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二章 同魂の双子
5 二〇二四 葉月―末
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最後に悠那ちゃんの見舞いをしてからというもの、それからはまるで、嘘みたいに平坦な毎日が過ぎた。何もなくても事務所には定期的に顔を出すよう、もとい話し相手になるように灯華さんには言われていたので、ちょこちょこ出向いたりはしていたが、しかしそれもそう頻繁というわけではなかった。
唯花は最近、顔を合わせれば病院へ行こうとばかり言う。僕が悠那ちゃんと会った最後の日の伝言を、既に唯花にも伝えてはいたが、それでもなお唯花は様子を見に行こうと何度も言った。おそらく彼女なりに心配をしているのだろうが、対して僕は、その都度真剣な表情で返答をするのだった。もう少しだけ待ってみよう、と。
ただ、最初はまだ良かったものだが、次第になかなか厳しくなってきた感じもある。時間が経つにつれて、唯花の提案は頻度を増し、僕の制止も曖昧になってきていた。
唯花はもちろんのことだろうが、僕自身も、不安に思う気持ちを隠せなくなっている。
僕が悠那ちゃんの姿をこの目に最後に収めてから、今日まで期間としては一週間が経っていた。決して、長くはない。だがそれでも、彼女の場合は事情が事情。軽くはない病気を抱えた状態で、放っておくには短くもなかった。
夏休みは、もうすぐ終わる。もう、残すところ数日だ。
気持ちを切り替えるのも少々億劫に感じながら、暖炉の残り火を眺めるような名残惜しい気持ちで、僕は日々を消化するしかない。眈々と、待つことだけを心に決めて。
そして、ある夜。そのときは訪れたのだった。
夜といっても既に午前。正確には深夜と呼ぶべき時間帯。僕の枕元で、携帯のチープな着信音が鳴り響く。
「……また唯花か。まったく……メールだからって、時間なんかお構いなしなんだから……」
当然のようにベッドで寝入っていた僕は、その音に目を覚ましつつ、ぼやきながら携帯を手にとった。どうせくだらない要件なのだ。そう思って。
けれども、そこに浮かび上がった薄明るい小さな画素の集合体は、僕の脳に即座に飛び込み、急速に覚醒を促した。携帯を持つ右手も、投げ出した両の足も、画面を見つめる眼球も硬直して、届いたメールの文章だけが頭の中でぐるぐると回る。
そこには一言、こうあった。
『今夜は月が綺麗です。こんな夜には、またあなたとお話がしたくなりました。』
彼女が、悠那ちゃんが呼んでいるとわかった。
連絡はできるだけ早い方が良いと思い先日アドレスを交換しておいたのだが、結局これが彼女との初めてのメールとなる。彼女も、メールの時間はあまり気にしない性格のようだ。
ふと窓から空を仰ぐと、なるほどその通りだった。星のない漆黒の背景に一つ、極めて目を惹く明るい三日月が浮いている。僕と彼女が出会った日の、あの儚気な白い月にそっくりだった。
僕はすぐに『いつでも構わないよ』という返信をしようとした。ゆっくりと親指を動かし、文を打ちこんでゆく。
しかしそこで、メールの文が完成するよりも早く、また携帯が震えた。それも今度は、メールではなく電話の着信だ。
「も、もしもし、詞くんか? 寝ていただろうが、こんな時間に……済まない」
突然の電話の相手は桂祐くんだった。
意外な相手だ。いや、もっと言えば妙でもある。彼がこんな、常識的とはとても言えない時間に電話を寄越すなんて、いったいどうしたのだろうか。
「うん、僕だよ。大丈夫。それより、何かあった?」
彼の声は、電話越しにでもわかるくらい慌てていた。彼は普段から冷静な人だが、今は動揺を抑えようとしてそれが上手くいかないような、そんな複雑な声色だった。
僕が尋ねると、彼はたどたどしく状況を話した。
「隣の、悠斗の部屋から物音が聞こえて起きてみたら、悠斗がいないんだ。あいつがこんな時間に家を出るなんておかしい。悠那のところへは、悠那自身からこないように言われているから、あいつがその言いつけを破るはずがないし、だとするといったいどこへ――」
「落ち着いて。落ち着いてよ、桂祐くん」
「だ、だが――」
気が気ではないのだろうと感じた。妹の容体と、その妹と弟の関係。この二つを真摯に心配する彼にとって、わずかでも関連する出来事ならば大いに気にかかる。当然のことだ。
でも今回に限っては、彼がそれを僕に相談してくれたのは、非常にタイミングが良いと言える。間違いなく他の誰よりも、僕が適任だ。なぜなら僕は、うろたえる彼に対し、こんな風に答えることができるから。
「あのね、桂祐くん。たった今僕のところへ、悠那ちゃんからメールがきたんだ。きっと、悠斗くんのところにもきたんだと思うよ。だから悠斗くんは、悠那ちゃんのところへ行ったんじゃないかな」
「メールが……? 悠那から……?」
「うん。他愛のない内容だったけれど……そうだね、受け取りようによっては、会いにきてっていう意味だったのかも。だから、もし桂祐くんさえよかったら、これから彼女に会いにいかない? こんな時間だし、おかしいかもしれないけれど……何となく会える気がする」
悠斗くんを、そして僕を呼んだということは、悠那ちゃんの中で何かしらの結論が出たということだろう。可能ならば、すぐにでも是非聞いておきたい。
桂祐くんは、僕の誘いに迷いなく賛同し、これからすぐ待ち合わせて病院へ向かうことになった。
何故だろうか、胸騒ぎがする。急いだ方が良いかもしれない。僕はそう感じ、ベッドから飛び降りて外出の準備を始めた。
唯花にも忘れずに電話をする。きっとこの時間なら、ギリギリまだ起きていると思うのだ。まあ、仮にこの電話が寝ている彼女を起こすことになったとしても、要件が要件だから許されるだろう。むしろ知らせない方が、後になって何を言われるかわからないものだ。
電話は、二回ほどコールを挟んで繋がった。反応速度からして、やはりまだ寝てはいなかったとわかる。
「何よ、詞じゃない。良い子は早く寝なさいよ。こんな時間にどうしたの?」
こんな時間と、どの口が言うのだろう。言われて仕方のないことではあるが、当たり前のようにまだ起きている唯花には言われたくない台詞だ。呆れてそう突っ込みたい衝動が、ないわけではなかったが、だが今は如何せんそんな場合でもない。
僕は、極力平静を保って現状を説明した。
悠那ちゃんからメールがきたこと。その直後、桂祐くんから電話があったこと。そして悠斗くんが、おそらく悠那ちゃんのところへ向かったであろうこと。
するとすぐに、唯花は僕の考えていることをわかってくれた。こういうときの唯花の行動は、素早いものだ。的確に状況を把握し、すべきことをよく理解してものを言う。
これから唯花とも落ち合い、三人で悠那ちゃんのところへ向かうことに決まった。
僕も急ごう。騒がしくないように支度をし、感づかれないように外へ出る。家の誰かに呼び止められても面倒だ。
踏み出した外は、夜にしてはとても明るく、夏にしてはとても涼しかった。異常とさえ感じてしまうほどだ。街灯なんてなくても前がよく見えるし、全力で走っても汗だくになんてならない。
けれどもやはり、どうしても焦る気持ちは抑えられず、急げば急いだだけ呼吸は荒くなった。息を上げながら、できるだけ早く待ち合わせの指定場所を目指す。真夜中の道は走りやすい。前さえよく見えれば、横断歩道も信号も、踏切も歩道橋もお構いなしだ。僕以外に他に動くものはなく、時間の止まったファンタジーのような世界を、一人で奔走している錯覚にとらわれた。まあ、本当に時間が止まってくれるなら、今はそれに越したことはないのだけれど。
僕が集合場所まで赴くと、早くもそこには唯花が立っていた。まるで随分と前から、既にそこにいたみたいに。
さらに僕の到着とほぼ同時に、桂祐くんも現れた。彼も走ってきたのだろう。僕と同様、少し息が上がっている。
「……音瀬、さん。あなたも、一緒だったか」
どうやら、待っているのは僕だけだと思ったのだろう。少しばかり驚いていた。
「あら、ごめんなさい。ご一緒させていただくわ」
対して唯花はうろたえもせず、澄ました顔でさらりと告げる。
「ど……どうでもいいけど、何で唯花が一番早いのさ」
「それは本当にどうでもいいことね。まあ、私が一番近くに住んでいるからかしら?」
そうだろうか。いや確かに、数百メートル単位で唯花の家の方がここへは近いのかもしれないけれど。そういう問題ではない気がする。
「そんなことより、早く向かいましょう。急いだ方が良さそうじゃない? ねえ、桂祐くん?」
「あ……あぁ。そうだな」
僕らは再び、夜の道を走った。
情けないことに僕は、涼しい中でも結構バテ気味だったが、幸いこの場所から目的地までは十分近い。体力的には平気そうな表情をして走る唯花と桂祐くんに、置いて行かれなくて済みそうだった。
この時間の病院は、外も中も真っ暗だ。宿直室に明かりが灯る程度だろう。当然ながら扉は開かない。しっかりと施錠されているはずだ。
僕としては、到着したらしたでどうするのかと思っていたが、しかし結論から言えば、それについて心配はなかった。
はなから正面玄関には向かわず、走りながら桂祐くんはこう告げる。
「裏へ回ろう。多分悠斗も、そっちから入った。鍵は、開いているはずだ」
聞けば、どうやら合鍵というものがあるらしいのだ。それを悠斗くんが持ち出したと、彼は言う。実際に裏へ回れば、彼の言葉通り、扉は開いていた。
僕らはそこから建物に入る。
シンとした院内は、白い壁や床が闇色に染まっていて、廊下も階段も異様に長く感じた。外にいたときとは違って風の音がない。不気味なほど静かな院内では、自分の心臓の音だけが、唯一鼓膜を刺激する存在だった。
目指すは最上階。その端の部屋。さすがに中では走るのを控え、エレベーターも使わずに階段を上る。
僕は必死ではやる鼓動を鎮め、息を落ち着かせつつ二人に続いた。
そうしてやっとのことで悠那ちゃんの病室まで辿り着くと、静止した空気を伝って、引き戸越しに声が聞こえた。
「悠那……いきなり会ってくれなくなって……俺、驚いたよ」
「あはは……。ごめんね、悠斗」
悠斗くんと悠那ちゃんの、二人の会話だ。悠斗くんは不安を訴えるような声で、悠那ちゃんは可愛らしく愛嬌のある声で話す。二人にとっても、少々久々の会話のはずだ。いったい、何を話しているのだろうか。
「ちょっとね、考えなきゃいけないことが、あったんだよ。真剣に考えなきゃならない、大事なことがね」
「わざわざこんなに長い間、一人きりになって? 俺、すごくすごく心配だったよ……寂しかったよ……悠那……」
「長い間って、ほんの一週間ちょっとじゃないの。もう、大袈裟だよ、悠斗」
「そうだけどさ……。でも俺には、その一週間が、何十倍も長く感じられて。その間、いつもにも増して悠那のことばかり気になって。何も、何も手につかなかった」
悠斗くんの訴えは、責め立てるというよりも、ただひたすらに不安そうな様子だった。消え入りそうな、弱々しい言葉たち。それは周りがこれほどまでに静かだからこそ、辛うじて僕らにも聞き取れる。
「そう? 悠斗は私に会えないと、そんな風になっちゃうんだね」
「だ、だって……俺が生きてるのは、悠那のためだよ。悠那に会えない毎日なんて、考えられない。気が、狂いそうになる……」
相変わらずだ。相変わらずこの二人のやり取りは、姉弟然としていない。
桂祐くんは、以前こうして二人の会話を聞いたときと同様、苦い表情をしていることだろう。今は暗がりで確認はできないが、きっとそうだ。
そういえば、僕らは今、またあのときみたいに盗み聞きのようなことをしてしまっているけれども、いつになったら室内に入るのだろう。先頭を行っていた桂祐くんが扉の前で立ち止まって、以降そのままになっている。
「悠斗ったら、そんな調子で大丈夫? 夏休みの宿題はちゃんとやった? もうすぐ、学校が始まるでしょう?」
室内では、悠那ちゃんの場違いに明るい声が響く。クスクス笑いながら、穏やかに問いかける様子が目に見えるようだ。
すると、対して今度は悠斗くんも、力無くだが笑って返した。
「はは……よく言う。からかわないでよ、悠那。宿題なんてさ、学校なんてさ……どうでもいいことだって、悠那もわかってるだろう。今日、あんなメールを、俺にくれたんだから」
「っふふ。そうだね……その通りだね」
あんなメール。それは、悠斗くんをここへ呼んだときのメールだろう。僕が知りたいことが、そこにある。
悠那ちゃんの導き出した答え。
悠斗くんがここへきた理由。
二人の心の中にある思惑。
ただそれらは、僕の考えでもまったく検討がつかないわけではなかった。いくつかの選択肢として、それぞれ可能性を持って想定される未来がある。それが不安の、焦燥の、そして恐怖の種となる。
「じゃあ悠斗。もちろんそのつもりで……ここへきたんだよね?」
「当たり前さ。悠那が望むなら、俺は何処へだっていく。ここじゃない世界……天国でも地獄でも、何処だっていいよ。悠那がいれば、俺はそれだけでいいんだから」
「そっか。嬉しいな。なら確かに、学校なんてどうでもよかったね。その他のことも……うん、どうでもいいね」
中の様子は見えないのに、僕には彼らが、彼らの仕草が、手に取るように頭に浮かんだ。恍惚として見つめ合う二人。艶のある声。感じさせる背徳性。そして手を重ね、寄り添って、希望に満ちた瞳で語る。
「ねぇ……ねぇ悠斗。私たち、どんな風にいくのがいいかな? 屋上から、羽ばたくみたいに飛んだら、気持ちがいいかな。それとも、薬を口移しでもして飲んでみる? あるいは、練炭を燃やして、眠るようにいくのがいいかな。悠斗はどれがいい? ううん、もういっそのこと……刃物で互いを貫いたって、いいんだよ」
「……俺は、痛くたって苦しくたって、構いやしない。でも、最後まで、悠那と一緒が……いい」
狂気を、そのまま言い表したかのような会話だ。聞いているだけで総毛立つ。想像なんてしたら、足が竦んでしまうかもしれない。クラクラするくらい甘く、誘惑的で、頭の中を掻き回される。異質で、生々しくて、恐ろしくて、超常的だ。
「じゃあ……そうだね。そこにあるそれ……そう、そのハサミを、とってくれるかな、悠斗」
直後、物音のなかった部屋からは、フロアタイルを踏みしめる、コツコツという音がする。ゆっくりと、秒針のような一定の間隔で、悠斗くんが歩くのだ。
そしてすぐに足音は止み、刃を開くときのシャキっというステンレス擦れの音が耳に届く。
あぁ、駄目だ。止めないと。そうしないと、本当に取り返しのつかないことになる。考え得る最悪の未来が、訪れてしまう。
止めなければならない。止めるしかない。早く、早く……手遅れになる前に、早く――。
僕は脊髄反射で床に凍りつく足を引き剥がし、目の前で動かない唯花や桂祐くんを押し退けて、病室の引き戸を力一杯開け放った。
血液が沸騰したように泡立って、心臓がドクドクと鳴り、脳が弾けそうだった。一瞬で全身から汗が吹き出てくる。ヒヤリと冷たい、凍える汗が。
ガタンと響いた扉の音に、鋭利で高い金属音が重なる。誰の言葉もなく、何よりもクリアに、それは鼓膜を貫いた。
切断音。何かが思いっきり断ち切られた。
瞬間、部屋中に、その床を埋め尽くすようにして、細くて長い黒の光が舞い散ってゆく。
「やっぱり……もう、きていたんだね」
サラサラと、視界にちらつくそれは、髪だ。
「またこっそり聞いていたんでしょう? ヤな趣味してるなぁ。わかってるんだよ、お兄さん。……あぁ、それと、余計な付き人があと二人……かな」
唇をかみしめて固まった唯花。放心状態の桂祐くん。そして理解の追い付かない様子の悠斗くん。僕は必死な顔で事態の把握に苦闘をし、悠那ちゃんだけがつらつらと話す。
何が起こったのか、数秒ほど遅れて、やっとわかった。
悠那ちゃんが、自らの髪を切り落としたのだ。あの漆のように黒く、濡れたように美しい髪を、バッサリといっぺんに。そこに展開された事態の有様は、悠那ちゃん以外の四人が各々予期した事態のいずれとも異なり、誰一人として、未だに何の挙動も見せない。
僕は、悠那ちゃんがハサミを手にしたとき、それで彼女は悠斗くんを刺すと思った。殺そうとするのだと思った。もちろんこんな思考が異常だということは、自分でも十分に理解している。けれども今は、その異常な思考が妥当に当てはまるくらい、同じく異常な状況なのだ。
薄暗い室内には、仄かな月明かりだけが差し込んでいる。真っ暗の影は床に散る髪と混ざり合い、その中でハサミの刃が、銀色の光を跳ね返している。
まさに今、この場を占める空気は変化した。僕にはわかる。なぜなら、そう。この瞬間に、目の前の彼女が、纏う人格を変えたからだ。
「ゆ、悠那……? な……何を、して……」
呆然とする悠斗くんは、瞬きも忘れて目の前の光景をとらえていた。彼の表情は、まるっきり状況についていけないといった感じだ。悠那ちゃんのすぐそばにいた彼は、切り落とされて散った彼女の髪を少しばかり被っていたけれど、それを払い落とすことさえもしていない。ただただ、どうしていいのかわからないようだった。
「さて、もうみんなきちゃったことだし、下らないお芝居も、終わりかしらね」
悠那ちゃんは冷めた目で悠斗くんを見下ろし、それから僕らに視線を流した。肩口から下がそのままなくなってしまった髪の束を揺らして、毛先や袖口に絡みついた残り髪を手で軽く払いつつ、落ち着いて緩やかに首をひねる。
以前僕が出会った彼女。つまりは、“本当の”彼女が今、そこにいた。
「い……いったい、何をしているんだ。こんな……」
僕は彼女の視線に射抜かれて、やっとのことで正気と声を取り戻した。それから極めて異常な室内の様子を指して呟く。
「だって、邪魔だったんだもの。お兄さんたちも、部屋に入るきっかけができて、一石二鳥だったしょう? 着いたのなら早く入ってきてくれないとさ。もう、時間も少ないんだから」
「それは……。いや、そうじゃなくて……何をやっているんだ。悠斗くんに大切にしてもらっていた、綺麗な髪なのに」
「だから、邪魔だったのよ。鬱陶しかったの。長くて重いしまとわりつくし、いいことなんて一つもなかったんだから」
悠那ちゃんは吐き捨てるように嘲笑う表情で「やっぱり軽い方がいいわ」なんて言う。その冷めた言葉の向けられた先は、目の前で惚ける悠斗くんだ。
「あらあら悠斗。どうしたの? ぼーっとして。壊れた人形みたいに固まって、バカみたいよ?」
彼女は妖艶な雰囲気を漂わせ、クスクスと笑みを浮かべながら、悠斗くんの顔にかかっている数本の髪を払い落とす。指先で頬を撫でるように、はらりはらりと優しい手つきで。
しかし悠斗くんは、それに対して反応もせず、目の前の悠那ちゃんにガラス玉のような瞳を向けるばかり。
「悠那……どうして……。大事な髪が……」
動揺し、困惑し、事態の処理が追いついていない。あまりに信じられないといった様子だった。
それでも、そんな彼を気にすることなく、悠那ちゃんは言葉を重ね続けてゆく。穏やかな仕草と表情に、あまりにも不釣り合いな、刺のある言葉を。
「大事にしていたのは、あなただけよ」
彼女の話す様子は、まるで何かのしがらみから解き放たれたような清々しさと、達成感にも似たものを思わせた。
「そう……好きだったのは、あなただけ」
「好きだったのは……俺だけ……? どういうこと……?」
「そのままの意味よ。あなたがどんなに私を好きでも、私はあなたのことなんて好きじゃない。大嫌いだって言っているの。……気づかなかった?」
本当にバカみたいね。最後にそう付け加えるときにも、笑顔のままだ。彼女の発言は何一つとして、こんな柔らかい声が似合うようなものではない。本来ならもっと、歪んだ表情や苦々しい口調が相応しいような、そんな言葉のはずだった。彼女の言葉たちはまさに、刃のように悠斗くんを刺し貫くのに、それと対極の包み込むように温和な笑顔は、理解できる感覚の範囲を逸脱していて……気持ちの不整合、恐怖を感じさせる。
「悠那は俺のことが嫌い……? 嫌いなの……? 嫌いって……何で……?」
「嫌いだからよ。嫌いなものは嫌いなの。私にないものを全部持っているあなたが、そしてそれなのに、それを見せつけながら、平気で私に慣れついてくるあなたが、憎くて忌々しくて、仕方なかったわ」
「そんな……。俺は悠那のことが好きで、悠那も俺のことが好きだって。だから、二人一緒になれるように、この世界から出ていこうって」
「違うわ。私はあなたに、今までで一度たりとも、好きだなんて言っていない。その言葉だけは言わなかった。だって私は、あなたを殺してやりたいくらい、憎くて憎くてたまらなかったんだから。そして私の命がじきに終わるなら、あとを追うように仕向けよう。そうやって、何もかもあなたから奪ってやろう。そう思っていたの」
僕は、身体の芯からさーっと冷たくなるのを感じた。皮膚は泡立ってゾクゾクし、室内の空気がいやに敏感に、鋭く感じられた。穏やかな夏の夜のはずなのに、内蔵にまで直接、寒気が刺さる。
唯花たちもどうやら、身じろぎ一つ取れないようだった。目の前の狂気じみた光景に気圧されてしまって、指一本動かせないのかもしれない。
「ま、待って! 俺の持っているものなら、全部悠那にあげるから。悠那になら俺、何だってあげるよ。俺は、悠那さえいればいい!」
嫌いだなんて言わないで、聞きたくない。そんな悠斗くんの悲痛な叫びは、弱々しくかすれていた。歪む顔が、とても痛々しかった。
しかし、その訴えを向けられている当の悠那ちゃんは、まるで彼の声など聞こえないかのように、僕らを横目に見て話す。悠斗くんを正面に見据えているにもかかわらず、彼の言葉には一切興味がないみたいだった。
「……けどね、うるさい外野が騒ぐから、私、もう一度考え直してみたのよ。そうしたら、そんなの冗談じゃないって思えてきたわ。確かに私は悠斗のこと、殺してやりたいって思っていたけれど 、それでも、一緒に死ぬのは御免よね。死んでなおあなたと一緒だなんて、ぞっとする。さすがに私も、ちょっと耐えられそうにない」
「ゆ、悠那……」
「っふふ。でも、わかってるの、悠斗。私があなたに、こんな風に本当の気持ちを打ち明けたとしても、そんなことくらいじゃ、あなたの中の私は消えない。だってあなたは、私のことが、大好きでしょう? その心は私の虜で、私でいっぱいなんでしょう? 私以外のことなんて、あなたには見えないのだわ」
あなたの中は私だけ。彼女はそんな、恍惚とした甘い響きを連ねてゆく。うっとりするくらい艶やかな唇で、脳を麻痺させる旋律を放つ。そうして悠斗くんの頬に真っ白い雪のような手を添えながら、吐息のかかるほど近くまで顔を近づけ、囁くように、諭すように、告げるのだった。
「ねえ悠斗、もうすぐなの。もうすぐ私は、この世界での生を、終えるのよ。私の魂はこの小さな身体から解放されて、自由になる。だからね、私は一人でいくわ。あなたは間違っても、追ってなんてこないでよ。私はもう死んでしまうけれど、あなたは生きる。この世界で、その命が尽きるまで、ずーっとね」
「ずっと……生きる……?」
「そうよ、生きるの。私に置いていかれ、私のいないこの世界で、私のことを忘れられずに生きるのよ。その胸の中から、私は消えない。それどころか、どんどんどんどん大きくなる。それなのに、もう一生、あなたは私には触れられない。私と会うことも、話すこともできない」
だって私は、もうすぐ消えてしまうのだから。言い放つ悠那ちゃんは、嬉々として見えて、そして深い憐憫に満ちていて、どこか微かに哀しみを感じさせる。
「苦しいでしょうねえ。ええ、あなたにとっては、想像を絶する地獄だと思うわ。可哀想、なんて可哀想な悠斗。私は、そんなあなたが嘆きながら、ボロボロになりながら苦しんで生きる姿を、最後の最後まで、傍で見ていてあげるからね」
悠斗くんの口からは、もう言葉は出てこなかった。添えられた手一つに、身体全てを掌握されているように動かない。呼吸すらしているのか怪しいほど、石のごとく停止していた。
「ねえ悠斗? 忘れられるものなら、どうぞ忘れてごらんなさい? 決してできやしないと思うわ。だってあなたは私のもの、私はあなたの全てだもの。だから私は、ずーっとあなたを見ているわ。あなたのすぐ、隣でね」
そして悠那ちゃんは、儚くも満足気な笑顔を浮かべ、まるで内緒話をするかのように、悠斗くんの耳元へ口を近づける。一言だけ、今にも消え入りそうな、絹のように細い声を紡ぐ。
その声は悠那ちゃんの羽織る衣擦れの音に混じって僕らにも届き、同時に彼女の行為に意識を集める。彼女はゆっくりと腰を浮かし、もたれかかるようにして悠斗くんを抱き寄せながら、そのまま、口づけをしたのだった。
それは、以前僕らが覗き見たときのような、深々としたものではなかった。微かな水音さえ聞こえない、まるで儀式のように神聖な、唇が触れるだけのキス。
このとき僕はその姿を目の当たりにして、感じてしまった。目の前にある光景が、まるで重厚な額縁に納められた名画のように美しく、さらには神々しくすらあると。
二人の身体は光に包まれ、超常的な感覚さえ味あわされる。僕がまだ知らない感情。心。そういう不思議な、異質な想いを。
行為は、時間にして約数秒。やがて二人の唇は離れ、悠那ちゃんは、悠斗くんに重なるようにして寄りかかり、首に回した両腕に力を込める。弱々しくも、強い意志を滲ませて。
「じゃあね。バイバイ、悠斗」
言葉は、それ自体はとてもはっきりとしているのに、掠れて消えてしまいそうな印象だった。透き通った至純。胸を切り裂く哀切。生々しい憎悪。きっとそういった、様々な感情を含んでいる。絵の具を混ぜたように幾重にも溶け合い、見るもの全てを魅了する感情を、描いている。
彼女は艶やかに微笑み、最後に呟いた。
「大好きよ――」
そこには、愛という感情も、含まれているのだろうか。仄かに囁かれたのは、それを是とも否とも断言できない複雑な声色で、思考の止まった僕の頭の中を、何度も何度も反響した。
それっきり、悠那ちゃんは動かなかった。魂が抜け落ちたかのように力なく、脚からも、腰からも首からも、悠斗くんを抱く腕からさえも、何も感じない。
おそらく一番近くにいた悠斗くんが、誰よりも早く察知したことだろう。ゆっくりと、けれども一度始まってしまったら収まらず、小刻みに彼は震え出す。怯えるようにカタカタと揺れ、油の切れたロボットのようにぎこちなく動いて。彼が悠那ちゃんを起こそうとして、肩を揺すっても、背を叩いても、しかし反応は一切なかった。
「悠那……。悠那っ! 起きてよ悠那!」
僕らは悟る。彼女にはもう、何も届いていないのだと。
悠斗くんは、忘れていた呼吸を取り戻すかのようにハァハァと肺を働かせ、突然に動揺を表しながら、悠那ちゃんへの呼びかけを繰り返した。そしてなおも返答がないとわかると、彼女をベッドに再び寝かせて、縋りながら名前を叫んだ。
「悠那っ! 起きて悠那! 目を覚ましてっ!!」
悠那ちゃんはもう此処にはいない。此処には、つまりこの世界には、もういない。だから何度呼びかけても、返事は、あるはずがなかった。
「どうして……どうして俺を置いていくの、悠那。お願いだから、答えて……答えてよ!」
語調は次第に激しくなるも、それはひたすらに虚しく響くばかりだった。
「悠那、待って! 俺も、一緒に……。ぁあ……あぁあああぁぁあああぁ――――!」
今この場所で、僕らが彼にかけられる言葉なんて、いったい何があるだろう。慰めも同情も、彼の悲哀と慟哭を誘うだけだろう。
僕らにできることは、千切れるような声を出して叫ぶ彼を、黙って見ていることだけだった。
彼は、自身と悠那ちゃんを照らす薄青い月の光が、明るく白んだ陽の光に変わろうかというまで、ただただずっと泣き続けていた。そうやって泣きじゃくり、ベッドシーツに顔を擦り付け、悠那ちゃんの綺麗な寝顔を抱き寄せながら、声を詰まらせて涙を零した。
耐え難い現実に直面し、最愛の人を失った彼は、いったい何を思うのだろう。そしてその最愛の人から、地獄のような現実での生を強いられた彼は、いったい何を感じるのだろう。きっと胸を貫かれるように、抉られるように辛いことだと、僕にはそれだけがわかった。
悠那ちゃんは、悠斗くんに生きろと告げた。ともに死のうと誓った相手に、最後の最後で生きろと言い残し、一人で逝った。悠斗くんを自分のものだと言い、彼の唯一の存在になり、魂の片割れとも思わせるほどに愛させて、たった一人で逝ったのだ。
彼女は、悠斗くんの全てだった。失うには、あまりに大切すぎる人だった。
もうこの世界で、この時より先に、彼女の声を聞くことは出来ない。彼女の笑う顔も、見られない。
そしてそれは、僕らにとっても同じことだ。
悠斗くんの抱く深い絶望が、僕の心にも余波となって深く届く。不安が、恐怖が、胸をよぎる。
以後悠斗くんは、そして僕らは、これから先悠那ちゃんのことを考える度に、彼女がもう自分と同じ世界にはいないことを実感し、思い知らされるのだろう。日々の中でそんな思いを抱いていくことだろう。
わずかに明るくなりかけてきた部屋で、冷えた空気は次第に夏らしい本来の熱を取り戻していく。まるでさきほどまで、この場所が外界から切り離されていて、立った今、元の病室に戻ったみたいに。
こうして僕らは、耽美で残酷な夜を終えて、光り輝く凄惨な暁を迎えた。ここにいる皆、悠那ちゃんの死から一時も目を離すことができず、ただ彼女を見つめたまま、それぞれ複雑に胸を痛めて、悲哀を照らす太陽の光を浴びていた。
唯花は最近、顔を合わせれば病院へ行こうとばかり言う。僕が悠那ちゃんと会った最後の日の伝言を、既に唯花にも伝えてはいたが、それでもなお唯花は様子を見に行こうと何度も言った。おそらく彼女なりに心配をしているのだろうが、対して僕は、その都度真剣な表情で返答をするのだった。もう少しだけ待ってみよう、と。
ただ、最初はまだ良かったものだが、次第になかなか厳しくなってきた感じもある。時間が経つにつれて、唯花の提案は頻度を増し、僕の制止も曖昧になってきていた。
唯花はもちろんのことだろうが、僕自身も、不安に思う気持ちを隠せなくなっている。
僕が悠那ちゃんの姿をこの目に最後に収めてから、今日まで期間としては一週間が経っていた。決して、長くはない。だがそれでも、彼女の場合は事情が事情。軽くはない病気を抱えた状態で、放っておくには短くもなかった。
夏休みは、もうすぐ終わる。もう、残すところ数日だ。
気持ちを切り替えるのも少々億劫に感じながら、暖炉の残り火を眺めるような名残惜しい気持ちで、僕は日々を消化するしかない。眈々と、待つことだけを心に決めて。
そして、ある夜。そのときは訪れたのだった。
夜といっても既に午前。正確には深夜と呼ぶべき時間帯。僕の枕元で、携帯のチープな着信音が鳴り響く。
「……また唯花か。まったく……メールだからって、時間なんかお構いなしなんだから……」
当然のようにベッドで寝入っていた僕は、その音に目を覚ましつつ、ぼやきながら携帯を手にとった。どうせくだらない要件なのだ。そう思って。
けれども、そこに浮かび上がった薄明るい小さな画素の集合体は、僕の脳に即座に飛び込み、急速に覚醒を促した。携帯を持つ右手も、投げ出した両の足も、画面を見つめる眼球も硬直して、届いたメールの文章だけが頭の中でぐるぐると回る。
そこには一言、こうあった。
『今夜は月が綺麗です。こんな夜には、またあなたとお話がしたくなりました。』
彼女が、悠那ちゃんが呼んでいるとわかった。
連絡はできるだけ早い方が良いと思い先日アドレスを交換しておいたのだが、結局これが彼女との初めてのメールとなる。彼女も、メールの時間はあまり気にしない性格のようだ。
ふと窓から空を仰ぐと、なるほどその通りだった。星のない漆黒の背景に一つ、極めて目を惹く明るい三日月が浮いている。僕と彼女が出会った日の、あの儚気な白い月にそっくりだった。
僕はすぐに『いつでも構わないよ』という返信をしようとした。ゆっくりと親指を動かし、文を打ちこんでゆく。
しかしそこで、メールの文が完成するよりも早く、また携帯が震えた。それも今度は、メールではなく電話の着信だ。
「も、もしもし、詞くんか? 寝ていただろうが、こんな時間に……済まない」
突然の電話の相手は桂祐くんだった。
意外な相手だ。いや、もっと言えば妙でもある。彼がこんな、常識的とはとても言えない時間に電話を寄越すなんて、いったいどうしたのだろうか。
「うん、僕だよ。大丈夫。それより、何かあった?」
彼の声は、電話越しにでもわかるくらい慌てていた。彼は普段から冷静な人だが、今は動揺を抑えようとしてそれが上手くいかないような、そんな複雑な声色だった。
僕が尋ねると、彼はたどたどしく状況を話した。
「隣の、悠斗の部屋から物音が聞こえて起きてみたら、悠斗がいないんだ。あいつがこんな時間に家を出るなんておかしい。悠那のところへは、悠那自身からこないように言われているから、あいつがその言いつけを破るはずがないし、だとするといったいどこへ――」
「落ち着いて。落ち着いてよ、桂祐くん」
「だ、だが――」
気が気ではないのだろうと感じた。妹の容体と、その妹と弟の関係。この二つを真摯に心配する彼にとって、わずかでも関連する出来事ならば大いに気にかかる。当然のことだ。
でも今回に限っては、彼がそれを僕に相談してくれたのは、非常にタイミングが良いと言える。間違いなく他の誰よりも、僕が適任だ。なぜなら僕は、うろたえる彼に対し、こんな風に答えることができるから。
「あのね、桂祐くん。たった今僕のところへ、悠那ちゃんからメールがきたんだ。きっと、悠斗くんのところにもきたんだと思うよ。だから悠斗くんは、悠那ちゃんのところへ行ったんじゃないかな」
「メールが……? 悠那から……?」
「うん。他愛のない内容だったけれど……そうだね、受け取りようによっては、会いにきてっていう意味だったのかも。だから、もし桂祐くんさえよかったら、これから彼女に会いにいかない? こんな時間だし、おかしいかもしれないけれど……何となく会える気がする」
悠斗くんを、そして僕を呼んだということは、悠那ちゃんの中で何かしらの結論が出たということだろう。可能ならば、すぐにでも是非聞いておきたい。
桂祐くんは、僕の誘いに迷いなく賛同し、これからすぐ待ち合わせて病院へ向かうことになった。
何故だろうか、胸騒ぎがする。急いだ方が良いかもしれない。僕はそう感じ、ベッドから飛び降りて外出の準備を始めた。
唯花にも忘れずに電話をする。きっとこの時間なら、ギリギリまだ起きていると思うのだ。まあ、仮にこの電話が寝ている彼女を起こすことになったとしても、要件が要件だから許されるだろう。むしろ知らせない方が、後になって何を言われるかわからないものだ。
電話は、二回ほどコールを挟んで繋がった。反応速度からして、やはりまだ寝てはいなかったとわかる。
「何よ、詞じゃない。良い子は早く寝なさいよ。こんな時間にどうしたの?」
こんな時間と、どの口が言うのだろう。言われて仕方のないことではあるが、当たり前のようにまだ起きている唯花には言われたくない台詞だ。呆れてそう突っ込みたい衝動が、ないわけではなかったが、だが今は如何せんそんな場合でもない。
僕は、極力平静を保って現状を説明した。
悠那ちゃんからメールがきたこと。その直後、桂祐くんから電話があったこと。そして悠斗くんが、おそらく悠那ちゃんのところへ向かったであろうこと。
するとすぐに、唯花は僕の考えていることをわかってくれた。こういうときの唯花の行動は、素早いものだ。的確に状況を把握し、すべきことをよく理解してものを言う。
これから唯花とも落ち合い、三人で悠那ちゃんのところへ向かうことに決まった。
僕も急ごう。騒がしくないように支度をし、感づかれないように外へ出る。家の誰かに呼び止められても面倒だ。
踏み出した外は、夜にしてはとても明るく、夏にしてはとても涼しかった。異常とさえ感じてしまうほどだ。街灯なんてなくても前がよく見えるし、全力で走っても汗だくになんてならない。
けれどもやはり、どうしても焦る気持ちは抑えられず、急げば急いだだけ呼吸は荒くなった。息を上げながら、できるだけ早く待ち合わせの指定場所を目指す。真夜中の道は走りやすい。前さえよく見えれば、横断歩道も信号も、踏切も歩道橋もお構いなしだ。僕以外に他に動くものはなく、時間の止まったファンタジーのような世界を、一人で奔走している錯覚にとらわれた。まあ、本当に時間が止まってくれるなら、今はそれに越したことはないのだけれど。
僕が集合場所まで赴くと、早くもそこには唯花が立っていた。まるで随分と前から、既にそこにいたみたいに。
さらに僕の到着とほぼ同時に、桂祐くんも現れた。彼も走ってきたのだろう。僕と同様、少し息が上がっている。
「……音瀬、さん。あなたも、一緒だったか」
どうやら、待っているのは僕だけだと思ったのだろう。少しばかり驚いていた。
「あら、ごめんなさい。ご一緒させていただくわ」
対して唯花はうろたえもせず、澄ました顔でさらりと告げる。
「ど……どうでもいいけど、何で唯花が一番早いのさ」
「それは本当にどうでもいいことね。まあ、私が一番近くに住んでいるからかしら?」
そうだろうか。いや確かに、数百メートル単位で唯花の家の方がここへは近いのかもしれないけれど。そういう問題ではない気がする。
「そんなことより、早く向かいましょう。急いだ方が良さそうじゃない? ねえ、桂祐くん?」
「あ……あぁ。そうだな」
僕らは再び、夜の道を走った。
情けないことに僕は、涼しい中でも結構バテ気味だったが、幸いこの場所から目的地までは十分近い。体力的には平気そうな表情をして走る唯花と桂祐くんに、置いて行かれなくて済みそうだった。
この時間の病院は、外も中も真っ暗だ。宿直室に明かりが灯る程度だろう。当然ながら扉は開かない。しっかりと施錠されているはずだ。
僕としては、到着したらしたでどうするのかと思っていたが、しかし結論から言えば、それについて心配はなかった。
はなから正面玄関には向かわず、走りながら桂祐くんはこう告げる。
「裏へ回ろう。多分悠斗も、そっちから入った。鍵は、開いているはずだ」
聞けば、どうやら合鍵というものがあるらしいのだ。それを悠斗くんが持ち出したと、彼は言う。実際に裏へ回れば、彼の言葉通り、扉は開いていた。
僕らはそこから建物に入る。
シンとした院内は、白い壁や床が闇色に染まっていて、廊下も階段も異様に長く感じた。外にいたときとは違って風の音がない。不気味なほど静かな院内では、自分の心臓の音だけが、唯一鼓膜を刺激する存在だった。
目指すは最上階。その端の部屋。さすがに中では走るのを控え、エレベーターも使わずに階段を上る。
僕は必死ではやる鼓動を鎮め、息を落ち着かせつつ二人に続いた。
そうしてやっとのことで悠那ちゃんの病室まで辿り着くと、静止した空気を伝って、引き戸越しに声が聞こえた。
「悠那……いきなり会ってくれなくなって……俺、驚いたよ」
「あはは……。ごめんね、悠斗」
悠斗くんと悠那ちゃんの、二人の会話だ。悠斗くんは不安を訴えるような声で、悠那ちゃんは可愛らしく愛嬌のある声で話す。二人にとっても、少々久々の会話のはずだ。いったい、何を話しているのだろうか。
「ちょっとね、考えなきゃいけないことが、あったんだよ。真剣に考えなきゃならない、大事なことがね」
「わざわざこんなに長い間、一人きりになって? 俺、すごくすごく心配だったよ……寂しかったよ……悠那……」
「長い間って、ほんの一週間ちょっとじゃないの。もう、大袈裟だよ、悠斗」
「そうだけどさ……。でも俺には、その一週間が、何十倍も長く感じられて。その間、いつもにも増して悠那のことばかり気になって。何も、何も手につかなかった」
悠斗くんの訴えは、責め立てるというよりも、ただひたすらに不安そうな様子だった。消え入りそうな、弱々しい言葉たち。それは周りがこれほどまでに静かだからこそ、辛うじて僕らにも聞き取れる。
「そう? 悠斗は私に会えないと、そんな風になっちゃうんだね」
「だ、だって……俺が生きてるのは、悠那のためだよ。悠那に会えない毎日なんて、考えられない。気が、狂いそうになる……」
相変わらずだ。相変わらずこの二人のやり取りは、姉弟然としていない。
桂祐くんは、以前こうして二人の会話を聞いたときと同様、苦い表情をしていることだろう。今は暗がりで確認はできないが、きっとそうだ。
そういえば、僕らは今、またあのときみたいに盗み聞きのようなことをしてしまっているけれども、いつになったら室内に入るのだろう。先頭を行っていた桂祐くんが扉の前で立ち止まって、以降そのままになっている。
「悠斗ったら、そんな調子で大丈夫? 夏休みの宿題はちゃんとやった? もうすぐ、学校が始まるでしょう?」
室内では、悠那ちゃんの場違いに明るい声が響く。クスクス笑いながら、穏やかに問いかける様子が目に見えるようだ。
すると、対して今度は悠斗くんも、力無くだが笑って返した。
「はは……よく言う。からかわないでよ、悠那。宿題なんてさ、学校なんてさ……どうでもいいことだって、悠那もわかってるだろう。今日、あんなメールを、俺にくれたんだから」
「っふふ。そうだね……その通りだね」
あんなメール。それは、悠斗くんをここへ呼んだときのメールだろう。僕が知りたいことが、そこにある。
悠那ちゃんの導き出した答え。
悠斗くんがここへきた理由。
二人の心の中にある思惑。
ただそれらは、僕の考えでもまったく検討がつかないわけではなかった。いくつかの選択肢として、それぞれ可能性を持って想定される未来がある。それが不安の、焦燥の、そして恐怖の種となる。
「じゃあ悠斗。もちろんそのつもりで……ここへきたんだよね?」
「当たり前さ。悠那が望むなら、俺は何処へだっていく。ここじゃない世界……天国でも地獄でも、何処だっていいよ。悠那がいれば、俺はそれだけでいいんだから」
「そっか。嬉しいな。なら確かに、学校なんてどうでもよかったね。その他のことも……うん、どうでもいいね」
中の様子は見えないのに、僕には彼らが、彼らの仕草が、手に取るように頭に浮かんだ。恍惚として見つめ合う二人。艶のある声。感じさせる背徳性。そして手を重ね、寄り添って、希望に満ちた瞳で語る。
「ねぇ……ねぇ悠斗。私たち、どんな風にいくのがいいかな? 屋上から、羽ばたくみたいに飛んだら、気持ちがいいかな。それとも、薬を口移しでもして飲んでみる? あるいは、練炭を燃やして、眠るようにいくのがいいかな。悠斗はどれがいい? ううん、もういっそのこと……刃物で互いを貫いたって、いいんだよ」
「……俺は、痛くたって苦しくたって、構いやしない。でも、最後まで、悠那と一緒が……いい」
狂気を、そのまま言い表したかのような会話だ。聞いているだけで総毛立つ。想像なんてしたら、足が竦んでしまうかもしれない。クラクラするくらい甘く、誘惑的で、頭の中を掻き回される。異質で、生々しくて、恐ろしくて、超常的だ。
「じゃあ……そうだね。そこにあるそれ……そう、そのハサミを、とってくれるかな、悠斗」
直後、物音のなかった部屋からは、フロアタイルを踏みしめる、コツコツという音がする。ゆっくりと、秒針のような一定の間隔で、悠斗くんが歩くのだ。
そしてすぐに足音は止み、刃を開くときのシャキっというステンレス擦れの音が耳に届く。
あぁ、駄目だ。止めないと。そうしないと、本当に取り返しのつかないことになる。考え得る最悪の未来が、訪れてしまう。
止めなければならない。止めるしかない。早く、早く……手遅れになる前に、早く――。
僕は脊髄反射で床に凍りつく足を引き剥がし、目の前で動かない唯花や桂祐くんを押し退けて、病室の引き戸を力一杯開け放った。
血液が沸騰したように泡立って、心臓がドクドクと鳴り、脳が弾けそうだった。一瞬で全身から汗が吹き出てくる。ヒヤリと冷たい、凍える汗が。
ガタンと響いた扉の音に、鋭利で高い金属音が重なる。誰の言葉もなく、何よりもクリアに、それは鼓膜を貫いた。
切断音。何かが思いっきり断ち切られた。
瞬間、部屋中に、その床を埋め尽くすようにして、細くて長い黒の光が舞い散ってゆく。
「やっぱり……もう、きていたんだね」
サラサラと、視界にちらつくそれは、髪だ。
「またこっそり聞いていたんでしょう? ヤな趣味してるなぁ。わかってるんだよ、お兄さん。……あぁ、それと、余計な付き人があと二人……かな」
唇をかみしめて固まった唯花。放心状態の桂祐くん。そして理解の追い付かない様子の悠斗くん。僕は必死な顔で事態の把握に苦闘をし、悠那ちゃんだけがつらつらと話す。
何が起こったのか、数秒ほど遅れて、やっとわかった。
悠那ちゃんが、自らの髪を切り落としたのだ。あの漆のように黒く、濡れたように美しい髪を、バッサリといっぺんに。そこに展開された事態の有様は、悠那ちゃん以外の四人が各々予期した事態のいずれとも異なり、誰一人として、未だに何の挙動も見せない。
僕は、悠那ちゃんがハサミを手にしたとき、それで彼女は悠斗くんを刺すと思った。殺そうとするのだと思った。もちろんこんな思考が異常だということは、自分でも十分に理解している。けれども今は、その異常な思考が妥当に当てはまるくらい、同じく異常な状況なのだ。
薄暗い室内には、仄かな月明かりだけが差し込んでいる。真っ暗の影は床に散る髪と混ざり合い、その中でハサミの刃が、銀色の光を跳ね返している。
まさに今、この場を占める空気は変化した。僕にはわかる。なぜなら、そう。この瞬間に、目の前の彼女が、纏う人格を変えたからだ。
「ゆ、悠那……? な……何を、して……」
呆然とする悠斗くんは、瞬きも忘れて目の前の光景をとらえていた。彼の表情は、まるっきり状況についていけないといった感じだ。悠那ちゃんのすぐそばにいた彼は、切り落とされて散った彼女の髪を少しばかり被っていたけれど、それを払い落とすことさえもしていない。ただただ、どうしていいのかわからないようだった。
「さて、もうみんなきちゃったことだし、下らないお芝居も、終わりかしらね」
悠那ちゃんは冷めた目で悠斗くんを見下ろし、それから僕らに視線を流した。肩口から下がそのままなくなってしまった髪の束を揺らして、毛先や袖口に絡みついた残り髪を手で軽く払いつつ、落ち着いて緩やかに首をひねる。
以前僕が出会った彼女。つまりは、“本当の”彼女が今、そこにいた。
「い……いったい、何をしているんだ。こんな……」
僕は彼女の視線に射抜かれて、やっとのことで正気と声を取り戻した。それから極めて異常な室内の様子を指して呟く。
「だって、邪魔だったんだもの。お兄さんたちも、部屋に入るきっかけができて、一石二鳥だったしょう? 着いたのなら早く入ってきてくれないとさ。もう、時間も少ないんだから」
「それは……。いや、そうじゃなくて……何をやっているんだ。悠斗くんに大切にしてもらっていた、綺麗な髪なのに」
「だから、邪魔だったのよ。鬱陶しかったの。長くて重いしまとわりつくし、いいことなんて一つもなかったんだから」
悠那ちゃんは吐き捨てるように嘲笑う表情で「やっぱり軽い方がいいわ」なんて言う。その冷めた言葉の向けられた先は、目の前で惚ける悠斗くんだ。
「あらあら悠斗。どうしたの? ぼーっとして。壊れた人形みたいに固まって、バカみたいよ?」
彼女は妖艶な雰囲気を漂わせ、クスクスと笑みを浮かべながら、悠斗くんの顔にかかっている数本の髪を払い落とす。指先で頬を撫でるように、はらりはらりと優しい手つきで。
しかし悠斗くんは、それに対して反応もせず、目の前の悠那ちゃんにガラス玉のような瞳を向けるばかり。
「悠那……どうして……。大事な髪が……」
動揺し、困惑し、事態の処理が追いついていない。あまりに信じられないといった様子だった。
それでも、そんな彼を気にすることなく、悠那ちゃんは言葉を重ね続けてゆく。穏やかな仕草と表情に、あまりにも不釣り合いな、刺のある言葉を。
「大事にしていたのは、あなただけよ」
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「そう……好きだったのは、あなただけ」
「好きだったのは……俺だけ……? どういうこと……?」
「そのままの意味よ。あなたがどんなに私を好きでも、私はあなたのことなんて好きじゃない。大嫌いだって言っているの。……気づかなかった?」
本当にバカみたいね。最後にそう付け加えるときにも、笑顔のままだ。彼女の発言は何一つとして、こんな柔らかい声が似合うようなものではない。本来ならもっと、歪んだ表情や苦々しい口調が相応しいような、そんな言葉のはずだった。彼女の言葉たちはまさに、刃のように悠斗くんを刺し貫くのに、それと対極の包み込むように温和な笑顔は、理解できる感覚の範囲を逸脱していて……気持ちの不整合、恐怖を感じさせる。
「悠那は俺のことが嫌い……? 嫌いなの……? 嫌いって……何で……?」
「嫌いだからよ。嫌いなものは嫌いなの。私にないものを全部持っているあなたが、そしてそれなのに、それを見せつけながら、平気で私に慣れついてくるあなたが、憎くて忌々しくて、仕方なかったわ」
「そんな……。俺は悠那のことが好きで、悠那も俺のことが好きだって。だから、二人一緒になれるように、この世界から出ていこうって」
「違うわ。私はあなたに、今までで一度たりとも、好きだなんて言っていない。その言葉だけは言わなかった。だって私は、あなたを殺してやりたいくらい、憎くて憎くてたまらなかったんだから。そして私の命がじきに終わるなら、あとを追うように仕向けよう。そうやって、何もかもあなたから奪ってやろう。そう思っていたの」
僕は、身体の芯からさーっと冷たくなるのを感じた。皮膚は泡立ってゾクゾクし、室内の空気がいやに敏感に、鋭く感じられた。穏やかな夏の夜のはずなのに、内蔵にまで直接、寒気が刺さる。
唯花たちもどうやら、身じろぎ一つ取れないようだった。目の前の狂気じみた光景に気圧されてしまって、指一本動かせないのかもしれない。
「ま、待って! 俺の持っているものなら、全部悠那にあげるから。悠那になら俺、何だってあげるよ。俺は、悠那さえいればいい!」
嫌いだなんて言わないで、聞きたくない。そんな悠斗くんの悲痛な叫びは、弱々しくかすれていた。歪む顔が、とても痛々しかった。
しかし、その訴えを向けられている当の悠那ちゃんは、まるで彼の声など聞こえないかのように、僕らを横目に見て話す。悠斗くんを正面に見据えているにもかかわらず、彼の言葉には一切興味がないみたいだった。
「……けどね、うるさい外野が騒ぐから、私、もう一度考え直してみたのよ。そうしたら、そんなの冗談じゃないって思えてきたわ。確かに私は悠斗のこと、殺してやりたいって思っていたけれど 、それでも、一緒に死ぬのは御免よね。死んでなおあなたと一緒だなんて、ぞっとする。さすがに私も、ちょっと耐えられそうにない」
「ゆ、悠那……」
「っふふ。でも、わかってるの、悠斗。私があなたに、こんな風に本当の気持ちを打ち明けたとしても、そんなことくらいじゃ、あなたの中の私は消えない。だってあなたは、私のことが、大好きでしょう? その心は私の虜で、私でいっぱいなんでしょう? 私以外のことなんて、あなたには見えないのだわ」
あなたの中は私だけ。彼女はそんな、恍惚とした甘い響きを連ねてゆく。うっとりするくらい艶やかな唇で、脳を麻痺させる旋律を放つ。そうして悠斗くんの頬に真っ白い雪のような手を添えながら、吐息のかかるほど近くまで顔を近づけ、囁くように、諭すように、告げるのだった。
「ねえ悠斗、もうすぐなの。もうすぐ私は、この世界での生を、終えるのよ。私の魂はこの小さな身体から解放されて、自由になる。だからね、私は一人でいくわ。あなたは間違っても、追ってなんてこないでよ。私はもう死んでしまうけれど、あなたは生きる。この世界で、その命が尽きるまで、ずーっとね」
「ずっと……生きる……?」
「そうよ、生きるの。私に置いていかれ、私のいないこの世界で、私のことを忘れられずに生きるのよ。その胸の中から、私は消えない。それどころか、どんどんどんどん大きくなる。それなのに、もう一生、あなたは私には触れられない。私と会うことも、話すこともできない」
だって私は、もうすぐ消えてしまうのだから。言い放つ悠那ちゃんは、嬉々として見えて、そして深い憐憫に満ちていて、どこか微かに哀しみを感じさせる。
「苦しいでしょうねえ。ええ、あなたにとっては、想像を絶する地獄だと思うわ。可哀想、なんて可哀想な悠斗。私は、そんなあなたが嘆きながら、ボロボロになりながら苦しんで生きる姿を、最後の最後まで、傍で見ていてあげるからね」
悠斗くんの口からは、もう言葉は出てこなかった。添えられた手一つに、身体全てを掌握されているように動かない。呼吸すらしているのか怪しいほど、石のごとく停止していた。
「ねえ悠斗? 忘れられるものなら、どうぞ忘れてごらんなさい? 決してできやしないと思うわ。だってあなたは私のもの、私はあなたの全てだもの。だから私は、ずーっとあなたを見ているわ。あなたのすぐ、隣でね」
そして悠那ちゃんは、儚くも満足気な笑顔を浮かべ、まるで内緒話をするかのように、悠斗くんの耳元へ口を近づける。一言だけ、今にも消え入りそうな、絹のように細い声を紡ぐ。
その声は悠那ちゃんの羽織る衣擦れの音に混じって僕らにも届き、同時に彼女の行為に意識を集める。彼女はゆっくりと腰を浮かし、もたれかかるようにして悠斗くんを抱き寄せながら、そのまま、口づけをしたのだった。
それは、以前僕らが覗き見たときのような、深々としたものではなかった。微かな水音さえ聞こえない、まるで儀式のように神聖な、唇が触れるだけのキス。
このとき僕はその姿を目の当たりにして、感じてしまった。目の前にある光景が、まるで重厚な額縁に納められた名画のように美しく、さらには神々しくすらあると。
二人の身体は光に包まれ、超常的な感覚さえ味あわされる。僕がまだ知らない感情。心。そういう不思議な、異質な想いを。
行為は、時間にして約数秒。やがて二人の唇は離れ、悠那ちゃんは、悠斗くんに重なるようにして寄りかかり、首に回した両腕に力を込める。弱々しくも、強い意志を滲ませて。
「じゃあね。バイバイ、悠斗」
言葉は、それ自体はとてもはっきりとしているのに、掠れて消えてしまいそうな印象だった。透き通った至純。胸を切り裂く哀切。生々しい憎悪。きっとそういった、様々な感情を含んでいる。絵の具を混ぜたように幾重にも溶け合い、見るもの全てを魅了する感情を、描いている。
彼女は艶やかに微笑み、最後に呟いた。
「大好きよ――」
そこには、愛という感情も、含まれているのだろうか。仄かに囁かれたのは、それを是とも否とも断言できない複雑な声色で、思考の止まった僕の頭の中を、何度も何度も反響した。
それっきり、悠那ちゃんは動かなかった。魂が抜け落ちたかのように力なく、脚からも、腰からも首からも、悠斗くんを抱く腕からさえも、何も感じない。
おそらく一番近くにいた悠斗くんが、誰よりも早く察知したことだろう。ゆっくりと、けれども一度始まってしまったら収まらず、小刻みに彼は震え出す。怯えるようにカタカタと揺れ、油の切れたロボットのようにぎこちなく動いて。彼が悠那ちゃんを起こそうとして、肩を揺すっても、背を叩いても、しかし反応は一切なかった。
「悠那……。悠那っ! 起きてよ悠那!」
僕らは悟る。彼女にはもう、何も届いていないのだと。
悠斗くんは、忘れていた呼吸を取り戻すかのようにハァハァと肺を働かせ、突然に動揺を表しながら、悠那ちゃんへの呼びかけを繰り返した。そしてなおも返答がないとわかると、彼女をベッドに再び寝かせて、縋りながら名前を叫んだ。
「悠那っ! 起きて悠那! 目を覚ましてっ!!」
悠那ちゃんはもう此処にはいない。此処には、つまりこの世界には、もういない。だから何度呼びかけても、返事は、あるはずがなかった。
「どうして……どうして俺を置いていくの、悠那。お願いだから、答えて……答えてよ!」
語調は次第に激しくなるも、それはひたすらに虚しく響くばかりだった。
「悠那、待って! 俺も、一緒に……。ぁあ……あぁあああぁぁあああぁ――――!」
今この場所で、僕らが彼にかけられる言葉なんて、いったい何があるだろう。慰めも同情も、彼の悲哀と慟哭を誘うだけだろう。
僕らにできることは、千切れるような声を出して叫ぶ彼を、黙って見ていることだけだった。
彼は、自身と悠那ちゃんを照らす薄青い月の光が、明るく白んだ陽の光に変わろうかというまで、ただただずっと泣き続けていた。そうやって泣きじゃくり、ベッドシーツに顔を擦り付け、悠那ちゃんの綺麗な寝顔を抱き寄せながら、声を詰まらせて涙を零した。
耐え難い現実に直面し、最愛の人を失った彼は、いったい何を思うのだろう。そしてその最愛の人から、地獄のような現実での生を強いられた彼は、いったい何を感じるのだろう。きっと胸を貫かれるように、抉られるように辛いことだと、僕にはそれだけがわかった。
悠那ちゃんは、悠斗くんに生きろと告げた。ともに死のうと誓った相手に、最後の最後で生きろと言い残し、一人で逝った。悠斗くんを自分のものだと言い、彼の唯一の存在になり、魂の片割れとも思わせるほどに愛させて、たった一人で逝ったのだ。
彼女は、悠斗くんの全てだった。失うには、あまりに大切すぎる人だった。
もうこの世界で、この時より先に、彼女の声を聞くことは出来ない。彼女の笑う顔も、見られない。
そしてそれは、僕らにとっても同じことだ。
悠斗くんの抱く深い絶望が、僕の心にも余波となって深く届く。不安が、恐怖が、胸をよぎる。
以後悠斗くんは、そして僕らは、これから先悠那ちゃんのことを考える度に、彼女がもう自分と同じ世界にはいないことを実感し、思い知らされるのだろう。日々の中でそんな思いを抱いていくことだろう。
わずかに明るくなりかけてきた部屋で、冷えた空気は次第に夏らしい本来の熱を取り戻していく。まるでさきほどまで、この場所が外界から切り離されていて、立った今、元の病室に戻ったみたいに。
こうして僕らは、耽美で残酷な夜を終えて、光り輝く凄惨な暁を迎えた。ここにいる皆、悠那ちゃんの死から一時も目を離すことができず、ただ彼女を見つめたまま、それぞれ複雑に胸を痛めて、悲哀を照らす太陽の光を浴びていた。
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