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第113話 地獄に咲く花
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昼休み。
ヤンキーたちを締め上げたあと、私は何事もなかったかのように教室へ戻っていた。
――そして。
ズキッ。
「……っ」
思わず、こめかえを押さえる。
「はぁ……はぁ……頭、痛すぎ……」
まるで脳の奥を、内側から万力で締めつけられているような感覚。
視界が、わずかに揺れる。
「そりゃあ……あんなに能力、使いすぎたら……こうもなるよね……」
私は机に手をつき、浅く息を繰り返す。
――ステージ1。
この段階では、能力を過剰に行使すると、
必ずと言っていいほど反動が現れる。
頭痛。
倦怠感。
吐き気。
本来、能力が偶発的に“漏れる”程度であれば、
ここまで強い副作用は起きない。
……けれど。
(私の場合は……ちょっと、違う)
EES発現者の能力には、大きく分けて二つの型がある。
ひとつは――常時開放型能力。
これは、意識的に能力を使うというよりも、
常に能力が発動し続けている状態。
心の声が聞こえる。
周りからの認知の変化。
本人の意思とは関係なく、
能力が日常そのものに溶け込んでいる。
副作用は比較的少ない。
けれど、その代わり――
能力に付きまとう“精神的ストレス”を、一生抱え続けることになる。
そして、もうひとつ。
任意開放型能力。
これは、能力を意識的に行使するタイプ。
使うか、使わないかを自分で選べる。
その分、自由度は高い。
けれど――
(代償は、重い)
自身と能力の相性によって制御のしやすさは変わるが、行使すればするほど、副作用は確実に蓄積していく。
私の場合。
相性が、いい。
――それが、問題だった。
(“操れてしまう”からこそ……使いすぎる)
ある程度、能力を制御できる。
意識的に踏み込めてしまう。
だからこそ、反動も――深く、重い。
完全に能力を使いこなせるステージ4になれば、
こうした副作用はなくなるらしい。
……皮肉だな、と思う。
この痛みがあるからこそ、
私はまだ――人間だと実感できる。
(……でも)
胸の奥で、静かに思う。
(ゆういちのこと、知れてよかった)
過去も、傷も。
彼がどんな覚悟で、誰を守ろうとしたのかも。
それを知れたことが、
この痛みを――ほんの少しだけ、甘く感じさせた。
私は、ふらつく足取りを誤魔化しながら、教室へと急ぐ。
――今日の放課後。
ゆういちは、バスケ部に体験入部する予定だ。
(授業だけでじゃなく、放課後もゆういちと一緒にいられる……幸せ♡)
胸の奥に、別の熱が灯る。
私は、何事もなかった顔で、
自分の席へと戻った。
午後の授業が終わり、教室には放課後特有のざわめきが広がっていた。
部活の準備に向かおうとしている蓮也と、ゆういち、それから聖。
三人が何やら話しているのを、私は自分の机に腰掛けたまま、じっと眺めていた。
「おーい、ゆういち! 一緒に更衣室行こうぜ!」
蓮也が、いつもの軽い調子で声をかける。
「……あ、あぁ」
ゆういちは、少し歯切れの悪い返事を返した。
どうやらバスケ部の体験入部に気が乗らない様子だった。
「んじゃ、聖。俺たち体育館で待ってるからな!」
そう言って、蓮也は手をひらりと振る。
「うん、蓮也。わかった!」
聖――ひじりんは、にっこりと笑って頷いた。
その様子を見て、ゆういちがわずかに眉をひそめる。
「……如月は、一緒に着替えないのか?」
「聖は別だよ? 当たり前だろ?」
「いや、当たり前なわけ……それじゃ、まるで女――」
どうやら、“男のはずの聖”が更衣室に向かわないことに、違和感を覚えたらしい。
私は、そのやり取りを遠目に眺めながら、頬に手を当てた。
(……また、これだ。)
私は知っている。
如月聖が、本当は女の子だということを。
けれど――
周囲は、違う。
聖の言動や、仕草や、声の調子に。
ほんの一瞬だけ、
「……あれ? 女の子なんじゃないか?」
そんな疑念を抱いたとしても。
次の瞬間には、必ずこう思い直すのだ。
「いや、気のせいだ」
「如月は男だ」
「何もおかしくない」
まるで――
無意識の奥を、そっと撫でられたみたいに。
そう。
如月聖は――EES発現者だ。
周囲の“違和感”を消し、
認識を、都合のいい形へと戻してしまう。
自分を「男」として認知させ続ける、
常時開放型の能力。
無意識に介入する能力を持つ私には、
どうやら――聖の能力は、効かないらしい。
そのことを蓮也に話したとき、
彼は一瞬だけ目を見開いて、素直に驚いていた。
そして、不思議なことに。
その瞬間から――
蓮也もまた、聖を「女の子」として認識できていた。
今の蓮也は、如月聖が女だと気づいている。
けれど、その事実には触れず、
あえて「気づいていないふり」をしている。
私は、そこから――
一つの仮説に辿り着いた。
(……たぶん)
如月聖の能力は、
単純な「認識操作」なんかじゃない。
むしろ――
人間の脳が元々抱えている“欠陥”を、正確に突く能力だ。
聖の能力が、最大限に作用する条件は、ひとつ。
それは――
「男か女か、どちらか判断できない状態」
人は、本来、曖昧な状態を嫌う。
男なのか、女なのか。
正しいのか、間違っているのか。
安全なのか、危険なのか。
相反する認知が同時に存在するとき、
人の脳には、強烈な不快感が生じる。
――認知的不協和。
二つの矛盾した認知を抱えたままでは、
人は耐えられない。
だからこそ、無意識のうちに
どちらか一方を「正しいもの」として選び取り、
不快を解消しようとする。
そして――
如月聖は、
その**“選択の瞬間”**に、静かに介入する。
外見。
声。
仕草。
距離感。
そこに、ほんのわずかでも疑問が生じればいい。
「……男? でも、どこか女の子みたいな……?」
その、一瞬。
人の無意識は、混乱を嫌って、自動的に動く。
――違和感の修正。
「男だ」
「そういう見た目なだけだ」
「特におかしくない」
そう再認識することで、
脳は“問題のない世界”を維持しようとする。
聖の能力は、
相手の認知をねじ曲げるものではない。
相手自身に、都合のいい結論を選ばせる能力。
だから、違和感は残らない。
記憶も、矛盾も、生まれない。
ただ最初から――
「そういう存在だった」と、思い込まされるだけ。
逆に言えば。
最初から、
「女だ」と完全に認識されてしまえば。
この能力は、ほとんど作用しない。
曖昧さがあるときだけ。
判断が揺れているときだけ。
――如月聖は、そこに存在できる。
それは、
「誰からも疑われない」代わりに、
「誰にも本当を見てもらえない」能力でもあった。
……皮肉なほどに。
「……いや、当たり前なわけ……それじゃ、まるで女――」
そこまで言いかけて、
私は視線をゆういちへ向けた。
ゆういちも、確かに一瞬――
同じ疑問を抱いたような顔をしていた。
けれど。
次の瞬間。
「……ま、いいか」
そう呟いた彼の表情から、
その疑念は、綺麗さっぱり消えていた。
――上書きされた。
何もなかったかのように。
そのまま、蓮也とゆういちは更衣室へ向かい、
やがて体育館へと消えていく。
私は、その背中を見送りながら、静かに息を吐いた。
「……ひじりんは、一体何がしたいの?」
如月聖の行動は、私には理解できなかった。
なぜ、わざわざ“男として見られること”を望むのか。
――女の子として生きることを、
そんなにも拒む理由が、私には分からない。
……まあ、いい。
でも。
もし――
私の“わんちゃん”を奪おうとするなら。
その時は、容赦しない。
私は、そう心の中で決めていた。
♢♢♢
体育館へ移動し、
マネージャーの私はベンチに座って、紅白戦を眺めていた。
コートを見渡すまでもない。
アップをしているゆういちは、すぐに見つかった。
(あぁ……見つけた♡)
体操服姿のゆういち。
少しラフで、でもどこか真面目な雰囲気。
(かっこいいなぁ……♡)
正直、運動神経なんてどうでもいい。
上手くなくてもいい。
目立たなくてもいい。
(あなたの、その不器用な優しささえあれば……それだけでいいの)
その瞬間。
ゆういちと、目が合った。
私は、反射的に小さく手を振りながら、口を動かす。
「わ・ん・ち・ゃ・ん・が・ん・ば・れ」
ちゃんと伝わったみたいだった。
ゆういちは一瞬だけ目を見開いて呆れた表情をしたが、それから小さく頷いた。
そして、試合が始まり、第一クォーター終了。
私は、最初から最後まで――
ずっと、ゆういちだけを見ていた。
……不思議な動きだった。
全力を出していない。
けれど、手を抜いているとも違う。
まるで――
「目立たないように」力を調整しているみたいな。
(……あぁ、やっぱり)
そういうところが、ゆういちらしい。
でも。
正直に言えば――
そんなことは、どうでもよかった。
好きな人の“全部”を愛する私にとっては。
手を抜こうが、抜くまいが。
目立とうが、埋もれようが。
どんな姿でも、愛おしい。
第二クォーターが始まる前。
私は、ゆういちに声をかけに行った。
「にしし♡ わんちゃん、頑張っ――」
そこまで言いかけて、言葉が止まる。
……ゆういちの表情が、さっきまでと違った。
真剣な眼差し。
余計なものを一切削ぎ落としたような、集中した顔。何かが彼の考えを変えたのだろう
きゅん。
(……あれ?)
どうでもいいはずだったのに。
勝ち負けなんて、関係ないはずだったのに。
好きな人の“本気の顔”って、
こんなにも心を揺さぶるものなんだ。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
……ずるい。
そんな顔、
私にだけ見せてくれればいいのに。
(何があなたを変えたのかな……私にも教えてよ)
そして――
ゆういちが、ディフェンスについた瞬間。
それは、起こった。
(……え?)
さっきまでとは、明らかに違う。
動きは、相変わらずどこかぎこちない。
フォームも洗練されているとは言えない。
正直、素人にしか見えない。
――なのに。
相手が仕掛けた瞬間、
ゆういちは“そこ”にいた。
一歩、先。
相手が動く前に、進路を塞ぐ。
「なっ――!?」
ドリブルコースを完全に読まれ、
相手は慌ててパスを出す。
次の瞬間。
ゆういちは、ボールをはたき落とした――
そのまま、抜いた。
(……なに、これ)
速いわけじゃない。
派手でもない。
けれど。
まるで、相手の動きが“わかっている”みたい。
異様だった。
コートの空気が、明らかに変わる。
私は、思わず身を乗り出していた。
(……わんちゃん……かっこいい♡)
胸の奥が、どくん、と跳ねる。
そのまま、ゆういちは走る。
そして――
ノールックで、パス。
「――っ!?」
ボールは、一直線に――
如月聖の元へ。
聖は一瞬も迷わず、
そのままスリーポイントを放つ。
シュッ――
ネットが、綺麗に揺れた。
「うおおおおおお!! すげぇえええっ!!」
体育館中が、どっと沸く。
歓声が、壁を震わせる。
私は、思わず口元が緩んでいた。
「にしし♡
それでこそ……私のわんちゃん♡」
誇らしくて、嬉しくて。
自分のことのように、手を叩く。
そして――
次のプレー。
今度は、蓮也から――
ゆういちへ、パス。
残り、10秒。
(まさか……)
その予感は、外れなかった。
ゆういちは、そのまま切り込む。
踏み切り。
跳躍。
――そして。
ガシャンッ!!!
両手でリングを掴み、
ボールを叩き込む。
ゴールネットが激しく揺れ、
金属音が、体育館中に響き渡った。
「うおおおおおおおおっ!!」
蓮也の叫び。
部員たちの歓声。
すべてが、一気に爆発する。
――直後。
試合終了のホイッスルが、
静かにコートに鳴り響いた。
私は、呆然としていた。
……マネージャーをしていて、
初めて見た、ダンク。
ただ――
かっこよかった。
それだけで、十分だった。
気づけば。
胸の奥で、
また一段、恋が深く沈んでいた。
(……あなたはどれだけ私を好きにさせたいの?)
(絶対わんちゃんは、誰にも渡さない)
その直後。
拍手と歓声の中で――
ゆういちは、バスケ部への正式加入を告げられた。
そして、次の日。
昨日の試合の影響は、想像以上だった。
教室に入るなり、
ゆういちの席の周りには人だかりができていた。
「なあ神田! あの動き、サッカー部でも通用するって!」
「バスケ部だけじゃもったいなくね?」
「陸上とかどう? 足、速そうだし!」
色んなクラブが、次々と声をかけている。
……うるさい。
私は自分の席に座ったまま、その光景をぼんやり眺めていた。
(なに……こいつら)
(私の方が、ずっと前から
わんちゃんの魅力に気づいてたのに)
胸の奥が、ちくりと痛む。
(……むかつく)
その空気を、面白がるように。
タイミングを見計らったかのように、
蓮也がニヤニヤした顔で口を挟んだ。
「いや~、ほんと人気者だな、ゆういち」
肩をぽん、と叩きながら。
「ほら。愛理なんて、ちょっとムスッとしてるぞ?
長い付き合いだからわかる。
あれ、完全に嫉妬してる顔だわ」
「 は? なに言ってんの、お前」
……図星だった。
長い付き合いだからこそ、
蓮也には全部、見透かされている。
でも、腹が立ったのは蓮也じゃない。
――怖かった。
ゆういちが、
“みんなのもの”になっていくのが。
(……奪われる)
(誰かに、取られるんじゃ……)
そんな不安が、胸の奥で膨らんだ。
(私の……わんちゃん……
誰も、取らないよね?)
……その予感は、
皮肉にも、すぐに現実になった。
突然。
ゆういちの席の周りに、
女の子たちが集まり始めた。
先頭にいたのは――
女子バレー部のエース・歌川さん。
そして、その隣には
男子バレー部の美人マネージャー・花谷さん。
他にも、校内で目立つような可愛い子ばかり。
私は、視線だけでその光景を追っていた。
その中心で。
歌川さんが、にっこり微笑んで口を開く。
「神田くん、この前の試合、すっごくかっこよかったね」
少しだけ照れたように続ける。
「最初はちょっと怖い人かと思ったけど……
印象、ガラッと変わっちゃった」
一瞬、間を置いて。
「ねえ……今って、その……
彼女とか、いるの?」
――ピクン。
その言葉に私の肩が、勝手に反応した。
ゆういちは、少し困ったように笑う。
「かっこいいなんて、生まれて初めて言われたよ」
照れ隠しみたいに頭を掻いて。
「……彼女もさ。
今まで、できたこと……一度もないし」
その言葉に、
歌川さんの笑顔が、ふわっと柔らかくなる。
「じゃあ……
LIME、交換しよ?」
――は?絶対ダメ。良い訳ないじゃん。
胸の奥が、ぐらりと揺れた。
(……私だって、まだ交換してないのに)
(なにそれ、むかつく。私のわんちゃんなのに。勝手にしないで。)
その瞬間。
「はーい、席についてー!
授業始めるぞー!」
担任の石黒が、教室に入ってきた。
ざわついていた空気が、一気に引く。
……でも。
私の胸は、締めつけられたままだった。
(取られる)
(私のわんちゃんが、
歌川さんに、取られる……)
喉の奥が、苦しくなる。
――そして。
気づいたときには。
胸の奥に溜め込んでいた“本音”が、
ぽろりと、零れていた。
「……ちっ。ゆういちは、私のものなのに……邪魔すんなよ……泥棒猫」
――は?
いま、私……口に出した?
胸の奥に沈めていたはずの黒い塊が、舌先から零れ落ちたみたいに。
一度こぼれた言葉は、戻らない。
(……あぁ)
“呪い”が、こっちにも触れてきた。
自分の声に、私自身が驚いた。
……まずい。
私はすぐに、いつもの表情を作る。
小悪魔みたいに笑って、
何事もなかったかのように。
「にしし♡
な~んにもないよ? ゆういち♡♡」
……でも。
その瞬間、
脳裏に、あの記憶がフラッシュバックする。
――母に捨てられた、あの日。
大切なものを失う恐怖。
置いていかれる不安。
そして今。
目の前で、
“私のわんちゃん”が奪われるかもしれない恐怖。
心の奥に押し込めていた闇が、
ゆっくりと、溢れ出してくる。
(……渡さない)
(私のわんちゃんは、
誰にも、渡さない)
――そのとき。
私は、決めてしまった。
ゆういちの“過去”を、
クラスに――バラすことを。
そして、次の日。
私は――
ゆういちの過去を、クラスのみんなにバラした。
「神田ゆういちは、過去に暴力事件を起こしてる」
黒板にその文字が書かれた一枚の紙により、教室が、ざわつく。
「生徒を病院送りにしたって聞いたよ」
「……え、マジ?」
黒板の前に立たされたゆういちは、
その言葉を否定することも、言い返すこともできず――
ただ、立ち尽くしていた。
視線が突き刺さる。
好奇心。恐怖。軽蔑。
昨日までの“憧れ”が、音を立てて崩れていく。
やがて、ゆういちは何も言わないまま、
自分の席へと戻る途中。
「……おい、ゆういち」
ぽつりと、蓮也が声をかける。
その声は、いつものように明るくも、軽くもなかった。
それもそうだ。
私は、このことを蓮也に一切相談していない。
平和主義者の蓮也が、
こんなやり方を許すはずがない。
「気にすんなよ」
蓮也は、必死に笑おうとしていた。
「こんなの……デマだろ?
馬鹿馬鹿しいよな?
誰だよ、こんなこと言い出したやつ……」
そして、まっすぐにゆういちを見る。
「お前が、そんなことするはずないだろ?」
――その瞬間。
ゆういちは、静かに口を開いた。
「……ああ」
教室が、凍りつく。
「事実だよ。デマなんかじゃない」
「黙ってて……悪かったな、蓮也」
それだけ言うと、
ゆういちは俯いた。
それ以上、誰も声をかけられなかった。
その日。
ゆういちは、完全にクラスから孤立した。
午前の授業が終わり、
昼休みのチャイムが鳴る。
ゆういちは、無言で教室を出ていった。
「――待って、ゆういち」
私は、声をかけた。
ゆういちが、振り返る。
その瞬間。
私は彼の目をじっと見て能力を発動した。
(今から十分後に屋上へ向かうように)
――無意識への介入。
能力をかけ終えると、
ゆういちは私を見ないまま、教室を出ていった。
次に、私は歌川さんと花谷さんに近づく。
(屋上に向かう途中の踊り場で、三人で話す)
同時に、二人へ能力をかける。
準備は、整った。
私は先に移動し、
指定した踊り場へと向かう。
――ゆういちは、屋上に行くため必ずここを通る。
案の定。
彼は、こちらに気づくと、
少し離れた場所に身を隠した。
……聞こえている。
私は、それを確認してから、
三人の会話を始めた。
最初に口を開いたのは、花谷さんだった。
会話の内容は、書き換えない。自分の口で言わせる。刺さるのは、その方だから
「ねえねえ、神田ってさ……
あんなに優しそうだったのに、病院送りとか……マジありえなくない?」
「歌川っち、告白する前でよかったよね~。
ちょー怖いんだけど」
そして、歌川さん。
「……本当に、誠実で優しい人だと思ってた」
小さく、息を吐いて。
「嘘つき」
その一言は、
隠れているゆういちの心に、確実に届いた。
――人は、地獄に突き落とされたとき、
手を差し伸べた相手に心酔する。
私は、その心理を知っている。
だって私は、
もう二度と、大切な誰かを失わないために――
それを学んできたのだから。
花谷さんが、私を見る。
「ねえ、愛理ちゃんって……知ってたの?
ゆういち君の本性」
「病院送りとか……正直、引くよね」
……もう、十分。
ゆういちの心は、
とっくに闇へ沈んでいる。
だから。
私は、最高のタイミングで――
“救い”を差し出す。
「にしし♡」
小さく笑ってから、
わざと聞こえる声で言った。
「ゆういちはね、そんな人じゃないよ?」
二人が、きょとんとする。
「きっと……ぜーったい、なにか理由があるんだよ」
そして、優しく。
「だってさ。
ゆういちって、本当は……
めっちゃ優しい人なんだから」
――そう。
この場で、
ゆういちを信じているのは、私だけ。
そう見せる。
それが、私の狙い。
しばらくして、
ゆういちが踊り場を離れた気配を感じた。
……恐らく教室へ向かったのだろう。
けど屋上へと向かうようにと無意識へ介入している。
もう最後の結末は決まっている。
私は歌川さん、花谷さんと別れ、
一人で屋上へ向かう。
無意識にかけた能力が、
彼をそこへ導いている。
――今から。
完全に壊れた彼の前で、
私は“唯一の味方”になる。
それが、
私が選んだやり方だった。
私は屋上で、彼を待っていた。
その間、ほんの少しだけ――
自分自身に問いかけていた。
こんなやり方で、本当に良かったのだろうか。
罪悪感は、あるのだろうか。
……答えは、もう決まっていた。
愛とは、支配すること。
管理下に置くためには、多少の犠牲はつきものだ。
たぶん、この時から。
私は――EES発現者として、
はっきりと“闇”の方角へ歩き出していたのだと思う。
そのとき。
階段の方から、足音が響いた。
風が屋上を吹き抜ける中、
彼はドアを開け、そして――閉める。
背中で扉を支えながら、
大きく息を吐いた。
「……はぁ……はぁっ……」
やがて、顔を上げる。
その瞬間、私たちの視線が重なった。
私は、いつもの調子で口を開く。
「にしし♡
やっぱり、来ると思った♡」
ゆういちは、戸惑ったように眉をひそめる。
「……どうして……俺を庇ったんだよ?」
「はにゃ?♡ 庇った??」
私は、首を傾げた。
「俺、さっき聞いたんだよ。
歌川と花谷の前で……」
彼は、言葉を探すように続ける。
「このままじゃ……
お前まで、俺と同じ一括りにされてたかもしれないのに……」
……まただ。
彼の、無意識の優しさ。
それが、私の心を震わせる。
もう――我慢できなかった。
誰にも、奪われたくなかった。
私は、ゆういちへ一歩、近づく。
そして――
次の瞬間。
ふわりと、両手で彼の頬を包んだ。
あたたかくて、柔らかい感触。
見上げてきた彼の瞳には、
まっすぐに――私だけが映っていた。
「にしし♡
別にいいよ?」
私は、いつも通りの笑顔で言う。
「一括りにされてもさ。
私は、あの子たちより――
ゆういちの方が大事だもん」
そして、はっきりと。
「私はね。
ゆういちを、一人にしないよ?」
「……なんか、それ……
プロポーズみたいだな」
冗談めかして言ったはずの彼の声は、
どこか、かすかに震えていた。
「にしし♡
わんちゃんのくせに、プロポーズなんて生意気だぞ??♡」
私は指先で、彼の鼻をつん、と突く。
そして――
ありったけの“愛”を、言葉にした。
「にしし♡
じゃあさ、将来……
ゆういちのお嫁さんになろっか?♡」
少し間を置いて、付け足す。
「……いや。
なりたい、かも♡」
「お、おい!
からかうなよ!? 冗談やめろって!!」
慌てたように声を荒げる。
「いくら彼女いない=年齢の俺でも、
そんなちょろくないぞ!?」
……可愛い。あともう少しで手に入る。
私は、さらに続ける。
「にしし♡
私は、ずーっとわんちゃんの味方だからね?」
「これから、どんなに嫌なことがあっても――
私の胸に飛び込んで、
わんわん泣いてもいいんだよ?♡」
少しだけ、声を落として。
「……なんなら、今から飛び込む??♡」
孤独な人間が、
一番欲しい言葉。
私は知っている。
孤独の痛みも、苦しみも――
誰よりも。
孤独な人間は、愛に飢えている。
泣く場所が、ない。
だから私は、その場所を与える。
私のところに。
私は、彼を――
孤独という地獄から、手を差し伸べて救った。
「……お前、また……からかいやがって」
その言葉とは裏腹に。
彼の表情で、すべてが分かった。
――堕ちた。
彼は、私に心酔した。
そして、深く、深く――恋に落ちた。
(ああ……)
(一生、一緒だからね?
わんちゃん♡)
その後、
屋上のドアが――ぎぃ、と鈍い音を立てて開いた。
振り返ると、
そこに立っていたのは――蓮也と、聖だった。
息を切らし、
二人は何かを探るように、屋上の空気を見渡している。
きっと、違和感を覚えて。
きっと、何かを察して。
だから、ここまで追いかけてきたのだろう。
……でも。
もう、どうでもよかった。
彼らが何を思おうと。
友情や信頼がどう育まれようと。
そんなものは、
私にとって――取るに足らない。
私の視界に映っているのは、ただ一人。
ゆういち。
――わんちゃんだけ。
彼さえ、私のものになってくれればいい。
完全に。
逃げ場なんて、一切残さず。
誰と仲違いしようが、
誰を失おうが、
その先に――私がいれば、それでいい。
私は、静かに確信していた。
――もう、戻れない。
愛は、救いなんかじゃない。
少なくとも、私にとっては。
愛とは、所有だ。
私はふっと視線を上げ、
風に揺れる青空へと、そっと手を伸ばす。
(ああ……)
(空って、こんなに綺麗だったんだね)
指先をすり抜けていく風が、
やけに心地よかった。
まるで――
この世界が、
私の選択を祝福しているみたいに。
(――誰にも見えない。私の地獄だけが、こんなに綺麗)
ヤンキーたちを締め上げたあと、私は何事もなかったかのように教室へ戻っていた。
――そして。
ズキッ。
「……っ」
思わず、こめかえを押さえる。
「はぁ……はぁ……頭、痛すぎ……」
まるで脳の奥を、内側から万力で締めつけられているような感覚。
視界が、わずかに揺れる。
「そりゃあ……あんなに能力、使いすぎたら……こうもなるよね……」
私は机に手をつき、浅く息を繰り返す。
――ステージ1。
この段階では、能力を過剰に行使すると、
必ずと言っていいほど反動が現れる。
頭痛。
倦怠感。
吐き気。
本来、能力が偶発的に“漏れる”程度であれば、
ここまで強い副作用は起きない。
……けれど。
(私の場合は……ちょっと、違う)
EES発現者の能力には、大きく分けて二つの型がある。
ひとつは――常時開放型能力。
これは、意識的に能力を使うというよりも、
常に能力が発動し続けている状態。
心の声が聞こえる。
周りからの認知の変化。
本人の意思とは関係なく、
能力が日常そのものに溶け込んでいる。
副作用は比較的少ない。
けれど、その代わり――
能力に付きまとう“精神的ストレス”を、一生抱え続けることになる。
そして、もうひとつ。
任意開放型能力。
これは、能力を意識的に行使するタイプ。
使うか、使わないかを自分で選べる。
その分、自由度は高い。
けれど――
(代償は、重い)
自身と能力の相性によって制御のしやすさは変わるが、行使すればするほど、副作用は確実に蓄積していく。
私の場合。
相性が、いい。
――それが、問題だった。
(“操れてしまう”からこそ……使いすぎる)
ある程度、能力を制御できる。
意識的に踏み込めてしまう。
だからこそ、反動も――深く、重い。
完全に能力を使いこなせるステージ4になれば、
こうした副作用はなくなるらしい。
……皮肉だな、と思う。
この痛みがあるからこそ、
私はまだ――人間だと実感できる。
(……でも)
胸の奥で、静かに思う。
(ゆういちのこと、知れてよかった)
過去も、傷も。
彼がどんな覚悟で、誰を守ろうとしたのかも。
それを知れたことが、
この痛みを――ほんの少しだけ、甘く感じさせた。
私は、ふらつく足取りを誤魔化しながら、教室へと急ぐ。
――今日の放課後。
ゆういちは、バスケ部に体験入部する予定だ。
(授業だけでじゃなく、放課後もゆういちと一緒にいられる……幸せ♡)
胸の奥に、別の熱が灯る。
私は、何事もなかった顔で、
自分の席へと戻った。
午後の授業が終わり、教室には放課後特有のざわめきが広がっていた。
部活の準備に向かおうとしている蓮也と、ゆういち、それから聖。
三人が何やら話しているのを、私は自分の机に腰掛けたまま、じっと眺めていた。
「おーい、ゆういち! 一緒に更衣室行こうぜ!」
蓮也が、いつもの軽い調子で声をかける。
「……あ、あぁ」
ゆういちは、少し歯切れの悪い返事を返した。
どうやらバスケ部の体験入部に気が乗らない様子だった。
「んじゃ、聖。俺たち体育館で待ってるからな!」
そう言って、蓮也は手をひらりと振る。
「うん、蓮也。わかった!」
聖――ひじりんは、にっこりと笑って頷いた。
その様子を見て、ゆういちがわずかに眉をひそめる。
「……如月は、一緒に着替えないのか?」
「聖は別だよ? 当たり前だろ?」
「いや、当たり前なわけ……それじゃ、まるで女――」
どうやら、“男のはずの聖”が更衣室に向かわないことに、違和感を覚えたらしい。
私は、そのやり取りを遠目に眺めながら、頬に手を当てた。
(……また、これだ。)
私は知っている。
如月聖が、本当は女の子だということを。
けれど――
周囲は、違う。
聖の言動や、仕草や、声の調子に。
ほんの一瞬だけ、
「……あれ? 女の子なんじゃないか?」
そんな疑念を抱いたとしても。
次の瞬間には、必ずこう思い直すのだ。
「いや、気のせいだ」
「如月は男だ」
「何もおかしくない」
まるで――
無意識の奥を、そっと撫でられたみたいに。
そう。
如月聖は――EES発現者だ。
周囲の“違和感”を消し、
認識を、都合のいい形へと戻してしまう。
自分を「男」として認知させ続ける、
常時開放型の能力。
無意識に介入する能力を持つ私には、
どうやら――聖の能力は、効かないらしい。
そのことを蓮也に話したとき、
彼は一瞬だけ目を見開いて、素直に驚いていた。
そして、不思議なことに。
その瞬間から――
蓮也もまた、聖を「女の子」として認識できていた。
今の蓮也は、如月聖が女だと気づいている。
けれど、その事実には触れず、
あえて「気づいていないふり」をしている。
私は、そこから――
一つの仮説に辿り着いた。
(……たぶん)
如月聖の能力は、
単純な「認識操作」なんかじゃない。
むしろ――
人間の脳が元々抱えている“欠陥”を、正確に突く能力だ。
聖の能力が、最大限に作用する条件は、ひとつ。
それは――
「男か女か、どちらか判断できない状態」
人は、本来、曖昧な状態を嫌う。
男なのか、女なのか。
正しいのか、間違っているのか。
安全なのか、危険なのか。
相反する認知が同時に存在するとき、
人の脳には、強烈な不快感が生じる。
――認知的不協和。
二つの矛盾した認知を抱えたままでは、
人は耐えられない。
だからこそ、無意識のうちに
どちらか一方を「正しいもの」として選び取り、
不快を解消しようとする。
そして――
如月聖は、
その**“選択の瞬間”**に、静かに介入する。
外見。
声。
仕草。
距離感。
そこに、ほんのわずかでも疑問が生じればいい。
「……男? でも、どこか女の子みたいな……?」
その、一瞬。
人の無意識は、混乱を嫌って、自動的に動く。
――違和感の修正。
「男だ」
「そういう見た目なだけだ」
「特におかしくない」
そう再認識することで、
脳は“問題のない世界”を維持しようとする。
聖の能力は、
相手の認知をねじ曲げるものではない。
相手自身に、都合のいい結論を選ばせる能力。
だから、違和感は残らない。
記憶も、矛盾も、生まれない。
ただ最初から――
「そういう存在だった」と、思い込まされるだけ。
逆に言えば。
最初から、
「女だ」と完全に認識されてしまえば。
この能力は、ほとんど作用しない。
曖昧さがあるときだけ。
判断が揺れているときだけ。
――如月聖は、そこに存在できる。
それは、
「誰からも疑われない」代わりに、
「誰にも本当を見てもらえない」能力でもあった。
……皮肉なほどに。
「……いや、当たり前なわけ……それじゃ、まるで女――」
そこまで言いかけて、
私は視線をゆういちへ向けた。
ゆういちも、確かに一瞬――
同じ疑問を抱いたような顔をしていた。
けれど。
次の瞬間。
「……ま、いいか」
そう呟いた彼の表情から、
その疑念は、綺麗さっぱり消えていた。
――上書きされた。
何もなかったかのように。
そのまま、蓮也とゆういちは更衣室へ向かい、
やがて体育館へと消えていく。
私は、その背中を見送りながら、静かに息を吐いた。
「……ひじりんは、一体何がしたいの?」
如月聖の行動は、私には理解できなかった。
なぜ、わざわざ“男として見られること”を望むのか。
――女の子として生きることを、
そんなにも拒む理由が、私には分からない。
……まあ、いい。
でも。
もし――
私の“わんちゃん”を奪おうとするなら。
その時は、容赦しない。
私は、そう心の中で決めていた。
♢♢♢
体育館へ移動し、
マネージャーの私はベンチに座って、紅白戦を眺めていた。
コートを見渡すまでもない。
アップをしているゆういちは、すぐに見つかった。
(あぁ……見つけた♡)
体操服姿のゆういち。
少しラフで、でもどこか真面目な雰囲気。
(かっこいいなぁ……♡)
正直、運動神経なんてどうでもいい。
上手くなくてもいい。
目立たなくてもいい。
(あなたの、その不器用な優しささえあれば……それだけでいいの)
その瞬間。
ゆういちと、目が合った。
私は、反射的に小さく手を振りながら、口を動かす。
「わ・ん・ち・ゃ・ん・が・ん・ば・れ」
ちゃんと伝わったみたいだった。
ゆういちは一瞬だけ目を見開いて呆れた表情をしたが、それから小さく頷いた。
そして、試合が始まり、第一クォーター終了。
私は、最初から最後まで――
ずっと、ゆういちだけを見ていた。
……不思議な動きだった。
全力を出していない。
けれど、手を抜いているとも違う。
まるで――
「目立たないように」力を調整しているみたいな。
(……あぁ、やっぱり)
そういうところが、ゆういちらしい。
でも。
正直に言えば――
そんなことは、どうでもよかった。
好きな人の“全部”を愛する私にとっては。
手を抜こうが、抜くまいが。
目立とうが、埋もれようが。
どんな姿でも、愛おしい。
第二クォーターが始まる前。
私は、ゆういちに声をかけに行った。
「にしし♡ わんちゃん、頑張っ――」
そこまで言いかけて、言葉が止まる。
……ゆういちの表情が、さっきまでと違った。
真剣な眼差し。
余計なものを一切削ぎ落としたような、集中した顔。何かが彼の考えを変えたのだろう
きゅん。
(……あれ?)
どうでもいいはずだったのに。
勝ち負けなんて、関係ないはずだったのに。
好きな人の“本気の顔”って、
こんなにも心を揺さぶるものなんだ。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
……ずるい。
そんな顔、
私にだけ見せてくれればいいのに。
(何があなたを変えたのかな……私にも教えてよ)
そして――
ゆういちが、ディフェンスについた瞬間。
それは、起こった。
(……え?)
さっきまでとは、明らかに違う。
動きは、相変わらずどこかぎこちない。
フォームも洗練されているとは言えない。
正直、素人にしか見えない。
――なのに。
相手が仕掛けた瞬間、
ゆういちは“そこ”にいた。
一歩、先。
相手が動く前に、進路を塞ぐ。
「なっ――!?」
ドリブルコースを完全に読まれ、
相手は慌ててパスを出す。
次の瞬間。
ゆういちは、ボールをはたき落とした――
そのまま、抜いた。
(……なに、これ)
速いわけじゃない。
派手でもない。
けれど。
まるで、相手の動きが“わかっている”みたい。
異様だった。
コートの空気が、明らかに変わる。
私は、思わず身を乗り出していた。
(……わんちゃん……かっこいい♡)
胸の奥が、どくん、と跳ねる。
そのまま、ゆういちは走る。
そして――
ノールックで、パス。
「――っ!?」
ボールは、一直線に――
如月聖の元へ。
聖は一瞬も迷わず、
そのままスリーポイントを放つ。
シュッ――
ネットが、綺麗に揺れた。
「うおおおおおお!! すげぇえええっ!!」
体育館中が、どっと沸く。
歓声が、壁を震わせる。
私は、思わず口元が緩んでいた。
「にしし♡
それでこそ……私のわんちゃん♡」
誇らしくて、嬉しくて。
自分のことのように、手を叩く。
そして――
次のプレー。
今度は、蓮也から――
ゆういちへ、パス。
残り、10秒。
(まさか……)
その予感は、外れなかった。
ゆういちは、そのまま切り込む。
踏み切り。
跳躍。
――そして。
ガシャンッ!!!
両手でリングを掴み、
ボールを叩き込む。
ゴールネットが激しく揺れ、
金属音が、体育館中に響き渡った。
「うおおおおおおおおっ!!」
蓮也の叫び。
部員たちの歓声。
すべてが、一気に爆発する。
――直後。
試合終了のホイッスルが、
静かにコートに鳴り響いた。
私は、呆然としていた。
……マネージャーをしていて、
初めて見た、ダンク。
ただ――
かっこよかった。
それだけで、十分だった。
気づけば。
胸の奥で、
また一段、恋が深く沈んでいた。
(……あなたはどれだけ私を好きにさせたいの?)
(絶対わんちゃんは、誰にも渡さない)
その直後。
拍手と歓声の中で――
ゆういちは、バスケ部への正式加入を告げられた。
そして、次の日。
昨日の試合の影響は、想像以上だった。
教室に入るなり、
ゆういちの席の周りには人だかりができていた。
「なあ神田! あの動き、サッカー部でも通用するって!」
「バスケ部だけじゃもったいなくね?」
「陸上とかどう? 足、速そうだし!」
色んなクラブが、次々と声をかけている。
……うるさい。
私は自分の席に座ったまま、その光景をぼんやり眺めていた。
(なに……こいつら)
(私の方が、ずっと前から
わんちゃんの魅力に気づいてたのに)
胸の奥が、ちくりと痛む。
(……むかつく)
その空気を、面白がるように。
タイミングを見計らったかのように、
蓮也がニヤニヤした顔で口を挟んだ。
「いや~、ほんと人気者だな、ゆういち」
肩をぽん、と叩きながら。
「ほら。愛理なんて、ちょっとムスッとしてるぞ?
長い付き合いだからわかる。
あれ、完全に嫉妬してる顔だわ」
「 は? なに言ってんの、お前」
……図星だった。
長い付き合いだからこそ、
蓮也には全部、見透かされている。
でも、腹が立ったのは蓮也じゃない。
――怖かった。
ゆういちが、
“みんなのもの”になっていくのが。
(……奪われる)
(誰かに、取られるんじゃ……)
そんな不安が、胸の奥で膨らんだ。
(私の……わんちゃん……
誰も、取らないよね?)
……その予感は、
皮肉にも、すぐに現実になった。
突然。
ゆういちの席の周りに、
女の子たちが集まり始めた。
先頭にいたのは――
女子バレー部のエース・歌川さん。
そして、その隣には
男子バレー部の美人マネージャー・花谷さん。
他にも、校内で目立つような可愛い子ばかり。
私は、視線だけでその光景を追っていた。
その中心で。
歌川さんが、にっこり微笑んで口を開く。
「神田くん、この前の試合、すっごくかっこよかったね」
少しだけ照れたように続ける。
「最初はちょっと怖い人かと思ったけど……
印象、ガラッと変わっちゃった」
一瞬、間を置いて。
「ねえ……今って、その……
彼女とか、いるの?」
――ピクン。
その言葉に私の肩が、勝手に反応した。
ゆういちは、少し困ったように笑う。
「かっこいいなんて、生まれて初めて言われたよ」
照れ隠しみたいに頭を掻いて。
「……彼女もさ。
今まで、できたこと……一度もないし」
その言葉に、
歌川さんの笑顔が、ふわっと柔らかくなる。
「じゃあ……
LIME、交換しよ?」
――は?絶対ダメ。良い訳ないじゃん。
胸の奥が、ぐらりと揺れた。
(……私だって、まだ交換してないのに)
(なにそれ、むかつく。私のわんちゃんなのに。勝手にしないで。)
その瞬間。
「はーい、席についてー!
授業始めるぞー!」
担任の石黒が、教室に入ってきた。
ざわついていた空気が、一気に引く。
……でも。
私の胸は、締めつけられたままだった。
(取られる)
(私のわんちゃんが、
歌川さんに、取られる……)
喉の奥が、苦しくなる。
――そして。
気づいたときには。
胸の奥に溜め込んでいた“本音”が、
ぽろりと、零れていた。
「……ちっ。ゆういちは、私のものなのに……邪魔すんなよ……泥棒猫」
――は?
いま、私……口に出した?
胸の奥に沈めていたはずの黒い塊が、舌先から零れ落ちたみたいに。
一度こぼれた言葉は、戻らない。
(……あぁ)
“呪い”が、こっちにも触れてきた。
自分の声に、私自身が驚いた。
……まずい。
私はすぐに、いつもの表情を作る。
小悪魔みたいに笑って、
何事もなかったかのように。
「にしし♡
な~んにもないよ? ゆういち♡♡」
……でも。
その瞬間、
脳裏に、あの記憶がフラッシュバックする。
――母に捨てられた、あの日。
大切なものを失う恐怖。
置いていかれる不安。
そして今。
目の前で、
“私のわんちゃん”が奪われるかもしれない恐怖。
心の奥に押し込めていた闇が、
ゆっくりと、溢れ出してくる。
(……渡さない)
(私のわんちゃんは、
誰にも、渡さない)
――そのとき。
私は、決めてしまった。
ゆういちの“過去”を、
クラスに――バラすことを。
そして、次の日。
私は――
ゆういちの過去を、クラスのみんなにバラした。
「神田ゆういちは、過去に暴力事件を起こしてる」
黒板にその文字が書かれた一枚の紙により、教室が、ざわつく。
「生徒を病院送りにしたって聞いたよ」
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黒板の前に立たされたゆういちは、
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「黙ってて……悪かったな、蓮也」
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ゆういちは俯いた。
それ以上、誰も声をかけられなかった。
その日。
ゆういちは、完全にクラスから孤立した。
午前の授業が終わり、
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ゆういちは、無言で教室を出ていった。
「――待って、ゆういち」
私は、声をかけた。
ゆういちが、振り返る。
その瞬間。
私は彼の目をじっと見て能力を発動した。
(今から十分後に屋上へ向かうように)
――無意識への介入。
能力をかけ終えると、
ゆういちは私を見ないまま、教室を出ていった。
次に、私は歌川さんと花谷さんに近づく。
(屋上に向かう途中の踊り場で、三人で話す)
同時に、二人へ能力をかける。
準備は、整った。
私は先に移動し、
指定した踊り場へと向かう。
――ゆういちは、屋上に行くため必ずここを通る。
案の定。
彼は、こちらに気づくと、
少し離れた場所に身を隠した。
……聞こえている。
私は、それを確認してから、
三人の会話を始めた。
最初に口を開いたのは、花谷さんだった。
会話の内容は、書き換えない。自分の口で言わせる。刺さるのは、その方だから
「ねえねえ、神田ってさ……
あんなに優しそうだったのに、病院送りとか……マジありえなくない?」
「歌川っち、告白する前でよかったよね~。
ちょー怖いんだけど」
そして、歌川さん。
「……本当に、誠実で優しい人だと思ってた」
小さく、息を吐いて。
「嘘つき」
その一言は、
隠れているゆういちの心に、確実に届いた。
――人は、地獄に突き落とされたとき、
手を差し伸べた相手に心酔する。
私は、その心理を知っている。
だって私は、
もう二度と、大切な誰かを失わないために――
それを学んできたのだから。
花谷さんが、私を見る。
「ねえ、愛理ちゃんって……知ってたの?
ゆういち君の本性」
「病院送りとか……正直、引くよね」
……もう、十分。
ゆういちの心は、
とっくに闇へ沈んでいる。
だから。
私は、最高のタイミングで――
“救い”を差し出す。
「にしし♡」
小さく笑ってから、
わざと聞こえる声で言った。
「ゆういちはね、そんな人じゃないよ?」
二人が、きょとんとする。
「きっと……ぜーったい、なにか理由があるんだよ」
そして、優しく。
「だってさ。
ゆういちって、本当は……
めっちゃ優しい人なんだから」
――そう。
この場で、
ゆういちを信じているのは、私だけ。
そう見せる。
それが、私の狙い。
しばらくして、
ゆういちが踊り場を離れた気配を感じた。
……恐らく教室へ向かったのだろう。
けど屋上へと向かうようにと無意識へ介入している。
もう最後の結末は決まっている。
私は歌川さん、花谷さんと別れ、
一人で屋上へ向かう。
無意識にかけた能力が、
彼をそこへ導いている。
――今から。
完全に壊れた彼の前で、
私は“唯一の味方”になる。
それが、
私が選んだやり方だった。
私は屋上で、彼を待っていた。
その間、ほんの少しだけ――
自分自身に問いかけていた。
こんなやり方で、本当に良かったのだろうか。
罪悪感は、あるのだろうか。
……答えは、もう決まっていた。
愛とは、支配すること。
管理下に置くためには、多少の犠牲はつきものだ。
たぶん、この時から。
私は――EES発現者として、
はっきりと“闇”の方角へ歩き出していたのだと思う。
そのとき。
階段の方から、足音が響いた。
風が屋上を吹き抜ける中、
彼はドアを開け、そして――閉める。
背中で扉を支えながら、
大きく息を吐いた。
「……はぁ……はぁっ……」
やがて、顔を上げる。
その瞬間、私たちの視線が重なった。
私は、いつもの調子で口を開く。
「にしし♡
やっぱり、来ると思った♡」
ゆういちは、戸惑ったように眉をひそめる。
「……どうして……俺を庇ったんだよ?」
「はにゃ?♡ 庇った??」
私は、首を傾げた。
「俺、さっき聞いたんだよ。
歌川と花谷の前で……」
彼は、言葉を探すように続ける。
「このままじゃ……
お前まで、俺と同じ一括りにされてたかもしれないのに……」
……まただ。
彼の、無意識の優しさ。
それが、私の心を震わせる。
もう――我慢できなかった。
誰にも、奪われたくなかった。
私は、ゆういちへ一歩、近づく。
そして――
次の瞬間。
ふわりと、両手で彼の頬を包んだ。
あたたかくて、柔らかい感触。
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まっすぐに――私だけが映っていた。
「にしし♡
別にいいよ?」
私は、いつも通りの笑顔で言う。
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私は、あの子たちより――
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そして、はっきりと。
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ゆういちを、一人にしないよ?」
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プロポーズみたいだな」
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彼は、私に心酔した。
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私は、静かに確信していた。
――もう、戻れない。
愛は、救いなんかじゃない。
少なくとも、私にとっては。
愛とは、所有だ。
私はふっと視線を上げ、
風に揺れる青空へと、そっと手を伸ばす。
(ああ……)
(空って、こんなに綺麗だったんだね)
指先をすり抜けていく風が、
やけに心地よかった。
まるで――
この世界が、
私の選択を祝福しているみたいに。
(――誰にも見えない。私の地獄だけが、こんなに綺麗)
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