一杯の紅茶の物語

りずべす

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Menu 4『Darjeeling Second Flash』

『Darjeeling Second Flash』②

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「初めてこの店に来たとき、実は俺、結構緊張してたんですよね」
 視界の端で、水を入れたやかんをコンロにかけながら杏介が言う。
「えー? 実はって何よ、実はって。落ち着いて見えてはいたけど、あんたが固くなってたのは最初からわかってたよ」
「あのときは下宿に帰りがてら軽く散策してただけだったんですけど、そしたら思いがけず迷っちゃって。ほら、この建物って雰囲気あるから、なんか場違いなとこ来ちゃったか? 的な」
「まあねぇ。いやぁ、今だから言うけど、初対面のあんたは色々初々しくて可愛かったよ。バイトしたいって言われたときはさ、一瞬考えちゃったもんね。あれー、こんな若い子引っかけちゃっていいんだっけ? 的なね」
 私はそのときのことを思い出して口元からククッと笑みをこぼす。
 こんなこと言ったら彼はムッとするかと思ったけど、しかし、意外にも穏やかな表情のまま言った。
「でも、結果的にはここのバイトにしてもらって、とても感謝してますよ」
 あれあれ? なんだよ余裕かましちゃって。チャームポイントの可愛げがなくなっちゃってるじゃん可愛げが。
「それに、当時の楓さんの状況を思えば、もっと早くに誰か雇っててもよかったくらいです」

 正直な気持ちを言えば、私はこの店をずっと一人で切り盛りできると思っていた。状況に強いられてバイトを雇おうと考えたのも、随分悩んだ末のことだ。
 もともと、この店は私の母のものだった。母が店長をしていた頃は私がちょこちょこ手伝いに入っていて、隣に建つ生家にも、母との記憶しか存在しない。つまり私には父親がいなかった。生物学上の父はいただろうが、家族としての父はいなかったのだ。
 私の母はほとんど駆け落ち同然でこの土地に来た。元はどこぞの田舎に邸宅を構えるいいとこのお嬢様で、身体が病弱だったこともあってか、たいそう箱入りで育ったそうだ。教育も食事も医療も家に呼べるものはできるだけ呼んで、家庭教師にコックに主治医、なんでもござれみたいな環境だったと、その昔びっくりするくらい嫌味のない上品な口調で聞いたものだ。
 そして主治医との子を宿して二人、愛の逃避行。熱に浮かされ主治医の金で家と併設のカフェを建て、若くして私を出産した。
 だが、そんな愛の寿命は決して長くはなかったという。初めのうちこそよかったものの、父はすぐに他所で女を作って出ていったらしい。いや、そもそもが訪問診療で婚姻もギリギリの若い患者に手を出すような男なのだ。移り気で軽薄な男であることは想像に難くない。母さんにとっては盲目の恋に落ちるほどの男だったのかもしれないけれど、私にとってはただ金を持っているだけの男で顔も名前も興味はなかった。
 せっかくの立派な家にも店にも、父の痕跡はまるでない。父にしても、飽きた女との古巣などあとにも先にもまったく興味はなかっただろう。いつしか所有者は母の名義になっていた。まあ慰謝料としては破格だったのかもしれないが、あまりにも世間知らずで無垢で底抜けに優しく、破滅的に優しいばかりだった母は、そんな父との別れに涙を枯らして嘆いていた。
 幼い頃から、私の直感はよく当たった。学生の時分には友人の欠席を予期したり、急な行事の中止を言い当てたりすることがしばしばあった。もちろんそんなのは偶然で片付くレベルのものだったが、あとになって思えば、父が最後にこの家を出ていった日の朝も、普段通り仕事へ向かう背中にそういう気配を感じていた記憶がある。
 そしてその直感は、ある日、母が倒れたときにも降ってきた。もとより病弱だった母は体調を崩して病院に行くことがままあったが、最後に母が倒れたその日、もうきっと母はこの家に戻ってくることができないだろうと、なす術もなく感じてしまったのだ。
 当時、私は高校三年生だった。救急車で病棟に運ばれる母を目の当たりにしながら、私はもちろん心の底から悲しかったのだが、それと同時に、いつかこういう日が来るのだということをずっと前から知っていた自分に気づいた。
 母はその年の秋にあっけなく天に旅立った。私の卒業する姿を見られないのが、とても残念だと言って。
 母は生来、病気だった。病名は、覚えるには辟易するほど長くて煩雑。簡単に言えば生まれつき心臓周りの血管の一部が狭いというもので、結果的に様々な症状を引き起こす病気だ。予後は決して長くない。
 そして私のこの身体にも、母と同じ病が宿っている。
 幼い頃には曖昧だった自分の病気への理解は、歳を重ねるにつれて徐々に明確になっていった。生後すぐの手術によっていくらか改善は見られたが、高校一年の頃に再発し、再手術を受けた。けれども経過は芳しくなく、自分の胸に大きな傷が刻まれたことと引き換えに得られたなけなしの延命を、その頃思春期真っ只中にあった女子高生の自分が喜べたという記憶はない。
 病気について、遺伝性は証明されていないもののいくつか症例はあるとのことだった。現に私の場合もそうだ。系譜を遡って調べれば他にも身内に発病者はいるかもしれない。しかし自分の血筋が呪われたそれであるかどうかの判明など、私にとっていったい何の益になるだろう。私の病気が偶然であれ必然であれ、この身体に発現した病魔が消えるわけではないのだから。
 自分に降りかかる不幸に理由があるのかどうかというのは、改善に向かうための活力にはいくらか影響があるかもしれない。けれどそれが自分にどうしようもない不幸だったなら、理由などあろうとなかろうとどうでもいいものなのだと私は知った。
 私は進学も就職も望まなかった。高校の先生には事情を話せば反対の言葉など返ってこない。友人とも円満に距離を取り、持ちものを増やさないことにだけ注意して生きようと心に誓った。だって私は、いつか遠くないうちに、それらの全てを残してこの世界を去るのだろうから。
 卒業後は母の店を継いだが、幸い固定客はいくらかいて、母の時代から取引があった茶葉の卸し先や菓子類の提携販売もあり、経営面はなんとかなった。ただ、困るのはどうしても身体がいうことをきかない日だ。病気を患っているといつも必ず身体のどこかしらには不調があり、朝起き上がれないとか、営業終了を前に著しく体調を崩すことが唐突にあった。
 一人で店を営む場合、そういうときは否応なく臨時休業にするしかない。でもせめてもう一人だけでも店員がいれば……。そう思ったから、バイトを雇うことにした。だからこそ、私はバイトにレジや皿洗いといった雑務だけを任せるのではなく、ゆっくりでも一人でカウンターに立てるようなスキルを身につけてもらいたかった。
 その点、バイトの黒川くんは非常に優秀で覚えがよかった。働き始めから間もなくして、隣で私が見ていれば基本的なメニューは提供できるまでになってくれた。
「あらあら、店員さんが増えたのね」
「はい。黒川といいます。よろしくお願いします」
 若い男の子のエプロン姿は近所の主婦たちにもちょっとした人気だったし、彼は彼でそうしたお客さんを相手にすることへの物怖じもあまりないようだった。
「長いこと一人でやってたみたいだけど、よかったわねぇ。楓ちゃん」
「ええ、そうなんですよー。これで私も、ついに楽できるってもんです」柔らかい笑顔で話しかけてくる常連のおばさまに私も明るく答えを返す。「というわけで、今日はこの黒川くんが、紅茶をご用意させて頂きますよ!」
「あら、いいけど、大丈夫なのかしら?」
「そりゃもう、私の弟子なんで!」
 そう言うとお客さんたちは皆、嬉しそうに笑ってくれた。
「じゃ、黒川くん。頼んだからねー」
「はい」
 身体が苦しいときは、それを誤魔化しながらでも偉そうなふりして椅子に座って、口であれこれ言えばいい。どうしても咳や息切れ収まらないとき、軽い発作が出たときだけ、私は自室に籠って薬を飲んだ。
 病気が再発してから、月日を数えるように種類の増えた錠剤は、出せば手のひらに盛り上がる。ピルケースをいくつも散らしてうずくまりながらそれらを一粒ずつ飲み下すさまを見られれば、病気のことはとても隠しきれないだろう。
 戻るのが遅い私を気にして、黒川くんは時折、私の部屋を訪ねてきた。
「あの、店長。大丈夫ですか? お客さんも心配してましたけど……」
 控えめなノックの音がすると、私は苦しくても必ず呼吸を浅くして扉に飛びつく。そして両手で取手を握って固定した。間違っても扉が開いて、こんな姿を見られないように。
「大丈夫大丈夫! ちょ、っと……探し物、してるだけだから!」
「でも店長、今日、いつもより調子悪そうでしたよね。よければ俺も手伝いますけど……」
「え、えー? うーん、でもなー。やっぱ部屋見せるのは恥ずかしいよ。乙女の花園は男子禁制だから」
 すると少しの沈黙を経て答えが返る。
「……まあ、大丈夫ならいいですけど。あと、とりあえず乙女って歳ではないかと」
「はあ!? ちょっと黒川くん、女に歳のこと言うなんてガキじゃないんだから! 女はいつまでたっても乙女よ!」
「あ、すみません」
 こみ上げてくる咳を堪えながら、私は扉にもたれて気丈に言う。
「ほらほら、いいから君はお店見ててよ。なんかわかんないことあったら保留にしといて。私もすぐ戻るから」
「……わかりました」
 戸惑いがちに離れていく彼の足音を耳にしながら、私は冷たい床に伏した。そういうことが初めのうちはふた月に一度くらいだったのが、次第に短い間隔になっていった。
 病気のことを、ずっとこの先も隠し通すのは、どう考えても難しい。もし彼が店で長くバイトを続けてくれるのなら、いつかは話さなければならないのかもしれない。
 でも、それはまだ、今ではない。
 きっとなんの根拠もなく、私は言い訳のようにそう思い続けていた。
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