ただただ慈しみ深い笑みと共に聞き届けた。幼げな少年と見まごう少女とは思えぬ、慈母を思わせる笑み。
「そう、自分の本当の願いを見つけたんだね。まずは第一歩。たったの一歩だけれど、とても意味のある一歩だ。魂の隷属者から自由なる魂の持ち主に戻る為の、大いなる一歩だと、このぼくが認めよう!」」
「トラブリ? えっと、そんなに大それたことを言ったのかしら、私。それにどうしてそこまで嬉しそうなの?」
「はっはっは、君がぼくの期待以上の答えを返してくれたからだともさ! いやあ、これは実に気分が良い。良いった良いや! あっはっはっは!!」
「まあ、トラブリを喜ばせられたのなら、良かったわ」
どことなく疲れたような、肩透かしを食らったような顔になるシュリュに対して、トラブリはまだ笑っていたが、茶目っ気を示すようにあの下手くそなウィンクをしてみせた。
機嫌が良い時にする癖のようなものなのだろう。
この時、言葉にこそしなかったが、トラブリは実に内心で飛び跳ねているような状態だった。こういう答えが返ってくるなら、『キングイエローがシュリュに手を出す前に彼女を連れ出した』甲斐があったというもの。
加えて、この大図書館の中にフスタールですら察知できない隠し部屋を作り、そこにシュリュを匿った上で大図書館の司書達に認識されないようにまでしているのだ。
今に到るまで大図書館の誰にも見咎められず、自由気ままに大図書館の中を歩いてみて回れていたのも、全てトラブリの仕業なのである。
「ふふふ、ぼくも土壇場になる前に君の本心が聞けて良かったよ」
「土壇場? 土壇場って?」
「ふむん、今回、C側はかなり力を入れているのが分かった時点で、H側もこれは本腰で迎え撃たなければって考えたのだろうね。
C側が無視できず、それなりに信憑性のある囮としてネクロノミコンを始め、名の知れた魔本や奇書、神器を手に入れたと流布して、C側の行動を促進させた。そうして自分達の領域奥深くまで、拙速を尊んで侵入するように誘導して見せた。
それに囮にした器物の類も、全部が全部、偽物ってわけじゃない。星の位置、エーテルの流れ、次元の壁の向こうにある宇宙との位置関係、それらを考慮してCの力を抑止するように陣を敷いている」
「トラブリ、貴女、どうしてそんな事が分かるの? 実はフスタールに近しいところにいる神性だったりするの? それとも、まさか、貴女、Cの側……?」
余りにも事情に精通しすぎているトラブリの発言に、シュリュの脳裏には多くの可能性が浮かび上がり、挙句に最低最悪の可能性としてトラブリが自分とは敵であるC側の存在では、という疑いまで浮かび上がる始末。
もちろん、そんなわけはないのだが、トラブリにしてもまさかC側かと疑われるのは予想外だったようで、しばしきょとんとした顔で目を丸くして見せた。
この少女の真の素性を考えれば、ただの人間の少女がこのような表情をさせたと言うのは、ちょっとした偉業だったかもしれない。
「ないないない、それはないよ、シュリュ。というかよりにもよってその発想が出てきちゃうかー。あちゃーって感じだよ、ほんとに。CでもHでも別の勢力と言われるかな、位は考えていたのだけれどね。そこは安心して良いよ。ぼくは君の敵じゃない」
まあ、この領域の味方でもないけれどね、とまでは口にせず、トラブリは胸を張って堂々と宣言した。
自らになんら恥じ入るところはないと言わんばかりのトラブリの態度には、根拠なしに相手に信じさせる自信に満ち溢れていて、シュリュは信じたかった、というのもあるが、トラブリが自分の敵ではないとすんなりと信じた。
「そう、本当にそうならどんなに良いか」
「本当だってば。でもまあ、シュリュとのんびり話していられるのも、そろそろおしまいっぽいんだよね。どうやら怪獣大決戦か、邪神大決戦がそろそろ開幕しそうなんだよね」
「それって、どういう? 私にも分かるように言って!」
「上、上、ほら、Cの領域からわざわざ出張ってきた海が、もうこの大図書館の上に来ているよ。半分位はH側がわざと誘い込んだんだけどね。さて、こりゃ、ぼくも二柱に拳骨をくれる位はしないとかな?」
これまでC側の侵略は海という目に見える領域が、横に広がりながらHの領域を侵食して来ていた。こういっては何だが、実に分かりやすい形で行われてきたと言えるだろう。
Hの領域の中心地である大図書館近辺にまで、フォルマウスを始めとした海魔の蠢く海が迫って来ていたのは、シュリュやトラブリも実際に目にしたところである。
シュリュが大図書館でキングイエローと謁見し、その後の意識喪失状態から復帰してトラブリと大図書館を見学していた間に、C側の侵略の魔の手は一気にH側の首元にまで迫っていた。
トラブリが、C側がもう来た、と告げるのにわずか遅れてシュリュは頭上を見上げた。
大図書館の空が突如として曇天に変わったように、周囲が暗く翳ったからであったし、加えて磯臭い風が頭上から叩きつけるように吹きつけてきたからであった。
「あ、あわわわわ!?」
翳りと磯臭さの正体は、否応なくすぐさま理解できた。シュリュとしては理解できてしまった、と大いに嘆きたいのが本音である。
頭上の空一面を覆い尽くす灰色の海が垂直に落ちて来ているのだ。Cの海がこれまでの粘体生物のように横へ広がる動きから縦に伸びる動きへと変えて、はるかな高高度にまで伸びてから一気に滝のように落ちて来ている!
「空なのに魚頭が泳いだり、でっかい水たまりが広がって来りとか、Cの連中の所為で色々と変なものを見てきたけれど、これって、ものすごく危なくない!?」
思わず愚痴っぽく叫ぶシュリュに、トラブリが面白そうに笑いながら答える。Cの海が急接近して来ているのにもかかわらず、精神が汚染される様子もなく、単純に動揺しているだけだ。
そしてまた、ただその場にぼうっと突っ立っていても出来る事は何もないと、二人とも大急ぎで部屋を目指して駆け出し始めていた。
「危ないのは危ないよ。でもフスタール達だって間抜けじゃないんだ。一気に懐にまで攻め込まれた場合の対策だって、少しは講じているでしょ。このまんまあの海に大図書館が押し潰されるなんて、呆気ない結末にはならないよ。ほら」
およそシュリュの視界の及ぶ範囲を埋め尽くしていた海が、いよいよ大図書館を押し潰すと感じる程接近したところで、透明の壁にぶつかったように落下が止まり、その代わりに大図書館を球形に包みこんでいる不可視の壁に沿って流れた。
お腹の底の底まで響く膨大な水の流れる音と共に、見る間に空の下へと落ちてゆく海水とその中に紛れている海魔の姿を、シュリュは目を丸くして見る事しかできない。
「流石に大図書館の守りは固いよね。それでもあれだけの質量とCの神通力が籠っている海水の直撃だもの。守る側の力も大分削がれちゃうけど」
トラブリの言葉を証明するかのように、ミシミシと軋む嫌な音がシュリュの耳に届く。
海水を受け止めていた不可視の壁に白い亀裂が走り、そこから少しずつ海水が滲むよう浸透し始め、それらは程なくして大きな水滴となって内部に海魔を満々と湛えながら滴り落ちた。
空中で弾けた水滴は、無数の飛沫を雨と変えて大図書館へと大量の海魔と共に落下し、程なくして海魔達は『落下』から『泳ぎ』に変わる。
無論、H側も黙ってこれを見過ごす筈もない。大図書館側も円錐型の司書達を始め、ビャーキーやウェディゴ達が大図書館のあらゆるところから姿を見せて、水泳中の海魔達へと襲いかかった。
魚頭人身の巨人が水かきのある腕を振り上げて、冷気を纏う毛むくじゃらのウェディゴの肩口へと叩きつける。腕が動くのに合わせて大気中に水泡が浮かび上がり、その場が海中へと変わりつつあることを暗示していた。そこまでC側の侵食が進んでいるのだ。
ドオン、と落雷の如き轟音がウェディゴの右肩で発し、ウェディゴの顔にくっきりと苦悶の表情が浮かび上がるが、苦痛はそのままに魚巨人の首筋に鰓ごとまとめて噛みついて反撃する。
魚巨人は首筋にウェディゴを食らいつかせたままぐるぐると大気中を回転し、何とか引き剥がそうと足掻くも、首筋からウェディゴの冷気が体内へと侵入するのを許してしまった事で、体の内側から凍りついて間もなく体表まで白く濁らせて砕けた。
砕けた魚巨人には目もくれず、次の獲物を探すウェディゴに休む間を与えずに通常の大きさのフォルマウス達が雲霞の如く襲いかかる。
ナイフの如く鋭い牙をガチガチと鳴らし、フォルマウス達はウェディゴの巨腕に叩き潰され、握り潰され、凍らされるのも構わずに少しずつウェディゴの肉を食い千切ってゆく。
ウェディゴの白い毛並みが見る間に赤く染まり、流れ出る自らの血も凍らせた巨体は、絶命と同時に空を飛ぶ力もまた失って、あるかも分からない空の底へとまっさかさまに落ちてゆく。
他にも水と風の力を持つ魔性達の戦いは苛烈を極めて行く。軟体動物めいた姿の海魔が吐いた、粘度の高い毒の墨に巻かれたビャーキーの群れが喉を掻き毟り、全身の穴という穴から血を噴き、苦しみ悶えながら死んでゆく。
魔力に満ちた風を鋭い刃と鎧として纏い、海魔の群れに飛び込んではみじん切りになった死体を量産しているロードビャーキーは、天使のように愛らしい白い海魔を次の目標と定めて超音速で飛翔した。
白く透けた体の中に赤い臓器や脳のようなものを持ち、体の左右から翼のように鰭をはためかせているその海魔は、愛嬌のある形をしていた頭部を四つに割り、そこに隠れていた無数の牙を露わにして、突撃してきたロードビャーキーに正面から食らいつく。
速度の乗っていたロードビャーキーは直前で軌道を変える事が出来ずに白い海魔と衝突し、その胴体を八つ裂きにしたが、残る白い海魔の口に胸から上をバクリと食い千切られて相討ちに終わった。
他にも海に生息するあらゆる生物の面影をどこかしらに持ち、同時に吐き気を催す醜悪さを兼ね備えた膨大な数の海魔達が、同じく尋常な生物とは思えない超常の狂気を交えた造作のフスタールの眷属達と一秒と休む事もなく殺し合い続けている。
既に大図書館近隣の半ば海水へと変わりつつある大気には、CとH双方の眷属の流血と死の間際に発せられた怨嗟に瘴気が広がっていて、何の対抗手段も持たぬ常人では即死を免れない程に穢れている。
「うわうわうわ、ええっと、数はこっちの方が多い? でもまだまだ海の方もたっぷり残っているし、包囲されている分は不利よね? ね!?」
そんな中でシュリュがきゃあきゃあ、と元気よく悲鳴交じりに叫んでいられるのは、言うまでもないがトラブリから渡されたお守りの守護があるからに他ならない。
「おお、シュリュってば言葉は慌てているけれど、ちゃんと状況を把握できているね。でも前座同士の戦いっていう段階だよ。本命はCとHの眷属神……う~ん、ひょっとしたらCとH両方の分霊あたりまで出てくるかな?
いやあ、そいつらが戦い始めたら大図書館が崩壊するか、C側が文字通り全滅寸前まで行くかの両極端になりそうな予感!」
「それって私的には一大事なんですけれど! いや、あっちの連中がズタボロになるだけなら、全然構わないけれどね!?」
「まあ、そうそう都合よくはいかないよ。長年の大敵だもの。Hは滅ぼされずに今日まで生きているわけだけれど、Cの側もそれはおんなじだからねえ。
今のところ、ぼくの見立てでC側の奇襲は、コストを考えるとあちらさんの想定の七割位の成功かなあ。そんでもって、H側の迎撃はこれでやっぱり七割成功かな?」
「『これで』って、さっき貴女の言っていた対策? 何、これから何か起きるっていうの? もう情報過多で頭の中がパンパンになっている気分だわ」
「ははは、そろそろ新情報の供給も尽きてくる頃さ。H側は懐まで侵入されたわけだけれど、事前に想定出来ているのなら、迎え撃つ為の罠を張れるってもんだよ。
失敗した時のリスクは当然大きいけれど、今回はリターンを選んだみたいだね。ほら、海が風に閉じ込められるよ?」
「閉じ込められる?」
実のところ、大図書館を守る不可視の壁はこれが最後の守りだ、これさえ突破すれば喉笛に食らいつけるとC側に思い込ませる為のH側の囮だった。
大図書館を囲う不可視の壁の更に外側にもう一枚、物理法則に喧嘩を売るような光の速さで吹く気流が生じて、縦に落下している最中の海を半ばから遮ったのである。ブツン、と腸を切断するような音が聞こえてきそうな光景だった。
切断された海の先端側が逆にHの罠の中に閉じ込められた形となり、海の根元の側は慌てたように新たに出現した気流へ何度も突撃を繰り返すが、その度に大きな飛沫を上げて跳ね返されている。
一応、まだ自分の所属だという認識のあるシュリュは、なんとなく事態が好転したと判断して、おおーと感嘆の声を上げた。
「おやおや、そのまま見ておいでよ、シュリュ。どっちも大物が顔を見せる気になったみたいだ。痺れを切らしたか、早々に決着にする気になったかね」
「大物ってこっちで言ったら、ひょっとしてキングイエロー?」
「うーん、フスタールもといHの本体はまだ出てくる気はないみたいだし、化身が出てくるのが妥当かな。お? C側は眷属神が出てくるみたいだ。今の君なら直視しても発狂はしないでしょ」
「怖い事言わないで!」
シュリュが心底から悲鳴を上げたが切っ掛けになったわけではあるまいが、新たな気流によって切り落とされた水溜りの中から、全身を能力の鱗で包み、背中から紫色の蛸脚を生やした巨大な魚巨人がずるりと姿を見せる。
今まさに魚卵から孵化したかのようにぬらぬらと全身に粘液を纏うソレは、ダグォンと呼ばれるC側の魚神の一種であった。全高百メートルにも達するダグォンは、生まれ落ちるのと同時に大きく口を開いて咆哮を上げる。
世界の果てにまで響き渡り、感受性の高い芸術家や赤子を狂気の淵へと叩き落とす邪神の咆哮であった。
「うひゃ!? うるさい!」
もっとも、トラブリの加護を受けるシュリュからすれば、単純に大声がうるさいと言うだけだったが。
C側の大物が姿を見せたのに応じ、H側もまたこれに応じた。シュリュから偽のネクロノミコンを受け取った、大図書館の仮初の主キングイエローの出陣である。
CとHの瘴気が入り混じる大気に大きな渦が突如として生じ、黄色く濁った渦は周囲のフォルマウス達を瞬く間に腐敗させ、目に見えぬ程細かな破片にまで粉砕してゆく。
いち早く脅威を悟ったフォルマウスや大型の海魔達が次々と渦へと身を投じて行くが、彼らの献身的とも言える特攻は何の結果を生む事もなく、むしろその魂をCに渡る前にキングイエローが貪って糧にしてしまった。
フォルマウス達が自分達の行いの無意味さを悟り、動きを止める中でいよいよ黄色い渦の中からキングイエローが姿を見せる。
シュリュと対峙した時と変わらぬボロボロの黄色い布のマント、そして詳細に語る事の出来ぬ冒涜的な彫刻の施された青黒い仮面、肌の露出は一切なく、姿どころか発する気配のみで人間の生命と魂を汚辱し、粉砕する超常的な狂気存在。
ダグォンと対峙すべく全高百メートル超の巨躯となって顕現したキングイエローは、威嚇の咆哮を終えたダグォンと三百メートル程の距離を置いて対峙する。
「おーおー、流石に地の利と化身である分、キングイエローの方が有利かなあ。遮断された海がどれだけ早く大図書館に乗り込めるかが、勝負の胆だね、うん」
大図書館の中に出現した超巨体と超狂気を誇る存在の激突にも、トラブリは呑気な感想しか出て来ない。そもそも彼女の方が狂気は兎も角として、その他の部分に於いて大きく超越しているからこその余裕と呑気さだ。
そんなトラブリは彼女が大図書館の中に勝手に用意しておいた部屋に到着しており、今はシュリュが大急ぎで荷物とフライパーの用意を終えるのを待っているところだった。
「トラブリ、ごめん、待たせちゃった!」
部屋の外の廊下で待っていたトラブリの元に、息せき切らしたシュリュがフライパーを担いだ姿で飛び出してきた。Hの領域の人間ならば、この状況でも逃げ出さずにC側と戦おうとするところだが、シュリュは大図書館からの脱出を選択している。
これだけでもシュリュがH側の人間としては異端であり、トラブリの影響が強くあるとはいえ、長年に渡るH側の思想教育と洗脳も完全ではない事の証左だった。
「気にしない気にしない。といってもまあ、大図書館の周囲ごとまとめて封鎖されちゃっているから、遠くに逃げるって選択肢は取れないからね。なるべく激戦区から離れて、フォルマウス達から隠れて戦いが終わるのを待つしかないかな」
この時、トラブリは何か言いたそうな顔をしたが、シュリュは苦しい選択しかない事への悲観だろうと追求する事をしなかった。
まさかトラブリならば力で――いや、力でしか――この事態を解決できる等とは、夢にも思っていないからである。
「流石に私達だけでこの状況から脱出するのは無理よね。だからといってあの戦いの中に飛び込むのも無理な話だし」
シュリュの見上げる先では、次々と姿を見せるフォルマウス達とHの眷属達が自らの命を捨てた死闘を繰り広げており、その中心にして最大の激戦はやはりダグォンとキングイエローの戦いであった。
ダグォンの腕が水を掻く動きをすると、かの魚神の周囲に色とりどりの水が無から生じる。とある宇宙の惑星を覆う強酸性の海、無数のバクテリアが生息しあらゆる有機物を捕食する人食いの海、あらゆる毒素が混じり合い秒単位で新たな毒が発生する泡立つ紫の海。
海という概念が適用される恐るべき海が、ダグォンの神通力によってあらゆる宇宙からかき集められていた。
対するキングイエローは黄衣の袖で風を起こすようにふわりふわりと動かす。水に対するは風。海に対するは嵐。
それは宇宙の暗黒を駆ける太陽風。それは氷河に閉ざされた惑星に荒れ狂う極々低温の風。それは物理法則を無視して超光速にまで達した風。
互いに神性の領域にまで達した存在である為に、彼らの用いる攻撃手段には全て神通力が付与され、加えて地上世界の物理・霊的法則を無視して思い描いた現象や結果を即座に発生させられる。
両者の権限と力を考慮すればまだまだ様子見でしかない力の行使だったが、海と風の激突によって発生した余波は、周囲で戦っていた眷属達には到底耐えきれぬ破壊力を秘めていた。
一体どんな環境で育ったのか、三千メートル級の巨大な鯨型の海魔でさえ強酸の波を浴びれば骨も残さず溶け消え、太陽風をもろに浴びたロードビャーキー達は超高温のプラズマに全身を焼き尽くされて熱を感じる間もなく消し飛んだ。
敵と味方の区別なく力を振るう超越者達によって、次々と大図書館内部の生命は数を減らしてゆき、フライパーに乗って大図書館からの離脱を目指すシュリュとトラブリ達に、かろうじて原型を留めていた死体がボトボトと降り注ぎ始める。
二人にとって不幸だったのは、降り注ぐ死体の中に実に直径五十メートルにも及ぶ海魔の目玉が狙いすましたかのように落下してきた事だった。
トラブリが冷静に黄色い瞳の目玉を吹き飛ばそうと指を鳴らそうとしたその寸前、必死にフライパーを操縦していたシュリュがほとんど本能的に腰のベルトに差し込んでいた短剣を引き抜く。
「風よ!」
黄金の蜂蜜酒を一気飲みして過剰摂取した所為で精神が彷徨った時に、声を掛けてくれた黒い竜を思い出しながら、シュリュはほとんど考える間もなく短剣に込められた加護を開放していた。
短剣から再び凄烈に無慈悲なる風が解放されるや、二人を押し潰そうとしていた巨大な目玉は真っ二つになったばかりか、風に押されて大きく左右へと吹き飛んで大図書館の一角を崩壊させながら突っ込んでいった。
「あちゃあ、威力あり過ぎよ、この短剣。ねえ、トラブリ!」
フライパーの操縦は止めぬまま、シュリュは傍らを飛ぶトラブリへある確信を持って話しかけた。トラブリの方もそろそろかな、と思っていたので、特に動揺した素振りは見せない。
「な~に~?」
「また気の抜ける声を出して。この短剣に込められている加護って、フスタールの力じゃないんでしょ? フスタールの力だとこう、肌の泡立つ感覚がするけれど、貴女に加護を掛け直して貰ってかはそんな事が全然ないのだもの。いくらなんでも怪しむわ!」
「だっはっはっは、ついにバレたか!」
「ちょっと、その笑い方ははしたないわよ。話を戻すけど、貴女ってHとかCとかとは別のところか来たの?
この間、黄金の蜂蜜酒の一気飲みで自我があやふやになっていた時に、何だかおっきくて、ものすごく偉い感じのする竜に話しかけられた気がするんだけれど、その時に貴女の事を何か話したような、話さなかったような……う~~ん」
「ああ、シュリュの精神がちょっと拡散しすぎて希薄になっていた時の話? その竜はぼくの身内だよ。一応、こっちにも竜の知識はあるんだったね。まあ、そこまで詳細な内容じゃないけれどさ」
「今、あの時の竜が身内って言った? じゃじゃじゃじゃ、じゃあ、トラブリも?」
「姿を変える位は簡単だしね。それとHの領域に来たのは本当に観光のつもりだったんだよ? 君を助けたのだって、こりゃいけないって思っただけで、別の意図なんてなかったし。そこから先は君の事を気に入ったから、とっても贔屓しているのさ」
「どこからどう見ても人間の女の子だけれど、あれだけ胆が据わっていて、不思議な雰囲気を持っているのだから、人間じゃないって言われてもそんなに疑う気にはなれないわ」
「それは良かった。君に疑われるとはとても傷つくからね」
「どこまで本気なんだか。それで、これから貴女はどうするの? 私の事を抜きにすればここから脱出する位は出来るんじゃないの?」
「んー、楽勝だけれど、ぼくが今日までここに留まっていたのって、シュリュの事が気掛かりだったからだし、CとHが本格的に戦い始めたからといって、君の事を放り捨てて行くわけにはいかないさ」
「数奇な運命っていうのかしら、こういうの」
「運命の敷いたレール位なら全部引き剥がせるから、運命みたいに何かに導かれたとか定められていたという事はないよ~。ん、キングイエローがまた痺れを切らしたみたいだね」
海と風の激しい争いの中、死した眷属の魂を食べながら戦っていたキングイエローが、硬直しつつある戦況に変化を加えるべく、仮面の奥から冥府の底で亡者を凍らせる風のような声を周囲に発した。
C側のフォルマウスや海魔達は、そのキングイエローの声と思念を浴びるやその場で内側から破裂して汚い花火となったが、ウェディゴやビャーキー達は逆に寿命を縮める代わりに一時的な強大な力を付与されて、異様に膨張した肉体と血走った目のままフォルマウス達へと襲いかかる。
「ふんむ、大図書館の外に居る眷属を呼び寄せ、戦力を集中して一気に叩き潰す感じか。それに眷属の大部分を使い捨てにするつもりだな」
キングイエローの声に呼応したウェディゴの一体が、海魔に頭の半分を齧られてもなお命尽きるまで暴れ回り、最後には全身を腐らせて死ぬ姿に、トラブリは嫌悪を隠さない。
大図書館の外に居た者達はまだしも、内部でキングイエローの声を聞いた眷属はほぼ全員が自我を喪失して、フォルマウス達を殺傷するだけの存在になり果ててしまっている。
大図書館近隣を取り巻く風の牢獄とCの海の向こう、それこそ三百六十度ありとあらゆる方向から、黒い雲のように見える膨大な数のHの眷属達が姿を見せて、近づいて来ている。
すぐさま数千万、数億の単位での戦いが始まるだろう。トラブリは所詮その程度と気にも留めておらず、心を砕いているのは傍らで茫然とし始めたシュリュのフライパーが墜落しないように気流で包みこんで保護する事だった。
キングイエローの声と思念を受けて発狂しなかった唯一のHの領域の住人、それがシュリュだ。その彼女もキングイエローに呼びかけられ続けられて、正気と狂気の狭間で揺れ動いている。
焦点がズレてぼんやりとした顔つきになっているシュリュは、この瞬間、キングイエローの思念に心を囚われていた。
瞳は周囲の光景を映しておらず、彼女の瞳にはキングイエローと謁見した時の謎の空間が広がっており、その中に巨体と化したキングイエローが支配者の如く立って、シュリュを見下ろしている。
キングイエローの思念を人間が正確に理解する事は不可能に近いが、それを敢えて人間に通じるように翻訳するのならばこうだろう。
“血ヲ、肉ヲ、魂ヲ捧ゲヨ。眷属ヨ、信仰ヲ持ツ者ヨ”
シュリュの頭の中で、心の中でキングイエローの命令が何重にも響き渡り、それ以外の音は一切耳に入ってこず、体の感覚も喪失してしまっている。
聞こえるのはキングイエローの声。見えるのはキングイエローの姿。思考を占めるのはキングイエローからの命令のみ。
他の者達が嬉々としてそうしたように、シュリュもまたそうしなければならないし、そうする事が何よりの喜びであると物心つく前から教え込まれてきたのだ。キングイエローの声を受け入れ、思念に全身を委ね、そうして凍てつく風を纏う巨人か星の世界を飛翔する飛行生物へ!
「う、ううう、ううう」
“拒ムナ。ソレハ幸福。ソレハ歓喜。ソレハ安心。ソレハ不変。ソレハ永久”
「い、や、いや。いやよ。私は、私で居たい。まだ……私はなにも、何もしていないの、だから」
“来タレ。来タレ。来タレ。我ガ声ヲ。声ヲ、声ヲ、声ヲ、聞ケ!”
「いや! さっきから一方的に、押しつけがましく、聞きたくもない声を聞かせて来て、何様のつもりよ!?
誰もかれも貴方の為に生きてきたからって、私までそうする義理はない! 分かった! 分かったなら、さっさと黙れ、うるっさいのよ! そのキンキン声!!」
言ってやった。ああ、そうだ、言ってやったぞ! 生まれてからずっと敬い、崇め、信じてきた神の化身に、とんでもない事を言った。言ってしまった。言ってった!!
ああ、なんて畏れ多いのだろう。そしてそれ以上になんて痛快で、めちゃくちゃに気持ちいのだろう! これまでずっと自分の人生を縛り、進む道を定めてきた神に、思いっきり唾を吐いてやったのだ。
なんて罰当たりで、なんて不義理で、なんて背徳的な罪悪感と快感なのだろう。
シュリュの心が溶岩のように熱く煮え滾る感情の奔流に浮かされる中、キングイエローの意識がそっとシュリュに伸ばされる。
怒りや不快と呼ぶ程の意識をキングイエローが抱いたわけではない。ただ、己の意にそぐわぬものを排除しようとしただけの事。キングイエローにとって、シュリュは羽虫にすら劣る小者だ。
しかし、羽虫以下、いや、羽虫未満だとしても、それは恐るべき竜の庇護を受ける羽虫なのだと、キングイエローは知らない。
キングイエローがシュリュの意識を磨り潰し、狂気の奥底まで突き落とすのは一瞬で十分だったが、同時に竜の庇護が届くのにもまた十分であった。
「あっはっはっはっは! そうそう、そうでなくっちゃ! ぼくは割とマイラールみたいに人間が神々から自立するのがいいんじゃない? て考えているから、シュリュの啖呵は気持ちが良いねえ!」
気持ちの良い風が後ろから吹いてきた、とシュリュが気付くと、彼女の意識は現実の世界へと連れ戻されていた。
傍らには変わらずトラブリの姿があり、頭上ではCとH双方の怪物共が殺し合いを続けているし、その死骸が降り注ぐ中でトラブリはこれ以上ないと言う程、にっかりと笑っている。
「シュリュ、この場はぼくが収めて見せるとも。ただま、ちょっと君が帰省するのが難しくなる収め方しかぼくには思いつかないわけなのだけれど、いかが?」
「なんでそんな急にって、ああ、でも貴女ならそれ位の事が出来るのね?」
「まあ、ね」
「そう、友達は何人か居るけれど、両親はもう変わっちゃったし、さっきキングイエローにもどえらい暴言を吐いちゃったし、もうここに居場所はないわ。ていうか、自分で居場所は失くしたんだから、出て行くしかないと思うわ」
はあ、と特大の溜息を零すシュリュに、トラブリはししし、と笑うばかり。今朝までは困難ことになるとは思っていなかっただろうシュリュに、少しくらいは責任を感じているだろうが、この笑みを見ているとどうにも怪しい。
「そう、それは良かった。とりあえず君が好きに飛べそうな場所まで連れて行こうとは思っていたんだけれど、少しは君に恨み節をぶつけられても仕方ないとビビってたからね」
「これまで散々振り回しておいて今更じゃない? もちろん、それ以上に貴女にたくさん助けられて、たくさん感謝しているのも本当だけれど」
「いやはや、好きな相手には嫌われたくないと怖がるのはぼくだって君らと変わらないさ。さあ、それじゃあ、シュリュ、一時のお別れだ。このままただまっすぐフライパーを飛ばすんだ。そうすれば君はもう何も縛るもののない空に辿りつける」
「説明が全然足りていないと思うわ。それで、シュリュは大丈夫なの? 危ない事はしない?」
「物騒な事はするけれど、ぼくが危ないって事はないよ。まったくね。一時の別れなんて言い方をしたけれど、またすぐに会えるよ。拍子抜けする位呆気なくね」
「そう、貴女は隠し事をするけれど嘘は吐いて来なかった……筈だと思うから、信じるわ」
「うん、よしよし。それじゃ、全速力でかっ飛ばすんだ。ピカって光ったら、それが移動の合図だからね」
「本当に大雑把な説明ね。信じるからね?」
「だいじょーぶ。ぼくは約束を破らないよ」
そう言って相変わらず下手くそなウィンクをするトラブリに毒気を抜かれ、シュリュは一度だけ深呼吸をして覚悟を固める。さあ、これで生まれ育ったこの世界とはおさらばらしい。
「いざ、自由なる世界へってね!」
少しだけ震えた声音でシュリュはフライパーの操縦かんを握り直し、エンジンへの負荷に目を瞑って、トラブリの言う通り全速力を出させる。
ぐんぐんとシュリュの姿が遠ざかり、彼女がある程度離れたところでトラブリはふうっと息を吐いた。
たんぽぽの綿位しか吹けないような吐息だが、それはシュリュの頭上に降り注いでいた死骸と大図書館の破片を全て吹き飛ばし、彼女の進路上にある障害物の全てを薙ぎ払う。
そしてシュリュを邪魔するものが消え去った直後、トラブリが言ったようにシュリュがフライパーごと光に包まれると、彼女の姿はもうこの世界には存在していなかった。
「ふふん、これでシュリュの安全は確保できたから、そろそろ拳骨を上げに行きますか」
トラブリはふわりと自分のフライパーから飛び降りると、フライパーと旅荷物をどこかへと仕舞いこみ、細めた瞳を頭上の二柱へと向ける。
大図書館内部の大気はキングイエローの支配下とダグォンの影響下にあるが、トラブリにとってはここが誰の支配下であろうが影響下であろうが、意味のない事であった。
そう、トラブリ――始原の七竜の一柱、ヴリトラにとっては!
人間の少女の姿から十二枚の翼と八本の尾を持つ、始祖竜の翼より生まれし最高位の竜たる超越者の姿へと戻った『ヴリトラ』は、竜らしき咆哮を上げる事はせず、ただ一陣の風となってキングイエローとダグォンの間に割って入る。
それまで大図書館に満ちていた大気とはまるで異なる、清涼にして膨大な力の宿る風が大図書館内部を見たし、二柱の神の瘴気は微塵も残らない。
ヴリトラの姿を認めた瞬間のキングイエローとダグォンひいてはその眷属達の反応は、『無』であった。
彼らは認めたくなかったのだ。始原の七竜の一柱が、彼らの領域に居る事を。そしてヴリトラが戦うつもりでこの場に姿を見せた事を。そして何より自分達が始原の七竜と遭遇してしまったと言う、何よりも認めがたき事実を!
ここで反応を見せてしまっては、ヴリトラがここに居る事を認めてしまうではないか。
「うーん、さて、拳骨一発とは考えたものの、本来ぼくは外様も外様、他所者もいいところだ。ここで君らを叩きのめし過ぎのも過剰な干渉というもの。ちょいと粋じゃないやね。なので、これで済ますよ」
キングイエロー達の巨躯に勝るとも劣らぬ大きさで顕現したヴリトラが言うや否や、彼女の姿は消えて、最初はキングイエローの前に、続いてダグォンの前に。そしてヴリトラの右手が伸びるや、二柱のデコをピン! と弾いた。
直後、二柱の巨体はこの世界の果ての果てへと吹き飛び、同時に発生した余波がまだ生き残っていたフォルマウスやウェディゴ達を巻き込んで、素粒子すら残さぬ程に破壊し尽くした。
「滅ぼさない位に手加減したし、これから何億年か気絶するか。キングイエロー経由でフスタールにも一発叩き込んでおいたし。
さてさて、その間に残った人間君達が信仰を捨てるか、それとも信仰を維持するか、あるいは気絶したキングイエローを起こすかは知ったこっちゃないけれど、ほったらかしなのも無責任すぎるかあ。
う~ん、いずれここの人間達が次元の壁を越える技術を獲得した時の事を考えると、内側から外へ出る分には自由、フスタールの火事場泥棒を狙う連中が干渉出来ないように外からは入ってこられないように結界でも貼っとくかあ」
ヴリトラは、めんどくさ、ぼく向きじゃない、バハムートかドラゴンの得意分野だよ、とブツブツ呟きながら、自分の手で神を排除したばかりの世界のアフターケアに勤しむ。
不向きとはいえ古神竜たるヴリトラの構築した結界は、神々の基準からしても極めて堅牢なものとなり、何よりもこの結界に不用意に干渉すれば竜界に警報が届くぞ、と分かりやすく警告してある事が最大の目玉だった。
フスタールが気絶している隙を狙ってこの領域に手を出せば、それはヴリトラへの敵対宣言とみなされるのだ。誰が好きこのんで古神竜と敵対すると言うのか。
「さて、シュリュは、うん、無事に竜界に辿りついているね。技術水準が同じ位の避難してきた子達の星に送り届けたし、ぼくの仲介があれば生活していけると思うけど、頑張ろうっと!」
既に用はないとばかりにHの領域には興味を失ったヴリトラは、シュリュが思った通りの場所に到着している事を視認し、ほっと安堵の息。
まったくもって理不尽、まったくもって不条理、まったくもって無責任。まさに他と隔絶した力を持つ超越者だからこそ可能な、出鱈目な振る舞いそのものだった。
フスタールが昏倒したとはいえ、ヴリトラの結界のあるHの領域は他の邪神からの侵略の魔の手は及ばぬだろうが、そうではないCの領域は主たる神の昏倒を良い事に、膨大な数の侵略を受ける事になるだろう。
誰かがその事をヴリトラに追求したとして、彼女はあっけらかんとこういうだろう。
「風は勝手気ままに吹くもんさ。彼らのところには良い風が吹かなかったんだね」
ただ、それだけの事だと。
<終>
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