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第五章
08 本の舟
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ゲンヤとエルは開かれたままの扉の内部に足を踏み入れた。
いや
そこは内部ではなかった。
温室のガラス戸を開けた先にあるのは、がらんとした、空間。高い屋根は途中で途切れ、外壁もなく、青空が広がる空間に、床だけがかなり遠くまでせり出している。
ムッとする熱気が風に吹かれて押し寄せてきた。空に向かってせり出した床に鎮座しているのは、エルが今まで見たことも聞いたこともない代物だった。
まず目につくのは、横に長い巨大な楕円形の袋。その袋の下では火が炊かれ、ぱんぱんに膨れた袋は……宙に浮いていた。
エルは我が目を疑った。
炎の下には十人は楽に乗り込めそうな大きな舟《ゴンドラ》があり、頑丈そうなロープで宙に浮いた袋に結び付けられている。舟も床から浮きあがっていたが、舟は床へ伸びたロープで繋がれ、それがこの不思議な物体が空に漂い出ることを抑制していた。楕円形の袋も舟も、材料は本である。
「あれは――」
「飛行舟。空を飛ぶ舟だ」
ゲンヤはエルの疑問に短く答え、飛行舟の方に歩いていく。
「来るな、そこで止まれ」
ケラの息子ユスタフが船体の中から顔を覗かせて怒鳴った。更に、警備兵の三人が姿を現し、弓に矢をつがえて構えている。矢の先はゲンヤとエルに向けられている。
「そんなもので、どこまで行けると思っている」
ゲンヤは落ち着いた声で言う。
「お前ら使徒や司書は隠しているが、水の向こうには陸地があるそうじゃないか。作物が豊かに実り、獣や魚が豊富に捕れると聞いた。もう誰も、洪水のことなど覚えちゃいないし、この塔の民のように、しみったれた生活をしていない。何故それを隠す? お前ら、自分達だけで脱出するつもりでこんなものを作ってたんだろう」
ケラの息子は叫び返した。
「それは、パウが若い頃にこしらえたものだ。秘密裏にテスト飛行をしようとして、長老――前の長老に阻止された。『自殺行為だ』とね。パウはその件で未だに拗ねているが、私も先の長老の意見に賛成だ。そんなもので、陸地までたどり着けるわけがない」
「語るに落ちたな。やはり陸地はあるんだろう。だったら、チャンスにかけてみるさ。ここで紙みたいなパンを食べてやせ細って死ぬのは御免だ」
ぷっ、とエルがふき出したので、ユスタフは顔を真っ赤にして「あいつを射殺せ」と命じた。
警備兵の一人が矢を放ったが、ゲンヤが剣をひと振りすると、首をすくめて身を縮めたエルの目の前で矢は真っ二つになって落ちた。
「縄を切れ」
ユスタフの命令に従い、警備兵が舟を床に繋ぎ止めていたロープをほどいた。
飛行舟は、ゆっくり床から浮かび上がって天井に接触すると、そのままするすると空が広がる方へゆっくりと進み始めた。
「逃げるぞ!」
エルが飛行舟に走り寄ろうとするのをゲンヤは手で制すると同時に、肩越しにちらと見えたものに少し驚いた顔をした。
毛皮を血に染めた大きな獣が、もの凄いスピードで突進してきた。獣はエルを背後から突き飛ばし、危うく身をかわしたゲンヤの肩をかすめて猛然と飛行舟に突進していく。
「なんだ、あれは。はやく外へ移動させろ」
ユスタフが叫んだ。しかし飛行舟は特に急ぐ様子もなく漂い、床のない宙へとゆっくり滑り出した。
「やったぞ。ざまあみろ」
と高笑いをしたユスタフの顔色が変わった。
手負いの獣、アルトゥールは、そのまま全力で疾走すると、床が途切れる手前で大きくジャンプし、舟の中に飛び込んだ。
飛行舟から聞こえる悲鳴が徐々に遠ざかっていくのを、エルは恐々と見送った。
「なぜ、あの鼠は――」
「あの男のローブに、鼠の天敵の猫の世話係の血が付着しているせいだろう。それに」ゲンヤは珍しく歯を見せてニヤリと笑って
「ユスタフは見るからにおいしそうだからな」と言った。
エルがぷっと噴き出したところに、騒々しい音を立てて、再び血まみれの獣が飛び込んできた。
「ひゃあっ、鼠だあ!」と叫ぶエルに
「愚か者、ネコチャンとあの汚らしい鼠と区別がつかぬとは、お前の目は節穴か」と厳しい声が飛んだ。実際にはまだ普段通り発音できるようにはなっていなかったのだが、二人の脳内でそのように変換された。先刻贋作師とシュウレンの前に姿を現した時よりは怪我の回復が進んでいたが、夜眠るときには絶対に思い出したくない姿だとエルが内心密かに思うほど悲惨な姿の猫の世話係が、温室の扉からゆっくり歩いてくる。
猫は床が途切れる手前て体を捻って急停止すると、遠ざかっていく飛行舟を見て咆哮し、牙を剥いた。
「鼠は、行ってしまったよ。バスカヴィル」
ゲンヤは気が立った様子で飛行舟をねめつけながらうろうろしている猫の頭を撫でた。すらりと伸びた、しかし力強い四肢で立つと、形のよい頭部が丁度ゲンヤの腰の辺りにくる。微かに緑色を帯びた漆黒の艶やかな毛皮には、アルトゥールとの死闘の跡が痛ましく残されていた。
猫はゲンヤの手に自ら頭をこすりつけるようなしぐさをした。エルは猫の背後からそろそろ忍び寄ろうとして、猫の世話係に首根っこを掴まれ引き戻された。
「命が惜しかったら、まずネコチャンから身を守る練習をしろ」
そう言った猫の世話係に、猫が突然とびかかった。咄嗟に左腕で庇ったので喉笛をがぶりとやられることは逃れたが、猫は世話係の左手首から上を食いちぎり、それを咥えたまま部屋を出て行った。
「まったく、食いしん坊で困る。ふふっ」
真っ青な顔で血の噴き出る世話係の左腕を凝視するエルを尻目に、ゲンヤは落ち着いた様子でローブの端を斬り裂くと、止血のために世話係の腕をきつく縛った。
「いくら不死だからといって、無茶が過ぎるのではないか」
「ではお前がネコチャンの餌になるというのか?」
「私は不死身ではないから、腕を切り落として猫に差し出したら、二度と生えてこない」
どさりという音にゲンヤと猫の世話係が振り向くと、エルが気を失って倒れていた。その二人の背後では、
どん!
という塔を揺るがす轟音が響き渡ったかと思うと、放物線を描いた黒い塊が目にもとまらぬ速さで、遠くを漂う飛行舟の横、といってもかなり離れた位置を通過し、遠方で水飛沫をあげた。
「大砲か。しかし、あれではまったく――」と猫の世話係が口を開いた時
どん!
と二度目の轟音が鳴り響き、また塔が揺れた。
ゲンヤと猫の世話係が見守る中、今や遠くの点になりつつあった飛行舟の楕円形の袋を黒い塊が捉え、爆発した。
「一体誰だ。パウではないな。あやつは粗忽者だから、的に当てられまい」
「ワタルだ」
ゲンヤは目を細めて、黒煙をあげて水面に墜落する舟を見つめた。
「一体、何があったんだい?」
床に伸びていたエルが目を覚まして尋ねた。
いや
そこは内部ではなかった。
温室のガラス戸を開けた先にあるのは、がらんとした、空間。高い屋根は途中で途切れ、外壁もなく、青空が広がる空間に、床だけがかなり遠くまでせり出している。
ムッとする熱気が風に吹かれて押し寄せてきた。空に向かってせり出した床に鎮座しているのは、エルが今まで見たことも聞いたこともない代物だった。
まず目につくのは、横に長い巨大な楕円形の袋。その袋の下では火が炊かれ、ぱんぱんに膨れた袋は……宙に浮いていた。
エルは我が目を疑った。
炎の下には十人は楽に乗り込めそうな大きな舟《ゴンドラ》があり、頑丈そうなロープで宙に浮いた袋に結び付けられている。舟も床から浮きあがっていたが、舟は床へ伸びたロープで繋がれ、それがこの不思議な物体が空に漂い出ることを抑制していた。楕円形の袋も舟も、材料は本である。
「あれは――」
「飛行舟。空を飛ぶ舟だ」
ゲンヤはエルの疑問に短く答え、飛行舟の方に歩いていく。
「来るな、そこで止まれ」
ケラの息子ユスタフが船体の中から顔を覗かせて怒鳴った。更に、警備兵の三人が姿を現し、弓に矢をつがえて構えている。矢の先はゲンヤとエルに向けられている。
「そんなもので、どこまで行けると思っている」
ゲンヤは落ち着いた声で言う。
「お前ら使徒や司書は隠しているが、水の向こうには陸地があるそうじゃないか。作物が豊かに実り、獣や魚が豊富に捕れると聞いた。もう誰も、洪水のことなど覚えちゃいないし、この塔の民のように、しみったれた生活をしていない。何故それを隠す? お前ら、自分達だけで脱出するつもりでこんなものを作ってたんだろう」
ケラの息子は叫び返した。
「それは、パウが若い頃にこしらえたものだ。秘密裏にテスト飛行をしようとして、長老――前の長老に阻止された。『自殺行為だ』とね。パウはその件で未だに拗ねているが、私も先の長老の意見に賛成だ。そんなもので、陸地までたどり着けるわけがない」
「語るに落ちたな。やはり陸地はあるんだろう。だったら、チャンスにかけてみるさ。ここで紙みたいなパンを食べてやせ細って死ぬのは御免だ」
ぷっ、とエルがふき出したので、ユスタフは顔を真っ赤にして「あいつを射殺せ」と命じた。
警備兵の一人が矢を放ったが、ゲンヤが剣をひと振りすると、首をすくめて身を縮めたエルの目の前で矢は真っ二つになって落ちた。
「縄を切れ」
ユスタフの命令に従い、警備兵が舟を床に繋ぎ止めていたロープをほどいた。
飛行舟は、ゆっくり床から浮かび上がって天井に接触すると、そのままするすると空が広がる方へゆっくりと進み始めた。
「逃げるぞ!」
エルが飛行舟に走り寄ろうとするのをゲンヤは手で制すると同時に、肩越しにちらと見えたものに少し驚いた顔をした。
毛皮を血に染めた大きな獣が、もの凄いスピードで突進してきた。獣はエルを背後から突き飛ばし、危うく身をかわしたゲンヤの肩をかすめて猛然と飛行舟に突進していく。
「なんだ、あれは。はやく外へ移動させろ」
ユスタフが叫んだ。しかし飛行舟は特に急ぐ様子もなく漂い、床のない宙へとゆっくり滑り出した。
「やったぞ。ざまあみろ」
と高笑いをしたユスタフの顔色が変わった。
手負いの獣、アルトゥールは、そのまま全力で疾走すると、床が途切れる手前で大きくジャンプし、舟の中に飛び込んだ。
飛行舟から聞こえる悲鳴が徐々に遠ざかっていくのを、エルは恐々と見送った。
「なぜ、あの鼠は――」
「あの男のローブに、鼠の天敵の猫の世話係の血が付着しているせいだろう。それに」ゲンヤは珍しく歯を見せてニヤリと笑って
「ユスタフは見るからにおいしそうだからな」と言った。
エルがぷっと噴き出したところに、騒々しい音を立てて、再び血まみれの獣が飛び込んできた。
「ひゃあっ、鼠だあ!」と叫ぶエルに
「愚か者、ネコチャンとあの汚らしい鼠と区別がつかぬとは、お前の目は節穴か」と厳しい声が飛んだ。実際にはまだ普段通り発音できるようにはなっていなかったのだが、二人の脳内でそのように変換された。先刻贋作師とシュウレンの前に姿を現した時よりは怪我の回復が進んでいたが、夜眠るときには絶対に思い出したくない姿だとエルが内心密かに思うほど悲惨な姿の猫の世話係が、温室の扉からゆっくり歩いてくる。
猫は床が途切れる手前て体を捻って急停止すると、遠ざかっていく飛行舟を見て咆哮し、牙を剥いた。
「鼠は、行ってしまったよ。バスカヴィル」
ゲンヤは気が立った様子で飛行舟をねめつけながらうろうろしている猫の頭を撫でた。すらりと伸びた、しかし力強い四肢で立つと、形のよい頭部が丁度ゲンヤの腰の辺りにくる。微かに緑色を帯びた漆黒の艶やかな毛皮には、アルトゥールとの死闘の跡が痛ましく残されていた。
猫はゲンヤの手に自ら頭をこすりつけるようなしぐさをした。エルは猫の背後からそろそろ忍び寄ろうとして、猫の世話係に首根っこを掴まれ引き戻された。
「命が惜しかったら、まずネコチャンから身を守る練習をしろ」
そう言った猫の世話係に、猫が突然とびかかった。咄嗟に左腕で庇ったので喉笛をがぶりとやられることは逃れたが、猫は世話係の左手首から上を食いちぎり、それを咥えたまま部屋を出て行った。
「まったく、食いしん坊で困る。ふふっ」
真っ青な顔で血の噴き出る世話係の左腕を凝視するエルを尻目に、ゲンヤは落ち着いた様子でローブの端を斬り裂くと、止血のために世話係の腕をきつく縛った。
「いくら不死だからといって、無茶が過ぎるのではないか」
「ではお前がネコチャンの餌になるというのか?」
「私は不死身ではないから、腕を切り落として猫に差し出したら、二度と生えてこない」
どさりという音にゲンヤと猫の世話係が振り向くと、エルが気を失って倒れていた。その二人の背後では、
どん!
という塔を揺るがす轟音が響き渡ったかと思うと、放物線を描いた黒い塊が目にもとまらぬ速さで、遠くを漂う飛行舟の横、といってもかなり離れた位置を通過し、遠方で水飛沫をあげた。
「大砲か。しかし、あれではまったく――」と猫の世話係が口を開いた時
どん!
と二度目の轟音が鳴り響き、また塔が揺れた。
ゲンヤと猫の世話係が見守る中、今や遠くの点になりつつあった飛行舟の楕円形の袋を黒い塊が捉え、爆発した。
「一体誰だ。パウではないな。あやつは粗忽者だから、的に当てられまい」
「ワタルだ」
ゲンヤは目を細めて、黒煙をあげて水面に墜落する舟を見つめた。
「一体、何があったんだい?」
床に伸びていたエルが目を覚まして尋ねた。
応援ありがとうございます!
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