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冥界の剣
第二話 白い女
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楽都はその日も多くの人で賑わっていた。国の主要な街道の交錯するこの街は、一日と欠かさず数えきれない人間が訪れ、滞在し、去る事を繰り返してきた。
四方の地から運ばれてきた絹織物、硝子を用いた様々な形の細工物、金銀に宝石を惜しげもなく使った宝飾品、芳しい香りを放つ茶葉や珈琲、希少な乳香や香木、地元以外では滅多にお目に掛かれない各地の食材……
例を上げればきりがない程の品物と人間がこの街に流入し、それが富を生み、新たな人を呼び、喧噪を作り出して、溢れんばかりの熱と活力と欲望を生み出している。
街に生活の基盤を持つ職人や商人に治安を預かる兵士達、他所から流れてきた思い思いの服装の商人達、少なければ一人、多ければ数十人にもなる大道芸人の集団の姿もある。
そんなある日の楽都では、分厚い灰色の雲が頭上を覆う曇天の下、主要な通りから外れた裏路地をひた走る少女の姿があった。
お世辞にも治安がいいとは言えない場所で、狭い路地に力なく腰を下ろして焦点のあっていない男女がちらほらと見受けられる。顔面を蠅や蟲が這いずり回っても気にも留めない。
曇天のせいもあるがそれ以上に陰鬱な空気に満ちた路地を、年季の入った麻のシャツにズボン、その上から使い古した灰色の外套を着た少女は首に掛かる長さの青い髪を振り乱し、時折背後を振り返りながら走り続ける。
なにか良からぬ者達に追いかけられている、と想像を働かせるのは実に簡単だ。だが、時折すれ違う誰もが彼女を助けようとはしない。
金の臭いがするか、それとも腹の足しになるかと値踏みする視線を向けて、すぐに興味を失って外す者ばかり。
今にも倒壊しそうな木造家屋や積まれた木箱、異臭を発しているごみ箱の隙間を走り抜けて、少女は開けた一角へとたどり着く。
そこはすっかり荒れ果てたお堂だった。瓦は割れ、戸が片方外れていて、心なしかお堂自体が傾いている。境内の石畳はそこかしこでひび割れて、無数の草花が思い思いに生い茂っていた。
夜にでもなれば幽霊の集会所として最適な雰囲気の場所だろう。
「あ、行き止まり……」
境内へは少、女が入ってきた道のみで出入りする構造となっていた。慌ててきた道を戻ろうと振り返った少女の黒い瞳に、道を塞ぐ三つの人影が映った。
三人組の真ん中に立っている男が口を開く。丁寧に手入れをされた黒髪を総髪にした二十代後半から三十歳になるかどうかの青年だ。
最高級の絹の輝きを放つ黒い道着を、一部の隙もなく鍛え抜いた肉体が押し上げている。
鋭い眼差しは猛禽類を思わせ、冷たい刃を思わせる雰囲気を纏っていた。他の二人とは佇まいからして違う。
「クムさん、もう追いかけっこはおしまいです」
少女――クムに男は思いのほか優しい声で話しかけた。これで微笑みを浮かべれば男女を問わず魅了するだろう。クムの答えは簡潔にして明瞭だった。
腰の帯に挟んでいた樫の木の棒を抜いて両手で構えた。徹底抗戦の意思表示だ。
クムのような少女でも振り回せる長さと太さの棒だが、びっしりと魔除けの呪文が彫り込まれていて、低級の霊なら一撃で退散するし、生身の生物相手でも神経に作用してしばらく麻痺させられる。
霊撃棒と呼ばれる護身用の武器の一種で、この楽都では扱いやすく安価な武器として広く流通している品だ。
「聞き分けの悪いお嬢さんだ。我々はなにも手荒な真似をしようとしているのではありません。ただ、貴女の父君についていろいろと聞きたいだけなのです」
「自分でも説得力がないなって思いませんか? 私みたいな子供を貴方達みたいな一目で普通じゃない人達が追いかけているんですよ! 絶対に普通じゃない目に遭うに決まっています。それに、私は父親の事なんて顔も名前も知らない!」
クムの叫びにも似た反論に、男は困ったように肩をすくめた。
「ごもっとも。私達が手荒な真似をしないと言っても、それは信じられないのが当然です。ただ、貴女が父君の事を何も知らなくても、貴女が彼の娘であるというだけで価値があるのです。貴女にとっては不幸以外の何物でもありませんが」
男の目配せを受けてこれまで沈黙を保っていた二人が動いた。ひょろりと痩せた体躯に髪も眉毛もない男と、背は低いが筋肉のこぶをいくつも固めて作ったような肉体を持ち頭は角刈りにした男だ。
痩せ男は柿色の着物を、筋肉男は藍色の筒袴と緑色の小袖を着ているが、共に武器らしい武器はない。とはいえ少女一人、素手でさらうくらいはわけもない二人に違いない。
「ウロト、ゲンテツ、傷一つ付けるな」
男の命令は鉄であった。痩せ男――ウロトと筋肉男――ゲンテツは不満の一つも浮かべずに頷き、必死に自分を鼓舞して棒を構える少女と距離を詰めてゆく。
果敢に抵抗の意志を示したクムも、迫りくる現実を理解していないわけではない。そこらの酔いどれやゴロツキなら一撃で打ちのめせる可能性はあるが、この三人は駄目だ。荒事に縁のないクムでもそうと分かるくらい、雰囲気が違い過ぎる。
「お嬢ちゃん、諦めな。クゼさんの言う通り、俺らも手荒な真似をしたいわけじゃないんだ」
しゅう、と空気の抜ける音みたいにウロトが言った。男――クゼの命令もあるだろうが、ウロト自身もクムを相手に暴力を振るうのは乗り気ではないらしい。必要とあればためらわらないとしても、だ。
「どうしよう、お母さん……」
流石にこれはどうしようもない、とクムはじりじりと後退り、少しでも目の前の男達から距離を取ろうとするが、唯一の出入り口は男達に塞がれて、この一角を囲い込む木塀を乗り越えるのは難しそうだ。第一、男達が見逃しはすまい。
じゃり、とクムの靴が小石を踏む音を鳴らした時、背後のお堂から新たな男の声が聞こえた。
「女の子一人を相手に大の男が三人がかり。こいつはちと見過ごせん」
クムだけでなくこの場に居た全員が開かれたお堂の扉の向こうへと視線を向けた。曇天とはいえ昼の時刻なのに、闇ばかりが詰まったお堂の中から悠然とした歩みで一人の男が姿を見せる。
陽に焼けた肌と服越しにも分かる屈強な肉体の持ち主で、クムが思い切り腹を殴りつけても逆に拳の骨が折れてしまいそうだ。
年のころは二十代前半だろうか。黒髪の下から覗く黒い瞳には、人懐っこく生き生きとした光が宿っていて、どこか子供のような無邪気さがある。悪い人間ではないと、どんなに偏屈な人間でも認める雰囲気の主だ。
身に着けているのは。草臥れた黒い前合わせと色あせた藍色の筒袴、ほつれがちらほらと目立つ赤い羽織、足回りは脚絆と使い込んだ茶色い革靴。
取り立てて奇抜というわけでもないが、目を引くものと言えば腰の帯に差し込まれた木刀くらいのもの。男の持つ唯一武器らしい武器であった。
新たな男はクムの右隣りまで歩いてくるとそこで足を止めて身を屈めて、クムと視線を交わす。
「いい啖呵だったぜ。勇気のあるお嬢ちゃんだ」
「お嬢ちゃんじゃありません、クムです」
「はは、そいつはすまなかった。俺はクガイだ。根無し草の風来坊と思ってくれ」
「あの、助けてくれるんですか?」
思わず縋りついてしまいそうになるのを堪えて、クムはあくまで確認するに留める。クガイと名乗った男がクゼと同類だった場合には、いつでも手の棒を叩き込めるように注意を払っている。
クガイもそれを分かった上でにっかりと笑い返す。気持ちの良い春の風を思わせる笑みだった。それが、クムの緊張を解かせた。
「見過ごすのを止めた以上、そのつもりだ」
クガイがぐるりと巡らせた視線は、クゼを映した時にピタリと止まる。双方の口元から笑みが消えた。クゼが懐から取り出した袋をクガイの足元に放り投げた。砕けた石畳の上に落ちた袋の口から、黄金の貨幣が零れる。
「根無し草の風来坊がいたずらに手を出せば火傷では済まんぞ。それで美味い酒でも飲んで、今日見たことを忘れろ」
「へ、気前のいいこって」
そう言ってクガイが袋を拾い上げようとするのを見て、クムはひどく裏切られた気持ちになった。助けると口にした矢先の、あまりにも早い身代わりに少女の心が傷つくのは当たり前だろう。
だが、それは早計であった。クガイはふん、と鼻で笑うと腰の木刀を抜くやいなや、袋をウロトとゲンテツへと向けて弾き飛ばした。
空中でばら撒かれる金貨をウロトとゲンテツは避け、石畳に落ちた金貨が耳障りな音を立てる中、クガイが目を細めてクゼを睨む。
「毒を塗った金貨とは、物騒なものを持ち歩いているじゃねえか。思わぬ目撃者や欲に目が眩んだ奴らは、そうして始末してきたのか? 案外、ケチなんだな」
ばら撒かれた金貨には一瞥もくれず、クゼが小さく嘆息する。次に彼の口から出てきた言葉は至って簡潔だった。
「やれ」
応じる声も出さず、ウロトの口が大きく開かれた。そこからびゅっと赤い鞭のような物体が伸びて、クガイの心臓を狙って襲い掛かる。
「舌の鞭か。体を相当弄っていやがるな。クム、下がってな!」
「は、はい!」
クガイの振るった木刀が空中で打ち落としたのは、彼の指摘通りウロトの口から伸びた舌だった。ウロトの舌は鞭の如くしなり、伸び、また同時に鉄も貫く槍となり、また刃となる。
楽都の街で培われた人体改造技術の産物だ。空中で生きた蛇のように自在に動き、前後左右から襲い掛かってくる舌を木刀で打ち払うクガイの技量も並ではない。
「おかしな街だと思っていたが、まともじゃねえ住人が多いぜ、まったく」
肉の塊を叩く音の後、クガイの目線は自分の右側に回り込み、拳を振り上げているゲンテツの姿を捉えていた。
歩く筋肉の鎧と評すべきゲンテツの体は、黒光りする鋼鉄に変わっていた。
筋肉の柔軟性や関節の可動域はそのままに、鋼鉄の硬度をも併せ持った肉体へと変貌している。こちらもウロト同様、人体改造によって得られた特異な肉体の持ち主であった。
「ふん!」
短く吐き出されたゲンテツの吐息と共に、低く腰を落とした彼の左右の腕が鋼鉄の塊となって連打される。腰の回転が活かされた短く素早い連打は、どんな筋肉の鎧を纏っていても人体ならば一撃で骨を砕いて内臓を破裂させる威力がある。
「親から貰った体をそうホイホイといじるもんじゃねえだろう」
クガイは息継ぎを挟まずに連打されるゲンテツの鉄腕を紙一重で避け続け、ひらりと大きく翻した羽織越しにゲンテツの左の首筋を木刀で強かに打った。
羽織を目晦ましにした一撃だが、鋼鉄の塊を木刀で打ったところでどんな効果があるのか。ゲンテツの岩石みたいな顔に亀裂が走ったのは、その直後である。
「ぐうあ!?」
思わずウロトの顔に動揺が広がるほどの苦しみに満ちた声がゲンテツから漏れて、あろう事かその場に蹲ってしまう。かつて敵対組織に捕まり、凄惨な拷問を受けた時にも声一つ零さなかった相棒の思わぬ姿に、ウロトは動揺を抑えきれなかったのだ。
「まずは一人!」
「ちいっ」
びうん、とバネの跳ねるような音に続き、ウロトの舌の鞭が弧を描いてクガイの頭上から襲い掛かる。そのまま行けばクガイを頭上から股間まで串刺しにする必殺の一撃だ。
クガイの頭頂部に触れるまで、あとわずかと迫ったところでクガイの頭上に三日月が描かれた。
目にも止まらぬ速さで振るわれた木刀の一閃は、しかし鉄に勝るウロトの舌をすっぱりと断ち、断たれた舌先が血をまき散らしながら彼方の石畳にボトっと音を立てて落ちる。
「うげぇ」
ウロトはたまらず舌を引き戻し、だらだらと零れる血と痛みに苦悶の表情を浮かべる。流血に劣らぬ勢いで冷や汗が流れ始めていた。こういう事態に備えて、ウロトの細胞には強力な再生機能が備わっているが、それが一向に働こうとしない。
「ぼ、木刀で俺の舌鋼鞭を斬り落とすとは、貴様、何者だ!?」
「言っただろう、根無し草の風来坊だってな。それと今はあのお嬢ちゃん、クムの押し掛け用心棒だ。やめときな、あんたの傷はそう簡単には塞がらん。あっちのも走る程度ならともかく、しばらくは戦えんように打った。
あんた、クゼと言ったか。兄貴分なら子分を抱えて退いたらどうだ。お互い様子見ならここで手を打つのが妥当だと思うぜ」
ふてぶてしいまでの自信と共に提案するクガイを、クゼは凪の海を思わせる表情で見ていた。自然体で垂らされていた彼の両腕にわずかに力が加えられる。
クガイの一撃を受けて苦しんでいたウロトとゲンテツが、そろってクゼへと視線を向けて息を呑む。肉体を蝕む苦痛よりも戦おうとしている兄貴分の方が恐ろしいのだ。
「へえ」
と呑気に聞こえる呟きがクガイの口から零れて、彼とクゼの目線はクゼの背後へと向けられる。そこには、白い装束を纏った女が右手に直剣を持って立っていたのだ。
マントもフードも毛皮で出来ており、この辺りでは見かけないうっすらと青味がかった白い獣毛だ。
フードと白地に赤と青の格子模様の入ったスカーフからわずかに覗く顔は、遠目にも見れば思わず瞳を吸い寄せられる程に整っている。
一面に降り積もった雪のように白くきめ細やかな肌に、人物画の巨匠の一筆のようにすっきりとした鼻筋、氷を透かして見る水の色をした瞳は月光のような冷たい光を宿している。
柔らかそうな毛皮のフードから零れる真っ白い髪の色も相まって、雪か月光の精かと見間違う神秘的な容姿と雰囲気を纏っている。だが、どれだけ神秘的で美しかろうとも、クガイとクゼが意識を向ける程の手練れであるのは間違いなかった。
四方の地から運ばれてきた絹織物、硝子を用いた様々な形の細工物、金銀に宝石を惜しげもなく使った宝飾品、芳しい香りを放つ茶葉や珈琲、希少な乳香や香木、地元以外では滅多にお目に掛かれない各地の食材……
例を上げればきりがない程の品物と人間がこの街に流入し、それが富を生み、新たな人を呼び、喧噪を作り出して、溢れんばかりの熱と活力と欲望を生み出している。
街に生活の基盤を持つ職人や商人に治安を預かる兵士達、他所から流れてきた思い思いの服装の商人達、少なければ一人、多ければ数十人にもなる大道芸人の集団の姿もある。
そんなある日の楽都では、分厚い灰色の雲が頭上を覆う曇天の下、主要な通りから外れた裏路地をひた走る少女の姿があった。
お世辞にも治安がいいとは言えない場所で、狭い路地に力なく腰を下ろして焦点のあっていない男女がちらほらと見受けられる。顔面を蠅や蟲が這いずり回っても気にも留めない。
曇天のせいもあるがそれ以上に陰鬱な空気に満ちた路地を、年季の入った麻のシャツにズボン、その上から使い古した灰色の外套を着た少女は首に掛かる長さの青い髪を振り乱し、時折背後を振り返りながら走り続ける。
なにか良からぬ者達に追いかけられている、と想像を働かせるのは実に簡単だ。だが、時折すれ違う誰もが彼女を助けようとはしない。
金の臭いがするか、それとも腹の足しになるかと値踏みする視線を向けて、すぐに興味を失って外す者ばかり。
今にも倒壊しそうな木造家屋や積まれた木箱、異臭を発しているごみ箱の隙間を走り抜けて、少女は開けた一角へとたどり着く。
そこはすっかり荒れ果てたお堂だった。瓦は割れ、戸が片方外れていて、心なしかお堂自体が傾いている。境内の石畳はそこかしこでひび割れて、無数の草花が思い思いに生い茂っていた。
夜にでもなれば幽霊の集会所として最適な雰囲気の場所だろう。
「あ、行き止まり……」
境内へは少、女が入ってきた道のみで出入りする構造となっていた。慌ててきた道を戻ろうと振り返った少女の黒い瞳に、道を塞ぐ三つの人影が映った。
三人組の真ん中に立っている男が口を開く。丁寧に手入れをされた黒髪を総髪にした二十代後半から三十歳になるかどうかの青年だ。
最高級の絹の輝きを放つ黒い道着を、一部の隙もなく鍛え抜いた肉体が押し上げている。
鋭い眼差しは猛禽類を思わせ、冷たい刃を思わせる雰囲気を纏っていた。他の二人とは佇まいからして違う。
「クムさん、もう追いかけっこはおしまいです」
少女――クムに男は思いのほか優しい声で話しかけた。これで微笑みを浮かべれば男女を問わず魅了するだろう。クムの答えは簡潔にして明瞭だった。
腰の帯に挟んでいた樫の木の棒を抜いて両手で構えた。徹底抗戦の意思表示だ。
クムのような少女でも振り回せる長さと太さの棒だが、びっしりと魔除けの呪文が彫り込まれていて、低級の霊なら一撃で退散するし、生身の生物相手でも神経に作用してしばらく麻痺させられる。
霊撃棒と呼ばれる護身用の武器の一種で、この楽都では扱いやすく安価な武器として広く流通している品だ。
「聞き分けの悪いお嬢さんだ。我々はなにも手荒な真似をしようとしているのではありません。ただ、貴女の父君についていろいろと聞きたいだけなのです」
「自分でも説得力がないなって思いませんか? 私みたいな子供を貴方達みたいな一目で普通じゃない人達が追いかけているんですよ! 絶対に普通じゃない目に遭うに決まっています。それに、私は父親の事なんて顔も名前も知らない!」
クムの叫びにも似た反論に、男は困ったように肩をすくめた。
「ごもっとも。私達が手荒な真似をしないと言っても、それは信じられないのが当然です。ただ、貴女が父君の事を何も知らなくても、貴女が彼の娘であるというだけで価値があるのです。貴女にとっては不幸以外の何物でもありませんが」
男の目配せを受けてこれまで沈黙を保っていた二人が動いた。ひょろりと痩せた体躯に髪も眉毛もない男と、背は低いが筋肉のこぶをいくつも固めて作ったような肉体を持ち頭は角刈りにした男だ。
痩せ男は柿色の着物を、筋肉男は藍色の筒袴と緑色の小袖を着ているが、共に武器らしい武器はない。とはいえ少女一人、素手でさらうくらいはわけもない二人に違いない。
「ウロト、ゲンテツ、傷一つ付けるな」
男の命令は鉄であった。痩せ男――ウロトと筋肉男――ゲンテツは不満の一つも浮かべずに頷き、必死に自分を鼓舞して棒を構える少女と距離を詰めてゆく。
果敢に抵抗の意志を示したクムも、迫りくる現実を理解していないわけではない。そこらの酔いどれやゴロツキなら一撃で打ちのめせる可能性はあるが、この三人は駄目だ。荒事に縁のないクムでもそうと分かるくらい、雰囲気が違い過ぎる。
「お嬢ちゃん、諦めな。クゼさんの言う通り、俺らも手荒な真似をしたいわけじゃないんだ」
しゅう、と空気の抜ける音みたいにウロトが言った。男――クゼの命令もあるだろうが、ウロト自身もクムを相手に暴力を振るうのは乗り気ではないらしい。必要とあればためらわらないとしても、だ。
「どうしよう、お母さん……」
流石にこれはどうしようもない、とクムはじりじりと後退り、少しでも目の前の男達から距離を取ろうとするが、唯一の出入り口は男達に塞がれて、この一角を囲い込む木塀を乗り越えるのは難しそうだ。第一、男達が見逃しはすまい。
じゃり、とクムの靴が小石を踏む音を鳴らした時、背後のお堂から新たな男の声が聞こえた。
「女の子一人を相手に大の男が三人がかり。こいつはちと見過ごせん」
クムだけでなくこの場に居た全員が開かれたお堂の扉の向こうへと視線を向けた。曇天とはいえ昼の時刻なのに、闇ばかりが詰まったお堂の中から悠然とした歩みで一人の男が姿を見せる。
陽に焼けた肌と服越しにも分かる屈強な肉体の持ち主で、クムが思い切り腹を殴りつけても逆に拳の骨が折れてしまいそうだ。
年のころは二十代前半だろうか。黒髪の下から覗く黒い瞳には、人懐っこく生き生きとした光が宿っていて、どこか子供のような無邪気さがある。悪い人間ではないと、どんなに偏屈な人間でも認める雰囲気の主だ。
身に着けているのは。草臥れた黒い前合わせと色あせた藍色の筒袴、ほつれがちらほらと目立つ赤い羽織、足回りは脚絆と使い込んだ茶色い革靴。
取り立てて奇抜というわけでもないが、目を引くものと言えば腰の帯に差し込まれた木刀くらいのもの。男の持つ唯一武器らしい武器であった。
新たな男はクムの右隣りまで歩いてくるとそこで足を止めて身を屈めて、クムと視線を交わす。
「いい啖呵だったぜ。勇気のあるお嬢ちゃんだ」
「お嬢ちゃんじゃありません、クムです」
「はは、そいつはすまなかった。俺はクガイだ。根無し草の風来坊と思ってくれ」
「あの、助けてくれるんですか?」
思わず縋りついてしまいそうになるのを堪えて、クムはあくまで確認するに留める。クガイと名乗った男がクゼと同類だった場合には、いつでも手の棒を叩き込めるように注意を払っている。
クガイもそれを分かった上でにっかりと笑い返す。気持ちの良い春の風を思わせる笑みだった。それが、クムの緊張を解かせた。
「見過ごすのを止めた以上、そのつもりだ」
クガイがぐるりと巡らせた視線は、クゼを映した時にピタリと止まる。双方の口元から笑みが消えた。クゼが懐から取り出した袋をクガイの足元に放り投げた。砕けた石畳の上に落ちた袋の口から、黄金の貨幣が零れる。
「根無し草の風来坊がいたずらに手を出せば火傷では済まんぞ。それで美味い酒でも飲んで、今日見たことを忘れろ」
「へ、気前のいいこって」
そう言ってクガイが袋を拾い上げようとするのを見て、クムはひどく裏切られた気持ちになった。助けると口にした矢先の、あまりにも早い身代わりに少女の心が傷つくのは当たり前だろう。
だが、それは早計であった。クガイはふん、と鼻で笑うと腰の木刀を抜くやいなや、袋をウロトとゲンテツへと向けて弾き飛ばした。
空中でばら撒かれる金貨をウロトとゲンテツは避け、石畳に落ちた金貨が耳障りな音を立てる中、クガイが目を細めてクゼを睨む。
「毒を塗った金貨とは、物騒なものを持ち歩いているじゃねえか。思わぬ目撃者や欲に目が眩んだ奴らは、そうして始末してきたのか? 案外、ケチなんだな」
ばら撒かれた金貨には一瞥もくれず、クゼが小さく嘆息する。次に彼の口から出てきた言葉は至って簡潔だった。
「やれ」
応じる声も出さず、ウロトの口が大きく開かれた。そこからびゅっと赤い鞭のような物体が伸びて、クガイの心臓を狙って襲い掛かる。
「舌の鞭か。体を相当弄っていやがるな。クム、下がってな!」
「は、はい!」
クガイの振るった木刀が空中で打ち落としたのは、彼の指摘通りウロトの口から伸びた舌だった。ウロトの舌は鞭の如くしなり、伸び、また同時に鉄も貫く槍となり、また刃となる。
楽都の街で培われた人体改造技術の産物だ。空中で生きた蛇のように自在に動き、前後左右から襲い掛かってくる舌を木刀で打ち払うクガイの技量も並ではない。
「おかしな街だと思っていたが、まともじゃねえ住人が多いぜ、まったく」
肉の塊を叩く音の後、クガイの目線は自分の右側に回り込み、拳を振り上げているゲンテツの姿を捉えていた。
歩く筋肉の鎧と評すべきゲンテツの体は、黒光りする鋼鉄に変わっていた。
筋肉の柔軟性や関節の可動域はそのままに、鋼鉄の硬度をも併せ持った肉体へと変貌している。こちらもウロト同様、人体改造によって得られた特異な肉体の持ち主であった。
「ふん!」
短く吐き出されたゲンテツの吐息と共に、低く腰を落とした彼の左右の腕が鋼鉄の塊となって連打される。腰の回転が活かされた短く素早い連打は、どんな筋肉の鎧を纏っていても人体ならば一撃で骨を砕いて内臓を破裂させる威力がある。
「親から貰った体をそうホイホイといじるもんじゃねえだろう」
クガイは息継ぎを挟まずに連打されるゲンテツの鉄腕を紙一重で避け続け、ひらりと大きく翻した羽織越しにゲンテツの左の首筋を木刀で強かに打った。
羽織を目晦ましにした一撃だが、鋼鉄の塊を木刀で打ったところでどんな効果があるのか。ゲンテツの岩石みたいな顔に亀裂が走ったのは、その直後である。
「ぐうあ!?」
思わずウロトの顔に動揺が広がるほどの苦しみに満ちた声がゲンテツから漏れて、あろう事かその場に蹲ってしまう。かつて敵対組織に捕まり、凄惨な拷問を受けた時にも声一つ零さなかった相棒の思わぬ姿に、ウロトは動揺を抑えきれなかったのだ。
「まずは一人!」
「ちいっ」
びうん、とバネの跳ねるような音に続き、ウロトの舌の鞭が弧を描いてクガイの頭上から襲い掛かる。そのまま行けばクガイを頭上から股間まで串刺しにする必殺の一撃だ。
クガイの頭頂部に触れるまで、あとわずかと迫ったところでクガイの頭上に三日月が描かれた。
目にも止まらぬ速さで振るわれた木刀の一閃は、しかし鉄に勝るウロトの舌をすっぱりと断ち、断たれた舌先が血をまき散らしながら彼方の石畳にボトっと音を立てて落ちる。
「うげぇ」
ウロトはたまらず舌を引き戻し、だらだらと零れる血と痛みに苦悶の表情を浮かべる。流血に劣らぬ勢いで冷や汗が流れ始めていた。こういう事態に備えて、ウロトの細胞には強力な再生機能が備わっているが、それが一向に働こうとしない。
「ぼ、木刀で俺の舌鋼鞭を斬り落とすとは、貴様、何者だ!?」
「言っただろう、根無し草の風来坊だってな。それと今はあのお嬢ちゃん、クムの押し掛け用心棒だ。やめときな、あんたの傷はそう簡単には塞がらん。あっちのも走る程度ならともかく、しばらくは戦えんように打った。
あんた、クゼと言ったか。兄貴分なら子分を抱えて退いたらどうだ。お互い様子見ならここで手を打つのが妥当だと思うぜ」
ふてぶてしいまでの自信と共に提案するクガイを、クゼは凪の海を思わせる表情で見ていた。自然体で垂らされていた彼の両腕にわずかに力が加えられる。
クガイの一撃を受けて苦しんでいたウロトとゲンテツが、そろってクゼへと視線を向けて息を呑む。肉体を蝕む苦痛よりも戦おうとしている兄貴分の方が恐ろしいのだ。
「へえ」
と呑気に聞こえる呟きがクガイの口から零れて、彼とクゼの目線はクゼの背後へと向けられる。そこには、白い装束を纏った女が右手に直剣を持って立っていたのだ。
マントもフードも毛皮で出来ており、この辺りでは見かけないうっすらと青味がかった白い獣毛だ。
フードと白地に赤と青の格子模様の入ったスカーフからわずかに覗く顔は、遠目にも見れば思わず瞳を吸い寄せられる程に整っている。
一面に降り積もった雪のように白くきめ細やかな肌に、人物画の巨匠の一筆のようにすっきりとした鼻筋、氷を透かして見る水の色をした瞳は月光のような冷たい光を宿している。
柔らかそうな毛皮のフードから零れる真っ白い髪の色も相まって、雪か月光の精かと見間違う神秘的な容姿と雰囲気を纏っている。だが、どれだけ神秘的で美しかろうとも、クガイとクゼが意識を向ける程の手練れであるのは間違いなかった。
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