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マブルさんのナワバリ
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わたしは手をゆっくりと前に出した。匂いをかいでもらうための、猫さん用の挨拶だ。肩に載っているヤトコさんの手に、少し力が入る。
「シャー!」
三毛猫さんが大きく口を開いて、牙を見せた。
『ひぃ!』
ヤトコさんの手がわたしの肩から離れる。
振り向いてみると、ヤトコさんはカタナでも届かないくらい遠くまで下がっていた。
「何やってるんですか?」
『な、何って! 今の牙が見えなかったの!? 危ないから離れた方がいいって!』
「本当に攻撃するつもりなら、もうやられてますよ。ねぇ?」
三毛猫さんは口を閉じ、わたしをじっと見つめている。わたしはその目をなるべく見ないようにした。
『あんたに何がわかるのさ』
三毛猫さんの声は、ちょっと貫禄の出すぎたお姉さんといった感じだ。
「動物さんと話すときは、いつも最初に威嚇されるんですよ。逃げずに言葉を返してもらえるのは稀なので、お話しできて嬉しいです。三毛猫さんは人間に慣れているみたいですね」
『マブル。ここの人間たちはわたしをそう呼ぶよ』
「マブルさんですね。わたしはフクラといいます。動物と話せる、ちょっとだけ変わった人間です」
マブルさんは一歩離れたところから、わたしの手の匂いを嗅いだ。
『なるほど。覚えたよ。でも今は取り込み中なんだ』
マブルさんはわたしから目を背けて、黒猫さんを見た。けれど――
「ケンカしていたみたいですね。何があったんですか?」
声をかけると、すぐにわたしに目線を戻した。
『遠慮なく聞いて来るじゃないか。なんてことない。ナワバリ争いさ。あたしらはここで餌をもらって生きてるんだが……』
マブルさんが黒猫さんを睨みつける。黒猫さんは毛を逆立て、牙をむいて「フー!」と唸るように返事をする。
『よそ者のコイツが勝手にこの道に入ってきたのさ。ちょうどいい。あんたがこいつを連れってってくれよ』
「黒猫さんが望むのなら、そうしてもいいんですが……」
黒猫さんは背中を大きく膨らませた。その状態でも体が大きいとは言えない。マブルさんの一番大きな模様と比べられそうなくらいだ。
「マブルさんほど、人間に慣れていないみたいですね」
わたしは地面に寝そべった。石畳が硬くて冷たい。
『えぇ? ちょっと、どうしちゃったの?』
「ちょっとでも安心してもらうためです。猫さんも寝転がっている人間がすぐには動けないのはわかるので」
まっすぐ手を伸ばした。黒猫さんには全く届かない。これがわたしの手の届く範囲だ。これよりも遠くにいれば安全だと、黒猫さんは理解してくれるだろうか。
「黒猫さん。少しお話しませんか?」
黒猫さんは耳をピクリと動かした。わたしの声は届いている。そして一歩だけ近づいて、鼻をひくひくさせた。
まだマブルさんの体一個分くらいは離れている。そんなに離れていて、匂いがわかるのだろうか。
『ど、どっちの味方なんだ?』
黒猫さんの声は、花売りの少年のようだった。
「どちらの味方ということはありませんよ。わたしはただ、ケンカをやめて欲しいだけです」
『ボクはケンカなんてする気はないよ! そのおばさんが、いきなり牙を見せてきたんだ』
『生意気いう子だね!』
マブルさんが前にステップを踏んだので、わたしは伸ばした手を動かしてマブルさんの顔の前で開いた。
「マブルさん。落ち着いてください」
マブルさんがぴたりと止まり、座り直したのでわたしは続けた。
「黒猫さんは、人間に呼ばれている名前とかありますか?」
『ないよ。人間をこんなに近くで見たのは初めてなんだ』
「それでは今だけでいいので、エルスさんと呼ばせてください。エルスさんは初めてここに来たんですか?」
『そうだよ。住処がなくなったから、仕方ないんだ。本当はこんな人間だらけのところになんて来たくない』
マブルさんのナワバリをけなすような言葉尻だ。けれどマブルさんは気にしていないのか、ジッとわたしの手の平を見つめていた。
このまま話を聞いても大丈夫そうだ。
「住む所が見つかればいいんですね? 前はどんなところに住んでいたんですか?」
猫さんは家に懐くというくらい、環境の変化を嫌う動物だ。住めればどこでもいいというわけではない。
『町の隅にある大きな家さ。人間なんて絶対来ない静かないいところだったんだけど、突然人間が住み着いたんだ』
「空き家が売れたということでしょうか? それですと取り戻すというわけにもいかないですね。他に空き家があるといいんですけど、マブルさんはどこか知りませんか?」
マブルさんはわたしの手の平を、柔らかい肉球で押した。
『知るわけないだろう。そういうのは、人間のあんたの方が詳しいんじゃないか?』
「不動産屋さんを知らないわけじゃないですけど、猫さんを住まわせてほしいとお願いするわけにも――」
「おい。おまえ、なめてんのか?」
重たい声が降ってきた。顔を上げると、ボサボサ頭の男が見下ろしている。さっきケンカしていた男の一人だ。
寝転がって猫と話しているわたしを心配して声をかけてきた――というわけでもないだろう。こめかみあたりに青筋がたっている。
「少し取り込んでいますが、お構いなく。そちらは自由にケンカしていて大丈夫ですよ」
わたしは返事をしながらマブルさんの首裏に手を伸ばした。男から離すためだ。けれど余計なお世話だったようで、マブルさんはわたしの手を避けて自分で距離を取った。
わたしの態度が気に入らなかったのか、男の顔がりんごみたいに真っ赤になる。
「やっぱ舐めてんな! いい加減にしねぇと――」
風邪が吹いたと思うと、男の声が止まり、今度はナスみたいに顔が青くなった。
真っ黒なスカートが視界を覆う。大根のように白い足はヤトコさんのものだろう。
傘のように広がっていたスカートが、つぼみに戻る花のように足を隠した。ヤトコさんが男の喉元に腕を突き出している。短く握られたカタナの袋で喉を突いたようだ。
『大きな声を出さないでよ! 猫が暴れたらどうするの!』
ヤトコさんの叫びは、男の声の三倍くらい頭に響いた。けれどボサボサ頭の男には届いていないだろう。
男は白目をむいて、ゆっくりと後ろに倒れた。
それを避けるように、メガネの男が後ろに下がる。確かケンカしていた男のうちの一人だ。男はそのまま後ずさりし、背を向けた。
「あ、待ってください! この人を保安官に引き渡して――」
男は一切こちらを振り返ることなく、人ごみの中に消えた。わたしの声に答えてくれたのは、小太りなお姉さんだった。
「おばちゃんが通報しておくよ。店の前で寝られちゃ困るからねぇ」
「ありがとうござい……あ、ごめんなさい」
そういえばわたしも、お店の前で寝転んでいるんだった。
お姉さんは「いいのいいの。猫ちゃんかわいいでしょ」と笑いながらお店に入っていった。お土産屋さんのようだ。
いいとは言われたものの、ずっとここで寝転んでいるわけにもいかない。
「場所を変えてもいいですか? ここだと目立ちすぎます」
マブルさんにそう声をかけても、こちらを向いてくれなかった。見上げるその目は、完全にヤトコさんに向けられている。
『やるじゃないか。その男は乱暴者で、あたしの悩みの種の一つだったんだ』
マブルさんのぶっきらぼうな誉め言葉も、ヤトコさんには「みゃおう」としか聞こえなかっただろう。
ヤトコさんは『待って……! 違うから!』と意味不明な弁解をしながら一歩下がった。マブルさんはそんなのお構いなしで、滑るようにヤトコさんの足の間に入る。
『ひぃ……!』
ヤトコさんが完全に固まる。マブルさんは八の字にヤトコさんの足に体をこすりつけると、わたしに目を向けた。
『コイツに免じて、あの子猫はあたしが預かってやろう』
エルスさんは身構えた。
『ボクを追い出したいんじゃなかったのかよ』
『人間に餌がもらえるとかいう、甘い考えのやつがよく来るのさ。そんな奴らに餌場を荒らされたらかなわんだろう? だがあんたは違うみたいじゃないか』
『でもボクは――』
マブルさんがヤトコさんの足の間から飛び出して、一瞬にしてエルスさんの首根っこに噛みついた。
『住む前からうだうだ言うんじゃないよ。出ていくなんていつだってできるんだ。嫌になったらそうすればいい』
『わかった! わかったから離せよ!』
エルスさんが暴れる。マブルさんにはなんてことないようで、咥えたまま建物の隙間に入っていった。
「とりあえず、一件落着ですかね。ルクルーンはもう近くなので、わたしたちも行きましょうか」
立ち上がって砂ほこりを払った。ヤトコさんに動き出す気配はない。
「ヤトコさん?」
『も、もういない?』
ヤトコさんは空を見上げまま、そう聞いてきた。
「猫さんのことですか? もういないですけど、足元なら自分で見ればいいのでは?」
『知らないの!? 猫の目を見ると襲われるんだよ!』
「そんな。罠付きゴーレムじゃないんですから。とりあえずもう大丈夫ですよ」
ヤトコさんは片目を閉じ、ゆっくりと目線を下ろす。時間をかけ、それが足元に達すると、肩の力がわかりやすく抜けた。
『ふぅ。危ないところだった』
「何一つ危なくないです。さっさと行きますよ。イグルンさんが来たら、事情とか聞かれて面倒ですから」
流れ始めた人ごみを抜け、坂を上り切った。そこにあるのは宮殿跡で、屋根はないものの柱や壁が残っている。
「中は自由に観光できるんですが、ルクルーンの部屋には許可が無ければ入れません」
『じゃあ許可を取ってあるの?』
「まだですけど、イグルンさんが保護記録を取ってくれたじゃないですか? あれでヤトコさんは異世界人として仮登録されているはずです。すぐに許可は下りますよ」
入ってすぐのところに、背の低い仕切りで囲われた部屋があった。そこがヴェルサーノの宮殿跡の管理室だ。
「すみません」
「あら、フクラさん」
金色の髪を肩のあたりでまっすぐに切ったお姉さんが対応してくれた。お土産屋さんのお姉さんと違ってちゃんと若い。
一度だけここに挨拶しに来たことがある。それでわたしの名前がわかったのだろう。
ちなみにわたしはこのお姉さんのことを覚えていない。
「どんな御用ですか?」
「異世界人を泉の女神さまに会わせてあげたいんです。異世界人の名前はエダキリ ヤトコ」
『ごきげんよう。やとこです』
言葉は通じなくても、ヤトコさんが挨拶したのくらいはわかっただろう。けれどお姉さんは眉間にシワを寄せた。
そして――
「エダキリ、ヤトコさん……ですか? それでしたら、先ほどこちらにいらっしゃいましたが」
そんな訳の分からないことを言いだしたのだ。
「シャー!」
三毛猫さんが大きく口を開いて、牙を見せた。
『ひぃ!』
ヤトコさんの手がわたしの肩から離れる。
振り向いてみると、ヤトコさんはカタナでも届かないくらい遠くまで下がっていた。
「何やってるんですか?」
『な、何って! 今の牙が見えなかったの!? 危ないから離れた方がいいって!』
「本当に攻撃するつもりなら、もうやられてますよ。ねぇ?」
三毛猫さんは口を閉じ、わたしをじっと見つめている。わたしはその目をなるべく見ないようにした。
『あんたに何がわかるのさ』
三毛猫さんの声は、ちょっと貫禄の出すぎたお姉さんといった感じだ。
「動物さんと話すときは、いつも最初に威嚇されるんですよ。逃げずに言葉を返してもらえるのは稀なので、お話しできて嬉しいです。三毛猫さんは人間に慣れているみたいですね」
『マブル。ここの人間たちはわたしをそう呼ぶよ』
「マブルさんですね。わたしはフクラといいます。動物と話せる、ちょっとだけ変わった人間です」
マブルさんは一歩離れたところから、わたしの手の匂いを嗅いだ。
『なるほど。覚えたよ。でも今は取り込み中なんだ』
マブルさんはわたしから目を背けて、黒猫さんを見た。けれど――
「ケンカしていたみたいですね。何があったんですか?」
声をかけると、すぐにわたしに目線を戻した。
『遠慮なく聞いて来るじゃないか。なんてことない。ナワバリ争いさ。あたしらはここで餌をもらって生きてるんだが……』
マブルさんが黒猫さんを睨みつける。黒猫さんは毛を逆立て、牙をむいて「フー!」と唸るように返事をする。
『よそ者のコイツが勝手にこの道に入ってきたのさ。ちょうどいい。あんたがこいつを連れってってくれよ』
「黒猫さんが望むのなら、そうしてもいいんですが……」
黒猫さんは背中を大きく膨らませた。その状態でも体が大きいとは言えない。マブルさんの一番大きな模様と比べられそうなくらいだ。
「マブルさんほど、人間に慣れていないみたいですね」
わたしは地面に寝そべった。石畳が硬くて冷たい。
『えぇ? ちょっと、どうしちゃったの?』
「ちょっとでも安心してもらうためです。猫さんも寝転がっている人間がすぐには動けないのはわかるので」
まっすぐ手を伸ばした。黒猫さんには全く届かない。これがわたしの手の届く範囲だ。これよりも遠くにいれば安全だと、黒猫さんは理解してくれるだろうか。
「黒猫さん。少しお話しませんか?」
黒猫さんは耳をピクリと動かした。わたしの声は届いている。そして一歩だけ近づいて、鼻をひくひくさせた。
まだマブルさんの体一個分くらいは離れている。そんなに離れていて、匂いがわかるのだろうか。
『ど、どっちの味方なんだ?』
黒猫さんの声は、花売りの少年のようだった。
「どちらの味方ということはありませんよ。わたしはただ、ケンカをやめて欲しいだけです」
『ボクはケンカなんてする気はないよ! そのおばさんが、いきなり牙を見せてきたんだ』
『生意気いう子だね!』
マブルさんが前にステップを踏んだので、わたしは伸ばした手を動かしてマブルさんの顔の前で開いた。
「マブルさん。落ち着いてください」
マブルさんがぴたりと止まり、座り直したのでわたしは続けた。
「黒猫さんは、人間に呼ばれている名前とかありますか?」
『ないよ。人間をこんなに近くで見たのは初めてなんだ』
「それでは今だけでいいので、エルスさんと呼ばせてください。エルスさんは初めてここに来たんですか?」
『そうだよ。住処がなくなったから、仕方ないんだ。本当はこんな人間だらけのところになんて来たくない』
マブルさんのナワバリをけなすような言葉尻だ。けれどマブルさんは気にしていないのか、ジッとわたしの手の平を見つめていた。
このまま話を聞いても大丈夫そうだ。
「住む所が見つかればいいんですね? 前はどんなところに住んでいたんですか?」
猫さんは家に懐くというくらい、環境の変化を嫌う動物だ。住めればどこでもいいというわけではない。
『町の隅にある大きな家さ。人間なんて絶対来ない静かないいところだったんだけど、突然人間が住み着いたんだ』
「空き家が売れたということでしょうか? それですと取り戻すというわけにもいかないですね。他に空き家があるといいんですけど、マブルさんはどこか知りませんか?」
マブルさんはわたしの手の平を、柔らかい肉球で押した。
『知るわけないだろう。そういうのは、人間のあんたの方が詳しいんじゃないか?』
「不動産屋さんを知らないわけじゃないですけど、猫さんを住まわせてほしいとお願いするわけにも――」
「おい。おまえ、なめてんのか?」
重たい声が降ってきた。顔を上げると、ボサボサ頭の男が見下ろしている。さっきケンカしていた男の一人だ。
寝転がって猫と話しているわたしを心配して声をかけてきた――というわけでもないだろう。こめかみあたりに青筋がたっている。
「少し取り込んでいますが、お構いなく。そちらは自由にケンカしていて大丈夫ですよ」
わたしは返事をしながらマブルさんの首裏に手を伸ばした。男から離すためだ。けれど余計なお世話だったようで、マブルさんはわたしの手を避けて自分で距離を取った。
わたしの態度が気に入らなかったのか、男の顔がりんごみたいに真っ赤になる。
「やっぱ舐めてんな! いい加減にしねぇと――」
風邪が吹いたと思うと、男の声が止まり、今度はナスみたいに顔が青くなった。
真っ黒なスカートが視界を覆う。大根のように白い足はヤトコさんのものだろう。
傘のように広がっていたスカートが、つぼみに戻る花のように足を隠した。ヤトコさんが男の喉元に腕を突き出している。短く握られたカタナの袋で喉を突いたようだ。
『大きな声を出さないでよ! 猫が暴れたらどうするの!』
ヤトコさんの叫びは、男の声の三倍くらい頭に響いた。けれどボサボサ頭の男には届いていないだろう。
男は白目をむいて、ゆっくりと後ろに倒れた。
それを避けるように、メガネの男が後ろに下がる。確かケンカしていた男のうちの一人だ。男はそのまま後ずさりし、背を向けた。
「あ、待ってください! この人を保安官に引き渡して――」
男は一切こちらを振り返ることなく、人ごみの中に消えた。わたしの声に答えてくれたのは、小太りなお姉さんだった。
「おばちゃんが通報しておくよ。店の前で寝られちゃ困るからねぇ」
「ありがとうござい……あ、ごめんなさい」
そういえばわたしも、お店の前で寝転んでいるんだった。
お姉さんは「いいのいいの。猫ちゃんかわいいでしょ」と笑いながらお店に入っていった。お土産屋さんのようだ。
いいとは言われたものの、ずっとここで寝転んでいるわけにもいかない。
「場所を変えてもいいですか? ここだと目立ちすぎます」
マブルさんにそう声をかけても、こちらを向いてくれなかった。見上げるその目は、完全にヤトコさんに向けられている。
『やるじゃないか。その男は乱暴者で、あたしの悩みの種の一つだったんだ』
マブルさんのぶっきらぼうな誉め言葉も、ヤトコさんには「みゃおう」としか聞こえなかっただろう。
ヤトコさんは『待って……! 違うから!』と意味不明な弁解をしながら一歩下がった。マブルさんはそんなのお構いなしで、滑るようにヤトコさんの足の間に入る。
『ひぃ……!』
ヤトコさんが完全に固まる。マブルさんは八の字にヤトコさんの足に体をこすりつけると、わたしに目を向けた。
『コイツに免じて、あの子猫はあたしが預かってやろう』
エルスさんは身構えた。
『ボクを追い出したいんじゃなかったのかよ』
『人間に餌がもらえるとかいう、甘い考えのやつがよく来るのさ。そんな奴らに餌場を荒らされたらかなわんだろう? だがあんたは違うみたいじゃないか』
『でもボクは――』
マブルさんがヤトコさんの足の間から飛び出して、一瞬にしてエルスさんの首根っこに噛みついた。
『住む前からうだうだ言うんじゃないよ。出ていくなんていつだってできるんだ。嫌になったらそうすればいい』
『わかった! わかったから離せよ!』
エルスさんが暴れる。マブルさんにはなんてことないようで、咥えたまま建物の隙間に入っていった。
「とりあえず、一件落着ですかね。ルクルーンはもう近くなので、わたしたちも行きましょうか」
立ち上がって砂ほこりを払った。ヤトコさんに動き出す気配はない。
「ヤトコさん?」
『も、もういない?』
ヤトコさんは空を見上げまま、そう聞いてきた。
「猫さんのことですか? もういないですけど、足元なら自分で見ればいいのでは?」
『知らないの!? 猫の目を見ると襲われるんだよ!』
「そんな。罠付きゴーレムじゃないんですから。とりあえずもう大丈夫ですよ」
ヤトコさんは片目を閉じ、ゆっくりと目線を下ろす。時間をかけ、それが足元に達すると、肩の力がわかりやすく抜けた。
『ふぅ。危ないところだった』
「何一つ危なくないです。さっさと行きますよ。イグルンさんが来たら、事情とか聞かれて面倒ですから」
流れ始めた人ごみを抜け、坂を上り切った。そこにあるのは宮殿跡で、屋根はないものの柱や壁が残っている。
「中は自由に観光できるんですが、ルクルーンの部屋には許可が無ければ入れません」
『じゃあ許可を取ってあるの?』
「まだですけど、イグルンさんが保護記録を取ってくれたじゃないですか? あれでヤトコさんは異世界人として仮登録されているはずです。すぐに許可は下りますよ」
入ってすぐのところに、背の低い仕切りで囲われた部屋があった。そこがヴェルサーノの宮殿跡の管理室だ。
「すみません」
「あら、フクラさん」
金色の髪を肩のあたりでまっすぐに切ったお姉さんが対応してくれた。お土産屋さんのお姉さんと違ってちゃんと若い。
一度だけここに挨拶しに来たことがある。それでわたしの名前がわかったのだろう。
ちなみにわたしはこのお姉さんのことを覚えていない。
「どんな御用ですか?」
「異世界人を泉の女神さまに会わせてあげたいんです。異世界人の名前はエダキリ ヤトコ」
『ごきげんよう。やとこです』
言葉は通じなくても、ヤトコさんが挨拶したのくらいはわかっただろう。けれどお姉さんは眉間にシワを寄せた。
そして――
「エダキリ、ヤトコさん……ですか? それでしたら、先ほどこちらにいらっしゃいましたが」
そんな訳の分からないことを言いだしたのだ。
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