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日記

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 誰もいない離れ屋の戸を開けて、「ごめんください」と言う鳴神を見て俺は笑いを堪えた。当然、返事はないので鳴神は困った顔をして言った。

「弱ったな。誰もいないみたいだ」

 それから、うーん、と少し考えるような素振りを見せて、

「とりあえず、側に置かせてもらおう」

 なんて真面目腐った顔で言うので、

「百さん、ここに住んでいるのは俺だ」

 と教えてやった。

 すると鳴神は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、

「え、そうなの」

 と、言った。あの時のあいつの顔は傑作だった。

「良さんも人が悪いよ。教えてくれたっていいだろ」

 膨れっ面をするのがまた可愛らしくて、思い出すと含み笑いが漏れる。鳴神も、あんな顔をすることがあるのだと知って安心した。

 現在の時刻は午前五時。文机だけに光が当たるようにカーテンを開けて、これを書いている。今日は割と手早く書けたように思う。しっかりと眠れたから頭の回転が良くなっているのかもしれない。

 おばさんは、来たのだろうか。足音がしたかどうかすら分からなかった。

 前日、二十五日の分は先にまとめた通りだ。ここからが二十六日。

 鳴神は起きてすぐに、朝の挨拶とあくびを済ませると、さっさと服を着てこの離れ屋を出て行った。

 小一時間ほどして、リュックを背負って戻ってきたが、その中には食い物が大量に詰まっていた。

 パン、薩摩芋、握り飯、干し肉、干し芋、枝豆、茹でた菜っ葉、卵焼きにバナナまで。

 書き方を間違えたが、剥き出しではない。調理済みの物はちゃんと重箱と弁当箱に収めてあった。

 バナナと薩摩芋は新聞紙、握り飯は竹皮で三個ずつ、パンは固いのが切り分けられたのが四本ばかし風呂敷にくるまれていた。

 鳴神は、朝飯だといって万年床を畳んで部屋の隅にやると、畳に風呂敷を広げてそれらの食い物を置いた。

「まさか、これが一食分か」

 と訊くと、

「馬鹿を言わないでくれ」

 と叱られた。それはそうだろうなと安心したが、

「今日一日分だよ」

 という言葉が後に続いたので、やはり驚いてしまった。

「遠慮せず好きに食べて」

 と鳴神は言ったが、むしゃむしゃと口一杯に頬張る姿を見ていると、それだけで腹が満たされる気分になって、手でちぎった硬いパンを一切れと、握り飯と卵焼きを一つずつ貰って仕舞いにした。

「少食だね」

 と言われたが、それで十分だった。

 元々、さほど食い物に執着がない。食わないと生きていけないから、仕方なく食べているだけで、何も摂らなくても生きていけるのなら、俺は何一つ口に入れないだろう。

 鳴神が喉を詰めたので、コップに水を汲んで渡してやった。一気に飲み干して胸を撫で下ろしていたので、

「食い物は逃げんぞ」

 と笑って言うと、

「今日は一人作業だから早くに始めないといけないんだよ」

 という返事があったので、手を貸そうかと申し出たが、食いながら首を横に振られた。

「危なすぎて、良さんの面倒を見てやれる自信がない」

 鳴神は食事の手を止めてそう言い、口の中のものを飲み下してから、

「死なれたら子種がもらえないから。子供ができたらもう気にしないんだけどね」

 と続けた。俺は思わず噴き出してしまった。鳴神も笑った。

 飯が済むと、鳴神は早々に玄関へと向かい、トラバサミの入った麻袋を二つ担いで離れ屋を出た。俺は鳴神が山に入るところまで見送った。恐怖心は皆無だった。薬局のおばさんが山に入るのを見たときとは、まるで心境が違った。

 鳴神は必ず帰ってくる。そういう確信に近い思いを抱きつつ、これを書いている。
 今は午前十時。書いていると時間が経つのが早い。鳴神が出てから二時間ほど過ぎた。

 そろそろ、袋を取りに帰ってくるかもしれない。

 待ちきれないので、外に麻袋を二つ出しておくことにする。
 
 俺が袋を出していると、鳴神が帰ってきた。「お帰り」と声をかけると、笑って、「ただいま」と言った。

 鳴神は、離れ屋に入り、コップ一杯の水を飲み、バナナを食うと、またすぐに外へ出て、今度は麻袋を三つ担いで山に向かった。

 俺はその背を見送った後に、自分の問題を潰しに母屋へと向かった。

 鳴神に対しての疑問と怖れは消えた。人殺しではあるし、国が絡む謎の仕事をしているし、半陰陽で俺に好意を持っているなどの新たな問題は出たが、そんなものは大したことではない。

 今回の一件で学んだ。俺は、訳が分からないから怖れてしまうのだ。分かってしまえば、怖いものは何もない。知ることで怯える必要がなくなるのであれば、明らかにすれば良い。

 と、離れ屋を出るまでは思っていた。そう、確かに思っていたはずなのだが、母屋を訪ねて間もなく、俺は世の中には知らない方が良いこともあるのだと知った。

 
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