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第三章 初陣
四
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誾千代は疾走する馬の背に齧りつき、手綱を握り締め、前方をぐっと、睨み据えた。
ふと自分は笑っているのでは? と誾千代は疑った。胸は高まり、全身に新鮮な血流が駆け巡る錯覚すら、覚えた。
そうだ! 自分は、目下の状況を楽しんでいる。彌七郎の暴走を幸い、戦場に駆けつけるべく、馬を走らせていた。
願わくば、自分が到着するまで、戦いの決着は、つけないで欲しい!
もはや彌七郎の姿すら、誾千代の視界には入ってこなかった。
「誾千代姫! お戻りくだされ! 彌七郎様は、拙者がお止め申し上げますゆえ! 無茶はよしなされ!」
甚兵衛が併走しつつ、顔中を口にする勢いで、喚いていた。誾千代は真っ直ぐ、前を見詰めたまま、口早に答えた。
「五月蝿いっ! 老いぼれは、引っ込んでおるのじゃ!」
口にした瞬間「しまった!」と後悔が押し寄せたが、もう、遅かった。
はっ、となって、甚兵衛を見ると、眉間に皺が寄り、ぎりぎりと歯を食い縛っている。甚兵衛の心から、怒りの津波が誾千代に伝わってきた。
「左様、拙者は老い先短い、老いぼれ侍で御座る! じゃが、道雪様に、姫をくれぐれも頼むと、命令されております!」
息を吸い込み、甚兵衛は必死に己を律しているようだった。誾千代は、言葉短く「許せ!」と叫ぶと、馬の鬣に顔を突っ伏すように、しがみついた。
気まずい沈黙が続くと、甚兵衛が前方を指差し、叫んだ。
「御覧なされ! あれに、彌七郎殿が!」
甚兵衛が指差した方向に、馬の背に囓りついている、小柄な彌七郎の背中が見えた。馬はまだ足を動かしてはいるが、すっかり速度は落ちて、並足に近い。
誾千代と甚兵衛は、楽々と彌七郎に追いついた。甚兵衛は自分の乗馬を輪乗りさせ、かつかつと蹄の音を立て、回り込んだ。ぐい、と腕を伸ばし、彌七郎が乗る馬の手綱をむんずと引き寄せた。
ひひーん……と、力なく嘶いて、彌七郎の馬は、歩みを止めた。馬が停止すると、彌七郎はがくりっ、と前方に上体を泳がせた。
甚兵衛は、優しく問い掛けた。
「彌七郎殿……。御無事で御座りますか?」
「ふあ?」
彌七郎は、奇妙な喘ぎ声を上げ、両目を忙しく瞬かせた。
「彌七郎様っ!」
甚兵衛は、やや強く、彌七郎に話し掛けた。誾千代は、そろりと、彌七郎の心に自分の心を伸ばした。
先ほどまでの、熱狂は欠片もなく、今は眠りから醒めたような、気怠い虚脱感が、彌七郎を支配していた。
その頃になって、誾千代と彌七郎のために道雪がつけてくれた護衛の兵が、ようやく追いついてきた。
護衛兵たちは誾千代らと違い、徒歩で、全員が全力疾走を続けたため、激しく喘いでいた。
その中の、いかにも熟練した様子の足軽が、誾千代を見上げ、笑いながら声を掛けてきた。
「いやあ、きつい早駆けじゃ! このような早駆けをする場合は、前もって命令を下してもらえぬと、敵わんわい!」
全員、急な全力疾走は慣れっこなのか、激しく喘いでいても、まだ余力は残していそうだった。
彌七郎は、ぼうっとした表情のまま、馬の背に身体を預けていた。自分が何を仕出かしたか、すっかり失念しているらしい。
甚兵衛から、軽い懸念が伝わり、誾千代は気を引き締めた。
そうだ、ここは、敵地だ!
気がつくと、かなり秋月方の領地に入り込んでいるようだった。
「何か、聞こえませぬか?」
甚兵衛が、低く呟いた。
誾千代は耳を澄ませた。
一人、二人と、足軽たちが立ち上がり、手を耳に当てている。
遠く、わあわあと、喧騒が木々の林から漏れ聞こえてくる。
足軽の一人が、ぱっと顔を輝かせた。
「戦じゃ! 御味方が、敵勢と出会ったのじゃろう!」
口にするなり、身を翻した。誾千代と彌七郎に、足軽はさっと顔を向け、叫んだ。
「こうしては、おられませぬぞ! 逃げるか、戦うか、御決断を!」
足軽の言葉に、甚兵衛は気色ばんだ。
「控えろ、下郎! 御城主に言上する際は、拙者が取次ぎをいたす!」
足軽は「へっ!」と恐縮した様子で、項に手をやった。顔ほども、恐縮した心理ではないと、誾千代はすでに読み取っていた。
しかし、不快ではない。
誾千代は笑みを浮かべて、足軽に頷いた。
「良い。直答を許す。お主、名は?」
「重蔵と申し上げます。コゲラの重蔵ってのが、通り名で……。姫様には初めて御目文字申し上げます」
重蔵と名乗った足軽は、気軽に誾千代に答えた。誾千代が見せた気さくな態度に、大いに気をよくしている様子だ。
立花城には、沢山の人々が居住している。誾千代は、その中で、自分が名前を承知している人間は、ほんの一欠片だと、改めて思った。
コゲラの重蔵など、誾千代はこのような機会でなければ、一生ずっと知らずじまいだろうと、何となく嬉しく感じた。
「重蔵とやら、其方は、どう思う? 引くか、攻めるか、存念を申せ!」
問い掛けられ、重蔵は朋輩の足軽と顔を見合わせた。
「そりゃあ……なあ!」
朋輩同士の言葉遣いになって、慌てて足軽は自分の口を両手で塞いだ。重蔵の慌てぶりに、誾千代は必死に、笑いを堪えた。
ぱっと地面に這い蹲ると、足軽は真剣な表情になって喚いた。
「姫様に申し上げます! この重蔵、道雪様に付き従い、幾度もの戦を体験いたしました。やつがれ、折角の戦い、槍の腕を、揮いたく存じます。切に、姫様に御味方に参戦なさるよう、お願い申し上げます!」
重蔵は、意外とまともな受け答えをしていた。長い従軍生活が、侍らしい言葉遣いを覚えさせたらしい。
誾千代は、素早く重蔵の仲間たちの心を読み取った。
全員、ふつふつと戦いへの期待で、心が沸き立っている。
甚兵衛は苦い顔だ。甚兵衛の心を読むと、半ば諦めの境地だった。
誾千代は高々と笑い声を上げ、腰の刀を抜き放った。
「其方の願い、叶えてつかわす! 立花城主、誾千代は、これより戦いに臨む!」
誾千代の宣言に、その場にいた足軽たちが一斉に歓声を上げた。
ふと自分は笑っているのでは? と誾千代は疑った。胸は高まり、全身に新鮮な血流が駆け巡る錯覚すら、覚えた。
そうだ! 自分は、目下の状況を楽しんでいる。彌七郎の暴走を幸い、戦場に駆けつけるべく、馬を走らせていた。
願わくば、自分が到着するまで、戦いの決着は、つけないで欲しい!
もはや彌七郎の姿すら、誾千代の視界には入ってこなかった。
「誾千代姫! お戻りくだされ! 彌七郎様は、拙者がお止め申し上げますゆえ! 無茶はよしなされ!」
甚兵衛が併走しつつ、顔中を口にする勢いで、喚いていた。誾千代は真っ直ぐ、前を見詰めたまま、口早に答えた。
「五月蝿いっ! 老いぼれは、引っ込んでおるのじゃ!」
口にした瞬間「しまった!」と後悔が押し寄せたが、もう、遅かった。
はっ、となって、甚兵衛を見ると、眉間に皺が寄り、ぎりぎりと歯を食い縛っている。甚兵衛の心から、怒りの津波が誾千代に伝わってきた。
「左様、拙者は老い先短い、老いぼれ侍で御座る! じゃが、道雪様に、姫をくれぐれも頼むと、命令されております!」
息を吸い込み、甚兵衛は必死に己を律しているようだった。誾千代は、言葉短く「許せ!」と叫ぶと、馬の鬣に顔を突っ伏すように、しがみついた。
気まずい沈黙が続くと、甚兵衛が前方を指差し、叫んだ。
「御覧なされ! あれに、彌七郎殿が!」
甚兵衛が指差した方向に、馬の背に囓りついている、小柄な彌七郎の背中が見えた。馬はまだ足を動かしてはいるが、すっかり速度は落ちて、並足に近い。
誾千代と甚兵衛は、楽々と彌七郎に追いついた。甚兵衛は自分の乗馬を輪乗りさせ、かつかつと蹄の音を立て、回り込んだ。ぐい、と腕を伸ばし、彌七郎が乗る馬の手綱をむんずと引き寄せた。
ひひーん……と、力なく嘶いて、彌七郎の馬は、歩みを止めた。馬が停止すると、彌七郎はがくりっ、と前方に上体を泳がせた。
甚兵衛は、優しく問い掛けた。
「彌七郎殿……。御無事で御座りますか?」
「ふあ?」
彌七郎は、奇妙な喘ぎ声を上げ、両目を忙しく瞬かせた。
「彌七郎様っ!」
甚兵衛は、やや強く、彌七郎に話し掛けた。誾千代は、そろりと、彌七郎の心に自分の心を伸ばした。
先ほどまでの、熱狂は欠片もなく、今は眠りから醒めたような、気怠い虚脱感が、彌七郎を支配していた。
その頃になって、誾千代と彌七郎のために道雪がつけてくれた護衛の兵が、ようやく追いついてきた。
護衛兵たちは誾千代らと違い、徒歩で、全員が全力疾走を続けたため、激しく喘いでいた。
その中の、いかにも熟練した様子の足軽が、誾千代を見上げ、笑いながら声を掛けてきた。
「いやあ、きつい早駆けじゃ! このような早駆けをする場合は、前もって命令を下してもらえぬと、敵わんわい!」
全員、急な全力疾走は慣れっこなのか、激しく喘いでいても、まだ余力は残していそうだった。
彌七郎は、ぼうっとした表情のまま、馬の背に身体を預けていた。自分が何を仕出かしたか、すっかり失念しているらしい。
甚兵衛から、軽い懸念が伝わり、誾千代は気を引き締めた。
そうだ、ここは、敵地だ!
気がつくと、かなり秋月方の領地に入り込んでいるようだった。
「何か、聞こえませぬか?」
甚兵衛が、低く呟いた。
誾千代は耳を澄ませた。
一人、二人と、足軽たちが立ち上がり、手を耳に当てている。
遠く、わあわあと、喧騒が木々の林から漏れ聞こえてくる。
足軽の一人が、ぱっと顔を輝かせた。
「戦じゃ! 御味方が、敵勢と出会ったのじゃろう!」
口にするなり、身を翻した。誾千代と彌七郎に、足軽はさっと顔を向け、叫んだ。
「こうしては、おられませぬぞ! 逃げるか、戦うか、御決断を!」
足軽の言葉に、甚兵衛は気色ばんだ。
「控えろ、下郎! 御城主に言上する際は、拙者が取次ぎをいたす!」
足軽は「へっ!」と恐縮した様子で、項に手をやった。顔ほども、恐縮した心理ではないと、誾千代はすでに読み取っていた。
しかし、不快ではない。
誾千代は笑みを浮かべて、足軽に頷いた。
「良い。直答を許す。お主、名は?」
「重蔵と申し上げます。コゲラの重蔵ってのが、通り名で……。姫様には初めて御目文字申し上げます」
重蔵と名乗った足軽は、気軽に誾千代に答えた。誾千代が見せた気さくな態度に、大いに気をよくしている様子だ。
立花城には、沢山の人々が居住している。誾千代は、その中で、自分が名前を承知している人間は、ほんの一欠片だと、改めて思った。
コゲラの重蔵など、誾千代はこのような機会でなければ、一生ずっと知らずじまいだろうと、何となく嬉しく感じた。
「重蔵とやら、其方は、どう思う? 引くか、攻めるか、存念を申せ!」
問い掛けられ、重蔵は朋輩の足軽と顔を見合わせた。
「そりゃあ……なあ!」
朋輩同士の言葉遣いになって、慌てて足軽は自分の口を両手で塞いだ。重蔵の慌てぶりに、誾千代は必死に、笑いを堪えた。
ぱっと地面に這い蹲ると、足軽は真剣な表情になって喚いた。
「姫様に申し上げます! この重蔵、道雪様に付き従い、幾度もの戦を体験いたしました。やつがれ、折角の戦い、槍の腕を、揮いたく存じます。切に、姫様に御味方に参戦なさるよう、お願い申し上げます!」
重蔵は、意外とまともな受け答えをしていた。長い従軍生活が、侍らしい言葉遣いを覚えさせたらしい。
誾千代は、素早く重蔵の仲間たちの心を読み取った。
全員、ふつふつと戦いへの期待で、心が沸き立っている。
甚兵衛は苦い顔だ。甚兵衛の心を読むと、半ば諦めの境地だった。
誾千代は高々と笑い声を上げ、腰の刀を抜き放った。
「其方の願い、叶えてつかわす! 立花城主、誾千代は、これより戦いに臨む!」
誾千代の宣言に、その場にいた足軽たちが一斉に歓声を上げた。
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