恭介&圭吾シリーズ

芹澤柚衣

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アンリミテッド・スノーマンの情景

16.

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「智也。お前、小さい頃に着てた着物とかまだ持ってない?」
 普通に話しかけてきた、とは智也の感想である。のっぴきならない――少なくとも智也にとっては――言い争いをして、仕舞いには嫌いだと言われたし、自分も大嫌いだと吐き捨てた。それはもう見事な、喧嘩というものは具体的にこういう諍いのことを指しますと註釈を入れて教科書に載せてもいい程の潔い揉め方だった。
 少なくとも智也なら、自分の性格についてはっきり悪感情を抱いていることを宣言され、走って逃げられた上その日のうちに後を追い損ねてしまった人間相手に、次の日しれっとした顔で何の動揺も見せずに話し掛けるなどということはできない。しかも必要に駆られて致し方なく、という用件でもない「幼少期の着物を今も持っているかどうか」の話である。何ひとつ慮れなかった。気まずいだろうにこういう事情で話し掛けなきゃしょうがなかったんだな、わかるよ感がゼロである。智也は、烏丸の面の皮を測ってみたくなった。五メートルくらいはあるんじゃないかと漠然と思う。人間の皮膚って、変化を繰り返すうちに多様性も生まれるようになったのか。人によっては、随分分厚くできているんだな。俺の面は標準値で良かった。
「……何だ突然」
 誠に不可解な話なのだが、返事をしなければ自室に帰ってくれそうにもない空気が烏丸から流れていた。とりあえず今抱いた個人的感想を述べてみる。人生でこんなに心の底から誰かに対して何だ突然と思ったことはなかった。
「いや、持ってないならいいけど」
「質問に答えろ! そもそも、何歳の頃の着物について言っているのか、わからなきゃ答えようもないだろうが!」
 やってしまった、と思ってからではもう遅かった。博識な智也は、覆水は盆に返らないものと知っている。
 つい頭に血が上ってしまい、とっさに口をついて出た言葉はもう取り戻せない。後悔をするまでもなく、失言であり蛇足であり、明らかに余計な一言だった。拾う気のない捨て猫の前で、チュールだのカリカリだのを、うっかりひっくり返してしまったような気分だ。まさに地獄絵図である。
「年齢とか、関係あんの?」
「……ある」
「……多分十歳? いや、もしかしたら未満かも」
 ともあれ、漸く会話をしてくれる気にはなったらしい。つまりそれは、咥えられてしまったチュールの端を今更吐き出せとも言えない状況と言うこと。智也は腹をくくった。この意味のわからない現状を打破するには、スピード解決が妥当だと思われた。
「十歳か……」
 額に拳を当てて考える。ふさわしいサイズの着物を用意するには、なかなかに難しい年齢だった。
「それなら四つ身では足らないな。本裁ち四つ身のまま取っておいたものも幾つかあるし仕立て直してもいいが、まずは十三詣りの時に使用した一着が合うかどうかを試した方が……」
 観光施設によく見られるその逸品がどのようなストーリーを背負っているのかを自動的に教えてくれるガイドの声を再生するボタンを押した時のように智也が連綿と着物の知識を語り始めるものだから、誠に失礼な話なのだが烏丸は心底驚いたというように目を見開いたまま固まった。自ら頼っておきながら、思考も聴力もまるで追い付いていませんという空気を前面に出すのに、一切の迷いも見られない顔だった。
 一切くらいは迷え。もうチュールだろうがカリカリだろうが何もかも投げ捨てて逃げてしまいたくなったが、この野良猫のような男相手に、自分ばかりが背を向け走り去るというのも癪だった。
「……四つ……え、何?」
「お前は本当に、着物に関しては何にも知らないんだな」
 智也は、目薬を間違えて口に入れてしまった時のように苦い顔をした。言われていることは事実だったので、失礼だなとは思わなかった。
「本裁ちは大人のサイズに仕立てられた着物で、四つ身は七歳から八歳の子供に合わせて作られたものだ。本裁ち四つ身というのは、子供に仕立てる着物を大人になっても着られるよう、敢えて大人のサイズで裁断しておいて、巾や丈を縫い込んで、子供サイズに仕立てあげているもののことを言うんだよ。その分布は多くあるから、腕の良い仕立てを施せば十歳の子供に合わせて作り直せるかも知れないが……或いは、小柄な子供なら、まず四つ身を何着か着せてみても良いんだが」
「……」
「……何だよ」
 変わらずに烏丸がぽかんと口を開け驚いた顔をしているので、智也は溜め息を飲み込んで問い掛けた。
「いや……こないだお前プリプリ怒ってたから、こんなに協力的に話を聞いてくれるとは思わなくて」
「誰のせいだと思ってるんだ!!」
 こんな鈍感男には、溜め息のひとつくらい聞かせてやればよかった。智也は床の間に額を打ち付けんばかりの勢いで蹲る。唐突に、苦い珈琲でも飲みたい気分になった。自分以上に苦い何かを内包している存在を、全身で味わいたいと思った。
「は……? 俺なの? 俺何かした?」
「いや、もういい……馬鹿に怒った俺が悪かっただけだ」
「ふーん……?」
 納得のいっていない顔をされたが、こっちだって最初から納得なんかいっていない。それでも聞き流したりできなかったのは、話題がよりにもよって、智也の人生を根幹から支える衣類のことだったからだ。
「食いついたっていいだろ、別に……着物が好きなんだよ」
 ここに来たばかりの頃は、まるで溝鼠のように薄汚れた格好で、警戒心を走らせながら生活をしていた。優しく微笑む楠のことを正体のわからない怪物のように思っていたから、今思い返してみても憎たらしいガキだったし、血走った、決して大きくない目だって、ちっとも可愛くなかったに違いない。けれど楠――師匠はそんなとりつく島もないような、可愛くない子供の癇癪が落ち着くまで気が遠くなる程長い時間寄り添ってくれたし、温かい湯船などがこの世にあることをまるで知らなかった智也を、文字通り体の芯まで温めてくれた。お風呂上がりに柔らかく包んでくれたタオルも、枯れた木の板に似た手拭いでしか顔を拭ったことのない智也には信じられないくらいの幸福だったのに、師匠は入浴後の自分に着せる着物について、呆れる程真剣に悩んでくれていたのだ。曰く、手元に子供用のそれが何着かはあるが、どうにもお前に似合うような特別に綺麗な柄がない。ぴたりとはまるような一着ができるまでの間、この中のどれを来ていても構わないから楽しみに待っていて欲しいなどと言ったのだ。
 智也は驚いた。野良犬のような自分に、誰でもくるめるようなシーツや毛布ではなく、唯一無二の一着を与えようとしている大人の存在に。一番弟子で既に何着か与えられていたのだろう烏丸などは堅苦しいと早々に洋服へと生活スタイルを変えていったが、智也はその時に選ばせてくれた着物の、ドロップ缶の中にある色とりどりの飴玉のような華やかさに高鳴った胸だとか、可愛くも何ともない自分に当たり前のようにこんなキラキラした着物を取り揃えてくれた事実だとかが今でも褪せずに心にあるため、着物の話題となるとつい我を忘れて饒舌になってしまうのだ。
「……お前には憤りを通り越して最早侮蔑の感情さえも生まれているが、着物を欲しがっている子供に罪はないからな」
 恥ずかしくなって、つい言い訳のように付け足して目を反らす。それでも、ぼろ布を纏って電信柱の影で泣いていた自分の亡霊が、頭を掠めて離れなかった。
「洋服であれ和装であれ、何かを着るということは、生きるということの一部だ。どこのガキかは知らないが、己の身の丈を学ぶ機会も、自分専用に誂えられた何かがこの世にあることの喜びも、与えられないままでは可哀想だろ」
「ふぅん……そんなもんかね」
 烏丸は、智也の感傷を掘り下げるようなことはしなかった。間違いなく同じ時を、同じようにしてここで育てられたというのに。二人の共通の思い出は思うよりも少ないらしい。
 ちくりと今更痛む胸に、気づかないふりをして智也は立ち上がった。見知らぬ子どものために何かを拵えるのであれば、やることは山積みだった。

「よー、恭介」
「恭介!?」
 飛び上がらんばかりに智也が叫んだ。もしかしたら、物理的に何センチかは飛んでいたかもしれない。それ程までに衝撃的な名前をたった今こいつは口にしたのだ。
 朗らかに手を振る先にいる少年を視界に入れて、智也は卒倒しそうになったが寸でのところで踏み耐えた。艶やかな黒髪。インディゴ・ブルーの双眼。目の前で控えめに笑ったのは、一方的に噂でだけ聞き及んでいた彼であった。
「いや、おまおまおまおま」
「壊れかけのレディオか」
「ふざけてる場合か! 恭介ってお前……こいつが誰か、知らない訳じゃないだろ!? 直接会うばかりか、着物を与えるって……正気なのか!?」
「うるさいなー、聞こえてますぅ」
 自分のために声を張り上げている訳ではないのに、烏丸は迷惑そうに目を細めて唇を突き出した。そんな真似されたって、ナノミクロンも可愛くはなかった。まるでホームで騒いでいる酔っぱらいに絡まれたかのごとく、ドライな対応で脇に押しやられる。強引に連れてきたのは烏丸のくせに。まったくもって理不尽な扱いだった。
「部屋、移れて良かったな」
 黒髪の少年は、肩からずり落ちそうな着物を軽く左手で押さえながら、ちらりと伺うような視線を寄越してきた。惜しげもなく晒されている真っ白いうなじや、媚びるようなその視線が花街の遊女を思い起こさせるようで、智也はふいに嫌な気分になった。
「あ……ありがとうございます、あの」
「ああ、自己紹介がまだだったか。俺は烏丸忠則。よろしくな」
 ニコニコと無害そうな顔で笑いながら、烏丸は大きな手を伸ばして恭介に握手を求めている。脇に追いやった智也を、反対の手で押さえたままの所業であった。
「おい馬鹿! 人の話を聞け!」
「あっちで元気に叫んでるのが、智也君」
「智也君」
「気安く呼ぶな!!」
「智也君ちょっと照れ屋だから気にしないで」
 床の間に飾ってある壺を、この男の頭に振り下ろしたらさすがに話を聞いてくれるだろうか。視界に入る家具の中から鈍器になりそうなものを無意識的に物色しながら、智也は静かに怒りを燃やしていた。もし自分が捕まるようなことがあれば、師匠をアシストする人間が皆無になってしまう。この馬鹿を始末するにしても足のつかないものを探す必要があったので、破片という破片が吹っ飛びそうな陶器類は除外することにした。
「この前会った時、お前の着物のサイズが合ってなかったから気になっててさ。智也のお古、何着か持ってきたから着てみろよ。改めて智也に、いちから仕立て直させるつもりだけど時間はかかるし、当座の用意として、今着てるそれよりもまだサイズが近いの、あった方がいいだろ」
「おい! 誰が誰の着物を仕立て直すって!?」
「四つ身だの何だの、あれだけ詳しいんだからその気になればできるんじゃないか?」
「俺を巻き込むな! やらないからな俺は!」
 智也が粛々と凶器の候補から陶器を除外している間にも、マイペース男のお着替え計画は着々と進められているようだ。抑え込まれた腕を押し退けながら逆らう智也の反論も、暖簾に腕押しでひらひらと躱される。
「智也君、怒ってる」
「智也君照れ屋だから気にしないで」
 火を見るよりも明らかだろう憤慨する智也のすべてを照れ屋という言葉で片付けて、烏丸はいそいそと風呂敷を広げていた。
「どれがいい?」
 まるで自分の手柄のように自慢げな顔をしているところ大変申し訳なかったが、この目の前に広げられた和服の数々は、昨夜丑三つ時を過ぎても箪笥の整理に明け暮れていた智也の積み上げた功であった。その時点で自分の役目は果たしているつもりだし、こんなやつはその場に一人残してもう帰ってもいいんじゃないかと思ったが、自身が愛用していた着物の中からどれが選ばれるのか、行方はそれなりに気になっている。
「……これ」
 恭介が控えめに裾を握ったのは、漆黒に染め上げられた、おおよそ子供用のそれとはわからないような一着だった。
「真っ黒いので、いいの?」
 意表を疲れたような顔で、烏丸が確かめる。小さく頷いた恭介は、そのまま胸にぎゅうっと抱えてしまった。
(――ふぅん、わかっているじゃないか)
 智也は、感心したように鼻を鳴らした。確かに見た目こそ地味ではあるが、それは最高品質の布地でできていて、着心地は他のどれよりも勝っている。かつての智也の、お気に入りのひとつだった――真っ先に選ばれて、悪い気がしないくらいには。
「えー、こっちは? オレンジの蝶々柄が可愛いじゃん。これなんかピンクの紫陽花で、女の子のみたいですげェ可愛くない?」
 明らかに不満顔の烏丸がその他の愛らしい柄を勧めてみるも、ふるふると首を横に振ってうつむくばかりだ。幼かった自分の少女趣味だと揶揄されても仕方ないようなラインナップにいちいちそんなコメントを残されたので、それはそれで智也の沸点を簡単に刺激してくる。
「お前は暗に幼少期の俺の趣味を馬鹿にしているのか……?」
「いや大絶賛してるよ、この場合は逆に」
 中性的な雰囲気を孕む恭介には確かに幼女が好む柄もしっくりくるような気もしたが、本人にまったくその気がないのだから仕方ない。ライトアップされた遊園地のようにカラフルな色に飾られたそれらを未練がましく積み上げながらも、烏丸はしぶしぶ諦めましたが納得はいっていないので今ゆっくり片付けています気が変わったらすぐに声を掛けてくださいとでも言いたげな態度を隠さなかった。
 見つけたばかりの子供をそうまでして自分の好みに飾り付けたいのか、この変態が。智也は嫌悪感を露に舌打ちを打った。
「俺は……忌み子だから」
 唐突に落とされた声は、ひどく弱々しかった。まるで何年もの間、圧の強い言葉で大人にそう言われてきたかのような、絶対的支配に屈服しているような声だった。
「そんな、綺麗な着物……着ちゃだめだ」
「恭介」
 大きな瞳が、怯えるようにこちらを伺う。そっと向けた手にさえ、構えるように肩を竦めるのが痛々しかった。大人の差し伸べる手が、振り上げるそれが、すべて恭介をこなごなに痛め付けるものでしかないと、悟っているような悲しい瞳だった。
 烏丸は、そんな小さな肩ごと、背中に手を回して抱き込む。柔らかく髪を撫で、恭介が自分の体温に慣れるまでの間、辛抱強く待った。
「お前のことをそんなふうに言うやつの言葉に、耳なんか貸さなくて良いよ? みんな、無責任に誰かを悪く言いたいだけなんだ。ストレス社会だからな」
 自分でも信じられないような甘い声が口から溢れる。庇護欲であり、それはある意味支配欲でもあった。何ひとつ柔らかくて温かいものを与えられることのなかったこの子供に、いろんな楽しいことを教えるのも、甘くて美味しいお菓子をあげるのも、他の誰にも譲りたくないと思うくらいには。
「……おい、ガキ」
 烏丸の後ろから、冷静な声が恭介を呼ぶ。それは嗜めるようでも、分析するようにも聞こえる声だった。
「着物は、着る本人が選ぶのが一番だ。お前の気持ちが追い付かないのに、無理をして華やかな柄を選ぶ必要はない……どけ」
 恭介を抱き込んだまま夢見心地になっていた烏丸に、遠慮のない上段回し蹴りがお見舞いされた。ひっと息を飲む恭介を無理矢理立たせ、じっと青い瞳を見つめる。いけ好かない子供ではあるが、敵ではないことくらいは伝えてやりたい気持ちになった。
「この世界でお前だけの黒い着物、俺が仕立ててやる――採寸するぞ」
「智也君……」
「次智也君っつったら顔面殴打した後に払い腰でぶん投げた上で絞め技駆使して息の根止めてやるからな」
「お前怖っ」
 たった今ニュー・ジャパン・カップ準々決勝でもなかなか見られない程に計算し尽くされた角度からの華麗な蹴りを見事顔面に炸裂されたばかりの烏丸は小さく嘯いた。心からの感想である。途端、蟻に運ばれている虫の死骸を見るかのようなローテンションで智也に一瞥され、烏丸はひとときアスファルトの上を運ばれる無機質なそれになったような錯覚に陥った。
「あ……そうだこれ」
 恭介が、されるがままに着物を脱がされるのを見守りながら、烏丸は持ってきた風呂敷を広げる。中から出てきたのは、新品の白球。顔に当たってしまった時のことも考慮して、空気は入れ過ぎない程度に留めておいた。
「倉庫にあったボール持ってきた。一人の時に退屈だろ? 俺らはこの後仕事があるけど、次に来た時これで一緒に遊んでよ」
 グーレイト! と指の上で白球を回しながらウインクしてみせたが、元ネタにあたるCMを一切知らない恭介が戸惑ったように首を傾げる。知ってはいたが「朝の栄養バランス満点だ!」の合いの手を付き合いで入れるつもりもさらさらない智也は、悟ってほしそうな烏丸を放置し、懐から取り出したメジャーで黙々と恭介の採寸を始める。
 笹を揺らす風の音に合わせ、縁側に映る木漏れ日が揺れていた。日焼けした床板が、プロジェクトマッピングのように形を変える光を受け、ときに眩しい程鮮やかに反射している。
 静かな時間が揺蕩っていた。

「……どうする気だ?」
「何が」
 不要になった着物を桐箪笥に戻しながら、智也が問い掛けた。縁側で頬杖をついていた烏丸が、上体を起こしながら聞き返す。「おわり」と表示された防虫剤を指で選り分けながら、新しいものの封を二つ切り追加した。この虫除けの役目を果たすアイテムの匂いがどうにも苦手らしい烏丸は、智也と距離を置いた場所に寝転んでいるため返事は酷く不鮮明だった。
「中途半端に関わって、気まぐれに優しくしたりして……お前結局、最後にはここを出て行くんだろ?」
 再三確かめるその声が、捨てられた女のように媚びた響きを含まないよう、細心の注意を払わなければならなかった。
「まぁ、そーだけど」
 相変わらず退屈そうな声で、烏丸は頭の後ろを掻いた。暫く、縁側の柱に首の後ろだけ預けるなどという酷い姿勢のままでいたが、それもさすがに疲れたのか、ごろんと畳の上に転がる。
「最後まで責任とれないなら、口も聞いちゃいけねーの?」
 片方の眉だけをあげて、極論に近い意地悪な質問。論点のすり替えにも似た、意味のない言葉遊びだった。
「いいじゃん別に。端から全部背負えるなんて、俺も思ってないし、そんなつもりもないよ。ここにいるあとちょっとの間だけ、あいつの生活水準改善してやるだけだって。別に、悪いことじゃあないだろ?」
 ひらひらと手を振って、この話はお仕舞いとばかりに背を向けられた。左側の二の腕に頭を預け、夕凪を楽しむように目を閉じる。
「……お前は残酷だよ」
 恨みがましい智也のそんな声でさえ、この距離ではきっと届かない。この先烏丸がふいに消えてしまうことがあれば、何くれとなく智也が、恭介を構うだろうことをわかっているのだ。烏丸の思う通りに動くなんて御免だったが、同じ男に置いていかれた存在として、きっと智也はもう恭介を放ってはおけないだろう。もしかしたら、気まぐれで優しくすることもあるかもしれない――互いの傷を、舐め合うように。
 恭介と自分は、よく似ている。こんな狭い世界がすべてで、自分の意志で行きたい場所なんかどこにもなくて――きっとこれからも、そんな風にしか生きられない人間だ。


 その日は、朝から機嫌が悪かった。
 予定外の仕事が入り、恭介とボールで遊ぶという約束が反故になったのも理由のひとつである。あまつさえ依頼人の自宅に行ってみれば、痴話喧嘩の真っ最中だったというおまけつき。何でも女の方が浮気をしただとか、そもそもその浮気の原因は、男の方が三年前にした浮気に発端があるだとか、そういった話でヒートアップしており終着点がまるで見えなかった。烏丸にしてみれば鶏が先か卵が先かという感想しかなかったし、依頼人のおっしゃっていらした悩みの種だとかいうポルターガイストの発端はお二人の浮気によって派生した同時多発テロ系の生き霊ですよだとか、それぞれの相手だったのだろう生き霊の男女が何故か、結託して悪事を働き信じられないようなコンビネーションが生まれていますだとか、生霊としてではなくリアルにこの二人を会わせることができたら存外気が合って恋人同士に落ち着き全員ハッピーエンドになるんじゃないかなだとか提案してみたいことや言ってみたい嫌味はたくさんあったが、二人は完全に冷静さを欠いていて解決策を提案する以前の問題だった。
 話を聞く気がゼロの依頼人たちをダブルの霊障から守りつつ説得を繰り返し、最終的には元凶でもあるカップル二人を正座させねちねちと説教をする羽目になった。結果、そんな烏丸を見て謎の感動を覚えたらしい二人の生き霊までもが傍迷惑な彼氏彼女の後ろで改めて正座をし始めるものだから、まとめて四人分の講釈を垂れる羽目になった。最終的には依頼者も加害者も改心してくれたためやり甲斐はあったが、疲労困憊の体は重かったし、生き霊コンビに最初に対峙した時に避け損ねた霊障により、左掌にケロイドのような熱傷が残ってしまったのはマイナスポイントだ。
 じくじくと痛むそれに気が滅入り、いっそとっとと帰ってビールでも飲みたい気分だったが、こんな時は可愛いものを見て癒されるに限る。
 まっすぐ自室に戻るのを止め、烏丸は回廊を早歩きで引き返した。目的地は増設された離れの部屋――最近になって漸く少しだけ笑ってくれるようになった、例の子供の新しい住まいだった。

「恭介……!?」
「うるさい」
 遠目にもわかる手の甲の傷を目敏く見つけ、転がるように恭介の元へ駆け寄った。それは、やたら肩幅のでかい虎が出てくるCMでお馴染みの、コーンフレークを食べた直後の子供達に軒並み見られる瞬発力と何らひけをとらないスピードだった。
「お前、手……どうしたんだ!?」
「ボ……ボールで遊んでる時、転んじゃって」
 上手く遊べなかった自分を恥じるようにそんなことを言うものだから、堪らなくなって烏丸は両手でぎゅっとその手を掴んでしまった。紅葉のような、愛らしい手に赤みが差す。烏丸から与えられる慣れないスキンシップは、恭介の居心地をときどき酷く悪いものにさせてしまうようだった。
「ごめんな……俺が余計なものあげたばっかりに」
「ううん、楽しいよ」
 恭介が、すぐにそんなことを言った。こんな子供に気を使わせてしまうだなんて。烏丸は今すぐにでも車を改造してタイムマシーンを作り、過去に戻って自慢げにボールを回す自分を助走つきで殴りたい気持ちになった。
「烏丸、さんも、手……怪我してる」
「俺は良いの~! 恭介の綺麗な肌に、傷があることの方が世界情勢を大きく揺るがす事案だからな!? すぐに消毒しないと!」
「ひゃあっ……」
「おい、舐めるな雑菌が入る」
 初めて恭介に名前を呼ばれたことで烏丸の理性はあっけなく崩壊し、獣じみた仕草でついペロリと恭介の手の甲を舐めてしまったところで上擦った高い声の悲鳴があがった。烏丸には手負いの恭介しか見えていなかったがおそらく最初から近くにいたのだろう智也が、間違った治療を施している烏丸の背中目がけ重めのジャブを入れてくる。週末にテレビで観た映画の主人公を真似て「それってヘビーだ」など文句を言ってみたが、烏丸が時々見せるおふざけの何もかもを聞き流すドライな男は、中途半端な物真似などには一切触れてくれなかった。完全無視を貫いたまま、小さな箱を開けている。それはイヤホンケースよりは一回り大きく、シガレットケースを横向きに開くよう改造したような作りの箱だった。
「何だそれ」
「救急箱代わりだよ。誰かが怪我した時、治療に使える呪具が一式揃ってる」
「はー……用意が良いなぁ」
「呪具師の中で、お前くらいだよ……いざという時のことを考えて、何ひとつ備えない馬鹿は」
 そんなものがあるとわかっていれば、舐めて治療だなんて原始的な方法を選ばなかったのに。烏丸はきまりの悪そうな顔で、唾液よりは明らかに治療の効果がありそうなアイテムを持つ男に恭介の正面を譲った。
「染みるか?」
「だい……じょうぶ」
 何だか面白くなくて、烏丸はひっくり返るように縁側に寝転んだ。言い方は悪いが、お気に入りの玩具を遊んでいる途中で、取り上げられてしまった気分。駄々を捏ねるように足をばたつかせていたら、ホコリを立てるなと叩かれる。最終的にカタツムリのように丸まって、ふて寝をするように目を閉じた。
「ほら」
「へ?」
「お前も、貸せよ手。どうせ今日の依頼で、霊障にあてられたんだろ」
 そう言えばそうだったなぁと、ぼんやり自身の左手を見る。烏丸は表面の皮膚を確かめるように二、三ヵ所を触っていたが、ふいに顔をあげ、何てことのないように呟いた。
「いや……もういいわ」
「いいって、お前」
 困惑する智也を無表情で振り返り、烏丸は改めて口にした。
「本当に」
 それは砂漠に落ちている木の枝のように、無味乾燥な声だった。


「恭介様が、土屋の家から追い出されたそうだ」
 平和な日々というのは、いつの時代も長くは続かないものなのかもしれない。時々恭介の様子を見に行きながら、依頼があればその分だけ仕事をこなし、空いた時間は荷造りに当て、実に充実した穏やかな日々が満ち満ちていた矢先のことだった。
 朝餉の一品である冷奴を真ん中からモーセの海のように真っ二つに割り、崩れたおろし生姜を箸で拾い上げ、いかに均等に豆腐に塗りたくるかということに全神経を注いでいたタイミングでの師の発言だったので、烏丸の相槌も理解も愛想笑いも反応も、すべてが一拍遅れのタイミングに放たれる結果となった。
「は……?」
 隣に座っている智也が早く醤油を寄越せと催促してくるが、烏丸の頭はそれどころではなかった。力の抜けた手首の角度がずれ、綺麗に二等分にされた豆腐に真っ黒な海を作った瞬間さえ神経は削げ落ちていた。醤油びたしになってしまったその惨事に気づいたのだって、隣で悲鳴をあげた智也に醤油差しを奪い取られたからだった。
「どういうことだよ……っつーか、お前は知ってたのか? 智也」
「冷奴に、だし巻き玉子、納豆と海苔、沢庵、おまけにサラダ、味噌汁か……朝の栄養バランス満点だ」
「いや、今言うなよ」
 一人遊びのようにボールをくるくる回していた時にこそ言ってもらいたかった一言を今更聞いて、烏丸は突っ込まずにはいられなかった。
「智也を責めるな。目撃者の一人だったに過ぎん」
?」
 まるで、大きな事件でもあったかのような言い回しだ。良い予感はしない。穏やかじゃない何かが、既に起きてしまった後だということか。
「……恭介様は、禁忌を犯された。九尾と盟約を交わされ、因果を結んでしまわれたのじゃ」
「盟約、だって……!?」
 話には聞いたことがある取引だった。確か――肉体の一部を捧げることで、相手の力を自分のもののように使うことのできる契約。
 まさか盟約済みの人間が自分の身近にいて、それも相手があの九尾だなんて――対価だって、相応のものを要求されるだろう。相当な覚悟が、必要な行為であったことは明白だ。争いなど一切好まないあの少年には、どうしたって結びつかない、妙に不釣り合いな現状が転がっている。烏丸が訝るのも無理はなかった。
「……あいつが、自分のためにそんな無茶するとは思えないんだけど」
 小鉢に注ぎすぎた醤油を、智也に用意された豆腐の上でひっくり返しながら烏丸は言った。テーブルの下で組んでいた足の太腿が、智也の左手によって遠慮なく叩かれる。
「恭介に、随分傾倒しているんだな」
「いや。単純にあいつ普段全然我儘言わねーから。九尾の力を手に入れたい的な欲望は、動機にならないんじゃねーかなって思っただけだけど」
 話しながら、智也の膳に納豆を紛れ込ませるように移動させたが、瞬く間に気づいた彼に光の早さで戻された。
「盟約がどうとか、詳しくは知らねーけど……それが穢れにあたるっていうなら、御当主様は容赦なさそーだもんな。もともと自分の息子が手下以下の人間によって檻にぶちこまれてたって、静観なさるような冷徹なお方だし?」
「忠則」
 楠が、鋭い言葉で嗜める。わかっていた。師匠は基本的に、土屋の王様がやることに善悪を問わない。恩義があるのだと、常々彼は言っている。裏切れない何かがそこにある以上、年端もいかない子供が路頭に迷うような行為をしても、表向きは非難しないのだろう。
「別に怒ってねーよ。いや、一瞬は怒ったけど……考えてみりゃ、逆に良かったんじゃね? 一生土屋に縛られて、飼い殺されて生きていくよりかはさ」
 少なくとも、またいつあの牢屋に戻されるのかと、ビクビク暮らさねばならない環境よりは余程良い。烏丸は、慣れた手つきで沢庵の載った小皿を智也の膳に移動させる。智也は秒で気づき、振り下ろす勢いで元に戻した。何度かの攻防の末、結局烏丸の配膳は元通りになった。
「暫くは、俺が面倒みりゃいいし」
「は……?」
 再び、烏丸の手によって、智也の白飯の上で沢庵の皿がひっくり返された。コロコロとなだらかな白米の上を転がって、茶碗の縁でぴたりと止まる。
「さすがに養子縁組して、父親代わりになります的な熱意まではないけど……恭介のことは、それなりに可愛いとは思ってるし。俺だって、丁度ここを出るタイミングだったんだ。何なら師匠みたいに、弟子にしていろいろ教えたっていいし」
 智也は、白飯の上に無理矢理移動させられた沢庵を、ひと切れ箸で摘まんだまま静止した。本当は、もう何もかもを諦め、噛んで飲み込もうとした。けれど、どうしてもそれだけはできなかった。
「……何?」
 訝しんだ烏丸が、正気を確かめるように問い掛ける。智也と目があった。小さな瞳は、渦巻くような影が波立っていた。
「……お前、自分が何を言っているのか、わかってるのか……?」
「つまらない話をするなよ」
 うんざりとした口調で言い捨てて、烏丸は味噌汁を一口飲んだ。まるで場面転換も、起承転結もろくにないB級映画を観せられた後のような顔だった。
「つまらなくなんかない! お前は全然……全然わかってない……っ!」
「智也」
 楠が、智也の名前を呼んだ。それは制止の指示とほぼ同意だった。
「……忠則。知りたいのなら伝えておこう。恭介様が、お一人で暮らすことになった神社だ」
 楠が懐から、メモ用紙を一枚取り出した。そこには、アンバランスな位置に走り書きされた住所があった。
「……へぇ。土屋の長男だってのに、随分簡単に居場所が知れちゃうんだな」
「もう、守られなくなったからな」
 楠が呟く。意味のわかりにくい一言だった。
「破綻するぞ」
 智也が言った。絶望と嗜虐性を織り混ぜたような、酷くいびつな声だった。
「これは警告じゃない。予言だよ。恭介は、いよいよ見捨てられたんだ。それを片手に抱えたままでお前が生きてゆける世界なんか、ここを出てしまったらどこにもないんだからな」
「嫌なことを言うよなぁ」
 お椀を置いて、烏丸がしみじみ言った。すっかり干からびている納豆が視界に入ったが、今更混ぜる気にもなれない。どうやら二人がかりで説教じみたことをされているらしいという現状に漸く気づいたが、別にどうとも思わなかった。反省の辞を述べるべき対象が存在しないのなら、己を顧みる必要はないということだ。
「あんまり、そういう心配はしてないよ……俺、挫折したことないし」
 烏丸は、味噌汁を一気に飲んだ。箸を付けただけの冷奴は、食欲が失せる程にぐちゃぐちゃだった。
「お前は、一回罰があたればいいよ」
 智也が、泣きそうな顔で笑った。息絶えて手の届かない場所に行ってしまった誰かを、見送るおくりびとのような顔だった。

 格好の退屈しのぎができたと思うのは、さすがに性格が悪いだろうか? 師匠には感謝こそしていたが、彼の元で安全圏を一切出ないまま、指示されることだけをひたすら淡々とこなしてゆくのも、いい加減飽き飽きしていたから。繰り返すだけの日々の中で、それなりなコメディア・デラルテを演じるだけの毎日。抜け出せる瞬間を、烏丸はずっと待っていた。悠然とサバンナを踏みしめながら、獲物を狩るライオンのように。或いは、そのライオンのおこぼれを狙って茂みに身を隠す、一匹のハイエナのように。
 烏丸にとっては切っ掛けのひとつに過ぎない、ちょっとした好奇心を満たしてくれる存在が恭介だった。まさか自分が、ゴルディオスの結び目に触れているなどとは思いもしなかった。

 ――浮かれていたのだ。
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