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日記
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しおりを挟む風呂から帰って気づいたが、離れ屋の外壁が土でかなり汚れていた。
最初は何か分からなかったが、顔を近づけてみると、それが人の手形を密集させたものであることが判然とした。
いつこんなものがつけられたのかと、過去を振り返ると思い当たる節があったので、確認のために日記を読み返した。
二十一日の最後の方にそれが書いてある。つまり前日の早朝に起きた出来事だ。
壁にぶつかる音がした、としっかり書いてある。獣だと思っていたのは、人だったということだ。
それ以外に、何かがぶつかったような痕跡はなかったし、思い当たることもない。
低い位置だった。まるで座って叩いたような。
正座した薬局のおばさんが、離れ屋の壁を叩いている姿が頭に浮かんだ。もしそうなら、あの足音も、おばさんがこの離れ屋の周りを駆け回る音だったということになる。
そんな、馬鹿げた話が脳裏を掠めて、怖くなって薬を四錠ばかり飲んだ。ここのところ、薬に頼りすぎている。自重しないといけない。
夕方、イツ子さんが来た。細かい花柄の洋服を着て、化粧もしていたので、亡くなった婆さんを悼む気持ちがまるで見えず、思わず、
「なんて格好をしてるんですか」
と言ってしまった。すると、
「これ、ワンピースっていうんですよ」
と返された。そういう話じゃないのだが、敢えて何も言わなかった。
イツ子さんは、来るなり薬をくれと言った。二錠やったら、足りないと言って、薬瓶ごと取り上げて、更に三錠。煙草も酒もやった。様子が変だった。
「私ね、飲み屋で働く前は、パン助だったんです」
訊いてもいないのに、突然、そんなことも言った。
躁鬱の気があるのかもしれない。
無意味に上機嫌になって笑い出したのに、そのまますすり泣きだして、
「もう耐えられない」
と、よく分からんことを呟く。理由を訊ねても、
「こればっかりは言えません」
と言う。
ただ、爺さんに恩義があるから、我慢せざるを得ないと、そんな意味深なことを言った。俺は何だか考えることに疲れてしまったので、追究せずに世間話を振った。
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