「奇遇ですね。私の婚約者と同じ名前だ」

ねむたん

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学園の広々とした中庭に、初夏の穏やかな風が吹き抜けていた。リリエットは、机の上に広げた紅茶のカップをそっと手に取りながら、視線を遠くの人影に向けた。

クラウディオは相変わらず、周囲の貴族子女たちと談笑していた。穏やかな表情で会話を交わし、時折、相手の冗談に微笑んでいる。品のある立ち振る舞いと、その端正な容姿に誰もが憧れを抱いていた。特に女性たちは、彼の些細な仕草にさえ目を輝かせていた。

だが、リリエットが彼に近づくと、その空気は一変する。

「クラウディオ様、少しお話しませんか?」

勇気を出して声をかけると、彼は一瞬だけ視線を向けたが、すぐにそっけなく目を逸らした。

「今は用がある」

短い言葉だけを残し、再び周囲との会話に戻る。リリエットの存在など最初からなかったかのように。

その光景を見ていた学園の生徒たちは、あからさまに視線を交わし、ひそひそと噂を囁き始めた。

「あの婚約者殿、相変わらず冷たいわね」
「まるで空気みたい。あそこまで露骨に避けられるなんて、見てるこっちが恥ずかしくなるわ」
「いったいなにをしたら婚約者にあんな態度をとられるのかしら」

リリエットはそれらの言葉を、聞こえなかったふりをした。

彼はもともとこういう人だから。きっと、ただ人前で照れているだけ。

そう思い込もうとするたびに、胸の奥が締めつけられる。もし本当に彼が恥ずかしがっているのなら、どうして誰にでも愛想よく振る舞うのに、自分にだけはこうなのだろう。

「リリエット」

背後から柔らかい声が響いた。振り向くと、セシルが心配そうにこちらを見ていた。

「もう、うちのお兄様ったらいまだに思春期を拗らせているのよ……リリエットが無理に構ってあげる必要はないわ」

リリエットは微笑んでみせた。

「無理なんてしていないわ。ただ……このままではいけないと考えていただけよ」

手元のカップに残る紅茶はすっかり冷めていた。

学園の校庭には、柔らかな陽光が降り注いでいた。リリエットは木陰に腰を下ろし、セシルと並んで咲き誇る花々を眺めていた。風がそっと髪を揺らし、白や黄色の花弁がふわりと舞う。

「この花、去年より少し鮮やかになった気がするわ」

セシルが微笑みながら指で花の縁をなぞる。リリエットもそれに倣い、そっと指先で撫でた。

「ええ、きっと陽の光がよく当たる場所に植え替えられたのね」

穏やかな時間。だが、リリエットの視線は花を映しながらも、心は遠い記憶へと遡っていた。

――初めて彼を見たのは、ガーデンパーティーでのことだった。

伯爵家の嫡男、クラウディオ・ヴェステンベルク。すらりとした姿、凛々しい顔立ち、冷ややかでありながらどこか憂いを帯びた瞳。その姿を一目見た瞬間、リリエットの胸は高鳴った。

その後、彼の姿が頭から離れなかった。夢にまで見るほどに心を奪われ、リリエットは両親に彼のことを話した。

「まあ、リリエットがそこまで気に入るなんて珍しいわね」

母は驚きながらも、微笑ましそうに娘を見つめた。父は腕を組み、少し考え込んでいたが、やがて「それなら、打診してみるか」と呟いた。

クラウゼヴィッツ侯爵家はヴェステンベルク伯爵家よりも格上の家柄だった。侯爵家の娘が伯爵家の嫡男を気に入ったとなれば、婚約の打診は決して無茶な話ではない。むしろ、伯爵家にとっては大きな縁となる。

予想通り、ヴェステンベルク家は迷うことなく申し出を受け入れた。

数日後、リリエットの十四歳の誕生日。盛大に開かれた誕生会の場で、両家の正式な婚約が発表された。

「本日をもって、我が娘リリエットと、ヴェステンベルク伯爵家の嫡男クラウディオの婚約をここに結ぶ」

父の宣言に、会場は祝福の声で満たされた。リリエットは煌びやかなドレスに身を包み、幸福の絶頂にいた。隣に立つクラウディオは口を引き結び、神妙な表情をしていたが、それもきっと緊張のせいだと思っていた。

彼が自分の婚約者になる――それだけで、胸がいっぱいだった。

「リリエット?」

セシルの声が、思考を現実に引き戻す。

「何か考え事?」

リリエットはそっと微笑み、首を横に振った。

「いいえ、ちょっと昔のことを思い出していただけ」

花の香りが、そよ風に乗って広がっていった。
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