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序章
どうか私を忘れないで
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空の色は群青を含んだ赤紫。落陽に川が赤々と染まる刻。静謐の中でどこからともなく僧侶の読経や鐘の音が聞こえてくる。やがて、川沿いに群れをなす寺院にポツポツとあかりが入りはじめ、いつも通りの宵が訪れた。
それを寂れた対岸から眺める少女は一輪の白い花を握りしめて微動だにしなかった。
少女の華奢な背を見つめるのは背の高い青年ただ一人。彼は優しげな瞳を細めて石のように黙っていた。
──死者は神聖なる川の畔で聖火に焼かれ、灰は川に流され輪廻の旅に出る。
この国──アムリタの民は生まれ持つ階級に問わず、神格化された川や数多の神々を信仰していた。
それは彼女も同じ事で……。
烈しい雨が降る雨期も、強い日差しが照りつける乾季も……随分と昔に亡くなった姉の為、毎日夕刻にこの川に訪れ花を手向けていた。
だが”神聖なる川”は北部から東部の海に向かい流るるもの。今、彼女の前に流れるものは当の川ではない。ここは北部と正反対。アムリタ南部に位置する大都市だ。
だが彼女曰く「川ならば同じ」だそうで「どの川でも必ず大海原に辿り着き、神聖なる川と混ざり合うのだから」……と。
初めて彼女と接触した日に言われた言葉を彼は今一度思い出した。
──出会い、顔を合わせる毎に仲良くなり、姉との思い出話を聞く他、他愛も無い会話や時には愚痴も聞き……。そんな二年間のやりとりを回想しつつ、彼は吐息を溢した。それと同時、少女はしゃがんで水面に花を手向けた。
「姉さん。私ね……手厚く後援して下さった藩王様に娶られる事になったの」
ようやく喋った彼女の声は震えていた。
橙色の民族衣装──サリーを纏った華奢な背は震えており、顔を見なくても泣いている事が分かる。それから幾何か。花が見えなくなるまで手を合わせていた彼女は立ち上がり、ゆったりと彼の方を向いた。
「だけど私、結婚なんか嫌。自分がとてつもなく幸運だって分かるけど……強欲で罪深いって分かるけど。だけど私、好きな人が居る、私は私は……」
真っ直ぐに向けられた面は泣き顔だった。初めて見た──だからこそ、彼は戸惑うものの、その面を見入ってしまった。
──滑らかな小麦色の肌に淡褐色の大きな瞳。眦に溜まった大粒の涙は真珠のよう。こんな顔だって愛らしいとは思う。それでも、泣き顔を見続けるのは胸が締め付けられる。堪らず視線を反らした彼は、ゆったりとした歩調で少女に歩み寄った。
「泣くな。めでたい事だろ?」
彼は背を折り曲げて、少女の眦から溢れ落ちる涙を指で拭う。
伏せられた瞼を彩る黒々とした長い睫。涙が止めどなく伝う紅潮した頬。
しかし、彼女が止めた続きの言葉は薄々分かる。きっとそうなのだろう。と、いつからか彼も察していた事だった。そして、自分だって間違いなく同じ気持ちを持ち合わせているのだから……。
「私は貴方が好き……。きっと間違いなく階級だって違うでしょうし、おこがましいけど私は……ハリッシュが好き」
だから結婚なんかしたくない。と、言われた言葉は案の定、まさに想定した通りだった。だが、呼ばれた名は正しいものではない。本当の名前なんて教えられもしない。それが彼自身の持つしきたりに違いないのだから。
「そんな事、言うな。お前が生涯幸せに生きる事を俺は祈る。俺はいつだってお前を見守っていてやる」
俺もお前を愛してる。だから……。ハリッシュと呼ばれた青年は、はっきりと告げるが、彼女は「何故」と叫ぶなり泣き崩れた。
──彼女を自分のものに出来たらいいのにと思った。けれど、それは叶わぬ事だと彼自身も百も承知だった。
彼女と彼は”形式だけの夫婦”だ。
これを彼女は知りもしない。しかし、どんなに思おうが永遠を添い遂げるなんて出来る筈も無い。何せ生きる世界が違う。それを考えると、自ら彼女に関わろうとした事を後悔し、自然と唇が歪んだ。接触しなければ、彼女を傷つけず済んだのだ。それに、自分だってこんな名残惜しい気分になる事もなかった筈だ。
────異界の民に恋慕を抱くなど馬鹿げていただろう。それでも好きだ。
彼は心の中で呟いて、穏やかな口調で別れの言葉を告げる。
泣き崩れる彼女を抱き寄せ、前髪を掻き分けて額に唇を寄せた。
この接吻が終われば彼女は必ず自分を忘れる。忘れないで欲しいとは思った。だが、忘れるべきだろうと……。
額は直感を司る第六のチャクラ。それに真言──マントラを紡ぐ唇が触れあった事で全てを悟ったのだろうか。彼女は震えた唇を開く。
「お願い。どうか私を忘れないで。私が貴方を心から愛していた事を」
どうか忘れないで……。と、涙声で言われて彼は更にきつく彼女を抱き寄せた。
『必ず忘れない』と彼は短絡的に、はっきりと答えた。その答えを確かと聞いただろう。少女の面は心底安堵したように和らいだ。
そうして唇を離した途端だった。彼の身体からふわふわと黄金の光が煌めき、やがて身体は透け始める。次第に、光は黄金の蓮の曼荼羅となり、一際輝かしく光ると、スッと煙のように消えた。
川辺に残ったのは一人の少女だけ。
「あれ、何で泣いてたんだろう……」
おかしいわね。なんて微笑んで、彼女は眦から伝い溢れる涙を拭う。
宵の舞踊があるから早く帰れないといけない。そう独りごちて、彼女は何事も無かったかのように去っていった。
現世ではおこがましくも神と呼ばれる存在。ハリッシュと名乗る彼は形式だけの妻……寺院の踊り子こと神の妻──神聖娼婦に恋をした。
割り振るように勝手に宛がわれた形式だけの妻など腐る程いる。だが、彼女は極めて異質だった。
奉納の儀を終えた夜。本堂に忍び込んだ幼い彼女に「この婚姻を幸せ」と綻ぶような笑顔で感謝を言われたからだろうか。そんな部分から、彼は彼女に興味を持った。
素性を隠して、この世界──現世に降り立ち、接触するうちに芽生えたものは暖かな感情だった。そして二年の月日が廻り、彼は無垢で健気な彼女を愛してしまった。
別れから、彼は”見守る”だけで二度と彼女に干渉しない気でいた。
……彼女、シュリーがおぞましい風習の犠牲にされようとするまでは。
それを寂れた対岸から眺める少女は一輪の白い花を握りしめて微動だにしなかった。
少女の華奢な背を見つめるのは背の高い青年ただ一人。彼は優しげな瞳を細めて石のように黙っていた。
──死者は神聖なる川の畔で聖火に焼かれ、灰は川に流され輪廻の旅に出る。
この国──アムリタの民は生まれ持つ階級に問わず、神格化された川や数多の神々を信仰していた。
それは彼女も同じ事で……。
烈しい雨が降る雨期も、強い日差しが照りつける乾季も……随分と昔に亡くなった姉の為、毎日夕刻にこの川に訪れ花を手向けていた。
だが”神聖なる川”は北部から東部の海に向かい流るるもの。今、彼女の前に流れるものは当の川ではない。ここは北部と正反対。アムリタ南部に位置する大都市だ。
だが彼女曰く「川ならば同じ」だそうで「どの川でも必ず大海原に辿り着き、神聖なる川と混ざり合うのだから」……と。
初めて彼女と接触した日に言われた言葉を彼は今一度思い出した。
──出会い、顔を合わせる毎に仲良くなり、姉との思い出話を聞く他、他愛も無い会話や時には愚痴も聞き……。そんな二年間のやりとりを回想しつつ、彼は吐息を溢した。それと同時、少女はしゃがんで水面に花を手向けた。
「姉さん。私ね……手厚く後援して下さった藩王様に娶られる事になったの」
ようやく喋った彼女の声は震えていた。
橙色の民族衣装──サリーを纏った華奢な背は震えており、顔を見なくても泣いている事が分かる。それから幾何か。花が見えなくなるまで手を合わせていた彼女は立ち上がり、ゆったりと彼の方を向いた。
「だけど私、結婚なんか嫌。自分がとてつもなく幸運だって分かるけど……強欲で罪深いって分かるけど。だけど私、好きな人が居る、私は私は……」
真っ直ぐに向けられた面は泣き顔だった。初めて見た──だからこそ、彼は戸惑うものの、その面を見入ってしまった。
──滑らかな小麦色の肌に淡褐色の大きな瞳。眦に溜まった大粒の涙は真珠のよう。こんな顔だって愛らしいとは思う。それでも、泣き顔を見続けるのは胸が締め付けられる。堪らず視線を反らした彼は、ゆったりとした歩調で少女に歩み寄った。
「泣くな。めでたい事だろ?」
彼は背を折り曲げて、少女の眦から溢れ落ちる涙を指で拭う。
伏せられた瞼を彩る黒々とした長い睫。涙が止めどなく伝う紅潮した頬。
しかし、彼女が止めた続きの言葉は薄々分かる。きっとそうなのだろう。と、いつからか彼も察していた事だった。そして、自分だって間違いなく同じ気持ちを持ち合わせているのだから……。
「私は貴方が好き……。きっと間違いなく階級だって違うでしょうし、おこがましいけど私は……ハリッシュが好き」
だから結婚なんかしたくない。と、言われた言葉は案の定、まさに想定した通りだった。だが、呼ばれた名は正しいものではない。本当の名前なんて教えられもしない。それが彼自身の持つしきたりに違いないのだから。
「そんな事、言うな。お前が生涯幸せに生きる事を俺は祈る。俺はいつだってお前を見守っていてやる」
俺もお前を愛してる。だから……。ハリッシュと呼ばれた青年は、はっきりと告げるが、彼女は「何故」と叫ぶなり泣き崩れた。
──彼女を自分のものに出来たらいいのにと思った。けれど、それは叶わぬ事だと彼自身も百も承知だった。
彼女と彼は”形式だけの夫婦”だ。
これを彼女は知りもしない。しかし、どんなに思おうが永遠を添い遂げるなんて出来る筈も無い。何せ生きる世界が違う。それを考えると、自ら彼女に関わろうとした事を後悔し、自然と唇が歪んだ。接触しなければ、彼女を傷つけず済んだのだ。それに、自分だってこんな名残惜しい気分になる事もなかった筈だ。
────異界の民に恋慕を抱くなど馬鹿げていただろう。それでも好きだ。
彼は心の中で呟いて、穏やかな口調で別れの言葉を告げる。
泣き崩れる彼女を抱き寄せ、前髪を掻き分けて額に唇を寄せた。
この接吻が終われば彼女は必ず自分を忘れる。忘れないで欲しいとは思った。だが、忘れるべきだろうと……。
額は直感を司る第六のチャクラ。それに真言──マントラを紡ぐ唇が触れあった事で全てを悟ったのだろうか。彼女は震えた唇を開く。
「お願い。どうか私を忘れないで。私が貴方を心から愛していた事を」
どうか忘れないで……。と、涙声で言われて彼は更にきつく彼女を抱き寄せた。
『必ず忘れない』と彼は短絡的に、はっきりと答えた。その答えを確かと聞いただろう。少女の面は心底安堵したように和らいだ。
そうして唇を離した途端だった。彼の身体からふわふわと黄金の光が煌めき、やがて身体は透け始める。次第に、光は黄金の蓮の曼荼羅となり、一際輝かしく光ると、スッと煙のように消えた。
川辺に残ったのは一人の少女だけ。
「あれ、何で泣いてたんだろう……」
おかしいわね。なんて微笑んで、彼女は眦から伝い溢れる涙を拭う。
宵の舞踊があるから早く帰れないといけない。そう独りごちて、彼女は何事も無かったかのように去っていった。
現世ではおこがましくも神と呼ばれる存在。ハリッシュと名乗る彼は形式だけの妻……寺院の踊り子こと神の妻──神聖娼婦に恋をした。
割り振るように勝手に宛がわれた形式だけの妻など腐る程いる。だが、彼女は極めて異質だった。
奉納の儀を終えた夜。本堂に忍び込んだ幼い彼女に「この婚姻を幸せ」と綻ぶような笑顔で感謝を言われたからだろうか。そんな部分から、彼は彼女に興味を持った。
素性を隠して、この世界──現世に降り立ち、接触するうちに芽生えたものは暖かな感情だった。そして二年の月日が廻り、彼は無垢で健気な彼女を愛してしまった。
別れから、彼は”見守る”だけで二度と彼女に干渉しない気でいた。
……彼女、シュリーがおぞましい風習の犠牲にされようとするまでは。
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