さようなら竜生 外伝

永島ひろあき

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セリナの系譜

第一話 解放軍と帝国軍

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 あらゆる世界で神からの声が途絶えて世界中を震撼させる事件が発生し、黒幕であった終焉を齎さんとした竜が始祖を超えた新しき竜の勝利によって滅ぼされてから数年後のこと。
 峻険なモレス山脈に長い年月をかけて作られた隠れ里がある。主な住人は、見目麗しい女性の上半身と大蛇の下半身を持つ半人半蛇のラミア、そして女性しか産まれないラミアの伴侶である異種族の男性達だ。

 ラミアは他者から精気を吸収して自らに糧とすること、そして繁殖に異種族の男性を必要とする生態から、一般的に危険な種族として認識されて忌避されている。
 どこのラミアの里も異種族の眼から隠れるようにして存在しているが、このジャルラの里だけは近年になって大きく事情が変わっている。

 近隣に存在するアークレスト王国ベルン男爵領と正式に交流を持ち、両者が活発に人員のやり取りを行っているからだ。
 これまで人の目を隠れて行われていた伴侶探しを堂々と行えるようになり、これまでとは比較にならない規模で外部との交流が行われ始め、ジャルラは創設期と同じかそれ以上の歓迎すべき変化の時代に突入している。

 この変化の立役者である一人のラミアが、ちょうどいま里帰りの為にジャルラを訪れていた。
 異種を魅了する関係上、必ず美しく生まれてくるラミアの中でもひときわ輝く美貌、深緑色の鱗に包まれた大蛇の下半身は輝かんばかりの精気に満ち満ちて、エメラルドを纏っているかのよう。

 緩やかに波打つ髪は本物の黄金と比べてもなんら遜色のない眩さで、大粒の瞳は空の青と海の青のどちらにも勝るとも劣らぬ透き通った美しさがある。
 レース飾りの着いた白いワンピースとフード付きの青いケープを羽織ったこのラミアこそは、ジャルラの現女王の娘でありベルン男爵領との交流の立役者セリナ本人だ。

 山脈の山肌の地下に建設されたジャルラだが、巧みな造りと魔法によって陽光をふんだんに取り入れており、地下とは思えない明るさに満ちている。
 里の中を行き交う者の中には里で生まれ育ったラミアや異種族の少年の姿もあるが、その中にベルンを通じて訪れた人々の姿もある。

 外部から半隔離されていたこれまでのジャルラでは考えられない光景だ。その様子を傍目に見ながら、セリナは嬉しそうに笑みを浮かべる。
 ああして外から男性が里を訪れて、また里のラミア達が堂々と外に出られるのならば、もうこれ以上、危険な伴侶探しの旅に出る必要がなくなる。旅立つ側も送り出す側も、これからは安心して里の繁栄と伴侶探しに勤しめる。

「本当に、ドランさんに出会えてよかったなぁ」

 セリナの夫であるベルン男爵補佐官のドラン・アルマディア・ベルレストは、現在主君であり妻のクリスティーナと共に、王都へと出向いている。学生時代から懇意のアークレスト王国王太子スペリオンから相談に乗ってほしい事がある、と頼み込まれたからだ。
 先だってこれまでの功績を称えてクリスティーナに辺境伯の位を授ける、という話は聞いていたから、今回はまたそれとは別の案件だろう。

 今回、セリナがジャルラへと出向いているのは公的にはセリナがベルン側のジャルラ担当の窓口であるから、というのと私的な里帰りを兼ねている。
 同じモレス山脈に住まうリザード族やレイクマーメイド、竜種といった知恵持つ種族とは、ベルン繋がりの交流を持つようになっており、今回は里帰りしつつジャルラの視察も兼ねている。

 セリナが十七歳になってジャルラを離れるまでに見てきた光景とは打って変わった現在の光景に、セリナは満足した思いを抱いて女王の館へと這い進む先を変える。
 散歩を終えた後はベルン男爵領の一員としての務めを果たす時間だ。今回、セリナのジャルラ訪問には、特別な目的があった。

 ジャルラを筆頭としたモレス山脈の諸種族とベルン合同で、モレス山脈の北側の調査を行う計画が立ち上がっている。
 ベルンをはじめアークレスト王国はモレス山脈の南側に広がっており、こちらはほとんど調査する余地がない。それに反してモレス山脈以北は、ほとんど未調査の大地が広がっている。

 今後のベルンやジャルラなどの関係を密にする目的も含めた合同調査が計画されて、今日はその先行調査隊の人員の選定や行動予定、予算編成も含めて意見交換をする予定となっている。
 セリナはジャルラ出身者であることに加えてベルンの重要人物でもある為、今回の会合には適任の人物である。
 セリナにしても離れて暮らす父母や幼馴染達と再会でき、更にはベルンでの仕事もこなせてそれが故郷の為にもなるとあって、実に意欲を駆り立てられる一大事業だ。

 モレス山脈の北側の調査についてはセリナの父親も重要な情報源として、活躍している。
 もともとセリナの父親であるジークベルトは、臣下らしき者達を連れてモレス山脈の北側から南下し、山脈に辿り着いたところを、若きセリナの母セリベア達ラミアに救助されて、そのままジャルラに居ついた経歴の持ち主だ。
 ジークベルトからモレス山脈の北側にどんな国が広がっているのか、風習があるのか、地理や経済、情勢について二十年近く前の情報ではあるが、提供されて北部調査計画の重要な資料となっている。
 ベルン男爵領で建造の終わった改造飛行船やモレス山脈の竜種達の力を借りて、空から調査を行う案もあるが、国交締結前に大規模な港湾施設を必要とする飛行船を用いる危険性を考えて、当面は陸路主体で調査を行う予定となっている。

「そろそろ出発の時期を決めないとなあ。あ、殿下のお話ってこの調査のことなのかな?」

 一人合点がいって、ぽむち、と手を合わせるセリナだったが、すぐにその考えを脳内の遥か彼方へ吹き飛ばす声がセリナの鼓膜を揺るがした。

「セリナさん、大変だ!」

 セリナの向かう先、つまりは女王の館から息せき切らして走ってきたのは、かつてジークベルトと共にジャルラに居ついたアダインという中年の男性だ。骨から太く、鍛えた筋肉はいくつもの瘤を作り上げており、年齢による衰えを感じさせない逞しさだ。
 刈上げた青髪の下の緑色の瞳は、声と同じく慌てた光に揺れている。セリナは、生まれた頃から随分と可愛がってくれた顔見知りの慌てた様子に、これはただ事ではないとすぐに察する。
 生来、おっとり・のんびりという気質のセリナだが、ドランと出会ってからの人智を超越した数々の敵との戦いを経験した今となっては、すっかり度胸がついている。

「アダインさん、状況は?」

 どうした、と問うのではなくより具体的な答えを求めるあたりに、これまでの経験による成長の片鱗が伺える――とまでいっては、セリナに対して評価が甘すぎるかもしれない。
 アダインはセリナの傍にまで寄ってから、声を潜めてそっと耳打ちをした。少ないが周囲には人目もある。まだ里中に知れ渡るには早い情報だ。

「ルダンの森に建設した拠点の近くで、戦闘が起きている。片方は百名ほどの集団で、それを千以上の騎兵を中心とした集団が追いかけている様子だ。最悪、こちらが戦闘に巻き込まれる可能性が高い」

「拠点に人は?」

「管理と維持の為に二十人ほど詰めている。ほとんど非戦闘員だが、護衛のゴーレムが百体はいる筈だ。籠城すれば十分持ちこたえられる戦力ではある」

 二人は話しながら女王の館へと向かっている。ジャルラで内密の話をするならあそこが最適だし、今後の方針を考えるのに必要な重要人物達が揃っている。

「敵対している二つの勢力との予定外の接触ですか。いきなり雲行きが怪しくなってきましたね。大陸の北部があちこちで戦乱に見舞われているのは分かっていましたけれど、いざ自分達にも降りかかってくるとなると堪えるものがあります」

「ベルンは前の戦争の消耗から立ち直っているのでしたね?」

「余裕です。でもわざわざ山脈を越えてまで戦争なんてしていられませんよ。よっぽどの事情がなければ北の調査は取りやめになるかもしれません」

 セリナは、いざ戦争となればどこを相手にしてもベルンが勝利すると確信しているが、勝てるからといって戦争を行う気分にはなれない。戦争による出費、経済へ齎される悪影響、失われるかもしれない生命……戦争行為はあまりに不経済で心情的にも歓迎せざるものだ。
 ここでセリナは、確かに緊急事態ではあるがアダインの取り見出しようが大げさに過ぎるのではないか、と思い至る。普段ならもっと岩山のように泰然と構えている相手なのだ。

「アダインさん、他になにかあるのではないですか? ひょっとしてアダインさんとパパ達と関係のある方達では?」

「外に出られてから本当に勘が鋭くなられましたね。……追われている集団ですが、私や御父上の故国リーヴァ公国の紋章を掲げていました。どうしてそのようなことになっているのかは分かりませんが、ひょっとしたら私達の知り合いもその中にいるかもしれません」

 血を吐くようなアダインの告白に、セリナは口をきつく閉ざして眦を険しく変えた。



 モレス山脈の北側の麓に広がる深い森の中を、セリナが報告を受けた百名ほどの一団が逃げ回っていた。追跡者達は歩兵を伴う騎兵集団だが、逃亡者達の多くは徒歩が占めている。
 その中でも主要な人物達の集まっている一団があった。鎧兜を着こんだ騎士達を中心に、魔法使いや神官らしきものも混じっている。傍目から見れば敗走中の騎士団といったところか。

 その中でも、古強者然とした雰囲気の騎士に守られている少年が、この集団の『核』だった。十六、七の金色の髪と紫の瞳、少女と見紛う繊細な顔立ちの少年だ。周囲の騎士達同様に鎧を纏い、腰には華美な装飾の施された長剣を佩いている。
 顔立ちだけを見れば戦場には似つかわしくない、可憐とさえいえるものだが、着こんでいる鎧はもちろん、体のあちらこちらに着いた汚れや小さな傷、そして目に宿る光の強さが、この少年が命のやり取りを何度も潜り抜けてきた猛者だと証明している。
 少年の名はゼリス。セリナの父ジークベルトと故郷を同じくし、若くしてこの一団を率いる旗頭となった少年だ。

「ゼリス様、ここで一旦、休憩といたしましょう。ここまでの強行軍で、皆、疲労が溜まっております。そろそろ疲労を無視できる限界です」

 険しい顔で周囲の木々を見回すゼリスに助言したのは、下馬して傍らについている老騎士のバルザー。ゼリスの守り役であり、彼の師であり、もっとも信頼する家臣だ。白髪の下の灰色の瞳は、皺を刻んだ顔立ちと相まって老練の強者然とした雰囲気を醸し出している。

「そうだね。これ以上、無理に動いてはそれこそ本当に森の中で迷ってしまいそうだ」

「ええ。この森は人の手の入らぬ深い森です。連中を今しばらくは撒けるでしょう。簡単にですが食事と交代で睡眠を取らせます。ゼリス様もどうかお休みください」

「目が冴えて眠れそうにないね。第一、まだ昼間だよ?」

「目を瞑って横になるだけでも違うものです」

「ああ、バルザーの言う通りにするよ。バルザーの言う事はいつだって正しいから」

「間違っていないときにだけ口にしているだけの話でございます」

 ゼリスが疲れの滲む顔に無理に浮かべた笑顔を見てから、バルザーはきびきびとした動作で歩き去り、周囲の味方へ手早く指示を出してゆく。
 ゼリスを盟主とする“解放軍”が今日まで生き延びて来られたのは、この場にはいない軍師とバルザーの采配に依る所が大きい。

「ふう、彼らが無事に逃げられたと良いのだけれど」

 ゼリス達がこの森に逃げ込んだのは、敵に包囲され窮地に陥った味方を逃がす為、囮となったのが理由だ。この森で追手を撹乱してから脱出し、分かれた味方と合流する予定を立てている。
 この森は“人食いの大蛇”が出ると古くからの言い伝えがあり、地元の人間が滅多に足を踏み入れない為、ほとんど手つかずの状態となっている。騎兵がその威力を発揮するには不向きな場所だから、歩兵を中心とするゼリス達が脱出できる可能性はそれなりにある。

「うっ、これは、バルザーが言うわけだ。思った以上に疲れていたらしい……」

 不意に襲ってきた眩暈に、ゼリスは不眠不休の強行軍による疲労の大きさを思い知らされ、忠臣の助言をすぐさま実行する。手頃な木の根元に腰を下ろし、普段つけている赤いマントを外して包まる。
 いつ襲撃があってもすぐに対応できるように、腰のベルトから鞘ごと長剣を外し、鞘を左手で持ち、右手は柄を握る。また右足だけを伸ばして、いざという時には足を盾に出来るように姿勢を整える。
 旗頭あるいは神輿として担がれるだけならば、命さえあれば役割を果たせる。たとえ両手足がなくとも、十分なのだとこの少年は理解し、覚悟していた。
 目を閉じると、太陽がまだ頭上に輝いているというのに睡魔はあっという間にやってきた。

「敵襲ぅうー!!」

 この声にゼリスはすぐさま飛び起きた。起きるのと同時に周囲を見回し、傍に敵がいないのを確認し、跳ね起きながら左手の鞘から長剣を抜く。陽の傾き具合からして、睡眠時間は一時間ほどか。
 幾分か頭が冴えている。鉛のように蓄積された疲労は、少しはマシになったと思うことにした。敵襲の声を上げたのはやはり長い付き合いの騎士があげたものだ。

 どうやら北の方角からやってきた追手達と味方が斬り結び始めたばかりのようだ。お互いの弓兵の放つ矢が風を切る音が、まばらにゼリスの耳に届く。
 正面に味方の大盾と大槍で武装した重騎士と戦う敵兵士の姿が見える。ゼリスは味方の重騎士の影に隠れるように走り出し、ぐるりと敵の背に回り込んでその背中に斬りつけた。
 鋼鉄の槍を構えていた敵の兵士はゼリスの速度に対応できず、鉄の鎧で守られた背中をバッサリと斬られて、その場で崩れ落ちる。

「ありがとうございます、ゼリス様!」

 重騎士は赤髪の女性騎士フィアモ。大の男顔負けの筋力を誇り、分厚い全身甲冑を着こんで大盾と大槍を構えても、平気な顔で走り回る傑物だ。

「いや、フィアモが上手く敵を引き付けていたからだよ。重騎士隊は壁を作れ。弓兵は歩兵と組んで散開、敵騎兵を狙え。敵の数は多くともこの森の中では、数の利を活かせはしない!」

 多少のハッタリ混じりでも指揮官が声を張り上げて指示を出せば、味方は動き出す。もともと圧倒的不利な状況で挙兵したのが、ゼリス達解放軍だ。不利なのが当たり前なのだ。
 ゼリスは素早く視線を巡らせて、馬に乗ったバルザーを見つける。バルザーもまたゼリスを探しており、すぐにゼリスの下へ馬を進ませてくる。

「ゼリス様、ご無事ですか!?」

「ああ。フィアモが居てくれたからね。傷一つないよ。バルザー、敵の規模と位置は?」

「歩兵は全て、騎兵は半分を森に進ませたようですな。我々を森の外へと追いやり、そこへ外で待機している騎兵をけしかけるつもりなのでしょう。いかがなされますか?」

「ならば彼らの裏を掻こう。このまま森の奥を目指す」

「ふむ、負担は小さくありませんぞ。人食い大蛇の言い伝えも、あながち馬鹿にしたものでもありません」

「叔父上もこの森の大蛇に食べられたという話だったね」

「それは質の悪い噂というものです。しかし森の奥に行くとなるとモレス山脈が随分と近くなりますな。あの山脈にはかなりの数の竜種が住んでいます。
 彼らにとっては、人間達の争いなど取るに足らんでしょうが、縄張りを騒がせたと怒りを買わないことを祈りましょう」

「竜種か。敵にしたくないものの筆頭だね」

 ゼリスは心からそれだけを口にして、すぐさまモレス山脈を目指して撤退するよう新たな指示を伝達させた。モレス山脈の竜種達は空を飛ぶ姿を遠方から目撃した話は多いが、実際に相対して言葉を交わす、あるいは戦闘に陥ったという話はゼリスの知る限りではない。
 麓での争いが彼らの逆鱗に触れないことを、ゼリスは心の底から願った。
 人の手の入っていない森の中を進むのは、鎧兜の重量もあって大きな負担となってゼリス達に伸し掛かる。また追われる立場は精神的な疲労も大きく、解放軍の面々を焦燥へと駆り立てる。

「ゼリス王子、覚悟!」

 盛り上がった地面やうねうねと伸びる木々の根を避けて走るゼリスに、右前方の茂みから長剣を振り上げた兵士の一群れが斬りかかる。すぐさまゼリスの傍に控えていた弓兵が一人を射殺し、フィアモ他重騎士が壁となって残る兵士達を阻んだ。

「ゼリス様、どうぞ!」

「肩を借りるぞ、フィアモ」

 ゼリスは目の前のフィアモの背中と肩を蹴って敵兵の頭上へと飛び上がり、空中で身をひねりながら長剣を立て続けに四度振るう。
 観賞用の宝剣を思わせる華美な装飾を施された長剣は、しかして鋼鉄の鎧兜を水のようにあっさりと斬り裂き、襲い掛かってきた敵兵に苦痛のない死を与えた。
 瞬き一つの間に四人の生命を奪う離れ業を実行してのけたゼリスは、綺麗に着地を決めて一族伝来の長剣の刃を確かめる。鋼鉄の鎧兜、人間の肉と骨をまとめて断っても刃毀れ一つない。

「聖剣ゼルフィング。相変わらず恐ろしい程の切れ味ですね」

 解放軍の象徴ともなっている聖剣の切れ味に、フィアモをはじめとした解放軍の兵士達は感嘆の色を露にしている。

「ありがとう。この剣のお陰だよ。さあ、足を止めずに行こう。森の奥へ行けばそれだけぼく達に有利だ」

 それからどれだけ森の中を走ったのか。徐々にゼリスらを追う敵兵の数は増えて、森の外へ追いやろうと進路を誘導してくるが、ゼリスらはそれを力づくで突破し、南を目指してひたすらに進む。
 森を抜けて山脈に辿り着いたら、麓に沿って合流地点のある北西部へと進路を転ずる予定だ。
 そうして先の見えない不安定な逃避行を続ける中で、森の雰囲気が変わったのは先頭を駆けるゼリスやフィアモらが不自然に開けた一角に辿り着いた時だった。まるでこれから道を拓こうとしているかのように、地面が均されている。

「ここは……まさか、誰かがいるのか?」

 予想しなかった光景が目の前に広がるのに、思わずゼリス達が足を止めたのも無理はなかった。誰の手も入らず、誰の足も踏み入っていない筈の場所に、こんなものがあるとは。
 しかし驚いたのは仕方ないとしても、足を止めたのは間違いだった。彼らを追っていた敵兵達が次々と姿を見せて、ゼリスらを包囲していた。

「逆賊ゼリス、追い詰めたぞ。解放軍を名乗る逆賊共、ここで我らの刃の露と散れ!」

 追手の指揮官らしきひと際重厚な赤い全身鎧を纏い、冗談のように大きな長柄斧を手にした年かさの男が堂々と言い放つ。ゼリスを追って森に侵入した追跡部隊の指揮官バルバロンという。
 周囲には大弓を構える弓兵と杖や魔本を手にした魔法使い達がずらりと列を成して並ぶ。
 さらにはわらわらと湧くようにして姿を見せた歩兵や騎兵達が壁となって、頑としてゼリス達を突破させない陣形を整える。なまじ開けた場所に出たのが仇となった。
 追手側との射線軸に遮蔽物はなく、ほとんど一方的に撃たれる状況になってしまっている。ゼルフィングの加護を受けるゼリスだけなら、それでも助かるかもしれないが……

「たとえ私達をここで討ったとしても、必ず次に立ち上がる者達が現れる。貴君らこそ聖法王国の支配から解放されたというのに、なぜ新たな支配者になろうとする。
 それも万民に幸福を齎す王としての責務に基づく支配ではない。弱者を搾取して強者のみが富める暴君としての支配だ。現在に苦しみを、後世には汚名を刻むだけの愚かな行い だ!」

「窮地で何を言おうと負け犬の遠吠えにしかならん。捕縛の必要はない! 一人残らず殺せ!」

 バルバロンが右手の長柄斧を高く掲げ、それに合わせて弓兵や魔法使い達が一斉に攻撃の用意を整える。一拍の間を置いて長柄斧が振り下ろされれば、ゼリスらに無数の矢と魔法が襲い掛かるだろう。
 リーヴァ公国の遺児ゼリスと解放軍の命運がここに断たれるかという瞬間、周囲の木々から唐突に巨大な影が浮かび上がり、解放軍も負ってもまとめて囲い、運命は異なる分岐を選んだ。

「これはなんと大きな蛇だ。まさかこれが人食いの大蛇か!?」

 ゼリスが見上げる先には森林に溶け込む深緑色の鱗に包まれた大蛇が七頭、木々よりもはるかに高い位置で鎌首をもたげて、彼らを見下ろしている。一匹あたりが恐ろしく巨大で、顎を開けば牛馬を四、五頭まとめて一飲みにしてしまうだろう。人間など言うまでもない。
 驚きと恐怖に包まれているのはゼリス達解放軍ばかりではなく、バルバロンに率いられた追手達も同じだ。竜種やヒドラもかくやという巨大な化け物蛇の威圧感にすっかり呑まれて、指先一つ動かせない。
 思わぬ大蛇の登場に硬直する彼らの耳朶を、大蛇のシュウという息を吐く共に聞こえてきた若い女の声が震わせる。

『先程から森を騒がせていたのはお前達か?』

「これは、貴女の声か、蛇よ!」

 声を張り上げるゼリスを、いつのまにか正面に出現していた大蛇の一匹が視線を降ろして見つめ、視線を交錯させる。

『そうだ。人間達よ、みだりにこの森に足を踏み入れるとは、いかなる了見か。返答次第によっては、こちらにも考えがある』

 ざわざわと森の木々がはためき、風が途端に冷たいものへと変わる。七匹の大蛇達の眼が青く輝くと、この場に居た全員の体を金縛りが襲い、呼吸と瞬き、そして口以外には何も動かない状態に陥る。
 大蛇の眼が持つ麻痺の魔力は、ゼルフィングの加護を持つゼリスすらも拘束し、全員の命運が大蛇の意思次第となった瞬間であった。
 人食い大蛇の言い伝えはゼリスだけでなくバルバロンら追手側にも古くから伝わっており、目の前に現れた伝説の怪物の姿に誰もが心底から恐怖し、戦慄している。

「だ、大蛇よ! 私はドルフト帝国の騎士、バルバロン! 断りなく貴殿らの縄張りに足を踏み入れた非礼は心より詫びる!」

『……ふむ?』

「詫びの証拠としてこのゼリスという者達を、貴殿らに捧げる! 引き換えに、どうか、我ら帝国軍は見逃してもらいたい!」

 無茶苦茶だ、とゼリスばかりでなく解放軍の誰もが口にしようとしたが、それよりも先に大蛇が意志を伝える方が速かった。

『……ええ? ……お、おっほん! ふ、フハハハハハ! 小賢しい、小賢しいなあ、バルバロン。お前達とその者達が争っていたのを我らが知らぬと思っての言葉か? この者達の始末を我らに委ねながら、自分達は助かろうと?』

「ぐぅうっ」

『だが、まあよい。その狡賢さは人間らしいものだ。貴様のその機転と生き汚さに免じて、この場一度限りにおいて貴様らを見逃してやろう。もしまた同じことを繰り返したならば、我ら総勢をもって一人残らず平らげてやろうぞ』

 大蛇がたっぷりと脅しを込めて告げるや、周囲の木々から次々と新たな大蛇達が姿を見せる。十、二十、三十……ついには百を超えようとかという大蛇の群れに、バルバロンの顔色はもはや死人のソレだ。

「わわわ、分かった。も、もう、二度と勝手に足を踏み入れたりはしない! 必ずだ、約束する!!」

『貴様だけでなく貴様の国の者共にも伝えるがいい。では行け。一刻一秒も早く我らの視界から消えるがいい。いつ我らが気を変えるか分からんぞ?』

「ひいいい、そ、総員撤退! 森から出るぞおおおお!!!」

 大蛇の眼による麻痺が解除された途端、バルバロンは喉から血を吐くような大絶叫をして、率いてきた全ての兵士達に命令を出し、誰よりも真っ先に大蛇から背を向けて駆け出す。せめて長柄斧を捨てていかなかったのは、彼に残された騎士の矜持の一欠けらか。
 ドルフト帝国の追手達が瞬く間に姿を消し、森の中を逃げ回る音も絶えた頃になっても、ゼリス達はいまも大蛇達の包囲網に囲まれたままだった。

 解放軍にとってなにより重要なのは、ゼリスという旗頭だ。リーヴァ公国の正統なる後継者であり、解放軍を立ち上げてからいくつもの絶望的な戦いに勝利してきた実績がある。彼と同じ価値のある旗頭は他に存在しない。
 彼以外の全員が死亡するとしてもゼリスだけはなんとしても生き延びさせなければならない。バルザーやフィアモだけでなく、紆余曲折を経て解放軍に参加したコソ泥や傭兵達さえ、そう考えていた。
 しかし大蛇の魔眼から逃れるどころか、わずかに抵抗できている者さえいないこの状況では……

『もう大丈夫ですか? はい、じゃあ、魔眼を解除しますね』

 ゼリス達が緊張と絶望に身を浸していると、不意に大蛇が誰かと気の抜けるやり取りをし、直後にゼリス達の金縛りが解除される。
 そればかりか無数の大蛇達が木々の中に巨体を沈め始めたかと思うと、目の前に出現していた大蛇も身を低くした途端にその体が透けていって、そこには一人のラミアとその左右に立つ武装した四十歳前後の男性達の姿だけが残る。

 つい先程まで特大のジャラームを発動し、森に生息する人食い大蛇のふりをしていたセリナと、実父ジークベルト、それに襲撃の知らせを伝えたアダインである。
 ゼリス達にとってラミアは人に害を成す恐ろしい魔物だが、先程の大蛇と比べれば脅威度はぐんと下がる。そのラミアが人間を連れて姿を現しているのと、大蛇達が突然消えた事態に、ゼリス達はしばし思考が止まってしまった。

「もしやバルザーか? お互い年をとったな」

 懐かしい旧友にあった口ぶりでそう口にしたのは、ジークベルトだった。彼の視線はまずバルザーへと向けられ、それからゼルフィングを油断なく構えているゼリスへと向けられる。

「ゼルフィングに認められているという事は、今はそちらの少年がリーヴァの当主なのだな。ジークレオン兄上とメラナ殿の御子か?」

「まさか、まさか貴方様は……」

 まるで幽霊を見たように戦慄くバルザーを、ゼリスは初めて目にした。

「バルザー?」

「貴方様はジークベルト殿下なのですか!?」

 アダインの様子から父親の関係者かもしれない、とセリナは予想していたがどうやら本当にそうだったらしいと理解し、おずおずと父に問いかけた。

「パパ、お知り合いの方?」

「ああ。君のお母さん、セリベアと出会う前の古い知り合いだよ」

「……パパ、ジークベルト殿下をパパと!?」

 セリナがつい普段の呼び方をするのを耳にして、バルザーは信じられないとばかりに目を見開いて二人の顔を見比べる。そんなバルザーの百面相を見て、ジークベルトはそうだろうなと微笑し、アダインは心から同情する顔になる。

「事情を知らなきゃそういう反応になるよな」

 セリナは父とバルザーの顔をしばし見交わしてから、こちらを困惑した顔でじっと見ているゼリスに気付き、とりあえず会釈しておいた。
 この時、セリナはまだこの少年が自分の父方の従兄弟かもしれない可能性に思い当たってはいなかった。
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