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三章 また、いつか
3 二〇二四 長月―末
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いつ頃からだろうか。厳しかった夏の残暑は、ある日を境にパタリと止んだ。
そしておそらく今頃は、この街の誰もが感じていることだろう。秋がきたのだと。あの華やかで騒がしかった夏という季節は、もう去ってしまったのだと。
終わってしまうと、途端に名残惜しい気がしてならないものだった。
そんなことを思いつつ僕は、街の中心街の一角にある、お洒落なカフェの扉を開いた。初めて訪れる場所だった。
カランカランと高く鳴るドアベルの音と同時に、清潔そうな身なりのウェイトレスさんが僕を出迎える。
「いらっしゃいませ。お一人様でございますか?」
「い、いえ、知り合いがいると思うのですが……」
「では失礼ですが、その方のお名前を、お教え頂けますか?」
僕は変に緊張しながら名前を答えた。「音瀬です」と。
そうしてすぐに通された窓際の席には、既にコーヒーが二人分用意されていた。どちらのカップからも、湯気が立ち昇っている。
「こんにちは、灯華さん」
「おー、そろそろくる頃だと思っていたよ」
「窓から見えましたか」
「なんだ、ばれていたか。まあ、とりあえず飲め。今日は私の奢りだよ」
口に含んだコーヒーは、舌の上で溶けるように広がった。ほのかな苦みが心地良い。店の雰囲気のせいもあるのだろうか、それは一味も二味も違うように思える。
この場所から見えるガラス越しの街並みは、悪くなかった。
「珍しいですね、今日は」
灯華さんはいつも通りのスーツ姿に眼鏡といった、知的雰囲気満載なオフィスレディスタイルだ。
「私の奢りがか?」
そして、話す調子もやはりいつも通りだ。
「違いますよ。こんな場所で会うことが、珍しいですねって意味です」
「ああ。最近見つけたんだよ、ここは。いい店だろう?」
軽く微笑んで、こちらを見る。
「そうですね」と僕は返事をした。
この辺りは事務所からも遠いし、灯華さんが訪ねそうなオフィス街とは違って、レジャーやショッピングを楽しむ場といった感じの区画なのだけれど、いったいどんなきっかけで見つけたのだろう。まぁ、それに関しては、僕の知る由もないのだけれど。
「たまには趣向を変えてみようと思ってな。いつもいつも事務所やその下の喫茶店では、飽きるだろう」
「僕は別に……どこでも構いませんけど。それより、話があるんじゃないんですか?」
「おっと、そうだそうだ。コーヒーが旨くて、つい忘れてしまったよ」
そう言いながら灯華さんは、傍のハンドバッグを開いて中を探った。何やら見覚えのある茶封筒と、一枚の白い紙を取り出す。
「よし。君との雑談も割と好きだが、今日のところは直接本題に入るとするか」
「何ですか? これ」
「こっちは給与で、これは契約書みたいなものだ」
契約書という響きに、僕は少しだけ緊張を感じた。背筋が、ピンと張る。
すぐに微笑みとともに説明が続いた。
「と言っても、なに、そんなに大層なものじゃない。印も署名も必要ないよ。ただ、業務の内容が少々変わるからね。そのことについて書いてあるんだ。暇なときにでも目を通しておいてくれ」
業務内容の変更。灯華さんの言葉に、僕はいささか心当たりを覚えた。
「あの……それって、具体的には?」
「ん? 気になるか? まぁ、そこに書いてあるんだが、要は行政関係の雑務等を受ける、私が本来主としていた仕事に戻るということだ。とりあえず差し当たっては、君は私の助手ということになる。便宜上な」
薄々感じてはいた。こういう事態にも、なり得るだろうと。ここ数日で起こった一つの変化に、引きずられるようにして。
「それはつまり……唯花が、いなくなったからですか……?」
数日前から、既にわかっていたことだった。いつ部屋を訪ねても不在ばかりになったし、電話やメールも繋がらなくなった。特に後者に関しては、唯花が反応しないという意味ではない。本当に繋がらなくなったのだ。この番号は現在使われておりません。このアドレスにはメールが送信できません。そういった音声や返信を、最後に唯花と別れた日から、僕は何度も受け取っていた。
「そうだよ。唯花がいなくては、前のようなことはもうできないからな」
灯華さんは、とても冷静に答えた。
「あの……唯花から、何か聞きましたか?」
「留守電をもらったよ。今までありがとう、だとさ」
何らかの感情を押し殺しているという様子はまったくなく、普段のように穏やかな表情だった。随分とドライな対応だ。
「それだけ……ですか……?」
僕は恐る恐る答えを待った。
「それだけだよ」
それを聞いて、無性に悲しい気持ちになる。
「あの……申し訳ありません……」
意図するところもなく、ただただ、謝罪の言葉が口をついた。
それでも、灯華さんは相変わらずだった。
「なぜ謝る? 君が謝ることじゃあないよ。遅かれ早かれ、こうなることはわかっていたんだ」
「でも……」
「気にするなとは言わん。だが、そう暗くなられても困るよ。これからあの事務所での私の話し相手は、君だけなのだからな」
話し相手、か。確かに、一般的な雑用しかできない僕には、灯華さんの期待に沿えるところとして、その程度だ。
ただ、そういった認識も、悪い気はしない。どちらかと言えば、灯華さんの大らかな明るい表情の方が、僕の胸には引っかかってしまったくらいだ。その優しそうで華やかな笑顔が、僕には、よくわからない。
「寂しくないのか、とでも問いたげだな」
こちらの表情を見てか、灯華さんはそう言った。
図星だ。僕は、ばつが悪そうにしながら答える。
「そう、ですね……。すみません。あんまりそういう風に、見えないものでしたから……」
「私はまぁ、こういう性格でな。ただ欲を言えば、もう少し長いこと一緒にやっていたかったというのはある。良い縁だったからな」
「………………」
「けれど、唯花は十分やってくれたよ。あの子にとっては、豪華な部屋も報酬も、大した価値などなかっただろうに」
言われてみれば、唯花はお金とかそういうものには、あまり関心がなさそうだった。だから僕が思うに、唯花が灯華さんに求めていたものは、即物的な見返りなどではなく、居場所そのものだったのだろう。そう感じたのだ。
だとしたら、やはり二人の関係は、ある程度強固なものであったはずなのに。
灯華さんは性格と言ったが、こんな風に別れを受け入れるのは、僕にはまだ真似できそうになかった。
「それにな。一口に寂しさといっても色々だぞ。君は特に唯花と親しくしていたから、人一倍辛いだろうさ」
「……そんなの、灯華さんだって同じのはずですよ。灯華さんだって、唯花ととても親しかった。僕よりも、ずっと長く、一緒にいたのに」
「恋心と比べるなよ。もちろん私もあの子のことを好いていたが、君の気持ちには敵わない。そういった感情には、一緒にいた時間の長さなんて、関係ないのだと思うよ」
こんな風に言われても、今日ばかりは否定する気にはならなかった。なれなかった。いい加減、もうわかっているのだ。僕は唯花が好きだった。それはもう、思いっきり惚れていたんだ。
「ばれて、いましたか……」
それを心に思うと、痛い。
「隠していたつもりだったのか?」
「あはは……どうですかね……」
隠し事は苦手な方ではないつもりだったけれど、この件に関しては、大いに怪しいものだった。今にして自分でも、そう思う。相手は灯華さんだし……それに、僕の抱いた唯花への好意は、おそらくは僕の人生で、一番のものだったはずだから。隠すには、少々大き過ぎたとも考えられる。
ふと外に目をやれば、この辺りで唯花と遊んだことも、思い出しそうだ。明確なデート以外でも、結構色んなところに行ったから。
僕はぬるくなりかけたコーヒーに口をつけ、呼吸を落ち着けてから、また話し出した。
「唯花に……ずっと一緒に生きようって、言われました」
「うん、そうか」
唯花の気持ちにも、灯華さんは何となく気づいていたかもしれない。当然のように、短く頷いた。
「僕を、好きになっていきたかったって、言ってくれたんです」
「うん」
「すごく、嬉しかったんです」
「よかったじゃないか」
よかった。嬉しかった。当たり前だ。僕は唯花が好きで、唯花も僕を求めてくれて、こんなに胸が踊るようなこと、この世界で生きていて、そうそうない。
それでも、互いを欲する僕らの気持ちは、似ているようで、少しだけ違った。同じように見えて、異なった解釈が含まれていた。
そして結局は、それが僕らを別ったのだ。
「でも……唯花の望んだずっとっていうのは、本当に“ずっと”で。それは、永遠っていう意味で……。そんな存在になろうって、唯花は言ったんです」
「なるほどな。そういえば唯花は、君の遺失から得たものだけ、そのまま持って行ったんだったよ。確かにそれを使えば、君の言うようなこともできたかもな」
「けれど僕の望みは、そうじゃなかったんです。僕は唯花と二人で、同じ今を、流れる時間の中を、歩いて行きたかったんです」
そうやって、唯花と二人で生きたかったのだ。そう感じていた。譲れなかった。
「でも、わかってはもらえませんでした」
違ったのは、それだけだったのに。それ以外の僕らの気持ちは、ぴったりと重なり合っていたのに。それなのに、僕と唯花は今、違う時の中を、違う場所で過ごしている。
「あの子はな……長いこと生きている割には、その心はなり相応だったように思うんだ。言動も思考も、君と似たような年の頃のそれだった。もしかしたらあの子の心の時間は、身体と同じように、止まってしまっていたのかもしれないな」
カチャン、と茶器の鳴る音がする。灯華さんはカップから手を離し、両の指を組んで僕の方を向いた。そうして、暖かく目を細めて話す。
「いつか、あの子もわかるときがくると思うよ」
僕を見ながら、そしてなおかつ遠くを見る目だ。まるで、もう遠くにいる彼女を、見ているように。
「いつか……そうですね」
“いつか”。それは、曖昧で身勝手で、苦くて、魅かれる。そんな言葉だ。彼女も最後に、それを残した。その言葉を、声を、思い出す。
「僕、唯花をデートに誘ったんです」
「ほう」
それを聞くと、灯華さんは微笑んだ。
「そうしたら笑って、またいつか行こうって、言ってくれました」
「そうか。今すぐでないのは残念なところだが……でも、よかったな。行けるといいな。デート」
そう、行けるといい。また、いつか。
そうしたら、僕の知らない唯花が、まだまだいっぱい見られるだろう。新しい唯花に、出会えるだろう。そこではたとえば、またも唯花の下らない趣味を知って、どうでもいい知識をひけらかされて。あるいは行く場所に揉めながら迷ったり、買うものや食べるものを何時間も悩んだり。そういうことも、あるのだろう。
きっと、何よりも大切な時間。決して永遠に続くことはない、いつの日か終わりがくる、愛おしい時間。
終わりがあるからこそ、そんな時間には価値があるのだ。そして、終わってしまったそのときにも、出会ったことを決して後悔などしないだろう。
唯花も、それをわかってくれるようになったら、きっといつかまた行ける。
今だって、僕は思っている。唯花に出会えて良かった、と。
僕の心に空いていた穴を、唯花はちゃんと埋めてくれた。忘れられない想いをくれたのだ。あの眩しすぎる存在を、僕は最後まで忘れない。最後まで、この生を精一杯駆け抜ける。そうやって最後には、やはりまた思い出すだろう。
僕がこの世界から旅立つとき、死ぬときにはきっと、唯花のことを思い出すよ。
そしておそらく今頃は、この街の誰もが感じていることだろう。秋がきたのだと。あの華やかで騒がしかった夏という季節は、もう去ってしまったのだと。
終わってしまうと、途端に名残惜しい気がしてならないものだった。
そんなことを思いつつ僕は、街の中心街の一角にある、お洒落なカフェの扉を開いた。初めて訪れる場所だった。
カランカランと高く鳴るドアベルの音と同時に、清潔そうな身なりのウェイトレスさんが僕を出迎える。
「いらっしゃいませ。お一人様でございますか?」
「い、いえ、知り合いがいると思うのですが……」
「では失礼ですが、その方のお名前を、お教え頂けますか?」
僕は変に緊張しながら名前を答えた。「音瀬です」と。
そうしてすぐに通された窓際の席には、既にコーヒーが二人分用意されていた。どちらのカップからも、湯気が立ち昇っている。
「こんにちは、灯華さん」
「おー、そろそろくる頃だと思っていたよ」
「窓から見えましたか」
「なんだ、ばれていたか。まあ、とりあえず飲め。今日は私の奢りだよ」
口に含んだコーヒーは、舌の上で溶けるように広がった。ほのかな苦みが心地良い。店の雰囲気のせいもあるのだろうか、それは一味も二味も違うように思える。
この場所から見えるガラス越しの街並みは、悪くなかった。
「珍しいですね、今日は」
灯華さんはいつも通りのスーツ姿に眼鏡といった、知的雰囲気満載なオフィスレディスタイルだ。
「私の奢りがか?」
そして、話す調子もやはりいつも通りだ。
「違いますよ。こんな場所で会うことが、珍しいですねって意味です」
「ああ。最近見つけたんだよ、ここは。いい店だろう?」
軽く微笑んで、こちらを見る。
「そうですね」と僕は返事をした。
この辺りは事務所からも遠いし、灯華さんが訪ねそうなオフィス街とは違って、レジャーやショッピングを楽しむ場といった感じの区画なのだけれど、いったいどんなきっかけで見つけたのだろう。まぁ、それに関しては、僕の知る由もないのだけれど。
「たまには趣向を変えてみようと思ってな。いつもいつも事務所やその下の喫茶店では、飽きるだろう」
「僕は別に……どこでも構いませんけど。それより、話があるんじゃないんですか?」
「おっと、そうだそうだ。コーヒーが旨くて、つい忘れてしまったよ」
そう言いながら灯華さんは、傍のハンドバッグを開いて中を探った。何やら見覚えのある茶封筒と、一枚の白い紙を取り出す。
「よし。君との雑談も割と好きだが、今日のところは直接本題に入るとするか」
「何ですか? これ」
「こっちは給与で、これは契約書みたいなものだ」
契約書という響きに、僕は少しだけ緊張を感じた。背筋が、ピンと張る。
すぐに微笑みとともに説明が続いた。
「と言っても、なに、そんなに大層なものじゃない。印も署名も必要ないよ。ただ、業務の内容が少々変わるからね。そのことについて書いてあるんだ。暇なときにでも目を通しておいてくれ」
業務内容の変更。灯華さんの言葉に、僕はいささか心当たりを覚えた。
「あの……それって、具体的には?」
「ん? 気になるか? まぁ、そこに書いてあるんだが、要は行政関係の雑務等を受ける、私が本来主としていた仕事に戻るということだ。とりあえず差し当たっては、君は私の助手ということになる。便宜上な」
薄々感じてはいた。こういう事態にも、なり得るだろうと。ここ数日で起こった一つの変化に、引きずられるようにして。
「それはつまり……唯花が、いなくなったからですか……?」
数日前から、既にわかっていたことだった。いつ部屋を訪ねても不在ばかりになったし、電話やメールも繋がらなくなった。特に後者に関しては、唯花が反応しないという意味ではない。本当に繋がらなくなったのだ。この番号は現在使われておりません。このアドレスにはメールが送信できません。そういった音声や返信を、最後に唯花と別れた日から、僕は何度も受け取っていた。
「そうだよ。唯花がいなくては、前のようなことはもうできないからな」
灯華さんは、とても冷静に答えた。
「あの……唯花から、何か聞きましたか?」
「留守電をもらったよ。今までありがとう、だとさ」
何らかの感情を押し殺しているという様子はまったくなく、普段のように穏やかな表情だった。随分とドライな対応だ。
「それだけ……ですか……?」
僕は恐る恐る答えを待った。
「それだけだよ」
それを聞いて、無性に悲しい気持ちになる。
「あの……申し訳ありません……」
意図するところもなく、ただただ、謝罪の言葉が口をついた。
それでも、灯華さんは相変わらずだった。
「なぜ謝る? 君が謝ることじゃあないよ。遅かれ早かれ、こうなることはわかっていたんだ」
「でも……」
「気にするなとは言わん。だが、そう暗くなられても困るよ。これからあの事務所での私の話し相手は、君だけなのだからな」
話し相手、か。確かに、一般的な雑用しかできない僕には、灯華さんの期待に沿えるところとして、その程度だ。
ただ、そういった認識も、悪い気はしない。どちらかと言えば、灯華さんの大らかな明るい表情の方が、僕の胸には引っかかってしまったくらいだ。その優しそうで華やかな笑顔が、僕には、よくわからない。
「寂しくないのか、とでも問いたげだな」
こちらの表情を見てか、灯華さんはそう言った。
図星だ。僕は、ばつが悪そうにしながら答える。
「そう、ですね……。すみません。あんまりそういう風に、見えないものでしたから……」
「私はまぁ、こういう性格でな。ただ欲を言えば、もう少し長いこと一緒にやっていたかったというのはある。良い縁だったからな」
「………………」
「けれど、唯花は十分やってくれたよ。あの子にとっては、豪華な部屋も報酬も、大した価値などなかっただろうに」
言われてみれば、唯花はお金とかそういうものには、あまり関心がなさそうだった。だから僕が思うに、唯花が灯華さんに求めていたものは、即物的な見返りなどではなく、居場所そのものだったのだろう。そう感じたのだ。
だとしたら、やはり二人の関係は、ある程度強固なものであったはずなのに。
灯華さんは性格と言ったが、こんな風に別れを受け入れるのは、僕にはまだ真似できそうになかった。
「それにな。一口に寂しさといっても色々だぞ。君は特に唯花と親しくしていたから、人一倍辛いだろうさ」
「……そんなの、灯華さんだって同じのはずですよ。灯華さんだって、唯花ととても親しかった。僕よりも、ずっと長く、一緒にいたのに」
「恋心と比べるなよ。もちろん私もあの子のことを好いていたが、君の気持ちには敵わない。そういった感情には、一緒にいた時間の長さなんて、関係ないのだと思うよ」
こんな風に言われても、今日ばかりは否定する気にはならなかった。なれなかった。いい加減、もうわかっているのだ。僕は唯花が好きだった。それはもう、思いっきり惚れていたんだ。
「ばれて、いましたか……」
それを心に思うと、痛い。
「隠していたつもりだったのか?」
「あはは……どうですかね……」
隠し事は苦手な方ではないつもりだったけれど、この件に関しては、大いに怪しいものだった。今にして自分でも、そう思う。相手は灯華さんだし……それに、僕の抱いた唯花への好意は、おそらくは僕の人生で、一番のものだったはずだから。隠すには、少々大き過ぎたとも考えられる。
ふと外に目をやれば、この辺りで唯花と遊んだことも、思い出しそうだ。明確なデート以外でも、結構色んなところに行ったから。
僕はぬるくなりかけたコーヒーに口をつけ、呼吸を落ち着けてから、また話し出した。
「唯花に……ずっと一緒に生きようって、言われました」
「うん、そうか」
唯花の気持ちにも、灯華さんは何となく気づいていたかもしれない。当然のように、短く頷いた。
「僕を、好きになっていきたかったって、言ってくれたんです」
「うん」
「すごく、嬉しかったんです」
「よかったじゃないか」
よかった。嬉しかった。当たり前だ。僕は唯花が好きで、唯花も僕を求めてくれて、こんなに胸が踊るようなこと、この世界で生きていて、そうそうない。
それでも、互いを欲する僕らの気持ちは、似ているようで、少しだけ違った。同じように見えて、異なった解釈が含まれていた。
そして結局は、それが僕らを別ったのだ。
「でも……唯花の望んだずっとっていうのは、本当に“ずっと”で。それは、永遠っていう意味で……。そんな存在になろうって、唯花は言ったんです」
「なるほどな。そういえば唯花は、君の遺失から得たものだけ、そのまま持って行ったんだったよ。確かにそれを使えば、君の言うようなこともできたかもな」
「けれど僕の望みは、そうじゃなかったんです。僕は唯花と二人で、同じ今を、流れる時間の中を、歩いて行きたかったんです」
そうやって、唯花と二人で生きたかったのだ。そう感じていた。譲れなかった。
「でも、わかってはもらえませんでした」
違ったのは、それだけだったのに。それ以外の僕らの気持ちは、ぴったりと重なり合っていたのに。それなのに、僕と唯花は今、違う時の中を、違う場所で過ごしている。
「あの子はな……長いこと生きている割には、その心はなり相応だったように思うんだ。言動も思考も、君と似たような年の頃のそれだった。もしかしたらあの子の心の時間は、身体と同じように、止まってしまっていたのかもしれないな」
カチャン、と茶器の鳴る音がする。灯華さんはカップから手を離し、両の指を組んで僕の方を向いた。そうして、暖かく目を細めて話す。
「いつか、あの子もわかるときがくると思うよ」
僕を見ながら、そしてなおかつ遠くを見る目だ。まるで、もう遠くにいる彼女を、見ているように。
「いつか……そうですね」
“いつか”。それは、曖昧で身勝手で、苦くて、魅かれる。そんな言葉だ。彼女も最後に、それを残した。その言葉を、声を、思い出す。
「僕、唯花をデートに誘ったんです」
「ほう」
それを聞くと、灯華さんは微笑んだ。
「そうしたら笑って、またいつか行こうって、言ってくれました」
「そうか。今すぐでないのは残念なところだが……でも、よかったな。行けるといいな。デート」
そう、行けるといい。また、いつか。
そうしたら、僕の知らない唯花が、まだまだいっぱい見られるだろう。新しい唯花に、出会えるだろう。そこではたとえば、またも唯花の下らない趣味を知って、どうでもいい知識をひけらかされて。あるいは行く場所に揉めながら迷ったり、買うものや食べるものを何時間も悩んだり。そういうことも、あるのだろう。
きっと、何よりも大切な時間。決して永遠に続くことはない、いつの日か終わりがくる、愛おしい時間。
終わりがあるからこそ、そんな時間には価値があるのだ。そして、終わってしまったそのときにも、出会ったことを決して後悔などしないだろう。
唯花も、それをわかってくれるようになったら、きっといつかまた行ける。
今だって、僕は思っている。唯花に出会えて良かった、と。
僕の心に空いていた穴を、唯花はちゃんと埋めてくれた。忘れられない想いをくれたのだ。あの眩しすぎる存在を、僕は最後まで忘れない。最後まで、この生を精一杯駆け抜ける。そうやって最後には、やはりまた思い出すだろう。
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