「奇遇ですね。私の婚約者と同じ名前だ」

ねむたん

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クラウゼヴィッツ侯爵家の応接室は、静かな緊張感に包まれていた。

リリエットはソファに端然と座り、目の前には両親。母は穏やかに紅茶を口にし、父は腕を組んでじっと娘を見つめていた。

「つまり、お前は結婚の時期を先送りにしたい、と?」

父の低く落ち着いた声に、リリエットはゆっくりと頷いた。

「はい」

母は静かにカップを置き、優しく微笑んだ。

「理由を聞かせてもらえるかしら?」

リリエットは一瞬考え、それからしっかりと顔を上げた。

「婚約は続けるつもりです。でも、私はまだ……彼と向き合いながら、自分の気持ちを確かめたいんです」

父はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと頷いた。

「……そうか」

「今までのことを考えれば、当然の判断でしょうね」

母がやわらかく微笑む。

「あなたは十分に我慢してきたわ。だからこそ、急いで決める必要はない。私たちも、あなたの幸せが第一よ」

「ありがとう、お母様」

リリエットはその言葉に、心の奥がふっと軽くなるのを感じた。

父は少し考え込むように指で顎を撫で、それから厳かに言った。

「ヴェステンベルク伯爵家には、こちらから伝えておこう。彼らも文句は言えまい」

「ええ。クラウディオ様も、無理に急かそうとは思っていないでしょう」

母が穏やかに微笑んだ。

「本当に、それでいいのね?」

「はい」

リリエットは迷いなく答えた。

学園を卒業したらすぐに結婚する。そんな未来を当然のこととして受け入れていた時期もあった。

けれど、今は違う。

彼が変わり始めたのは分かる。だが、それをすぐに受け入れられるほど、過去の傷は浅くなかった。

だからこそ、彼女は時間をかけることを選んだ。

「よし。ならば、そうしよう」

父が静かに頷き、母も満足げに微笑む。

「リリエット、あなたの幸せを一番に考えなさい」

母の言葉に、リリエットは微笑んだ。

「はい、お母様」

こうして、彼女の結婚は先送りになった。

そして、その知らせを受けたクラウディオがどう受け止めるのか――




ヴェステンベルク伯爵家の執務室には、緊張した空気が漂っていた。

クラウディオは父である伯爵の前に立ち、無言で書状を受け取った。その端正な顔に浮かぶのは、何とも言えない沈黙。

「クラウゼヴィッツ侯爵家からの正式な通達だ」

アルベルト・ヴェステンベルク伯爵は書状を指で弾きながら、静かに言った。

「婚約は継続。しかし、学園卒業後すぐの結婚は見送る――とのことだ」

その言葉を聞いたクラウディオの指が、わずかに震えた。

「……そうですか」

「当然だろう」

父の声には、呆れと厳しさが滲んでいた。

「今までお前が何をしてきたか、考えれば当然の結果だ。むしろ婚約破棄されなかっただけでもありがたいと思え」

クラウディオは黙って視線を落とした。

それは彼自身が最もよく理解していることだった。

「文句があるのか?」

父の言葉に、クラウディオはゆっくりと首を横に振った。

「いいえ。彼女の決断を尊重します」

それだけを言い残し、クラウディオは書状を手に取ると、そのまま部屋を後にした。

扉が閉まると、伯爵は深くため息をついた。

――一方、クラウディオはそのまま自室へと向かった。

扉を閉め、手元の書状を静かに見つめる。

彼女が、自分との結婚をすぐに望んでいないことは、当然のことだった。

まだ完全に信頼を取り戻したわけではない。

「……当然、か」

小さく苦笑しながら、クラウディオは窓辺に歩み寄った。

外は静かに夕闇が迫っている。

だが、焦りはなかった。

むしろ、時間ができたことに安堵すらしていた。

――今の自分は、まだリリエットの隣に立つ資格がない。

ならば、その資格を得るまで、彼女が振り向いてくれるまで、彼はただ努力するのみだ。

「……待っていてくれ」

静かに呟くと、クラウディオは目を閉じた。

決意を新たにする彼の姿を、部屋の窓から差し込む月光が淡く照らしていた。
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