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貳、ユエ
ユエ②
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店から外に出ると、知らないうちに一雨降ったらしく地面は濡れていた。山とビルでできた空の境界には赤い残照が見え、張り詰めた弓のような半月が雲間から薄く輝いている。道々に佇む街灯には既に光が灯り、仄暗い中でも街は煌々と活気付いていた。
しかし繁華街を離れれば自然と明かりも乏しくなり、徐々に夜の帳が下りてくる。
視覚が頼りなくなれば、その他の感覚が鋭くなるのが人間というものだ。そしてそれは、兎であるアオも同じらしい。ふと隣を歩く彼女を見ると、頭の上に白い耳がピョコっと飛び出て、頻りに周囲の音を探っていた。
「おい。お前、耳」
「しっ! 静かにして!」
俺が注意をしようとした途端にアオは身構える。瞬間、その蒼い瞳を鋭く光らせたかと思うと、俺の身体を抱えて後ろへ飛んだ。
直後、聞き慣れない音とともに、立っていた地面に二つずつ、計四発の弾痕が生まれる。
「なっ!」
突然穿たれたコンクリートの破片が、驚くほどに高く宙へと跳ねた。その光景を、俺の脳はまるでコマ送りのようにゆっくりと追った。
これは、銃弾!?
「左上ね」
着地と同時、アオは俺を庇うように前へ立ち、顔を上げる。暗闇の中のその表情には白い八重歯が光り、不敵な笑みを映し出していた。
アオの視線の先を追う。彼女の言葉通り、左の住宅の屋根に二つの影が見える。そのうち一つが身軽な跳躍で、俺たちの二十メートル前方に着地した。
フードを被った黒い影。そのフードの隙間から、鋭利に尖った長耳と紅い双眸が覗いている。直感でわかった。これは単なる喧嘩の待ち伏せではない。そうした輩とは一線を画す者だ。
目の前のそいつは音もなく片足を上げると、すぐに勢いよく打ち下ろした。靴底がアスファルトを面でとらえたタンッという高音が、しんとした夜の住宅街に、波紋のように響き渡る。
するとそいつの後方から一つ、さらに右のマンションのベランダから一つ影が増え、左後方の路地からも気配が一つ現れる。計、五つ。囲まれたという表現がしっくりくる陣形だ。
そう感じた瞬間、アオが、俺の手を取って駆けた。進路は右後方――包囲網のもっとも薄い方角だ。彼女の素早い初速に肩を抜かれるような感覚を覚えながら、俺も続いて走り出す。
「おい、アオ! どこに行く!?」
「どこでもいいわ! とにかく連中を迎え撃てるところ! 多勢相手に飛び道具じゃ、開けた場所は部が悪いでしょ!」
確かに。銃が相手となると、ここでは四方八方、上からも狙われてしまう。
「けどお前、土地勘ないだろ。無闇に走ってまた囲まれたら――」
「じゃあどっかいい場所探して!」
探してって……しかしここで蜂の巣はもちろん御免だ。俺は脳内の地図を検索、のち答える。
「このまま直進して左に折れると、線路の高架下がある。短いトンネルみたいな――」
「そこでいいわ。急ぐから、速度上げて!」
嘘だろ!? もう既に全力だが……それでもなお、アオの方が速い。着物に、今になって気づいたが草履――しかもそこそこかかとの高い――とは思えない身のこなしだ。
「おい、あいつらは何なんだ?」
俺は必死で走りながら切れ切れの息で尋ねる。
「あれは『地兎』よ。この地上に住む兎」
この地上……つまりは月ではなく地球に住む兎ということだろうか。
「それって普通の兎なんじゃないのか?」
「たぶんあんたが今考えてるのは、また別の生物ね。ほら、よく見て。人の姿してるでしょ」
今は必死に走ってるから全然見えないけど。
「ってことはじゃあ、あいつらも元は兎の姿で、人の姿に変身してるってことか? そんなとんでもない兎、お前の他にもいるってのかよ」
「いるわよ、失礼ね。ちなみに地兎は、あたしたち天兎と、長らく敵対関係にあるわ」
「どうして敵対? すごく似てるのに」
「似てるかしら? 見た目からして違うじゃない。あたしたちは白い。でも地兎は黒い」
「それだけだろ」
「それだけって言うけどね、あんた。外見の違いは、十分に諍いの種になるのよ。あんたたち人間もよくやってんじゃないの? 肌が白いとか黒いとかさ」
……いや、そうだ。言われてしまえばその通りだった。俺は黙すしかない。
荒い息だけで返答がないとわかると、アオは先を続ける。
「まあ、人間にとってその違いがどうかは知らないけど、兎にとってはそれなりに重要なのよ」
必死で走る俺と違い、彼女は頻繁に後方を見やり、敵の攻撃を警戒している。
「あたしたち天兎にはユエが、つまりは月の光が必要って話は、前にしたわね。それは天兎だけじゃなくて、あのこたち地兎も同じなの。たとえ地兎が代々、月から遠く離れた地上に生き、人間並みの少ないユエしか宿していない種族だとしてもね」
余裕のない頭でも、俺はどうにかアオの言葉を理解しようと努めた。曲がり角でわずかに首を振って後方を見やると、敵の姿が思ったより近くにある。長くは逃げられない。
「だったら、地兎も月に住みたいって考えるのが自然でしょ? でも月には天兎が住んでる。あのこたち地兎は、あたしたち天兎が月に住んでることを、快く思っていないのよ」
「一緒に月に住めばいいんじゃないのか?」
「いいえ。それはできない相談ね。月は天兎の世界なの。天兎に古くから伝えられてきた『教え』によれば、白くあることこそが神に、ひいては月に祝福されている証。だから白い天兎だけが、その身に多くのユエを宿している。月の世界では、白こそが至上とされている」
そこまで聞いて、同時に視界が一段階暗くなった。ようやく目的の高架下に逃げ込んだのだ。この場所ならば、警戒すべき方向は前と後ろだけに絞られる。
俺が壁に背を預けて息を荒くする一方、アオは足先でギュッとブレーキをかけ、袖振り舞い踊るように振り返る。
「さて、翻って、やっぱりこのこたちは、黒いのよ。そんな理由で月に住めないことに怒って、天兎を憎むのも無理からぬ話ね」
彼女の右手には白鞘――いつの間に取り出したのか、刃渡り二十五センチ程度の匕首。逆手に持った抜き身の白刃が、わずかに高架下へ入り込んでくる微光を集めて跳ねる。
「あんたはそのまま壁を背に、逆方向を警戒して」
前を向いて構えたアオは、さらに袖の袂から小さな平丸状の何かを取り出す。それをコンパクトミラーのようにパカっと開いて宙へ投げ、勢いよく匕首の先を突き立てた。
すると突然、目の眩むような強い光が溢れて、アオの身体を包み込む。白飛びする空間を細めた目でなんとかとらえ続けていると、光が徐々にうねりをもって匕首へと収束していく。
そして、その光の全てがベールのように刃を包み込むと同時、アオは閃光となって駆けた。
敵影は五。うち前衛にいた二人が、アオに向かって拳銃を構える。撃ち出された二発の弾を、アオは右へと折れてかわす。そのまま勢いで壁を蹴って上昇。天井を足場に、敵の頭上から落下しつつ二つの拳銃を切断した。
体勢を低くしたまま敵二人の足をいっぺんに払い、さらに奥へと進む。
後衛三人は、アオの突撃にうろたえながらも拳銃で応戦。しかし、飛び交う複数の銃弾をアオは、かわす、匕首で弾くなどして難なく捌いた。
敵とアオ、動きと判断の速度がまるで違う。
瞬く間にアオは一人に接近し、匕首の柄頭で腹部を突く。ついでに怯んだ相手の拳銃を切断。さらに目にも留まらぬ速さで残り二人の中間を駆け抜け、その手の拳銃を切り落とした。
残った勢いは壁に着地して一旦相殺。優雅な跳躍で敵を飛び越し、俺の方へと戻ってくる。
アオが駆け出してからここまで、わずか十秒足らずの出来事だった。
当然、俺の脳では大いに処理が滞る。目から入ってきた光景が少しずつ遅れて処理され、それが現実に追いついた頃には、揃って武器を失った敵が口惜しそうに逃げていくところだった。
しかし、道の真ん中で立っているアオの顔は晴れやかではなく、かといって厳しくもなく……ただ無表情で、連中の去った方を見つめて呟く。
「……あたしだって、こんなことしたいわけじゃあないけどさ。でも、だからって黙ってやられるわけにも、いかないのよね……」
その立ち姿は、到底俺から声をかけられるようなものではなかった。わずかな沈黙を挟み、やがて彼女は仕切り直すようにスッと息を吸い込むと、涼しい顔でこちらまで歩いてくる。
「無事よね?」
「……あ、ああ、問題ない。にしてもお前、えげつねー強さだな」
「嫌な褒め方ね」
ふっ、というやや自嘲気味な笑いとともに、彼女は袖の袂に手を差し込んだ。
「でも別に、あたしはそれほど強くもないわ。特に地上だと、もう、身体が重くって」
「重くてあれか」
「違うわよ。今のは、ほとんどこれのおかげ」
「それは……さっきの……」
アオが取り出したのは、戦いの前にちらりと見えたのと同じ、平丸状の物体だった。俺に向かって開かれたそいつの内側には、ちょうど片手に収まるくらいの、強い輝きを放つ円。あたかも小さな満月がそこにあるかのような光景に、俺は思わず目を奪われる。
「『手鏡』――月にある貯蔵の宝具よ。兎のユエの源である月の光を、封じ込めておくことができるの。月からこっちに来るとき、いくつか持ってきた」
「へぇ……そんなものがあるのか」
月の光の、貯金箱みたいなものだろうか。確かアオはさきほど、この円い鏡面に刃先を突き立て、そこから溢れ出た光を浴びて戦った。つまりはそれが、この手鏡の開封の方法であり、貯金箱を叩き壊してお金を取り出す行為に等しい。
「光を貯められるのは一度きり。使えば、こうなる」
アオは輝く小さな満月を引っ込めると、袂からもう一つ、別の手鏡を取り出した。開いて見せられたその鏡面は既に割れていて、輝きのない、ただの曇った鏡に過ぎなかった。
「消耗品よ。かつ、それなりに貴重品。もちろん地上で手に入るわけもなく、数には限りがある。でも今は、あんたも一緒だし、安全のために使ったわ」
「じゃあ、そのナイフは?」
「これはただの匕首よ。あたしのユエを流し込んで、丈夫にしただけ」
アオは平気な顔で、抜き身の匕首をくるくると宙で弄ぶ。
「ほらこの通り、ピカピカで綺麗なだけの、何の変哲もない匕首よ」
「わ、わかった。わかったから……とりあえずしまってくれ。思いっきり銃刀法違反だから」
誤って触れれば、綺麗にスッパリ切れそうな鋭い刀身。特別な武器ではなくとも、少しヒヤッとする代物だ。
いや、しかし、それは何もこの匕首だけではない。さきほどまで俺たちを狙っていた、今は切断されて道端に転がっているアレ――黒光りするあの拳銃にも言えることだ。
「じゅーとー、なんて?」
匕首を鞘に収めながら、アオは不思議そうに尋ねる。まあ、酒のときと同じで、こいつが日本の法律など知っているわけがない。俺は複雑な表情のまま銃刀法について説明をした。
「何よ、この国にはそんな面倒な決まりがあるの? 不便ねぇ」
争いのない平和な国だからこその決まりだろう。誰もが皆、そんな平和に慣れきっている。
ああ、それゆえだろうか。俺は今も、平気そうに喋ってはいてもまだ頭がついてきておらず、あまり命を狙われたという実感がない。何せ体感では一瞬の出来事で、あまりに非日常が過ぎた時間。あんな、誰とも知れない黒ずくめのフードに追われて、銃声が何度も響いて――。
そうだ、銃声!
俺は今更のように慌て始める。
「アオ、今すぐここから離れるぞ。銃声が周りに響いたんだ。騒ぎになるかもしれない」
「そうなの? 今んとこ特に、そういう気配はないけど」
「今はなくても、警察とか野次馬ってのは途端に現れるもんなんだ」
その昔、ひとけのないところで喧嘩をしていたときも、そういう人間はすぐやってきた。一方は仕事で一方は暇人。しかも道端に落ちた銃の残骸を見れば、ただごとでないのは明白だ。
「よく出てくるわね、けーさつ。あと、やじうま? 地上にはおかしなのがいっぱい」
「いいから早く行くぞ。お前みたいなおかしな兎連れて、もし面倒事になったらまともな言い分なんか絶対通らないんだ」
「ちょっとあんた、あたしのことなんだと思ってんの?」
こいつの抗議はどうでもいいから、とにかく早く家に帰ろう。ここから家に最短距離で向かうなら、高架下から街の西側に出て、北上してからもう一度線路を跨いで東側に出るルートだ。
そして俺はアオの手を取った。
「あ、待って」
「なんだよ! とにかく今は早くここから――」
動く気配のない彼女に、俺は振り返る。くだらない話だったらすぐに遮って連れていこうと思ったが、しかし存外、彼女の表情はまともだった。
「今夜は、そっちに行くのはやめたほうがいいわ。この街、そっち側で極端に地兎の匂いが濃いから。家に向かうなら、こっちね」
アオは、俺の進もうとした方とは逆の出口を指差す。何を言われたのかすぐにはわからなかったが、ここは街を横切る線路の高架下で、彼女の言う「そっち側」とはつまり、街の西側だ。
匂い……アオの嗅覚は、先日登校の跡をつけられたことで身をもって知っている。馬鹿にはできない。ここは素直に従って、多少の迂回をしてでも東側から帰宅するべきか。
そうして俺とアオは、少し長めの帰路についた。
しかし繁華街を離れれば自然と明かりも乏しくなり、徐々に夜の帳が下りてくる。
視覚が頼りなくなれば、その他の感覚が鋭くなるのが人間というものだ。そしてそれは、兎であるアオも同じらしい。ふと隣を歩く彼女を見ると、頭の上に白い耳がピョコっと飛び出て、頻りに周囲の音を探っていた。
「おい。お前、耳」
「しっ! 静かにして!」
俺が注意をしようとした途端にアオは身構える。瞬間、その蒼い瞳を鋭く光らせたかと思うと、俺の身体を抱えて後ろへ飛んだ。
直後、聞き慣れない音とともに、立っていた地面に二つずつ、計四発の弾痕が生まれる。
「なっ!」
突然穿たれたコンクリートの破片が、驚くほどに高く宙へと跳ねた。その光景を、俺の脳はまるでコマ送りのようにゆっくりと追った。
これは、銃弾!?
「左上ね」
着地と同時、アオは俺を庇うように前へ立ち、顔を上げる。暗闇の中のその表情には白い八重歯が光り、不敵な笑みを映し出していた。
アオの視線の先を追う。彼女の言葉通り、左の住宅の屋根に二つの影が見える。そのうち一つが身軽な跳躍で、俺たちの二十メートル前方に着地した。
フードを被った黒い影。そのフードの隙間から、鋭利に尖った長耳と紅い双眸が覗いている。直感でわかった。これは単なる喧嘩の待ち伏せではない。そうした輩とは一線を画す者だ。
目の前のそいつは音もなく片足を上げると、すぐに勢いよく打ち下ろした。靴底がアスファルトを面でとらえたタンッという高音が、しんとした夜の住宅街に、波紋のように響き渡る。
するとそいつの後方から一つ、さらに右のマンションのベランダから一つ影が増え、左後方の路地からも気配が一つ現れる。計、五つ。囲まれたという表現がしっくりくる陣形だ。
そう感じた瞬間、アオが、俺の手を取って駆けた。進路は右後方――包囲網のもっとも薄い方角だ。彼女の素早い初速に肩を抜かれるような感覚を覚えながら、俺も続いて走り出す。
「おい、アオ! どこに行く!?」
「どこでもいいわ! とにかく連中を迎え撃てるところ! 多勢相手に飛び道具じゃ、開けた場所は部が悪いでしょ!」
確かに。銃が相手となると、ここでは四方八方、上からも狙われてしまう。
「けどお前、土地勘ないだろ。無闇に走ってまた囲まれたら――」
「じゃあどっかいい場所探して!」
探してって……しかしここで蜂の巣はもちろん御免だ。俺は脳内の地図を検索、のち答える。
「このまま直進して左に折れると、線路の高架下がある。短いトンネルみたいな――」
「そこでいいわ。急ぐから、速度上げて!」
嘘だろ!? もう既に全力だが……それでもなお、アオの方が速い。着物に、今になって気づいたが草履――しかもそこそこかかとの高い――とは思えない身のこなしだ。
「おい、あいつらは何なんだ?」
俺は必死で走りながら切れ切れの息で尋ねる。
「あれは『地兎』よ。この地上に住む兎」
この地上……つまりは月ではなく地球に住む兎ということだろうか。
「それって普通の兎なんじゃないのか?」
「たぶんあんたが今考えてるのは、また別の生物ね。ほら、よく見て。人の姿してるでしょ」
今は必死に走ってるから全然見えないけど。
「ってことはじゃあ、あいつらも元は兎の姿で、人の姿に変身してるってことか? そんなとんでもない兎、お前の他にもいるってのかよ」
「いるわよ、失礼ね。ちなみに地兎は、あたしたち天兎と、長らく敵対関係にあるわ」
「どうして敵対? すごく似てるのに」
「似てるかしら? 見た目からして違うじゃない。あたしたちは白い。でも地兎は黒い」
「それだけだろ」
「それだけって言うけどね、あんた。外見の違いは、十分に諍いの種になるのよ。あんたたち人間もよくやってんじゃないの? 肌が白いとか黒いとかさ」
……いや、そうだ。言われてしまえばその通りだった。俺は黙すしかない。
荒い息だけで返答がないとわかると、アオは先を続ける。
「まあ、人間にとってその違いがどうかは知らないけど、兎にとってはそれなりに重要なのよ」
必死で走る俺と違い、彼女は頻繁に後方を見やり、敵の攻撃を警戒している。
「あたしたち天兎にはユエが、つまりは月の光が必要って話は、前にしたわね。それは天兎だけじゃなくて、あのこたち地兎も同じなの。たとえ地兎が代々、月から遠く離れた地上に生き、人間並みの少ないユエしか宿していない種族だとしてもね」
余裕のない頭でも、俺はどうにかアオの言葉を理解しようと努めた。曲がり角でわずかに首を振って後方を見やると、敵の姿が思ったより近くにある。長くは逃げられない。
「だったら、地兎も月に住みたいって考えるのが自然でしょ? でも月には天兎が住んでる。あのこたち地兎は、あたしたち天兎が月に住んでることを、快く思っていないのよ」
「一緒に月に住めばいいんじゃないのか?」
「いいえ。それはできない相談ね。月は天兎の世界なの。天兎に古くから伝えられてきた『教え』によれば、白くあることこそが神に、ひいては月に祝福されている証。だから白い天兎だけが、その身に多くのユエを宿している。月の世界では、白こそが至上とされている」
そこまで聞いて、同時に視界が一段階暗くなった。ようやく目的の高架下に逃げ込んだのだ。この場所ならば、警戒すべき方向は前と後ろだけに絞られる。
俺が壁に背を預けて息を荒くする一方、アオは足先でギュッとブレーキをかけ、袖振り舞い踊るように振り返る。
「さて、翻って、やっぱりこのこたちは、黒いのよ。そんな理由で月に住めないことに怒って、天兎を憎むのも無理からぬ話ね」
彼女の右手には白鞘――いつの間に取り出したのか、刃渡り二十五センチ程度の匕首。逆手に持った抜き身の白刃が、わずかに高架下へ入り込んでくる微光を集めて跳ねる。
「あんたはそのまま壁を背に、逆方向を警戒して」
前を向いて構えたアオは、さらに袖の袂から小さな平丸状の何かを取り出す。それをコンパクトミラーのようにパカっと開いて宙へ投げ、勢いよく匕首の先を突き立てた。
すると突然、目の眩むような強い光が溢れて、アオの身体を包み込む。白飛びする空間を細めた目でなんとかとらえ続けていると、光が徐々にうねりをもって匕首へと収束していく。
そして、その光の全てがベールのように刃を包み込むと同時、アオは閃光となって駆けた。
敵影は五。うち前衛にいた二人が、アオに向かって拳銃を構える。撃ち出された二発の弾を、アオは右へと折れてかわす。そのまま勢いで壁を蹴って上昇。天井を足場に、敵の頭上から落下しつつ二つの拳銃を切断した。
体勢を低くしたまま敵二人の足をいっぺんに払い、さらに奥へと進む。
後衛三人は、アオの突撃にうろたえながらも拳銃で応戦。しかし、飛び交う複数の銃弾をアオは、かわす、匕首で弾くなどして難なく捌いた。
敵とアオ、動きと判断の速度がまるで違う。
瞬く間にアオは一人に接近し、匕首の柄頭で腹部を突く。ついでに怯んだ相手の拳銃を切断。さらに目にも留まらぬ速さで残り二人の中間を駆け抜け、その手の拳銃を切り落とした。
残った勢いは壁に着地して一旦相殺。優雅な跳躍で敵を飛び越し、俺の方へと戻ってくる。
アオが駆け出してからここまで、わずか十秒足らずの出来事だった。
当然、俺の脳では大いに処理が滞る。目から入ってきた光景が少しずつ遅れて処理され、それが現実に追いついた頃には、揃って武器を失った敵が口惜しそうに逃げていくところだった。
しかし、道の真ん中で立っているアオの顔は晴れやかではなく、かといって厳しくもなく……ただ無表情で、連中の去った方を見つめて呟く。
「……あたしだって、こんなことしたいわけじゃあないけどさ。でも、だからって黙ってやられるわけにも、いかないのよね……」
その立ち姿は、到底俺から声をかけられるようなものではなかった。わずかな沈黙を挟み、やがて彼女は仕切り直すようにスッと息を吸い込むと、涼しい顔でこちらまで歩いてくる。
「無事よね?」
「……あ、ああ、問題ない。にしてもお前、えげつねー強さだな」
「嫌な褒め方ね」
ふっ、というやや自嘲気味な笑いとともに、彼女は袖の袂に手を差し込んだ。
「でも別に、あたしはそれほど強くもないわ。特に地上だと、もう、身体が重くって」
「重くてあれか」
「違うわよ。今のは、ほとんどこれのおかげ」
「それは……さっきの……」
アオが取り出したのは、戦いの前にちらりと見えたのと同じ、平丸状の物体だった。俺に向かって開かれたそいつの内側には、ちょうど片手に収まるくらいの、強い輝きを放つ円。あたかも小さな満月がそこにあるかのような光景に、俺は思わず目を奪われる。
「『手鏡』――月にある貯蔵の宝具よ。兎のユエの源である月の光を、封じ込めておくことができるの。月からこっちに来るとき、いくつか持ってきた」
「へぇ……そんなものがあるのか」
月の光の、貯金箱みたいなものだろうか。確かアオはさきほど、この円い鏡面に刃先を突き立て、そこから溢れ出た光を浴びて戦った。つまりはそれが、この手鏡の開封の方法であり、貯金箱を叩き壊してお金を取り出す行為に等しい。
「光を貯められるのは一度きり。使えば、こうなる」
アオは輝く小さな満月を引っ込めると、袂からもう一つ、別の手鏡を取り出した。開いて見せられたその鏡面は既に割れていて、輝きのない、ただの曇った鏡に過ぎなかった。
「消耗品よ。かつ、それなりに貴重品。もちろん地上で手に入るわけもなく、数には限りがある。でも今は、あんたも一緒だし、安全のために使ったわ」
「じゃあ、そのナイフは?」
「これはただの匕首よ。あたしのユエを流し込んで、丈夫にしただけ」
アオは平気な顔で、抜き身の匕首をくるくると宙で弄ぶ。
「ほらこの通り、ピカピカで綺麗なだけの、何の変哲もない匕首よ」
「わ、わかった。わかったから……とりあえずしまってくれ。思いっきり銃刀法違反だから」
誤って触れれば、綺麗にスッパリ切れそうな鋭い刀身。特別な武器ではなくとも、少しヒヤッとする代物だ。
いや、しかし、それは何もこの匕首だけではない。さきほどまで俺たちを狙っていた、今は切断されて道端に転がっているアレ――黒光りするあの拳銃にも言えることだ。
「じゅーとー、なんて?」
匕首を鞘に収めながら、アオは不思議そうに尋ねる。まあ、酒のときと同じで、こいつが日本の法律など知っているわけがない。俺は複雑な表情のまま銃刀法について説明をした。
「何よ、この国にはそんな面倒な決まりがあるの? 不便ねぇ」
争いのない平和な国だからこその決まりだろう。誰もが皆、そんな平和に慣れきっている。
ああ、それゆえだろうか。俺は今も、平気そうに喋ってはいてもまだ頭がついてきておらず、あまり命を狙われたという実感がない。何せ体感では一瞬の出来事で、あまりに非日常が過ぎた時間。あんな、誰とも知れない黒ずくめのフードに追われて、銃声が何度も響いて――。
そうだ、銃声!
俺は今更のように慌て始める。
「アオ、今すぐここから離れるぞ。銃声が周りに響いたんだ。騒ぎになるかもしれない」
「そうなの? 今んとこ特に、そういう気配はないけど」
「今はなくても、警察とか野次馬ってのは途端に現れるもんなんだ」
その昔、ひとけのないところで喧嘩をしていたときも、そういう人間はすぐやってきた。一方は仕事で一方は暇人。しかも道端に落ちた銃の残骸を見れば、ただごとでないのは明白だ。
「よく出てくるわね、けーさつ。あと、やじうま? 地上にはおかしなのがいっぱい」
「いいから早く行くぞ。お前みたいなおかしな兎連れて、もし面倒事になったらまともな言い分なんか絶対通らないんだ」
「ちょっとあんた、あたしのことなんだと思ってんの?」
こいつの抗議はどうでもいいから、とにかく早く家に帰ろう。ここから家に最短距離で向かうなら、高架下から街の西側に出て、北上してからもう一度線路を跨いで東側に出るルートだ。
そして俺はアオの手を取った。
「あ、待って」
「なんだよ! とにかく今は早くここから――」
動く気配のない彼女に、俺は振り返る。くだらない話だったらすぐに遮って連れていこうと思ったが、しかし存外、彼女の表情はまともだった。
「今夜は、そっちに行くのはやめたほうがいいわ。この街、そっち側で極端に地兎の匂いが濃いから。家に向かうなら、こっちね」
アオは、俺の進もうとした方とは逆の出口を指差す。何を言われたのかすぐにはわからなかったが、ここは街を横切る線路の高架下で、彼女の言う「そっち側」とはつまり、街の西側だ。
匂い……アオの嗅覚は、先日登校の跡をつけられたことで身をもって知っている。馬鹿にはできない。ここは素直に従って、多少の迂回をしてでも東側から帰宅するべきか。
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