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第三章「兄と弟」
5「兄貴を追いかけて」
しおりを挟む朝、俺は家に帰りつき、玄関のドアを開けた。
「ただいま!」
そう家の中に声をかけて、すぐに家の中に入った。するとリビングからばあちゃんとじいちゃんが一緒に出てきた。二人以外の気配が家の中に感じられない。
「義明!」
「あら、義明君!」
二人は俺が朝にスーツ姿で帰ってきた事に驚いたようだったが、俺はそんな事はお構いなしで二人に尋ねた。
「兄、義行は?」
「義行ちゃんなら、お父さん達と一緒に病院に行っているぞ」
「病院!? どうして!」
じいちゃんの言葉に俺は驚いて尋ねた。
帰生で帰ってくる人達はどんな病気で亡くなっても帰生中は健康体で戻ってくるからだ。だから俺は驚かずにはいられなかった。兄貴の病気が再発したのかと思って。
「安心して、病気とかじゃないから。義行ちゃんね、入院中にお世話になっていた先生や看護婦さんにお礼を言いたいんですって。もう結構経つからいない人もいるだろうけど、それでもって、今入院していた病院に行っているの」
ばあちゃんは一通り俺に説明してくれて、俺はほっと胸を撫でおろした。
「なんだ、そういう事か」
俺が安心していると、二人は俺の顔を見て、何か言いたそうにしていた。その事に俺は不安を覚える。兄貴に何かあったのかと。でもそれは俺の思い違いだった。
「義明、その……今まで悪かったな」
じいちゃんはおもむろに俺に謝った。でも謝られる経緯がわからなくて俺は首を傾げた。
「何、急に」
「いや昨日、義行に言われたんだ。自分にばっかり構ってないで、ちゃんと義明にも構ってあげてって、孫は自分だけじゃないってな。思えばお前が子供の頃は、義行の事があってちゃんと構ってやらんかったと思ってな。全くもって今更なんだが」
「義行ちゃんに私達、叱られたのよ。でもその通りだと思って、今までごめんなさいね」
じいちゃんとばあちゃんは罰が悪そうに俺に謝った。でもあまりに急なこと過ぎて俺は驚いてしまった。
大体、謝られることでもない。あの時は仕方がなかったことだ。そうわかっている。けれど、こうして謝れるとなんだか胸の奥がだんだんむず痒くなってきた。
「別に俺は気にしてないしっ、あの時は仕方なかったよ。義行は病弱だったし」
俺は照れくさくて早口でまくし立てた。でも、そんな俺をじいちゃんとばあちゃんは暖かい眼差しを俺に向けた。その目はまっすぐ俺を見て、なんだか俺は居たたまれない思いに駆られた。その目を見て俺はすっかり自分が思い違いをしていたことに気が付いた。
二人は別に故意に俺に構っていなかったわけじゃない。普通の祖父母として俺を大事な孫として扱ってくれていた。でも病弱な兄貴を特別に扱うが故に俺は自分はのけ者にされていると勘違いをした。二人を避けていたのは俺の方、可愛くない孫を演じていたのは自分の方だったのだ。
「じいちゃん、ばあちゃん、義行の言葉なら気にしないで。俺はもう大丈夫だから」
俺が言うと二人は笑顔を見せて、「そうか」とじいちゃんが言った。心の中にあったはずのやけどが姿を消した気がした。
「俺、病院に行ってくる。伝えなきゃいけないことがあるんだ」
俺は二人に言って、見送られて家を出た。俺はその後表通りに出ると、すぐにタクシーを捕まえて乗り込み、兄貴が入院していた病院の名前を運転手に伝えた。
車は静かに発進し、その間に俺は母さんに電話を掛けた。しかし、病院の中にいるからなのか繋がらない。仕方なく、俺は“今そちらに向かっている”とメールを送るだけにした。
行き違いを防ぎたかったからだ。母さんが俺のメールに気が付いてくれることを祈りながら、俺はポケットに携帯を入れた。
そして、俺は窓の外を見ながら、病院に向かうのは何年ぶりだろうか? と考える。
幸い俺は兄貴と違って、今まで病院というものに世話になったことがなかった。全く、という意味では語弊があるが、入院するほどの怪我や大病を患ったことはない。覚えている限りでは、高校の時に一度だけインフルエンザにかかり診察してもらったぐらいだ。それ以降、病院には行っていない。
俺は移り変わる景色を眺めながら、病院に向かう兄貴の気持ちを想った。
兄貴はどんな思いで病院に行ったのだろうか? お礼を言う為だと言っていたけれど、自分が死んだ場所に、どんな気持ちで。……そもそも、あの頃の兄貴はどう思っていたんだろうか? 十一歳にして生い先が短いことを兄貴はわかっていた。たった三歳しか違わないのに。今考えれば兄貴は聡い子供だったな。……でも、そんな子供が自分の生い先が短いと知っていて、どう考えていたんだろうか? 怖くなかったわけがない。葛藤がなかったわけがない。苦しくなかったわけがないのに……兄貴はいつも俺に優しかった。自分の事で手一杯なはずなのに、幼い俺をいつも気にかけてくれた。俺は何もしてやれなかったのに。昔も今も……兄貴は今の俺の事をどう思っているんだろう? 健康そのものの俺を、兄貴の年も越えて二十七にもなった弟の俺を。
その解答を聞くのが少し怖いとも思いつつも、俺は今度こそ聞こうと思った。
四十分後、タクシーは病院に着き、俺はお金を払って降りた。
もう一度、母さんの電話にかけてみる。だけど出ない、父さんの電話にもかけるが無駄だった。俺はくそっ! と心の中で悪態をつきながら、病院の中に入った。
小児科を目指して歩き、あたりを見回して兄貴がいないか目で探す。でも、どこにも兄貴の姿が見られない。俺は足早に歩き、小児科のナースステーションにたどり着いた。
「あの、すみません! 今さっき、十一歳くらいの男の子が親と一緒にここに来ませんでしたか!?」
俺はナースステーションの受付に座っているお姉さんに尋ねた。
「十一歳ぐらいの男の子?」
お姉さんの様子から兄貴の事を知らないようだった。けれど、その後ろにいた婦長らしき人が声をかけてきた。
「それってもしかして宮城・義行君の事?」
そうその人は言った。そして俺はその人に見覚えがあった。兄貴が入院していた頃、兄貴の看護にあたっていてくれた人だ。婦長さんも俺の事に気が付いたらしく、問いかけてきた。
「もしかして、義行君の弟の義明君?」
婦長さんは俺の名前まで憶えていた。
「ご無沙汰してます。あの、兄貴を探していて」
「義行君なら、今さっき帰って行きましたよ。五分ぐらい前かしら」
「五分前! ありがとうございます!」
俺はお礼を言うと、その場を離れていた。俺は外に出ようと出口に向かった。きっと兄貴は両親の車で来ているに違いない。早くしないと行ってしまう。明日の朝まで猶予があるというのに、俺はもうこのまま会えないんじゃないか? という焦燥感にまで駆られ、やり場のない思いを抱えた。
このまま会えなくなるなんて絶対に嫌だった。まだ何もしてない。何もしていないんだっ! と心が叫ぶ。
俺は窓から見える駐車場に注意を向けながら、出口に近い二階の渡り廊下を通った。その時だった。俺はようやく下を歩く、兄貴と両親の姿を見つけた。
俺は窓を開け、躊躇いなく叫んだ。
「兄ちゃんっ!」
その声に兄貴だけが気が付いて俺を見つけた。兄貴は俺がいることに驚いた顔をしたけれど、俺は構わず階段を駆け下り出口を出て、足を止めている兄貴の元まで駆け寄った。
「義明! どうしてここに?」
兄貴は驚いた顔で俺を見て言った。傍にいた両親も俺が現れたことに驚いているようだった。
「義明、あんたどうしてここに」
「どうしたんだ?」
二人は俺に問いかけたけれど、俺は兄貴しか見ていなかった。
「義明、どうしたの? 何かあったの?」
兄貴は首を傾げて不安そうに俺に言った。俺は言いたい事がいっぱいあったのに、なんといっていいのかわからず率直な言葉しか出てこなかった。
「兄ちゃんに会いたくて」
俺が言うと、兄貴は目を大きく開けて驚いた後、嬉しそうに笑った。
「へへ、僕ならここにいるよ?」
その屈託のない笑顔に俺はほっと息をついた。兄貴はまだここにいる。まだ、ここに。
「兄ちゃん、俺……っ」
俺は何か言葉を紡ごうとしたが、そんな俺の手を兄貴は握った。
「義明が来てくれて良かった! 今からお父さんとお母さんと一緒に遊園地に行くところだったんだ! 義明も一緒に行こ?」
「遊園地?」
「うん! 僕、まだ一回も行ったことがなくて、だからみんなで一緒に行こ!」
兄貴は俺の手を強く握って言い、俺はただ頷いた。
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