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戸惑う心
しおりを挟むチャールズが食堂を去ったあと、私は厨房の片隅に立ち尽くしていた。心臓が速く打ち、胸の奥が重苦しい。思わぬ再会と彼の真摯な態度に、心が乱れているのを隠せなかった。
「大丈夫?」
振り返ると、ジョンが静かに立っていた。彼は私をじっと見つめていて、その眼差しにはいつものような穏やかさと、ほんの少しだけ心配そうな色が混じっていた。
「ええ、平気です。」そう答えたものの、声が少し震えていた。
ジョンは私の言葉に反論することもなく、ただそっとテーブルに置かれたグラスを片付け始めた。その動作はゆっくりで、まるで私に「話してもいいんだよ」と言っているように思えた。
「…驚きました。」私は自分から口を開いた。「あの人がここに来るなんて、考えてもみなかったです。」
ジョンは何も言わずに頷いた。私が言葉を続けるのを待っているのがわかった。
「変わったように見えました。前よりも…でも、だからって、すぐにどうこうってわけじゃないです。」私はため息をつきながら椅子に腰を下ろした。「なんだか、自分の気持ちがわからなくて。」
ジョンはグラスを棚に戻すと、静かに私の向かい側の椅子に腰を下ろした。「それでいいと思うよ。」
その言葉に、私は少し驚いて彼を見た。「いいんですか?」
「うん。」ジョンは優しく微笑んだ。「すぐに結論を出さなくてもいい。自分の気持ちを大事にするのが一番だから。」
その言葉が、まるで小さな灯りのように心に染みた。焦る必要はない。彼の静かな声が、そう教えてくれている気がした。
「でも…」私は戸惑いながら言葉を継いだ。「ジョン、どうしてそんなふうに思えるんですか?普通、もっといろいろ言いたくなると思うのに。」
ジョンは少しだけ間を置いてから答えた。「だって、僕にとって大事なのはエリザベスが幸せになることだから。」
その一言に、胸がじんと熱くなった。ジョンは私に押し付けることも、急かすこともせず、ただ私自身でいられるように見守ってくれている。それがどれだけありがたく、安心できることか、改めて気づかされた。
「ありがとう。」私は小さな声で言った。「ジョンにはいつも助けられてばかりですね。」
「そんなことないよ。」ジョンは軽く首を振った。「僕がエリザベスに元気をもらってることだって、たくさんあるんだから。」
その日の夕方、私は厨房で仕事をしながら何度もジョンの言葉を思い返していた。過去の影に揺れる自分を、急かすことなく待っていてくれる人がいる。それがどれほど大切なことなのか、少しずつわかり始めている気がした。
そして、ふと気づく。ジョンの優しさが、私の心に灯りをともしているのだということに。
その日は朝から忙しかった。常連客に新規のお客さん、テーブルの片付けも追いつかないほどだった。私もジョンもマスターも、みんな休む暇もなく動き回って、ようやくお昼過ぎには一息つけるかと思ったけれど、結局ラストオーダーまで気を抜けなかった。
「お疲れさま。」閉店作業を終えたジョンが、さりげなく声をかけてきた。
「お疲れさまです。」私も返事をしたけれど、声がちょっと上ずっていたと思う。体だけじゃなく、なんだか心もぐったりしていて、表情が崩れないようにするだけで精一杯だった。
「ちょっとだけ待っててくれる?」ジョンは私の返事も待たずにカウンターの方へ戻っていった。
「あれ、まだ何か片付け残ってました?」と聞きかけたけど、ジョンの動きに何となく察して、私はそのまま厨房の片隅の椅子に腰を下ろした。
数分後、ジョンが戻ってきた。手には一杯のカップが乗ったトレーを持っている。カップからはふんわりと甘い香りが漂っていて、思わず深く息を吸い込んでしまう。
「これ、君のために作ってみたんだ。」そう言って、ジョンは私の前にカップをそっと置いた。
「私のために?」驚いてカップを見下ろすと、そこにはクリーミーなフォームがきれいに盛られ、淡い緑色がのぞいている。「これ…ミント?」
ジョンは小さくうなずいた。「エリザベスが育てたハーブ、少しだけ使わせてもらったんだ。ミントとカモミール、それからほんの少しバニラを合わせてみたよ。リラックスできる味にしたかったんだけど、どうかな?」
言葉が出なかった。自分が育てたハーブを、ジョンがこんな形で使ってくれるなんて。しかも、それをわざわざ私のために作ってくれたなんて。
「飲んでみてもいい?」ジョンが少し不安そうに尋ねる。
「あ、もちろん!」私は慌ててカップを手に取り、一口すする。優しい甘さとミントの爽やかさが広がり、疲れ切った心と体がふわっとほぐれていくようだった。「すごくおいしいです…。こんなに素敵なの、初めて。」
ジョンは少しだけ安堵したように笑った。「よかった。エリザベスが頑張ってるの、僕はいつも見てるから。たまにはこういうのもいいかなって思ってさ。」
その言葉に、胸の奥がじんと熱くなった。ジョンはいつも私を気にかけてくれている。それがひしひしと伝わってきた。
「本当に、ありがとうございます。」私は心からそう言った。「ジョンのこういうところ、すごいなって思います。」
「そう?」ジョンは少し照れたように微笑んだ。「でも、僕はただ、エリザベスが疲れた顔してるのが嫌だっただけだよ。」
その言葉に、思わず笑みがこぼれた。ジョンの優しさが、何よりもありがたかった。
カップの中身が空になったあと、私はふと、自分が以前のエリザベスとは少し変わり始めているのを感じた。ジョンの存在が、私に少しずつ新しい風を運んできている。
カップをそっと置きながら、私は心の中でそっと思った。ジョンに出会えてよかった、と。
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