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第39話 【番外編】ハリソン王子の退屈な日常-1-

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余はハリソン・ティモシー・カールトン・ウェルズリー。
コルトレーン王国の第一王子だ。

数か月前、外遊のために西の大陸を訪れた。
いくつかの商談が済んだらさっさと帰国するはずだったのに、まるで予定になかった三か月の砂漠の旅に出てしまった。

国政は異母弟リチャードが行ってくれているので問題はなかったが、半年以上も国を空け、結果的に参列する予定だった式典をいくつもボイコットすることになってしまい、父親である国王陛下に大目玉をくらった。今は、外出禁止を申し渡され、長期間に及ぶ軟禁状態にある。

執務室のドアがノックされる。

「兄上、来年の国家予算についてまとまりましたので、承認をお願い致します」

リチャードから書類を受け取り、すぐに目を通し始める。

「ありがとう。ほかにも資料があったらもらえるか? 特に農作物の輸出に関する情報が欲しい」
「わかりました。すぐにお持ちします」

かつては、政務などすべて優秀な異母弟に丸投げし、ただ言われるままサインをするだけだった。
資料など読んだこともなかった。いや、あることすら知らなかったし、どうでもよかった。

帰国してからは、国の運営について学びたいと考え、リチャードに教えを乞うた。
奇怪なものを見るような目を向けられたが、異母弟は嫌がるそぶりも見せず、一から丁寧に辛抱強く指導してくれた。
なんとなくだが、仕事が面白いと思えるようになってきた。
初めてやりがいというものを感じた気がした。
まだまだリチャードには遠く及ばないが、少しでも追いつければいいと思う。

最近は褒められることも増えた。
成長した、一皮剥けた、どころか、生まれ変わったようだと言われた。
使用人たちからは、顔がそっくりな別人と入れ替わったとまで噂されているのも知っている。
今までどのように思われていたのかは、あまり考えたくはない。




それにしても退屈だ。





旅の日々が懐かしい。
旅立ってから数日間は、正直、後悔した。食事は不味い、寝床は硬い、顔も髪も服も靴の中まですべて砂でジャリジャリ。
しかし「さっさと脱落しろ」と言わんばかりのレイシーの蔑むような視線に反発して、ほぼ意地だけでついて行った。

悠久の砂漠、荘厳な山脈、容赦なく照り付ける灼熱の太陽と限界まで乾燥した大気、吸い込まれそうな星空。
コルトレーンとはまるで違う異国の文化も、出会った人々も、何もかもが刺激的だった。

そして何より、レイシーが恋しい。
仮にも自国の王子に向かってバカバカと連呼できるのはあの娘だけだろう。
三か月間のあいだに何回バカと言われたかわからない。
自分の名前がバカなのかと錯覚するほどだった。

それでも彼女に恋をしてしまった。
恋焦がれるとはこういうことを言うのだろうか、レイシーを思い出すだけでも胸が痛くなる。
はるか遠くの異国にいる彼女に会いたくてたまらない。
一人の女性を愛しく思うことなど人生で初めてだ。これが初恋というものなんだろうか。

彼女の瞳には一人の男しか映っていない。
しかし不思議と嫉妬はなかった。自分がその立場に置き換わりたいとは思ったこともない。
サリッドとレイシーは対のイヤリングのようにふたりでひとつだった。
運命の相手というものが存在するなら、あの二人のことを言うのだろう。

サリッドのことも気に入っている。
はじめは剣を振るしか能のない平民だと思っていた。
勇敢で努力家、なにより国家への揺るがぬ忠誠心。あのような臣下をもつファーティマ国王が羨ましかった。
レイシーが夢中になるに値する男だと今では思っている。

レイシーはサリッドに好かれているか心配していたが、余が見た限りでは、むしろサリッドのほうがレイシーにぞっこんだった。
砂漠でも街中でも、常に彼女を目で追いかけていた。
それでも旅の間、レイシーと一線を引いていたのは、建前上はあくまで旅のパートナーであること、クリスタルを手に入れる王命が最優先されるべきであること、それがサリッドにブレーキをかけていたのだろう。

帰国する直前にプロポーズしたが、本気で結婚してもらえるなど思ってはいなかった。
ただ、自分がどれほどレイシーを尊敬し、認めているか想いを伝えたかった。それだけだ。

最近も変わらず、結婚の話が持ち込まれるがレイシーと比べると誰も彼も物足らない。
以前と比べたら、たしかに令嬢たちに対する見方は変わった。
ひとりひとりに個性があり、自身のビジョンを明確に語れる女性もいる。
しかし、余に対してレイピアを突きつけるような無礼をはたらける気概はなさそうだ。
いや、実際にあったら困るのだろうが。



ある日、ポーラ・ボールドウィン嬢が王宮を訪ねてきた。
レイシーの姉で、余のかつての婚約者である。
将来を誓い合った相思相愛の恋人がいると知りながら、強引に結婚を申し込んだ。
そうまでしたのに、余は公衆の面前で婚約を破棄するという愚行をおかし、恥をかかせてしまった。
ポーラは何も悪くないのに。どれだけ謝罪しても足りまい。

「テイラー侯爵子息との婚約が整ったそうだな。おめでとう」
「ありがとうございます。ハリソン殿下」
「余が浅はかなことをしなければ、今頃はとっくにニールと夫婦になれていたであろう。申し訳なかった」
「そんなこと……」

ポーラは恐縮していたが、ふと口元を緩めた。

「失礼ながら、殿下は本当に変わられましたね」
「はは、最近はよくそう言われるな」


ポーラはバッグから一通の封筒を取りだし、こちらに差し出した。

「先日、妹から手紙が来ました。あちらの国の騎士の方との結婚報告だったのですが、ハリソン殿下宛ての手紙も同封されていました」
「レイシーから余に?」
「あののことですから、殿下にどれほど失礼なことを書いているか心配で心配で、お渡ししていいものか躊躇しておりました。遅くなりまして申し訳ありません」
「そんなこと気にしないでくれ」

無礼なことなら山ほどされた。
しかし、それ以上に彼女は大切なことをたくさん教えてくれた。

ポーラが退室してから手紙の封を切る。
あの性格からは想像もできないほど、女性らしいたおやかで奇麗な文字が綴られていた。

サリッドと結婚することになったこと。
マルー王妃の話し相手兼世話係として王宮勤めをするようになったこと。
サリッドは今回の功績を認められ、さらに出世することになったこと。

そして余を気遣う言葉もあった。
勝手に旅に出て国王陛下や王族に叱られなかったか、そのせいでほかの貴族たちになにか言われていないか。
そして、誘拐された時のことで悪夢を見るようなことはないか心配しているとあった。
最後には、今後自分がコルトレーンに戻ることはないが、ゆくゆくは立派な国王になってほしいと締めくくられていた。

たった便箋2枚の手紙を何度も何度も読み返した。

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