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日記

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 書く手が震える。まだ怖れているが、何があったかを記す。

 俺は母屋で、二親が失踪したことを知った。婆さんの葬式後、お袋が忽然と姿を消し、親父はお袋を捜しに出たまま戻っていないということだった。

 爺さんもまた二人を捜しに出ているらしく、この話は、家にただ一人残っていたイツ子さんから聞いた。

「何があってそういうことに」

 と訊くと、イツ子さんは、寸の間、躊躇いを見せた後に、

「やはりもう隠しておけません」

 と、俺を家の奥に連れて行った。

 以前と変わらず板戸が閉め切られていた。窓もカーテンで覆われていたので、家の中は奥に向かうほど暗くなった。臭いも漂っていた。いつか嗅いだ腐臭と糞便臭。歩みを進めると、あるところで臭気がぐんと強くなり、めまいを起こすほどの、強烈な悪臭が鼻をついた。形容できない臭いに顔を歪めて鼻をつまむと、

「鼻はつままず、口と鼻を手で覆ってください。そちらの方が、幾分、楽になります」

 と、イツ子さんが囁いた。俺は言われた通りにした。イツ子さんもそうしていた。

 板の間を歩くと、みしみしと軋む音がした。その音だけが、はっきりと響いていた。他には衣擦れの音が少しと、遠い蝉の鳴き声。家にある音はそれだけだった。

 家は変わっていた。快活な主人に合ったものではなくなっていた。

 陰気で、不気味なものに変容していた。

 イツ子さんが、奥座敷の襖を開けた。目の前には、隙間の少ない木造の格子。隅に小さな格子扉が設けられていた。

 俺は、呆気に取られてしまい、一瞬、それが何であるか分からなかった。少しずつ時間をかけて、それが牢であるということを理解した。

 座敷牢。その言葉が頭に浮かぶなり、ばんっ、という床を平手で叩いたような音がした。

 暗闇の中、二度、三度とその音が続いて近づいてきた。それに伴い、四つん這いの影もこちらに向かってくる。

 暗く、視界も格子で遮られているので、闇の濃さでしか判断ができなかったが、あれは、間違いなく人だった。四つん這いになった人だった。

 座敷の中から獣が呻いているような声が聞こえた。いや、その間際に、イツ子さんが襖を閉めていた。そして、俺の手を引いて表座敷に連れて行った。

 中に入り、襖を締め切ると、俺に抱きついて、

「良一郎さん、私を連れて、この家を出てください。お願いします。この家はもう駄目です。旦那様は変わってしまわれました。いいえ、旦那様だけじゃありません。この家の人は、皆、変わってしまわれたんです」

 と、涙を流して言った。俺は、その独りよがりな尻すぼんでいく掠れ声に、心を動かされることはなかった。何一つとして、状況が掴めていない。胸にあるのは、広漠たる不安のみ。感傷の入り込む余地など、心のどこにもなかった。

 
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