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幻光樹
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幻光樹
昔々、アダムとイヴが口にした赤い実は禁断の果実でした。そしてその二人が手に入れたのは感情でした。感情は自分達の考えを邪魔する、要らないものでした。それでも口にした罪は消えません。その場から追放され、アダムとイヴは人類の祖先となりました。
実はその赤い実の他に、禁断の果実が存在したのです。青い青いやすらぎの果実。その実に手を伸ばす者は、長らくいませんでした。しかしある時、ついにその時はやってきました。「禁断の果実の話」を聞かされなかった、とある少女が口にしてしまったのです。
その少女が食べた青い実は、少女の脳を蝕みました。そして、知能を搾り取って行きました。その少女は、大人に近づくたびに「馬鹿になってしまう」呪いをかけられてしまったのです。
シャク
青い実を齧る少女の姿は、村人にはどのように見えたのでしょう。そんな事を知るよしもなく、少女は美味しそうに青い実を食べていました。じゅわっと果汁が弾けて、口の中で踊る。優しい味は、本当に禁断の果実なのかと疑うほどに繊細で甘かったそうです。
残った芯をその辺に投げ捨てたまま、少女は両脇を村人に抱えられ、審判の元へ連れて行かれました。
「貴様も、犯したのか。」
罪人を裁く為、いつも誰かに囲まれている方が少女の目の前に立ちました。ふわりと舞い降りて額をくっつけると、たちまち黒い影と眩い光があたりにちらばりました。
『彼女は、禁断の果実の話を知りませんでした。それは教えなかった周りの大人の罪にも値します。妾は、彼女の無実を主張しますっ…!』
『何を言ってるのだ、これだから光は…。全てを情で解決しようとする、その考え自体が甘いわ。あの禁断の実のようにな!』
『何を言う影…其方はどうお考えか。』
『罪は罪だ…犯したものはしょうがねぇ。それはもう、償うしかないだろう…』
囁きあうイノセンスとギルティ。生き物なのかもわからないその姿は、少女の罪を咎めるかどうかで争っていました。やがて…
「静かにしろ!!」
空気を切るような怒号が、辺りに響き渡りました。そして、少女にまっすぐと向き直ると、
「お前、名をなんという?」
「名前…無い。あたしに、名前を与える者はいなかった」
冷たい目をしながら、少女は答えたそうです。海より深い、青い目を、まるでそこに無いかのように揺らしながら。
「そうか。それではお前の名を決めるとしよう」
『『…』』
「禊…禊はどうだ?」
「…み、そ……ぎ」
少女は頷いて、その名前を受け入れました。そしてその後に与えられる罰を、唇を震わせながら待っていました。
「そして、其方に与える罰か…」
『やはり、与えるのですか』
イノセンスはボソッと呟きました。それに対してギルティは
『当たり前だろ。犯しちまった者は、しょうがねぇんだ』
吐き捨てるように言いました。ギルティをじっと見つめると瞳から微かに涙が溢れていました。それは、知らぬ者への情、だったのでしょうか。
ごくり。
生唾を飲み込んで、待つ。
「禊の、罰は《永遠》だ。」
「えい、えん…?」
神の地で生まれた者の罪が永遠、なんて初めてのことでした。そして、そのやり方も何も知らぬ年端もいかぬ少女、禊は目を見開きました。
「永遠を与える、というのは…あまり知られていない罰だ。何故かというと、本当に、重い罰だからだ。加えてお前は、あの実を齧ってしまった。その実の効力を、とくと知るが良い」
静かに答えた神様に、道を教わったギルティに連れられて、森の奥に辿り着きました。
その一方で審判とイノセンスはこんな話をしていました。
『主様、どうして永遠なんて…』
「あの果実の効力は《大人になればなるほど馬鹿になる》ものだ。永遠を手に入れればいつか、完全になってしまう。その見せしめにしたいだけだ」
『…っ!?』
審判の非情さに触れて気付いたイノセンスは絶望しました。何故かというと、主はいつも、何処か救われることの出来る審判を下していたからです。
でも今回だけは、他の罪人と明らかに違う重い罰。永遠の命を与えるといえば聞こえは良いのですが、それは永遠に終わらない苦痛を味わうということでした。それに気付いたイノセンスは、唇を噛み、じっと主を見つめていました。
森の奥に辿り着いた1人と1つは、信じられないとでも言うように目の前の風景に目を奪われていました。そこには、淡い桃色の壁に白と黒の格子縞が一直線に並んでいて、周りの森林に隠されているような小さな家がありました。
『なんだ、ここ。人形の家みたいで、気色悪りぃなぁ』
「そう?あたしには可愛いドールハウスにしか見えないわ」
『へっ…。人間の女というのは、相変わらずよくわからない趣味をしてやがるな』
「ここの主が人間とは、限らないぞ」
嫌そうな顔をしながら悪態をつくギルティの言葉を遮るように、ドアがきぃ…っと開きました。その奥にいたのは、曖昧な女の人でした。髪の色が七色に輝き、顔を覆っているからか、どんな人物なのか掴めませんでした。
「あ、なた…は…?」
驚きを隠せない禊に、女はにこり、と笑って
「ここだと疲れる。中に入って話そう」
と言いました。その口調は、見かけの人形じみた美しさと相反して、命令するような威圧感を帯びていました。
「私は紅茶。ティイとも呼ばれている。様付けはいらぬ。私は、森の全てを司る生き物の神として崇められている。私のことはこれぐらいで良いか。で、其方らはどうしてここに来たのだ?」
ずずっ…とお茶を啜りながら目を伏せる紅茶の手元できらりと指輪が光りました。差し出されたお茶を飲み干して、禊は静かに言葉を紡ぎました。
「あたし…は、禁断の青い果実を食べ、た。…それで、審判、に…《永遠》を与えると言われた。それで、紅茶の元へ来た」
「な…っ!?」
げほっげほっ、と紅茶はむせました。チョコレートのようなピンク色のドアから出てきた女が紅茶に駆け寄って背中をさすりました。ありがとう、と紅茶は告げて禊をじっと見つめました。
「ありがとう…。この者は[蝶]という。私の依代でもある、付き人だ。そうか。彼奴はお前にそんな重い罪を課したのか」
紅茶はカーテンが揺れる窓の外を、虚ろな瞳で見つめながら静かに話し始めました。
「《永遠》というのはだな、一定の位にいる神がある術式をこなしてかけるものだ。これが重いというのは、その名の通り永遠という時を与える為だ。この術は、かけた者が死なぬ限り解けない。神の寿命は長い為、殆どの者が解けないまま永遠を過ごし続ける。お前は、この術式を受けるか?」
禊の心臓は、どんどん早くなっていました。禊は若いながらも、命について何度も考えたことがあるからです。命というのは、終わりがあるからこそ楽しいのだと、たった数年の人生で悟っていたからなのです。神の地に生まれし子供は、誰もが考えることでした。
「そ、れは…拒否権、あるのか…?」
「審判が下した事だ。99%はない」
『残り1%はなんだ?』
「…その術式を、審判にかけさせる」
『は!?』
ギルティは目を見開いて驚きました。何故そんなに驚くのか解らない禊は、不思議そうに首を傾げました。
「…どうして、そんなに驚くの。ギルティ」
『おま…ぇ…っ、審判にそんなこと、させられるわけねぇだろ!!』
「私は良いのにか」
ひんやりとした空気が、あたりを漂い始めました。紅茶も、ギルティも、この術式をかける恐ろしさを知っているのです。
恐ろしさ、とは…。
「…この術式は、復讐や戒めとして使うと、かけた本人に罪悪感が残るであろう。審判がかければ、確実に罪悪感に心を蝕まれて死を探すであろう。だからだ」
『て、めぇ…っこいつは罪を犯したんだぞ!?何故それで主が死を探さなきゃならねぇんだ!!』
ギルティが人型に変化し、紅茶の胸ぐらを掴みました。その衝撃で机の上に乗っていたティーカップが倒れ、お茶がテーブルクロスを濡らしていきました。
紅茶は静かに目を伏せて、呆れたような悲しそうな表情をしました。蝶は、主人の危機に焦りはしましたが、主人の表情を見て気付いたのか、すぐにテーブルクロスとティーカップを片付け始めました。
「お前は、何も気付いていないのか」
『どういう意味だよ!!どういう意味なんだよ!!!』
声を荒げて紅茶に掴みかかるギルティ。その様子を見て、身体が動かなくなる禊の眼から自然と涙が溢れていました。
「おい、やめろ」
『…っ』
押し倒されても、乱暴に扱われても表情一つ変えずギルティを見つめていた紅茶の声に、我に返ったギルティはそっと手を離しました。
「禊、といったか。其方、蝶と一緒に席を外してくれないか」
「え…でも」
「行くぞ、禊様。洗濯物を手伝ってくれると嬉しい」
「…わかった」
ぴょんっと席を降りて、汚れたテーブルクロスを持った蝶と一緒にピンク色のドアを出て行く禊を見送り、改めて椅子に座り直す1人と1つは、静かに口を開きました。
「お前、本当に気付いていないのか」
『何がだ』
「審判が、禊に《永遠》という罰を下した意味を」
『…どういう、こと…』
「審判は、禊を見せしめに使うつもりなんだ」
ごくり、とギルティは生唾を飲みました。紅茶の言っている意味が、よくわからなかったからです。
「青い果実の効力は、[馬鹿になっていく]だ。つまり、成長すればする程、歳をとればとるほど、馬鹿になっていく。それを永遠の命を持つ者に与えればどうなる?」
『…最後には、救いようのない馬鹿になって、いる…』
「そう、それが狙いだろう。食べればこのぐらい壊れるぞ、という見せしめだろう。だから審判はこんな非情な罰を下したのだ」
『…まさか、主が、そんなこと…』
「だから、審判には罪悪感が残る。あんな幼い少女を見せしめに使った罰を受ける」
長い時を生きてきた紅茶には、審判の思惑全てを見通すことができました。ギルティはそれに気付いて、思い返してみました。思い返せば思い返す程、この下された罰が重すぎるように感じたのです。
「…ギルティ、お前には辛いものもあるだろう。すまんな、こんな話をして。それでも私が罪悪感を感じなければいけないこの神の地の掟が、どうしても嫌なのだ。我がそうしたい時にのみ、この術式を使いたい。それでは、駄目なのか…?」
顔を上げて潤んだ瞳を覗かせる紅茶。ギルティは驚いて、顔を赤らめました。そして、ギルティらしくなく、紅茶の頭を撫でました。
「なんだ、これは…」
『教えてもらった、お礼だ』
ギルティは恥ずかしそうに顔を伏せました。その照れた表情と声に、紅茶は優しく微笑みました。その時、ドアがガチャリと開きました。
「ただいま戻りました、ご主人」
「蝶、ありがとう」
「…あの、1%、に…かけるの?」
禊がぼそっと呟きました。そこには、戸惑いを隠せない少女の姿がありました。一部、聞いていたのでしょう。びくびくと震え混じりの声でした。
「そうだな。賭けよう。私ばかり辛い思いをするのは嫌だ。そうと決まれば、審判の元へ連れて行ってくれ、ギルティ」
『俺に、主を裏切れと言うのか?』
先程まで照れていたとは思えない声色で、静かに答えるギルティに一同は息を呑みました。
「お前しかあそこには帰れない。私はあそこに辿り着けないよう呪いがかけられている。お前の主に聞いてみれば分かることだが、彼奴は私が嫌いなのだ」
「ご主人」
ふいに、冬の曇りガラスのような瞳を曇り空色のマフラーから覗かせながら、静かに口を挟みました。
「…蝶、心配は無用だ。あの者の説得は私がするよ」
『それで…主は…救えるのかよ…』
「わからない。けれど、一度下した審判を覆すのは難しいだろう。」
『じゃあ…禊は…?』
「禊は大丈夫だ。あの果実の効力は、私が一番よく知っている。だから、安心して連れて行ってくれ」
『…わかった。俺は責任は取らないぞ』
ギルティは、主を裏切っているような罪悪感に押し潰されそうになっていました。それでも、紅茶一人に責任を全て押し付け、自分一人は悠々と神の地で過ごし続ける主を見るのが嫌だったのです。だからギルティは覚悟を決めました。そして見えてきた神の地に、深くお辞儀をしました。
『俺は影から見てる。ここからなら大丈夫だろう?』
ギルティは不安そうに瞳を瞬かせながら、ゆらりと後ろを向きました。その姿を見て、紅茶は優しく微笑みました。
「あぁ、大丈夫だ。だからお前は、心配しないでイノセンスの元へ行ってやれ。きっとあいつも心細い思いをしている筈だ」
するり、とギルティは風のように紅茶達の間を通り抜けました。紅茶は一つ、深呼吸をすると神の地へ足を踏み入れました。
「審判、お前に用がある。他の者は関係ない。お前だけ出てくればこの地には何もしない」
真冬の氷水よりも冷たい、絶対零度の声が辺りに響き渡りました。
その奥から、ガサリ…と音がしました。
「何だ紅茶か。お前の元に、先程罪人を送った筈だが?」
「あぁ、届いたよ。禊という少女だろ」
その瞬間、審判はにやり…と口角を上げました。何の違和感もありませんでした。
「ほう。勿論、永遠を与えたのだろうな」
「その事だがな、お主。《永遠》というのはそう単純に与える事は出来ないのだよ。私はその術式を他の相手にかけている。だからお前がこの者にかけるが良かろう」
ぴくりと審判の眉が僅かに動きました。
「命を司る貴様の管轄であろう。それの何が困るというのかね」
「…私は、その術式をもう使えない」
伏せた片目から、唇から、溢れた真実はもう拾えません。絶望を目の前にしたかのように、審判は目を見開きました。
「…どういう事だ、何故、貴様がもう使えないのだ…っ」
「本来、命を縛るあの術式は一人が二人以上に使う事はあまり出来ぬようになっている。例外として、全ての神様ならば可能だが、私のような一介の神にそんな芸当は出来ぬ。お前なら、誰も縛っていないだろう?出来るだろう?」
アメジスト色の瞳が、審判を捕らえて逃がしません。審判も知っていたのです。己の利益となる《永遠》を与えれば、罪悪感が付いて回るという事を。
「…禊。」
審判は崩れ落ちた後、禊の名前を呼びました。駆け寄った禊の顔を見もせずに、呪文をぶつぶつと唱えました。文字は禊の身体を包むリングとなり、唱え終わると禊の心臓に吸い取られていきました。
「お前は、あの果実の守り人をしろ。あの果実に二度と手を出すものが現れぬように。お前が効力のせいで馬鹿になった場合、迷わず神の地から追放する」
「わ、わかった」
禊は、一から十を理解することはできませんでしたが、まだ神の地にいられることに感動の涙を流しました。それはぽつぽつと地に流れ落ち、草花を咲かせました。その様子を見て、気付いたのです。
禊に名前が無かったこと。
禊が禁断の果実の話を知らされていなかったこと。
審判の時に全く動じなかったこと。
「…まさか!」
禁断の果実を管理している神は、定期的に身体を入れ替えます。何故かというと、最初にその実を全て食すからです。そして、効力を確かめるのです。それが務めだからずっとそうしてきました。その入れ替えで、ここ暫くその神はおりませんでした。その神の特徴は、涙が草花を咲かすこと。禊にその特徴はぴったりと当てはまっていて、神の入れ替わり以外、何者でもないと判断されました。
草花の神が禁断の実を食べても、何ら影響は出ないと言います。なので審判はしないのです。
つまり、この時間は意味のないものとして消えていってしまいました。
それでも過ぎた時間は戻せません。意味のあるものに変えましょう。
審判の思惑が外れ、もう一度心を改めるきっかけになったこと。
草花の神が初めて名前を貰ったこと。
紅茶が認められたこと。
たくさんの意味のあること、に変わっていきました。
幸せな日常に戻った神の地で、また草花の神に守られながら、ひっそりと禁断の青い果実は実を落としたのです。
その後、いくつ時が経ったかはもう忘れてしまいました。そんな時、ふと蝶が話題をふったのです。
「紅茶様、あの果実の効力は一番知っていると仰いましたよね。何故ですか」
「あぁ。あの果実を食すと成長する程馬鹿になると言われているのはね、事情があるんだ」
「事情、と申しますと?」
「[成長すればするほど、常識やルールに囚われて自由な考えが出来なくなる]と昔の草花の神が言ったんだ。それを誤解したこの地の者の、思い込みだよ」
「…え。じゃあ、あれは禁断の果実ではないのですか?」
「まぁ、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。全てはこの地の遠い昔に隠されてしまったよ」
紅茶の、お茶をすする音が森の中に響き渡りました。
昔々、アダムとイヴが口にした赤い実は禁断の果実でした。そしてその二人が手に入れたのは感情でした。感情は自分達の考えを邪魔する、要らないものでした。それでも口にした罪は消えません。その場から追放され、アダムとイヴは人類の祖先となりました。
実はその赤い実の他に、禁断の果実が存在したのです。青い青いやすらぎの果実。その実に手を伸ばす者は、長らくいませんでした。しかしある時、ついにその時はやってきました。「禁断の果実の話」を聞かされなかった、とある少女が口にしてしまったのです。
その少女が食べた青い実は、少女の脳を蝕みました。そして、知能を搾り取って行きました。その少女は、大人に近づくたびに「馬鹿になってしまう」呪いをかけられてしまったのです。
シャク
青い実を齧る少女の姿は、村人にはどのように見えたのでしょう。そんな事を知るよしもなく、少女は美味しそうに青い実を食べていました。じゅわっと果汁が弾けて、口の中で踊る。優しい味は、本当に禁断の果実なのかと疑うほどに繊細で甘かったそうです。
残った芯をその辺に投げ捨てたまま、少女は両脇を村人に抱えられ、審判の元へ連れて行かれました。
「貴様も、犯したのか。」
罪人を裁く為、いつも誰かに囲まれている方が少女の目の前に立ちました。ふわりと舞い降りて額をくっつけると、たちまち黒い影と眩い光があたりにちらばりました。
『彼女は、禁断の果実の話を知りませんでした。それは教えなかった周りの大人の罪にも値します。妾は、彼女の無実を主張しますっ…!』
『何を言ってるのだ、これだから光は…。全てを情で解決しようとする、その考え自体が甘いわ。あの禁断の実のようにな!』
『何を言う影…其方はどうお考えか。』
『罪は罪だ…犯したものはしょうがねぇ。それはもう、償うしかないだろう…』
囁きあうイノセンスとギルティ。生き物なのかもわからないその姿は、少女の罪を咎めるかどうかで争っていました。やがて…
「静かにしろ!!」
空気を切るような怒号が、辺りに響き渡りました。そして、少女にまっすぐと向き直ると、
「お前、名をなんという?」
「名前…無い。あたしに、名前を与える者はいなかった」
冷たい目をしながら、少女は答えたそうです。海より深い、青い目を、まるでそこに無いかのように揺らしながら。
「そうか。それではお前の名を決めるとしよう」
『『…』』
「禊…禊はどうだ?」
「…み、そ……ぎ」
少女は頷いて、その名前を受け入れました。そしてその後に与えられる罰を、唇を震わせながら待っていました。
「そして、其方に与える罰か…」
『やはり、与えるのですか』
イノセンスはボソッと呟きました。それに対してギルティは
『当たり前だろ。犯しちまった者は、しょうがねぇんだ』
吐き捨てるように言いました。ギルティをじっと見つめると瞳から微かに涙が溢れていました。それは、知らぬ者への情、だったのでしょうか。
ごくり。
生唾を飲み込んで、待つ。
「禊の、罰は《永遠》だ。」
「えい、えん…?」
神の地で生まれた者の罪が永遠、なんて初めてのことでした。そして、そのやり方も何も知らぬ年端もいかぬ少女、禊は目を見開きました。
「永遠を与える、というのは…あまり知られていない罰だ。何故かというと、本当に、重い罰だからだ。加えてお前は、あの実を齧ってしまった。その実の効力を、とくと知るが良い」
静かに答えた神様に、道を教わったギルティに連れられて、森の奥に辿り着きました。
その一方で審判とイノセンスはこんな話をしていました。
『主様、どうして永遠なんて…』
「あの果実の効力は《大人になればなるほど馬鹿になる》ものだ。永遠を手に入れればいつか、完全になってしまう。その見せしめにしたいだけだ」
『…っ!?』
審判の非情さに触れて気付いたイノセンスは絶望しました。何故かというと、主はいつも、何処か救われることの出来る審判を下していたからです。
でも今回だけは、他の罪人と明らかに違う重い罰。永遠の命を与えるといえば聞こえは良いのですが、それは永遠に終わらない苦痛を味わうということでした。それに気付いたイノセンスは、唇を噛み、じっと主を見つめていました。
森の奥に辿り着いた1人と1つは、信じられないとでも言うように目の前の風景に目を奪われていました。そこには、淡い桃色の壁に白と黒の格子縞が一直線に並んでいて、周りの森林に隠されているような小さな家がありました。
『なんだ、ここ。人形の家みたいで、気色悪りぃなぁ』
「そう?あたしには可愛いドールハウスにしか見えないわ」
『へっ…。人間の女というのは、相変わらずよくわからない趣味をしてやがるな』
「ここの主が人間とは、限らないぞ」
嫌そうな顔をしながら悪態をつくギルティの言葉を遮るように、ドアがきぃ…っと開きました。その奥にいたのは、曖昧な女の人でした。髪の色が七色に輝き、顔を覆っているからか、どんな人物なのか掴めませんでした。
「あ、なた…は…?」
驚きを隠せない禊に、女はにこり、と笑って
「ここだと疲れる。中に入って話そう」
と言いました。その口調は、見かけの人形じみた美しさと相反して、命令するような威圧感を帯びていました。
「私は紅茶。ティイとも呼ばれている。様付けはいらぬ。私は、森の全てを司る生き物の神として崇められている。私のことはこれぐらいで良いか。で、其方らはどうしてここに来たのだ?」
ずずっ…とお茶を啜りながら目を伏せる紅茶の手元できらりと指輪が光りました。差し出されたお茶を飲み干して、禊は静かに言葉を紡ぎました。
「あたし…は、禁断の青い果実を食べ、た。…それで、審判、に…《永遠》を与えると言われた。それで、紅茶の元へ来た」
「な…っ!?」
げほっげほっ、と紅茶はむせました。チョコレートのようなピンク色のドアから出てきた女が紅茶に駆け寄って背中をさすりました。ありがとう、と紅茶は告げて禊をじっと見つめました。
「ありがとう…。この者は[蝶]という。私の依代でもある、付き人だ。そうか。彼奴はお前にそんな重い罪を課したのか」
紅茶はカーテンが揺れる窓の外を、虚ろな瞳で見つめながら静かに話し始めました。
「《永遠》というのはだな、一定の位にいる神がある術式をこなしてかけるものだ。これが重いというのは、その名の通り永遠という時を与える為だ。この術は、かけた者が死なぬ限り解けない。神の寿命は長い為、殆どの者が解けないまま永遠を過ごし続ける。お前は、この術式を受けるか?」
禊の心臓は、どんどん早くなっていました。禊は若いながらも、命について何度も考えたことがあるからです。命というのは、終わりがあるからこそ楽しいのだと、たった数年の人生で悟っていたからなのです。神の地に生まれし子供は、誰もが考えることでした。
「そ、れは…拒否権、あるのか…?」
「審判が下した事だ。99%はない」
『残り1%はなんだ?』
「…その術式を、審判にかけさせる」
『は!?』
ギルティは目を見開いて驚きました。何故そんなに驚くのか解らない禊は、不思議そうに首を傾げました。
「…どうして、そんなに驚くの。ギルティ」
『おま…ぇ…っ、審判にそんなこと、させられるわけねぇだろ!!』
「私は良いのにか」
ひんやりとした空気が、あたりを漂い始めました。紅茶も、ギルティも、この術式をかける恐ろしさを知っているのです。
恐ろしさ、とは…。
「…この術式は、復讐や戒めとして使うと、かけた本人に罪悪感が残るであろう。審判がかければ、確実に罪悪感に心を蝕まれて死を探すであろう。だからだ」
『て、めぇ…っこいつは罪を犯したんだぞ!?何故それで主が死を探さなきゃならねぇんだ!!』
ギルティが人型に変化し、紅茶の胸ぐらを掴みました。その衝撃で机の上に乗っていたティーカップが倒れ、お茶がテーブルクロスを濡らしていきました。
紅茶は静かに目を伏せて、呆れたような悲しそうな表情をしました。蝶は、主人の危機に焦りはしましたが、主人の表情を見て気付いたのか、すぐにテーブルクロスとティーカップを片付け始めました。
「お前は、何も気付いていないのか」
『どういう意味だよ!!どういう意味なんだよ!!!』
声を荒げて紅茶に掴みかかるギルティ。その様子を見て、身体が動かなくなる禊の眼から自然と涙が溢れていました。
「おい、やめろ」
『…っ』
押し倒されても、乱暴に扱われても表情一つ変えずギルティを見つめていた紅茶の声に、我に返ったギルティはそっと手を離しました。
「禊、といったか。其方、蝶と一緒に席を外してくれないか」
「え…でも」
「行くぞ、禊様。洗濯物を手伝ってくれると嬉しい」
「…わかった」
ぴょんっと席を降りて、汚れたテーブルクロスを持った蝶と一緒にピンク色のドアを出て行く禊を見送り、改めて椅子に座り直す1人と1つは、静かに口を開きました。
「お前、本当に気付いていないのか」
『何がだ』
「審判が、禊に《永遠》という罰を下した意味を」
『…どういう、こと…』
「審判は、禊を見せしめに使うつもりなんだ」
ごくり、とギルティは生唾を飲みました。紅茶の言っている意味が、よくわからなかったからです。
「青い果実の効力は、[馬鹿になっていく]だ。つまり、成長すればする程、歳をとればとるほど、馬鹿になっていく。それを永遠の命を持つ者に与えればどうなる?」
『…最後には、救いようのない馬鹿になって、いる…』
「そう、それが狙いだろう。食べればこのぐらい壊れるぞ、という見せしめだろう。だから審判はこんな非情な罰を下したのだ」
『…まさか、主が、そんなこと…』
「だから、審判には罪悪感が残る。あんな幼い少女を見せしめに使った罰を受ける」
長い時を生きてきた紅茶には、審判の思惑全てを見通すことができました。ギルティはそれに気付いて、思い返してみました。思い返せば思い返す程、この下された罰が重すぎるように感じたのです。
「…ギルティ、お前には辛いものもあるだろう。すまんな、こんな話をして。それでも私が罪悪感を感じなければいけないこの神の地の掟が、どうしても嫌なのだ。我がそうしたい時にのみ、この術式を使いたい。それでは、駄目なのか…?」
顔を上げて潤んだ瞳を覗かせる紅茶。ギルティは驚いて、顔を赤らめました。そして、ギルティらしくなく、紅茶の頭を撫でました。
「なんだ、これは…」
『教えてもらった、お礼だ』
ギルティは恥ずかしそうに顔を伏せました。その照れた表情と声に、紅茶は優しく微笑みました。その時、ドアがガチャリと開きました。
「ただいま戻りました、ご主人」
「蝶、ありがとう」
「…あの、1%、に…かけるの?」
禊がぼそっと呟きました。そこには、戸惑いを隠せない少女の姿がありました。一部、聞いていたのでしょう。びくびくと震え混じりの声でした。
「そうだな。賭けよう。私ばかり辛い思いをするのは嫌だ。そうと決まれば、審判の元へ連れて行ってくれ、ギルティ」
『俺に、主を裏切れと言うのか?』
先程まで照れていたとは思えない声色で、静かに答えるギルティに一同は息を呑みました。
「お前しかあそこには帰れない。私はあそこに辿り着けないよう呪いがかけられている。お前の主に聞いてみれば分かることだが、彼奴は私が嫌いなのだ」
「ご主人」
ふいに、冬の曇りガラスのような瞳を曇り空色のマフラーから覗かせながら、静かに口を挟みました。
「…蝶、心配は無用だ。あの者の説得は私がするよ」
『それで…主は…救えるのかよ…』
「わからない。けれど、一度下した審判を覆すのは難しいだろう。」
『じゃあ…禊は…?』
「禊は大丈夫だ。あの果実の効力は、私が一番よく知っている。だから、安心して連れて行ってくれ」
『…わかった。俺は責任は取らないぞ』
ギルティは、主を裏切っているような罪悪感に押し潰されそうになっていました。それでも、紅茶一人に責任を全て押し付け、自分一人は悠々と神の地で過ごし続ける主を見るのが嫌だったのです。だからギルティは覚悟を決めました。そして見えてきた神の地に、深くお辞儀をしました。
『俺は影から見てる。ここからなら大丈夫だろう?』
ギルティは不安そうに瞳を瞬かせながら、ゆらりと後ろを向きました。その姿を見て、紅茶は優しく微笑みました。
「あぁ、大丈夫だ。だからお前は、心配しないでイノセンスの元へ行ってやれ。きっとあいつも心細い思いをしている筈だ」
するり、とギルティは風のように紅茶達の間を通り抜けました。紅茶は一つ、深呼吸をすると神の地へ足を踏み入れました。
「審判、お前に用がある。他の者は関係ない。お前だけ出てくればこの地には何もしない」
真冬の氷水よりも冷たい、絶対零度の声が辺りに響き渡りました。
その奥から、ガサリ…と音がしました。
「何だ紅茶か。お前の元に、先程罪人を送った筈だが?」
「あぁ、届いたよ。禊という少女だろ」
その瞬間、審判はにやり…と口角を上げました。何の違和感もありませんでした。
「ほう。勿論、永遠を与えたのだろうな」
「その事だがな、お主。《永遠》というのはそう単純に与える事は出来ないのだよ。私はその術式を他の相手にかけている。だからお前がこの者にかけるが良かろう」
ぴくりと審判の眉が僅かに動きました。
「命を司る貴様の管轄であろう。それの何が困るというのかね」
「…私は、その術式をもう使えない」
伏せた片目から、唇から、溢れた真実はもう拾えません。絶望を目の前にしたかのように、審判は目を見開きました。
「…どういう事だ、何故、貴様がもう使えないのだ…っ」
「本来、命を縛るあの術式は一人が二人以上に使う事はあまり出来ぬようになっている。例外として、全ての神様ならば可能だが、私のような一介の神にそんな芸当は出来ぬ。お前なら、誰も縛っていないだろう?出来るだろう?」
アメジスト色の瞳が、審判を捕らえて逃がしません。審判も知っていたのです。己の利益となる《永遠》を与えれば、罪悪感が付いて回るという事を。
「…禊。」
審判は崩れ落ちた後、禊の名前を呼びました。駆け寄った禊の顔を見もせずに、呪文をぶつぶつと唱えました。文字は禊の身体を包むリングとなり、唱え終わると禊の心臓に吸い取られていきました。
「お前は、あの果実の守り人をしろ。あの果実に二度と手を出すものが現れぬように。お前が効力のせいで馬鹿になった場合、迷わず神の地から追放する」
「わ、わかった」
禊は、一から十を理解することはできませんでしたが、まだ神の地にいられることに感動の涙を流しました。それはぽつぽつと地に流れ落ち、草花を咲かせました。その様子を見て、気付いたのです。
禊に名前が無かったこと。
禊が禁断の果実の話を知らされていなかったこと。
審判の時に全く動じなかったこと。
「…まさか!」
禁断の果実を管理している神は、定期的に身体を入れ替えます。何故かというと、最初にその実を全て食すからです。そして、効力を確かめるのです。それが務めだからずっとそうしてきました。その入れ替えで、ここ暫くその神はおりませんでした。その神の特徴は、涙が草花を咲かすこと。禊にその特徴はぴったりと当てはまっていて、神の入れ替わり以外、何者でもないと判断されました。
草花の神が禁断の実を食べても、何ら影響は出ないと言います。なので審判はしないのです。
つまり、この時間は意味のないものとして消えていってしまいました。
それでも過ぎた時間は戻せません。意味のあるものに変えましょう。
審判の思惑が外れ、もう一度心を改めるきっかけになったこと。
草花の神が初めて名前を貰ったこと。
紅茶が認められたこと。
たくさんの意味のあること、に変わっていきました。
幸せな日常に戻った神の地で、また草花の神に守られながら、ひっそりと禁断の青い果実は実を落としたのです。
その後、いくつ時が経ったかはもう忘れてしまいました。そんな時、ふと蝶が話題をふったのです。
「紅茶様、あの果実の効力は一番知っていると仰いましたよね。何故ですか」
「あぁ。あの果実を食すと成長する程馬鹿になると言われているのはね、事情があるんだ」
「事情、と申しますと?」
「[成長すればするほど、常識やルールに囚われて自由な考えが出来なくなる]と昔の草花の神が言ったんだ。それを誤解したこの地の者の、思い込みだよ」
「…え。じゃあ、あれは禁断の果実ではないのですか?」
「まぁ、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。全てはこの地の遠い昔に隠されてしまったよ」
紅茶の、お茶をすする音が森の中に響き渡りました。
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