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第三章
2
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校門前、煉瓦造りの花壇に腰掛け人を待つ。そこに、遠くから間延びした声が聞こえた。
「はあーい、ダーリーン!」
翠だ。
「おいやめろ。ただでさえお前は目立つんだぞ」
「やあねー違うでしょー。あたしが『はあーい、ダーリーン!』って言ったら、あんたは『やあ、ハニー!』でしょー」
アホか。それじゃあまるでデートの待ち合わせみたいじゃねぇか。断じて違うぞ。俺はさきほどまで、競技場でタカヤ先生の調査をしていた。その結果、驚愕の事実を目の当たりにしたので、報告のために翠を呼んだのだ。普段ならば俺から翠に連絡することなど皆無だが、今回ばかりは事情が事情。翠はちょうど家の用事で帰宅するところだったらしいが、さすがに自らの依頼した調査である手前、二つ返事で落ち合うことになった。
……だというのに。
「ほら、じゃあテイクツーよ。はあーい、ダーリーン!」
「帰るぞハニー」
いつまでやっとるんだお前は。
「うっわ、冷たっ! ノリ悪いなあ、もー。金髪翠眼のこーんな美少女がダーリンって呼んでんのよ? 少しくらい嬉しそうにしたっていいのに」
「金髪翠眼は気にしてたんじゃねぇのかよ。だいたい、自分で美少女なんて言うやつは、大抵は性格の方がイカれてんだよ。ほら、あんまり無駄話してると、すぐ陽が落ちるぞ」
「大丈夫大丈夫。家から迎え呼んだから」
何だと! 家から迎え!? まったく、これだから金持ちは……。
さらっと零れた発言に呆れながら、俺はジト目で翠を睨む。翠はそれを知ってか知らずか、背中まで伸びる長髪を夕焼けの中になびかせつつ、俺の隣にひょいっと座った。
「それで、少しは調べがついたのね? わざわざ呼びつけたってことは、てんで見当違いのハズレでしたってわけじゃあないんでしょう?」
直前まで冗談を言って笑っていた翠の顔が、その言葉を境に真剣なそれに変わる。俺はその変化に若干戸惑いながらも、喉まで出かかった文句を飲み込んで話し始めた。
「ああ。まず先に確認するが、半年前の十二月にガラテイアのサーバーをクラックしたディアのシリアルナンバーは『Sera-003-3085KS207A』で間違いないな?」
「ええ、その通りよ」
最初に必要な前置きをし、予定通りの返答を得て俺は「ふう」と溜息をつく。
「翠、お前の見込み通り、そのシリアルナンバーは例の先生――佐倉由梨絵先生の所有するディアのものと一致した」
瞬間、翠の表情がわずかに張り詰めるのが見てとれた。俺は構わず続ける。
「だが、あのディアの中にクラッキングに利用できそうなアプリケーションやソフトウェアは入っていなかった。さらに言えば、あのディアのログには、三ヶ月より前のものが存在しない」
「ちょっと、どういうことよ、それ」
「意図的に消去されたと考えるのが妥当だ。当然、クラッキングの痕跡は残っていない」
翠は少し考え込んだ。頭の中で、状況を一つずつ整理しているのだろう。しばらくして言う。
「でも、向こうにログがなくったって、こっち側――ガラテイアのサーバーには、『Sera-003-3085KS207A』からアクセスされたログが残ってるわ」
「ああ、だろうな。つまり、故意にやったにしろ、別の誰かのプロキシにされたにしろ、あのディアがガラテイアのサーバーにアクセスしたこと自体は、事実だと思う。ただ……」
「ただ?」
「今日、お前を呼んだ理由、本題はここからだ。今さっきわかったことなんだが……あのディアのOSは、セラじゃない。あのディアには《Veiner》というOSが搭載されていた」
すると、翠の表情がまた凍った。明らかにさきほどよりも驚いているとわかる。
しかし、それはこちらも同じである。このヴェイナーというOS、俺はこれまで、一度も見聞きしたことがない。「心当たりは?」と尋ねてみるが、翠は無言で首を横に振った。
「……待って。でも、シリアルナンバーは一致したんじゃなかったの?」
「一致したさ。要するに、だ。あのディアは左手に印字されているシリアルナンバーのOSと、実際に搭載されているOSが違ったんだ」
「何よそれ! 思いっきり違法改造じゃない!」
そういうことになる。ログを消去するのは確かに怪しい行為ではあるが、極論を言えば所有者の自由。しかしOSの書き換えはまた別だ。左手のシリアルナンバーにセラと記されている以上、作られた当初はその通りだったはずだから、OSを後天的に書き換えたということになる。そしてその行為は、法に触れている。佐倉先生は、接した限りではさほどディアには詳しくないが、少なくとも違法なディアを所持しているということ自体は、逃れようのない事実なのだ。
「なあ翠。あのディアは明らかにおかしいぞ。例のクラッキング、俺は前に、愉快犯のちょっかいだと言ったかもしれないが……こうなるとそれもわからない。俺たちみたいな一般市民がこそこそ嗅ぎ回るのはやめて、大人しく警察にでも何でも頼るべきだ」
俺の助言に対し、しかし翠は、地面に視線を落とし苦々しく言った。
「……それは、出来ない相談ね」
「なぜだ。会社の体裁を気にするのはわかる。だけどガラテイアの後継者として、違法改造を看過するのもどうかと思うぞ」
「まったく正論だわ。でも駄目なのよ。今は、まだ」
翠は無表情で、なおも頑なに否定を返す。
その言葉を聞いて、俺は自分の胸にわずかばかりの疑念と焦燥が生まれるのを感じた。
「……まだ? 何か理由があるのか」
しばらくして翠は「はあ」と短く息をつき、考え事の結論が出たとばかりに空を仰ぐ。
「ま、ここまで調べてもらったわけだし、あんたには喋っとくかー。いやね、ちょっと言いにくいことでは、あるんだけどさ」
後ろに傾いた身体のバランスをとるかのように、足を浮かせてぶらつかせる。短いスカートが、それに合わせてひらひらと揺れる。脱げかけのローファーが宙で踊る。
「半年前の十二月、うちのサーバーは『Sera-003-3085KS207A』から執拗なクラッキングを受けた。もちろん全部門前払いだったけど……って話は、既にしたわね。でも実は、そこからさらに一年前にも、クラッキングを受けてるの。しかもこのときは、そこそこ中まで入り込まれた」
「……おいおい。それって、鉄壁と言われたガラテイアのセキュリティが破られたってことか?」
「真っ向から破られたわけではないわ。さすがにそんなことになっていたら、もっと騒ぎになっているでしょうね。そうじゃなくて、所属している研究員のアカウントを利用されたの。これについては、現在調べている最中よ」
……アカウントを利用されたって、それ、間接的には破られてんじゃねーかよ。
「そんなことがあったのが、今から遡ると一年半前。ところで、ねえ蓮。一年半前っていうと、いったい何があったときでしょう?」
言いながら、翠は突然こちらを向き、覗き込むように俺を見た。いや、一年半前って、そりゃお前……と、俺は思う。そんなの、答えはわかりきっている。
「……時の凍結」
「そ。それは今から一年半前、八月二十三日の午前十一時五十六分の出来事。そしてその瞬間は、まさにうちのサーバーがクラッキングを受けた時刻」
「――なっ!」
はっとなった。そこまで聞いて、俺は翠の言いたいことがわかった気がした。
「あの事件は、全世界共通の大事件だった。もちろんうちのサーバーだって、例外なく被害を受けたわ。重要なデータはしっかり対処されているから無事だったけれど、でも、一時的なログはそうはいかなかった。おかげでそのクラッキングに関するログが、一部吹っ飛んだの。だからクラッキングの元を辿ることは、未だに出来ないでいる。わかっているのは、アクセス方式からしてOSがセラのディアであることだけ」
「……一年半前の時の凍結と、同時に行われたセラOSからのクラッキング。そして、その半年後に執拗に行われた『Sera-003-3085KS207A』からのクラッキング」
「ね? 無関係とは限らないでしょう? 繋がっているのは二つのクラッキングだけじゃない。そのクラッカーは、時の凍結と何らかの関わりがあると、あたしは踏んでるわ」
翠は、ようやく理解の及んだ俺を見て、不適に微笑む――だが笑い事では済まされない。
「……時の凍結の原因は、未だにわかっていないんだっけか」
「恥ずかしい話、ガラテイアもやっきになって調べてはいるけれど、ほとんど何もわかってないのが実状ね。だから、うちとしては掴める情報はどんなものでも掴みたい。あんたもさっき言っていたけれど、時の凍結に関わりのあるかもしれないクラッカーが、佐倉先生だけとは限らないわ。もしかしたらプロキシにされただけかもしれない。トロイでも仕込まれていたのかもしれない。仮に佐倉先生本人が真のクラッカーなのだとしても、詳しいことがわからないこの状況で騒ぎを公にしたら、相手にだって感づかれる。それじゃあ、掴めるものも掴めないわ」
「だから今は、まだ事を大きくできない、と」
「そういうこと」
そこまで述べると、翠は足下に視線を落として、無表情へと戻ってしまった。
少しの沈黙が流れたのち、目の前のロータリーに車の入る音が響いた。黒い、見るからに高級そうな車がそこに停まる。運転席からスーツを着た女の人がすっと現れ、助手席の前に立った。その女性は翠のディア――ステラだ。おそらく翠の呼んだ迎えだろう。
翠も、それには気づいている。しかし依然、腰掛けた花壇から立とうとはしなかった。何となく直感で、翠は俺が口を開くのを待っているのだと思った。
「じゃあ、そうだな……次はあのOS、ヴェイナーについてでも、調べてみるか」
すると途端、まるでスイッチでも切り替えたようにパッとまた笑顔になる。
「あれ? まだ付き合ってくれるんだ? あんたにしては珍しいじゃない」
「……まあ、気にならんと言えば嘘になるからな。それにお前、頭ん中じゃどうせ、俺が動くこと見越してるだろ」
そう言ってやると、翠は至極ご満悦といった様子で答えた。
「さすがね。完璧な以心伝心だわ」
ぬかせ。と俺が抗議する前に、もう翠は、花壇から跳ねるように立ち上がる。
「じゃあ、期待してるわね! ダーリン!」
ああ、わかっていた。こんな風に調査の続行を申し出てしまえば、またも翠の思うツボだとわかっていた。だというのに、なぜ俺は、まんまとそれに乗ってしまったのだろう。
クラッキングの件、多少気になっているというのは嘘ではない。けれども、それだけで翠の傀儡になってやるほど、大きな好奇心でもないはずなのに。自分で自分の行動がわからない。わかるのは、やはり俺は、翠が苦手だということくらいだ。それがどうにも癪で、気分良く帰ろうとしている彼女の背を眺めながら、俺は小さく呟いた。
「いい加減、そういう冗談はやめろっての……」
当然、独り言のつもりだった。だが、どうやら翠には聞こえてしまったらしい。彼女は立ち止まり、その場で振り返らずに言葉だけを返した。
「あはは、まあいいじゃない。もうじきこんな冗談も言えなくなるんだし。大目に見てよ」
「言えなくなるって、そりゃどういう意味だよ」
「あたしね、来月末に結婚するの」
……は? 結婚?
いきなり飛び出てきた単語に頭が追いつかず、俺は思わず固まってしまう。
しばらくすると、翠はようやく首だけをこちらへ向けぎこちなく笑った。
「えっへへー。ジューンブライドよ。いいでしょー」
「……また、随分と急だな。相手は?」
「えっとね、イギリスの人。ディアに使うパーツや新規技術を扱ってる会社の経営者、かな。なんでも、かなり優秀みたいよ。まだ会ったことないんだけど」
「思いっきり政略結婚じゃねーかよ」
「あったり前じゃない。良くも悪くも、あたしみたいなのが恋愛結婚なんてできないわよ」
うわ。なんだそのコメントしづれー返し。つーか今時、政略結婚だなんて、昔の貴族や武士じゃあるまいし……なんて、俺は咄嗟に思ってしまったが、ただ、実際のところはどうなのだろう。今の時代でも、大企業の後継者ともなると、似たようなものなのだろうか。
「まあ……そりゃあ俺には、お嬢のお前の事情なんてわかんねーけどさ。でも、後継者ってのは、会社のためにそこまでしなきゃならんもんなのか?」
「そうね。ならないものよ。あたしの結婚は、今後の会社の発展のために必要だもの」
「いや、そうかもしれないけど……ほら、お前の気持ちとか、そういうのもさ……」
結婚。そんなものは、俺にはまだ全然実感の湧かないものだ。自分の常識のうちにある一般論として、好き合う者同士でするのが当たり前だと思っていた。
けれども、翠はきっぱりとそれを否定する。
「ないわね。あったとしても、残念ながら、それは意味のないものよ。あたしの人生は、あの会社のためにある。シナリオは既に出来上がっている。今回の結婚はそれに則って、あたしが自分で、自分のために、そして会社のためになるように決めた」
清々しかった。清々しいほどに割り切っていて、後悔や不満を感じさせない物言い、そして明るい声だった。それはまるで、他愛もない世間話に興じるかのように、自分にとって当たり前だと思っていることを話す声だ。そんなものを聞いてしまったら、俺は、そういうものなのかと思ってしまう。思うしかなくなってしまう。少なくとも、翠にとっては。
喉から出かかり、くすぶったいくつもの言葉。俺はそれを全部飲み込んで、静かに言う。
「……そうか。じゃあ、えっと……おめでとう、か」
「うん。ありがとう」
そのとき、風が一瞬、吹き抜ける。その風になびく金色の髪が、翠の横顔をそっと隠す。彼女はそのまま、前を向いて歩き出した。
「じゃ、調査よろしくね。それもあたしのシナリオに、ちゃーんと組み込まれてるんだからさ」
「はあーい、ダーリーン!」
翠だ。
「おいやめろ。ただでさえお前は目立つんだぞ」
「やあねー違うでしょー。あたしが『はあーい、ダーリーン!』って言ったら、あんたは『やあ、ハニー!』でしょー」
アホか。それじゃあまるでデートの待ち合わせみたいじゃねぇか。断じて違うぞ。俺はさきほどまで、競技場でタカヤ先生の調査をしていた。その結果、驚愕の事実を目の当たりにしたので、報告のために翠を呼んだのだ。普段ならば俺から翠に連絡することなど皆無だが、今回ばかりは事情が事情。翠はちょうど家の用事で帰宅するところだったらしいが、さすがに自らの依頼した調査である手前、二つ返事で落ち合うことになった。
……だというのに。
「ほら、じゃあテイクツーよ。はあーい、ダーリーン!」
「帰るぞハニー」
いつまでやっとるんだお前は。
「うっわ、冷たっ! ノリ悪いなあ、もー。金髪翠眼のこーんな美少女がダーリンって呼んでんのよ? 少しくらい嬉しそうにしたっていいのに」
「金髪翠眼は気にしてたんじゃねぇのかよ。だいたい、自分で美少女なんて言うやつは、大抵は性格の方がイカれてんだよ。ほら、あんまり無駄話してると、すぐ陽が落ちるぞ」
「大丈夫大丈夫。家から迎え呼んだから」
何だと! 家から迎え!? まったく、これだから金持ちは……。
さらっと零れた発言に呆れながら、俺はジト目で翠を睨む。翠はそれを知ってか知らずか、背中まで伸びる長髪を夕焼けの中になびかせつつ、俺の隣にひょいっと座った。
「それで、少しは調べがついたのね? わざわざ呼びつけたってことは、てんで見当違いのハズレでしたってわけじゃあないんでしょう?」
直前まで冗談を言って笑っていた翠の顔が、その言葉を境に真剣なそれに変わる。俺はその変化に若干戸惑いながらも、喉まで出かかった文句を飲み込んで話し始めた。
「ああ。まず先に確認するが、半年前の十二月にガラテイアのサーバーをクラックしたディアのシリアルナンバーは『Sera-003-3085KS207A』で間違いないな?」
「ええ、その通りよ」
最初に必要な前置きをし、予定通りの返答を得て俺は「ふう」と溜息をつく。
「翠、お前の見込み通り、そのシリアルナンバーは例の先生――佐倉由梨絵先生の所有するディアのものと一致した」
瞬間、翠の表情がわずかに張り詰めるのが見てとれた。俺は構わず続ける。
「だが、あのディアの中にクラッキングに利用できそうなアプリケーションやソフトウェアは入っていなかった。さらに言えば、あのディアのログには、三ヶ月より前のものが存在しない」
「ちょっと、どういうことよ、それ」
「意図的に消去されたと考えるのが妥当だ。当然、クラッキングの痕跡は残っていない」
翠は少し考え込んだ。頭の中で、状況を一つずつ整理しているのだろう。しばらくして言う。
「でも、向こうにログがなくったって、こっち側――ガラテイアのサーバーには、『Sera-003-3085KS207A』からアクセスされたログが残ってるわ」
「ああ、だろうな。つまり、故意にやったにしろ、別の誰かのプロキシにされたにしろ、あのディアがガラテイアのサーバーにアクセスしたこと自体は、事実だと思う。ただ……」
「ただ?」
「今日、お前を呼んだ理由、本題はここからだ。今さっきわかったことなんだが……あのディアのOSは、セラじゃない。あのディアには《Veiner》というOSが搭載されていた」
すると、翠の表情がまた凍った。明らかにさきほどよりも驚いているとわかる。
しかし、それはこちらも同じである。このヴェイナーというOS、俺はこれまで、一度も見聞きしたことがない。「心当たりは?」と尋ねてみるが、翠は無言で首を横に振った。
「……待って。でも、シリアルナンバーは一致したんじゃなかったの?」
「一致したさ。要するに、だ。あのディアは左手に印字されているシリアルナンバーのOSと、実際に搭載されているOSが違ったんだ」
「何よそれ! 思いっきり違法改造じゃない!」
そういうことになる。ログを消去するのは確かに怪しい行為ではあるが、極論を言えば所有者の自由。しかしOSの書き換えはまた別だ。左手のシリアルナンバーにセラと記されている以上、作られた当初はその通りだったはずだから、OSを後天的に書き換えたということになる。そしてその行為は、法に触れている。佐倉先生は、接した限りではさほどディアには詳しくないが、少なくとも違法なディアを所持しているということ自体は、逃れようのない事実なのだ。
「なあ翠。あのディアは明らかにおかしいぞ。例のクラッキング、俺は前に、愉快犯のちょっかいだと言ったかもしれないが……こうなるとそれもわからない。俺たちみたいな一般市民がこそこそ嗅ぎ回るのはやめて、大人しく警察にでも何でも頼るべきだ」
俺の助言に対し、しかし翠は、地面に視線を落とし苦々しく言った。
「……それは、出来ない相談ね」
「なぜだ。会社の体裁を気にするのはわかる。だけどガラテイアの後継者として、違法改造を看過するのもどうかと思うぞ」
「まったく正論だわ。でも駄目なのよ。今は、まだ」
翠は無表情で、なおも頑なに否定を返す。
その言葉を聞いて、俺は自分の胸にわずかばかりの疑念と焦燥が生まれるのを感じた。
「……まだ? 何か理由があるのか」
しばらくして翠は「はあ」と短く息をつき、考え事の結論が出たとばかりに空を仰ぐ。
「ま、ここまで調べてもらったわけだし、あんたには喋っとくかー。いやね、ちょっと言いにくいことでは、あるんだけどさ」
後ろに傾いた身体のバランスをとるかのように、足を浮かせてぶらつかせる。短いスカートが、それに合わせてひらひらと揺れる。脱げかけのローファーが宙で踊る。
「半年前の十二月、うちのサーバーは『Sera-003-3085KS207A』から執拗なクラッキングを受けた。もちろん全部門前払いだったけど……って話は、既にしたわね。でも実は、そこからさらに一年前にも、クラッキングを受けてるの。しかもこのときは、そこそこ中まで入り込まれた」
「……おいおい。それって、鉄壁と言われたガラテイアのセキュリティが破られたってことか?」
「真っ向から破られたわけではないわ。さすがにそんなことになっていたら、もっと騒ぎになっているでしょうね。そうじゃなくて、所属している研究員のアカウントを利用されたの。これについては、現在調べている最中よ」
……アカウントを利用されたって、それ、間接的には破られてんじゃねーかよ。
「そんなことがあったのが、今から遡ると一年半前。ところで、ねえ蓮。一年半前っていうと、いったい何があったときでしょう?」
言いながら、翠は突然こちらを向き、覗き込むように俺を見た。いや、一年半前って、そりゃお前……と、俺は思う。そんなの、答えはわかりきっている。
「……時の凍結」
「そ。それは今から一年半前、八月二十三日の午前十一時五十六分の出来事。そしてその瞬間は、まさにうちのサーバーがクラッキングを受けた時刻」
「――なっ!」
はっとなった。そこまで聞いて、俺は翠の言いたいことがわかった気がした。
「あの事件は、全世界共通の大事件だった。もちろんうちのサーバーだって、例外なく被害を受けたわ。重要なデータはしっかり対処されているから無事だったけれど、でも、一時的なログはそうはいかなかった。おかげでそのクラッキングに関するログが、一部吹っ飛んだの。だからクラッキングの元を辿ることは、未だに出来ないでいる。わかっているのは、アクセス方式からしてOSがセラのディアであることだけ」
「……一年半前の時の凍結と、同時に行われたセラOSからのクラッキング。そして、その半年後に執拗に行われた『Sera-003-3085KS207A』からのクラッキング」
「ね? 無関係とは限らないでしょう? 繋がっているのは二つのクラッキングだけじゃない。そのクラッカーは、時の凍結と何らかの関わりがあると、あたしは踏んでるわ」
翠は、ようやく理解の及んだ俺を見て、不適に微笑む――だが笑い事では済まされない。
「……時の凍結の原因は、未だにわかっていないんだっけか」
「恥ずかしい話、ガラテイアもやっきになって調べてはいるけれど、ほとんど何もわかってないのが実状ね。だから、うちとしては掴める情報はどんなものでも掴みたい。あんたもさっき言っていたけれど、時の凍結に関わりのあるかもしれないクラッカーが、佐倉先生だけとは限らないわ。もしかしたらプロキシにされただけかもしれない。トロイでも仕込まれていたのかもしれない。仮に佐倉先生本人が真のクラッカーなのだとしても、詳しいことがわからないこの状況で騒ぎを公にしたら、相手にだって感づかれる。それじゃあ、掴めるものも掴めないわ」
「だから今は、まだ事を大きくできない、と」
「そういうこと」
そこまで述べると、翠は足下に視線を落として、無表情へと戻ってしまった。
少しの沈黙が流れたのち、目の前のロータリーに車の入る音が響いた。黒い、見るからに高級そうな車がそこに停まる。運転席からスーツを着た女の人がすっと現れ、助手席の前に立った。その女性は翠のディア――ステラだ。おそらく翠の呼んだ迎えだろう。
翠も、それには気づいている。しかし依然、腰掛けた花壇から立とうとはしなかった。何となく直感で、翠は俺が口を開くのを待っているのだと思った。
「じゃあ、そうだな……次はあのOS、ヴェイナーについてでも、調べてみるか」
すると途端、まるでスイッチでも切り替えたようにパッとまた笑顔になる。
「あれ? まだ付き合ってくれるんだ? あんたにしては珍しいじゃない」
「……まあ、気にならんと言えば嘘になるからな。それにお前、頭ん中じゃどうせ、俺が動くこと見越してるだろ」
そう言ってやると、翠は至極ご満悦といった様子で答えた。
「さすがね。完璧な以心伝心だわ」
ぬかせ。と俺が抗議する前に、もう翠は、花壇から跳ねるように立ち上がる。
「じゃあ、期待してるわね! ダーリン!」
ああ、わかっていた。こんな風に調査の続行を申し出てしまえば、またも翠の思うツボだとわかっていた。だというのに、なぜ俺は、まんまとそれに乗ってしまったのだろう。
クラッキングの件、多少気になっているというのは嘘ではない。けれども、それだけで翠の傀儡になってやるほど、大きな好奇心でもないはずなのに。自分で自分の行動がわからない。わかるのは、やはり俺は、翠が苦手だということくらいだ。それがどうにも癪で、気分良く帰ろうとしている彼女の背を眺めながら、俺は小さく呟いた。
「いい加減、そういう冗談はやめろっての……」
当然、独り言のつもりだった。だが、どうやら翠には聞こえてしまったらしい。彼女は立ち止まり、その場で振り返らずに言葉だけを返した。
「あはは、まあいいじゃない。もうじきこんな冗談も言えなくなるんだし。大目に見てよ」
「言えなくなるって、そりゃどういう意味だよ」
「あたしね、来月末に結婚するの」
……は? 結婚?
いきなり飛び出てきた単語に頭が追いつかず、俺は思わず固まってしまう。
しばらくすると、翠はようやく首だけをこちらへ向けぎこちなく笑った。
「えっへへー。ジューンブライドよ。いいでしょー」
「……また、随分と急だな。相手は?」
「えっとね、イギリスの人。ディアに使うパーツや新規技術を扱ってる会社の経営者、かな。なんでも、かなり優秀みたいよ。まだ会ったことないんだけど」
「思いっきり政略結婚じゃねーかよ」
「あったり前じゃない。良くも悪くも、あたしみたいなのが恋愛結婚なんてできないわよ」
うわ。なんだそのコメントしづれー返し。つーか今時、政略結婚だなんて、昔の貴族や武士じゃあるまいし……なんて、俺は咄嗟に思ってしまったが、ただ、実際のところはどうなのだろう。今の時代でも、大企業の後継者ともなると、似たようなものなのだろうか。
「まあ……そりゃあ俺には、お嬢のお前の事情なんてわかんねーけどさ。でも、後継者ってのは、会社のためにそこまでしなきゃならんもんなのか?」
「そうね。ならないものよ。あたしの結婚は、今後の会社の発展のために必要だもの」
「いや、そうかもしれないけど……ほら、お前の気持ちとか、そういうのもさ……」
結婚。そんなものは、俺にはまだ全然実感の湧かないものだ。自分の常識のうちにある一般論として、好き合う者同士でするのが当たり前だと思っていた。
けれども、翠はきっぱりとそれを否定する。
「ないわね。あったとしても、残念ながら、それは意味のないものよ。あたしの人生は、あの会社のためにある。シナリオは既に出来上がっている。今回の結婚はそれに則って、あたしが自分で、自分のために、そして会社のためになるように決めた」
清々しかった。清々しいほどに割り切っていて、後悔や不満を感じさせない物言い、そして明るい声だった。それはまるで、他愛もない世間話に興じるかのように、自分にとって当たり前だと思っていることを話す声だ。そんなものを聞いてしまったら、俺は、そういうものなのかと思ってしまう。思うしかなくなってしまう。少なくとも、翠にとっては。
喉から出かかり、くすぶったいくつもの言葉。俺はそれを全部飲み込んで、静かに言う。
「……そうか。じゃあ、えっと……おめでとう、か」
「うん。ありがとう」
そのとき、風が一瞬、吹き抜ける。その風になびく金色の髪が、翠の横顔をそっと隠す。彼女はそのまま、前を向いて歩き出した。
「じゃ、調査よろしくね。それもあたしのシナリオに、ちゃーんと組み込まれてるんだからさ」
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