月に兎がおりまして

りずべす

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肆、地兎

地兎③

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 通話を終え、月見里は再びスマホを杏朱という黒兎に渡し……それから一心不乱に外を見ていた。広がる庭園を――いや、その先に見える、屋上からの眼下の景色を。
 そしてふいに、高く澄んだ声で言った。
「俺のことはいいから……なんて、大事になされているんですね」
 アオのことを言っているのだろうか。そりゃ、もちろん心配はしてるけど……。
 俺が答えずにいると、月見里は短く息をついてまた続けた。
「手荒をして、申し訳ないとは思っていますよ」
 それは……逆に言えば思っているだけで、行動は変えないという宣言でもあった。もちろん、月見里にも色々と事情はありそうだが。
「……でも、さすがにスタンガンはひどい」
「はい。ですが、宮東さんに本気で抵抗されると、こちらとしても困りまして。もう使いませんよ。用が済みましたから」
 それもそれでちょっとひどい気がする……とまあ、そんなことはさておき。
「なあ……月見里は、本当に地兎なのか?」
「はい」とすぐに返る。「いつもは耳を髪に寝かせて、尻尾はスカートの中。それと、黒のカラーコンタクトです」
「じゃあ、もしかして今日、月見里が学校を休んだのは……新月の日だからか?」
 そして今日以外にも、これまで月一ペースでパラパラ遅刻や欠席をしていたのも、あるいは。
「その通りです。地兎も天兎も、兎である限りこの地上では例外なく、新月の日に兎の姿へと戻ります。それは太陽光を反射した月からの光が、たとえ一時的ではあっても完全に供給されなくなってしまうことによって起こると考えられています」
 兎にとって月から降る光が大切なものであることは、以前にアオからも聞いている。
「一口に新月の日と言っても、当然ながら、明確に新月となる瞬間――月齢のゼロとなる瞬間がございます。この月齢ゼロの瞬間を中心に、約一日から数時間の振れ幅を持って、私たち兎にとっての不自由な時間が訪れます」
「不自由な、時間……」
「はい。この日、兎に戻っているときは、その身に有すユエのほとんどを使うことができないのです。身の内にいくら多くのユエを蓄えたとしても、この斎日は避けられません。人の姿を保つためには内のユエだけでなく、身体の外からも月の光に照らされなければならないのか、また個々の体調やユエの状態にも依存するのか……未だにわかっていないことは多い」
 俺は部屋の隅で壁を背に座りながら、背を向けたままの彼女の声に耳を傾けた。
「実際、今日の新月の瞬間は、午後十一時三十二分。現在は午後六時二十分ですが……例えば、さきほどからこの部屋に出入りしている杏朱――私の世話係兼後見役の彼女は、もう既に人の姿をとれません」
 俺がこの部屋で見る杏朱という彼女は、一度も人の姿を見せることなく、何をするにもずっと兎の姿だった。おそらくは今日のもっと早い時刻から、そういう状態だったに違いない。
「対して私は、今日はまだ、人の姿を保てています。厄介なのは、これが常にそうというわけではなく、別の新月の日にはまったく逆の立場だった経験もあるということです」
「複雑……なんだな」
「ええ、とても。そして、自分が極めて無力になってしまう時間というのは、とても恐ろしいものです。それは兎として生きる中で、もっとも弱い時間。自分にいつその時が訪れるのか、また、いつその時が終わるのか。この斎日、私たちは常に神経を尖らせています」
 人間として生まれ、常に人間の姿で生きている俺にとっては、理解のしようもないことだ。その恐ろしさはきっと、俺が簡単にわかると口にしていいものではないのだろう。
 では、アオは……。アオは、そんな恐怖を抱えながら、俺のいるこの場所へ――敵地の中へ来ようとしているのだ。
 月見里は音もなく半身で振り返って俺に告げる。
「けれども、こと私たち地兎が天兎と戦う場合においては、話は別です。少ないユエしか持たない地兎が、多くのユエを持つ天兎と戦うには、逆に新月の斎日が好機となる。つまり今日は、彼我の戦力差がもっとも縮まる好機なのです」
 正面に見えるのは、すっかり日の落ちた昏い空。同じく暗い室内で紅く輝く彼女の瞳には、強い意志が感じられた。
「アオと……戦うつもりなのか」
「はい。初日の五匹の仲間に始まり、これまで多くの仲間が追い返されておりますが……今日はさらに数も多い。ここら一帯には、多くの地兎が住んでいますので」
「なあ。できればアオにも、手荒はやめてほしいんだ」
「それは先方次第ですね」
「どうして……アオを狙うんだ」
「理由はいくつかあります。ですが、宮東さんが知る必要はありません。ただ、それでも、一つだけ申し上げるなら……」
 そこで月見里は、再び外に視線を向ける。
「どんな獣でも縄張りを荒らされるというのは、気持ちの良いことではありませんから」
 同時に階下で「ダン」という音がした。今となっては聞き慣れてしまった、足で地を打ち鳴らしたときのものだ。ただ、それは一つではなく、小さな音がいくつも重なって響いている。地を揺らすような多重低音。
「どうやらご到着のようです」
 もう見えなくなった彼女の瞳が、今、はっきりと何かを捉えたと、俺にはわかった。
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