一杯の紅茶の物語

りずべす

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『Dimbula』⑤

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 夏休みが終わってはや一ヶ月。ピアノ教室の監督役をする生活には難なく慣れたが、バイト代は露骨に減った。財布の紐はこれからもう少し固くすべしと自身に言い聞かせる。ただそのかわり、かつてマリ姉が近くにいた頃の生活を、オレはようやく思い出し始めていた。
 ちなみに、急にライブハウスに顔を出せなくなってしまったことについては、電話でしーさんに謝っておいた。事情を話したら電話口でおいおい泣かれたが、なんとか頑張って新しいメンバーを探すとのことだ。
 幸か不幸かは別として、学校でマリ姉を警戒する必要がなくなったので心にゆとりが生まれる。次第に暑さも和らいできて、休み時間や放課後に屋上で話をすることもたまにはあった。
 そうして九月も終わりに差し掛かったある日のこと。
 たまたま最後のレッスンに来ていた生徒が、親御さんの迎えの都合で五分ほど早く帰った。オレはこのあと夕飯に呼ばれていたので、ピアノとその周辺を片付けてからリビングに移動する。遠目に見えた扉の向こう、テーブルの上には準備途中の夕食が並んでいた。向かい合わせで二人分。マリ姉とオレの分だろう。マリ姉の母親は特別レッスンの日は帰りが遅いし、だから夕食も外で済ませてくる。父親はこのところ、講演で長期出張に出ているらしい。
 室内に人の気配が感じられたので、オレは部屋に踏み入れると同時に口を開いた。
「おかえりマリ姉。飯の準備、まだならオレも手伝っ――」
 けれども瞬間、オレの身体は氷のようにカチンと固まった。目の前にいたのはなんと、バスタオル一枚を身体に巻きつけただけのマリ姉だったのだ。
 口も目も、大きく開けて絶句するオレ。マリ姉も驚いてこちらを見ている。両手に持ったサラダの大皿を、落とすか、跳ね上げるか、それともまずは悲鳴が飛んでくるものかとオレの脳内では思考が慌ただしくひっくり返る。
 しかし、結論からいえばそうはならなかった。一人で顔を沸騰させているオレを前に、それでもマリ姉は落ち着いた様子でテーブルの上に皿を置いた。
「は、早かったですねユウくん。すみません。今日はちょっと力仕事が多くて汗をかいてしまったので、先にお風呂に入っていました」背を向けながら、マリ姉は空いた両手で胸元のタオルの縁を引き上げる。「料理、あとは運ぶだけなんですけど、よかったらお願いしてもいいですか。私は上で着替えてきますので」
 マリ姉はそのまま奥の扉からリビングを出ていった。
 たぶんマリ姉は、風呂上がりのちょっとしたついでに料理を並べておき、それから着替えてオレを待っているつもりだったのだろう。しかしオレが予定より早くリビングに来てしまったものだからこんなことに……。
 どうしようどうしよう。大変な場面に遭遇してしまった。いつも雪のように白いマリ姉の肌が、さっきは火照ってほんのり朱色になっていた。濡れた黒髪がしっとりと首にかかって、華奢な手足、浮き出た鎖骨のわりに膨らんだ胸が……いや違う、そんなことは早く忘れてしまえ。
 残されたオレはもはや一人だけなのに、場の空気に耐えかねるようにそそくさとキッチンに回って料理を運ぶ。以後はただじっと座って上がった体温に下がれと念じた。
 五分ほどしてマリ姉が再び現れる。部屋着っぽい黒の袖なしワンピース。
 オレはすぐに椅子から立って頭を下げる。
「マリ姉ごめんっ! 最後のレッスンがちょっと早めに終わったから……オレ、なんも考えずこっち来ちゃって」
「いいえ、いいんですよ」しかしマリ姉は変わらず落ち着いて柔らかく笑う。「あんな格好でここにいた私のほうがいけないんです。さ、早く食べましょう」
 そして気にしたふうもなく向かいの椅子に手を伸ばした。
 てっきり恨み言の一つでも言われるかと思っていたオレは驚いて顔を上げる。けれど直後、そんなオレの驚きすらも気に留めず食事の前で手を合わせているマリ姉の姿を見たら、胸の中の動揺は急速に萎んでしまった。
「どうしましたか、ユウくん。早く食べないとご飯が冷めてしまいますよ?」
「あ……うん」
 強く脈打っていた心臓が、自分でも信じられないくらい鈍く冷たくなっていく。あまりにも普通だ。マリ姉ばっかり。なんだよ。オレはさっきまで一人であんなにもうろたえていたのに。
「んー! お仕事のあとのご飯は、とってもおいしいですねー」
 嬉しそうにご飯を口に運ぶマリ姉を横目に、オレは黙って椅子に腰を落とした。小さく手を合わせて、並んだ料理を食べ始める。さっき盛大に巡った血流が反動で止まったのかと思うくらい、箸を持つこの手は重かったけど。

 食後、家まで送ってくれると言うマリ姉の車に、オレは素直に乗り込んだ。いつもなら「送らなくていい」と反対するオレが「帰りに変な寄り道をされても困りますから」とマリ姉に説き伏せられるという茶番じみた会話があるのだが、今日はそんなことする気にもならなかった。
 大して遠いわけでもないオレの家に向かって車が住宅街を走り出す。街灯から降る微光を拾う暗い車内。揺れる助手席に座って窓の外を眺めるオレ。その頭からは依然、リビングでのことが離れていなかった。
 本当に、何か一言くらい、マリ姉には言われるものだと思っていた。怒るのか、恥ずかしがるのか、そのへんはわからないけど、とにかくそういう類の反応があるんだろうと。でもって、別にオレだって普通にリビングに入っただけなのに、とか考えながら、でもまあこういうときはやっぱ男が悪いのかもな、なんて渋々納得する想像までしていたかもしれない。
 けど違った。そもそもマリ姉は裸同然の姿を見られてもほとんど動揺してなかったし、そのあと何事もなかったかのように夕食をとって、今もこうして、オレを家まで送ってくれている。
 それもこれも全部、姉としてだ。つまりマリ姉にとってのオレは、やっぱり今も昔も、弟なのだ。男じゃない。オレは男として、意識なんてされてやしない。その事実をさっきのやり取りで改めて感じてしまった。そして、それだけでオレはこんなにも余裕がなくなる。
 ぼんやりと、薄く瞼のかかった両目で流れていく景色を見るともなく見る。ずるずると背中がシートに沈んでいき、心の中の落胆が滲み出るように全身が重くなる。
「だっせ……」
「え?」
 マリ姉に聞き返され、オレは自分の口が勝手に独り言を吐いたと知った。
「あ……いや」
 慌てて身体を起こし、何か誤魔化すものはないかと周りを見渡す。すると運転席側の窓の外に、既視感のある建物を見つけた。
「あ、あの店」
「はい?」とハンドルを握るマリ姉はちらりと目線だけを右に向ける。
 暗がりの中に見えたのは、洒落た三角屋根の木造建築だ。見晴らしのいい小高い丘上、広めの駐車場と整えられた庭の向こうで、窓に淡いオレンジ色の明かりが灯っている。
「今流行ってるSNSにさ。オレが好きでたまに見てた『Blue』っていう、この辺りの風景とかを写真に撮ってアップしてる、カメラマンっぽいアカウントがあるんだけど。その人が最近、あの店を撮って上げてたんだよ。そんでまあまあバズってて」
「へえ、そうだったんですか。あそこは確か、結構昔からあるカフェですよね」
「うん、そう書いてあった気がする。やっぱマリ姉は知ってんだ」
「私は、入ったことはありませんが。でもユウくんのお母さんが昔、ユウくんの幼稚園のママ友たちで行ったことがあるらしいですよ。そのときは若い女の人が一人でやっていて、娘さんがたまに手伝いをしている店だって聞きましたけど……今はどうなんでしょうね」
 だからいつどうやってそういう情報を……いや、もう何も言うまい。
「なんだ、てっきりマリ姉は行ったことあるんだと思ってたよ。紅茶の店みたいだったしさ。マリ姉、そういうの好きでしょ」
「あれユウくん、よく知ってますね」
「だっていつも自販機で紅茶買ってるじゃん」
「あはは……まあ、ああいったお店で出る紅茶は、自販機のものとはまた、違うんですけどね」
「あ、そなの」
 確かに、目の前に見えるあのいかにも高級そうなカフェが出す紅茶は、一つ百円そこらの缶ジュースとは違いそうだ。SNSで口コミが広がっているのは立派な写真が発端だが、それも元の素材のよさがあってこそだろう。
 マリ姉は対向車がいないことを確認すると、少し車を右に寄せながら速度を落とした。
「外から見るだけでもとっても素敵な雰囲気で、いかにも大人のお店! って感じですよねぇ」
 緩く弾んだメゾソプラノの声。その瞳は、まるで憧れのものを見る少女のように光っている。
「まあ……そうだね。でもマリ姉なら行けるんじゃないの? だってもう大人だし」
 そう尋ねるとマリ姉は途端、きょとんとした表情になった。けれど、それからすぐに、目を細めて。
「ああ、そっか。私はもう、大人なんですよね」
「いや、そりゃそうでしょ。車運転できて先生やってて給料もらって、ついでにお酒も飲めるんだ。どう見たって大人だよ」
 何を当たり前のことを、と首を捻るオレの横でマリ姉は「そっかそっか」と何度も小さく口からこぼして、そして言った。「じゃあ、そのうち行ってみたいものですね」と。
 やがて車がオレの家に到着した。そのまま道で降ろしてくれればいいと言っても、マリ姉は律儀に必ず玄関の前までついてくる。そして決まって優しく笑いながら、最後に手を振って帰っていくのだ。いつもオレが、ひらひらと揺れるその白い手をいっそ思いきり引き寄せてしまいたいと、そんな気持ちを我慢していることも知らずに。
 マリ姉は大人だ。
 対してオレは、やっぱり子供なのだろう。
 車も運転できなければ酒も飲めない。バイトで稼げるのはせいぜい小遣い程度の額でしかない。単なる高校生で、しかも今はマリ姉の生徒で……好きな人に好きと伝えることができない。その人の手を引き寄せて、抱きしめることができない子供だ。
 そんなオレはどうしたって、先に大人になってしまったマリ姉には、届かない。
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