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アンリミテッド・スノーマンの情景
20.
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いつ寝たのかなんて、まるで覚えていなかった。
すっかり寝入ってしまっていた拓真を一度客間に運んだ後は、やらなければならないことはわかりやすくなくなった。圭吾は洗濯物を片付けたり端から端まで掃除機をかけたり、かと思えば突如庭に降り立って得体の知れない何かを燃やすなどしていたが、彼程この神社の至るところに精通している訳ではない鳴海は別段願い出てまでやろうと思い付くこともなく、縁側であらゆるポーズをとりながら寝転ぶなどしていたら外はすっかり暮れなずんでいた。まさにカラスが鳴くから帰ろうと歌われる時刻である。
さりとてじゃあそれぞれの家に帰りましょうかまた明日という話にはならなかったあたりから、問答無用で圭吾も鳴海も神社に泊まるつもりであったことをお互いに悟っていた。起きた瞬間他人の家に寝かされていたと知る拓真に状況説明のできる人間が誰かいた方が良いということは正しい判断であったが、その誰かは結局のところ一人居れば済む話だった。たとえ日を跨ぐことになってしまったとしても、この神社に帰ってくるであろう人物に、帰宅するなり力の限りでどうにかしようとしなければ引くに引けない引き戸をあけた瞬間に、ただいまを言うのも躊躇う静寂などは味わわせたくなかった。いつものように響く筈のその声を、迷子にさせることなく「おかえり」と答えたいという気持ちだけで、圭吾と鳴海はその場に残り続けたのだった。
夕刻の時間をとうに過ぎた時刻になってから、やはり勝手知ったる態度で圭吾が飯を炊き、更に勝手知ったる態度で風呂を沸かしたりなどしたので、交代で入ったり、共に食事を済ませたり、皿を洗ったり拭いたりをしていたら、あっという間に時計の針は短針が十二時を指す時間帯になっていた。無意識に、玄関に一番近い部屋に二人分の布団を敷き、鳴海の包帯を替えてから床につく。弾む会話などはなく、心はともかく体はへとへとに疲れていた。
泥に沈み込むような感覚で、その身は布団に飲み込まれているのに、妙に高ぶった感情だけが取り残され、それはなかなか睡魔に紛れてはくれない。寝返りを繰り返し、ここが正解と思える姿勢を闇雲に探して時間だけを浪費した。お互いに、心細さを抱えて過ごした夜だった。
「おはよう」
控えめに開かれる襖の音より先に、柔らかい声が近くから聞こえる。それは二日前の夜まで当たり前のように聞いていた人物のものだったのに、何故か懐かしさを覚える程に胸を締め付けられた。
とす、と膝を畳に落とす音がしたので、鳴海は無理に瞼をこじ開けた。二つ歳上の友人が、その枕元で膝をついているのが見える。暴力を受けた痕跡の残る、片方だけ僅かに腫れあがった頬。手当てもされていないそれが痛々しかったが、それでも目を細めて、いつものように笑ってくれた。恭介を助けると決めてからずっと、そのように日々が戻ったら良いのにと、鳴海が密かに思い描いていた完璧な映像だった。
あんまりに望んだ通りのものだったので、飛び上がって起きてしまったら、突如消えてしまいそうで怖かった。全部鳴海の見た都合の良い夢だったなんて、後から知ってしまったらとてもじゃないがこの心臓はもたない。そうであるならば目覚めたくなかった。ぎゅう、と布団を掴む手に力が籠る。確信がないと動けないだなんて、情けなくて涙が出そうだ。
「ご飯作ったけど、起きれるか?」
恭介の指が伸ばされて、布団から出るのをぐずる幼子のような鳴海の手に、そっと添えられる。まるでそうしないと粉々に崩れてしまう繊細な飴細工にでも触るかのように、焦れったくなる程優しい指だった。
触れた体温から、熱が伝わってくるのが分かる。温かい。生きてる。目の前で鳴海を優しく起こすこの像は、都合よく現れた幻なんかじゃない。
「恭……ちゃん」
それは、ひどく掠れた声だった。たった今喋ることを覚えたばかりの赤ん坊のように、喉の使い方がまるでなっていない、へたくそな声だった。
「ただいま」
なのに、どうして届くのだろう。鳴海が欲しかった言葉が、どうして恭介にはわかるんだろう。
「恭ちゃん、おかえりっ……! う、痛っ……」
飛び付こうとして、右肩に激痛が走る。その他が元気いっぱいな鳴海にとって不慣れな局所的過ぎる怪我は、どうしたって意識するのを忘れてしまう。可動域が普段の半分以下になった右肩を抑えながら、照れたように笑って見せた。けれど恭介は、さっと表情を陰らせてしまう――ああ。笑ったままでいて欲しかったのに。
「怪我させちゃってごめんな。起き抜けに悪いんだけど、もし気持ち悪くなかったら……俺の、血を舐めてくれ。霊障でできた傷なら、多分綺麗に治ると思うから」
言うなり、自ら手の甲に爪を立てている。まるで救急箱の蓋を開けるように、躊躇いのない動きだった。
「いい」
鳴海ははっきり断った。ひどく明瞭な声だった。
「……ごめんな、やっぱり気持ち悪いよな」
「そうじゃない」
皮膚に食い込ませた指が、その表面を掠る前に手を伸ばす。恭介の皮膚の下に流れるそれを、絆創膏や包帯のように、浪費させるのが当たり前だなんて思って欲しくなかった。
「俺の怪我は、俺の責任! 痕なんか残ったっていいよ。時間を掛ければ、傷口はちゃんの塞がるもの」
それが肉体についた傷であるなら、便利な方法に頼らなくたって、塞がるものだと鳴海は知っている。
「恭ちゃんはもう、誰かの傷を癒すために、自分に傷をつけなくて良いんだよ」
「鳴海……」
惑うように、鳴海を見上げる瞳がもどかしい。まるで傷薬を差し出したのに、断られでもしたかのような顔だった。恭介にとっての恭介の体が、便利な道具に成り下がっているのが悲しい。必要な時に切り取って差し出せば良いと、心から思っているのだから始末に悪い。
それは、そのようにして二度も盟約を交わしたせいかもしれないし、あの父親から満足に愛情を受け取れなかった過去からくるものなのかもしれない。分析は無意味だ。明るい場所へと繋げられるのも、変えられるのも未来だけ。それを何より思い知っただろう男の視線がそろそろ怖くなり、鳴海はぱっと恭介の手を離した。
「さーてと! 俺お腹すいちゃったし、たっ君起こして、先に食べてるね」
「えっ……、先にって……?」
寝起きでよくそんな脚力があるなと感心したくなる程高らかなジャンプを決めてみせた鳴海の言葉の意味がわからず、恭介は体の向きを変えのろのろとした声で聞き返した。
「だって、時間掛かると思うよ?」
「何が」
「圭吾のお説教」
そういえば冷凍庫を開けた時のような冷気が、さっきからじわじわと背中に伝わってくるのを感じていた。それが本当に冷凍庫であるなら閉めれば良いだけの話だが、ここは台所の一角ではないし、都合良く蓋になってくれそうな壁も盾も見当たらない。
「恭ちゃんの立場とか、気持ちとか分かんなくもないけどさ~、恭ちゃんに悪いところが一切なかった訳じゃないし……」
まるで世紀末に直面したような心持ちで固まる恭介に欠片の容赦も見せず、鳴海が追い討ちを掛けるようにしてつらつらと俯瞰で見た状況を語る。いっそ視覚化されているんじゃないかと思える程目に見えて重たい空気は、そんな友人の言葉が決して検討違いの発言やら杞憂やらでないことを物語っていた。
「一回くらい圭吾にガツンと怒られた方が、良いんじゃないかな!」
にっこりと、鳴海が笑った。まるで讃美歌の生み出す調のように、儚い美しさのある笑顔だった。
「ま、待て鳴海……! 待ってくれ!」
「ごめん、恭ちゃん」
心底申し訳ないといった顔で、鳴海がゆるく首を振る。
「俺……いち君に告白したばっかりなの」
「は、ぇ?」
「だからさすがに、今は命が惜しいかな」
朗らかに無事ではすまないことを予言され、恭介は今度こそ力なく項垂れた。目の前で軽やかに襖を閉められ、伸ばした指先は何も掴めない。いっそ犬神でも呼んで盾になってもらおうか。そもそも普段取り立てて用事もなく呼び出している訳でもないタイミングでひょこひょこ顔を出すくせに、どうしてこういう時にばかり主人の声が掛かるのをおとなしく待機してやがるのか。
理不尽な怒りが込み上げてきたが、部屋の隅に追い詰められたようなこの状況は変わらない。ゆらり。明確に、空気が揺れる音が聞こえた。後ろを振り向く勇気など欠片もなかったが、いつまでも背を向けたままでいてはろくに話もできないから仕方ない。
殆ど清水の舞台から飛び降りるような気持ちで、恭介はくるりと振り向いた。今世紀最大の、決死の覚悟であった。
「し、しの……! 落ち着け、あの、今回はだな……、お、俺なりに考えがあって」
バタバタと手を動かしながら、自分がどれだけ全力でその問題に挑んでいたかを畳み掛けるように言葉にしたが、忙しなく動くそんな両手をあっさりと封じられ息を飲む。掴まれた手首をそのまま引き寄せるようにされてしまっては、抵抗などできようもなかった。
そのまま、肩を抱かれる。指が皮膚に食い込む程強く、その掌は灼熱のように熱かった。
抱き潰されてしまうのではないかといっそ怖くなる程、恭介は圭吾に捕らわれてしまった。
「……会いたかった」
ただでさえ、その力強さにのぼせそうになっていたのに。耳元でそんなふうに、絞り出すような一言を聞いてしまったらもう駄目だった。
僅かに震えている肩に手を回し、恭介も同じだけの力を込めて抱き返す。ぴったりとくっつく胸が、ドキドキしているのが自分でもわかった。こんなにうるさい音で、こんなに早く鼓動しているのがばれてしまったら、恭介の恋心まで筒抜けになってしまうんじゃないだろうか。
ふいに怖くなって身じろいだが、圭吾はそれを許さなかった。まるで少しの隙間も開けたくないとでも言うように体を重ねてくるので、恭介はいよいよ観念して、そのまま身を委ねることにする。
「……ありがとう、しの」
頬を圭吾の胸に預けたまま、恭介が言った。
「俺のこと、信じてくれて……俺が」
込み上げる感情が喉に支えて、ふいに言葉が途切れてしまったけれど。恭介は泣きたい気持ちを堪えながら、どうしても伝えたかったことを口にした。
「生きることを諦めてないって、信じてくれてありがとう」
きっと圭吾に会っていなければ、もっと早くに手放せた筈だった。それを圭吾が――圭吾だけじゃない、周りの人たちがずっと、そんなちっぽけでつまらないものを、とても素敵な宝物みたいに大事にしてくれるから。
恭介ももうそれを、いらないものだと簡単に捨てられなくなってしまった。そんなふうに自分が変わっているさなかであることを、圭吾が信じてくれたのがただただ嬉しかった。
「……厳密に言うと、あんたが死ぬつもりじゃないって……信じきれてたかどうかは怪しいところです」
「え?」
漸く上半身を離してくれたと思ったら、恭介の額に、圭吾のそれをこつんとくっつけられる。まるで幼子の熱を確かめるようなその仕草に、今度こそ恭介は卒倒しそうになった。
さっきからいちいち、心臓に悪いことばかりする。人の気もしらないで、という文句はどうにか飲み込んだ。
「あんたの自己犠牲に利用されている可能性も、考えなかった訳じゃない。ただ、もしそうであるなら後を追えば良いやと思ったので、逆に踏ん切りがつきやすかったというか」
「なっ……!」
「いいですか先輩」
とんでもないことをさらりと言うものだから、恭介はうっかり聞き逃してしまいそうになった。慌てて叱ろうとした瞬間、先回りするように言葉で塞がれてしまう。
「今後何か普段と違うことがあれば、真っ先に僕に話すようにしてください。もう二度と、僕が外出した隙をついて、一人でどうにかしようだなんて思わないで欲しいんです」
「……別に、やけになってた訳じゃない」
「へぇ?」
氷点下の夜に張られる氷のような声だった。ぼそぼそと反論してみせたが、どうやらそれが不正解だったと悟る。圭吾の肩を押し返して距離をとろうとしながら、恭介は必死に自己弁護の言葉を脳内で組み立てていた。まるで敗訴の色濃い裁判の、被告人側に立たされているような気分だった。
「だって、俺の家の事情だろ……! しのとか、鳴海とか、巻き込みたくなかっただけだよ! 全部ちゃんと終わらせて、日常を取り戻して……修学旅行から帰ったしのに、いつも通りおかえりって言うつもりだったんだ」
「何も知らされないまま旅行に出掛けて、戻って来たタイミングで全て終わったその事実を知らされていたら――僕は今度こそあんたのこと、何ひとつ信じられなくなっていましたよ」
口許を歪めるようにして、圭吾が静謐に笑う。ぞくりと恭介の背中に走る震えが、恐怖からくるそれだけではないことに気づいてしまった。隠しようもない程大きな歓喜が、恭介の胸を震わせるのだ。居たたまれなくなって唇を噛む。
こんなふうに心を寄せてもらえることが、気にかけてもらえることが――消えてしまいたいくらいに嬉しかった。
「……ね、先輩。教えてください。何があったのか、ひとつ残らず、全部」
するりと浴衣の袖の中に手を忍ばせながら、圭吾が言った。砂糖菓子のように甘やかな声だった。
「や……っ、しの、」
そのまま着物の中に手を入れて、まるで体温をなぞるように生々しく撫でるものだから。思わず上擦った声が上がってしまう。いたずらな指先は隙間の多い浴衣の背中を這い上がるように先へと進み、肩甲骨のあたりでぴたりと止まってから、爪を立てた。
「あ……っ」
「知っておきたいんです。土屋先輩に起きてることを、ちゃんと。じゃなきゃあんたのこと、本当に信じるなんてできない」
「はなす、はなすから……手、抜い……っあ、やだ」
「んー……」
耳に届いたのは、離してくれと喚き立てる恭介に、欠片も賛同してくれなさそうな声だった。
「……もうちょっとだけ」
案の定囁くようにそう言って、するりと肩から浴衣が落とされる。抗う間もなく、鎖骨に歯を立てられた。恭介はビクンと跳び跳ねるようにして喘いだが、肩と背中に回された腕が羽交い締めにしているのでどこにも逃げられない。チカチカと火花が目の前に広がるような感覚が怖くなり、震える腕でどうにか距離を取ろうと試みたがまるで役に立たなかった。噛みつかれた鎖骨の痕を確かめるようにして触れる圭吾の指が、そのまま首筋まで愛撫するのだから堪らない。
ちっとも優しくない、何もかもを奪うような触り方だった。喉仏を、ぐっと絞められるように力が込められる。絞殺されることを想像させるようなその行為にさえ、恭介の頭は甘い痺れに満たされていて動けなかった。
「動いてる」
圭吾が、ぞっとする程美しい顔で笑った。力を込めていたのは、絞めるためではなく、その下に流れる脈の鼓動を掌で感じるためだったと遅れて気づく。
「その事実が、僕にとってどれだけ得難い幸いか……先輩には、わからないでしょうね」
眦から頬を伝う、一筋だけの涙。それは柔らかい新緑を滴り落ちる、雨上がりの瑞々しい雫のようだった。
「しの……」
圭吾が、声もあげずに泣いている。たった今恭介から何もかもを奪おうとしていた男と同一人物とは思えない程、透明な涙を流す頬は儚げで、今にもどこかへ消えてしまいそうだった。
「ごめん」
「謝ってほしい訳じゃない」
「そうだけど、でも」
「……逆に、僕のことが信じられませんか?」
瞼の滴を指で払いながら、圭吾がアイロニーを含めた声で笑った。
「そんな訳ないだろ!」
「だったら、他に何が足りないっていうんです」
咄嗟に俯く恭介を下から覗き込むようにして、圭吾が顔を寄せてくる。真っ赤になっているのを知られたくなくて、恭介は赤く色づいた耳を両手で隠すようにして縮こまった。咄嗟に背を向けたが、聡い後輩が見逃してくれる訳もなく。
「……意地悪してるみたいだ」
「違っ、」
「言ってくれれば、あんたが欲しいもの全部あげるのに」
後ろから抱き込まれた。お腹にするりと回された腕で、逃げられないようがっしりと捕まえられる。そのままうなじに甘噛みされ、恭介はいよいよ脳内のキャパシティが崩壊する音を聞いた。
「た……」
「た?」
「足りないもの、なんか……ない……っ」
へなへなとその場に倒れ込む恭介を逃がしてくれず、圭吾は囁くように聞き直す。
「本当?」
「っん……」
ついでのように、耳の裏に唇が当てられた。きっと何かの弾みで、あくまで偶発的に起こったことで、それをキスなどと捉える方が無理があるし、接触事故か何かだと判断すべき状況に違いないのに。跳ねあがる心臓も、その唇で触れてもらえたことが死ぬほど嬉しいと思う感情も、すべてはとっくに、恭介のコントロール下にはないものになっていた。
結局腰に回された左手を離してくれる様子もなく、それどころか圭吾にもたれ掛かるように右手で促される始末だ。その圭吾自身は襖の縁に背を預けているので体重をかけてもらっても問題はないとでも言いたげな涼しい顔をしていたが、あいにく恭介は、想い人を座椅子代わりにしたまま世間話ができるような神経は持ち合わせていない。もぞもぞと移動を試みるも、「すみません。どこか触ってないと不安なんです」などと珍しく殊勝な顔で可愛い我儘を言われてしまっては、最早恭介に思い付く抵抗らしい抵抗はくなり、方々手を尽くしてしまったと言って良かった。
どうやらこのままの状態で話せということらしい。
心臓を犠牲にする覚悟で、恭介は頭をことりとその肩に預けた。開き直ることを腹に決めた瞬間だった。
「……手紙が、来たんだ」
「ああ、あの胸糞」
「くそ?」
「いえ……失礼、何でもありません」
「実家に戻って、跡継ぎになれって」
「書いてありましたね」
「書いてあ……何で知ってんの?」
あの胸糞、という発言のあたりで引っ掛かってはいたが、明確な違和感を聞き逃すことはできずに首だけを回して後輩を伺い見た。圭吾は、味のなくなったガムをかれこれ二十分は噛み続けているような、つまらなそうな顔を隠してはいなかった。
「いえ、その……書いてありそうだなって。思っただけで、全然」
「読んだな」
「たまたま予想が当たっただけですって……それを読んだからだなんて、安直な」
「そんなんで誤魔化されるか! 読んだんだろ!? 何で!?」
体を腰から捻るようにして圭吾の胸を叩いてみたら、漸く観念したらしい圭吾が、両手をあげてホールドアップのポーズをとる。その割には、その表情は責められることが不本意ですという感情を露にしており反省の欠片もない。
「……あんたが話さないからでしょ」
「だからって、人の手紙こそこそ読んで、ばれないように戸棚に戻すなんて駄目だろ!」
「戻してませんよ」
「は?」
「戻してません」
「……お前、盗み読みしたこと、隠す気」
「ゼロじゃないですけど、バレたらバレたでいいやって思ってました」
淡々と、圭吾が答えた。いやに落ち着き払った声だった。
「……今どこ」
「燃やしました」
「は?」
「燃やしました。昨日帰るなり、庭で」
「……何で?」
純粋に、心からの疑問だった。
「あれのせいでしょ。先輩が僕に、修学旅行行けって言ったの。腹立ったので燃やしました」
「お前すげーな」
もうその根性を称賛するしかなくなって、恭介はしみじみと言った。実際すごいなとは思っていた。自分が逆の立場であったなら、いかに腹を立てていたと言えど、上司宛の郵便物を許可なく開封したばかりかお焚き上げのように内々に処理をするようなことはできない。この世には自分が知らないだけで、いろんな価値観が散らばっているのだなぁと、恭介は少し大雑把に自己完結することにした。
説教は諦め、元のように圭吾の腕の中に収まる。満足したように、今度は両手をお腹の前に回された。
「……あの手紙を貰った時、ああ、期限がきたんだなぁって思ったんだ」
「期限?」
「師匠が、俺の師匠でいてくれる期限」
ため息のように、小さく息をつく。その覚悟をしたのは――もう七年も前の話。今更思い起こしたところで、生々しい傷などはないから胸は痛まない。痛まない、筈だった。
「だから、すぐに師匠のところに言ったんだ。ちょうど拓真の守護霊交代に関する依頼も受けてて、聞きたいこともあったし」
「……それで、あの人は?」
「報告してみたら、何故だか突然、俺のやってるお祓いの話になって……『今まで犬神の力で浄霊していると思い込んでたみたいだけど、実際は恭介の体を使って祓ってるんだよ』って。俺の魂が半分空洞になってるってことも、そこを利用して、薬箱みたいにいろんな人を救ってきたってことも……その時初めて教えてくれた」
そろりと圭吾の腕に触れながら、恭介は言った。どこかに縋りつきたくて、その癖どこも見つけられないような動きを見せる指だった。
「何で、今までそれを隠してたんでしょうね?」
「隠してたっていうより、話せなかったみたい。自分の中に取り込んでるって自覚しちゃったら、邪霊とシンクロし過ぎて危ないことになるから。ある程度俺がそのやり方に慣れて、一線引けるようになるまでは話せなかったんだって」
「成程ね……」
相槌は、吐息混じりの声になった。恭介の髪の毛に鼻の先を埋めるようにして、圭吾は静かにその続きに耳を傾ける。その瞬間びくりと固まってしまった恭介が再稼働するまでに、僅かなタイムラグはあったけれど。
「……実家に帰る時は付き添ってくれるって、約束もしてくれたんだ。師匠の空いている日に何度か神社に立ち寄るから、俺が何の未練もなく、帰ってもいいって思う日が来たら一緒に帰ろうって……けんちん汁は、その時の合図」
(ああ――耳朶に噛みつきたいな)
そんなことを考えていたら、恭介があの日の献立について触れたものだから。圭吾は緩みかかった意識を、再び引き締めなければならなかった。
「俺がちゃんと覚悟を決められたら、その日の夜御飯に、けんちん汁作って一緒に食べるって約束したんだ」
あの日圭吾が鍋を空にしてその残りを食べ尽くしたけんちん汁に、そんな悲しい約束があっただなんて知らなかった。
「どうして」
「師匠にしてみれば、最後の晩餐みたいなつもりだったのかも。実家に戻ったらもう、今までみたいに師匠にご飯作ってあげられないかもしれないし……けんちん汁、師匠の好物だったから」
恭介は、少しだけ弾んだ声でそう言った。あの男と食卓を囲んだ七年が、それまで牢屋で一人過ごしていた恭介にとって、どれだけかけがえのない日々だったのかを圭吾は改めて思い知る。
「……本当は、帰りたくなんてなかったけど。俺が逃げ出しちゃったら、その責任は俺を監督してる師匠に回ってくる。だから逃亡するにしても、師匠と一緒に帰ってからの方が良いって思ったんだ。それに……妹のことも気になってたし。最低限今土屋がどういう状態であるのかを知って、できることをするのは長男の俺の役目だと思ったから。でも、」
小さな肩が、寄る辺のない子供のように揺れる。圭吾は、恭介の腹に回した手に、力を込めてきつく抱き締めた。
「連れられるようにして実家に帰って、地下牢に閉じ込められて……智也さんと話をしてる時に、師匠が俺に言ったんだ。『恭介、薬箱だ』って」
「薬箱……」
――薬箱として使用するのであれば、何度でも使えます。
わざわざあんな嫌味な言い方を選んだのは、土屋を裏切っていない者としての演技だけではなく、あらかじめ恭介に「薬箱」というキーワードを与えておいたからに他ならなかったのだろう。その後に行われる烏丸のパフォーマンスじみた儀式が、恭介を助けるための作戦であるということを――敵ばかりが巣食う土屋家に囚われた際においても、恭介に簡潔に送る合図のひとつとして、そのキーワードは大いに役立ったに違いない。結果烏丸の意図は正しく恭介に伝わり、その目論見の通りすべてが、あの男の思い描いた筋書き通りに進んだのだから。
「その時に、師匠がしようとしてることに漸く気づいたんだ……師匠はちゃんと、妹のことを助けるつもりだって」
「……そうだったんですね」
「それだけじゃない。わざわざ何年もかけて、俺の体を使うようなお祓いの仕方を俺に教え込んだのも、こういう日を迎えた時のためだって……味方じゃないなんて、言って、あの人は」
ふいに、恭介の言葉が途切れたので、圭吾は思わず顔をあげる。表情は見えなかった。それでも、その頬に流れているものが何なのかはわかっていた。
「……妹と一緒に、俺のことも助けるつもりなんだって」
掠れた声で、そう言った。注がれ続けた烏丸からの愛情が今、ひとつの毒となって恭介を苦しめている。
「師匠は優しいから、きっと……可哀想な俺をひとりぼっちにしないために、土屋の家に残り続けてくれてたんだと思う。ほんとは、ほんとなら、そんなものに何ひとつ縛られずに、どこまでも遠くに歩いてゆける、自由に生きられる人なのに……智也さんに責められて、師匠に薬箱だって言われて、漸く気づいたんだ……」
また、一人で縮こまるようにして泣くんじゃないか。圭吾がそう予感した瞬間、恭介の両手が伸ばされた。それははっきりと、しっかり圭吾の首に回されて、正面から抱きつかれる。圭吾は思考が追い付かず、二度瞬きをした。
「しの……しの、俺、どうやって償おう……? お前のことも、そんなふうに縛り付けて、選べる筈の未来を全部奪っちゃうのが怖いんだよ……俺はきっともう何人も、そうやって殺してる。今回のことだってそうだ……犬神も、鳴海も、一之進も、拓真も、和真も……俺がいなかったら、こんなに傷つかないで済んだのに……!」
「先輩」
それは、もうこれまで、何度も圭吾が伝えようとしてきたことだった。
圭吾だけじゃない。自分がこの人に出会うまでは、犬神が、烏丸が。きっと時には疲れてしまうくらい何度も、自分たちがそのようにする理由を恭介に言い含めてきたのだろう。
「俺が、俺が殺すんだ、好きな人たちの人生を……一番ひどいやり方で……っ」
それなのにまだ、何ひとつ変わらない。圭吾は、そんな絶望を味わうところだった――自分に抱きついて、泣いてくれるこの腕がなければ。
「恭介さん、聞いて」
優しく頬を撫でて、溢れる涙をやんわりと拭う。瞬きを繰り返すその瞳に、圭吾は漸く映ることができたような気がした。
「みんな、あんたが好きなだけだ。先輩だって、僕達が困っていたら真っ先に飛び込んで助けてくれるくせに。どうして、その逆があるってわからないんですか」
「……っ、」
「あんたは誰も殺してない。先輩が理不尽なことされてたから、それに僕達が怒っただけ。そのことで傷ついた人がいたって、そんなのは先輩の責任じゃない。生身の体で生きてるんだから、自分の選んだ道にある何かで、傷つくなんて当たり前のことですよ。僕だって、」
この気持ちを、どうやって伝えれば良いのだろう。肌触りの良い毛布でくるんであげたいような、いっそ何もかもを脱がせて、暴きたくなるようなこの気持ちを。
「どこにも行って欲しくなかっただけです。だから、先輩を見せしめみたいにしなきゃならないやり方だと知っても、止めないで貫いて、無理やりここへ連れ戻したんだ。そのことで少なからずあんたを傷つけたけど、後悔はしてませんよ。僕は、僕の好きに生きているんです」
あどけない眦に、そっとキスを贈る。それは春に芽吹く蕾のような、或いは、新しい何かを見つけて空を飛ぶ綿毛のようなキスだった。
「絶対に手放したくない……」
「しの」
「……もっと、よく顔を見せて」
「あ……っ」
縁側に続く廊下に押し倒し、圭吾は両腕で檻を作った。そのまま顔を寄せようとする圭吾の意図にまるで気づかない鈍感な上司は、思い出したように場違いな声をあげる。
「しの、さっき」
「何です」
「恭介さんって」
「言ってないです」
「でも」
「言ってない」
「だって」
「そもそもですね!」
「うわびっくりした」
体を起こして、額を掌で隠すようにしながら圭吾が叫んだ。恭介は乱れていた襟元を直しながら、よく分からないタイミングで声を荒げた後輩を訝しげに見遣る。
「土屋のご実家にお邪魔しているのに、土屋先輩だの先輩だの言ったって通じにくいでしょう!?」
「お、おう」
「だから、敢えて僕は」
「……」
「……」
「……しの」
勘違いかもしれないけど、そう前置いて恭介は言った。木陰に隠れてしまった小動物に話しかけるみたいに、何かを伺うような言い方だった。
「顔、赤いぞ?」
「台所に行きましょう」
すっくと立があがり、圭吾はてきぱきと布団を畳み始める。家事の得意な後輩の手によって、瞬く間にすべての分厚い布がコンパクトにまとめられていた。
「急にどうした」
「急じゃないですよ。とっくに朝御飯の時間は過ぎてます。順番は前後してしまいますが、その後に境内の掃除をお願いしますね。僕はその間にメールチェックを済ませておきますので、時間が余れば調べものの続きをしていてください。何か新規の依頼があれば、その都度報告しますから」
まるでプログラミングされたコンピューターのように、圭吾はすらすらと恭介の一日のスケジュールを報告した。上司として何ひとつ許可を伺われていない内容だったが、それは既に決定事項になっているようだった。
「早寝早起き、適度な運動。バランスの良い食事を三食相応しい時間にきっちりとって、最低でも七時間は寝ること。神社に戻ったからには、生活スタイルを再び改めて貰いますからね」
「しのって俺に厳しいよな……」
今更逆らえるような力関係でもないので、恭介はそう溢すだけに留める。だいたいにおいて、圭吾の言い分が正しい。彼が優秀な部下であることは、既に立証済みである。
「そうでもしないと、あんたはすぐにだらしない生活送るでしょう? 言っときますけど、今度深夜まで起きているのを見かけたら、躊躇いなく後頭部を殴打しますからね」
「ある意味その瞬間気持ち良く寝られそうだよな」
ふ、と恭介が笑った――ただそれだけで、閉じ込めてしまいたいくらいに可愛く思えるだなんて。
いまいち調子の狂っているらしい頭を軽く振って、圭吾は敷布団を引き摺りながら庭へ向かった。とてもじゃないが面と向かって、朝餉を共にできるような顔ではなかった。
すっかり寝入ってしまっていた拓真を一度客間に運んだ後は、やらなければならないことはわかりやすくなくなった。圭吾は洗濯物を片付けたり端から端まで掃除機をかけたり、かと思えば突如庭に降り立って得体の知れない何かを燃やすなどしていたが、彼程この神社の至るところに精通している訳ではない鳴海は別段願い出てまでやろうと思い付くこともなく、縁側であらゆるポーズをとりながら寝転ぶなどしていたら外はすっかり暮れなずんでいた。まさにカラスが鳴くから帰ろうと歌われる時刻である。
さりとてじゃあそれぞれの家に帰りましょうかまた明日という話にはならなかったあたりから、問答無用で圭吾も鳴海も神社に泊まるつもりであったことをお互いに悟っていた。起きた瞬間他人の家に寝かされていたと知る拓真に状況説明のできる人間が誰かいた方が良いということは正しい判断であったが、その誰かは結局のところ一人居れば済む話だった。たとえ日を跨ぐことになってしまったとしても、この神社に帰ってくるであろう人物に、帰宅するなり力の限りでどうにかしようとしなければ引くに引けない引き戸をあけた瞬間に、ただいまを言うのも躊躇う静寂などは味わわせたくなかった。いつものように響く筈のその声を、迷子にさせることなく「おかえり」と答えたいという気持ちだけで、圭吾と鳴海はその場に残り続けたのだった。
夕刻の時間をとうに過ぎた時刻になってから、やはり勝手知ったる態度で圭吾が飯を炊き、更に勝手知ったる態度で風呂を沸かしたりなどしたので、交代で入ったり、共に食事を済ませたり、皿を洗ったり拭いたりをしていたら、あっという間に時計の針は短針が十二時を指す時間帯になっていた。無意識に、玄関に一番近い部屋に二人分の布団を敷き、鳴海の包帯を替えてから床につく。弾む会話などはなく、心はともかく体はへとへとに疲れていた。
泥に沈み込むような感覚で、その身は布団に飲み込まれているのに、妙に高ぶった感情だけが取り残され、それはなかなか睡魔に紛れてはくれない。寝返りを繰り返し、ここが正解と思える姿勢を闇雲に探して時間だけを浪費した。お互いに、心細さを抱えて過ごした夜だった。
「おはよう」
控えめに開かれる襖の音より先に、柔らかい声が近くから聞こえる。それは二日前の夜まで当たり前のように聞いていた人物のものだったのに、何故か懐かしさを覚える程に胸を締め付けられた。
とす、と膝を畳に落とす音がしたので、鳴海は無理に瞼をこじ開けた。二つ歳上の友人が、その枕元で膝をついているのが見える。暴力を受けた痕跡の残る、片方だけ僅かに腫れあがった頬。手当てもされていないそれが痛々しかったが、それでも目を細めて、いつものように笑ってくれた。恭介を助けると決めてからずっと、そのように日々が戻ったら良いのにと、鳴海が密かに思い描いていた完璧な映像だった。
あんまりに望んだ通りのものだったので、飛び上がって起きてしまったら、突如消えてしまいそうで怖かった。全部鳴海の見た都合の良い夢だったなんて、後から知ってしまったらとてもじゃないがこの心臓はもたない。そうであるならば目覚めたくなかった。ぎゅう、と布団を掴む手に力が籠る。確信がないと動けないだなんて、情けなくて涙が出そうだ。
「ご飯作ったけど、起きれるか?」
恭介の指が伸ばされて、布団から出るのをぐずる幼子のような鳴海の手に、そっと添えられる。まるでそうしないと粉々に崩れてしまう繊細な飴細工にでも触るかのように、焦れったくなる程優しい指だった。
触れた体温から、熱が伝わってくるのが分かる。温かい。生きてる。目の前で鳴海を優しく起こすこの像は、都合よく現れた幻なんかじゃない。
「恭……ちゃん」
それは、ひどく掠れた声だった。たった今喋ることを覚えたばかりの赤ん坊のように、喉の使い方がまるでなっていない、へたくそな声だった。
「ただいま」
なのに、どうして届くのだろう。鳴海が欲しかった言葉が、どうして恭介にはわかるんだろう。
「恭ちゃん、おかえりっ……! う、痛っ……」
飛び付こうとして、右肩に激痛が走る。その他が元気いっぱいな鳴海にとって不慣れな局所的過ぎる怪我は、どうしたって意識するのを忘れてしまう。可動域が普段の半分以下になった右肩を抑えながら、照れたように笑って見せた。けれど恭介は、さっと表情を陰らせてしまう――ああ。笑ったままでいて欲しかったのに。
「怪我させちゃってごめんな。起き抜けに悪いんだけど、もし気持ち悪くなかったら……俺の、血を舐めてくれ。霊障でできた傷なら、多分綺麗に治ると思うから」
言うなり、自ら手の甲に爪を立てている。まるで救急箱の蓋を開けるように、躊躇いのない動きだった。
「いい」
鳴海ははっきり断った。ひどく明瞭な声だった。
「……ごめんな、やっぱり気持ち悪いよな」
「そうじゃない」
皮膚に食い込ませた指が、その表面を掠る前に手を伸ばす。恭介の皮膚の下に流れるそれを、絆創膏や包帯のように、浪費させるのが当たり前だなんて思って欲しくなかった。
「俺の怪我は、俺の責任! 痕なんか残ったっていいよ。時間を掛ければ、傷口はちゃんの塞がるもの」
それが肉体についた傷であるなら、便利な方法に頼らなくたって、塞がるものだと鳴海は知っている。
「恭ちゃんはもう、誰かの傷を癒すために、自分に傷をつけなくて良いんだよ」
「鳴海……」
惑うように、鳴海を見上げる瞳がもどかしい。まるで傷薬を差し出したのに、断られでもしたかのような顔だった。恭介にとっての恭介の体が、便利な道具に成り下がっているのが悲しい。必要な時に切り取って差し出せば良いと、心から思っているのだから始末に悪い。
それは、そのようにして二度も盟約を交わしたせいかもしれないし、あの父親から満足に愛情を受け取れなかった過去からくるものなのかもしれない。分析は無意味だ。明るい場所へと繋げられるのも、変えられるのも未来だけ。それを何より思い知っただろう男の視線がそろそろ怖くなり、鳴海はぱっと恭介の手を離した。
「さーてと! 俺お腹すいちゃったし、たっ君起こして、先に食べてるね」
「えっ……、先にって……?」
寝起きでよくそんな脚力があるなと感心したくなる程高らかなジャンプを決めてみせた鳴海の言葉の意味がわからず、恭介は体の向きを変えのろのろとした声で聞き返した。
「だって、時間掛かると思うよ?」
「何が」
「圭吾のお説教」
そういえば冷凍庫を開けた時のような冷気が、さっきからじわじわと背中に伝わってくるのを感じていた。それが本当に冷凍庫であるなら閉めれば良いだけの話だが、ここは台所の一角ではないし、都合良く蓋になってくれそうな壁も盾も見当たらない。
「恭ちゃんの立場とか、気持ちとか分かんなくもないけどさ~、恭ちゃんに悪いところが一切なかった訳じゃないし……」
まるで世紀末に直面したような心持ちで固まる恭介に欠片の容赦も見せず、鳴海が追い討ちを掛けるようにしてつらつらと俯瞰で見た状況を語る。いっそ視覚化されているんじゃないかと思える程目に見えて重たい空気は、そんな友人の言葉が決して検討違いの発言やら杞憂やらでないことを物語っていた。
「一回くらい圭吾にガツンと怒られた方が、良いんじゃないかな!」
にっこりと、鳴海が笑った。まるで讃美歌の生み出す調のように、儚い美しさのある笑顔だった。
「ま、待て鳴海……! 待ってくれ!」
「ごめん、恭ちゃん」
心底申し訳ないといった顔で、鳴海がゆるく首を振る。
「俺……いち君に告白したばっかりなの」
「は、ぇ?」
「だからさすがに、今は命が惜しいかな」
朗らかに無事ではすまないことを予言され、恭介は今度こそ力なく項垂れた。目の前で軽やかに襖を閉められ、伸ばした指先は何も掴めない。いっそ犬神でも呼んで盾になってもらおうか。そもそも普段取り立てて用事もなく呼び出している訳でもないタイミングでひょこひょこ顔を出すくせに、どうしてこういう時にばかり主人の声が掛かるのをおとなしく待機してやがるのか。
理不尽な怒りが込み上げてきたが、部屋の隅に追い詰められたようなこの状況は変わらない。ゆらり。明確に、空気が揺れる音が聞こえた。後ろを振り向く勇気など欠片もなかったが、いつまでも背を向けたままでいてはろくに話もできないから仕方ない。
殆ど清水の舞台から飛び降りるような気持ちで、恭介はくるりと振り向いた。今世紀最大の、決死の覚悟であった。
「し、しの……! 落ち着け、あの、今回はだな……、お、俺なりに考えがあって」
バタバタと手を動かしながら、自分がどれだけ全力でその問題に挑んでいたかを畳み掛けるように言葉にしたが、忙しなく動くそんな両手をあっさりと封じられ息を飲む。掴まれた手首をそのまま引き寄せるようにされてしまっては、抵抗などできようもなかった。
そのまま、肩を抱かれる。指が皮膚に食い込む程強く、その掌は灼熱のように熱かった。
抱き潰されてしまうのではないかといっそ怖くなる程、恭介は圭吾に捕らわれてしまった。
「……会いたかった」
ただでさえ、その力強さにのぼせそうになっていたのに。耳元でそんなふうに、絞り出すような一言を聞いてしまったらもう駄目だった。
僅かに震えている肩に手を回し、恭介も同じだけの力を込めて抱き返す。ぴったりとくっつく胸が、ドキドキしているのが自分でもわかった。こんなにうるさい音で、こんなに早く鼓動しているのがばれてしまったら、恭介の恋心まで筒抜けになってしまうんじゃないだろうか。
ふいに怖くなって身じろいだが、圭吾はそれを許さなかった。まるで少しの隙間も開けたくないとでも言うように体を重ねてくるので、恭介はいよいよ観念して、そのまま身を委ねることにする。
「……ありがとう、しの」
頬を圭吾の胸に預けたまま、恭介が言った。
「俺のこと、信じてくれて……俺が」
込み上げる感情が喉に支えて、ふいに言葉が途切れてしまったけれど。恭介は泣きたい気持ちを堪えながら、どうしても伝えたかったことを口にした。
「生きることを諦めてないって、信じてくれてありがとう」
きっと圭吾に会っていなければ、もっと早くに手放せた筈だった。それを圭吾が――圭吾だけじゃない、周りの人たちがずっと、そんなちっぽけでつまらないものを、とても素敵な宝物みたいに大事にしてくれるから。
恭介ももうそれを、いらないものだと簡単に捨てられなくなってしまった。そんなふうに自分が変わっているさなかであることを、圭吾が信じてくれたのがただただ嬉しかった。
「……厳密に言うと、あんたが死ぬつもりじゃないって……信じきれてたかどうかは怪しいところです」
「え?」
漸く上半身を離してくれたと思ったら、恭介の額に、圭吾のそれをこつんとくっつけられる。まるで幼子の熱を確かめるようなその仕草に、今度こそ恭介は卒倒しそうになった。
さっきからいちいち、心臓に悪いことばかりする。人の気もしらないで、という文句はどうにか飲み込んだ。
「あんたの自己犠牲に利用されている可能性も、考えなかった訳じゃない。ただ、もしそうであるなら後を追えば良いやと思ったので、逆に踏ん切りがつきやすかったというか」
「なっ……!」
「いいですか先輩」
とんでもないことをさらりと言うものだから、恭介はうっかり聞き逃してしまいそうになった。慌てて叱ろうとした瞬間、先回りするように言葉で塞がれてしまう。
「今後何か普段と違うことがあれば、真っ先に僕に話すようにしてください。もう二度と、僕が外出した隙をついて、一人でどうにかしようだなんて思わないで欲しいんです」
「……別に、やけになってた訳じゃない」
「へぇ?」
氷点下の夜に張られる氷のような声だった。ぼそぼそと反論してみせたが、どうやらそれが不正解だったと悟る。圭吾の肩を押し返して距離をとろうとしながら、恭介は必死に自己弁護の言葉を脳内で組み立てていた。まるで敗訴の色濃い裁判の、被告人側に立たされているような気分だった。
「だって、俺の家の事情だろ……! しのとか、鳴海とか、巻き込みたくなかっただけだよ! 全部ちゃんと終わらせて、日常を取り戻して……修学旅行から帰ったしのに、いつも通りおかえりって言うつもりだったんだ」
「何も知らされないまま旅行に出掛けて、戻って来たタイミングで全て終わったその事実を知らされていたら――僕は今度こそあんたのこと、何ひとつ信じられなくなっていましたよ」
口許を歪めるようにして、圭吾が静謐に笑う。ぞくりと恭介の背中に走る震えが、恐怖からくるそれだけではないことに気づいてしまった。隠しようもない程大きな歓喜が、恭介の胸を震わせるのだ。居たたまれなくなって唇を噛む。
こんなふうに心を寄せてもらえることが、気にかけてもらえることが――消えてしまいたいくらいに嬉しかった。
「……ね、先輩。教えてください。何があったのか、ひとつ残らず、全部」
するりと浴衣の袖の中に手を忍ばせながら、圭吾が言った。砂糖菓子のように甘やかな声だった。
「や……っ、しの、」
そのまま着物の中に手を入れて、まるで体温をなぞるように生々しく撫でるものだから。思わず上擦った声が上がってしまう。いたずらな指先は隙間の多い浴衣の背中を這い上がるように先へと進み、肩甲骨のあたりでぴたりと止まってから、爪を立てた。
「あ……っ」
「知っておきたいんです。土屋先輩に起きてることを、ちゃんと。じゃなきゃあんたのこと、本当に信じるなんてできない」
「はなす、はなすから……手、抜い……っあ、やだ」
「んー……」
耳に届いたのは、離してくれと喚き立てる恭介に、欠片も賛同してくれなさそうな声だった。
「……もうちょっとだけ」
案の定囁くようにそう言って、するりと肩から浴衣が落とされる。抗う間もなく、鎖骨に歯を立てられた。恭介はビクンと跳び跳ねるようにして喘いだが、肩と背中に回された腕が羽交い締めにしているのでどこにも逃げられない。チカチカと火花が目の前に広がるような感覚が怖くなり、震える腕でどうにか距離を取ろうと試みたがまるで役に立たなかった。噛みつかれた鎖骨の痕を確かめるようにして触れる圭吾の指が、そのまま首筋まで愛撫するのだから堪らない。
ちっとも優しくない、何もかもを奪うような触り方だった。喉仏を、ぐっと絞められるように力が込められる。絞殺されることを想像させるようなその行為にさえ、恭介の頭は甘い痺れに満たされていて動けなかった。
「動いてる」
圭吾が、ぞっとする程美しい顔で笑った。力を込めていたのは、絞めるためではなく、その下に流れる脈の鼓動を掌で感じるためだったと遅れて気づく。
「その事実が、僕にとってどれだけ得難い幸いか……先輩には、わからないでしょうね」
眦から頬を伝う、一筋だけの涙。それは柔らかい新緑を滴り落ちる、雨上がりの瑞々しい雫のようだった。
「しの……」
圭吾が、声もあげずに泣いている。たった今恭介から何もかもを奪おうとしていた男と同一人物とは思えない程、透明な涙を流す頬は儚げで、今にもどこかへ消えてしまいそうだった。
「ごめん」
「謝ってほしい訳じゃない」
「そうだけど、でも」
「……逆に、僕のことが信じられませんか?」
瞼の滴を指で払いながら、圭吾がアイロニーを含めた声で笑った。
「そんな訳ないだろ!」
「だったら、他に何が足りないっていうんです」
咄嗟に俯く恭介を下から覗き込むようにして、圭吾が顔を寄せてくる。真っ赤になっているのを知られたくなくて、恭介は赤く色づいた耳を両手で隠すようにして縮こまった。咄嗟に背を向けたが、聡い後輩が見逃してくれる訳もなく。
「……意地悪してるみたいだ」
「違っ、」
「言ってくれれば、あんたが欲しいもの全部あげるのに」
後ろから抱き込まれた。お腹にするりと回された腕で、逃げられないようがっしりと捕まえられる。そのままうなじに甘噛みされ、恭介はいよいよ脳内のキャパシティが崩壊する音を聞いた。
「た……」
「た?」
「足りないもの、なんか……ない……っ」
へなへなとその場に倒れ込む恭介を逃がしてくれず、圭吾は囁くように聞き直す。
「本当?」
「っん……」
ついでのように、耳の裏に唇が当てられた。きっと何かの弾みで、あくまで偶発的に起こったことで、それをキスなどと捉える方が無理があるし、接触事故か何かだと判断すべき状況に違いないのに。跳ねあがる心臓も、その唇で触れてもらえたことが死ぬほど嬉しいと思う感情も、すべてはとっくに、恭介のコントロール下にはないものになっていた。
結局腰に回された左手を離してくれる様子もなく、それどころか圭吾にもたれ掛かるように右手で促される始末だ。その圭吾自身は襖の縁に背を預けているので体重をかけてもらっても問題はないとでも言いたげな涼しい顔をしていたが、あいにく恭介は、想い人を座椅子代わりにしたまま世間話ができるような神経は持ち合わせていない。もぞもぞと移動を試みるも、「すみません。どこか触ってないと不安なんです」などと珍しく殊勝な顔で可愛い我儘を言われてしまっては、最早恭介に思い付く抵抗らしい抵抗はくなり、方々手を尽くしてしまったと言って良かった。
どうやらこのままの状態で話せということらしい。
心臓を犠牲にする覚悟で、恭介は頭をことりとその肩に預けた。開き直ることを腹に決めた瞬間だった。
「……手紙が、来たんだ」
「ああ、あの胸糞」
「くそ?」
「いえ……失礼、何でもありません」
「実家に戻って、跡継ぎになれって」
「書いてありましたね」
「書いてあ……何で知ってんの?」
あの胸糞、という発言のあたりで引っ掛かってはいたが、明確な違和感を聞き逃すことはできずに首だけを回して後輩を伺い見た。圭吾は、味のなくなったガムをかれこれ二十分は噛み続けているような、つまらなそうな顔を隠してはいなかった。
「いえ、その……書いてありそうだなって。思っただけで、全然」
「読んだな」
「たまたま予想が当たっただけですって……それを読んだからだなんて、安直な」
「そんなんで誤魔化されるか! 読んだんだろ!? 何で!?」
体を腰から捻るようにして圭吾の胸を叩いてみたら、漸く観念したらしい圭吾が、両手をあげてホールドアップのポーズをとる。その割には、その表情は責められることが不本意ですという感情を露にしており反省の欠片もない。
「……あんたが話さないからでしょ」
「だからって、人の手紙こそこそ読んで、ばれないように戸棚に戻すなんて駄目だろ!」
「戻してませんよ」
「は?」
「戻してません」
「……お前、盗み読みしたこと、隠す気」
「ゼロじゃないですけど、バレたらバレたでいいやって思ってました」
淡々と、圭吾が答えた。いやに落ち着き払った声だった。
「……今どこ」
「燃やしました」
「は?」
「燃やしました。昨日帰るなり、庭で」
「……何で?」
純粋に、心からの疑問だった。
「あれのせいでしょ。先輩が僕に、修学旅行行けって言ったの。腹立ったので燃やしました」
「お前すげーな」
もうその根性を称賛するしかなくなって、恭介はしみじみと言った。実際すごいなとは思っていた。自分が逆の立場であったなら、いかに腹を立てていたと言えど、上司宛の郵便物を許可なく開封したばかりかお焚き上げのように内々に処理をするようなことはできない。この世には自分が知らないだけで、いろんな価値観が散らばっているのだなぁと、恭介は少し大雑把に自己完結することにした。
説教は諦め、元のように圭吾の腕の中に収まる。満足したように、今度は両手をお腹の前に回された。
「……あの手紙を貰った時、ああ、期限がきたんだなぁって思ったんだ」
「期限?」
「師匠が、俺の師匠でいてくれる期限」
ため息のように、小さく息をつく。その覚悟をしたのは――もう七年も前の話。今更思い起こしたところで、生々しい傷などはないから胸は痛まない。痛まない、筈だった。
「だから、すぐに師匠のところに言ったんだ。ちょうど拓真の守護霊交代に関する依頼も受けてて、聞きたいこともあったし」
「……それで、あの人は?」
「報告してみたら、何故だか突然、俺のやってるお祓いの話になって……『今まで犬神の力で浄霊していると思い込んでたみたいだけど、実際は恭介の体を使って祓ってるんだよ』って。俺の魂が半分空洞になってるってことも、そこを利用して、薬箱みたいにいろんな人を救ってきたってことも……その時初めて教えてくれた」
そろりと圭吾の腕に触れながら、恭介は言った。どこかに縋りつきたくて、その癖どこも見つけられないような動きを見せる指だった。
「何で、今までそれを隠してたんでしょうね?」
「隠してたっていうより、話せなかったみたい。自分の中に取り込んでるって自覚しちゃったら、邪霊とシンクロし過ぎて危ないことになるから。ある程度俺がそのやり方に慣れて、一線引けるようになるまでは話せなかったんだって」
「成程ね……」
相槌は、吐息混じりの声になった。恭介の髪の毛に鼻の先を埋めるようにして、圭吾は静かにその続きに耳を傾ける。その瞬間びくりと固まってしまった恭介が再稼働するまでに、僅かなタイムラグはあったけれど。
「……実家に帰る時は付き添ってくれるって、約束もしてくれたんだ。師匠の空いている日に何度か神社に立ち寄るから、俺が何の未練もなく、帰ってもいいって思う日が来たら一緒に帰ろうって……けんちん汁は、その時の合図」
(ああ――耳朶に噛みつきたいな)
そんなことを考えていたら、恭介があの日の献立について触れたものだから。圭吾は緩みかかった意識を、再び引き締めなければならなかった。
「俺がちゃんと覚悟を決められたら、その日の夜御飯に、けんちん汁作って一緒に食べるって約束したんだ」
あの日圭吾が鍋を空にしてその残りを食べ尽くしたけんちん汁に、そんな悲しい約束があっただなんて知らなかった。
「どうして」
「師匠にしてみれば、最後の晩餐みたいなつもりだったのかも。実家に戻ったらもう、今までみたいに師匠にご飯作ってあげられないかもしれないし……けんちん汁、師匠の好物だったから」
恭介は、少しだけ弾んだ声でそう言った。あの男と食卓を囲んだ七年が、それまで牢屋で一人過ごしていた恭介にとって、どれだけかけがえのない日々だったのかを圭吾は改めて思い知る。
「……本当は、帰りたくなんてなかったけど。俺が逃げ出しちゃったら、その責任は俺を監督してる師匠に回ってくる。だから逃亡するにしても、師匠と一緒に帰ってからの方が良いって思ったんだ。それに……妹のことも気になってたし。最低限今土屋がどういう状態であるのかを知って、できることをするのは長男の俺の役目だと思ったから。でも、」
小さな肩が、寄る辺のない子供のように揺れる。圭吾は、恭介の腹に回した手に、力を込めてきつく抱き締めた。
「連れられるようにして実家に帰って、地下牢に閉じ込められて……智也さんと話をしてる時に、師匠が俺に言ったんだ。『恭介、薬箱だ』って」
「薬箱……」
――薬箱として使用するのであれば、何度でも使えます。
わざわざあんな嫌味な言い方を選んだのは、土屋を裏切っていない者としての演技だけではなく、あらかじめ恭介に「薬箱」というキーワードを与えておいたからに他ならなかったのだろう。その後に行われる烏丸のパフォーマンスじみた儀式が、恭介を助けるための作戦であるということを――敵ばかりが巣食う土屋家に囚われた際においても、恭介に簡潔に送る合図のひとつとして、そのキーワードは大いに役立ったに違いない。結果烏丸の意図は正しく恭介に伝わり、その目論見の通りすべてが、あの男の思い描いた筋書き通りに進んだのだから。
「その時に、師匠がしようとしてることに漸く気づいたんだ……師匠はちゃんと、妹のことを助けるつもりだって」
「……そうだったんですね」
「それだけじゃない。わざわざ何年もかけて、俺の体を使うようなお祓いの仕方を俺に教え込んだのも、こういう日を迎えた時のためだって……味方じゃないなんて、言って、あの人は」
ふいに、恭介の言葉が途切れたので、圭吾は思わず顔をあげる。表情は見えなかった。それでも、その頬に流れているものが何なのかはわかっていた。
「……妹と一緒に、俺のことも助けるつもりなんだって」
掠れた声で、そう言った。注がれ続けた烏丸からの愛情が今、ひとつの毒となって恭介を苦しめている。
「師匠は優しいから、きっと……可哀想な俺をひとりぼっちにしないために、土屋の家に残り続けてくれてたんだと思う。ほんとは、ほんとなら、そんなものに何ひとつ縛られずに、どこまでも遠くに歩いてゆける、自由に生きられる人なのに……智也さんに責められて、師匠に薬箱だって言われて、漸く気づいたんだ……」
また、一人で縮こまるようにして泣くんじゃないか。圭吾がそう予感した瞬間、恭介の両手が伸ばされた。それははっきりと、しっかり圭吾の首に回されて、正面から抱きつかれる。圭吾は思考が追い付かず、二度瞬きをした。
「しの……しの、俺、どうやって償おう……? お前のことも、そんなふうに縛り付けて、選べる筈の未来を全部奪っちゃうのが怖いんだよ……俺はきっともう何人も、そうやって殺してる。今回のことだってそうだ……犬神も、鳴海も、一之進も、拓真も、和真も……俺がいなかったら、こんなに傷つかないで済んだのに……!」
「先輩」
それは、もうこれまで、何度も圭吾が伝えようとしてきたことだった。
圭吾だけじゃない。自分がこの人に出会うまでは、犬神が、烏丸が。きっと時には疲れてしまうくらい何度も、自分たちがそのようにする理由を恭介に言い含めてきたのだろう。
「俺が、俺が殺すんだ、好きな人たちの人生を……一番ひどいやり方で……っ」
それなのにまだ、何ひとつ変わらない。圭吾は、そんな絶望を味わうところだった――自分に抱きついて、泣いてくれるこの腕がなければ。
「恭介さん、聞いて」
優しく頬を撫でて、溢れる涙をやんわりと拭う。瞬きを繰り返すその瞳に、圭吾は漸く映ることができたような気がした。
「みんな、あんたが好きなだけだ。先輩だって、僕達が困っていたら真っ先に飛び込んで助けてくれるくせに。どうして、その逆があるってわからないんですか」
「……っ、」
「あんたは誰も殺してない。先輩が理不尽なことされてたから、それに僕達が怒っただけ。そのことで傷ついた人がいたって、そんなのは先輩の責任じゃない。生身の体で生きてるんだから、自分の選んだ道にある何かで、傷つくなんて当たり前のことですよ。僕だって、」
この気持ちを、どうやって伝えれば良いのだろう。肌触りの良い毛布でくるんであげたいような、いっそ何もかもを脱がせて、暴きたくなるようなこの気持ちを。
「どこにも行って欲しくなかっただけです。だから、先輩を見せしめみたいにしなきゃならないやり方だと知っても、止めないで貫いて、無理やりここへ連れ戻したんだ。そのことで少なからずあんたを傷つけたけど、後悔はしてませんよ。僕は、僕の好きに生きているんです」
あどけない眦に、そっとキスを贈る。それは春に芽吹く蕾のような、或いは、新しい何かを見つけて空を飛ぶ綿毛のようなキスだった。
「絶対に手放したくない……」
「しの」
「……もっと、よく顔を見せて」
「あ……っ」
縁側に続く廊下に押し倒し、圭吾は両腕で檻を作った。そのまま顔を寄せようとする圭吾の意図にまるで気づかない鈍感な上司は、思い出したように場違いな声をあげる。
「しの、さっき」
「何です」
「恭介さんって」
「言ってないです」
「でも」
「言ってない」
「だって」
「そもそもですね!」
「うわびっくりした」
体を起こして、額を掌で隠すようにしながら圭吾が叫んだ。恭介は乱れていた襟元を直しながら、よく分からないタイミングで声を荒げた後輩を訝しげに見遣る。
「土屋のご実家にお邪魔しているのに、土屋先輩だの先輩だの言ったって通じにくいでしょう!?」
「お、おう」
「だから、敢えて僕は」
「……」
「……」
「……しの」
勘違いかもしれないけど、そう前置いて恭介は言った。木陰に隠れてしまった小動物に話しかけるみたいに、何かを伺うような言い方だった。
「顔、赤いぞ?」
「台所に行きましょう」
すっくと立があがり、圭吾はてきぱきと布団を畳み始める。家事の得意な後輩の手によって、瞬く間にすべての分厚い布がコンパクトにまとめられていた。
「急にどうした」
「急じゃないですよ。とっくに朝御飯の時間は過ぎてます。順番は前後してしまいますが、その後に境内の掃除をお願いしますね。僕はその間にメールチェックを済ませておきますので、時間が余れば調べものの続きをしていてください。何か新規の依頼があれば、その都度報告しますから」
まるでプログラミングされたコンピューターのように、圭吾はすらすらと恭介の一日のスケジュールを報告した。上司として何ひとつ許可を伺われていない内容だったが、それは既に決定事項になっているようだった。
「早寝早起き、適度な運動。バランスの良い食事を三食相応しい時間にきっちりとって、最低でも七時間は寝ること。神社に戻ったからには、生活スタイルを再び改めて貰いますからね」
「しのって俺に厳しいよな……」
今更逆らえるような力関係でもないので、恭介はそう溢すだけに留める。だいたいにおいて、圭吾の言い分が正しい。彼が優秀な部下であることは、既に立証済みである。
「そうでもしないと、あんたはすぐにだらしない生活送るでしょう? 言っときますけど、今度深夜まで起きているのを見かけたら、躊躇いなく後頭部を殴打しますからね」
「ある意味その瞬間気持ち良く寝られそうだよな」
ふ、と恭介が笑った――ただそれだけで、閉じ込めてしまいたいくらいに可愛く思えるだなんて。
いまいち調子の狂っているらしい頭を軽く振って、圭吾は敷布団を引き摺りながら庭へ向かった。とてもじゃないが面と向かって、朝餉を共にできるような顔ではなかった。
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******
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お気軽にコメント頂けると嬉しいです
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高校進学時の検査でオメガ因子が見つかるまでベータとして養父母に育てられた。
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ある日、編入先の学園で金髪金眼の皇貴と出逢う。
彼の纒う薔薇の香りに発情し、結季の中のオメガが開花する。
その薔薇の香りのフェロモンを纏う皇貴は、全ての性を魅了し学園の頂点に立つアルファだ。
来るもの拒まずで性に奔放だが、番は持つつもりはないと公言していた。
皇貴との出会いが、少しずつ結季のオメガとしての運命が動き出す……?
4/20 本編開始。
『至高のオメガとガラスの靴』と同じ世界の話です。
(『至高の〜』完結から4ヶ月後の設定です。)
※シリーズものになっていますが、どの物語から読んでも大丈夫です。
【至高のオメガとガラスの靴】
↓
【金の野獣と薔薇の番】←今ココ
↓
【魔法使いと眠れるオメガ】
経理部の美人チーフは、イケメン新人営業に口説かれています――「凛さん、俺だけに甘くないですか?」年下の猛攻にツンデレ先輩が陥落寸前!
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(これが最後のチャンスかもしれない)
流石に高校最後の年。進路によっては、もう春樹と一緒にいられる時間が少ないと思うと焦りが出る。だが、かといって長年幼馴染という一番近い距離でいた関係を壊したいかと問われれば、それは……と踏み込めない俺もいるわけで。
(できれば、春樹に彼女が出来ませんように)
そんなことを、ずっと思ってしまう俺だが……────。
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久しぶりに始めてみました
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