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五,輝き
しおりを挟む不思議だ。マテウスは目の前に確かに在る人魚を見て、いくらか冷静に思った。
「クゥー……?」
じっと見つめていた視線に気付いたのか、鳴き声を発しながら首を傾げる。
その魚のごとく体を岸にあげていて平気なのだろうか……そんなことを過らせながら、人魚の手元を見遣った。
『大丈夫です。これは、海の底の万能薬』
二枚貝を皿のようにしてのせられているのは、軟薬のようだ。
果たして【海の底の万能薬】だからといって、ニンゲンにも同様に作用するのか、毒ではないのか。マテウスは口を開きかけたが、大人しく閉ざした。
『ようやく、きちんと手当てができますね』
左肩を差し出したマテウスに、人魚は嬉しそうに笑った。
穏やかな風が吹いて、屋根がわりのスループが揺れる。髪が風に靡かれたせいにして、マテウスは顔を背けた。
さきに適当に倒しておいた帆柱は、寝ている間に海藻のロープで反対側を繋がれ、しっかりと天幕のように頭上にある。
こんなことまで、なぜするのだろう。
「お前……いや、君、」
どうして。そう声にしようとした筈が、思いがけない言葉が口をついていた。
「名前は?」
『なまえ……?』
肩に薬を塗りながら、人魚は不思議そうに繰り返す。
確かに万能薬というものを塗られた先から、すう、とした感触と共に痛みが引いていく。
『ああ、名前。名前は、父上以外にはありません』
「……父親」
父と聞いて、海へ旅出たそもそもの理由を思い出す。難破したことですっかり遠のいてしまっていた。
『あなたは父上の名前、知りたいですか?』
「ああいや……僕はマテウス。君の名前が知りたかったんだ」
『マテウス……気持ちいい響き』
薬が塗り終わったらしく、二枚貝を閉じながら頷く。
『大地の子は、自分だけの名前を持つというのは、本当なんですね』
「だって、ないと不便さ。誰かを呼びたいときに、とても困るだろう」
困る……。人魚は透き通る眉根を寄せるようにして、じっと考えこんでしまった。
やはり人間と人魚だ。慣習、そして習慣的なものに大きな違いがあるのだろう。
「すまない。分からないならいいんだ……でも、そうだな、君を呼ぶための名前を考えてもいいかい?」
あんなにも恐ろしいと、近付いてはならないと思っていた人魚のことが少しずつ知りたくなってくる。
彼を呼ぶ……なんて考えもしなかったことだが、親しみたいと、思いがけず願った。
『わたしに、名前を? いいんですか?』
長い睫毛が羽ばたくように瞬いた。その声色には嬉々が含まれている気がする。
『ほしい。ほしいです、名前。お願い、マテウス』
弾むような声が響く。なんだか己まで嬉しくさせられてしまう。マテウスは久方ぶりに破顔した。
「そうだな……君は玻璃のようで、水晶のようで」
人と違う姿に驚きはしたが、そもそも棲む世界が違うのだ。その姿かたちに違いがあることくらい、当然なのだろう。
(本当は、一目見たときから美しいと思っていたんだ)
マテウスが名前を考えていると、人魚の尾ヒレは楽し気に揺れる。夕焼けのマリーゴールド色が輝いてプリズムのように散った。
「クラルテ――」
どうかな。マテウスの問いに、人魚は、ほう……と吐息を漏らしたように、心を高潮させた。
『クラルテ。クラルテ……嬉しい』
何度も繰り返して口ずさむと、透明な人魚クラルテはするりと海に入る。穏やかな波間から鎖骨あたりまでを出して、声高に言った。
『マテウス。呼んで。わたしを呼んで』
「ああ、――クラルテ」
輝く海を、輝くクラルテは軽やかに泳ぐ。
マテウスはその様子を、微笑んで眺めていた。
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