君が笑うから僕も笑う

神谷レイン

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第三章「兄と弟」

4「こどもごころ」

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 三日目の朝、俺が目を覚ますと、そこに兄貴の姿はなかった。

 まさか、もう消えて!? と驚いたが、一階に下りれば、母さんと仲良く弁当を作っていた。どうやら、今日も俺の分の弁当を作ってくれるそうだ。そして、俺はその弁当を手に会社に向かった。

 その日は実に平穏で、兄貴が来ることも仕事で問題が起こることもなく、スムーズに一日が終わった。俺は定時に家路につき、どこかに寄ることもなく六時過ぎには家の前にたどり着いていた。
 しかし家には思わぬ来客が訪れていて、その賑やかしい声は玄関の外にまで漏れ聞こえた。

「いや、義行ちゃんは相変わらず可愛いいわねぇ~」
「ほら、義行。こっちにおいで!」

 そう声を上げているのは祖父母だった。
 俺は玄関前の前までたどり着いたのに、どうしてかそのドアを開けるのが億劫になった。
 ここまで帰ってきたのに? そう俺の心は言うが、中から聞こえてくる声に俺は玄関ドアにかけた手を下ろした。そして踵を返して、せっかく帰ってきた道を戻った。

 夕暮れる町はどこか悲しい。いや、今の俺がそう思わせているのか。

 俺は自嘲気味に心の中で呟いて携帯電話を手にした。逃げてもどうしようもないことだとわかっているのに。




◇◇◇◇◇◇◇◇





「夏海、悪いな。急に来て」

 俺は一人暮らしをしている夏海のマンションに訪れていた。夏海は化粧も落とし、普段着姿だった。

「ううん、全然。中に入って」

 夏海で玄関ドアを大きく開けて俺を迎え入れた。中は1DKで女の子らしいものが置かれている。いつもここに来るといい匂いがして、ほっとする。

「来てくれて嬉しいけど、急にどうしたの?」

 夏海は少し心配そうに靴を脱ぐ俺に尋ねた。けど俺は「うん、まあ」としか答えなかった。だから夏海はそれ以上は聞かなかった。俺の気持ちを察してくれたようだ。

「あ、それより夕飯は? もう食べた? 私、これから食べようと思ってて。義明も食べる?」
「うん、何、作るの?」

 俺は鞄を床に置き、上着を脱いで訪ねた。

「今日は鍋焼きうどん。近頃寒くなって来たから。それでいい?」
「ああ、俺も手伝うよ」

 俺はそう言って立ち上がったが、夏海は笑って断った。

「いいよ。鍋焼きうどんなんて簡単だから座ってて。あ、何か飲む?」
「炭酸ある? なんでもいいんだけど」
「この前、義明が置いていったコーラが冷蔵庫に入ってるよ」

 夏海に言われて俺は冷蔵庫を開けて缶のコーラを取った。プルトップを開けて、ごくっと飲む。冷たい炭酸が喉を通って心地いい。
 そしてキッチンでは夏海が包丁を片手にネギを切っている。うどんだしの暖かい匂いが香り。俺はその姿を冷蔵庫に寄りかかりながら、ぼんやりと眺めた。いつまでも眺めていたい光景だ。

「なぁに? 見てなくても毒なんて入れないよ?」

 夏海は冗談交じりに言ったが、俺は唯一甘えられる相手である夏海の肩に頭を寄せた。

「義明? どうしたの?」
「何でもないよ。ちょっと疲れただけだ」
「そう?」

 まさか帰ってきた兄貴に嫉妬しているなんて子供みたいなことは言えなかった。

「ああ、本当……なあ、今日は泊ってもいい?」
「私はいいけど。でも義行君がいるのにいいの?」

 夏海は心配そうに尋ねてきた。それは俺の為を思って言ったことなのだろう。でも、今の俺は兄貴の為に言っているように聞こえて、俺は夏海の肩に預けていた頭を起こした。

「夏海まで兄貴の事か」

 俺はため息交じりに呟いたけど、夏海にははっきりと聞こえなかったのか「え?」と聞き返してきた。でも、今の俺は何も答えたくなかった。

「兄貴はいいんだ。それより、うどん、もういいんじゃないか?」

 俺はぐつぐつ煮立っている鍋に視線を向けて言った。俺の言葉に夏海の意識はうどんに移り、俺は話をはぐらかすように「箸とれんげでいいか?」と食事の準備する事にした。夏海もそれ以上は兄貴の事に触れず、俺達は熱々のうどんを食べることにした。
 意味もなくバラエティ番組のテレビをつけ、俺達はそれを見ながら食事を済ます。その後、風呂に入り、俺は泊り用で置いている服に着替えた。
 俺が風呂から上がると夏海はドラマを見ていて、ドラマを見終わった後、俺達は一緒のベッドに潜った。

 カチカチカチッと真っ暗な暗闇の中、時計の針の音がやけに耳に響く。疲れているのに、どうしてか眠れない。目を閉じると兄貴の顔が浮かんでくる。

 やめやめ、兄貴のことは考えるな。兄貴ならじいちゃんやばあちゃんといる。俺なんかいなくても大丈夫だ。きっと楽しくやっているさ。

 そう心の中で呟いた後、苦い思いが胸の中に広がり、昔のことが思い出された。

 昔から祖父母には兄貴しか見えていないようだった。俺がいても、祖父母は兄貴ばかりを気にした。兄貴が病弱だから仕方のなかったが、そうわかっていても子供心に苦しかった。

 ただ健康だから、という理由で誰にも相手にされないこと。誰にも見てもらえないことに。大人たちは全員、兄貴に目を向けていた。俺もそこにいるはずなのに。悲しいと叫んだ心の痛みが蘇る。
 そして、その痛みが今でも俺を苦しめるなんて。とっくに卒業したと思っていたのに。子供の頃の傷は自分が思っていたよりも深かったようだ、と俺は天井を見ながらぼんやりと思った。

 でも、この痛みも明日までだ。兄貴は明日まで。

 そう思うと余計に胸が痛む。
 兄貴にいてほしいと思う気持ちと、この胸の傷を再び荒らす原因の兄貴にいてほしくないと思う気持ちが、混在して心を乱す。だから俺は心を保とうと大きく息を吐きだした。

「義明、眠れないの?」

 隣に眠る夏海に声をかけられて、俺は顔を横に向ける。薄暗い中、微かに夏海の顔が見える。

「ごめん、起こした?」
「ううん……。ねえ義明、あのね」

 夏海はそこまで言ったけれど、その後の言葉を続けなかった。

「何?」

 俺は気になって尋ねたけれど、夏海は答えなかった。

「ううん、なんでもない。おやすみなさい」
 夏海はそう言うと俺の傍に寄ってきて、目を瞑った。俺は夏海の言葉が気になったけれど、聞き返さず目を閉じた。そうして俺はいつの間にか眠りについていた。









 四日目の朝、起きて携帯を見ると母さんからメールが入っていた。
 昨日の内に、適当な理由をつけて家に帰れないことを伝えていたが、母さんは今日だけは絶対に帰ってくるように! と俺にメールを返していた。今日は兄貴の最後の日だからだろう。
 今日が最後だと思うと胸が痛い。でも最後の日だからと言って俺は兄貴に何もできない。

 そもそも兄貴は一体、どうして今帰ってきたんだろう?

 俺はそう思いながらも、考えるのを止めて夏海と朝食を食べ、スーツに着替えて普通に会社に向かおうとした。夏海が止めなければ、馬鹿な俺は本気でそうするつもりだった。

「義明!」

 会社に向かおうと玄関のドアノブに手をかけた俺に夏海は声をかけた。

「何?」

 俺は時間がなくて手短に尋ねた。そんな俺に夏海は少し間をあけた後、言った。

「今日は会社に行かないで、義行君と一緒にいてあげて」

 突然の言葉に俺は驚いた。夏海は真剣な顔をしていたから。

「夏海?」
「本当は言う事、止められてたけど……今日を逃したらきっと義明、後悔すると思うの」

 夏海の含んだ言い方に俺は首を傾げる。

「言う事を止められてた? 一体、何を言ってるんだ? そもそも誰に」

 俺が言いかけると、夏海はすぐに答えた。

「義行君よ」
「兄貴?」

 俺が尋ねると夏海は頷いた。

「実はね、一昨日のお昼過ぎに義行君が私のところに来たの」
「夏海のところに? それって仕事場に?」
「うん。私、義行君にカフェで仕事してるって教えていたから」

 夏海の言葉に、俺は三人で街を歩いている時に夏海が兄貴にどこのお店で仕事をしているか教えていたことを思い出した。兄貴は詳しく場所まで聞いていたっけ。なら一昨日、帰りが遅かった理由はそれか?

「でも、どうして夏海のところに兄貴が?」

 俺が尋ねると、夏海は口にすることを少し迷ったが、その重たい口を開けた。

「私にお願いがあるからって」
「夏海に?」

 兄貴は夏海に何を願ったんだ?

 俺の疑問を見通した目で夏海は俺を見つめた。

「義行君、義明は……自分のせいで、親からの愛情を十分に受けてないって。だから、義明の事をたくさん甘やかして、ずっと愛してあげてって。自分がそうしたいけど、そうできないからって。そう約束してほしいって、私のところに来たの」

 夏海の話に俺は思わず息が止まるほど驚いた。

「義行君、言ってたよ。自分が病気のせいで義明にはすごく悪いことをしたって。両親が自分ばかりに構って、全然義明に構う事ができなかった。自分より幼かったのに、甘えたかっただろうに、自分がそれを邪魔してたって。死んだ後もずっと義明の事が心配だったって。でも今は私がいるから安心できる、義明の事お願いしますって私に頼んだの。……ねえ義明、もう今日しかないんだよ? 泣いても笑っても今日までしか義行君と言葉を交わす事しかできないんだよ。だから傍にいてあげて。そして、ちゃんとお別れをしてきて」

 夏海の言葉は俺の胸に重く響いた。
 泣いても笑っても今日までしか兄貴と言葉を交わすことができない。その事を俺はわかっていた筈なのに、俺は理解していなかった。今日を逃せば二度と兄貴に会えない事。帰ってくることはないのだ。それを今になって痛感する。
 そんな俺の空いている手を夏海は握った。

「ねぇ義明、どうして義行君が義明の誕生日に帰ってきたと思うの? 義明の為だよ」
 
 俺は夏海に言われて、俺は兄貴がどうして自分の誕生日にわざわざ戻ってきた意味を今更ながらに知った。
 兄貴は偶然に帰ってきた訳じゃない、俺の誕生日に帰ってきたのだ。俺の為に、俺の誕生日を祝う為に、俺にあの大事にしていたフィギュアを渡す為に。
 そうわかってしまったら、俺の中にとてつもない罪悪感と後悔が膨れ上がった。

 俺は兄貴の為に何かしてあげただろうか? この四日間で特別なことを。

 そう自分に問いかけて何もしていない事を知る。兄貴に帰生している間は楽しんでほしいと言いながら、何かしてあげたことなんてなかった。
 なのに兄貴はフィギュアを俺に渡し、俺の為に弁当を作ったり、夏海に約束まで取り付けて。あんな小さな体なのに。自分の腑抜けさに苛立ちさえ覚える。
 でも今ならまだ間に合うと夏海は教えてくれた。俺は夏海の手を握り返した。

「ありがとう夏海、教えてくれて。俺ってバカだな、夏海に言われるまでわからないなんて」

 俺は自分の頭を掻き、せっかくセットした髪をくしゃくしゃにした。その後、ポケットに入れていた携帯を取り出し、すぐに会社に電話して今日は休むことを伝えた。
 電話を終えた俺は携帯をポケットに直し、夏海に視線を向けた。

「兄貴のところに行ってくるよ」

 俺がそう言うと夏海は「うん、そうしてあげて」と微笑んだ。

「ありがとう、夏海」

 俺は礼を言って、ドアを開けて夏海に見送られて家を出た。向かう先は実家だ。

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