月の歌

ハルハル

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紅に染まる山

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「...火事!?」
沙夜が不意に叫んだ。
麓の方で黒煙が上がっている。すすが巻き上がりここまで届いてきた。
鳥達の警戒する鳴き声がうるさいくらいに響き耳にまとわりつく。
「う、うそ!」
私が叫ぶと同時に、上空からピイイィッという甲高い鳴き声が聞こえてきた。
大鷲が急降下して煙の方へ飛んでいく。
「楓さん!」
駆け出そうとした私の手を沙夜がつかんで引き止めた。
「どこにいくの、萌葱?私達はここにいろって、言われたじゃない!」
「でも!私達だけ安全なところにいたくない!」
「行ったところで、今の私達に何が出来るの?邪魔になるだけでしょう」
沙夜の言葉が私の心に突き刺さった。確かに、火の出所に行ったところで、私に出来ることなどない。
水もないし、火を消すすべなど持っていないのだ。村の人達に姿を見られたりすれば騒ぎになる可能性もあり、むしろ邪魔にしかならないだろう。
「でも、でもね!だからってここにいても何にもならないわ!」
沙夜の手を振り払うと、沙夜は諦めたように苦笑した。
「...まあ、萌葱はそういうだろうなって思ってたよ」
沙夜はやれやれ、と首をふると再び私の手を掴んだ。
「なら私も行くよ。まさか、私だけここに置き去りにするつもりじゃ、ないでしょ?」
「沙夜...」
沙夜の心配してくれる気持ちは嬉しい。でも彼女を私の我が儘に巻き込みたくはない。
今の私はきっと複雑な顔をしていたのだろう。
沙夜は困ったような顔で私の頬をつねった。
「もう、そんな顔しないの。ほら、急ぐよ」
沙夜は私の腕をぐいっと引っ張る。
私達は競うように麓までかけおりていった。

「っ、これは...」
火の出所がよく見えるところまでたどり着くと、私は思わずうめいた。
思ったより火のまわりが早い。
「これだけ火のまわりが早いと、向い火を放つのは下策かしら」
沙夜の言葉に私は考える。
「...いえ、今日は風はないし出来なくはないと思うわ。」
確かに危険な賭けだ。下手をすれば火に囲まれる可能性だってある。
それでも。
「今の私達に出来ることはそれくらいでしょう」
私の言葉に沙夜は覚悟を決めたようにうなずいた。
「わかったわよ。もうこうなったらとことんつきあってやるわ」
笑顔で親指を立ててきた沙夜に親指を立て返し、私は帯に挟んでいた小さい火打ち石を取り出した。普段料理をするときに使っているものである。
指を舐めて風向きを調べ、私はひとつ深呼吸をした。
正直にいえば、こんなことしたくない。こんな状況とはいえ山に火を放つのだ。
『ごめんなさい、月夜様、楓さん』
カチッカチッという音を立てて火打ち石を打ち付ける。火花が散った。
火花が落ちて枯れ葉に燃え移る。それを確認した私は素早く火から離れた。
「離れるわよ」
沙夜に声をかけ、私達は走ってそこから離れた。
あとはもう何も出来ることはない。向い火が上手くいってくれることを祈るだけだ。
その時だった。狼の遠吠えが聞こえてきた。
「月夜様!」
沙夜が叫ぶ。彼女の視線の先には銀色の毛並みの大きな狼――つまり、月夜様がいた。
私達より少し高いところにある大きな岩の上に立ち、森を見下ろしている。その夜空のような瞳には、紛れもない怒りと憎しみがこもっていた。
「いたぞ、あそこだ!」
少し離れたところから男達の声がした。木々の間から、ちらちらと人影が見える。
「村の人達...」
沙夜が茫然とした声で呟いた。話には聞いていたものの、やはり目にするとショックなのだろう。
見つからないようにと身を潜めていると、村の人達は何かを叫びながら月夜様に矢をうち始めた。石を投げている人もいる。
月夜様が一声あげて走り出す。村の人達がそれを追う。
しばらく乱闘のような音と怒声が聞こえていたが、ふいに狼の叫び声があがった。痛みを訴えるような、紛れもない悲鳴である。
私はいてもたってもいられなくなった。
「月夜様!」
「あっ、萌葱!どこに行くの!?」
沙夜が叫ぶのも聞かずに私は走り出していた。
この時、私の頭の中には月夜様や楓さんのことしかなかった。


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