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もさく ごろう

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タナカさんのヤル気を取り戻せ

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 タナカさんのお店に、接客スペースなんてものはない。奥の作業場まで案内されて、小さな丸椅子にわたしとヤトコさんは座った。ここまで光源はスクリューさん一匹だけだ。

 タナカさんは机の横に置かれた、背もたれの大きな椅子に座った。足部分に車輪がついていて、簡単に動かせる椅子だ。

『えっと……ペアハンコ?』

「いえ、違いますけど、そんなのあるんですか?」

 タナカさんはフルフルと首を横に振った。

『作ったことない……けど、そういうの欲しいのかなって』

 タナカさんがちらりとヤトコさんの方を見る。

 ヤトコさんは大げさに目と口を開き、口元を手で隠した。

『まさかフクーラ……!』

「いらないです。今日はヤトコさんの認証印を作ってもらいに来たんです」

 きっぱりそう言うと、タナカさんはわたしたちから目をそらし、何もない床に目線を落とした。

『そっか……』

 タナカさんの声が一気にしぼんだ。そして机の奥の方に手を伸ばす。それに合わせてスクリューさんは移動し、手元を照らした。

『えっと、この辺に練習で彫ったやつが……』

 何個かハンコをピックアップし、印面に目を通す。

『これが……枝切さんっぽいかな』

 タナカさんは一つを選び、机に置いた。

『これ……100円でいいよ』

「あの、いま練習で彫ったやつっていいましたよね? ちゃんとヤトコさんのハンコを彫ってください」

『ちょっと……やる気が出ない』

 タナカさんは机に突っ伏してしまった。

 仕方なしにタナカさんが置いたハンコを手に取ってみる。それは少し丸っこい形をしていて、頭の部分がとんがっていた。

 そして何より、とても軽い。焼いたメレンゲを持っているかのようだ。

「もしかして、印材はチョウコクドングリですか?」

『うん……練習用だから』

 タナカさんはこっちを一切見ずに答えた。顔を上げる様子はない。

 ヤトコさんが前かがみになって、わたしの手元を覗き込んだ

『いいじゃん。どんぐりの形をしたハンコって、なんかかわいいし』

「よくないです。チョウコクドングリは大型で果肉が木質化する彫りやすい材料ですが、変形しやすいので認証印には向いていません。何より生命力が強くて――」

 タナカさんが動いたかと思ったら、別のハンコが飛んできた。そのハンコもチョウコクドングリでできている。

 先に渡されていた物と違うのは、頭の尖った部分から赤茶色の根が出ていることだ。

 わたしはそれをヤトコさんに見せた。

「こんな感じで、彫った物でも時間が経つと発芽します。わたしが子供のときに、お小遣いで小さな人形を買ったがあったんですけど」

 わたしはハンコから伸びる根を隠すように、人差し指を載せた。

「ちょうどこれに頭が載ってるくらいの大きさで、子供のわたしにはドングリを彫った物とはわからないくらい、よくできていたんです。でもしばらくすると、ちょうど頭の部分が割れて……」

 わたしはハンコから指を離した。指で押さえられていた根が、ピンと立ち上がる。

「子供のわたしは泣きました」

『絵面ホラーすぎるって……!』

 ヤトコさんは身震いして、自分の肩をさすった。

『わかった。そのハンコはやめておく。けど、それならタナカちゃんのヤル気を出させないとだね』

 タナカさんは机に突っ伏したままだ。確かにヤトコさんを説得したところで、タナカさんが彫ってくれないのなら意味がない。

「しかし、どうして認証印を彫りたくないんですかね? それでは仕事にならないと思うのですけど」

『ちっちっち。甘いねフクーラは。タナカちゃんは認証印を彫るのが嫌でヤル気を無くしたんじゃないと思うよ』

「そうなんですか?」

 タナカさんに問いかけると、顔を上げずに頷いた。顔を机にこすりつけたようにも見える。

「それでしたら、どうしてヤル気がでないんですか?」

 それに応えたのはヤトコさんだった。

『ペアハンコをいらないって言われたからじゃない? タナカちゃんって職人なんでしょ? 作りたいものしか作りたくない瞬間って、やっぱあるんじゃないかな』

「本当ですか? ヤトコさんがペアハンコを作りたいだけなんじゃ――」

 タナカさんがわずかに動き、片目だけでこちらを見た。わたしではなく、ヤトコさんに目を向けている。

 そしておもむろに左手を上げたかと思うと、ヤトコさんもそれに合わせて手を伸ばし、グータッチした。

 タナカさんが誰かと通じ合っているのを、初めて見たかもしれない。

「うーん。わかりました。今度ペアハンコを注文しに来ます。でも今はヤトコさんの認証印が必要なので、そっちを作ってくれませんか?」

 わたしが仕方なく折れると、タナカさんはゆっくりと顔を上げた。

『一緒に彫ってもいいけど……?』

「予算とかも決めてないので、ペアハンコは今度でいいです」

『そっか、うん……確かに、こだわったほうがいい……』

 タナカさんは不器用に笑った。

『ふひ……図面、たくさん用意しておく』

 そんなに頑張らなくてもいいのだけれど、そんなこと言ったらまたヤル気をなくしてしまうかもしれない。

「楽しみにしてますね」

 この言葉に嘘はない。今度ハロウルと一緒にペアハンコを作りにこよう。

「では今日は認証印をお願いします」

『うん……予算は?』

「一万五千円です。一応、動物から採れる素材は避けてください」

『じゃあ良い木材……えと、クロヒノキか雪胡桃あたり』

『ま、待って!』

 ヤトコさんが立ち上がった。

『ハンコにお金全部使っちゃうの? また無一文になっちゃうじゃん!』

「いいハンコを持っていた方が、周りからの印象がいいので得なんですよ。安物のハンコだと『契約書が汚れる』とか言われて、ハンコを押させてもらえないこともあるので」

『そうなの? うーん。でも全部はなぁ……』

 ヤトコさんが悩んでいる間に、タナカさんは引き出しを開いて、親指ほどの小さな木片を二つ取り出した。

『クロヒノキと雪胡桃……』

 タナカさんはそれらを机に置くと、スクリューさんを抱いて上から照らした。

『これがハンコになるの?』

 ヤトコさんがそれを手に取り、顔を近づけた。わたしも一緒になって覗き込む。

 それは彫る前の印材だった。黒い方は光沢がない代わりに、細かい木目が光に当たって煌めいていた。

 逆に白い方は光沢が強めで、まるで磨かれた石のようだ。うっすら見える波打つ木目がなければ、木だとはわからない。

『良い木材っていうだけあって、確かに綺麗だけど、プラスチックでもぱっと見はそんなに変わらないんじゃない?』

 プラスチック――ヤトコさんの世界で使われている素材だ。あちらの世界では安価だと聞くけれど――

「こちらの世界ではプラスチックが作れないので、とても高価なんです。なんといったって、異世界人が持ち込んだ物しかありませんから。プラスチック製のハンコですと、お金が百倍あっても足りないかもしれません」

 タナカさんに目線を送ると『うんうん』と頷いた。

 ヤトコさんは『ひゃ、百倍……?』と指折り数え始めた。つまんでいた印材が指から零れる。

 ヤトコさんはそれをパッと握り直し、わたしの顔を見た。

『プラスチックが!? 大金払ってプラスチック製のが出てきたら、がっかりしちゃうよ』

 タナカさんはそれに対しては、首を横に振った。

『軽くて割れにくくて癖のないすごい素材……こっちでハンコ彫り始めて思い知った』

『そうなの? 確かにプラスチックは便利だったけど……うーん。でも確かに、今の話聞いたら、これが一万五千円なら安い気がしてきた。じゃあこっちの黒いのにしようかな』

 ヤトコさんは黒い印材をタナカさんに手渡した。もう一つは机の上に置く。

『うん……それじゃあ』

 タナカさんは手元のスクリューさんをヤトコさんの腕にとまらせた。

 突然のことに、ヤトコさんの肩が跳ねる。

『わっ! なになに?』

『ほいほい。失礼するよ』

 スクリューさんがヤトコさんの腕を登っていく。そして肩のあたりで落ち着いた。

 トカゲが苦手な女の子なら、払い落としてもおかしくない。でもさっきスクリューさんを可愛いといっていたのは嘘ではなかったようで、ヤトコさんは肘を少し上げて足場を広げてあげていた。

『どうしたの? 彫るのに時間かかるからこの子と遊んでろって?』

 タナカさんはそれに答えずに、ヤトコさんの顔を覗きこんだ。そしてそのまま横に移動する。

『なになに?』

 ヤトコさんはそれに合わせて体を動かし、タナカさんを正面に捉え続けた。

 タナカさんがぴたりと止まる。

『動かないで……』

『あ、はい』

 圧を感じたのか、ヤトコさんの姿勢が少しだけ良くなる。

 タナカさんはヤトコさんを一周した後、正面から右から左からと、もう一度覗いてから椅子に戻った。

 ヤトコさんが深く息を吐く。

『うわぁ。なんか疲れた。触られてないのに、なんかくすぐったかったし』

 力の抜けたヤトコさんの腕を、スクリューさんが下っていく。

『あ、降りるの?』

 ヤトコさんが机の上に手を伸ばすと、スクリューさんは『はいはいどうもね』と机へと降りた。そしてそのままタナカさんの近くにいって手元を照らす。

 タナカさんは紙を取り出し、ペンを走らせ始めた。

『え? なんだったの? 今の』

 完全に置いていかれているヤトコさんを、タナカさんが気に掛ける様子はない。

 わたしが代わりに答えてあげた。

「すぐにわかりますよ。タナカさんは仕事が早いですから」

『うん? まぁ、そっか』

 ヤトコさんはわたしの答えに満足してなさそうだ。けれど待つことにようで、手探りで椅子を探して腰を下ろした。

 どれくらい待っただろうか。明かりはスクリューさんだけで、窓もない。暗いこの部屋では、時間の流れがわかりづらいのだ。

 退屈だったのか、ヤトコさんが椅子を寄せてきた。

『ねぇフクーラ。タナカちゃんって、いつもこんな暗い中で仕事してるの?』

 囁き声が耳にくすぐったい。わたしもお返しに、ヤトコさんの耳元に口を寄せた。

「タナカさんは接客が苦手で、お客さんが来ないように、暗い場所を選んだらしいです。基本は郵便でお仕事を受けているみたいですよ」

『そうなの? じゃあうちら厄介客じゃん』

 そんな話をしていると、タナカさんが体を起こしてペンを置いた。そして背中を軽く伸ばしてから、紙の向きを変える。

『ラフだけど……』

 タナカさんはヤトコさんの方へと紙を近づけた。スクリューさんがそれを追いかけて紙の横で落ち着く。

『なになに?』

 ヤトコさんは紙を覗き込む。すると見慣れた友人を見つけたかのように表情が軽くなった。

 紙に触れ、もっと顔を近づける。

『マンガだぁ。え? もしかして、これわたし?』

 タナカさんが控え目に頷いた。

 わたしも立ち上がって覗いてみたけれど、目が大きく可愛さが強調されたその絵は、後ろでまとめられた髪や黒く襟の大きな服、抱かれたカタナの袋など、ヤトコさんの特徴をよく捉えていた。

 何より良かったのはウインクするような笑顔だ。見た目は大人びているのに無邪気なヤトコさんの内面をよく表現している。

『すご! タナカちゃんってもしかして、もとの世界でも絵描いてたりしてたの?』

『同人活動してた……』

『すごいじゃん! いいなぁ。わたしなんてこんな乱暴なのばっかで……』

 ヤトコさんは懐に抱いたカタナの袋を少しだけ持ち上げた。でもすぐに絵に目を戻す。

『この絵もらっていいの?』

 タナカさんは首を横に振った。

『これ……図面』

『図面……? って、ハンコに彫る絵ってこと?』

 タナカさんは頷いたけれど、それ以上答えない。ヤトコさんがこちらを向いたので――

「異世界人はこちらの世界の文字がわかりません。ですから、ハンコは自分の顔を彫った物を使うんです。タナカさんのハンコはとても人気なんですよ」

 そう説明してあげた。

 タナカさんが絵の描かれた紙を裏返す。

『これ契約書……』

 ヤトコさんの表情をオーケーのサインと受け取ったのだろう。サインの欄を指差し――

『拇印でいいよ』

 机から朱肉を取り出した。
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