鎌倉ぴかれすく抄

御厨 匙

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鞘鳴りえれぢゐ

㈡烏滸の沙汰

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 烏帽子えぼしの大男――銀鴟ぎんじが、花奢きゃしゃわらべなぶる。ぶ厚い畳のうえ、童のあかい衣を剝ぎとる。あらわになる白い肌、その股ぐらの腫れあがった魔羅まらがなければ、少女おとめとまごう美童だ。銀鴟が舌打ちする。
「色気づきやがって」
「そりゃあ、毎晩かわいがってやってるからな。なあ、お日羽ひわ
 烏帽子の片目の男――百舌もずがいう。同じく烏帽子の小太り――牙良げらがばか笑いする。お日羽はまつ毛を伏せて、片手で魔羅を隠す。銀鴟はかまわず組み伏せて、小さな丸い尻を犯す。ぬめぬめと見え隠れする長い魔羅。お日羽は歯を食いしばり、助けを求めるように土間のわらべを見やる。
 わらべ――十一じゅういちは真顔で酒を吞む。お日羽を一心に見つめる。烏帽子の無いわっぱは、指をくわえて見ているほかない。お日羽も十一を見つめる。銀鴟は背の広さに物いわせ、二人を遮る。意地の悪い人だ、と喜々須きぎすは思う。もうひとりのわらべ――夷虎いとらは食入る目つきで、銀鴟と美童の姦淫かんいんを愉しんでいる。ふんどしの下で、右手がせわしなく動く。この好者すきモンめ、と喜々須は思う。
 銀鴟が飽きると、お日羽は牙良の腕にわたる。この小太りは冗談みたいに早い。なんべんか腰を振れば事たりる。お日羽は百舌の腕へ。この片目は能書きのように長い。じれったいほど悠長に、あの手この手で責めたてる。それまでのだんまりが一転、お日羽は狂ったかに声をあげ身悶える。喜々須は想像する。あれがおれだったなら――
 たまらなくなったのか、夷虎が目配せする。外へ行こう、と。だが、喜々須は知らんぷりした。こいつに抱かれたい気分ではなかった。いや、あんなやつにどうにかされたいと思ったことなど、いっぺんもない。抱かれたいのは――
「さあ、極楽へつれてってやる」
 百舌はささやく。お日羽は苦悶くもん快楽けらく綯交ないまぜの顔で嬌声きょうせいをあげる。
 
 相州そうしゅう鎌倉の、武相ぶそう国界くにざかいの峠。峠のこし掘建ほったて小屋ごやが、山賊"梟"一味の根城だ。朝の日ざし、小屋の表手おもてで喜々須は匕首ひしゅいだ。あおぐろやいばの光に、うっとりする。砥石といしを桶でゆすいで、刃の具合を親指の腹で確かめる。
「喜々須。小遣いやるから、頼まれてくんねえか」
 小屋の間口で百舌が手招きする。左目の潰れた醜男ぶおとこだが、気のいい兄貴分だった。喜々須はおのずとまった。
「へい、なんでやしょう」
「これを」百舌は書状ふみを見せた。「水無瀬みなのせがわはまばしの、ぬえって女に届けてくれ」
恋文こいぶみですか」
「このたわけ。おめえにはかかわりのねえこった」
 百舌の狼狽ろうばいぶりで、しんじつ恋文なのだとわかった。気落ちしたおのれに気づいて、けれど喜々須は笑みを浮かべる。
「急ぎですか」
「あゝ、夕方までにはな」
 百舌は喜々須に銭を握らせた。二十文もある。喜々須は書状をふところに大事にしまい、銭を銭差に通し、桶の水を捨てた。
「いますぐ行ってきやす」
 匕首を腰に差した。かたかたと鞘鳴りした。

 峠をふつうに下るだけで半刻はんときかかる。喜々須は転げぬよう気を張りつつ駈けおりた。
 ゆく手の木がゆれて、だらんとぶらさがる男の上半身。ひっと喜々須は後ずさり、しかし次の瞬間にはあきれて、そいつの横を素通りした。
「なんだ、もっと驚け」
 夷虎だ。人を驚かすためだけにそこまでするなんて、てんで物狂いとしか思えない。喜々須は無視して、ずんずんと道なき道をくだった。夷虎はくっついてきた。喜々須は歩調を速めた。匕首がかたかたと騒ぐ。夷虎がいう。
「うるせえな。鞘が合わねえんじゃねえか」
「銀鴟のお頭にもらったときにゃこうだったんだ」
「あゝ、お頭は傷モンしか寄こさねえよ。そういう人だ」
 喜々須はさらに速度をあげた。「ついてくんじゃねえ」
「そんなにくな。転ぶぜ」
 直後、喜々須は木の根に足をとられた。受身をとらんとしたひじを引く強い手。喜々須は半端な姿勢で転んだ。肘をつかんだ夷虎も道づれになった。もつれあって斜面を転げる。夷虎が左の手脚をつっぱらせ、横滑りして止まった。っかぶさる男、見おろす炯々けいけいたる目――滲む肉欲。喜々須は相手の股間を膝蹴りした。呻く夷虎を突き飛ばす。筋をおかしくしたのか、右手が痛い。喜々須は走った。
「待てぇ」
 男の怒声が迫る。腰の物がかたかたと鳴る。喜々須は匕首に手をやった。森で殺せば隠すのも楽だ。だが右手に力が入らず、匕首の柄がすり抜けた。切先がさくりと木の根に刺さる。
 夷虎の手が右腕をねじり、喜々須を木の幹に押しつけた。悲鳴が掠れた。
「そんなにおれが殺してえか」
「邪魔するなら、誰でも殺す」
 喜々須はいった。男は鼻で笑った。
「おめえはつくづく山賊向きだぁな。そういうなぁ嫌いじゃねえ」
「おれはあんたが嫌いだ」
「おれだっておめえは好きじゃねえさ。ちぃっともかわいげがなくてよ」
 どすり、眼前の幹に匕首が突き刺さった。喜々須は目を剝いた。尻に当たる硬い魔羅。
勘弁かんべんしてくれ。百舌の兄ぃに用を頼まれてるんだ。由井ゆいはままで歩かにゃなんねえ」
「おれが代わりに行ってやるよ」
 喜々須の袴をいて、男は褌に手をかける。喜々須は苦しまぎれにいう。
「く、口でするから。尻だけは勘弁してくれ」
 考える沈黙があった。「こっち向け」
 振りかえった喜々須を、夷虎は肩を押してひざまずかせた。ふんぞりかえった赤黒い魔羅。頸筋くびすじに当たる刃の冷たさ。
「咬んだら死ぬぜ」
 夷虎のしたり顔。腹立ちをこらえつつ、喜々須はくわえた。小便臭さに吐きそうになる。夷虎はにやにやと見おろした。やけくそで咬み切ってやろうかと考えたが、それを読んだかに刃が頸筋を押してくる。喜々須は心を殺し、舌を使った。苦い液がぬめぬめと口じゅうに満ちる。顎を滴るつばき。頭上の荒い息。どんな顔してやがるのかと見あげた。目と目がちあった。潤んだ双眸そうぼう、赤らんだまぶち、きつく寄せた眉根。腹の底がざわついて、喜々須は目を伏せた。
 やにわに突き飛ばされた。夷虎の手が喜々須の褌をはぐ。おい、と喜々須は声をあげた。
「やっぱり尻がいい」
 硬いままの魔羅が、尻にめりめりと食いこんだ。喜々須は奥歯を食いしばった。男の腰が激しく律を刻む。背後のけだものじみた息、おのれの尻を打つ男の下腹、躰の奥をえぐる熱のかたまり。気味が悪い、苦しい、痛い。
「でっけえくそしてるみてえだな」
「じゃあ、おめえは糞じゃねえか」
「あゞ? 萎えるこというな」
「そっちが先に糞って……」
 最奥を突きあげられて、息が詰まった。
「いいかよ」
 夷虎の声に、喜々須はかぶりを振る。喜々須の魔羅を、男の手が掴む。
「いいんじゃねえか」
 いやで嫌でたまらないのに、腰がひとりでにゆすれて、魔羅が起ちあがり、あまつさえ濡れそぼる。喜々須はおのれの躰を憎む。あゝ、母親の血にちげえねえ。いや、父親てておやもだろうか。どうせ、どっかの好者すきモンに決まってら。喜々須はおのれをあざ笑う。
 そういえば、母親の男に魔羅を吸われたことがあった。母親の男たちは喜々須に手をあげる者も多かったなか、その男は優しかった。けれど、魔羅を吸われるのは嫌だと幼心おさなごころに感じた。意を決して母親に訴えた。そんな話はききたかないよ、と母親はいった。喜々須はそれきり口をつぐんだ。その男は、いつしか来なくなった。
 こんなのは、たいしたことじゃねえ、と喜々須は思った。全然、たいしたことじゃねえ。怒涛のごとき激しさに喜々須は身をゆだね、考えるのをやめる。
 男がしがみついてきて、奥に熱いものがほとばしる。喜々須は目をつむる。すさまじい腕の力。いっそ絞め殺してくれりゃ、と思う。夷虎は息を整えると、喜々須を投げだす。喜々須は横倒しになって、丸く小さくなる。すっかり緩んだ尻の穴から、ぬるい精があふれてつたう。喜々須は震えて、夷虎を睨む。男の気怠い目つき。喜々須は何かを読みとろうとする。
「誰にもいうな。お頭に知れたら、おれもおめえも半殺しだ」
 夷虎は褌を締めなおして行ってしまう。木の幹に突き刺さった匕首。空ろな気持ちになって、喜々須は死んだように瞼を閉ざす。

 鞘鳴りする匕首。口中こうちゅうの不味さと、尻の鈍痛。喜々須はしかめつらで、大町おおまち人込ひとごみを縫った。代わりに行ってやるなんて口先だけだ。夷虎のくそたわけ。
 水無瀬川は由井の浜へそそぐ狭い川だった。道行く者に尋ねたところ、浜ヶ橋は河口寄りの橋らしい。喜々須は川沿いに海をめざした。
「鵺、か」
 といったら得体の知れぬ、掴みどころのない者のことだ。自称なのか、通称なのか。どちらにせよ、一癖ありそうな女に思えた。しかし百舌の兄ぃが惚れるのだ、美貌なのにはちげえねえ。
 川に潮の香が濃くなった。あの板橋が浜ヶ橋だろうか。道端で話しこむ海女あまどもに、喜々須は声をかけた。
「もし。ここいらに、鵺って女の家がねえでしょうか」
 二人の海女はうろんな目を向けた。
「あのあばずれかい。あんたみたいなわらべが、なんの用だね」
「とあるお方から預かったものがありまして、届けたいんですよ」
「よしな。とって食われちまうよ」
「そうだ、あたしらが代わりに届けてやるよ」
 別の海女は目を輝かせた。下世話な興味が丸だしだ。書状を窃視ぬすみみされるかもしれない。喜々須は苛立ったが、それはおくびにもださず笑った。
「いえ。これがおれの仕事なもんで、よそさまのお手をわずらわせるわけには。どの家でしょうか」
 初めの海女は軽侮を滲ませた。「あの小屋さ。朝な夕な、いろんな男が通うて来る。さっきも男が入ってったよ」
 対岸の河原に、ぽつんと離れて小屋があった。喜々須は礼をいって、橋を渡った。鵺はおれの母親みたいな女なのか……。喜々須は気が重くなった。
 小屋のまえで耳をすませたが、何もきこえなかった。喜々須は控えめに戸を叩いた。
もうし申し。鵺のかたのお住まいは、こちらでまちがいねえでしょうか」
 荒っぽい気配がして、戸が勢いよくひらいた。立ちふさがる大男の、黄金色こがねいろの双眸。喜々須は口をあけた。
「……お、お頭?」
 銀鴟はにやりと笑った。「やっぱり、おめえか。へえれ」
 窓から差す薄日。男髷おとこまげを結った女が座している。白拍子だろうか。見たところ、銀鴟よりも年増に映った。長四角の盤を見おろし、長い指で枡目の駒を動かす。鳳凰丶丶を進めて、を拾いあげた。
「おいおいおい、そりゃないぜ」
 ことばと裏腹に、銀鴟がよろこんでいるのがわかった。惚れた女にはこんな顔をするのか。男たちがみついだのだろうか。まるでお公家くげの姫君のような、うるし螺鈿らでんの所帯道具。
「それで、あんたはなんなのさ」
 女――鵺は盤から目を離さず、口をきいた。喜々須はわれに返った。
「失敬を。喜々須と申す。百舌の兄ぃから預かってきやした」
 喜々須が差しだす書状を、鵺は一瞥した。濃いまつ毛、小づくりな鼻と、への字の口。美貌……というほどではない。ただ愛敬あいきょうと、妙なつやがある。
「そこに置いておくんな」
「すぐ目を通してくだせえ。百舌の兄ぃは急ぎだと」
「どれ」
 銀鴟の手が書状を奪った。お頭相手に逆らうこともできず、喜々須はおろおろと見あげるばかりだった。
「松が根のまつほの浦に朝なぎに玉藻かりつつ夕なぎに藻塩やきつつ海人あまをとめ丶丶丶身もこがれると見るまでにからき恋をも我れはぞふる……なんだこりゃ」
 銀鴟はばか笑いして、書状を投げた。鵺の醒めた顔つき。
「口のうまい男なんて、あてになるもんかね」
「けど!」
 喜々須は叫んでいた。鵺が初めてまともにこちらを見た。小鹿色こじかいろの澄んだまなこ、眼差まなざしの強さにたじろぐ。
「けど、なんだい」
 喜々須は書状を拾いあげ、ぴんと張ってみせた。「見てくだせえ、きちんとしたでしょう。たしかに、ことばではなんとでもいえる。けど、まこと丶丶丶はこういうところにあらわれる。そうは思いやせんか」
 鵺は、ふっと唇をゆがめたかと思うと、大笑いした。少女おとめのように明るく響く声。あんがい若いのだろうか。
「喜々須といったね。それを読んできかせておくんな。わっちは目がよくないのさ」
 喜々須は咳払いして、書状の続きを音読した。
「かまくらの峠は月あかるく鹿の妻をふる声あはれしき。みなのせ川のほとりにも同じ月ありなんと思ひける。安貞あんてい三年なんぢと見し月を思ひはべり。あゝ、なんぢの清きかんばせを拝みそうらへば、わが心の月は晴れ身の垢さへ消えはてぬ」
 鵺は声をあげて笑った。この女の笑うのを、もっとききたい。女人にょにんに対し、そんな思いに駈られたのは初めてだった。
「ったく、よくもこう気障りなことをつらつらと」
 銀鴟は吐き捨てて、天狗丶丶の駒を打った。

 灯火皿の火。銀鴟の膝のうえ、お日羽が身悶えた。お日羽の口を牙良が吸い、お日羽の魔羅を百舌がしゃぶっていた。肉色のどもえ
 十一は一心にお日羽を見つめていた。お日羽が顔をゆがめるとき、まるでわが身のことのように十一も顔をしかめる。ここの誰もが十一の思いは察している。十一の懊悩おうのうを、銀鴟は一興いっきょうほどに見ているふうだ。この人は十一の兄ぃが嫌いなのだろうか? その暗い黄金色の目は底知れなかった。
「十一。おめえも混ざりてえか」
 銀鴟があざけった。十一は表情を硬くした。
「いえ」
「瘦せ我慢するな。これが欲しいんだろう」
 銀鴟はお日羽の顎を掴んで、十一へと向けた。うすくれないに上気した細面ほそおもては、どんな女よりもなまめかしくあえいでいる。十一は目を伏せた。
「お頭には、兄弟はいなかったのですか」
 銀鴟の眉がぴくりと動いた。「いゝや」
「おれにとっちゃ天翰てんかんは弟みてえなもんです。弟に手ぇつける兄などありゃしません。そうでしょう」
 銀鴟はにやりと笑った。「きいたか、お日羽。十一はおめえなんか抱きたくねえとよ。残念だったな」
 お日羽は泣きだしそうに顔をゆがめた。十一はまなじりが皺むほどきつく目瞑めつむった。銀鴟はくっくと笑って、膝のうえの美童をゆさぶった。お日羽は嬌声をあげて、左目から涙を流した。
 
 峠の草木そうもくがはだらに紅葉もみじして、赤い蜻蜓あきつがてんでに群れた。沢のせせらぎをききつつ、喜々須は刃の背で鍋の焦げつきをぢんぢんと削った。匕首は鞘鳴りこそすれ、刃と柄の造りはきちんとしており、喜々須は重宝ちょうほうしていた。
「喜々須。外側の焦げは落とさなくていい。鍋が長持ちするんだ」
 十一がいった。へい、と喜々須は返事して、鍋の内側の焦げつきにとりかかった。一緒にいても、この兄貴分はめったに口をひらかない。初めは落ちつかなかったものの、べつに不機嫌や好悪こうおからの沈黙ではないとわかってからは、むしろ楽だった。
 十一が洗うのは、烏帽子の三人の銚子ちょうしさかずきだ。粗相そそうがあれば、殴られる程度では済まない。洗い終えたそれを桶に並べるのは、かたわらのお日羽だった。十一はふやけた指をお日羽に見せる。手だけじじいだ、と。お日羽が笑う。このとりこが笑みを見せる相手は、十一だけだ。
「十一の兄ぃは、お日羽の姐さんをい忍んでいるのでしょう」
 十一は銀鴟の銚子をとり落としかけた。喜々須は噴きだしそうになった。
「あゝ、その顔は図星ですね。お日羽の姐さんも、満更じゃねえんだ」
「何がいいたい」
「いいんですか、姐さんを好き勝手にされていて」
 ぐっと十一は歯を食いしばった。目が殺気立つ。
「のう、喜々須どの。あまり十一どのを困らせるな」
 お日羽がとりなした。無茶をいっている自覚はあった。十一に対する同情よりは、この直属の兄貴分の技倆うでを見てやれという気分だった。
「烏帽子を戴けばいいんでさ。一人前になりゃあ、お頭たちも十一の兄ぃを無下にはしがてえでしょう」
「烏帽子を」
 銀鴟の銚子を慎重にゆすぎつつ、十一の横顔は考えているふうだった。子分に請われて、あの三人が快く烏帽子親になるとは思えない。さあ、どうする兄ぃ? 喜々須は鍋の内の焦げつきをぢんぢんと削った。

「お頭、おねげえがござります」
 夜の宴が始まってまもなく、銀鴟に向かって十一は手をついた。傍らでお日羽も手をつく。そら来た、と喜々須は思った。
 銀鴟は眉を動かして、盃を呷った。「なんだ」
「おれと呑み較べしてくだせえ。もし、おれが勝ったら、そこの天翰を頂戴したい」
 山賊どもがばか笑いした。百舌がいう。
「なんだ、その坊主を女房にでもしようってか」
「へい。そうしようと思っておりやす」
 十一は至極大まじめだ。山賊どもは、またばか笑いした。いくら美貌とはいえ、お日羽は男だ。乳もなけりゃ、子もはらまぬ。それをめとろうなんてのは、まったく烏滸おこの沙汰だ。けれど、だからこそまこと丶丶丶だ、と喜々須は思った。おもしれえ。
「もし、おめえが負けたら、そのときはてめえでそいつの首をねろ。それなら勝負してやる」
 けだもののごとく銀鴟は笑った。十一はお日羽をかえりみた。お日羽は、ただ頷いた。
「ふん、そいつのほうがはらが据わってら。おい、夷虎、喜々須、甕ごと持ってこい」
 夷虎と喜々須は先を争って表手へでた。納屋の酒甕から、一口いっこうずつかかえる。夷虎がいう。
「なあ、おめえはどっちに賭ける?」
「ばか。賭けたのがばれたら、袋叩きだぞ」
 夷虎の炯々たる目。この男がそばに来るだけで身の毛が弥立よだちそうだった。喜々須は歩を速めて、小屋の土間にでんと甕を置いた。甕の封を剝ぐ。やや遅れて、夷虎もそうした。
 喜々須は柄杓で酒をみ、銚子にいでならべた。百舌が銀鴟に、牙良が十一に酒をつぐ。両者は一息に呷った。夷虎が声を張る。
「ひとぉつ」
 お日羽は十一の背に手を置いて、小声で読経した。呑みほす合間に、十一もぶつぶつと経らしきものをつぶやいた。山賊が仏にすがるなんざお笑いぐさだ。殺生せっしょう偸盗ちゅうとう・邪淫・飲酒おんじゅ・妄語・邪見……阿鼻あび獄入りはまぬがれぬ身だ。
「……八十七、八十八、八十九……」
 銀鴟は薄い唇に薄笑いを貼りつけて、淡々と呑んだ。この男が酒にあからむのを見たことがない。けれど、いくら酔ってないふうでも、そんなのは見かけだけのことだ。いつか酒屋の老番頭がいっていた。酒豪だといわりょうやつぁ、みな死んだ、と。これは毒の水だ。いっときのたかぶりとひきかえに、寿命をきっちりぎとるのだ。柄杓の酒を銚子に注ぎつつ、喜々須はその甘い毒を嗅いだ。
「……百六、百七、百八……」
「あゝ、まどろっこしい。盃はやめだ」
 銀鴟は喜々須から柄杓を奪い、甕からじかに呑んだ。十一も水甕の柄杓をとってきて、銀鴟にならった。喜々須は阿呆のように座って、酒をかっくらう男ふたりを眺めた。
「……百二十十……」
 牙良の頓狂とんきょうな声。「ひゃくにじゅうじゅう?」
「百から上の数ぁわかりやせん」
 ふてぶてしくのたまう夷虎を、牙良がはたいた。
「このうつけ、真剣勝負だぞ。喜々須、勘定を代われ」
 へい、と喜々須は前へでた。「……百三十、百三十一、百三十二……」
 銀鴟も、十一も、衣まで酒を吸ってどろどろだ。一方、読経するお日羽の涼やかな細面。おのれの命が懸かっているというのに。仏が救ってくれるとでも思っているのか。
「……百十二、二百十三、二百十四……」
「おい、次の甕を持ってこい」
 残りわずかな甕を傾けて、銀鴟が拳で口をぬぐった。喜々須と夷虎はまた納屋へ走った。
「おれは十一に賭ける」
 意外だった。夷虎は十一を毛嫌いしているはずだ。夷虎は八重歯を覗かせる。
「十一にはお日羽がついてる。お日羽には仏がついてる」
 喜々須は笑殺しょうさつした。山賊の分際で、仏を信じるなんざ烏滸の極みだ。夷虎はいう。
「もし十一が勝ったら、しゃぶってくれ」
 考えるだけで嘔気はきけをおぼえた。「やなこった。おれは賭けねえぞ」
「もしお頭が勝ったら、おめえはおれにしてほしいこたぁねえのか」
「おれのそばに二度と寄るな」
「ほんに、おめえはかわいくねえやつだな」
 苦笑した声だった。喜々須はふりかえらず甕を運んだ。鼓動がわずかにせわしく、けれど酒甕の重さのせいだと思った。
「……三百三十四、三百三十五、三百三十六……」
 喜々須は淡々と勘定した。ときおり外へ小便を垂れにいくほかは銀鴟も十一も、ただ酌んでは呑んだ。お日羽の読経は続いた。百舌と牙良はまじろぎもせず、夷虎は空いた甕から酒をちょろまかして舐めた。
「……四百五十九」
 柄杓の酒を呑みほしながら、銀鴟の頭が傾いだ。白目をむいて、すとんと尻餅をついた。あゝゝ、と喜々須は思わず声をあげた。
「銀鴟!」
 百舌と牙良が叫んだ。助け起こそうとする二人を、銀鴟はうるさそうに払った。
「畜生め」
 銀鴟はくっくと笑った。十一とお日羽は手をついた。
「お頭。約束です。天翰を頂戴します」
「畜生め」銀鴟は大きな手で、おのれの顔を撫でた。「よし、おれがおめえの烏帽子親んなってやる。ついでに祝言もあげちまえ」
 十一はぱっとおもてをあげた。
「ただし、お日羽を逃がすんじゃねえぞ。そいつは知りすぎてる。二度とよそで暮らせねえようにするんだ。それだけは譲れねえ」けだものの笑み。「おい百舌、そいつの背に入墨すみを彫れ。淫慾丶丶魔羅丶丶観世音丶丶丶とな」
 十一の顔がゆがんだ。お日羽は大きく息をした。あゝ、と喜々須は思った。十一は呑み較べには勝った。だが、この勝負を制したのは……。銀鴟は腕枕して、満足げに目をつむった。
 
 霧の水無瀬川の浜ヶ橋を渡り、喜々須は河原の小屋の戸を叩いた。「鵺御前ごぜん、喜々須でござります」
へえれ」
 男の声がした。喜々須はしずしずと戸をあけた。やはり銀鴟だった。長四角の双六盤ごしに鵺と向きあう。銀鴟は眉間を皺めてぶつぶついう。追い詰められているようだ。鵺は喜々須に頬笑んで、座を立った。
「よく来たね。貰いもんの十字むしもちがあるんだ。食べるかい」
 銀鴟が睨む。「勝負の途中だぞ」
「いいじゃないか。どうせ、あんたの負けさ」
 へい、ごちそうになりやす、と喜々須は笑った。あれから、この女人は何くれとなく善くしてくれる。たぶん、ほんのわらべだと思っているのだろう。悪い気はしなかった。喜々須は懐を探り、書状ふみを見せた。
「百舌の兄ぃから預かってきやした」
「読んできかせとくれな」
 十字餅を盛った折敷おしきと水の椀を置きつつ、鵺は少女おとめのようにねだる。明るい双眸。喜々須ははきはきと読みあげた。このあいだの呑み較べの顛末を(ところどころぼかしつつ)おもしろおかしく書いたものだった。銀鴟がひっくり返ったくだりで、鵺は声をあげて笑った。
わっぱに負けちゃあ形無かたなしだぁね、鵠丸くぐいまる
「その名で呼ぶなといったろう」
 銀鴟は苦りきった顔つき。山賊なんて因果な商売であるから、かりそめの名がいくつあってもおかしくはない。ただ、鵠丸丶丶という名は初めてきいた。銀鴟が死んでも使いそうにない名だ。
「その十一という男子おのこは、そのあとどうしたんだい」
 小鹿色の目。鵺はお頭の縁者かもしれねえ、と思った。姉か、従姉か。喜々須は十字餅にかぶりついた。麦粉を蒸した柔らかな生地、嚙みしめるとほのかに甘い。
「お日羽の姐さんに、しこたま苦い薬を呑まされてましたよ。ありゃあ尻に敷かれるでしょうね」
「ふゝ、女房が仕切ったほうがうまくいくもんさ。元服と祝言はもうすんだのかい」
「あゝ、蒼鴞そうきょうと名をやった」
「ずいぶん大仰おおぎょうな名じゃないか」
 銀鴟は盃に酒をついだ。蒼鴞――蒼いふくろう。おそらく銀鴟は、十一を腹心にする気でいる。
「あいつは使える。目立たずに動き、めっぽう利口で、おまけに忠実ときてる」
「跡を継がせるのかい」
 銀鴟は一息で呑みほした。「あいつはかしらにゃ向かねえ。つい仏ごころを起こして、寝首を掻かれるクチさ」
「なら、誰が継ぐんだい」
 次の頭に誰がふさわしいか? あの十一が向かないというならば、夷虎などいわんやだ。それならば……喜々須は息を凝らした。黄金色の目が、こちらをすがめた。十字餅が喉につかえて、喜々須は椀の水を含んだ。
「継げるやつがいねえ。おれ一代で終いだ」
 喜々須は十字餅を嚙みちぎった。おれなら、きっとやってみせる! 誰よりも強く、誰よりも抜け目なく――だが、このみっとみもねえおれに、人がついてくるか? 何よりも見目みめってえのが大事だ。銀鴟のお頭のようなでっけえ躰と、ひと睨みで人を黙らせる胆力がなきゃなんねえ。
「銀鴟のお頭。どうしたらお頭みたいにでっかくなれますかね」
 水無瀬川からの帰り、大町の往来で喜々須は尋ねた。銀鴟はきょうがった顔で、喜々須の手をとった。吟味するかに指をひろげてなぞる。
「おめえは手がでけえから、たぶん育つだろう」
「ほんとうに?」
「肉を食え。おれは猪を食ってでかくなった……あゝ、そうだ。いいことを教えてやる。どんな強情なやつでもへし折る方法だ」
「どんな方法で」
「そいつの指でも耳でも、頬の肉でもいい、ぎとって食ってやるのさ。どんなタマでも縮みあがる」
 夢見るけだものの笑み。喜々須はぞっと胆を冷やした。丈六尺に届きそうな銀鴟が行くと、おのずと人は道を譲った。喜々須はおのれの手を眺めた。銀鴟の太い指の手ざわりを反芻しつつ、男の広い背中を追う。
「お頭にも、こええモンてあるんですかい」
「あゝ、幽鬼だ」
 喜々須は拍子抜けした。なんだ、そんなあたりまえのものがこわいのか。「いままでに殺した……?」
「おれに殺されるよええやつぁ、死んでもてえしたことねえさ。そうじゃねえ。あの峠にいる、でっけえ黒い幽鬼さ」
「どこにいるんです?」
「おめえにゃ見えねえんだな。まだまだ業が浅い証左だ」
「悪事を重ねて、業が深くなったら見えちまうんですか」
「……あれは、見えねえほうがいい」
 黄金色の双眸の、一瞬の怯えの色。人を食う銀鴟をも恐れさせる幽鬼――喜々須はつとめて思い浮かべぬよう、今晩つくる飯のことを必死に考えた。
 
 冬が来るまえに、夫婦めおととなった十一とお日羽は山賊どもの根城をでた。人ふたりがいなくなり、小屋は妙にがらんと広く感じられた。夜ごとの淫らな宴もなくなり、喜々須はほっとしたものの、夷虎は不満顔だった。
「くそ、つまんねえ。あんな上物丶丶ぁ、滅多ないんだぜ」
 悪かったな、上物じゃなくて。喜々須は内心で吐き捨てた。
「なあ、覗きにいかねえか」
 にたりと下卑た笑みを夷虎は浮かべた。気は進まなかったが、喜々須はついていった。
 山賊どもの根城から歩いて四半刻、夫婦めおとのために牙良がもうけた新たな小屋は、狭いながらも戸がつき地板ゆかかれ、喜々須たちの掘建小屋よりよほど立派に見えた。そばに行くまえから、十一とお日羽の声がした。細くあいた格子窓の下に、喜々須と夷虎はしゃがんだ。
「そなたが女房になれというたから、私はこのような恰好を……」
女房丶丶になれとはいったが、ずっと女の恰好をしてろとはいってねえ」
女子おなごの衣しかくれぬではないか」
「男の着物がほしいなら、そういえ」
「十一は女子おなごがいいのだろう」
「女なんか知るか。おめえに竿ついてんなぁ承知で娶ったんだ。こっちゃあ毎晩おめえの裸ぁ拝まされて……」
「す、好きで見せたのではない」
「じゃあ、なんだ、嫌なのか。寺へけえるか」
「私に帰るところなどない。承知のくせに」
 お日羽の涙声。十一は黙りこんだ。夫婦喧嘩は犬も喰わねえや、と夷虎はささやいた。喜々須はつい、にやりとした。
「……すまねえ、天翰。房州にけえしてやりたかった」
 静かになった。夷虎が格子窓を覗きこんで、喜々須に手招きした。十一の烏帽子と背中。お日羽の衣の丹色の裾。かすかに笹鳴きのような音……おたがいの口を吸っているらしかった。喜々須は、えもいわれず胸が熱くたぎった。お日羽の丹色の衣が、とさりと落ちた。白い背のあおぐろ入墨すみの色。
「……こんな躰を……」
「……何もいうな。……あゝ、きれいだ……」
「……十一、十一……」
 お日羽の泣いているような声。きいているだけで狂おしくなる。
 夷虎がぐっと肩を押して、喜々須は膝をついた。顔に押し当てられる袴の股間。夷虎は袴と褌を解いた。濡れた赤黒い魔羅。喜々須は顔を背けた。李子すもも大のかりが、ぬるりと頬を滑る。
「……しゃぶれ。賭けに勝ったろ」
「……おれは賭けてない」
「……二度と寄るなといったじゃねえか」
「……あれは」
 その場の勢い、言葉のあや。だが、ここで下手に抗えば、十一に気づかれる。十一は銀鴟に告げ口するに決まっている。おとなしくしゃぶれば、それで済む。
 夷虎の魔羅を片手でうつむかせ、小便臭いかりを喜々須は舐めてから、ぺっとつばきを吐いた。「……てめえの持ちモンくらい洗っとけ」
 かっと夷虎は睨んだ。が、喜々須がくわえこむと、目つきがとろけた。喜々須は音を立てぬよう、ことさらゆっくりとしゃぶった。滲みでる苦い液、上顎を滑る雁。夷虎は口をあけて、息だけで喘いだ。染まったまぶちと、ふくらんだ小鼻。とんだまぬけづらだ。魔羅をしゃぶるのはともかく、相手を思うように嬲るのは嫌いじゃねえ、と思った。
 ときおり喜々須のまげを掴んで制し、秋の天を夷虎は仰いだ。時間稼ぎだ。さっさといっちまえよ、めんどくせえ。雁首かりくびに軽く歯を立ててしごいた。
 まえぶれなく精が口にあふれた。髷を掴んで、夷虎がささやく。
「……呑め」
 ためらいつつも、呑みくだした。生ぬるい精。ぐにぐにぐに、と腹が奇妙に鳴った。あゝ、あとで具合が悪くなりそうだ。
 夷虎はさっさと褌を締め、袴の紐を縛った。
「……あゝ、すっとした。また頼むぜ」
 去っていく夷虎の尻。むらむらと腹が立ってきた。どうしておれが、おめえの腐れ魔羅の世話しなきゃなんねえんだ。惚れてもいねえのに! 格子窓のむこう、十一とお日羽はまだ戯れている様子だったが、もう夫婦めおと秘事ひめごとを覗きたい気分ではなかった。喜々須は籔を抜け、沢へ急いだ。痛いほど硬くなった魔羅。あゝ、腹が立つ! 通りすぎしなに藪の山女あけびの実をむしりとり、割って果肉を頬ばった。甘いはずのそれが、きょうは不味かった。くそ、あん畜生め! 喜々須は藪に種を噴いた。
 
 沢で身を清めた。夏でも冷たい水は、秋はなおのことだ。喜々須は震えながら、根城の小屋へ戻った。
 烏帽子の三人、牙良と百舌と銀鴟が揃い踏みだった。牙良と銀鴟は盃片手に小声で何やら話しこむ。銀鴟は畳の座で地図をひろげ、雅な漆塗の小刀を使っていた。足の厚い爪を器用に削ぐ。
「おい、爪が伸びてんじゃねえか」
 銀鴟がいった。喜々須は手足の爪を見やった。切ったのは、おとといだ。
「ここに来い」
 銀鴟は足のあいだを叩いた。まさか、お頭てずから手入れしてくれるというのか? 喜々須は首も手も振った。
「いえ、滅相もない。てめえでやりまさぁ」
「いいから来い」
 黄金色の目は有無をいわさなさなかった。牙良と百舌も話をやめて、こちらを凝視した。銀鴟の足のあいだに、喜々須はこわごわと腰を下ろした。背中に添う厚い胸ぐら。銀鴟が鼻を鳴らした。かと思うと、衿を引っぱられた。けだものじみた双眸、黄金色の目。あらゆる毛穴がひらいて、腹の底がすうっと冷えた。
「おめえ、におうぞ。相手は誰だ」
 心の臓が絞られて、唇がわなないた。呑まされた精がにおったのだろうか、沢の水でよくゆすいだのだが。
「十一か」
 喜々須はかぶりを振った。
「夷虎か」
 喜々須は否めず、身を縮こめた。
「おめえが望んだのか」
「……わかりやせん」
「わからねえ?」
「……初めは……無理やりやられたんでさ。けど……なんべんもやってるうちに、わからなくなりやした」
 目頭が熱くなって、余計なものが頬へこぼれてはすうっと冷えた。男たちの沈黙。銀鴟の手が動く。喜々須は奥歯を食いしばった。平手の一、二発は覚悟した。が、銀鴟は喜々須の踵を握った。小刀で爪を一枚いちまい整えてゆく。決して手荒ではなかったが、喜々須は生きた心地がしなかった。そいつの指でも耳でも、頬の肉でもいい、殺ぎとって食ってやるのさ――
 手の爪まで小ざっぱりと丸めたのち、銀鴟は銭差から数枚を喜々須に握らせた。
「それで遊んでこい。夕方までけえるな」
 へい、かたじけねえこってござんす、と喜々須は一礼し、小屋をでた。庭でへなへなとしゃがみこむ。いまさらに胸が轟く。殴られなかったことに安堵しつつも、喜々須はとても町で遊ぶ気にはなれなかった。
 
 腰の物が鞘鳴りした。大町の往来をぶらつきながら、喜々須は手のひらの銭を眺めた。六文。冥途の駄賃じゃあるめえし。
 大町には六斎市ろくさいいちがでていた。そういえば、八月やつき六日むいかか。地団駄で団子をねだる女童めわらべ。しょうがないな、と父親てておやは甘い顔をした。つい、舌打ちする。喜々須は母親にわがままなどいったことがなかった。何かをねだろうという考えが、そもそもなかった。母親の身勝手で奉公にだされて、酒屋の女房にいびられて、百舌の兄ぃに拾われて、夷虎にいいようにされて……なんでこんなんなっちまったんだ、おれぁ。
 団子売りに声をかけた。ひと包みおくんな。へい、まいど。六文が二文になる。誰かにねだらなくたって、いまのおれぁ好きなもんを買えるんだ、と思った。藁で縛った笹包み。あがなったはいいものの、団子など好きではなかったことを思いだした。団子ひとつで幾日も母親にほったらかされたことがあった。ろうのような団子を嚙めば嚙むほどひもじくなって……あゝ、いやだ嫌だ。
 耳をつんざく黄色い声。わらべらがほうきを馬に見立てて遊びに興じていた。あゝ、うるせえ。童らは篠竹で、よってたかって犬を打つ。灰色の犬は必死に唸るも、まりほどの矮軀わいくでは迫力のだしようがない。
「――ぅおらぁ! 小童こわっぱども、ねぇ」
 喜々須は腹からえた。きゃあ、と童らは箒を担いで逃げだした。
 灰色の犬は尾っぽを丸め、耳を伏せて喜々須に唸った。喜々須は笹の包みを剝いて地べたに置いた。
「ほら、やるよ。つい買っちまったけど、おれは食いたくねえ」
 犬はおっかなびっくり近づき、団子をくわえて喜々須からをとった。がつがつと頬ばる。喜々須は苦い思いで笑った。
「お頭に夕方までけえるなっていわれてさ。けど、六文ぽっちでどうやって遊べってんだよ。あの人ぁ見かけよりゃ情はあるんだが、ことに銭にはからいというか渋いというか。百舌の兄ぃなら気前よく二十文くれるんだろうが……っていっても、おめえはわかんねえよな……」
 犬が口をあけて、けっけっと苦しげに嘔気えずいた。
「おい!」
 喜々須は犬をふん捕まえて、口に指を突っこんだ。団子のかたまりをひきずりだす。息を吹きかえし、きゅんきゅんと犬は情けなく鳴いた。
「あゝ、悪かった。悪かったよ。泣くな」
 犬の背を撫でて、地べたへおろした。犬の涎を袴でぬぐって、喜々須はまたぶらぶらと歩きだした。
 ふと顧みると、灰色の犬がけていた。喜々須は手先を振った。
「もう団子はねえよ。行っちまいな」
 犬は首をかしげて、短いあしで追ってくる。喜々須は全力で走った。鞘が激しく鳴った。犬は見えなくなった。
 しばらく歩くと、足に何かがまとわりついた。ぎょっとした。むわむわとした灰色の毛玉、あの犬だった。舌を垂らして、尾っぽを振る。おいおいおい、と喜々須はぼやいた。
 それからは、いたちごっこだった。いくら走っても、どれだけこうとしても、犬は追いすがった。あゝ、どうしよう。こんなごくつぶしの駄犬。銀鴟のお頭にどやされちまう。夕日が山の端はにゆがんでいた。喜々須は観念し、暗い気分で峠を登った。犬も登った。
 小屋のまえで、喜々須は立ちつくした。ひっくり返った鍋、砕けた水甕、散らばった藁と草鞋。それから、顔じゅうを腫らした夷虎が転がって、べそべそと泣いていた。牙良と百舌と銀鴟は、そ知らぬていで呑んでいる。烏帽子を戴かぬ夷虎が色事に耽ったことが気に食わなかったのか、それとも仲間に手をつけたのがまずかったのか。銀鴟たちの怒りのありどころは掴みかねたものの、喜々須をいっさいとがめず、夷虎をとっちめてくれた。
「遅かったじゃねえか。なんだそりゃ」
 喜々須の足もとの犬に、百舌が目をとめた。犬は耳を伏せて尾を巻いた。
「その、団子をやったら懐かれちまって。どうも親とはぐれたらしくて……」
「それで?」
 銀鴟がうながす。喜々須はしどろもどろにいう。
「えっと……ほら、この小屋の番をさせたらどうかと。もともと野良だ、餌はてめえで見つけるでしょう」
「ほう?」
 銀鴟が顔を近づけても、犬は吠えなかった。銀鴟は笑って、太い指で犬の顎をこすった。
「いいつらだな。おめえは小鷂このりまるだ」
 烏帽子の大男を、犬――小鷂丸は不思議そうに見つめた。小太りの牙良がいう。
「おい、喜々須。片しておけ」
 へい、といった。喜々須は胸を震わせた。小鷂丸にまとわりつかれながら、水甕の欠けらを重ねて表手へ運んだ。地に虫の声、宵闇に星。天の川の濃い淀を仰いで、喜々須は誓った。
 おれぁ銀鴟のお頭についていく、おれかお頭が死ぬまで。
 
「嵐が来る」
 百舌がいった。だが、峠の小屋の外は雨雲どころか風すらなかった。小鷂丸ののみをとってやりながら、喜々須は首をかしげた。
「けど、青い空ですぜ」
 犬の腹を跳ねまわる蚤を、喜々須は親指と親指の爪の背で挟み殺した。硬すぎて指の腹では潰れないのだ。悪いものを除いてやっているのがわかるのか、小鷂丸はおとなしくしている。
「頭がいてえ。こういうときは嵐が来る」
 百舌は左目の傷を押さえた。銀鴟がいう。
「なら、まちがいねえ」
「鵺のところに行ってやらにゃ」
「おれが行く。おめえは来んな」
「意地を張るな。おめえひとりじゃ、まにあうめえよ」
 鵺の棲家は川辺だ。大雨が降れば氾濫しかねない。また、大風が吹けば小屋ごと飛ぶかもしれない。喜々須は口を挟む。
「おれも行きます」
 銀鴟と百舌が睨んだ。銀鴟がいう。
小童こわっぱぁ、そいつと小屋の番してろ」
「けど」
「この小屋は飛ばねえ。牙良の腕がいいからな」
 百舌の手が、喜々須の頭を撫でる。子供あつかいが歯がゆかった。
 道具箱を傍らに牙良が、急ごしらえで小屋に戸を設けた。開閉あけたてして建付たてつけを確かめる。引戸は滑らかに動いた。「まあ、こんなもんだろ」
 空は相変わらず晴れていた。喜々須は気が晴れなかった。牙良はいう。
「鵺の姐御あねごのこたぁ、あの二人に任せときゃ大丈夫でえじょうぶだ。せっかく犬がいるんだ。おめえはむば玉丶丶丶でも探しとけ」
 喜々須の膝に、小鷂丸が顎を乗せた。舌を垂らして、なんだか笑ったふうだ。喜々須は犬の額を掻いてやって、ようやく重い腰をあげた。
「いいか、この匂いだぞ」
 小鷂丸の鼻先に、喜々須は数粒のむば玉を差しだした。が、犬の薄っぺらい舌が残らずさらった。こらこらこら、と喜々須は鼻づらを押さえ、また新たにむば玉を見せた。
「こいつのってるところを探すんだ。そしたら、たらふく食わせてやる」
 小鷂丸はふんと鼻を鳴らして籔を進んだ。喜々須は追った。犬の歩みに迷いはなかった。
 日の当たる土手に栄えた芋のつる、ふくふくと実ったむば玉。でかした、と喜々須は犬の顔を揉んだ。小鷂丸は舌を垂らしてまった。喜々須は麻袋の口をひらいて、芋の蔓からむば玉を振り落とした。熟れた黒い玉はほろほろと蔓を離れた。喜々須の腕に、小鷂丸が前肢まえあしを乗っける。喜々須が差しだしたむば玉を、熱の舌がきれいにさらった。
「残りぁおあずけだ。こいつぁ飯に混ぜて炊いたらうまいんだぞ。おめえにも分け前をやるからな」
 喜々須は近くの木の幹に匕首で×の傷をつけた。もうひと月もすれば芋も採れるだろう。
 小鷂丸が唸った。がさがさと鳴る籔。喜々須は息を呑んだ。鼬か、狼か、猪か? 籔から垣間見える、人の肌色。吠えかかる小鷂丸。喜々須は低い声をだす。
「誰でぇ」
 おれだ、と声がした。覗いたのは夷虎だった。小鷂丸はしつこく吠えたてる。喜々須の憎悪を察しているかに。
「なあ、その畜生を黙らせろ」
「何をやってる」
 夷虎は死んだうずらをぶらさげた。「おめえと同じで、飯の種をな」
「むこうで勝手に探せ」
 喜々須は匕首を鞘に納め、籔を歩きだした。かたかたと鞘鳴りする。小鷂丸が従う。背後から籔を掻きわける気配。小鷂丸が吠えた。喜々須は歩を速めた。
「ついてくんじゃねえっ」
 腹立ちまぎれに振りむく。夷虎が佇んでいるのは、うんと遠くの籔だった……じゃあ、いまこの籔を鳴らしているのは、なんだ?
 ざざざざざざざざざぁっ、と尋常ではない早さでそれが籔を駈けまわった。北へざざざざざざざざざぁっ、西へざざざざざざざざざぁっ、南へざざざざざざざざざぁっ。……あゝ、この世のモンじゃねえ。
 あの峠にいる、でっけえ黒い幽鬼さ――銀鴟の声が蘇った。
 躰じゅうの毛穴がひらいて、冷たい汗が噴きだした。いまにも正気を失いそうだ。小鷂丸が狂ったかに吠えたてた。
 夷虎が籔を鳴らして迫り、合掌して唱えた。念彼観音力念彼観音力念彼観音力。この世の者ならざる気配は、変わらず籔なかを走っていた。夷虎はまた唱えた。念彼観音力念彼観音力念彼観音力念彼観音力念彼観音力念彼観音力彼観音力。唐突に籔が静まりかえった。小鷂丸も黙った。夷虎は息をついた。
「……あゝ、七へんで消えてくれてよかった」
「……なんなんだ?」
 ようやっと喜々須は口を利いた。夷虎は八重歯を見せた。
「お頭に教わったのさ。山で怪しいモンに遭ったら、念彼ねんぴ観音力かんのんりきと三べん唱えろ、それでだめなら七へん唱えろ、ってさ」
「七へん唱えてもだめだったら?」
「さあな」夷虎は首を振って、笑った。「あゝ見えて、銀鴟のお頭は寺稚児だったんだと。百舌の兄ぃは坊主でさ。んで、ふたり手に手をとって駈落ちしたってんだから、人はわかんねえもんだよな」
 寺稚児? 坊主? 駈落ち? 喜々須は口をあけたきり何もいえなかった。夷虎はくっくと笑う。
「しかし、さっきのおめえの顔、見ものだったぞ」
 かっと来て、喜々須は麻袋でぶっ叩いた。「くたばれ、くそたわけっ」
 なんだよ、と夷虎は鼻を押さえた。「助けてやったのに、そりゃねえだろ」
 背を向けて喜々須はずんずんと籔を進んだ。背後で籔を掻きわける気配。ちらりと顧みると、こんどこそ夷虎で、ほっとした。ほっとしたことに腹が立ち、怒鳴った。
「寄んじゃねえ、この下郎っ」
 喜々須は歩みを早めた。腰の物が鞘鳴りする。小鷂丸もせわしくあしを動かした。ざあっと風に籔がさやいだ。喜々須の肩を、夷虎の手が掴んだ。振り払い、喜々須は拳を振った。腕をとられた。痛いほどに食いこむ指。もがく喜々須を籔の底へ転がし、夷虎は躰であっした。小鷂丸の吠え声。夷虎は舌打ちし、鶉を投げた。小鷂丸は食らいついた。喰い散らした羽が、ぶわりと天へ舞いあがる。炯々たる目で、男は笑った。精悍な顔も、ぶ厚い胸ぐらも、逞しい腕も、ずっと大人に思えた。おれのたった二つ上なだけなのに。くやしくて悔しくて、まなじりに涙が湧いた。
 濡れた目もとを、そっと指先がぬぐった。男は途方に暮れたふう。
「ちげえんだ、その……ただ、おめえが、女みてえな顔してやがるから……」
「あゞ?」
 声に怒気がこもった。顔のことだけはいわれたくない。夷虎が口ごもる。
「……けど、おめえは男だから、平気だとばかり……そんな、泣くほど嫌だとは……悪かった」
「許せるわけねえ。嫌に決まってら。気色わりいんだよっ」
 まるで傷ついた目をして、夷虎はそっと離れた。
「……そうだな……けど、悪かった」
 犬から鶉を分捕りかえして、夷虎は消えた。唸って吠える小鷂丸。このばか犬、と喜々須はつぶやいて、膝をかかえて丸くなった。一陣の勁風けいふうに籔がさやいだ。ほそい雨が峠の草木そうもくを打ちはじめた。
 
 沛然はいぜんたる雨と猛烈な風に、峠の掘建小屋が軋んだ。戸の隙から、ぬるい雨飛沫あめしぶき。あえてわずかに戸をあけて、内外の風の逃げ道をつくってあるのだ。さもなくば戸が破れてしまう。騒々しい音にひるがえる小鷂丸の耳。喜々須は思わずつぶやく。
「小屋が飛びそうだ」
「あゝ、戸がひらききりゃ飛ぶだろうな」なんでもなく牙良はいった。ちびちびと酒を呑む。「小便は甕にでも垂れろ」
 赤ん坊の手洗てあらいじゃあるめえし、と思った。夷虎がおずおずという。
「あの、くそはどうしたら」
「ひっこめろ」
 すげなく答えて牙良は盃を呑みほした。
 水無瀬川のほとりの小屋を喜々須は思った。鵺御前と銀鴟のお頭と百舌の兄ぃはどうしているだろう。
「牙良の兄ぃ。鵺の姐さんは、お頭の縁者なんでやしょう」
 喜々須は尋ねた。牙良は口をゆがめた。
「山賊に縁者などいるもんか。女房を娶るなんざ烏滸おこの沙汰だ」
 暗に十一のことをいっているのだろう。喜々須は口を噤んだ。
 強風、豪雨、家鳴り、風折かざおれ。激しい嵐は、しかし夜半よわになると鳴りをひそめた。梟の声。夷虎がいう。
「もう過ぎたか」
「いや」と牙良はいった。「過ぎたと見せかけて、戻ってきやがる。秋の嵐はそうだ。いまのうちくそしてこい」
 夷虎は戸を叩きあけ、矢のごとく飛びだした。牙良は苦笑い。喜々須は戸に手をかけ、表手へ踏みだした。粉のような雨。小鷂丸が袴にすり寄る。牙良がいう。
「おめえも糞か」
「小便ですよ」
「道草くうなよ」
 喜々須はただ頬笑んで、戸を半分しめた。小鷂丸が尾を振った。
 
 水無瀬川の水は濁って嵩を増し、浜ヶ橋は流されたのか見えなかった。喜々須は衣と袴を脱ぎ、畳んだそれを頭にのせて、慎重に腰の深さの川を渡りきった。ざっと滴を払って、衣を着こむ。小鷂丸がはしゃいで、濁った飛沫を撥ねかえす。ばか犬、とつぶやいて喜々須は犬の首を掻いてやった。
 小屋の引戸は、縄で幾重いくえにもくくられている。喜々須が声をかけるより先に、戸が大きくあいた。銀鴟は半裸だった。
「何しにきた」
「その、気がかりで」
「喜々須にあんじらりょうでは、おしまいさね」
 鵺の声に、百舌の笑いがかぶさる。みな無事だ。喜々須はなんともいえず心安らいだ。銀鴟は不機嫌を隠さなかったが、顎をしゃくった。
「来ちまったらしょうがねえ。へえれ」
 喜々須が濡れた草履を脱ごうとすると、百舌が制した。
「履いとけ。いつ流されるかわからねえ」
 銀鴟たちも草履を履いたままだった。喜々須は土足であがった。小鷂丸が身を振るって、毛皮の水を飛ばした。
「こいつぁ狼の血をひいているね」
 鵺がいった。灰色の毛、太い尾、尖った耳、黄色い目――あらためて見れば、たしかに犬よりは狼に似かよっている。鵺は犬の顎を掻いた。
「名は」
「小鷂丸でさ」
「ふゝ、鵠丸くぐいまるがつけたんだね」
「その名で呼ぶなといったろう」
 銀鴟が文句を垂れた。鵺は銀鴟と百舌と喜々須を見較べて、花のように笑まった。
「家に男がいるのはいいもんだね」
 鵺は男にひどい目に遭わされたことがないのだな、と喜々須は思った。おれの母親とは、ちがう。
 そうするうちに雨が太くなり、風に勢いが戻ってきた。銀鴟は縄をとった。風が引けば戸を引き戻し、風が寄せれば戸を肩で支える。それを限りなく繰り返す。銀鴟の肩に隆々と盛りあがる力瘤ちからこぶ。銀鴟がこれだけ骨を折るのは、やはり鵺が血を分けた姉ゆえだと思えた。百舌がいう。
「おい、代わるぞ」
「片目の出る幕じゃねえ」
「意地を張るな」
 喜々須は縄の端を拾った。銀鴟がいう。
わっぱはすっこんでな」
 喜々須はきかなかった。しっかりと縄を左手に巻いて、腰をおとして縄を引いた。銀鴟は一瞥したきり、何もいわなかった。風に吸いだされんとする戸をぐいぐいと引くと、でかい紙鳶いかのぼりでも揚げている気分だ。腕の付根が熱を持ち、湿ったぬるい風もあいまって、じわじわと腋が汗ばんでくる。
 百舌はのんきに酒をくらった。小鷂丸は鵺が気に入ったのか、膝に陣どってうとうとまどろんだ。ふてえやつだ、と喜々須は思った。
 
 鬼の咆哮のごとき風が、やがて屁ほどになり、朝の鳥が鳴いた。川辺の小屋は持ちこたえた。一晩じゅう働いた銀鴟と、一晩じゅう呑んだ百舌は眠りこんだ。ひぐまのごとき二人のいびき。
「鵺御前は、銀鴟のお頭の姉上なんでありやしょう?」
 鵺は笑まった。「わっちは親に産み捨てられてより天涯孤独の身さ。なぜそう思ったんだい」
 喜々須は返答に窮した。なんとなくそう感じたというだけのことで、確たる根拠など無いのだ。
鵠丸くぐいまるというのは、お頭の幼名では」
「鵠丸はわっちの赤子ややこさ。生きておれば、そこの二人の齢ほどにはなっているだろうね」
 羆のごとき銀鴟と百舌。目のまえの小がらな女は、せいぜい二十四、五にしか見えなかった。喜々須は弱りきった。
「……鵺御前は、いくつなんです」
「さあね。数えるのを忘れちまった」
 あゝ、だからなのか。喜々須はひとり得心した。
「鵠丸を思いだすねえ、あんたを見ていると。色白のかわいい子だった」
 小鹿色の双眸は、赤子ややこを慈しむかのようだ。喜々須は泣きたくなった。
「どうして手ばなしたのです」
「おのれが食べるので精いっぱいだったからね。いま思えば、まだ踏んばれたような気もするんだ。けど、そのときは、もうだめだと思った。それで、とある人にゆずったのさ。今はどこでどうしているやら。それでもね、鵠丸がどこかで幸せでいればいいと思うのさ。こんな母親でもね」
「……あゝ、うるせえ。寝てられねえじゃねえか」
 銀鴟がぼやいて、裸の胸をぼりぼりと掻いた。百舌がくっくと笑った。
 
 〝梟〟一味を抜ける、と百舌がいいだしたのは、それからまもなくだった。峠の小屋には、夕餉ゆうげ猪鍋ししなべの匂いが満ちていた。一同はあっけにとられ、黙りこんだ。銀鴟は渋い顔。
「やめて、どうする」
「所帯を持つのさ」
「鵺とか」
 百舌は答えなかった。それが答えだった。銀鴟の眉間の皺が深まった。
「そこに直れ」
 百舌は歯を食いしばり、腹に力を入れた。銀鴟の平手が飛んだ。乾いた音が鳴り、百舌はひっくり返った。転がる烏帽子。兄ぃ! と喜々須は声をあげた。
「……あゝ、いてえ。もうおしめえか?」
 百舌は左頬を撫でた。銀鴟は座を立った。
「胸糞わりい。おれはでかける。飯はいらねえ」
 銀鴟は銚子をさげて戸をあけ、叩きしめた。夷虎が安堵の息をつく。肉を椀によそいながら、牙良がいう。
「あれだけで済んでよかったな。飯がなくなるかと思ったぞ」
 百舌は呵々かかと笑って、椀を受けとった。「まったくだ」
 その夜、喜々須は横になりながら、ずっと耳をすませて待っていたが、銀鴟は帰らなかった。銀鴟の気持ちが、喜々須はわかる気がした。百舌の兄ぃがいなくなる。そうと思うと胸にがらんと風穴があいたようだった。
 明方、起きぬけの百舌に話があると誘いだした。晩秋の朝の沢、白くなった息に朝日が透きとおった。喜々須は寒さと緊張に震えつつ、百舌の胸ばかり見ながら、どうにか口にした。
「……あの、おれ、おれぁ、百舌の兄ぃが……好きでさ。惚れやした。その……最後に、どうか、お、思い出を……」
「おめえが好きなのは、おれじゃねえさ。おめえは銀鴟ばっかり気にしてんじゃねえか」
「……え」
 見あげた喜々須を、大きな手が撫でた。びんのほつれを、そっと掬いあげる。男の右のまなじりが、やさしく浅く皺む。
「あいつぁな、難しいぞ。まともに相手したら身が持たねえ。地獄にともに堕ちる覚悟があるなら、止めやしねえが」
 この人がお頭と駈落ちしたという話は、ほんとうなのだ。片目の男は、穏やかに抱きすくめてきた。
「……あゝ、おめえはどこか、昔のあいつに似てる。だから、つい拾っちまったんだな、おれぁ」
 兄ぃ、とつぶやいて、喜々須はしがみついた。男のにおいを、胸いっぱいに吸った。
 百舌の肩ごし、籔に人影――夷虎の、なんともいえぬ顔つき。途方に暮れた迷子のような、かたきを憎んだ男のような。
 喜々須は目をつむって、百舌の頸に鼻をうずめた。
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20XX年。人間と人外は共存することとなった。そう、僕は朝のニュースで見て知った。 向こうが地球の平和と引き換えに、僕達の中から選んで1匹につき1人、人間を飼うとかいう巫山戯た法を提案したようだけれど。 「まあ何も変わらない、はず…」 ちょっと視界に映る生き物の種類が増えるだけ。そう思ってた。 ほんとに。ほんとうに。 紫ヶ崎 那津(しがさき なつ)(22) ブラック企業で働く最下層の男。顔立ちは悪くないが、不摂生で見る影もない。 変化を嫌い、現状維持を好む。 タルア=ミース(347) 職業不詳の人外、Swis(スウィズ)。お金持ち。 最初は可愛いペットとしか見ていなかったものの…? 2025/09/12 ★1000 Thank_You!!

後輩が二人がかりで、俺をどんどん責めてくるー快楽地獄だー

天知 カナイ
BL
イケメン後輩二人があやしく先輩に迫って、おいしくいただいちゃう話です。

後宮の男妃

紅林
BL
碧凌帝国には年老いた名君がいた。 もう間もなくその命尽きると噂される宮殿で皇帝の寵愛を一身に受けていると噂される男妃のお話。

やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。

毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。 そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。 彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。 「これでやっと安心して退場できる」 これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。 目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。 「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」 その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。 「あなた……Ωになっていますよ」 「へ?」 そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て―― オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

囚われた元王は逃げ出せない

スノウ
BL
異世界からひょっこり召喚されてまさか国王!?でも人柄が良く周りに助けられながら10年もの間、国王に準じていた そうあの日までは 忠誠を誓ったはずの仲間に王位を剥奪され次々と手篭めに なんで俺にこんな事を 「国王でないならもう俺のものだ」 「僕をあなたの側にずっといさせて」 「君のいない人生は生きられない」 「私の国の王妃にならないか」 いやいや、みんな何いってんの?

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