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第二話 ヒロヒトとヒトミ(後編)
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春も近い2月の末のこと。
私"ヒトミ"は精神隔離病棟の病室の中で、母から届いた手紙を開いていた。
この病室に入った当初は不安でいっぱいだったが、刺激の少ない病室に隔離され、決まった時間に寝て起きて、決まった物語の本を読むだけ、という穏やかな日々を過ごすにつれ、私の精神状態は緩やかに安定していった。
長い間担当医の判断で公開を先延ばしにされていた母の手紙を開くと、そこには介護施設で穏やかに暮らす母の様子が綴られていた。
母も介護施設に引き取られてから精神的に安定してきた様子で、以前私に投げかけていたようなヒステリックな言動は無くなっていた。
そして何故だろうか、久しぶりにヒロヒトの事を思い出していた。
もう二度と会うことは無いであろう彼は、最後まで優しくて、私には勿体ないような人だった。
どこかで平穏に、穏やかな人生を歩んでくれている事を願いながら、私はひとりベッドに横たわる。窓の外を眺めれば穏やかな羊雲が呑気に流れている。
「生きてさえいれば、案外何とかなるものなのかもしれませんね」
それはヒロヒトが時折口にしていた言葉だった。
どうしてそう思うのか問いかける私に、ヒロヒトは「あなたと出会えたからこそ思える事なんです」と笑っていた。
その言葉を思い出す度、私は彼をフッたことを僅かに後悔するような、チクリとした感傷に包まれる。
彼は本当に素敵な人だった。だからこそ、私に付き合って彼まで疲弊してしまう事だけは避けたかったのだ。
"そう、これは仕方ない事だったんだ"
彼の幸せは私に決められるものではないし、それは彼にとっても同じ事だったのだろうから。
私は気分を変えるように起き上がると、卓上に置いてある物語の小説本を開く。
ボロボロになった表紙の文庫本。ヒロヒトと出会う切っ掛けをくれた、あのマリー・サザードの本だ。
"やっぱり、マリーの生き方は逞しくて美しいな"
どん底まで疲れ果てて病んでしまった今となっても、マリーの生き方は私の意識には眩しく映った。
沸き起こるのは、ヒロヒトと過ごしていた頃とはまた違う感情。
「生きてりゃなんとかなるものさ。死んだ者はそこで終わるけれど、私たちはまだ生きてるじゃないか。生きてる以上は、私たちにはその意味があると、ありたいと私は思うよ」
目を通すのはもう何度目かのマリーの言葉に、私の心がそっと温かくなる。
"私も、もう少し生きてみるよ"
誰にともなくそう約束して、私は隔離病棟の外へ出られる日を思った。
***
それから二年ほど経った、四月も近いのどかな小春日和の事。
私は無事退院の日を迎えた。
その日から始まったアパートでの一人暮らしの生活は、私にとって新たな人生の門出だった。
作業所にて短時間勤務の仕事を済ませた後、アパートに帰宅して穏やかな一人暮らしをする日々の繰り返し。これといった刺激も無かったけれど、私は平穏な毎日を送れることにただただ安堵していた。
母と暮らしていた頃は思いもしなかった生活。
そんな日々の最中だった。
A先生の作品の展示会に行こう、とSNSの友人から誘われた。
彼女の名前は"アヤカ"、私より一回り年下の学生さんだった。
「ひとりじゃ心配だから、大人のヒトミさんに着いてきてもらえると嬉しいです」
「私でいいの?誰かご家族の方に来てもらった方がいいんじゃ」
「家族にはA先生の作品の話をすると嫌がられるので」
「そっか……」
僅かに沈黙を入れてから、私は「いいよ」と返答をしていた。
母と確執があった自分の学生時代と、彼女の現在とが、不思議と重なって思えたからかもしれない。
「ありがとうございます!当日はお土産持ってくので^^よろしくお願いします!」
***
明けた八月の小雨日和のこと。
待ち合わせ場所に現れた、青いTシャツに真っ白なロングスカートの少女に私は"こんにちは"と挨拶をする。
「そのコーデ、もしかして……?」
「分かりました?マリーの着てた軍服のイメージカラーで揃えて来ました!」
「いいね!素敵!」
私は至って普通の黒いTシャツに白いボトムスで、彼女のファンとしての徹底ぶりを年上ながら眩しく感じていた。
それから、近場のお店を見て周り少し時間を潰してから、入場の時間を見計らって美術館へ赴く。
館内は静寂に包まれた厳かな空間で、私は時折ヒソヒソ声でアヤカとアイコンタクトを送り合いながら、30分程で鑑賞を済ませた。
「凄かったですね!原案時のキャラクターデザイン案とか、なかなか見られるものじゃないですよ」
「……そうだね」
けれど、私は美術館で目にしたとある人物の後ろ姿が気がかりでならなかった。
もう会うことも、話しかけられる事もないだろうと思っていた人物。
「ヒトミさん……?」
「……あっ、ごめんね。凄かったよね、ちょっとインパクト強くて、思い出してた」
そうですよね、と合わせてくれたアヤカに、私は相槌を打ちながら苦笑って誤魔化す。
思い出されるのは、こちらを横目で振り返って、驚いた表情をした"ヒロヒト"の姿。
その口元が美術館内で声もなく私の名を呼んだのを見て、私は逃げるようにしてその場からアヤカを連れ、立ち去ったのだった。
"彼は私に何か言いたげな顔をしてた。無理もない、あの別れ以降、数年ぶりに会ったんだもの"
あんな酷いフリ方をした私に、ヒロヒトは責める様子もなく声をかけようとしていた。
また会う事があったら、その時私はどうするんだろう。
不意に込み上げてきた、恋しさと懐かしさと申し訳なさがぐちゃぐちゃになって、私はたまらず目頭が熱くなる。
泣いてしまいそうになるすんでの所で目元を被ってから、私はまたアヤカに誤魔化すように笑った。
***
人通りのまばらなカフェの端の席。
僕はその日、A先生の展示会の開かれていた美術館で、久方ぶりに目にしたヒトミの姿を思い出していた。
名前を呼びたくても呼べなかった僕を見て、ヒトミは友人らしき少女と逃げるように立ち去って行った。
別れ際、恐らく本心からではない言葉を告げてしまった事を、彼女はずっと後悔していたのかもしれない。
そう思うと"僕は大丈夫だ、あなたの心の傷に比べればこのくらい平気だよ"と言いたい思いだった。
「別に死ぬわけじゃないよ、この世のどこかで一緒に生きてる訳じゃない」
過去に発していた言葉通り、彼女は生きていてくれだんだなと、それだけでほっとした思いだった。
僕はまだヒトミと居た日々を忘れられずにいた。
それはヒトミ以外の誰かに出会っていなかったという事もあったけれど、彼女ほど心を許せる人間が居なかったという事もあった。
"彼女はどうだったんだろうか"
何度思い返してみても、僕と彼女の間に別れが生じてしまった理由が分からなかった。
自分で言うのもなんだけれど、僕は彼女のためにしてやれることは何でも協力していたつもりだったし、何かしらで彼女が嫌だと言うことはなかったように思う。
もちろん嫌だと言えなかったこともあったかもしれないが、彼女の雰囲気から、言葉から、そういった様子は感じられなかった。
ただひとつあるとすれば、自殺未遂をはかり病院のベッドで目を覚ました彼女が放った言葉。
「どうして」と、彼女はこぼすように言っていた。
自殺未遂を起こすほどヒトミが追い詰められていた事に、気付けなかった僕にも非はあったと思う。
けれど、彼女の辛さを肩代わりしてやる事がが出来なかったことを思えば、おそらくあの日以降になって発作的に別れを切り出した彼女の真意は、"優しさゆえ"だったのではないだろうかと思い至る。
「優しすぎる男ってさ、優しさゆえに無くしちゃう感じしない?」
「わかる、私の推しもそういうとこある……」
隣の席で、推し活の話題で話し込んでいたらしき二人の女性の話が聞こえてくる。
「優しさゆえに突き放しちゃったりとか」
「あるある……自分が悪者になってでも大切な人を守ろうとするタイプね」
(自分が悪者になっても、か)
ヒトミは他人が傷付くのを放っておけない所があった。
それゆえに心を病んでしまったのかもしれないな、と思うと、"自分は彼女の隣にいながら一体何をしてきたんだ、どんだ鈍感馬鹿野郎じゃないか"という感情が湧き上がってきた。
全部僕の勘違いかもしれない。
彼女にとって僕は都合の悪い人間かもしれない。
それでも、僕は。
消せないままアドレス帳に残っていた、ヒトミの番号をタップする。
左耳に当てたスマホに、呼出音が鳴り響く。
あの最後の日。別れ際に見たヒトミの泣き顔を、呼出音に重ねるようにして、僕はゆっくりと思い出していた。
***
「久しぶりね」
アヤカと別れた後の帰り道でのこと。
震える声で、けれどあの別れの日を経たとは思えないような言葉で通話に出た私に、ヒロヒトは数秒間黙っていた。
その数秒間が、やけに長く、まるで数十分間のように感じた。
「体調はどうですか、何か困り事はないですか」
まるで都会に出た娘を気遣う父親のような言葉だなぁ、と思うと同時、変わらず彼らしい優しさを前に、思わず私の口元に笑みがこぼれる。
視界にうつる夜景を眺めながら歩き、私はふと目に入った公園のベンチに座った。
「大丈夫、もう精神科病棟からも退院したし。まだメンタル系の薬は服薬してるけど、今は一錠しか飲んでないから」
「そうですか……少しでも笑って話せる程度には回復してくれたようで、良かったです」
特段問い詰めるような様子もなく、相変わらず私が欲しいと思う言葉をくれるヒロヒトの優しさに、私はあの日唐突に告げた別れの言葉を申し訳なく思う。
こんな風に笑いながら話せる日が来るなんて、あの日は思いもしなかった。
「あなたさえよければ、また電話をしてもいいですか」
ヒロヒトの言葉が、春の雨のように優しく私の心に染み込んでくる。
私の瞳からは涙が溢れていて、私は鼻をすする音を隠しながら思いを口にした。
「あの時はごめんね、ありがとう……ありがとう」
「あなたの心の傷に比べればこのくらい、大丈夫ですよ」
***
アヤカはSNSの友人ヒトミのアカウントに起きた変化に目ざとく気付いていた。
彼女と初めて面会したのは数ヶ月前の事だったけれど、それ以降ぐらいから彼女の投稿画像には笑い声が増えたように思う。
(なにか良い変化があったのかな。ヒトミさん、周りに気を使っちゃう人みたいだったからな……そうだといいんだけど)
ふと、今日更新されたヒトミさんの投稿を見る。
いつも通りの、A先生の新作購入報告の画像のように見えたが、投稿文にはやはりと言うべきか変化が見られた。
"今日、家族と新刊購入しに行ってきました!読むのが楽しみです"
(家族……確かヒトミさんは唯一の肉親のお母さんとは離れて暮らしてたはず。これは……)
「匂わせですねェ~?ヒトミさん」
後ほどの通話の話題にしようと笑みを零しながら、アヤカはヒトミに訪れたささやかな幸せの兆しに安堵していた。
***
「A先生、新作脱稿お疲れ様でした!」
「マリーの話はもう書かれないんですか?また続編やサイドストーリーを読みたいです」
A先生の略称で世間から親しまれている天津川の元には、毎月山のようなファンレターが届く。
この老いさらばえた年齢になってもなお、若い世代からこれだけのレスポンスを貰えることを、ただただありがたく思っていた。
「A先生の作品は弱者に寄り添う力があります」
いつだったか、ファンレターにそんな言葉が書かれていた事を思い出す。
天津川はこれまで特段苦労のない人生を歩んできた。生まれ落ちたのはバブル世代で、実家も太い方。金に困った事もなければ、毒親だいじめだで困ったことも無かった。
ただ、数年前に亡くなった母が口癖のように言っていたのが、「あなたは恵まれているのだから、誰かに分け与えられる人になりなさい」という言葉だった。
「あなたは当たり前のように食べられているごはんを、食べられない人達もいる」
「あなたが当たり前のように受け取っている愛情や善意を、受け取れない人達もいる」
それは母の人生経験から来る言葉であったのだろうが、天津川にとっては呪いのように意識に留まる言葉であった。
彼はただ、呪いの言葉を物語に紡いで来ただけに過ぎなかった。
だのに世の中にはそれに共感する人々が存外多いのだということに気付かされる。
"人々は僕のように恵まれた人ばかりではないのかもしれない"
齢60近くになってようやく、天津川はそんな世の中の実態に気付いたのだった。
ふと、パステルブルーの封筒に入ったファンレターに目が止まる。デジタル機器が普及した昨今、アナログで感想を送ってくるファンは珍しい。
そこにはただ一言、「ありがとうございます、大好きです、家族で愛読させていただきます。A先生の往年のファン、ヒロヒト&ヒトミより」
と記載されていた。
私"ヒトミ"は精神隔離病棟の病室の中で、母から届いた手紙を開いていた。
この病室に入った当初は不安でいっぱいだったが、刺激の少ない病室に隔離され、決まった時間に寝て起きて、決まった物語の本を読むだけ、という穏やかな日々を過ごすにつれ、私の精神状態は緩やかに安定していった。
長い間担当医の判断で公開を先延ばしにされていた母の手紙を開くと、そこには介護施設で穏やかに暮らす母の様子が綴られていた。
母も介護施設に引き取られてから精神的に安定してきた様子で、以前私に投げかけていたようなヒステリックな言動は無くなっていた。
そして何故だろうか、久しぶりにヒロヒトの事を思い出していた。
もう二度と会うことは無いであろう彼は、最後まで優しくて、私には勿体ないような人だった。
どこかで平穏に、穏やかな人生を歩んでくれている事を願いながら、私はひとりベッドに横たわる。窓の外を眺めれば穏やかな羊雲が呑気に流れている。
「生きてさえいれば、案外何とかなるものなのかもしれませんね」
それはヒロヒトが時折口にしていた言葉だった。
どうしてそう思うのか問いかける私に、ヒロヒトは「あなたと出会えたからこそ思える事なんです」と笑っていた。
その言葉を思い出す度、私は彼をフッたことを僅かに後悔するような、チクリとした感傷に包まれる。
彼は本当に素敵な人だった。だからこそ、私に付き合って彼まで疲弊してしまう事だけは避けたかったのだ。
"そう、これは仕方ない事だったんだ"
彼の幸せは私に決められるものではないし、それは彼にとっても同じ事だったのだろうから。
私は気分を変えるように起き上がると、卓上に置いてある物語の小説本を開く。
ボロボロになった表紙の文庫本。ヒロヒトと出会う切っ掛けをくれた、あのマリー・サザードの本だ。
"やっぱり、マリーの生き方は逞しくて美しいな"
どん底まで疲れ果てて病んでしまった今となっても、マリーの生き方は私の意識には眩しく映った。
沸き起こるのは、ヒロヒトと過ごしていた頃とはまた違う感情。
「生きてりゃなんとかなるものさ。死んだ者はそこで終わるけれど、私たちはまだ生きてるじゃないか。生きてる以上は、私たちにはその意味があると、ありたいと私は思うよ」
目を通すのはもう何度目かのマリーの言葉に、私の心がそっと温かくなる。
"私も、もう少し生きてみるよ"
誰にともなくそう約束して、私は隔離病棟の外へ出られる日を思った。
***
それから二年ほど経った、四月も近いのどかな小春日和の事。
私は無事退院の日を迎えた。
その日から始まったアパートでの一人暮らしの生活は、私にとって新たな人生の門出だった。
作業所にて短時間勤務の仕事を済ませた後、アパートに帰宅して穏やかな一人暮らしをする日々の繰り返し。これといった刺激も無かったけれど、私は平穏な毎日を送れることにただただ安堵していた。
母と暮らしていた頃は思いもしなかった生活。
そんな日々の最中だった。
A先生の作品の展示会に行こう、とSNSの友人から誘われた。
彼女の名前は"アヤカ"、私より一回り年下の学生さんだった。
「ひとりじゃ心配だから、大人のヒトミさんに着いてきてもらえると嬉しいです」
「私でいいの?誰かご家族の方に来てもらった方がいいんじゃ」
「家族にはA先生の作品の話をすると嫌がられるので」
「そっか……」
僅かに沈黙を入れてから、私は「いいよ」と返答をしていた。
母と確執があった自分の学生時代と、彼女の現在とが、不思議と重なって思えたからかもしれない。
「ありがとうございます!当日はお土産持ってくので^^よろしくお願いします!」
***
明けた八月の小雨日和のこと。
待ち合わせ場所に現れた、青いTシャツに真っ白なロングスカートの少女に私は"こんにちは"と挨拶をする。
「そのコーデ、もしかして……?」
「分かりました?マリーの着てた軍服のイメージカラーで揃えて来ました!」
「いいね!素敵!」
私は至って普通の黒いTシャツに白いボトムスで、彼女のファンとしての徹底ぶりを年上ながら眩しく感じていた。
それから、近場のお店を見て周り少し時間を潰してから、入場の時間を見計らって美術館へ赴く。
館内は静寂に包まれた厳かな空間で、私は時折ヒソヒソ声でアヤカとアイコンタクトを送り合いながら、30分程で鑑賞を済ませた。
「凄かったですね!原案時のキャラクターデザイン案とか、なかなか見られるものじゃないですよ」
「……そうだね」
けれど、私は美術館で目にしたとある人物の後ろ姿が気がかりでならなかった。
もう会うことも、話しかけられる事もないだろうと思っていた人物。
「ヒトミさん……?」
「……あっ、ごめんね。凄かったよね、ちょっとインパクト強くて、思い出してた」
そうですよね、と合わせてくれたアヤカに、私は相槌を打ちながら苦笑って誤魔化す。
思い出されるのは、こちらを横目で振り返って、驚いた表情をした"ヒロヒト"の姿。
その口元が美術館内で声もなく私の名を呼んだのを見て、私は逃げるようにしてその場からアヤカを連れ、立ち去ったのだった。
"彼は私に何か言いたげな顔をしてた。無理もない、あの別れ以降、数年ぶりに会ったんだもの"
あんな酷いフリ方をした私に、ヒロヒトは責める様子もなく声をかけようとしていた。
また会う事があったら、その時私はどうするんだろう。
不意に込み上げてきた、恋しさと懐かしさと申し訳なさがぐちゃぐちゃになって、私はたまらず目頭が熱くなる。
泣いてしまいそうになるすんでの所で目元を被ってから、私はまたアヤカに誤魔化すように笑った。
***
人通りのまばらなカフェの端の席。
僕はその日、A先生の展示会の開かれていた美術館で、久方ぶりに目にしたヒトミの姿を思い出していた。
名前を呼びたくても呼べなかった僕を見て、ヒトミは友人らしき少女と逃げるように立ち去って行った。
別れ際、恐らく本心からではない言葉を告げてしまった事を、彼女はずっと後悔していたのかもしれない。
そう思うと"僕は大丈夫だ、あなたの心の傷に比べればこのくらい平気だよ"と言いたい思いだった。
「別に死ぬわけじゃないよ、この世のどこかで一緒に生きてる訳じゃない」
過去に発していた言葉通り、彼女は生きていてくれだんだなと、それだけでほっとした思いだった。
僕はまだヒトミと居た日々を忘れられずにいた。
それはヒトミ以外の誰かに出会っていなかったという事もあったけれど、彼女ほど心を許せる人間が居なかったという事もあった。
"彼女はどうだったんだろうか"
何度思い返してみても、僕と彼女の間に別れが生じてしまった理由が分からなかった。
自分で言うのもなんだけれど、僕は彼女のためにしてやれることは何でも協力していたつもりだったし、何かしらで彼女が嫌だと言うことはなかったように思う。
もちろん嫌だと言えなかったこともあったかもしれないが、彼女の雰囲気から、言葉から、そういった様子は感じられなかった。
ただひとつあるとすれば、自殺未遂をはかり病院のベッドで目を覚ました彼女が放った言葉。
「どうして」と、彼女はこぼすように言っていた。
自殺未遂を起こすほどヒトミが追い詰められていた事に、気付けなかった僕にも非はあったと思う。
けれど、彼女の辛さを肩代わりしてやる事がが出来なかったことを思えば、おそらくあの日以降になって発作的に別れを切り出した彼女の真意は、"優しさゆえ"だったのではないだろうかと思い至る。
「優しすぎる男ってさ、優しさゆえに無くしちゃう感じしない?」
「わかる、私の推しもそういうとこある……」
隣の席で、推し活の話題で話し込んでいたらしき二人の女性の話が聞こえてくる。
「優しさゆえに突き放しちゃったりとか」
「あるある……自分が悪者になってでも大切な人を守ろうとするタイプね」
(自分が悪者になっても、か)
ヒトミは他人が傷付くのを放っておけない所があった。
それゆえに心を病んでしまったのかもしれないな、と思うと、"自分は彼女の隣にいながら一体何をしてきたんだ、どんだ鈍感馬鹿野郎じゃないか"という感情が湧き上がってきた。
全部僕の勘違いかもしれない。
彼女にとって僕は都合の悪い人間かもしれない。
それでも、僕は。
消せないままアドレス帳に残っていた、ヒトミの番号をタップする。
左耳に当てたスマホに、呼出音が鳴り響く。
あの最後の日。別れ際に見たヒトミの泣き顔を、呼出音に重ねるようにして、僕はゆっくりと思い出していた。
***
「久しぶりね」
アヤカと別れた後の帰り道でのこと。
震える声で、けれどあの別れの日を経たとは思えないような言葉で通話に出た私に、ヒロヒトは数秒間黙っていた。
その数秒間が、やけに長く、まるで数十分間のように感じた。
「体調はどうですか、何か困り事はないですか」
まるで都会に出た娘を気遣う父親のような言葉だなぁ、と思うと同時、変わらず彼らしい優しさを前に、思わず私の口元に笑みがこぼれる。
視界にうつる夜景を眺めながら歩き、私はふと目に入った公園のベンチに座った。
「大丈夫、もう精神科病棟からも退院したし。まだメンタル系の薬は服薬してるけど、今は一錠しか飲んでないから」
「そうですか……少しでも笑って話せる程度には回復してくれたようで、良かったです」
特段問い詰めるような様子もなく、相変わらず私が欲しいと思う言葉をくれるヒロヒトの優しさに、私はあの日唐突に告げた別れの言葉を申し訳なく思う。
こんな風に笑いながら話せる日が来るなんて、あの日は思いもしなかった。
「あなたさえよければ、また電話をしてもいいですか」
ヒロヒトの言葉が、春の雨のように優しく私の心に染み込んでくる。
私の瞳からは涙が溢れていて、私は鼻をすする音を隠しながら思いを口にした。
「あの時はごめんね、ありがとう……ありがとう」
「あなたの心の傷に比べればこのくらい、大丈夫ですよ」
***
アヤカはSNSの友人ヒトミのアカウントに起きた変化に目ざとく気付いていた。
彼女と初めて面会したのは数ヶ月前の事だったけれど、それ以降ぐらいから彼女の投稿画像には笑い声が増えたように思う。
(なにか良い変化があったのかな。ヒトミさん、周りに気を使っちゃう人みたいだったからな……そうだといいんだけど)
ふと、今日更新されたヒトミさんの投稿を見る。
いつも通りの、A先生の新作購入報告の画像のように見えたが、投稿文にはやはりと言うべきか変化が見られた。
"今日、家族と新刊購入しに行ってきました!読むのが楽しみです"
(家族……確かヒトミさんは唯一の肉親のお母さんとは離れて暮らしてたはず。これは……)
「匂わせですねェ~?ヒトミさん」
後ほどの通話の話題にしようと笑みを零しながら、アヤカはヒトミに訪れたささやかな幸せの兆しに安堵していた。
***
「A先生、新作脱稿お疲れ様でした!」
「マリーの話はもう書かれないんですか?また続編やサイドストーリーを読みたいです」
A先生の略称で世間から親しまれている天津川の元には、毎月山のようなファンレターが届く。
この老いさらばえた年齢になってもなお、若い世代からこれだけのレスポンスを貰えることを、ただただありがたく思っていた。
「A先生の作品は弱者に寄り添う力があります」
いつだったか、ファンレターにそんな言葉が書かれていた事を思い出す。
天津川はこれまで特段苦労のない人生を歩んできた。生まれ落ちたのはバブル世代で、実家も太い方。金に困った事もなければ、毒親だいじめだで困ったことも無かった。
ただ、数年前に亡くなった母が口癖のように言っていたのが、「あなたは恵まれているのだから、誰かに分け与えられる人になりなさい」という言葉だった。
「あなたは当たり前のように食べられているごはんを、食べられない人達もいる」
「あなたが当たり前のように受け取っている愛情や善意を、受け取れない人達もいる」
それは母の人生経験から来る言葉であったのだろうが、天津川にとっては呪いのように意識に留まる言葉であった。
彼はただ、呪いの言葉を物語に紡いで来ただけに過ぎなかった。
だのに世の中にはそれに共感する人々が存外多いのだということに気付かされる。
"人々は僕のように恵まれた人ばかりではないのかもしれない"
齢60近くになってようやく、天津川はそんな世の中の実態に気付いたのだった。
ふと、パステルブルーの封筒に入ったファンレターに目が止まる。デジタル機器が普及した昨今、アナログで感想を送ってくるファンは珍しい。
そこにはただ一言、「ありがとうございます、大好きです、家族で愛読させていただきます。A先生の往年のファン、ヒロヒト&ヒトミより」
と記載されていた。
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