9 / 9
8、花霞
しおりを挟む
*
左大臣の告げた言葉の衝撃に、帝は言葉を失った。
「皇后さまと、今一度相見えることができる、と申し上げましたら――御上は如何なさいますか」
確かに、左大臣はそう言った。
「それは、まことなのか……?」
御簾越しには、左大臣の顔を伺うことができない。
帝は御簾を跳ね除けたい衝動をぐっと堪えた。
「都には、御上と対を為す主がございますことを、ご承知でしょうか」
「藤と菊のことか?」
それならば、帝も知った存在だ。
物心ついた時から、彼らは宮中に暮らす者ならば誰もが知っている。
御上とはもう一対の都の主である、と。
御簾をすり抜けた2人の童は、ニィッ、と唇を釣り上げた。紅を塗っているのか、唇は血のような赤で染まっている。
「皇后と、もう一度会いたいか?
「当たり前だ」
帝は躊躇なく答えた。
最愛の女を失ってから、5年。他に妃を迎えても尚、帝の心から定子の影が消えることはなかった。
「定子に会えるのならば、私は何でもする。何を犠牲にしても、構わない」
「その言葉、偽りはないか」
「たとえば、そうさな――皇后の姿をしていなくても?」
「構わぬ。……御霊が定子であるのなら、私はその者を愛そう」
どのような醜女であっても、男であっても、構わない。帝が惹かれたのは、定子の容姿だけではない。
産みの母でさえ、帝を一人の人間として見なかった。無論、それは目の前の男も同じではあるが。
懐仁という一人の男として愛しんでくれたのは、定子ただ一人。
定子が帝としてではなく、一人の男として己を見てくれたのだから、帝もまた、定子がどのような存在に成り果てようと、受け入れる覚悟があった。
「お見事」
藤と菊が手を打った。
「天晴だ、帝」
「そなたの望み、必ずや叶えてくれる」
「……だが……本当にそのような真似、できるのか?」
定子の体は既に荼毘に付され、現世には存在しない。
墓を暴いたとしても、5年も経てば、そこにあるのは骨だけだ。骨であろうと愛しさは変わらないだろうが、あの黒髪を愛でられないのは寂しくもある。
「なぁに」
「簡単なことじゃ」
童達が唇を舐めた。
「器がなければ、移せばいい」
「移す……?」
「別の者の体に、皇后の御霊を移す」
なんてことのないように言う二人の神霊の言葉に、帝は問い返した。
「……その体の持ち主は?」
「当然、消えるでしょうな」
左大臣が藤と菊の言葉を引き継いだ。
「御霊だけでは、現世を生き延びることは、不可能かと」
帝は、臣下が放つ冷淡な物言いに、思わず唾をのみ込んだ。
*
藤壺の、中宮の私室の御簾が揺れる。寝衣姿で、彰子は頬をくすぐる髪を撫でた。
挨拶を述べる暇も与えられず、彰子は帝の腕の中へ閉じ込められる。
「御上」
呼びかけるが、返事はない。帝の異変は、腕の振動が伝えて来た。
「寒いのですか?」
顔を上げると、帝は荒々しく彰子の唇を奪い、呼吸を吸い上げた。離れて覗き込むと、帝は光のない目を向けた。
「中宮」
「はい」
「……頼みがあると言ったら……聞いてくれるか?」
「なんなりと、お申し付けください」
彰子は帝の物だ。
触れる頬も、腕も、耳も、目も、髪の一筋さえも。
帝が望むのであれば、どんなこともする。あの晩、そう誓ったのだ。
帝は「すまない」と頭を下げた。
「いけません」彰子は慌てて制する。「天に立たれる御方が頭を下げたりなんて」
「死んでくれ」
続けられた言葉は、頭に水を浴びせられたようだった。真冬の中に置き去りにされたように、心が凍て付く。
「……定子を、蘇らせる方法がある」
帝が、訊いてもいないのに答えた。
「皇后様は……」彰子の声は思いのほか冷静だった。「皇后様は、荼毘に付されたのでは……?」
「ゆえに、定子の魂を移す器が要る。……そなたは、定子の従姉妹。そなたの体なら、定子の魂もよく馴染むに違いない……」
(……私は、定子様の代わりだと、思っていた)
定子に代わって、定子の子を育んでいた。
定子を愛しむ想いごと、帝を愛しむ決意をした。
そして帝は、そんな彰子の心を受け入れてくれたはずだった。
たとえ、身代わりでもよかった。彰子のことを少しでも愛しい、愛いと思ってくれれば。
しかし、実際は違う。帝は、端から彰子を定子の身代わりにしてなどいなかった。彰子は定子の身代わりにすら生り得なかったのだ。
(なんて、滑稽な)
彰子は帝の表情を一つも見逃すまいと思った。帝が苦しんでいるのが目に取れて、少しだけ胸がスッとした。
「……すまぬ。今の話、忘れよ」
すぐに後悔したのだろう。帝は怯えたように、彰子の頬を掌で包み込む。彰子は微笑みを湛えたまま、帝の掌に擦り寄った。
「1つだけ、お聞かせ願えますか」彰子は夫を真っ直ぐに見つめた。「ほんの一時でも、私のことを愛かなしいと――想ってくださいましたか?」
帝は何も言わず、ただ黙って彰子の体を抱き締めた。それがこの想いへの答えだった。
(私は帝の物。帝の願いを叶えてあげるの。だから――いいの)
*
「本当にそう思うか」
聞き慣れたぶっきらぼうな二つの声を耳にする。
彰子は宮中に来てから一番時間をかけて髪を梳かせ、化粧も施した。
水面に映る自分は、今までで一番綺麗だと自負できる。
「いいの」
彰子は笑みを漏らした。
帝は彰子がいなくなることを少しは惜しんでくれた。そのことだけで満足しなければならない。
「それはまことに帝の為か」藤は口の端を釣り上げた。
「もちろんよ」
菊は吊り上がった口を動かした。二人とも、心の底から楽しそうだった。「定子との約束はどうする?」
『宮達の母になってほしい』
そう約束したのは昔のこと。
その約束はもう要らない。定子が自分で面倒を見ればいい。
(これでいい、これでいいのだと言い聞かせた。私は幸せだ。愛する人の為に尽くすことができるのだから)
「まったく、やはり人の世は純真なだけではいられない」
「今のお前は、自らを犠牲にしている状況に酔い痴れているだけに他ならん」
「……二人とも」彰子は目を細めた。「定子様達に何かしたら、私は貴方達を呪い殺すわ」
(たとえ都の真の主があなた達であろうと――私の主は、あの方だけ)
女房に梳かせた髪から、香りが漂う。帝が褒めてくれた伽羅の匂い。指先はしっとりと濡れ、やや冷たくなって来た。
童達の甲高い声を背に、霞がかった世界に片足を入れながら、彰子はうっとりと微笑んだ。
【了】
左大臣の告げた言葉の衝撃に、帝は言葉を失った。
「皇后さまと、今一度相見えることができる、と申し上げましたら――御上は如何なさいますか」
確かに、左大臣はそう言った。
「それは、まことなのか……?」
御簾越しには、左大臣の顔を伺うことができない。
帝は御簾を跳ね除けたい衝動をぐっと堪えた。
「都には、御上と対を為す主がございますことを、ご承知でしょうか」
「藤と菊のことか?」
それならば、帝も知った存在だ。
物心ついた時から、彼らは宮中に暮らす者ならば誰もが知っている。
御上とはもう一対の都の主である、と。
御簾をすり抜けた2人の童は、ニィッ、と唇を釣り上げた。紅を塗っているのか、唇は血のような赤で染まっている。
「皇后と、もう一度会いたいか?
「当たり前だ」
帝は躊躇なく答えた。
最愛の女を失ってから、5年。他に妃を迎えても尚、帝の心から定子の影が消えることはなかった。
「定子に会えるのならば、私は何でもする。何を犠牲にしても、構わない」
「その言葉、偽りはないか」
「たとえば、そうさな――皇后の姿をしていなくても?」
「構わぬ。……御霊が定子であるのなら、私はその者を愛そう」
どのような醜女であっても、男であっても、構わない。帝が惹かれたのは、定子の容姿だけではない。
産みの母でさえ、帝を一人の人間として見なかった。無論、それは目の前の男も同じではあるが。
懐仁という一人の男として愛しんでくれたのは、定子ただ一人。
定子が帝としてではなく、一人の男として己を見てくれたのだから、帝もまた、定子がどのような存在に成り果てようと、受け入れる覚悟があった。
「お見事」
藤と菊が手を打った。
「天晴だ、帝」
「そなたの望み、必ずや叶えてくれる」
「……だが……本当にそのような真似、できるのか?」
定子の体は既に荼毘に付され、現世には存在しない。
墓を暴いたとしても、5年も経てば、そこにあるのは骨だけだ。骨であろうと愛しさは変わらないだろうが、あの黒髪を愛でられないのは寂しくもある。
「なぁに」
「簡単なことじゃ」
童達が唇を舐めた。
「器がなければ、移せばいい」
「移す……?」
「別の者の体に、皇后の御霊を移す」
なんてことのないように言う二人の神霊の言葉に、帝は問い返した。
「……その体の持ち主は?」
「当然、消えるでしょうな」
左大臣が藤と菊の言葉を引き継いだ。
「御霊だけでは、現世を生き延びることは、不可能かと」
帝は、臣下が放つ冷淡な物言いに、思わず唾をのみ込んだ。
*
藤壺の、中宮の私室の御簾が揺れる。寝衣姿で、彰子は頬をくすぐる髪を撫でた。
挨拶を述べる暇も与えられず、彰子は帝の腕の中へ閉じ込められる。
「御上」
呼びかけるが、返事はない。帝の異変は、腕の振動が伝えて来た。
「寒いのですか?」
顔を上げると、帝は荒々しく彰子の唇を奪い、呼吸を吸い上げた。離れて覗き込むと、帝は光のない目を向けた。
「中宮」
「はい」
「……頼みがあると言ったら……聞いてくれるか?」
「なんなりと、お申し付けください」
彰子は帝の物だ。
触れる頬も、腕も、耳も、目も、髪の一筋さえも。
帝が望むのであれば、どんなこともする。あの晩、そう誓ったのだ。
帝は「すまない」と頭を下げた。
「いけません」彰子は慌てて制する。「天に立たれる御方が頭を下げたりなんて」
「死んでくれ」
続けられた言葉は、頭に水を浴びせられたようだった。真冬の中に置き去りにされたように、心が凍て付く。
「……定子を、蘇らせる方法がある」
帝が、訊いてもいないのに答えた。
「皇后様は……」彰子の声は思いのほか冷静だった。「皇后様は、荼毘に付されたのでは……?」
「ゆえに、定子の魂を移す器が要る。……そなたは、定子の従姉妹。そなたの体なら、定子の魂もよく馴染むに違いない……」
(……私は、定子様の代わりだと、思っていた)
定子に代わって、定子の子を育んでいた。
定子を愛しむ想いごと、帝を愛しむ決意をした。
そして帝は、そんな彰子の心を受け入れてくれたはずだった。
たとえ、身代わりでもよかった。彰子のことを少しでも愛しい、愛いと思ってくれれば。
しかし、実際は違う。帝は、端から彰子を定子の身代わりにしてなどいなかった。彰子は定子の身代わりにすら生り得なかったのだ。
(なんて、滑稽な)
彰子は帝の表情を一つも見逃すまいと思った。帝が苦しんでいるのが目に取れて、少しだけ胸がスッとした。
「……すまぬ。今の話、忘れよ」
すぐに後悔したのだろう。帝は怯えたように、彰子の頬を掌で包み込む。彰子は微笑みを湛えたまま、帝の掌に擦り寄った。
「1つだけ、お聞かせ願えますか」彰子は夫を真っ直ぐに見つめた。「ほんの一時でも、私のことを愛かなしいと――想ってくださいましたか?」
帝は何も言わず、ただ黙って彰子の体を抱き締めた。それがこの想いへの答えだった。
(私は帝の物。帝の願いを叶えてあげるの。だから――いいの)
*
「本当にそう思うか」
聞き慣れたぶっきらぼうな二つの声を耳にする。
彰子は宮中に来てから一番時間をかけて髪を梳かせ、化粧も施した。
水面に映る自分は、今までで一番綺麗だと自負できる。
「いいの」
彰子は笑みを漏らした。
帝は彰子がいなくなることを少しは惜しんでくれた。そのことだけで満足しなければならない。
「それはまことに帝の為か」藤は口の端を釣り上げた。
「もちろんよ」
菊は吊り上がった口を動かした。二人とも、心の底から楽しそうだった。「定子との約束はどうする?」
『宮達の母になってほしい』
そう約束したのは昔のこと。
その約束はもう要らない。定子が自分で面倒を見ればいい。
(これでいい、これでいいのだと言い聞かせた。私は幸せだ。愛する人の為に尽くすことができるのだから)
「まったく、やはり人の世は純真なだけではいられない」
「今のお前は、自らを犠牲にしている状況に酔い痴れているだけに他ならん」
「……二人とも」彰子は目を細めた。「定子様達に何かしたら、私は貴方達を呪い殺すわ」
(たとえ都の真の主があなた達であろうと――私の主は、あの方だけ)
女房に梳かせた髪から、香りが漂う。帝が褒めてくれた伽羅の匂い。指先はしっとりと濡れ、やや冷たくなって来た。
童達の甲高い声を背に、霞がかった世界に片足を入れながら、彰子はうっとりと微笑んだ。
【了】
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
花嫁
一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる