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第一話(読み切り完結)

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彼女は涙を零して言った。

「貴方はおかしい」
「貴方は私をひとつも理解していない」
「私の事なんかひとつも愛していない」

僕は彼女が何を言っているのか、全く分からなかった。僕は彼女と同じように彼女を愛して居ると思っていた。
綺麗な服も買ってやったし、寂しいと嘆く日は朝まで抱きしめてやったし、暮らすに何不自由ないだけの住処も資金も分け与えていたはずだった。

「何処かに他に女でも居るんでしょう、このペテン師」

僕の頬を思いっきり引っぱたいて、彼女は繁華街の外れに建つマンションの部屋を出ていった。
酷く晴れた、嘘のような日の事だった。

***

僕は幼い頃から、人を愛するという事がよく分からなかった。

幼い頃から一緒に暮らしていたのは、やや物忘れがある祖母がひとり。父は僕が赤子の頃に家を出て行って音信不通、母はそれを気に病んで命を絶った。

入学した学校では、片親という理由からか、僕が無口な所為なのか、虐めてくる者が後を絶たなかった。
体に傷こそ付けられなかったものの、数々の心無い言葉により、僕の心には見えない消えない傷が数え切れないほど付いて行った。

そんな中で、僕に希望を与えてくれたのは本だった。
本を読んでいれば誰からの悪口も辛い言葉も聞き流せたし、自分のいる世界ではない綺麗な世界に逃げることができた。

やがて僕はひとつの本の中に登場する彼女に心を奪われた。

“マリー・サザード“

幼い頃に負った身体中に広がる火傷跡を、醜いと言われながら育った女傭兵。
女の身でありながら、誰に媚びることも無く、己の信じた道を曲げることも無く、自分の生き様を貫き、守り抜いたもののために死ぬ。
そんな彼女が、僕には何よりも崇高で美しい存在に見えていた。
現実に彼女は存在しないし、架空の作られたキャラクターである。当然だ、そんな事は百も承知だった。
それでも、それを理解しても、僕は彼女の存在を支えにしなければ生き続けられない程に、彼女に心を囚われていた。
彼女の生き様が眩しかった。
己を蔑まれながらも、周囲に敵を作りながらも、それでも己を曲げない、最期まで自分の生き様を貫き通す。
彼女は僕の人生にとって、希望であり、光だった。

それから、僕は彼女の生き様を心に思いながら、時折不登校になりながらも日々を耐え抜き、どうにか高校までを卒業した。
彼女が登場する小説の執筆者のサイン会があると知ったのは、そんな卒業の年の夏の事だった。

僕は黒いパーカーとジーンズで、ナップザックひとつに荷物を詰め込んで、都心部のサイン会場まで向かった。
大勢の知らない人目の前に出るのは初めての事だったけれど、あのマリーを生み出した作家がどんな人間なのか、僕はとても興味を惹かれていた。
人目を避けるようにフードを目深に被って、サイン会の列に並んでいると、前に並んでいたOL風の女性が鞄からごそごそと単行本を取り出していた。
それは僕が長らく愛読してきた、マリーが登場するあの小説の単行本、しかもかなり読み古されたボロボロの単行本だった。

「この人も僕と同じ作品が好きでここに並んでいるのか」

それを知った途端、僕はなんだか目の前の彼女が赤の他人とは思えなくて、ほんの少し心の壁が剥がれて行くような気がしていた。

「ここに並んでいる他の人にもきっと、僕と同じ気持ちの人がいるのかもしれない」

不思議とそんな気持ちにさせられて、息苦しいまま並んでいたはずの待機列も、気付けばなんだか同類縁者たちの集まりのような気がして、僕は初めて現実世界で“嬉しい“という気持ちを抱いていた。

サイン会列の終わりで待っていたのは、老いた白髪に太縁眼鏡を掛けたさえない小説家だった。
名前を告げると作業的にサインを書かれて、あっという間に列から省かれる。
言いたかった事も、問いたかった事も、言葉にする暇も無かった。

なんだか思っていた先生と違ったなぁ、とぼんやり思いながら、僕は缶コーヒーを飲んで夜行バスに乗る。
それでも、あの列の中には確かに僕と似たような気持ちの人が居たのだ、そう思うと僕は確かにあそこに居たんだ、生きていたんだ、という気がして、無性に目じりが熱くなった。

“あそこに永遠に居れば、僕はきっとなんの苦もなく息ができて、友達もできるんだろう“

そう思うと、これまで胸に詰め込んでいた毒虫のような吐き気がだくだくと溢れてきて、僕は人気の無い田舎行きの夜行バスの中で、とうに枯れたと思っていた涙を零して静かに泣いていた。
そんな時声を掛けて来たのは彼女だった。

「さっき、A先生のサイン会に行かれてましたよね、私もなんです」

それは、サイン会の列で僕の後ろに並んでいたと言う、同郷の女性だった。
同じファンならまだしも、まさか同郷の人間とは思わず、嬉しくて声をかけて来たらしかった。

「驚かせてすみません、わたしA先生の処女作が好きで……もう十年近く昔の本ですけど、ずっと好きなんです。思い出したら、なんか私も嬉しくて泣けて来ちゃって」

彼女が言ったのは、マリーが登場するシリーズの事だった。
嬉し泣きしていると彼女が勘違いしたらしい事はともかく、僕はその嘘のような出会いがあまりに嬉しくて、珍しく自分から本の好みを、マリーの魅力を語っていた。

「僕も、好きなんです、マリーの生き方が」

そう語った僕に、彼女は“ほんとですか?なんだかこんなの嘘みたい“と、実に嬉しそうに笑った。
彼女は自分をヒトミと名乗った。

それから僕は彼女と連絡を取り合うようになった。
その話題は殆どがA先生の作品の話で、僕はこんなに他人と楽しく話せる自分が居たのだと、我が事ながら驚いたのだった。

***

彼と、ヒロヒトと出会ったのは、A先生のサイン会の帰りで、田舎の地元行きの夜行バスに見覚えのある人が居るなと思い、自分から声をかけたのが始まりだった。
同じA先生のファンだと知ってあっという間に打ち解けてから、私たちは頻繁に連絡を取り合ったり、何度か会っては食事を共にした。

ヒロヒトはとても謙虚な人だった。
私もそれ程主張が強い方では無かったけれど、それでも彼はいつも敬語だったし、礼儀正しく一歩引いた態度も崩さなかった。

私は生まれた頃から、両親や祖父母にも恵まれ、比較的整った環境で育って来た方だと思う。
だからという訳ではないけれど、ふとこぼす彼の過去の話や、家庭環境の話がどこか遠い異国の話のように思えて、“そんな境遇で育つ人もいるんだな“と、同情にも似た感情を持っていたように思う。

ヒロヒトと比べる訳では無いけれど、私も家族が多かった分、別れも多かった。
五歳下の弟は生まれつき心臓に疾患があり、赤子のうちに亡くなった。
父は私が中学の頃に病で亡くなったし、祖父母も高校の頃に相次いで老衰で亡くなった。
親戚縁者の葬式にも参列したし、幼いながらに人の死に対して悟りのようなものを持っていたと思う。

私の母は若い頃から精神的な病があって、それでも私をここまで育ててくれた。
それには感謝しているのだけれど、母は度々精神バランスが不安定になり、私にヒステリックに罵声を浴びせる事があった。
今ではそういう病の症状だと分かっていたから、幾分分別が付いていたけれど、幼い頃は“母はどうして私に怒っているのか、よく分からないけれど私が悪いんだろう“と言う考えしか浮かばなかった。
だからというべきか、私は架空の本の世界に逃げ込んだ。
呆けも出てきていた老いさらばえた祖父母に頼る訳にも行かず、私は母のヒステリックな声から逃れるように、自室に篭ってA先生の本を読んだ。

“マリー・サザード“

彼女の生き様は、私の憧れだった。
その心根はいつでも気丈でしなやかで、何者にも屈しない自分の論理を、信念を持っていた。
弱いものには優しく、悪辣者には裁きを与え、信じた者を生かすために己を犠牲にする。
マリーは私にとって、理想の女性像そのものだった。
自分の母と真逆な彼女の生き方は、私のなかでみるみるうちに“擬似的な理想の母親像“に変わって行った。

“私もマリーのような女性になりたい“

そう願って、気付けば“彼女ならどうするだろう、彼女ならどう選択するだろう“と考えるようになっていた。
その度、私は不思議と自分の行動に自信を持つ事ができた。まるでマリーの考え方が流れ込んで来るような気がした。

そして、二十歳の夏の日。
それまで母の言い分に反論などした事がなかった私は、珍しく母と口論をして、二人暮らしの家を飛び出した。

向かったのはあのヒロヒトの家だった。

夏の夕立に振られてずぶ濡れの私を、彼は心配しながら受け入れてくれた。
私の家庭事情を話していたせいもあって、事の次第を話すと彼は「大変でしたね」と言って、文句も言わず私をそこに住まわせてくれた。

それから私たちは静かに同棲生活を始めた。
彼との生活はこれまでになく穏やかで、楽しかった。
仕事から帰宅すると、彼がいて、他愛ない気の合う話をして、慎ましい食事をして、同じ部屋で眠りにつく。
永遠というものがあるなら、きっと今のことなのだろうと思う程に、毎日が平穏で、なんの憂いも無かった。

そんなある日の事だった、私たちの元へ母が警察官を伴って訪れた。
母は「貴女おかしいの!?」と、相変わらずヒステリックに叫んでいた。隣に立っていたのは交番勤務らしい冴えない顔の警察官で、探偵に依頼して居場所を突き止めたらしい母に渋々同行してやってきた様だった。
私が母に精神的な病がある事を告げると、事を察したらしい警察官は私たちに一礼して、母の背を押して帰って行った。
けれどヒロヒトだけは「良かったんですか」と、私に問いかけた。

「君の生き方に文句は言いませんが、僕の母のようになってしまってからでは遅いのでは」

知っている。彼の母は、夫が失踪した事で気が触れて命を絶ったらしいと。
けれど、私は母の伴侶でもなければ、死ぬまで共に居なければいけない理由もないのだ。
私は母のために生まれてはいないし、母もまた私のために生まれてはいないはずだろう。
私も母もいい大人だ、誰に人生を左右される必要も無いはずでは無いか。

「私の母は大丈夫です、私がここに居ると分かっているんですから」

言い訳だろう。けれど彼はそうとでも言わねば納得しないだろうと思っていた。
“母ももうすぐ七十になるし、何処かの老人ホームにでも預けた方が良いんだろうか“
そんな事を考えながら、私はヒロヒトとの平穏な家に戻った。

***

ヒトミは時折、人との別れに関してドライであると感じる事があった。

「別に死ぬわけじゃないし、この世のどこかで一緒に生きてる訳じゃない」

それは人の死を数多く経験してきた彼女だからこその言葉だったのだろう。
恵まれた環境で育った方だと彼女は言うけれど、彼女もなかなか影の差した人生を歩んで来た方だろうと思う。
親や親戚、片手では足りない人間たちの死を、歳若い頃から幾度も目にしてきたのだから。

「生きてればなんとかなるもんだよ、あっ、これマリーも言ってたよね」

そう言って笑った彼女が嘘のように思い起こされる。
ささやかに幸せな日々の終わりは、いつからか忍び寄るようにして訪れていた。

帰宅すると、彼女が電気も付けずにリビングで突っ伏していた。
出かけた時のままの仕事着を羽織った姿だったため、仕事から帰宅したまま寝入ってしまったのだろうと思っていたのだが、どうやら違ったらしい。

照明を付けてみれば、テーブルの上にはアルコール類の空き缶が散乱していた。
カーペットに転がる缶の横には、多数の使用済みの錠剤のパッケージが転がっていた。


翌朝、運び込まれた大病院の病室で目を覚ました彼女は、すっかり憔悴した顔で「なんで」と繰り返していた。
そう言いたいのはむしろ僕の方だった。
今まで変わらぬ笑顔を見せてくれていた彼女が、どうしてこんな事になってしまったのか。

病院から渡された紙面には、彼女の精神鑑定の結果“母親と同じ病がある“という事だけが記されていた。

***

職場でそんなことを言われるのはいつもの事だった。
私は母のヒステリックさもあり、他人からあれこれ感情的に言われる事に関しては幾らか耐性がある方だと思っていたし、私が避ければその言葉が後輩たちに向くことも知っていたから、ただ右から左に雑言を聞き流しては、その傍らで後輩たちを励ましていた。

けれどそんな私にも、限界は音もなく訪れた。
ある朝いつものように支度をしていた時だった、耳鳴りが止まなくなった。
翌日には頭痛が、やがては腹痛が襲って来るようになった。
それでも私は彼に心配を掛けたくなくて、何食わぬ顔で仕事に向かった。
高校の時分に借りていた奨学金もあったから、仕事を辞める選択肢など私には浮かばなかった。

そして半年程過ぎた夏の日の事。
何気なく通り過ぎた街頭のテレビで、急性アルコール中毒で死亡した人のニュースが流れていた。
死んだ人はいいな、貧乏くじを引くのは残された人ばっかりだ、なんて思いながらスーパーの前を通る。

“そっか、死んじゃえば仕事に行かなくていいんだ“

そんな考えが過ぎって、私は気付けば大量のアルコールを手に帰宅していた。
ヒロヒトには黙って通院した病院で処方されていた睡眠導入剤を持ち出す。
電気など付けるのも面倒くさかった。
窓からうっすら差し込む月明かりだけを見据えて、私は錠剤とアルコールを口に含んだ。


目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。
傍らの椅子には、不安げな顔で何かを言いたげなヒロヒトが座っていた。
「どうして」
(死なせてくれなかったの)
そう言おうとして、私は気付いた。
私はヒロヒトに自分と同じような苦しみを背負わせようとしていたんだと。
点滴を受けて明瞭になってきた意識で、私はヒロヒトと別れる事を意識していた。

***

退院してもヒトミは仕事に行くとか聞かなかった。
金銭面は法的な手当てならば受けられるのだし、僕の稼ぎもあるのだから、ゆっくり静養すれば良いものなのに、まるで働いていなければ居場所がないとでも言うような、そんな有様だった。
職業安定所にでも連れて行ってやれば落ち着くだろうと、週末に連れて行っては時間を潰した。
気付けばA先生の作品の話など全くしなくなっていた。

そんなある日、彼女は涙を零して「貴方はおかしい」と言い出した。

***

「貴方はおかしい」
(おかしいのは私)

「貴方は私をひとつも理解していない」
(貴方ほど私を理解する人はきっと他に居ない)

「私の事なんかひとつも愛していない」
(貴方ほど私を気遣ってくれる人はいなかった)

私がが何を言っているのか、全く分からないという顔で彼は私を見ていた。
当然だろう、おかしいのは私だ、私がひとりで壊れて、ひとりで離れていくのだから。

彼には感謝している。
欲しい服も様々買って貰ったし、精神的に落ち着かない日は朝まで抱きしめて貰ったこともあった。
けれど、だからこそ私は彼と共に居てはいけないのだ。
私が一緒に居ては、彼まで疲弊してしまうだろう、あの日の母と私のように。

「何処かに他に女でも居るんでしょう、このペテン師」

罪のない彼の頬を思いっきり引っぱたいて、私は鞄ひとつの荷物を手に、繁華街の外れに建つマンションの部屋を飛び出した。
憎らしいほどに良く晴れた日の事だった。

***

それから数年が経った。
僕はヒトミが居なくても意外と生きることが出来ていた。
当然だ、学生の頃のような虐めには合って居なかったのだから。
彼女の身を案じる事はあったけれど、家族でも伴侶でもない僕はどうすることも出来なかったし、それに不思議と、彼女ならまた幸せになれるだろうと、そんな気がしていた。

「別に死ぬわけじゃないよ、この世のどこかで一緒に生きてる訳じゃない」

ふと、街中でどこか懐かしい言葉に振り向く。
けれど、そこにはいつもと変わらぬ人混みと見慣れた夜空があるだけだった。

「生きてればなんとかなるもんだ」

僕はひとりマリーの言葉を呟いて、年の瀬の荷物を手に自宅への道を急いだ。
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