25 / 36
肆、地兎
地兎③
しおりを挟む
通話を終え、月見里は再びスマホを杏朱という黒兎に渡し……それから一心不乱に外を見ていた。広がる庭園を――いや、その先に見える、屋上からの眼下の景色を。
そしてふいに、高く澄んだ声で言った。
「俺のことはいいから……なんて、大事になされているんですね」
アオのことを言っているのだろうか。そりゃ、もちろん心配はしてるけど……。
俺が答えずにいると、月見里は短く息をついてまた続けた。
「手荒をして、申し訳ないとは思っていますよ」
それは……逆に言えば思っているだけで、行動は変えないという宣言でもあった。もちろん、月見里にも色々と事情はありそうだが。
「……でも、さすがにスタンガンはひどい」
「はい。ですが、宮東さんに本気で抵抗されると、こちらとしても困りまして。もう使いませんよ。用が済みましたから」
それもそれでちょっとひどい気がする……とまあ、そんなことはさておき。
「なあ……月見里は、本当に地兎なのか?」
「はい」とすぐに返る。「いつもは耳を髪に寝かせて、尻尾はスカートの中。それと、黒のカラーコンタクトです」
「じゃあ、もしかして今日、月見里が学校を休んだのは……新月の日だからか?」
そして今日以外にも、これまで月一ペースでパラパラ遅刻や欠席をしていたのも、あるいは。
「その通りです。地兎も天兎も、兎である限りこの地上では例外なく、新月の日に兎の姿へと戻ります。それは太陽光を反射した月からの光が、たとえ一時的ではあっても完全に供給されなくなってしまうことによって起こると考えられています」
兎にとって月から降る光が大切なものであることは、以前にアオからも聞いている。
「一口に新月の日と言っても、当然ながら、明確に新月となる瞬間――月齢のゼロとなる瞬間がございます。この月齢ゼロの瞬間を中心に、約一日から数時間の振れ幅を持って、私たち兎にとっての不自由な時間が訪れます」
「不自由な、時間……」
「はい。この日、兎に戻っているときは、その身に有すユエのほとんどを使うことができないのです。身の内にいくら多くのユエを蓄えたとしても、この斎日は避けられません。人の姿を保つためには内のユエだけでなく、身体の外からも月の光に照らされなければならないのか、また個々の体調やユエの状態にも依存するのか……未だにわかっていないことは多い」
俺は部屋の隅で壁を背に座りながら、背を向けたままの彼女の声に耳を傾けた。
「実際、今日の新月の瞬間は、午後十一時三十二分。現在は午後六時二十分ですが……例えば、さきほどからこの部屋に出入りしている杏朱――私の世話係兼後見役の彼女は、もう既に人の姿をとれません」
俺がこの部屋で見る杏朱という彼女は、一度も人の姿を見せることなく、何をするにもずっと兎の姿だった。おそらくは今日のもっと早い時刻から、そういう状態だったに違いない。
「対して私は、今日はまだ、人の姿を保てています。厄介なのは、これが常にそうというわけではなく、別の新月の日にはまったく逆の立場だった経験もあるということです」
「複雑……なんだな」
「ええ、とても。そして、自分が極めて無力になってしまう時間というのは、とても恐ろしいものです。それは兎として生きる中で、もっとも弱い時間。自分にいつその時が訪れるのか、また、いつその時が終わるのか。この斎日、私たちは常に神経を尖らせています」
人間として生まれ、常に人間の姿で生きている俺にとっては、理解のしようもないことだ。その恐ろしさはきっと、俺が簡単にわかると口にしていいものではないのだろう。
では、アオは……。アオは、そんな恐怖を抱えながら、俺のいるこの場所へ――敵地の中へ来ようとしているのだ。
月見里は音もなく半身で振り返って俺に告げる。
「けれども、こと私たち地兎が天兎と戦う場合においては、話は別です。少ないユエしか持たない地兎が、多くのユエを持つ天兎と戦うには、逆に新月の斎日が好機となる。つまり今日は、彼我の戦力差がもっとも縮まる好機なのです」
正面に見えるのは、すっかり日の落ちた昏い空。同じく暗い室内で紅く輝く彼女の瞳には、強い意志が感じられた。
「アオと……戦うつもりなのか」
「はい。初日の五匹の仲間に始まり、これまで多くの仲間が追い返されておりますが……今日はさらに数も多い。ここら一帯には、多くの地兎が住んでいますので」
「なあ。できればアオにも、手荒はやめてほしいんだ」
「それは先方次第ですね」
「どうして……アオを狙うんだ」
「理由はいくつかあります。ですが、宮東さんが知る必要はありません。ただ、それでも、一つだけ申し上げるなら……」
そこで月見里は、再び外に視線を向ける。
「どんな獣でも縄張りを荒らされるというのは、気持ちの良いことではありませんから」
同時に階下で「ダン」という音がした。今となっては聞き慣れてしまった、足で地を打ち鳴らしたときのものだ。ただ、それは一つではなく、小さな音がいくつも重なって響いている。地を揺らすような多重低音。
「どうやらご到着のようです」
もう見えなくなった彼女の瞳が、今、はっきりと何かを捉えたと、俺にはわかった。
そしてふいに、高く澄んだ声で言った。
「俺のことはいいから……なんて、大事になされているんですね」
アオのことを言っているのだろうか。そりゃ、もちろん心配はしてるけど……。
俺が答えずにいると、月見里は短く息をついてまた続けた。
「手荒をして、申し訳ないとは思っていますよ」
それは……逆に言えば思っているだけで、行動は変えないという宣言でもあった。もちろん、月見里にも色々と事情はありそうだが。
「……でも、さすがにスタンガンはひどい」
「はい。ですが、宮東さんに本気で抵抗されると、こちらとしても困りまして。もう使いませんよ。用が済みましたから」
それもそれでちょっとひどい気がする……とまあ、そんなことはさておき。
「なあ……月見里は、本当に地兎なのか?」
「はい」とすぐに返る。「いつもは耳を髪に寝かせて、尻尾はスカートの中。それと、黒のカラーコンタクトです」
「じゃあ、もしかして今日、月見里が学校を休んだのは……新月の日だからか?」
そして今日以外にも、これまで月一ペースでパラパラ遅刻や欠席をしていたのも、あるいは。
「その通りです。地兎も天兎も、兎である限りこの地上では例外なく、新月の日に兎の姿へと戻ります。それは太陽光を反射した月からの光が、たとえ一時的ではあっても完全に供給されなくなってしまうことによって起こると考えられています」
兎にとって月から降る光が大切なものであることは、以前にアオからも聞いている。
「一口に新月の日と言っても、当然ながら、明確に新月となる瞬間――月齢のゼロとなる瞬間がございます。この月齢ゼロの瞬間を中心に、約一日から数時間の振れ幅を持って、私たち兎にとっての不自由な時間が訪れます」
「不自由な、時間……」
「はい。この日、兎に戻っているときは、その身に有すユエのほとんどを使うことができないのです。身の内にいくら多くのユエを蓄えたとしても、この斎日は避けられません。人の姿を保つためには内のユエだけでなく、身体の外からも月の光に照らされなければならないのか、また個々の体調やユエの状態にも依存するのか……未だにわかっていないことは多い」
俺は部屋の隅で壁を背に座りながら、背を向けたままの彼女の声に耳を傾けた。
「実際、今日の新月の瞬間は、午後十一時三十二分。現在は午後六時二十分ですが……例えば、さきほどからこの部屋に出入りしている杏朱――私の世話係兼後見役の彼女は、もう既に人の姿をとれません」
俺がこの部屋で見る杏朱という彼女は、一度も人の姿を見せることなく、何をするにもずっと兎の姿だった。おそらくは今日のもっと早い時刻から、そういう状態だったに違いない。
「対して私は、今日はまだ、人の姿を保てています。厄介なのは、これが常にそうというわけではなく、別の新月の日にはまったく逆の立場だった経験もあるということです」
「複雑……なんだな」
「ええ、とても。そして、自分が極めて無力になってしまう時間というのは、とても恐ろしいものです。それは兎として生きる中で、もっとも弱い時間。自分にいつその時が訪れるのか、また、いつその時が終わるのか。この斎日、私たちは常に神経を尖らせています」
人間として生まれ、常に人間の姿で生きている俺にとっては、理解のしようもないことだ。その恐ろしさはきっと、俺が簡単にわかると口にしていいものではないのだろう。
では、アオは……。アオは、そんな恐怖を抱えながら、俺のいるこの場所へ――敵地の中へ来ようとしているのだ。
月見里は音もなく半身で振り返って俺に告げる。
「けれども、こと私たち地兎が天兎と戦う場合においては、話は別です。少ないユエしか持たない地兎が、多くのユエを持つ天兎と戦うには、逆に新月の斎日が好機となる。つまり今日は、彼我の戦力差がもっとも縮まる好機なのです」
正面に見えるのは、すっかり日の落ちた昏い空。同じく暗い室内で紅く輝く彼女の瞳には、強い意志が感じられた。
「アオと……戦うつもりなのか」
「はい。初日の五匹の仲間に始まり、これまで多くの仲間が追い返されておりますが……今日はさらに数も多い。ここら一帯には、多くの地兎が住んでいますので」
「なあ。できればアオにも、手荒はやめてほしいんだ」
「それは先方次第ですね」
「どうして……アオを狙うんだ」
「理由はいくつかあります。ですが、宮東さんが知る必要はありません。ただ、それでも、一つだけ申し上げるなら……」
そこで月見里は、再び外に視線を向ける。
「どんな獣でも縄張りを荒らされるというのは、気持ちの良いことではありませんから」
同時に階下で「ダン」という音がした。今となっては聞き慣れてしまった、足で地を打ち鳴らしたときのものだ。ただ、それは一つではなく、小さな音がいくつも重なって響いている。地を揺らすような多重低音。
「どうやらご到着のようです」
もう見えなくなった彼女の瞳が、今、はっきりと何かを捉えたと、俺にはわかった。
0
あなたにおすすめの小説
むっつり金持ち高校生、巨乳美少女たちに囲まれて学園ハーレム
ピコサイクス
青春
顔は普通、性格も地味。
けれど実は金持ちな高校一年生――俺、朝倉健斗。
学校では埋もれキャラのはずなのに、なぜか周りは巨乳美女ばかり!?
大学生の家庭教師、年上メイド、同級生ギャルに清楚系美少女……。
真面目な御曹司を演じつつ、内心はむっつりスケベ。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
後宮の手かざし皇后〜盲目のお飾り皇后が持つ波動の力〜
二位関りをん
キャラ文芸
龍の国の若き皇帝・浩明に5大名家の娘である美華が皇后として嫁いできた。しかし美華は病により目が見えなくなっていた。
そんな美華を冷たくあしらう浩明。婚儀の夜、美華の目の前で彼女付きの女官が心臓発作に倒れてしまう。
その時。美華は慌てること無く駆け寄り、女官に手をかざすと女官は元気になる。
どうも美華には不思議な力があるようで…?
まだ見ぬ未来へ駆け抜けて!
小林汐希
ライト文芸
2年5組の生徒:松本花菜(17歳 高校2年生)
2年5組の担任:長谷川啓太(23歳 教師歴1年目)
幼い頃から、様々な悩みを抱えながら過ごしてきた花菜。
それは幼い頃に父との離別を経験した家庭環境だったり、小学校の最後に作ってしまった体の古傷であったり。
学校外の時間を一人で過ごすことになった彼女の唯一、かつ絶対的な味方でいてくれたのが、近所に住む啓太お兄ちゃんだった。
しかし年の離れた二人の関係では仕方ないとはいえ、啓太の大学進学や環境変化とともに、その時間は終わりを迎えてしまう。
ふさぎ込む花菜を前に、啓太は最後に「必ず迎えに来る」という言葉を残して街を離れた。
言葉を受け取った花菜は、自分を泣かせないための慰めだったという諦めも入りつつ、一方で微かな希望として心の中で温め続けていた。
数年の時を経て二人が再び顔を合わせたものの、もはや運命の意地悪とでもいうべき「担任教師と生徒」という関係。
最初は様子伺いだったけれど、往時の気持ちが変わっていないことを再確認してからは、「一人じゃない」と嬉しいこと・辛いことも乗り越えていく二人には少しずつ背中を押してくれる味方も増えていく。
再会した当初は「おとなしい終末的運命キャラ」になっていた花菜も次第に自信を取り戻し、新米教師の啓太も花菜のサポートを裏で受けつつ堂々と教壇に立ち続けた。
そんな互いを支えあった二人の前に開けた世界は……。
たった一つだけの約束を胸に、嬉しいときは一緒に喜び、悲しいときは支えあって走り抜けた二人の物語です。
愛人を選んだ夫を捨てたら、元婚約者の公爵に捕まりました
由香
恋愛
伯爵夫人リュシエンヌは、夫が公然と愛人を囲う結婚生活を送っていた。
尽くしても感謝されず、妻としての役割だけを求められる日々。
けれど彼女は、泣きわめくことも縋ることもなく、静かに離婚を選ぶ。
そうして“捨てられた妻”になったはずの彼女の前に現れたのは、かつて婚約していた元婚約者――冷静沈着で有能な公爵セドリックだった。
再会とともに始まるのは、彼女の価値を正しく理解し、決して手放さない男による溺愛の日々。
一方、彼女を失った元夫は、妻が担っていたすべてを失い、社会的にも転落していく。
“尽くすだけの妻”から、“選ばれ、守られる女性”へ。
静かに離婚しただけなのに、
なぜか元婚約者の公爵に捕まりました。
明治かんなぎ少女の冥契 五百年の時を超えて、あなたに愛を
花籠しずく
キャラ文芸
――ですが、わたくしは生まれました。あなたに会うために。
月のものが来るようになってから、琥珀は不思議な夢を見る。誰かに探されている夢。きっと大切な人だったことは分かるのに、目が覚めると朧気で何も思い出せない。婚約者である志貴の言いなりの人形になる生活をし、生家とは会うと脅され、心が疲弊していたある日、家からひとり抜け出すと、妖魔のようなものに出会う。呪術師である志貴に、一時祓ってもらいはしたが、不思議と心が痛む。夢に美しい男が現れ、声に導かれるようにして、ある山のふもとの、廃れた神社の中に入ると、そこには苦しそうに蹲るあの妖魔がいた。琥珀はそれが夢に現れた、蘿月という男だと直感する。全身が黒い靄で包まれた彼の、靄を払う方法を、どうしてか琥珀は知っていた。口づけをし、息を吹き込むように、生きて、と願った。
帰ってすぐに志貴に殴られ、月のものがはじまっていたことが志貴にばれる。琥珀を穢そうとする志貴の様子に恐ろしさを覚えて、助けてと叫んだその瞬間、闇を裂くようにして、蘿月が現れた。
「琥珀は、俺が五百年待ち望んだ花嫁だ」
これは、時を超えて紡がれる愛の物語。そして虐げられた少女が、愛を知り、愛のために生きる自由を選ぶ物語。
※R-15っぽいゆるい性描写があります。
ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話
桜井正宗
青春
――結婚しています!
それは二人だけの秘密。
高校二年の遙と遥は結婚した。
近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。
キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。
ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。
*結婚要素あり
*ヤンデレ要素あり
お兄ちゃんはお兄ちゃんだけど、お兄ちゃんなのにお兄ちゃんじゃない!?
すずなり。
恋愛
幼いころ、母に施設に預けられた鈴(すず)。
お母さん「病気を治して迎えにくるから待ってて?」
その母は・・迎えにくることは無かった。
代わりに迎えに来た『父』と『兄』。
私の引き取り先は『本当の家』だった。
お父さん「鈴の家だよ?」
鈴「私・・一緒に暮らしていいんでしょうか・・。」
新しい家で始まる生活。
でも私は・・・お母さんの病気の遺伝子を受け継いでる・・・。
鈴「うぁ・・・・。」
兄「鈴!?」
倒れることが多くなっていく日々・・・。
そんな中でも『恋』は私の都合なんて考えてくれない。
『もう・・妹にみれない・・・。』
『お兄ちゃん・・・。』
「お前のこと、施設にいたころから好きだった・・・!」
「ーーーーっ!」
※本編には病名や治療法、薬などいろいろ出てきますが、全て想像の世界のお話です。現実世界とは一切関係ありません。
※コメントや感想などは受け付けることはできません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
※孤児、脱字などチェックはしてますが漏れもあります。ご容赦ください。
※表現不足なども重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけたら幸いです。(それはもう『へぇー・・』ぐらいに。)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる