一杯の紅茶の物語

りずべす

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『Uva』⑦

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 梅雨が明け、出発の日の朝は本格的な夏の太陽が照る快晴となった。まっさらなフローリングだけが残った部屋を出て鍵を閉めると、同時に隣の扉が開く。姿を見せたのは神沢さんだ。
「野並くん。本当に行っちゃうのね」
「うん。まあね」
 時刻は午前七時。普段の彼女からすれば、これでもかなりの早起きだ。しかも下着姿ではなくそれなりにちゃんとした格好でいる。
 そのままゆっくりとそばまで歩いてきて彼女は尋ねた。
「ねえ、一つ荷物が増えたら困る?」
「え?」
 荷物は、今背負っている大きめのバックパック一つに留めた。撮影具も含め、詰めたのは必要最低限。他はできるだけ現地調達で賄うつもりでいる。
「いや……多少なら余裕はあるけど」
「じゃあ、よかったらこれ、持っていかない?」
 そう言って彼女の後ろ手から出てきたのは、傘だった。まるで深い海のような、雲一つない空のような、澄んだ青に染まった長傘。渡されるままに受け取ってその場で開くと、背中の荷物まで守れそうな大きな円が宙に咲く。しかも丈夫そうな骨が、ぐるりと密に三十二本。
「どうしたの……これ」
「私が買ったのよ、野並くんに似合うと思って。傘なんて長旅には邪魔かもしれないけど……でも私、今まで野並くんにいっぱいいっぱいしてもらったから、最後に何か渡したかったの」
 俺は驚きながら、しばらく無言でその傘を見ていた。調べた中で、長旅に長傘を持っていくという記事はあまり見なかった。比較的簡単に現地で調達できるものだし、持っていくにしてもレインコートか折り畳み傘だろうという話だった。
 けれど俺は、迷うことなく彼女から傘を受け取った。
「ありがとう。使わせてもらうよ」
 丁寧に畳んでバックパックの横に引っかける。こうして運べば大した荷物にはならない。何より、これがあればどんな不都合な雨に降られても笑顔で喜べるだろうとさえ思った。
 神沢さんはわずかに淡い笑みを浮かべて言う。
「戻ってきたら、また顔見せてね。まあ、そのときまだ私がここにいるかは、わからないけど」
「はは、何それ」
 それは冗談か本心か。軽く笑ったあとでふと、さきほどの彼女の些細な言葉が頭をよぎる。
 ――最後。
 確かに再会の保証はないかもしれない。彼女はとても気紛れだ。それに、俺がこれから向かう旅はいつ帰るかわからない……いや、そもそも無事に帰るかすらもわからない旅だ。
 けれど……最後だなんて言わないでほしいと、俺は思った。これで最後にはしたくない。そう考えたら、自然と口が動いていた。
「あのさ、神沢さん。俺、ちゃんと戻ってくるから」
「え? ええ……だから、戻ってきたらまた――」
「違うんだ。戻ってきたらじゃない。戻ってくるから。必ず。だから、それまで待っていてほしいんだ。ここで……俺を待っていてほしい」
 すると、彼女ははっとしたように二つの瞳を大きく見開いた。少しの間、ただただじっとこちらを見つめ、やがてその顔が徐々に、穏やかな笑みに変わっていく。
 彼女は答えた。「わかったわ」と。
 俺は、神沢さんが好きだった。けれど今の俺が彼女に言えるのは、どうしたってここまでだ。「好きだ」とは、まだ言えない。その言葉はまだ、俺たちの未来を縛るものだから。
 もし、彼女が絵を描く人じゃなくて、俺が写真を撮る人じゃなかったなら、ずっとこのままここで暮らして、一緒になれたのかもしれない。
 でも、そうじゃなかったのだ。彼女は描くために生まれた人で、これからもどんどん先へと進んでいく。俺は彼女のことが好きで、だとしても自分の可能性を、写真を撮り続けて生きていく人生を、彼女以外の全てを捨てて、ただの男になることはできない。俺はこれから、強く強く光り輝く彼女の横で、その才能にくらまないような存在になりたいのだ。
 だから今はまだ言えない。
 だから今は行かなくちゃならない。
 そうして、いつか俺がもう一度ここに帰ってきたときに、ただいっときを過ごしただけの、俺たちの名前のない関係は終わるのだろう。
 そう、そのときこそ、俺は彼女にこの想いを告げて……二人で『恋人』を始めよう。
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