一杯の紅茶の物語

りずべす

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『Uva』⑥

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 七月になってすぐ、俺はアパートの賃貸契約を今月末までとする方向で話を進めた。それまでに旅支度を整えながら、神沢さんにも自分の部屋に戻る準備をしてもらうことになる。
 バイトも徐々に辞め始めた。もともと方々のバイト先には夏前くらいには辞めるという意思をやんわりと伝えていたので、話を切り出しても特に困惑されることはなかった。中には丁寧に送別会まで企画してくれるところもあったくらいだ。その際、当然礼儀として普段とは違う男の格好で出向いたわけだが、事情を知らずにいたバイト仲間にはたいそう驚かれたものだった。まあ、これものちの話題として多少の置き土産にはなったかもしれない。
 そしてもう一つ、この出立を前に立ち寄るべき場所を、俺は忘れない。土曜日を待って、朝。これまでよりも少し遅い時間帯にカフェ『TEAS 4u』へと足を運ぶ。
 扉を開けると元気な声が出迎えてくれた。
「いらっしゃいませー! お好きな席へどうぞー!」
 俺は慣れ親しんだカウンターの隅の席に腰かけつつ、お水を持ってきてくれたバイトの子――確か菜乃花さんというのだったか――に向けて言った。
「おはよう。すっかり看板娘が板についてるね」
 すると彼女はその場で少し慌て顔になった。「え……あ、あれ? あたしのこと知ってるお客さんでした?」
 まあ実はバイトの申し込みにきたその日から知ってるよ、なんてからかってもよかったのだが、でもその前に彼女が
「……うそ、おかしいな。働き始めてからお客さんの顔はちゃんと覚えてるつもりだったんだけど……えぇー、あれぇー……」
 と、案外深刻に悩み始めてしまったのでやめておくことにした。
 相手が自分のことを知っていて自分は相手のことを知らないなんて、普通ならバツの悪い展開だ。けれどこの場合、彼女にまったく落ち度はない。
 俺は自分のバイト先で何度も予習済みの自己紹介を、あえて高めの声で口にした。
「ごめんごめん。私だよ、私。野並葵」
 直後、彼女は「ええぇーー!?」と飛び上がって店の奥へと駆け込んでいった。「杏介さん杏介さん! ちょっとちょっとちょっと!」
 ものすごい驚きようだ。しかし、意外にもそれから、俺のほうも同じく驚くことになる。バイトの彼女がマスターさんを連れて戻り
「この人、誰だと思います!?」
 と訊くと、こちらに向き直ったマスターさんが自然な笑顔で
「ああ、もしかして野並さんですか?」
 と言ったのだ。これは数々のバイト先でも、一度も得られなかった反応だった。
「え……えっ!? 杏介さん知ってたんですか? 知ってたなら教えてくださいよ!」
「いや、別に知らなかったよ。ただちょっと、雰囲気が似てたから」
「雰囲気って……だって、あたしより断然綺麗だったあのお姉さんが、ですよ!? そんなことって……えー……うそぉ」
 このマスターさん、もしや神沢さんと同じで、いい目を持っているのかもしれない。「騒がしくてすみません」と会釈をするマスターさんに、俺は一人、不思議な既視感を覚えていた。
 胸の中に、妙な嬉しさを灯して言う。
「いえ、全然。それで、お仕事中に申し訳ないんですけど……今日は報告に来たんです。俺、ちょっとこれから遠出するので、しばらくここには来られなくなりそうで」
 カウンターの中に戻ったマスターさんはシンクの皿を洗いながら答える。
「出張とか、あるいは留学とかですか?」
「あ、いえ、そんな立派なものではなくて……まあ、なんていうか……夢を追いに」
 するとマスターさんは少しだけ動きを止めて俺を見た。
「……そうでしたか。それは、何よりも立派なことだと思います」洗い物はまだ途中のようだったが、それでもマスターさんは蛇口を閉めて布巾で手を拭う。「では、どうでしょう。今までご贔屓にしてくださったお礼に、今日はサービス致します。もしお時間ありましたら、今から一杯、メニューを任せて頂いても?」
 それは願ってもない提案だ。もともと報告ついでに紅茶を飲んでいくつもりだった俺は「ぜひお願いします」と好意に甘えることにした。
 マスターさんは軽く微笑み、バイトの彼女に指示を出す。カウンターの向こう側ではてきぱきと見慣れた茶器が用意され始める。
 ……と思ったら、どうやら少し様子が違った。取り出されたのはティーカップよりも底の深い寸胴の、蓋付きのティーマグカップだ。
 マスターさんが再び口を開く。
「ところで、野並さんは『リプトン』をご存知ですか?」
「え……はい。紅茶の、ブランドでしたっけ。黄色いマークの。スーパーとかで見かけます」
「そうですね。創始者トーマス・J・リプトンに由来するブランドです」
「あ、人の名前だったんですね」
「はい」
 しばらくして、作業をするマスターさんの横に、バイトの彼女が箱を一つ置いていく。マスターさんはその箱から取り出したものをマグカップの中に入れ、すぐにお湯を注いで蓋をした。
「彼はですね。今からだいたい百五十年くらい前でしょうか、イギリスの小さな雑貨店に生まれました。幼い時分から持ち前の機転で家業を支えましたが、十五歳のとき、自分で貯めたお金をはたいて、単身アメリカ行きの船に乗ったそうです。そしてニューヨークにある百貨店の食料品売り場で働いて知識を身につけ、やがては故郷に戻って店を持ちました。彼は見事、自分のお店を成功させるという夢を叶えたわけです」
「夢……ですか。すごい人なんですね」
「はい。というわけで、そんな彼にあやかって、今日はこちらを」
 言いながら、マスターさんは俺の目の前にマグカップを差し出して蓋を外す。真紅の茶で満たされたそのカップの中から、白い布袋を引き上げて隣の小皿にそっと置いた。
「それ……ティーバッグ、ですよね」
「ええ。スリランカ産の、ウバでございます」
 ウバという銘柄の紅茶は、確かこの店のメニューに載っていて、これまで何度か頼んだこともある。だがそのときはティーバッグではなく、ポットに入ったリーフの茶葉で出てきたはずだ。別段ティーバッグが嫌というわけではないが、ただ、いくらメニューを任せたとはいえ、これほど紅茶に力を入れたカフェで堂々とティーバッグの紅茶が出てきたことを意外に思った。
 俺の表情に疑問を感じ取ったのか、マスターさんがすかさず補足をする。
「ちなみに、こちらは本来店頭で出すものではなく、ご自宅でも紅茶を楽しみたいというお客さんのために置いてある市販品なんですが……まあ、とりあえず冷めないうちに、一口どうぞ」
 促されるままに、俺はマグカップを手に取って紅茶を口に含んだ。すると思いがけず口内に広がった風味に驚かされる。仄かに甘いバラのような香りが鼻に抜け、舌に感じるのは鋭い渋み。味にはコクと深みがある。
「ティーバッグでも、おいしいでしょう?」
 マスターさんは俺を見てにこりと笑った。
「はい……とても」
 紛れもない本音だ。侮ってはいけなかった。これは、俺が今まで飲んできたティーバッグの紅茶の、そのどれとも違う。物は市販品と言っていたからいれ方が違うのだろうか。水の種類か、湯の温度か……理由はわからないけれど、この人がいれると、こんなにもおいしい。
 それからマスターさんは、開封したばかりのティーバッグの箱をカウンターの上に置いた。
「しかもこれ、一箱にバッグが七十二袋入っていて、お値段は千八百円。換算すると、なんと一杯、二十五円ぽっきり」
「ものすごく、安いですね」
「ですよねー。あ、今お店のメニューは見ないでくださいねー」
 そうやって値段のことを言われると、そばに立てかけてある店のメニュー表に視線が向いてしまうのは否めない。けれどマスターさんは
「まあもちろん、いつも店頭でお出ししている紅茶は、その値に見合うくらいおいしくいれているつもりですけどね」
 と変わらず余裕の笑みを浮かべる。
「トーマスの時代――十九世紀後半のイギリスでは、紅茶の需要が増加の一途を辿っていて、商人の彼はこれに目をつけました。このティーバッグという販売形式は、その際に彼が発明したものなんです」
「へぇ……ティーバッグって、もっと最近になってからできたものだと思ってました」
「それだけ先駆的だったということでしょう。こうした販売方法の他、彼は仕入れにも工夫をし、その結果、当時の相場の約半値で紅茶を売ることに成功しました」
「半値!?」
「そう、半値です。元は上流貴族の嗜みであった紅茶が、今ではこうして安価で簡単に、しかも質よく提供される。彼なくしては、現代の紅茶文化はあり得なかったと言えるでしょう」
 マスターさんの口から語られる歴史話に感心しつつ、一方で俺は、お任せメニューで目の前の紅茶が提供された理由にようやく納得し始めていた。ちゃんと手間をかけ、自信を持って提供できる常設メニューがあるにもかかわらず、わざわざ今日、俺にこのティーバッグの紅茶を出した理由。それは……。
「これから夢を追う野並さんに、この一杯は餞別です。かの偉人トーマスのように、あなたも、夢を叶えられるといいですね」
 それはなんてマスターさんらしい、いや、この店らしい粋な計らいだろう。今回の俺の旅は写真を撮りに行くものであって、紅茶を広めた商人とは別に何の関係もない。でも俺は今はっきりと、顔も知らないそのトーマスに、自分を重ねてみたくなった。
 きっと歴史上のどんな偉人も、生まれたときから偉人だったわけではない。ありふれた一人の人間として、悩み、苦しみ、嘆き……そのうえで奮起して何かを成し遂げたに違いないのだ。劇的な境遇に生まれなくてもいい。生来輝く才能を持っていなくてもいい。ただ自分で自分の歩む道を決め、地道に蓄えた金と勇気だけを手に、ボロい船で無鉄砲に飛び出して……そして強く、面白おかしく、この広い世界を見てこよう。
 俺はマグカップの水面で揺れる自分の瞳をじっと見つめ、ゆっくりと味わうように飲み干した。華々しい香りと厳しい渋み――まるでこれからの俺を体現しているようなその紅茶を。
「ああ、もし気に入って頂けたようでしたら、これ、一箱どうです? 遠出されるならティーバッグは最適ですよ。軽い早い簡単の三拍子で」
 そして付け加えられたマスターさんの売り文句に、俺は思わず口を開けて笑ってしまった。
「はは! 商売がうまいですね」
 何しろ粋な餞別の締め括りがこれでは、それも致し方なしというものだ。
 
 勧められたままに例のティーバッグを購入し、俺は店の入口に立つ。そのとき店内を見渡して、タイミングよく他のお客がいないのをいいことに、ちょっとしたお願いを申し出た。
「あの、マスターさん。もしよかったら、俺にこのお店を撮らせてもらえませんか?」
 手提げ鞄から一眼レフカメラを取り出して見せ、自分が写真に携わっていることを話す。ついでにSNSへのアップロードも快諾してもらって、何枚か店舗の内外を撮影していった。
「うちって昔ながらの古いホームページしか出してないんで、いい宣伝になりそうですよ」
「そう言ってもらえると嬉しいです。まあ、俺の写真がどの程度の宣伝になるかは、わかりませんけどね」
 すると、そんなやりとりを横で見ていたバイトの彼女が、何やら好奇心旺盛に俺のカメラをのぞき込んでくる。
「わぁ! 野並さんって、写真すっごい上手なんですね!」
「ああ、うん。ありがとう。もしかして君も興味ある?」
「はい! あたしあたし、杏介さんとのツーショット、撮ってほしいです!」
 なるほど。もしかして未来の同志かと思ったが、どうやら興味があるのは撮られるほうらしい。けど、それも悪くない。
 微笑ましい思いで「いいよ」と答えると、彼女はさっそく、マスターさんを捕まえて半ば強引に店の外へと連れ出した。
「お、おいちょっと菜乃花、待てって。俺は写んなくていいって」
「ダメですよー。だってここは杏介さんのお店なんですから、あたし一人で写ったら変じゃないですかー」
 渋るマスターさんだったが、彼女の積極性に負けて結局、店の前に二人で立つ。すすっと栗毛の髪を手櫛で整えた彼女が、離れてカメラを構えている俺に言った。
「野並さん! この写真もぜひぜひ、アップしていいですからね!」
「いや、まあ……さすがにこれは、やめとくよ」マスターさんが横で複雑な顔してるし。「代わりに今度、印刷してちゃんと送るから」
 それから俺はファインダーをのぞき、ピントや画角を調節しながら立ち位置を決める。
 やがて合図とともにシャッターを切る、そのタイミングに合わせて……なんと彼女は大胆にもマスターさんに寄りかかりながら腕を絡めた。突然のことに驚くマスターさんの隣で、にひっと明るく、しかも抜け目なくカメラ目線で笑う彼女。
 それはまさに、狙いすましたような絵になる一瞬。
 きっとこの写真を見た人は、一目で気づくことだろう。ああ、彼女はマスターさんのことを、とても好いているのだと。彼女の瞳にはそれほどに純真な好意が溢れていた。
 同時に俺は、理解する。この子の想いは、俺と同じだ。俺の、神沢さんに対する想いと。
 そうだ。俺は神沢さんのことが好きだった。でもそれは、いったいいつからだったのだろう。
 考え始めて、しかしすぐに首を横に振る。“いつから”なんて、はっきりとその瞬間を決めることは、たぶんできない。出会って最初からかもしれない。つい昨日からかもしれない。それくらいに俺は神沢さんと当たり前に接して、当たり前に日々を過ごしてきた。その中であまりにも自然に彼女を好いた。そうして長い時間をかけて降り積もった想いに、今、目の前の少女を見てようやく気がついたのだ。こんな旅立つ直前になって、ようやく。
 俺がカメラを胸の前に下ろすと、すぐに彼女が駆け寄ってくる。ディスプレイに表示された写真を見て嬉しそうに顔を綻ばせ、可愛らしいカバーのスマホを手に連絡先の交換をせがむ。どうやら印刷など待ちきれず、このツーショットのデータがいち早く欲しいとみえる。
 俺は望み通りカメラのデータを自分のスマホ経由で彼女に送った。その写真を即刻待ち受け画面に設定し、まるで宝物のように胸に抱きしめる彼女を見て、思わず俺の頬まで緩んだ。
 彼女の心を、俺の心を……同じくらいいっぱいに満たしている、この想い。好きという想い。これがあるだけで自分は、きっとどんなことだってできてしまう。どんなところにだって行けてしまう。そう信じて疑わないほどの確かな想い。それに気づくことができたのもまた、俺が今日この店でもらった餞別と言えるだろう。もちろんこれは、今はまだ見習いの、彼女からの。
 それから俺は改めて二人に挨拶をし、長く親しんだ行きつけのカフェをあとにした。鞄の中では購入したばかりのティーバッグが揺れて音を立てている。その音を聞きながら、せっかくだから帰り道に旅のお供のティーマグカップでも選んで帰ろうか、なんてことを考えて歩いた。
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