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18 笑顔の裏側
しおりを挟む風呂場で立ち尽くし我に返ったのは、張られた湯が冷たくなったころだった。
のろのろと冷えた体を拭いて、服を着こみ、ベッドにもぐりこむ。
冷えた体と、ひび割れた心。
彼の後姿を思い出して、悪いように考えないように、枕に顔をうずめる。
目を閉じても眠れず、まんじりとすることなく夜が明けるのをひたすら待った。
明け方、扉が静かに開く気配を感じた。
世奈は背中を向けたまま目を閉じて、身じろぎ一つしない。
カートの車輪がキィと音を立てて運び込む気配がして、カチャカチャと食器の音が響く。静かに、絨毯を踏む音がし、背中に彼の気配を感じる。暫く彼は何も言わず、世奈に触れることもなく、見下ろした後、ベッドサイドから離れていく。そのまま扉は閉まり、再びカギがかけられた。
そっと起き上がり、窓の側まで行き、閉じられたカーテンを開ける。
外はまだ薄暗い。窓ははめ殺しで、開くことは無い。この部屋は館の一番奥で、ここから玄関を見ることは出来ない。見えるのは奥まった庭だけ。
振り返ると、マティアスが準備してくれた食事の乗ったカートがテーブルの脇に見えた。
世奈は日中ぼんやりとソファーにもたれたまま過ごした。
屋敷の中はとても静かで、鍵を閉められた部屋に、誰かが訪ねてくることは無い。
屋敷に住んでいるであろう誰にも紹介されることなく、獣人が人間を嫌いなのだから、当然だ。乗り込んできて、襲わないだけ良いのかもしれない。
朝起きると用意されている、朝食と昼食その他諸々の乗ったカートは、そのまま手も触れないでいる。この閉ざされた空間の中では、食欲もわかない。それ以上に昨日の事が心に重くのしかかり、食欲不振に拍車をかけているのは明らかだった。
開かない扉を確認するのは、とても怖くて、扉には近寄ることも出来ず、ドアノブに触れる事すら出来ないでいた。
テレビもケータイも何もない。この世界の本はないが、愛蔵書なら何冊かは手元にある。異母妹は何でも世奈の物を欲しがったが、本だけは興味が無いようだった。
漫画はいつの間にか持っていかれて消えていたけれど、ハードカバーからライトノベルまで文字の詰まった本や小説は興味がなかったようで、それらは手元に残っている。とはいっても、最近はめっきり電子書籍に切り替えていたので、バッテリーの切れた、赤い電子書籍用リーダーは何も映さない。
おかげで、暇つぶしすらできない。
世奈の手にはクローゼットの中から出してきた、本が一冊あったが、それをテーブルの上に乗せる。
今日は昨日の長風呂のせいか、体調が悪い。身体がだるくて、何もする気にもならない。世奈は、そのまま、ソファーに横になって、大きくため息を吐いた。
服も靴もかばんも、アクセサリーもなんでも。当然のように、世奈の物を持ち出す異母妹が居るせいで、世奈の持ち物はとても少ない。可愛いもの、綺麗なものは、すぐさま奪われるので、服も靴も、カバンでさえ地味なものばかりだ。誕生日プレゼントに、友人がくれたものでさえ、彼女は躊躇なく持ち去った。
高校生までは、親が買ってくれるものがほとんどで、とはいっても、あの父と継母が中高生が喜んで着る様な服を買ってくれるわけもなく。わざわざ、ダサくて地味な服を、継母と異母妹が選んでくる始末だった。
母が生きていたころに習っていた、英会話やピアノは母が亡くなると、当然のように辞めさせられた。
家に帰っても、居場所はない。顔を合わせると嫌そうな顔をする家族。
何もない世奈は、お金のかからない図書館へ通う事が日課になった。
図書館で、宿題や勉強をして、本を読む。そうすると、成績は伸びてゆく。学年でトップと言うほどではなかったが、高校や大学進学には困らなかった。
父や継母は進学などさせずに、仕事をして、家に金を入れてほしかったようだが、祖父が大学進学は譲らなかったと聞いている。父も大学に進学させた方が、世奈が仕事をして家に入れるお金より、祖父からの援助金の方がはるかに大きいと踏んだからだろう。それも、本来なら、世奈のゼミ代金や講習代金、入学金や授業料になるはずだったものだが、世奈の為に一銭も使われることはなく、当然のように教育ローンの支払人に名前を署名捺印させられた。早い話が祖父の援助金のすべてを父たちは詐取したのだ。
大学を卒業し、就職したところで、家に住まわせてお金を詐取しても、大した額にならない。教育ローンで手元に残るお金もほとんどないと踏んだのだろう。父は、一人暮らしを許しあっさりと世奈を手放した。
継母は女の嫉妬なのか、母への復讐なのか、母の娘である世奈も幸せになるのは許さないとばかりに、大学で知り合った高学歴の異性との交流はことごとく邪魔をし(当然それには異母妹も絡んでくるのだが)、度々メールや電話でこちらに探りを入れてくる。
異母妹も同じで、仲の良い同級生、大学のゼミの先輩など、気が付けば、何故か異母妹と仲良くしていた。
奥手で手をつなぐだけの初々しい恋愛は、いつだって異母妹の格好の餌食だったようで、その手はいつの間にか彼女に奪われて、世奈に触れることは二度となかった。
だから、世奈は自分の気持ちに蓋をすることも、無関心を貫くことも、簡単にできた。心の底ではそうではなかったけれど、心を乱せば、彼女達はより喜び、世奈に精神的苦痛を強いる。
世奈にとって、お金も人も切り捨てるのはとても簡単だった。もともと無いものだと思えば良いだけだったから。
バッテリーの切れた電源の入らないスマホから、着信音が鳴ることはもう二度と無い。
あの人達の声を聴くこともない。
何の音も聞こえない静かな空間。
世奈を監視し虐げて嘲笑する存在はいない。
世奈から大切なものを取り上げる人もいない。
嘲笑して監視するその悪意にも慣れたと思っていたのに。
大切なものを作らないようにしていたのに。
人は獣人に憎まれる存在だから、特別な人になれるわけがないと分かっていた。
この世界に来て、あの呪縛から離れられた気がして、少しだけ望んでしまった。
小さな幸せを、小さな自由を、自分だけに向けられる気持ちを・・・。
開かない扉が。
落ちた閂が、心を騒めかせる。
体が重い。
息が苦しい。
彼の後姿と、鍵のかかる音を思い出す。
彼はもう二度とここには来ないかもしれない。
世奈はそっと目を閉じた―――。
お願い、ここを開けて―――。
傷付いてはダメよ―――。落ちていく意識の中で世奈は自分に暗示をかけた。
カチリと鍵の開く音がして、世奈は目を開ける。
寝不足がたたって、少し転寝をしていたようだった。マティアスが部屋の明かりを入れてくれて、世奈はゆっくりとソファーから起き上がる。
マティアスが昨夜のことなど無かったかのように、「ただいま」と、言った。
世奈は彼の顔を一瞬凝視して、理解が出来なくなった。どうして、あんなふうに世奈を拒絶したのに、普通に何事も無かったかのように、ふるまえるのか。
少しでも、怒っているか、罪悪感でも感じてくれていれば、世奈も、これからの事を考えることも出来ただろうと思う。なれなれしく話しかけたり、触れたりするのは控えようとは、思っているが。
むしろ世奈とマティアスは深い仲ではない。親しく触れ合う間柄でもない。彼が、世奈に触れたくないと思っていたとしても、それは仕方のないことだ。ただ、世奈から触れる事には我慢してくれていただけなのかもしれない。
それでも、あんなふうに拒絶されれば、世奈だって傷つく。
何事も無かったかのように振舞われるのは、アレが彼にとって、些末な事だったのか。それとも、道端の石ころを避ける程度の事だったのだろうか。
世奈は訳が分からなくて、ただただ、マティアスを見つめると、彼は、部屋の中を見回して、明らかにほっとしたように、表情を緩めた。
だから、世奈は何事も無かったかのように、にこりと笑った。
「おかえりなさい」
起こったことを引きずって、泣いていれば、罵られ。怒ったり、ふてくされていても、罵られた。相手を更に苛立たせないように、何事もなかったかのように振舞っていないと、後でネチネチと過去の事まで持ち出されて詰られるのだ。
だからこそ、世奈は、まっすぐ前を向いて、口元に微笑をたたえた。
ちらりと暗くなった窓の外を見ながら、部屋を出て、キッチンへ向かうと、すでに食材が所狭しと並べられている。
マティアスが世奈の背中に張り付いて、料理を覗き込んでいるが、今日は玉ねぎを刻んでいても、世奈は彼に何も声を掛けなかった。だから、世奈の後ろでマティアスが玉ねぎにやられて呻いていても、いつもの通りに笑って揶揄ってやった。
豚肉もどきを、薄く切った玉ねぎとすりおろした生姜と醤油とお酒に付け込こむ。
味がなじんだら、フライパンに油を引いて、焼いていくと、醤油の香ばしい匂いが部屋に充満する。
大量に焼いたものを皿にのせて、マティアスの前に並べる。
「これは、なんていう料理?」
「豚の生姜焼きです。きっと気に入ってくれると思います」
世奈の言葉に、マティアスは目を輝かせて、肉をほおばる。
「美味しい。この、米と一緒に食べると美味いな」
マティアスの言葉に、世奈はニコリと微笑んで見せた。
生姜焼きはごはんが進む。平皿に乗せた米があっという間にマティアスの胃袋の中に消えていく。こちらのテーブルマナーとしては平皿を手に持つのは、お行儀が悪いハズが、マティアスは皿を手に持ち、米粒一つ残さないように綺麗に平らげた。
「この、米というのは、お前が持ってきたのか?」
アティーネの計らいで、世奈の荷物が、クローゼットに届けられていることは彼も知っている。それが、異世界の物であるとは知らないのだろうけれど。
「あ、はい、そうですね。もう残りもそんなに多くはないので、入手できるなら、米は買ってもらえるとありがたいです」
日本人である世奈にとってはやはり主食は米である故に、毎日、パンと肉は耐えられない。マティアスのエンゲル係数は世奈の倍以上ある。米も一回に三合炊いても、あっという間になくなってしまった。もともと一人暮らしの買い置きの米だ。持っていても十キロもない。尽きるのは時間の問題で、さすがに異世界から輸入は無理な話だろう。
穀物や小麦は生産量は多くはないが、確かにこの世界にある。そうなれば、この世界で、入手してもらうしかない。
「そうか・・・・。穀物はあまり出回っていないからな・・・。心当たりを当ってみよう」
マティアスの言葉に世奈はにこりと笑う。
「期待してます」
食事を終えたマティアスが、何か言いたそうに世奈を見て、ソワソワしている。
彼の前に並んでいた皿はすでに空で、ナイフとフォークがそろえて皿の上に並べられていた。対して、世奈の前に並ぶ料理はほとんど減っていない。
無理して、食事の準備をしたけれど、身体は怠くて、頭が痛い。食欲もないうえに、脂っこい肉は喉を通る気がしない。
いつもなら、何か会話をするだろうし、マティアスが会話するきっかけを世奈も作るのだろうけれど、もともとコミュニケーションは得意じゃないうえに、体調不良も顕著に表れている。正直口を開くのもしんどい。彼の気持ちを慮るより、自分を優先したい。世奈はそんな思いで、マティアスを見ることもせず、知らないふり、気が付かないふりを押し通すことにした。
きっと彼は早く食事を終えて、入浴して寝たいのだろう。
昨日のことなど無かったかのように振舞う彼に、僅かに苛立ちを覚える。
お風呂場でも出来事。それも昨日今日の話だ。
大きな声で、激しく拒否され、部屋の中に取り残された。
離れていったことよりも、なによりも、振り返りもせずに、鍵を閉めて出て行かれたことが何よりもショックだった。
マティアスは触れたくないと拒否したのに、いつもと同じように、彼に触れ髪を洗うなど、世奈には無理な事だった。
傷ついていないふりは出来る。けれど、どれだけ心に蓋をしたとしても、傷つくことだってあるのだ。やっと、心許せるかもしれない環境でそんな人に出会えたのだ。その人から受けた仕打ちに傷つかないわけがなかった。
そのショックは世奈にとって思った以上のダメージだったようで、世奈は嘲笑のため息を吐いた。
無かったかのようにではない、彼にすれば、些末なことで、気にするほどの事ではないのだろう。
そう思うと急激に心が冷えていく。
「―――ごめんなさい、今日は調子が悪くて・・・・部屋に戻って寝ます」
世奈は、彼の前で笑顔でいるのがつらくなって、立ち上がった。
驚く彼をおいて、世奈は自室に戻ると電気を消して、ベッドにもぐりこんだ。
この日は、この世界のナイトウエアではなく、向こうの世界の袖のあるパジャマに袖を通し、世奈はベッドに入った。
ゾクゾクと寒気と頭痛を覚えながら、掛布団に包まって目を閉じる。
弱ったところを見せてはだめだ。
誰も助けてはくれないのだから。
そもそも、彼のような綺麗な人が、忌み嫌う人間を嫁に迎え、愛するわけがない。そんな、単純で分かり切っていることを、なぜ今まで、理解しなかったのか。
あれほど読み漁った、資料に書かれていたじゃないか。
獣人と人間との確執。
けれど、その戦争の前に、人に使え、人と共にあった獣人もいて、彼らの中には、人に好意的な種族も居ると、書かれていて、その種族の中に狼も入っていた。だから、僅かな希望に縋ったのだ。
正直、実感も何もない。世奈は獣人を知らないし、嫌いでもない。だから、憎悪を向けられても、戸惑うし、嫌いだろう?と問われれば、そんなことは無い。
笑いかけると、狼狽えながらも、彼の尻尾は揺れていたのに。
食事も嬉しそうに食べてくれていたのに。
「・・・・耳・・・ふわふわだったのにな・・・・もう触らせてくれないかも・・・」
熱に浮かされて、もはや、思考がまとまらない。目も霞んでよくわからないまま、世奈は目を閉じた。
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