1 / 23
1
しおりを挟む
学園の広々とした中庭に、初夏の穏やかな風が吹き抜けていた。リリエットは、机の上に広げた紅茶のカップをそっと手に取りながら、視線を遠くの人影に向けた。
クラウディオは相変わらず、周囲の貴族子女たちと談笑していた。穏やかな表情で会話を交わし、時折、相手の冗談に微笑んでいる。品のある立ち振る舞いと、その端正な容姿に誰もが憧れを抱いていた。特に女性たちは、彼の些細な仕草にさえ目を輝かせていた。
だが、リリエットが彼に近づくと、その空気は一変する。
「クラウディオ様、少しお話しませんか?」
勇気を出して声をかけると、彼は一瞬だけ視線を向けたが、すぐにそっけなく目を逸らした。
「今は用がある」
短い言葉だけを残し、再び周囲との会話に戻る。リリエットの存在など最初からなかったかのように。
その光景を見ていた学園の生徒たちは、あからさまに視線を交わし、ひそひそと噂を囁き始めた。
「あの婚約者殿、相変わらず冷たいわね」
「まるで空気みたい。あそこまで露骨に避けられるなんて、見てるこっちが恥ずかしくなるわ」
「いったいなにをしたら婚約者にあんな態度をとられるのかしら」
リリエットはそれらの言葉を、聞こえなかったふりをした。
彼はもともとこういう人だから。きっと、ただ人前で照れているだけ。
そう思い込もうとするたびに、胸の奥が締めつけられる。もし本当に彼が恥ずかしがっているのなら、どうして誰にでも愛想よく振る舞うのに、自分にだけはこうなのだろう。
「リリエット」
背後から柔らかい声が響いた。振り向くと、セシルが心配そうにこちらを見ていた。
「もう、うちのお兄様ったらいまだに思春期を拗らせているのよ……リリエットが無理に構ってあげる必要はないわ」
リリエットは微笑んでみせた。
「無理なんてしていないわ。ただ……このままではいけないと考えていただけよ」
手元のカップに残る紅茶はすっかり冷めていた。
学園の校庭には、柔らかな陽光が降り注いでいた。リリエットは木陰に腰を下ろし、セシルと並んで咲き誇る花々を眺めていた。風がそっと髪を揺らし、白や黄色の花弁がふわりと舞う。
「この花、去年より少し鮮やかになった気がするわ」
セシルが微笑みながら指で花の縁をなぞる。リリエットもそれに倣い、そっと指先で撫でた。
「ええ、きっと陽の光がよく当たる場所に植え替えられたのね」
穏やかな時間。だが、リリエットの視線は花を映しながらも、心は遠い記憶へと遡っていた。
――初めて彼を見たのは、ガーデンパーティーでのことだった。
伯爵家の嫡男、クラウディオ・ヴェステンベルク。すらりとした姿、凛々しい顔立ち、冷ややかでありながらどこか憂いを帯びた瞳。その姿を一目見た瞬間、リリエットの胸は高鳴った。
その後、彼の姿が頭から離れなかった。夢にまで見るほどに心を奪われ、リリエットは両親に彼のことを話した。
「まあ、リリエットがそこまで気に入るなんて珍しいわね」
母は驚きながらも、微笑ましそうに娘を見つめた。父は腕を組み、少し考え込んでいたが、やがて「それなら、打診してみるか」と呟いた。
クラウゼヴィッツ侯爵家はヴェステンベルク伯爵家よりも格上の家柄だった。侯爵家の娘が伯爵家の嫡男を気に入ったとなれば、婚約の打診は決して無茶な話ではない。むしろ、伯爵家にとっては大きな縁となる。
予想通り、ヴェステンベルク家は迷うことなく申し出を受け入れた。
数日後、リリエットの十四歳の誕生日。盛大に開かれた誕生会の場で、両家の正式な婚約が発表された。
「本日をもって、我が娘リリエットと、ヴェステンベルク伯爵家の嫡男クラウディオの婚約をここに結ぶ」
父の宣言に、会場は祝福の声で満たされた。リリエットは煌びやかなドレスに身を包み、幸福の絶頂にいた。隣に立つクラウディオは口を引き結び、神妙な表情をしていたが、それもきっと緊張のせいだと思っていた。
彼が自分の婚約者になる――それだけで、胸がいっぱいだった。
「リリエット?」
セシルの声が、思考を現実に引き戻す。
「何か考え事?」
リリエットはそっと微笑み、首を横に振った。
「いいえ、ちょっと昔のことを思い出していただけ」
花の香りが、そよ風に乗って広がっていった。
クラウディオは相変わらず、周囲の貴族子女たちと談笑していた。穏やかな表情で会話を交わし、時折、相手の冗談に微笑んでいる。品のある立ち振る舞いと、その端正な容姿に誰もが憧れを抱いていた。特に女性たちは、彼の些細な仕草にさえ目を輝かせていた。
だが、リリエットが彼に近づくと、その空気は一変する。
「クラウディオ様、少しお話しませんか?」
勇気を出して声をかけると、彼は一瞬だけ視線を向けたが、すぐにそっけなく目を逸らした。
「今は用がある」
短い言葉だけを残し、再び周囲との会話に戻る。リリエットの存在など最初からなかったかのように。
その光景を見ていた学園の生徒たちは、あからさまに視線を交わし、ひそひそと噂を囁き始めた。
「あの婚約者殿、相変わらず冷たいわね」
「まるで空気みたい。あそこまで露骨に避けられるなんて、見てるこっちが恥ずかしくなるわ」
「いったいなにをしたら婚約者にあんな態度をとられるのかしら」
リリエットはそれらの言葉を、聞こえなかったふりをした。
彼はもともとこういう人だから。きっと、ただ人前で照れているだけ。
そう思い込もうとするたびに、胸の奥が締めつけられる。もし本当に彼が恥ずかしがっているのなら、どうして誰にでも愛想よく振る舞うのに、自分にだけはこうなのだろう。
「リリエット」
背後から柔らかい声が響いた。振り向くと、セシルが心配そうにこちらを見ていた。
「もう、うちのお兄様ったらいまだに思春期を拗らせているのよ……リリエットが無理に構ってあげる必要はないわ」
リリエットは微笑んでみせた。
「無理なんてしていないわ。ただ……このままではいけないと考えていただけよ」
手元のカップに残る紅茶はすっかり冷めていた。
学園の校庭には、柔らかな陽光が降り注いでいた。リリエットは木陰に腰を下ろし、セシルと並んで咲き誇る花々を眺めていた。風がそっと髪を揺らし、白や黄色の花弁がふわりと舞う。
「この花、去年より少し鮮やかになった気がするわ」
セシルが微笑みながら指で花の縁をなぞる。リリエットもそれに倣い、そっと指先で撫でた。
「ええ、きっと陽の光がよく当たる場所に植え替えられたのね」
穏やかな時間。だが、リリエットの視線は花を映しながらも、心は遠い記憶へと遡っていた。
――初めて彼を見たのは、ガーデンパーティーでのことだった。
伯爵家の嫡男、クラウディオ・ヴェステンベルク。すらりとした姿、凛々しい顔立ち、冷ややかでありながらどこか憂いを帯びた瞳。その姿を一目見た瞬間、リリエットの胸は高鳴った。
その後、彼の姿が頭から離れなかった。夢にまで見るほどに心を奪われ、リリエットは両親に彼のことを話した。
「まあ、リリエットがそこまで気に入るなんて珍しいわね」
母は驚きながらも、微笑ましそうに娘を見つめた。父は腕を組み、少し考え込んでいたが、やがて「それなら、打診してみるか」と呟いた。
クラウゼヴィッツ侯爵家はヴェステンベルク伯爵家よりも格上の家柄だった。侯爵家の娘が伯爵家の嫡男を気に入ったとなれば、婚約の打診は決して無茶な話ではない。むしろ、伯爵家にとっては大きな縁となる。
予想通り、ヴェステンベルク家は迷うことなく申し出を受け入れた。
数日後、リリエットの十四歳の誕生日。盛大に開かれた誕生会の場で、両家の正式な婚約が発表された。
「本日をもって、我が娘リリエットと、ヴェステンベルク伯爵家の嫡男クラウディオの婚約をここに結ぶ」
父の宣言に、会場は祝福の声で満たされた。リリエットは煌びやかなドレスに身を包み、幸福の絶頂にいた。隣に立つクラウディオは口を引き結び、神妙な表情をしていたが、それもきっと緊張のせいだと思っていた。
彼が自分の婚約者になる――それだけで、胸がいっぱいだった。
「リリエット?」
セシルの声が、思考を現実に引き戻す。
「何か考え事?」
リリエットはそっと微笑み、首を横に振った。
「いいえ、ちょっと昔のことを思い出していただけ」
花の香りが、そよ風に乗って広がっていった。
844
あなたにおすすめの小説
失った真実の愛を息子にバカにされて口車に乗せられた
しゃーりん
恋愛
20数年前、婚約者ではない令嬢を愛し、結婚した現国王。
すぐに産まれた王太子は2年前に結婚したが、まだ子供がいなかった。
早く後継者を望まれる王族として、王太子に側妃を娶る案が出る。
この案に王太子の返事は?
王太子である息子が国王である父を口車に乗せて側妃を娶らせるお話です。
天然と言えば何でも許されると思っていませんか
今川幸乃
恋愛
ソフィアの婚約者、アルバートはクラスの天然女子セラフィナのことばかり気にしている。
アルバートはいつも転んだセラフィナを助けたり宿題を忘れたら見せてあげたりとセラフィナのために行動していた。
ソフィアがそれとなくやめて欲しいと言っても、「困っているクラスメイトを助けるのは当然だ」と言って聞かず、挙句「そんなことを言うなんてがっかりだ」などと言い出す。
あまり言い過ぎると自分が悪女のようになってしまうと思ったソフィアはずっともやもやを抱えていたが、同じくクラスメイトのマクシミリアンという男子が相談に乗ってくれる。
そんな時、ソフィアはたまたまセラフィナの天然が擬態であることを発見してしまい、マクシミリアンとともにそれを指摘するが……
二度目の恋
豆狸
恋愛
私の子がいなくなって半年と少し。
王都へ行っていた夫が、久しぶりに伯爵領へと戻ってきました。
満面の笑みを浮かべた彼の後ろには、ヴィエイラ侯爵令息の未亡人が赤毛の子どもを抱いて立っています。彼女は、彼がずっと想ってきた女性です。
※上記でわかる通り子どもに関するセンシティブな内容があります。
【完結】私の婚約者はもう死んだので
miniko
恋愛
「私の事は死んだものと思ってくれ」
結婚式が約一ヵ月後に迫った、ある日の事。
そう書き置きを残して、幼い頃からの婚約者は私の前から姿を消した。
彼の弟の婚約者を連れて・・・・・・。
これは、身勝手な駆け落ちに振り回されて婚姻を結ばざるを得なかった男女が、すれ違いながらも心を繋いでいく物語。
※感想欄はネタバレ有り/無しの振り分けをしていません。本編より先に読む場合はご注意下さい。
不実なあなたに感謝を
黒木メイ
恋愛
王太子妃であるベアトリーチェと踊るのは最初のダンスのみ。落ち人のアンナとは望まれるまま何度も踊るのに。王太子であるマルコが誰に好意を寄せているかははたから見れば一目瞭然だ。けれど、マルコが心から愛しているのはベアトリーチェだけだった。そのことに気づいていながらも受け入れられないベアトリーチェ。そんな時、マルコとアンナがとうとう一線を越えたことを知る。――――不実なあなたを恨んだ回数は数知れず。けれど、今では感謝すらしている。愚かなあなたのおかげで『幸せ』を取り戻すことができたのだから。
※異世界転移をしている登場人物がいますが主人公ではないためタグを外しています。
※曖昧設定。
※一旦完結。
※性描写は匂わせ程度。
※小説家になろう様、カクヨム様にも掲載予定。
1度だけだ。これ以上、閨をともにするつもりは無いと旦那さまに告げられました。
尾道小町
恋愛
登場人物紹介
ヴィヴィアン・ジュード伯爵令嬢
17歳、長女で爵位はシェーンより低が、ジュード伯爵家には莫大な資産があった。
ドン・ジュード伯爵令息15歳姉であるヴィヴィアンが大好きだ。
シェーン・ロングベルク公爵 25歳
結婚しろと回りは五月蝿いので大富豪、伯爵令嬢と結婚した。
ユリシリーズ・グレープ補佐官23歳
優秀でシェーンに、こき使われている。
コクロイ・ルビーブル伯爵令息18歳
ヴィヴィアンの幼馴染み。
アンジェイ・ドルバン伯爵令息18歳
シェーンの元婚約者。
ルーク・ダルシュール侯爵25歳
嫁の父親が行方不明でシェーン公爵に相談する。
ミランダ・ダルシュール侯爵夫人20歳、父親が行方不明。
ダン・ドリンク侯爵37歳行方不明。
この国のデビット王太子殿下23歳、婚約者ジュリアン・スチール公爵令嬢が居るのにヴィヴィアンの従妹に興味があるようだ。
ジュリエット・スチール公爵令嬢18歳
ロミオ王太子殿下の婚約者。
ヴィヴィアンの従兄弟ヨシアン・スプラット伯爵令息19歳
私と旦那様は婚約前1度お会いしただけで、結婚式は私と旦那様と出席者は無しで式は10分程で終わり今は2人の寝室?のベッドに座っております、旦那様が仰いました。
一度だけだ其れ以上閨を共にするつもりは無いと旦那様に宣言されました。
正直まだ愛情とか、ありませんが旦那様である、この方の言い分は最低ですよね?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる