バベル 本の舟・塔の亡霊

春泥

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第五章

06 バスカヴィル

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「なんだ、それは」
 ユスタフが悲鳴を上げた。
「エル、それは、猫じゃない。鼠だ」
 とゲンヤは落ち着いた声で言い、シュウレンを左腕で抱き寄せ自身の背後に誘導しながら、右手に持った剣の先を血まみれの獣に向けた。
「アルトゥール……」贋作師が喉の奥で呻いた。

 殆ど黒色といっていいグレーの毛皮をべったり染めているのは、鼠自身の血でもあるらしかった。体のあちこちが裂けて、ピンク色の肉が見えている。手負いの鼠アルトゥールは、すっと頭を低くして、飛びかかった。短足のずんぐりした体形からは想像もつかない、恐ろしい跳躍力だった。
 素早くシュウレンを抱え床に身を伏せたゲンヤの頭上を飛び越して、鼠はユスタフに襲いかかった。すんでのところでユスタフに身をかわされた鼠は、その背後にいた者に襲いかかった。
 ほんの一瞬の出来事だった。
 手で押さえた喉笛から血を噴き出させながら、ケラがよろよろと歩み出て、前のめりに倒れた。大鼠の口は、体に比べると小さいのだが、そこから覗く前歯は大きく、細長い髭の先から血の滴をしたたらせていた。
「足手まといの老いぼれが!」ユスタフは毒づき、「殺せ、早く! その獣を殺せ!」と喚き散らした。
「鍵が……」と贋作師が叫んで、はっと口をつぐんだ。
 ゲンヤの眉間の皺が一層深くなった。

 床に倒れた際にシュウレンが後生大事に抱えていた小さな鉢が割れて、中に入っていた土が飛び散っていた。その中から、小さな球根と共に、金属製の鍵が飛び出していた。
 ユスタフはそれに突進すると、鍵を拾い上げた。シュウレンが叫び声をあげてユスタフの足にしがみつこうとしたが、いつの間にか忍び寄っていた贋作師が後ろから抱き止めたため、蹴り飛ばされずに済んだ。

「触るな、化物が!」
「オクジョノカギ、ダイジ、カギ」
「これが屋上への鍵か」

 ユスタフは勝ち誇った顔をして、鍵を高々と掲げると、身を翻してその場を去ろうとした。そこへ、手負いの鼠が飛びかかった。
「うわっ」
 アルトゥールにのしかかられ転倒したユスタフは懸命に抵抗している。
「何をしている、早く助けろ、警備兵!」と言われて数名が慌てて警棒で鼠になぐりかかったが、血まみれの大きな前歯をむき出して威嚇してくる手負いの獣に対し、成す術がなかった。

 もがき暴れるシュウレンを抱き抱えたまま後ずさりする贋作師は「奴のローブには、アルトゥールの天敵の血がついているんだ」とゲンヤに囁いた。
「猫の世話係か」
 ゲンヤは先程のユスタフの言葉を思い出し、少しだけ猫の世話係の身を案じたが、今はそれどころではない。

「鍵を――」

 その時、一陣の黒い風が吹き抜けた、と思った矢先、巨大な鼠よりも更に大きい獣が、ユスタフを襲うアルトゥールに襲いかかった。
「おい、嘘だろう」贋作師が呻いた。
 それは、漆黒の艶やかな毛皮を纏い、金色の目をして、耳まで裂けた口からは鋭い牙が覗いていた。

「ネコチャン!」エルが叫んだ。
「ビー!」シュウレンも叫んだ。
「やめろバスカヴィル。にわかに信じられないだろうが、その鼠は、今初めて我々にとって非常によい行いをしているんだ」
 と贋作師が呼びかけたが、バスカヴィルはそれを無視して鼠に襲いかかった。二匹の獣の争いに巻き込まれないように、人々は散り散りになった。その機に乗じて、ユスタフとその腹心達は、我先に逃げ出した。

「くそっ、あいつの言うことしか聞かないか」贋作師は歯ぎしりをした。
「ゲンヤ、お前とエルは連中を追え。子供は俺が守る」
 そう贋作師に言われて、二人は部屋中を転げまわる二匹の獣から身をかわしながら、部屋を出た。


「あいつら、どこに向かっているんだろう」というエルの問いに
「屋上――いや、正確には、まだ上があるんだが」とゲンヤは短く答えた。長い脚で階段を上るゲンヤの後を、エルは必至で追っている。

 突き当りの扉を開けると、その部屋はまばゆい光に包まれ蒸し暑く、一面植物に覆われていた。天井の一部が半透明で、薄く曇った青空が見えていた。

「これは、なんと……」
「温室だ」

 その温室というのは、さぞ美しかったのだろうと眩しさに目を細めながらエルは思った。見たこともない色とりどりの花が咲き誇っていた、と思われる室内は、あちこちで鉢が倒され、植物が地面から引き抜かれ、無残に花が踏みにじられていた。

「子供達が泣くな」とゲンヤは呟いた。
「シュウレン達が?」
「花の世話をしているのは彼等だから」
 温室の端には重そうな扉がついており、そこに鍵が刺さったまま開け放たれていた。
「この先には何が」
「ポート」
「ぽ?」
 ゲンヤは片手を上げてエルを静かにさせると、頭を低くするようにとゼスチャーで示した。そして自らも長身を可能な限り折り曲げて、ゆっくりと進んだ。


 猫と鼠が死闘を繰り広げる部屋では、人々――これまでケラの一味に含まれていた者や司書たち――が興奮した動物達のとばっちりを受けないよう、逃げ惑っていた。
 贋作師は暴れるシュウレンを左腕で抱き抱えながら、膝立ちでどうに移動しながら獣たちの体に押し潰されたり爪や歯で肉を裂かれたりするのを逃れていた。
「落ちつけ、シュウレン。いいんだ、あの鍵のことは。ゲンヤが必ずどうにかする。だから大人しくここから逃げるんだ」
 贋作師が何を言ってもシュウレンは、
「オコル……ゲンヤ、オコル……」
 と繰り返し、贋作師の腕から逃れようと暴れる。

 飛びかかってきた猫から鼠が身をかわし、代わりに元ケラの手下が人間と大差ない程の猫の体に跳ね飛ばされ壁に激突して床に崩れ落ちた。贋作師は回廊に出て壁に背をつけ荒い息を吐いた。尚も「カギ……オコル……セワガカリ……」と繰り返すシュウレンに
「あいつなら大丈夫だ。絶対に怒らないから」
 と贋作師は小声で囁いた。

「誰が、怒らない、と?」

 その声の主は、吹き抜けの対岸、一階下の回廊に立っていた。光源に乏しい図書館内において、シュウレン達が静かに暮らすこのレベルは塔内でもかなり上層に位置し、回廊には薄い外光が漂っている気配が感じられたが、それでもその人物の姿は半分ほど闇の中に溶け込んでいた。喋る度にシュウシュウと漏れる息のせいで、彼の言葉は非常に聴き取り辛かった。先ほどの台詞は、実際には「ふぁれふぁ、ふぉふふぁふぁい、ふぉ?」と発音されたのを、贋作師が脳内で翻訳したものだ。
「お前は――」
 誰だと確認するまでもなかった。贋作師には、それが誰だかわかっていた。
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