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第三十四話 背中合わせの時間
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「やっちった……」
ハシルヒメはちゃぶ台に突っ伏し、頭を抱えていた。珠の出ていったふすまは開きっぱなしになっていて、ハバキが珠の歩いていった先をじっと見つめている。
「珠さまの元気がなかったように見えましたが、ハシルヒメさまの態度に傷ついたのでしょうか?」
「いうなぁ……! わかってる。わかってるから。こんなつもりじゃなかったの!」
ハシルヒメは自分の髪をかき回した。空気が湿っているせいか、髪がよく絡む。
ハバキはじっとその様子を見つめた。
「ハシルヒメさまも傷ついてます?」
「んん……どうだろ。ツラいのは確かなんだけど、今は罪悪感がすごい」
「ハシルヒメさまもツラくて、珠さまも傷ついたのなら、みんな嫌な気持ちになったんですか? それならどうしてハシルヒメさまはあんな態度を取ったんです?」
「だって!」
ハシルヒメは顔をパッと上げたが、すぐにちゃぶ台に顔をうずめた。
「珠ちんに言ったまんまだよ。わたしには厳しいのに、ハバっちには優しくしてるように見えたの。それでイラっとして、つい……」
ハシルヒメは、今度はゆっくり顔を上げた。ハバキはしゃがんだまま、じっとハシルヒメを見つめている。まるでハシルヒメの言葉を待っているかのようだ。
ハシルヒメは続けた。
「本当は珠ちんの方がイライラしてるはずなんだよ。問答無用で生き返らせて、働かせてるんだもん。それなのにわたしが文句ばっか言ってたら、そりゃイジワルしたくもなるよね」
「珠さまはイジワルではないです」
ハバキは少し早口になっていた。
「ハバキは人とほとんど関わらずに存在してきました。それでもわかります。珠さまはとても優しい人で、イジワルなんて絶対にしません。箒を使ってくれる人は皆いい人なんです」
「ぷっ……」
最後の一言に、ハシルヒメはつい吹き出してしまった。その様子を見て、ハバキも笑みを見せた。
「ハバキはハシルヒメさまも優しいのは知っています。だからお二人が嫌な思いをしてるのは嫌です。ハバキがお二人の間を取り持ってみせます。手始めに珠さまとお話してきましょう」
「お、頼もしいね。それじゃあお願いしちゃおうかな」
ハシルヒメが笑いかけると、ハバキは何度もうなずいた。だがそこから動く気配はない。
「うん? 珠ちんを探しにいかないの?」
「ハバキは自分では遠くまで動けないので、ハシルヒメさまが珠さまの近くまで運んでください」
ハバキが箒を前に差し出した。ハシルヒメはそれを押し返す。
「それはちょっと……」
ハシルヒメがハバキを珠のもとに持っていくとなると、ハシルヒメの目の前で珠とハバキの話が始まることになる。
(気まずすぎるし、二対一みたいで珠ちんかわいそうじゃん……)
ハシルヒメは重くなっていた腰を上げた。
「やっぱ自分でどうにかするしかないかな」
「さすがハシルヒメさまです」
ハバキに背中を押され、ハシルヒメは部屋を後にした。
~~~~~~~~~~~~~~~
ハシルヒメの本体は、桜雷神社の参道にもなっている道だ。自分の上を人が歩けば、それを感じることができる。だから珠がどこにいるか、わかっていた。
桜雷神社の拝殿の正面には、神楽用の舞台がある。そこまで立派なものでもないが、人の身長くらいの高さはあるし、屋根もある。
ハシルヒメはボロボロのビニール傘を差して、そこに向かった。
(珠ちん。わたしから逃げたければ、空でも飛べるようになるんだね!)
心の中で叩く軽口とは裏腹に、近づくにつれて足は重くなっていく。
(うう。やっぱハバっちについてきてもらえばよかったかも)
頭によぎる情けない考えを、思いっきり目をつぶって振り払う。開いた目に映る景色が、少しだけ明るくなった気がした。
ハシルヒメは傘を閉じ、梯子を使って濡れながら舞台へと上がる。
ちゃぶ台を囲んでいた部屋より少しだけ広い舞台の中央に、座り込んだ白い背中が見えた。珠のトレードマークである三つ編みのおさげが肩にかかっている。
ハシルヒメいる場所から珠のいる場所までが、道のように濡れていた。
「――」
ハシルヒメは息を吸ったが、第一声を発することができなかった。
「ごめん。濡らしちゃって」
珠の声が薄暗い舞台に響いた。ハシルヒメは珠がこっちを見ていないとわかっていたが、首を横に振る。
「いいよ。どうせ風で吹き込んで濡れるから」
そんな話をしに来たのではないのだが、言葉を交わせただけでハシルヒメの体から少し力が抜けた。
ハシルヒメはそのまま珠へと近づき、背中合わせに座る。触れた背中はやはり濡れていて、少し冷たかった。
「ごめんね珠ちん。わたしがお願いしたのに文句ばっか言って。嫌だったよね?」
「違う……!」
背中越しに珠の体に力が入るのを感じて、ハシルヒメの心臓が高鳴った。だが逃げたりはしない。
「違くないよ。だって――」
「文句じゃなかった」
珠はハシルヒメの言葉をさえぎって続けた。
「わたしが勝手に文句だと思って、またふざけたこと言ってるって勝手に思ってただけ。本当に恥ずかしがってるとか、そういうこと全然思ってなかった」
珠が顔を上げたのが背中越しに伝わってきた。
「ここで頭冷やしながら、ハシルヒメのことずっと考えてた」
「え? あ、うん。恥ずかしいなぁ……」
顔が熱くなって、ハシルヒメは立てた膝に顔をうずめた。珠が体をひねってこちらに向きかけたのがわかった。
「へ、変な意味じゃなくて! ハシルヒメの表面的な部分しか見てなかったって気づいたから、ちゃんと向き合わないとって思って」
「優しいね珠ちんは。わたしは勝手に珠ちんを生き返らせて働かせてるんだよ? 出ていこうとしている珠ちんを無理やり引き留めてるし」
珠の体が揺れた。背中合わせに戻ったのだろう。
「うん。まぁ確かに、最初は本当に理不尽だなって思ってた。生き返れたのは正直嬉しかったけど」
「今は? 違うの?」
「恥ずかしいから……言いたくない」
「そっか」
ハシルヒメはそれ以上聞かなかった。けれど――
「ねぇハシルヒメ。聞いてほしいんだけど」
珠はそう続けた。
「なに?」
「家族の中で一人だけ、わたしの仕事のことを知っていた人がいるの。お姉ちゃんなんだけど」
「あ、っと、珠ちん? カワタも言ってたと思うけど、ここを出ていったとしても、元の生活に戻ろうとするのはやめよう? 珠ちんはもう……」
珠が首を横に振った。
「わかってる。わたしも昔の仕事に戻りたいわけじゃない。でも……」
言いよどむ珠に、ハシルヒメは『でも?』と聞き返しそうになる。だがこらえて、珠が話し始めるのを待った。
「……お姉ちゃんなら、どこかで生きてるって伝えても隠し通してくれるし、探そうとしたりしないと思うの。死を偽造したり、身を隠さなくちゃいけない状況があるってわかってるから。でも生きてるってわかれば安心はしてくれる。だからすぐに伝えたいって思ってた」
「うん」
「わたしがここを出ようとしてた理由ってそれくらいなんだ」
「そんなもんでしょ。まぁ、でも賛成はしない」
賛成はしない――そう言うのには少し勇気が必用だった。だがそれは珠の振り絞った勇気に比べれば大したことはない。
かすかに聞こえた呼吸で、ハシルヒメは珠が笑ったのだと確信した。
「それじゃあ、わたしを引き留めておいてくれる?」
「わたしの願いは叶ってないからね。願いの盃が溢れるまでは居てもらうよ」
ハシルヒメは自分の笑顔が見られていなくてよかったと、初めて思った。
ハシルヒメはちゃぶ台に突っ伏し、頭を抱えていた。珠の出ていったふすまは開きっぱなしになっていて、ハバキが珠の歩いていった先をじっと見つめている。
「珠さまの元気がなかったように見えましたが、ハシルヒメさまの態度に傷ついたのでしょうか?」
「いうなぁ……! わかってる。わかってるから。こんなつもりじゃなかったの!」
ハシルヒメは自分の髪をかき回した。空気が湿っているせいか、髪がよく絡む。
ハバキはじっとその様子を見つめた。
「ハシルヒメさまも傷ついてます?」
「んん……どうだろ。ツラいのは確かなんだけど、今は罪悪感がすごい」
「ハシルヒメさまもツラくて、珠さまも傷ついたのなら、みんな嫌な気持ちになったんですか? それならどうしてハシルヒメさまはあんな態度を取ったんです?」
「だって!」
ハシルヒメは顔をパッと上げたが、すぐにちゃぶ台に顔をうずめた。
「珠ちんに言ったまんまだよ。わたしには厳しいのに、ハバっちには優しくしてるように見えたの。それでイラっとして、つい……」
ハシルヒメは、今度はゆっくり顔を上げた。ハバキはしゃがんだまま、じっとハシルヒメを見つめている。まるでハシルヒメの言葉を待っているかのようだ。
ハシルヒメは続けた。
「本当は珠ちんの方がイライラしてるはずなんだよ。問答無用で生き返らせて、働かせてるんだもん。それなのにわたしが文句ばっか言ってたら、そりゃイジワルしたくもなるよね」
「珠さまはイジワルではないです」
ハバキは少し早口になっていた。
「ハバキは人とほとんど関わらずに存在してきました。それでもわかります。珠さまはとても優しい人で、イジワルなんて絶対にしません。箒を使ってくれる人は皆いい人なんです」
「ぷっ……」
最後の一言に、ハシルヒメはつい吹き出してしまった。その様子を見て、ハバキも笑みを見せた。
「ハバキはハシルヒメさまも優しいのは知っています。だからお二人が嫌な思いをしてるのは嫌です。ハバキがお二人の間を取り持ってみせます。手始めに珠さまとお話してきましょう」
「お、頼もしいね。それじゃあお願いしちゃおうかな」
ハシルヒメが笑いかけると、ハバキは何度もうなずいた。だがそこから動く気配はない。
「うん? 珠ちんを探しにいかないの?」
「ハバキは自分では遠くまで動けないので、ハシルヒメさまが珠さまの近くまで運んでください」
ハバキが箒を前に差し出した。ハシルヒメはそれを押し返す。
「それはちょっと……」
ハシルヒメがハバキを珠のもとに持っていくとなると、ハシルヒメの目の前で珠とハバキの話が始まることになる。
(気まずすぎるし、二対一みたいで珠ちんかわいそうじゃん……)
ハシルヒメは重くなっていた腰を上げた。
「やっぱ自分でどうにかするしかないかな」
「さすがハシルヒメさまです」
ハバキに背中を押され、ハシルヒメは部屋を後にした。
~~~~~~~~~~~~~~~
ハシルヒメの本体は、桜雷神社の参道にもなっている道だ。自分の上を人が歩けば、それを感じることができる。だから珠がどこにいるか、わかっていた。
桜雷神社の拝殿の正面には、神楽用の舞台がある。そこまで立派なものでもないが、人の身長くらいの高さはあるし、屋根もある。
ハシルヒメはボロボロのビニール傘を差して、そこに向かった。
(珠ちん。わたしから逃げたければ、空でも飛べるようになるんだね!)
心の中で叩く軽口とは裏腹に、近づくにつれて足は重くなっていく。
(うう。やっぱハバっちについてきてもらえばよかったかも)
頭によぎる情けない考えを、思いっきり目をつぶって振り払う。開いた目に映る景色が、少しだけ明るくなった気がした。
ハシルヒメは傘を閉じ、梯子を使って濡れながら舞台へと上がる。
ちゃぶ台を囲んでいた部屋より少しだけ広い舞台の中央に、座り込んだ白い背中が見えた。珠のトレードマークである三つ編みのおさげが肩にかかっている。
ハシルヒメいる場所から珠のいる場所までが、道のように濡れていた。
「――」
ハシルヒメは息を吸ったが、第一声を発することができなかった。
「ごめん。濡らしちゃって」
珠の声が薄暗い舞台に響いた。ハシルヒメは珠がこっちを見ていないとわかっていたが、首を横に振る。
「いいよ。どうせ風で吹き込んで濡れるから」
そんな話をしに来たのではないのだが、言葉を交わせただけでハシルヒメの体から少し力が抜けた。
ハシルヒメはそのまま珠へと近づき、背中合わせに座る。触れた背中はやはり濡れていて、少し冷たかった。
「ごめんね珠ちん。わたしがお願いしたのに文句ばっか言って。嫌だったよね?」
「違う……!」
背中越しに珠の体に力が入るのを感じて、ハシルヒメの心臓が高鳴った。だが逃げたりはしない。
「違くないよ。だって――」
「文句じゃなかった」
珠はハシルヒメの言葉をさえぎって続けた。
「わたしが勝手に文句だと思って、またふざけたこと言ってるって勝手に思ってただけ。本当に恥ずかしがってるとか、そういうこと全然思ってなかった」
珠が顔を上げたのが背中越しに伝わってきた。
「ここで頭冷やしながら、ハシルヒメのことずっと考えてた」
「え? あ、うん。恥ずかしいなぁ……」
顔が熱くなって、ハシルヒメは立てた膝に顔をうずめた。珠が体をひねってこちらに向きかけたのがわかった。
「へ、変な意味じゃなくて! ハシルヒメの表面的な部分しか見てなかったって気づいたから、ちゃんと向き合わないとって思って」
「優しいね珠ちんは。わたしは勝手に珠ちんを生き返らせて働かせてるんだよ? 出ていこうとしている珠ちんを無理やり引き留めてるし」
珠の体が揺れた。背中合わせに戻ったのだろう。
「うん。まぁ確かに、最初は本当に理不尽だなって思ってた。生き返れたのは正直嬉しかったけど」
「今は? 違うの?」
「恥ずかしいから……言いたくない」
「そっか」
ハシルヒメはそれ以上聞かなかった。けれど――
「ねぇハシルヒメ。聞いてほしいんだけど」
珠はそう続けた。
「なに?」
「家族の中で一人だけ、わたしの仕事のことを知っていた人がいるの。お姉ちゃんなんだけど」
「あ、っと、珠ちん? カワタも言ってたと思うけど、ここを出ていったとしても、元の生活に戻ろうとするのはやめよう? 珠ちんはもう……」
珠が首を横に振った。
「わかってる。わたしも昔の仕事に戻りたいわけじゃない。でも……」
言いよどむ珠に、ハシルヒメは『でも?』と聞き返しそうになる。だがこらえて、珠が話し始めるのを待った。
「……お姉ちゃんなら、どこかで生きてるって伝えても隠し通してくれるし、探そうとしたりしないと思うの。死を偽造したり、身を隠さなくちゃいけない状況があるってわかってるから。でも生きてるってわかれば安心はしてくれる。だからすぐに伝えたいって思ってた」
「うん」
「わたしがここを出ようとしてた理由ってそれくらいなんだ」
「そんなもんでしょ。まぁ、でも賛成はしない」
賛成はしない――そう言うのには少し勇気が必用だった。だがそれは珠の振り絞った勇気に比べれば大したことはない。
かすかに聞こえた呼吸で、ハシルヒメは珠が笑ったのだと確信した。
「それじゃあ、わたしを引き留めておいてくれる?」
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