「奇遇ですね。私の婚約者と同じ名前だ」

ねむたん

文字の大きさ
6 / 23

6

しおりを挟む
ダンスが終わり、リリエットがそっと手を引くと、会場のざわめきが一層大きくなった。その視線の中心にいるのは――クラウディオだった。

「お兄様、最低!」

怒りに満ちた声が響いた。

クラウディオが驚いて振り向くと、そこにはセシルがいた。彼女の表情は普段の明るさとはかけ離れ、怒りと呆れが入り混じっていた。

「まさか、まさかとは思ったけど……本当にリリエットだって気づいてなかったの!? 間近でリリエットを見つめておいて気づかないなんて、どういうことなの?」

セシルの非難の言葉に、周囲の貴族たちはさらに騒ぎ始めた。クラウディオの背筋に、冷たい汗が流れる。

「待て、何を――」

「待つも何もあるか!」

今度はリリエットの兄、エドガーの低い怒声が飛んだ。

「お前、どれだけ妹のことを蔑ろにしてきたか分かってるのか? いつも冷たい態度を取っておいて、今夜になって別人と勘違いして言い寄るとは……これほど屈辱的なことがあるか?」

「……」

クラウディオの顔から血の気が引いた。

ゆっくりと、彼はリリエットに視線を戻した。

ワインレッドのドレス、ふわりと波打つ髪、気品ある佇まい。そして、どこか冷めたような瞳――。

それは、確かに彼の婚約者だった。

クラウディオは、ようやく自分のとんでもない勘違いに気づいた。

婚約者を見違えるほど、彼女の姿を認識していなかった。見ようともしなかった。

彼は、自分がリリエットを「知らない」ことを、今さらながら思い知った。

そして、ダンスの間に芽生えた不思議な感情――心を奪われるような感覚が、じわじわと自分を侵食していく。

彼女は美しかった。優雅で、芯のある態度で、目を離せなくなるほどに。

――ずっとそばにいたのに、どうして気づかなかった?

――どうして、こんなにも彼女を遠ざけていた?

クラウディオは、ようやく自分が婚約者を好きになったことを自覚した。

だが、同時に、これまでの自分の振る舞いを思い返し、青ざめた。

冷たい言葉。避けるような態度。婚約者でありながら、ただの義務のように扱ってきた日々。

そして今夜、婚約者を口説いておきながら、それが誰なのかすら気づかなかったという事実。

――取り返しのつかないことを、してしまったのではないか。

リリエットの目に、もう以前のような憧れは宿っていなかった。その事実が、クラウディオの胸をひどく締めつけた。

クラウディオはその場に立ち尽くしたまま、視線を落とした。これまでの自分の行いを振り返れば振り返るほど、心が冷えていく。

リリエットは、黙って彼を見ていた。いや、正確には、もう彼を「見つめて」すらいなかった。以前なら、どれほど冷たくあしらわれても彼の一挙一動に一喜一憂していたはずなのに。今の彼女は、まるで別の世界の住人のように、ただ静かにそこに立っているだけだった。

「……もういいわ、お兄様」

リリエットが小さく呟いた。

エドガーはまだ怒りを収めきれない様子だったが、彼女の言葉に僅かに肩の力を抜いた。セシルも同様だったが、納得がいかないように腕を組んでいる。

「リリエット、でも……」

「いいの。ただ、私の気持ちが……少し変わっただけ」

クラウディオの胸がひどくざわついた。その言葉が、彼の心を貫いた。

「……変わった?」

無意識に問い返すと、リリエットは僅かに微笑んだ。だが、それはどこか寂しさの混じったものだった。

「ええ。私はずっと、あなたが冷たいのは私に何か問題があるのだと思っていたの。でも、違ったのね。あなたはただ、私のことを見ていなかっただけ」

あまりにも静かな声音だった。責めるわけでもなく、怒るわけでもなく、ただ淡々と事実を告げるように。

「今日、それが分かったの」

リリエットは、もう一度だけ彼を見つめた。そして、ふっと息をつくと、ドレスの裾を軽く持ち上げ、優雅に会釈した。

「素敵なダンスをありがとうございました、ヴェステンベルク様」

彼女は、あえて「クラウディオ」とは呼ばなかった。

その瞬間、クラウディオは気づいた。

彼が彼女を遠ざけ続けたように、今度は彼女が距離を置こうとしているのだと。

――まさか、今になって、失うのか。

「リリエット……」

思わず彼女の名を呼んだが、その声は彼女に届かなかった。リリエットは踵を返し、セシルとともにその場を後にする。

背を向ける彼女の姿を、クラウディオはただ呆然と見送ることしかできなかった。

そして、初めて理解した。

自分が、たった今、婚約者を失いかけているのだということを。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】お世話になりました

⚪︎
恋愛
わたしがいなくなっても、きっとあなたは気付きもしないでしょう。 ✴︎書き上げ済み。 お話が合わない場合は静かに閉じてください。

失った真実の愛を息子にバカにされて口車に乗せられた

しゃーりん
恋愛
20数年前、婚約者ではない令嬢を愛し、結婚した現国王。 すぐに産まれた王太子は2年前に結婚したが、まだ子供がいなかった。 早く後継者を望まれる王族として、王太子に側妃を娶る案が出る。 この案に王太子の返事は?   王太子である息子が国王である父を口車に乗せて側妃を娶らせるお話です。

天然と言えば何でも許されると思っていませんか

今川幸乃
恋愛
ソフィアの婚約者、アルバートはクラスの天然女子セラフィナのことばかり気にしている。 アルバートはいつも転んだセラフィナを助けたり宿題を忘れたら見せてあげたりとセラフィナのために行動していた。 ソフィアがそれとなくやめて欲しいと言っても、「困っているクラスメイトを助けるのは当然だ」と言って聞かず、挙句「そんなことを言うなんてがっかりだ」などと言い出す。 あまり言い過ぎると自分が悪女のようになってしまうと思ったソフィアはずっともやもやを抱えていたが、同じくクラスメイトのマクシミリアンという男子が相談に乗ってくれる。 そんな時、ソフィアはたまたまセラフィナの天然が擬態であることを発見してしまい、マクシミリアンとともにそれを指摘するが……

二度目の恋

豆狸
恋愛
私の子がいなくなって半年と少し。 王都へ行っていた夫が、久しぶりに伯爵領へと戻ってきました。 満面の笑みを浮かべた彼の後ろには、ヴィエイラ侯爵令息の未亡人が赤毛の子どもを抱いて立っています。彼女は、彼がずっと想ってきた女性です。 ※上記でわかる通り子どもに関するセンシティブな内容があります。

不実なあなたに感謝を

黒木メイ
恋愛
王太子妃であるベアトリーチェと踊るのは最初のダンスのみ。落ち人のアンナとは望まれるまま何度も踊るのに。王太子であるマルコが誰に好意を寄せているかははたから見れば一目瞭然だ。けれど、マルコが心から愛しているのはベアトリーチェだけだった。そのことに気づいていながらも受け入れられないベアトリーチェ。そんな時、マルコとアンナがとうとう一線を越えたことを知る。――――不実なあなたを恨んだ回数は数知れず。けれど、今では感謝すらしている。愚かなあなたのおかげで『幸せ』を取り戻すことができたのだから。 ※異世界転移をしている登場人物がいますが主人公ではないためタグを外しています。 ※曖昧設定。 ※一旦完結。 ※性描写は匂わせ程度。 ※小説家になろう様、カクヨム様にも掲載予定。

気づいたときには遅かったんだ。

水瀬瑠奈
恋愛
 「大好き」が永遠だと、なぜ信じていたのだろう。

1度だけだ。これ以上、閨をともにするつもりは無いと旦那さまに告げられました。

尾道小町
恋愛
登場人物紹介 ヴィヴィアン・ジュード伯爵令嬢  17歳、長女で爵位はシェーンより低が、ジュード伯爵家には莫大な資産があった。 ドン・ジュード伯爵令息15歳姉であるヴィヴィアンが大好きだ。 シェーン・ロングベルク公爵 25歳 結婚しろと回りは五月蝿いので大富豪、伯爵令嬢と結婚した。 ユリシリーズ・グレープ補佐官23歳 優秀でシェーンに、こき使われている。 コクロイ・ルビーブル伯爵令息18歳 ヴィヴィアンの幼馴染み。 アンジェイ・ドルバン伯爵令息18歳 シェーンの元婚約者。 ルーク・ダルシュール侯爵25歳 嫁の父親が行方不明でシェーン公爵に相談する。 ミランダ・ダルシュール侯爵夫人20歳、父親が行方不明。 ダン・ドリンク侯爵37歳行方不明。 この国のデビット王太子殿下23歳、婚約者ジュリアン・スチール公爵令嬢が居るのにヴィヴィアンの従妹に興味があるようだ。 ジュリエット・スチール公爵令嬢18歳 ロミオ王太子殿下の婚約者。 ヴィヴィアンの従兄弟ヨシアン・スプラット伯爵令息19歳 私と旦那様は婚約前1度お会いしただけで、結婚式は私と旦那様と出席者は無しで式は10分程で終わり今は2人の寝室?のベッドに座っております、旦那様が仰いました。 一度だけだ其れ以上閨を共にするつもりは無いと旦那様に宣言されました。 正直まだ愛情とか、ありませんが旦那様である、この方の言い分は最低ですよね?

あなたへの恋心を消し去りました

恋愛
 私には両親に決められた素敵な婚約者がいる。  私は彼のことが大好き。少し顔を見るだけで幸せな気持ちになる。  だけど、彼には私の気持ちが重いみたい。  今、彼には憧れの人がいる。その人は大人びた雰囲気をもつ二つ上の先輩。  彼は心は自由でいたい言っていた。  その女性と話す時、私には見せない楽しそうな笑顔を向ける貴方を見て、胸が張り裂けそうになる。  友人たちは言う。お互いに干渉しない割り切った夫婦のほうが気が楽だって……。  だから私は彼が自由になれるように、魔女にこの激しい気持ちを封印してもらったの。 ※このお話はハッピーエンドではありません。 ※短いお話でサクサクと進めたいと思います。

処理中です...