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第106話 正義と断罪
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神田君の家での勉強会が終わったあと、私は蜂須賀さんと如月さんに軽く手を振って別れた。
そのまま、夜まで開いている図書館へ足を運ぶ。テスト勉強の続きをするために。
図書館の奥――できるだけ端の席を見つけて座った。癖、というより“この心の声が聞こえる能力のせい”だ。
隣の席くらいの距離なら、どうしても声が強制的に聞こえてしまう。
(……没収したのはいいけど……これどうしようかしら?)
その場の勢いとはいえ、彼の本を持ち帰ってしまった自分に戸惑っていた。
昔の私なら、決してしなかったはずの行動だ。
その事実が、胸の奥に小さな違和感として残り、私はしばらく考え込んでしまった。
(ピンク髪の小悪魔………これってやっぱり、本郷愛理さんを思ってるのかしら……?)
如月さんから、本郷さんの特徴はなんとなく聞いていた。
それが理由なのかはわからない。
けれど、彼の心の奥に、まだ彼女の存在が残っていることに、私は少しだけ胸の奥がざわつくのを感じていた。
そのときだった。
ストン、と隣の席に誰かが腰を下ろした。
思わずそちらに視線を向けると、紺色のブレザー。秀英学園――この地区で一番頭のいい学校の制服。
(……秀英。そういえば、神田君の初恋の人も、秀英だったような……)
如月さんが語っていた情報が、ふと胸をよぎる。
(だめだめ……勉強に集中しないとね)
だが私は首を振り、勉強へ意識を戻そうとした。
その瞬間――
隣の男子から、心の声が流れ込んできた。
(隣の子、愛聖学園の生徒か……。
ゆういち、あいつは……大丈夫だったんだろうか……?苦しんで塞ぎ込んでないといいんだが……いや、聖もいるし、大丈夫だ。)
――ゆういち。
その名前に、心臓が跳ね上がった。
「っ……!」
思わずペンを落としそうになり、慌てて握り直す。
隣の男子の手元に視線を落とすと――
ふと、ノートの右上に書かれた名前が目に入った。
真田 蓮也
喉の奥がきゅっと締まった。
神田君の“元親友”。
あの、初恋を奪った張本人で神田君を傷つけた相手。
その人物が――
私のすぐ横に、何も知らない顔で座っている。
(……神田君を、心配してる……?)
私は驚いた。
親友を平気で傷つけるような相手が、なおも彼の身を案じていることが、どうしても理解できなかった。
(……一体、どういうことかしら……?)
私は普段、初対面の人に声をかけることは、まずない。
他人の領域に踏み込むこと自体、私が最も嫌う行いだからだ。
――それなのに。
気づいたときには、もう口が動いていた。
「あなた……どうかしたのかしら?
すごく、辛そうだけど」
彼は、はっきりと驚いた顔をした。
当然だ。見ず知らずの女子に、突然そんなことを言われたのだから。
しばらく沈黙が流れ――
やがて、彼は視線を伏せたまま、ぽつりと呟いた。
「……君は愛聖学園の生徒かな?」
彼は優しい微笑みを浮かべながら、私に問いかけた。
「ええ。そうよ。」
彼の視線が、わずかに揺れたのを見逃さなかった。
「何年生?」
―― 一年生。
その答えに対して、次に彼の心の声がどんな反応を示すのか――
私の胸の奥が、ほんの少しざわついた。
「一年生よ」
その瞬間、彼の表情がわずかに揺れた。
「……ならさ。
神田ゆういちってやつ、知ってるか?」
(この子なら、ゆういちが今どうしてるのか知ってるんじゃないか?)
彼の心の声が私に届き、胸がきゅっと締めつけられる。
「ええ。同じクラスよ。
……私の、大事な友達」
「友達」という単語が、胸の奥に小さく引っかかった。
友達以上の、確かにそこにある何か。
けれど、それを言語化できるほど、私はまだ自分の気持ちを理解していなかった。
「あいつは、今も学校に来て、元気にしてるのか?」
彼は、まるで私に「はい」と答えてほしいと言わんばかりに、じっとこちらを見つめていた。
「ええ、学校にも、ちゃんと来てるわ。
今日もね、友達と一緒に……彼の家で勉強会してたの」
一瞬。
彼の肩から、張りつめていた力が抜けたのがわかった。
「……そうか」
それだけ言って、彼は小さく息を吐いた。
そして――
声にならない、心の声が流れ込んでくる。
(……よかった……)
(ゆういち、立ち直れたんだな……)
(……本当に、よかった……)
胸の奥が、静かにざわめいた。
この人は――
少なくとも、“ただの悪者”ではない。
そう、確かに感じてしまった。
私は、その真意が知りたかった。
だから――もう一歩だけ、踏み込む。
「どうして……彼に、あんな酷いことをしたの?」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
けれど、その一言は確実に彼の胸を抉ったらしい。
彼は一瞬、言葉を失ったように目を見開き、
やがて、探るような視線で私を見て呟いた。
「……君は、どこまで知ってる?」
「如月さんから、全部聞いたわ。
彼の過去も……本郷愛理さんのことも……彼を傷つけたあなたの事も……」
その瞬間、彼の表情がわずかに歪んだ。
まるで何かを演じる仮面を被り直すかのように、冷たく、突き放すような口調で私に言った。
「……聖から聞いた通りだよ。
俺はあいつを裏切ったんだよ。」
その言葉とは裏腹に――
胸の奥から、強い感情が滲み出ていた。
(もう……やめてくれ……)
(愛理のため、自分の大切な家族の幸せのために、大切な親友を傷つけてしまったこんな事を俺に言わせないでくれ……)
――聞こえてしまった。
それは強がりでも、嘘をつく余裕のある声でもない。痛みに耐える人間の、悲痛な叫びだった。
まるで――
救いさえ求めているかのような声だった。
その弱さに、ほんの一瞬だけ、心が揺れかけた。
……けれど。
次の瞬間、私の脳裏に浮かんだのは――
神田君の、あの真っ直ぐな笑顔だった。
いつもニコニコして、私の事を可愛いと言ってくれて、真っ直ぐ"嘘偽りなく"私を褒めてくれる。
不器用なくらい真面目で、
私の事を誰よりも大切にしてくれる
(ああ……私は駄目だ。彼を許せない)
その姿が、胸の奥で鮮やかに重なった瞬間――
私の中で、何かがはっきりと定まった。
私は、そっと息を吸い、口を開く。
「……気に入らないわね」
自分でも驚くほど、その声は冷たかった。
彼を明確に拒絶し、嫌悪する感情が、はっきりとそこに宿っていた。
彼は目を見開き、戸惑ったように私を見つめる。
「大切な家族のために、大切な親友を傷つけたことに……罪悪感を感じてる?」
一歩、踏み込む。
「それって――虫が良すぎないかしら?」
言葉を重ねるごとに、体の奥から熱が込み上げてくる。
怒り。拒絶。譲れない想い。
ただひとつ、確かなことがあった。
――彼を傷つけたという事実だけは、どうしても許せない。
そこにどんな理由があろうと。
どんな“綺麗な事情”があろうと。
「誰かを傷つけたのなら――
そうすることを“自分で決断した”のなら」
私は、視線を逸らさずに言い切った。
「最後まで、その悪役を演じなさい」
彼の呼吸が、わずかに乱れる。
周囲の人たちが、こちらへ視線を向けているのがわかった。
――当然だ。ここは図書館で、私語は厳禁。そんなことは、私自身よく理解している。
それでも。
私は、言わなければならなかった。
大切な人を傷つけた彼に、私の想いをぶつけなければならない。
ここで言葉を飲み込めば、私はきっと――一生、後悔する。
「中途半端に救われようなんて、思わないで。
最後まで、徹底的に嫌われなさい」
言葉は鋭く、でも迷いはなかった。
「その十字架を抱えたまま、地獄へ進みなさい。
“大切な家族のため”なんて耳触りのいい理由で、大切な親友を傷つけたんでしょう?」
胸の奥で、何かが燃える。
「私には――到底、理解できないけれどね」
静かに、でも確実に。
「誰かの幸せのために、誰かを傷つける?
そんな幸せ……」
私は、きっぱりと言い放った。
「――私が、否定するわ」
彼は、私を責めるような強い口調ではなかった。
むしろ――妙に優しい声音で、反論してきた。
「……君に、何がわかるんだ?」
静かな口調だったが、その奥で反論の感情が渦巻いているのがわかった。
彼はきゅっと下唇を噛みしめながら、言葉を紡いだ。
「俺と愛理は、小さい頃から親に捨てられ、
施設で一緒に育ったんだ。本当の家族みたいに」
彼の視線は、どこか遠くを見つめていた。
まるで、彼らにしかわからない絆の物語が、そこにあるかのように。
「家族の幸せを願って……それの、何が悪い?」
その瞬間――
彼の瞳の奥で、怒りがはっきりと燃え上がった。
……ああ。
これは“言い訳”なんかじゃない。
彼なりの、彼が今まで必死に生きてきた正義だ。
でも――
私は、一歩も引かなかった。
「ええ……悪いわ」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「だってあなたは――
私の大切な人を、傷つけたもの」
彼の事情なんて、知らない。
理解しようとも、思わない。
「あなたがどんな過去を背負っていようと、
どんな理由があろうと……関係ないわ」
私は、真っ直ぐ彼を見据えた。
その視線は、彼と本郷愛理さんの絆を、一蹴するかのように冷たかった。
「罪悪感なんて、微塵もない」
胸の奥が、熱く、静かに燃えている。
「今こうして、あなたを傷つけていることにもね」
一瞬、彼の表情が揺れた。
「……私は、あなたに嫌われたって構わない」
言葉を、噛みしめるように続ける。
たとえ彼の正義がどれほど美しく、綺麗な理由に彩られていようと――
私は、大切な人を傷つけたあなたを、決して許さない。
「苦しいときに、ただ側にいるだけじゃ足りない。
苦しいときこそ、立ち上がることを信じて――
一緒に戦う。それが、本物よ。
……どっちも選ぼうなんて、虫がよすぎるわ」
それだけは、譲れなかった。
彼は、険しい表情のまま視線を落とした。
「俺はもう……自分がわからないんだ」
絞り出すような声。
「自分の選択が……本当に正しかったのか。
もっと、他にいい方法があったんじゃないかって……」
拳が、ぎゅっと握りしめられる。
「……俺は、どうしたらいいんだ……」
その言葉は、まるで――
救いを乞う祈りみたいだった。
私は、しばらく沈黙してから、そっと口を開く。
「……過去のあなたがね」
声は静かで、揺れていない。
「“自分の正義”のために、彼を傷つける選択をしたのなら――
それを、最後まで誇りに思いなさい」
彼はハッと顔を上げる。
「逃げないで。後悔もしないで。
その選択をした“自分自身”を、最後まで貫きなさい」
私は、真っ直ぐ彼を見据えた。
「そしたら――
私の正義が、あなたを打ち負かしてあげるわ」
その言葉に、彼は一瞬だけ目を見開き――
そして、ふっと笑った。
乾いた、どこか寂しそうな笑み。
「……君は、優しいな」
(………許されないことが、俺が親友を傷つけた事への罰って事か…)
自嘲するように、そう呟く。
「……それで、
君の正義が、親友を傷つけた俺の罪を償わせる。
……結果的に、俺を救うってわけか」
彼は、今の状況を見渡すように小さく息を吐いた。そこには沢山の視線が私達を注目していた。
「……まるで、今この瞬間みたいにさ」
彼は、ふと何かを思い出したように呟いた。
「あぁ……そうか」
視線を伏せたまま、どこか納得したような声。
「ゆういちが言ってた“彼女”って……君のことだったんだな」
そう言って、彼はほんの少しだけ微笑んだ。
苦しさを飲み込んだような、静かな笑み。
そこには、さっきまで悩んでいた彼の姿は、もうなかった。
「……ありがとう」
短く、噛みしめるように。
「親友を、救ってくれて」
(……君なら、愛理のことも――)
その先の言葉は、彼自身の胸に沈んでいった。
そして彼は決心したように続ける。
「俺は、家族のように一緒に育ってきた愛理のほうが大切だ。
親友のあいつよりもな。
だから、俺は愛理の幸せを願う。
……そのために、最後まで彼に嫌われることにするよ」
そう言って、彼は目を細めた。
浮かべたのは、どこか優しく、そして覚悟を含んだ微笑み。
「……本当に、ありがとう」
私は、わずかに口元を緩めながら答える。
「礼なんて言わなくていいわ」
視線を逸らさず、はっきりと。
「だって私は、あなたを許さないんだから」
彼はどこか吹っ切れたように立ち上がり、鞄を手に取る。
そして、そのまま席を離れようとした――その時。
「待ちなさい」
思わず、声が出た。
その瞬間、彼が私の方に振り返る。
「如月さんから聞いたわ。
神田君……あなたの“真っ直ぐさ”に、ずっと憧れてたみたいよ?」
一瞬、彼の目が揺れた。
そして、照れくさそうに笑う。
「冗談だろ?俺なんかより、あいつの方がよっぽど真っ直ぐだよ?むしろ俺の方が………」
「……あいつを憧れてるよ。」
短い沈黙のあと、彼は吹っ切れたように図書館の出口へ向かった。
だが、ふと思い出したように足を止め、振り返る。
「じゃあな……そうだ」
「……あんた、名前は?」
私は、彼の目を真っ直ぐに見据えて言った。
「安城恵梨香よ」
彼は、ニコッと柔らかく微笑んでから、
「安城さん……ありがとう」
と、静かに言った。
そしてら彼は図書館の静けさの中へ消えていった。
――この時の私は、まだ知らなかった。
もうすぐ、
神田君のトラウマである本郷愛理と、
真正面から対峙することになるなんて。
そのまま、夜まで開いている図書館へ足を運ぶ。テスト勉強の続きをするために。
図書館の奥――できるだけ端の席を見つけて座った。癖、というより“この心の声が聞こえる能力のせい”だ。
隣の席くらいの距離なら、どうしても声が強制的に聞こえてしまう。
(……没収したのはいいけど……これどうしようかしら?)
その場の勢いとはいえ、彼の本を持ち帰ってしまった自分に戸惑っていた。
昔の私なら、決してしなかったはずの行動だ。
その事実が、胸の奥に小さな違和感として残り、私はしばらく考え込んでしまった。
(ピンク髪の小悪魔………これってやっぱり、本郷愛理さんを思ってるのかしら……?)
如月さんから、本郷さんの特徴はなんとなく聞いていた。
それが理由なのかはわからない。
けれど、彼の心の奥に、まだ彼女の存在が残っていることに、私は少しだけ胸の奥がざわつくのを感じていた。
そのときだった。
ストン、と隣の席に誰かが腰を下ろした。
思わずそちらに視線を向けると、紺色のブレザー。秀英学園――この地区で一番頭のいい学校の制服。
(……秀英。そういえば、神田君の初恋の人も、秀英だったような……)
如月さんが語っていた情報が、ふと胸をよぎる。
(だめだめ……勉強に集中しないとね)
だが私は首を振り、勉強へ意識を戻そうとした。
その瞬間――
隣の男子から、心の声が流れ込んできた。
(隣の子、愛聖学園の生徒か……。
ゆういち、あいつは……大丈夫だったんだろうか……?苦しんで塞ぎ込んでないといいんだが……いや、聖もいるし、大丈夫だ。)
――ゆういち。
その名前に、心臓が跳ね上がった。
「っ……!」
思わずペンを落としそうになり、慌てて握り直す。
隣の男子の手元に視線を落とすと――
ふと、ノートの右上に書かれた名前が目に入った。
真田 蓮也
喉の奥がきゅっと締まった。
神田君の“元親友”。
あの、初恋を奪った張本人で神田君を傷つけた相手。
その人物が――
私のすぐ横に、何も知らない顔で座っている。
(……神田君を、心配してる……?)
私は驚いた。
親友を平気で傷つけるような相手が、なおも彼の身を案じていることが、どうしても理解できなかった。
(……一体、どういうことかしら……?)
私は普段、初対面の人に声をかけることは、まずない。
他人の領域に踏み込むこと自体、私が最も嫌う行いだからだ。
――それなのに。
気づいたときには、もう口が動いていた。
「あなた……どうかしたのかしら?
すごく、辛そうだけど」
彼は、はっきりと驚いた顔をした。
当然だ。見ず知らずの女子に、突然そんなことを言われたのだから。
しばらく沈黙が流れ――
やがて、彼は視線を伏せたまま、ぽつりと呟いた。
「……君は愛聖学園の生徒かな?」
彼は優しい微笑みを浮かべながら、私に問いかけた。
「ええ。そうよ。」
彼の視線が、わずかに揺れたのを見逃さなかった。
「何年生?」
―― 一年生。
その答えに対して、次に彼の心の声がどんな反応を示すのか――
私の胸の奥が、ほんの少しざわついた。
「一年生よ」
その瞬間、彼の表情がわずかに揺れた。
「……ならさ。
神田ゆういちってやつ、知ってるか?」
(この子なら、ゆういちが今どうしてるのか知ってるんじゃないか?)
彼の心の声が私に届き、胸がきゅっと締めつけられる。
「ええ。同じクラスよ。
……私の、大事な友達」
「友達」という単語が、胸の奥に小さく引っかかった。
友達以上の、確かにそこにある何か。
けれど、それを言語化できるほど、私はまだ自分の気持ちを理解していなかった。
「あいつは、今も学校に来て、元気にしてるのか?」
彼は、まるで私に「はい」と答えてほしいと言わんばかりに、じっとこちらを見つめていた。
「ええ、学校にも、ちゃんと来てるわ。
今日もね、友達と一緒に……彼の家で勉強会してたの」
一瞬。
彼の肩から、張りつめていた力が抜けたのがわかった。
「……そうか」
それだけ言って、彼は小さく息を吐いた。
そして――
声にならない、心の声が流れ込んでくる。
(……よかった……)
(ゆういち、立ち直れたんだな……)
(……本当に、よかった……)
胸の奥が、静かにざわめいた。
この人は――
少なくとも、“ただの悪者”ではない。
そう、確かに感じてしまった。
私は、その真意が知りたかった。
だから――もう一歩だけ、踏み込む。
「どうして……彼に、あんな酷いことをしたの?」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
けれど、その一言は確実に彼の胸を抉ったらしい。
彼は一瞬、言葉を失ったように目を見開き、
やがて、探るような視線で私を見て呟いた。
「……君は、どこまで知ってる?」
「如月さんから、全部聞いたわ。
彼の過去も……本郷愛理さんのことも……彼を傷つけたあなたの事も……」
その瞬間、彼の表情がわずかに歪んだ。
まるで何かを演じる仮面を被り直すかのように、冷たく、突き放すような口調で私に言った。
「……聖から聞いた通りだよ。
俺はあいつを裏切ったんだよ。」
その言葉とは裏腹に――
胸の奥から、強い感情が滲み出ていた。
(もう……やめてくれ……)
(愛理のため、自分の大切な家族の幸せのために、大切な親友を傷つけてしまったこんな事を俺に言わせないでくれ……)
――聞こえてしまった。
それは強がりでも、嘘をつく余裕のある声でもない。痛みに耐える人間の、悲痛な叫びだった。
まるで――
救いさえ求めているかのような声だった。
その弱さに、ほんの一瞬だけ、心が揺れかけた。
……けれど。
次の瞬間、私の脳裏に浮かんだのは――
神田君の、あの真っ直ぐな笑顔だった。
いつもニコニコして、私の事を可愛いと言ってくれて、真っ直ぐ"嘘偽りなく"私を褒めてくれる。
不器用なくらい真面目で、
私の事を誰よりも大切にしてくれる
(ああ……私は駄目だ。彼を許せない)
その姿が、胸の奥で鮮やかに重なった瞬間――
私の中で、何かがはっきりと定まった。
私は、そっと息を吸い、口を開く。
「……気に入らないわね」
自分でも驚くほど、その声は冷たかった。
彼を明確に拒絶し、嫌悪する感情が、はっきりとそこに宿っていた。
彼は目を見開き、戸惑ったように私を見つめる。
「大切な家族のために、大切な親友を傷つけたことに……罪悪感を感じてる?」
一歩、踏み込む。
「それって――虫が良すぎないかしら?」
言葉を重ねるごとに、体の奥から熱が込み上げてくる。
怒り。拒絶。譲れない想い。
ただひとつ、確かなことがあった。
――彼を傷つけたという事実だけは、どうしても許せない。
そこにどんな理由があろうと。
どんな“綺麗な事情”があろうと。
「誰かを傷つけたのなら――
そうすることを“自分で決断した”のなら」
私は、視線を逸らさずに言い切った。
「最後まで、その悪役を演じなさい」
彼の呼吸が、わずかに乱れる。
周囲の人たちが、こちらへ視線を向けているのがわかった。
――当然だ。ここは図書館で、私語は厳禁。そんなことは、私自身よく理解している。
それでも。
私は、言わなければならなかった。
大切な人を傷つけた彼に、私の想いをぶつけなければならない。
ここで言葉を飲み込めば、私はきっと――一生、後悔する。
「中途半端に救われようなんて、思わないで。
最後まで、徹底的に嫌われなさい」
言葉は鋭く、でも迷いはなかった。
「その十字架を抱えたまま、地獄へ進みなさい。
“大切な家族のため”なんて耳触りのいい理由で、大切な親友を傷つけたんでしょう?」
胸の奥で、何かが燃える。
「私には――到底、理解できないけれどね」
静かに、でも確実に。
「誰かの幸せのために、誰かを傷つける?
そんな幸せ……」
私は、きっぱりと言い放った。
「――私が、否定するわ」
彼は、私を責めるような強い口調ではなかった。
むしろ――妙に優しい声音で、反論してきた。
「……君に、何がわかるんだ?」
静かな口調だったが、その奥で反論の感情が渦巻いているのがわかった。
彼はきゅっと下唇を噛みしめながら、言葉を紡いだ。
「俺と愛理は、小さい頃から親に捨てられ、
施設で一緒に育ったんだ。本当の家族みたいに」
彼の視線は、どこか遠くを見つめていた。
まるで、彼らにしかわからない絆の物語が、そこにあるかのように。
「家族の幸せを願って……それの、何が悪い?」
その瞬間――
彼の瞳の奥で、怒りがはっきりと燃え上がった。
……ああ。
これは“言い訳”なんかじゃない。
彼なりの、彼が今まで必死に生きてきた正義だ。
でも――
私は、一歩も引かなかった。
「ええ……悪いわ」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「だってあなたは――
私の大切な人を、傷つけたもの」
彼の事情なんて、知らない。
理解しようとも、思わない。
「あなたがどんな過去を背負っていようと、
どんな理由があろうと……関係ないわ」
私は、真っ直ぐ彼を見据えた。
その視線は、彼と本郷愛理さんの絆を、一蹴するかのように冷たかった。
「罪悪感なんて、微塵もない」
胸の奥が、熱く、静かに燃えている。
「今こうして、あなたを傷つけていることにもね」
一瞬、彼の表情が揺れた。
「……私は、あなたに嫌われたって構わない」
言葉を、噛みしめるように続ける。
たとえ彼の正義がどれほど美しく、綺麗な理由に彩られていようと――
私は、大切な人を傷つけたあなたを、決して許さない。
「苦しいときに、ただ側にいるだけじゃ足りない。
苦しいときこそ、立ち上がることを信じて――
一緒に戦う。それが、本物よ。
……どっちも選ぼうなんて、虫がよすぎるわ」
それだけは、譲れなかった。
彼は、険しい表情のまま視線を落とした。
「俺はもう……自分がわからないんだ」
絞り出すような声。
「自分の選択が……本当に正しかったのか。
もっと、他にいい方法があったんじゃないかって……」
拳が、ぎゅっと握りしめられる。
「……俺は、どうしたらいいんだ……」
その言葉は、まるで――
救いを乞う祈りみたいだった。
私は、しばらく沈黙してから、そっと口を開く。
「……過去のあなたがね」
声は静かで、揺れていない。
「“自分の正義”のために、彼を傷つける選択をしたのなら――
それを、最後まで誇りに思いなさい」
彼はハッと顔を上げる。
「逃げないで。後悔もしないで。
その選択をした“自分自身”を、最後まで貫きなさい」
私は、真っ直ぐ彼を見据えた。
「そしたら――
私の正義が、あなたを打ち負かしてあげるわ」
その言葉に、彼は一瞬だけ目を見開き――
そして、ふっと笑った。
乾いた、どこか寂しそうな笑み。
「……君は、優しいな」
(………許されないことが、俺が親友を傷つけた事への罰って事か…)
自嘲するように、そう呟く。
「……それで、
君の正義が、親友を傷つけた俺の罪を償わせる。
……結果的に、俺を救うってわけか」
彼は、今の状況を見渡すように小さく息を吐いた。そこには沢山の視線が私達を注目していた。
「……まるで、今この瞬間みたいにさ」
彼は、ふと何かを思い出したように呟いた。
「あぁ……そうか」
視線を伏せたまま、どこか納得したような声。
「ゆういちが言ってた“彼女”って……君のことだったんだな」
そう言って、彼はほんの少しだけ微笑んだ。
苦しさを飲み込んだような、静かな笑み。
そこには、さっきまで悩んでいた彼の姿は、もうなかった。
「……ありがとう」
短く、噛みしめるように。
「親友を、救ってくれて」
(……君なら、愛理のことも――)
その先の言葉は、彼自身の胸に沈んでいった。
そして彼は決心したように続ける。
「俺は、家族のように一緒に育ってきた愛理のほうが大切だ。
親友のあいつよりもな。
だから、俺は愛理の幸せを願う。
……そのために、最後まで彼に嫌われることにするよ」
そう言って、彼は目を細めた。
浮かべたのは、どこか優しく、そして覚悟を含んだ微笑み。
「……本当に、ありがとう」
私は、わずかに口元を緩めながら答える。
「礼なんて言わなくていいわ」
視線を逸らさず、はっきりと。
「だって私は、あなたを許さないんだから」
彼はどこか吹っ切れたように立ち上がり、鞄を手に取る。
そして、そのまま席を離れようとした――その時。
「待ちなさい」
思わず、声が出た。
その瞬間、彼が私の方に振り返る。
「如月さんから聞いたわ。
神田君……あなたの“真っ直ぐさ”に、ずっと憧れてたみたいよ?」
一瞬、彼の目が揺れた。
そして、照れくさそうに笑う。
「冗談だろ?俺なんかより、あいつの方がよっぽど真っ直ぐだよ?むしろ俺の方が………」
「……あいつを憧れてるよ。」
短い沈黙のあと、彼は吹っ切れたように図書館の出口へ向かった。
だが、ふと思い出したように足を止め、振り返る。
「じゃあな……そうだ」
「……あんた、名前は?」
私は、彼の目を真っ直ぐに見据えて言った。
「安城恵梨香よ」
彼は、ニコッと柔らかく微笑んでから、
「安城さん……ありがとう」
と、静かに言った。
そしてら彼は図書館の静けさの中へ消えていった。
――この時の私は、まだ知らなかった。
もうすぐ、
神田君のトラウマである本郷愛理と、
真正面から対峙することになるなんて。
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肉じゃがの甘い湯気、溶けゆく氷の音、そして重ねた肌の温もり。
44歳の年齢差を超え、孤独を分かち合った二人が辿り着いた「愛の形」とは。これは、一人の青年が境界線の向こう側で教わった、残酷なまでに美しい人生の記録。
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神崎 未緒里
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※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
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