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三,邂逅
しおりを挟む「僕は……あの波から助かったのか?」
今でも、思い返せば身震いがする思いだ。
海があんなにも恐ろしい波を起こせるだなんて。
まるで口を開いた大蛇のごとく、マテウスの舟は飲み込まれた。
「いや、それより、」
すっかり穏やかな波音を感じながらも、身を強張らせる。
横になったままの自分に対して、透明なその人はゆったりと微笑むように見えた。
「君は……ぐっ」
やはり左肩に激痛が走る。骨を貫くような痛みだ。折れている、そう察した。
しかし幸いにも、利き腕は微かな痛みを覚える程度で動かせそうだ。
「く、う……は、離れてくれ」
透き通る異形を払うようにしながら、なんとか起き上がる。
急に起き上がったことで、頭がぐらりと眩暈に襲われた。
だがそれは、マテウスが今の今まで枕にしていたものを知ってしまったせいかもしれない。
彼が頭の下に敷いていたもの――透明な人の脚部。それは魚のヒレそのものだった。
やはり透き通り、皮膚にあたるであろう膜がきらきらと太陽光を反射する。
「まさか……人魚、なのか……?」
これが、父の探していた人魚という海を統べる人なのだろうか。
その美しさで人を惑わし、心臓を食らう狡猾な生き物――。
「クウゥ……」
眉根を寄せ、不安げな表情を浮かべる人魚の口から出たのは、鳴き声のような音。
『――大丈夫、ですか?』
しかしそれと同時に、胸に染み入るような声が響いた。穏やかでとても、耳障りがいい。
先ほどの歌声もそうであったが、人魚の声は人間には直接聞こえないのだろうか。
「まさか……救ってくれたのか? 人魚である君が」
問うと、透明な人魚はこくこくと頷きながら、透明な髪を風に遊ばせる。
よく見ると、人魚のまわりには二枚貝を皿のようにしてのせられた(恐らく)薬や、食糧らしき魚が置かれていた。
マテウスが立っているのは、ぷかりと浮かんだ地面。島というほど広くはない。
そこに腰かける人魚は、遊泳の疲れを癒すように優雅に見えた。
その背後に、いまや半分になってしまったマテウスの舟が座礁していなければ。
『二夜ふたや前……あなたの舟が波にのまれるのを見ました』
「そうだ……。美しい海上の月を眺めていたら、突然天候が変わって……」
人魚はするりと滑り落ちるように海へ潜ると、踊るようにターンを描いた。
そうして岸の縁に腕をかけ、人魚は微笑む。
『あなたの目が、覚めてよかった』
唇は動いていないが、彼が安堵を口にしたのが分かった。
一瞬、その安堵に同調しそうになったものの、とんでもない!
体付きからして雄であろう透明な人魚。まとう空気はどこか穏やかで、マテウスでなければ、その雰囲気にすぐにでも飲み込まれてしまうだろう。
施してくれた手当てに感謝すれど、馴れ合う気など一切ない。
――人魚はとても狡猾な生き物だ。
父の言葉が、耳の奥でこだまする。
――美しい容姿で人を惑わし、その心臓を食らう。
「く、来るな……!」
腕を庇いながら後ずさるマテウスを見て、人魚は水中から出した首を傾げる。
その様は玻璃細工のように繊細だった。
人魚は狡猾な生き物である。
その教えがマテウスの胸を揺さぶり、恐怖に脂汗を浮かばせた。
「僕を食べる為に生かしたんだろう!?」
叫ぶように言うが、人魚にはまったく響ぬ様子だ。
『食べる……? どうして?』
するりと岸に腰――足ヒレの腰であろう部分――をかける。透き通る被膜に海水が伝い、太陽光をきらきらと反射した。まるでダイアモンドを纏うようにまばゆい。
人魚は腰をかけたまま、両手を地についてマテウスの顔を覗き込むように背を伸ばす。
透明な瞳に捉えられマテウスは乗りかかった舟に向かって走り出した。
「ひっ! 来るな、関わらないでくれ!」
狭い島はたった16フィート程度しかない。大股で三、四歩だ。
その端に引っ掛かったように座礁した舟に近付けば、もはや修復不能だった。肝心の舟首はもげて、流されたようだ。
二枚のスループは辛うじてくっついているものの、ぼろぼろに傾き折れている。
しかし不幸中の幸いか、塒のようにつけた屋根部は残っており、その中に詰めた飲み水などは無事だった。
もはやこの舟での脱出が絶望的な今、命を繋ぐ水の存在は何よりもありがたい。
自由な右腕でほかの荷も漁ると、あらかた無事だった。
小さなルーペもある。これなら火を起こし、通りかかる船に救助を主張することもできよう。
一先ず、怪我を治さないことにはどうしよもない。
ここで体を休めるしかないか。これからのことをマテウスが考え始めたとき――
「クウ、クウ……」
人魚の鳴き声だ。
岸をぐるりと泳いで回ってきたようで、波間から澄んだ瞳を悲し気に向けている。
『わたしに……出来ることは、ない?』
「近寄るなって、言っただろ! 僕の心臓は美味しくない!」
改めて言い放っても、人魚は首を傾げるばかりだ。
言葉は通じているようなのに、肝心のその中身が伝わっていなようで、マテウスは焦れる。
「本当にもういいから。見たことも忘れてやる。だから、早く僕の前から去るんだ」
『でも……でも……』
クウゥ……と泣きそうな声が波に溶けていく。
透明な尾ひれが、諦めたように海水へ引き込まれ、マテウスの視界から消えた。
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