散華記

水城真以

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天狗攫い

八、

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 呼び出しから10日ほど経ったある日のことだった。於菊おきくは、万里まりから一通の文を渡された。昼前の、日の光が登りきる頃である。
「本当は、わたしが直接、行きたいのだけど……」
 万里は眉間に深い皺を刻みながら、それができないのだ、と告げた。近頃、乱丸らんまるが稽古の合間を見ては前触れもなく万里の部屋に来るからだ。


 少し前、万里がひさに呼び出しを受けて部屋を出ているときに乱丸が来たことがあった。その際は部屋の片づけをしていた於菊を捕まえてものすごい顔でにらみつけられたことだけは覚えている。


 まるで見張るような行動に万里は困惑していたが、説得は諦めているのか、乱丸の隙にさせているようだった。
 要するに、万里は乱丸の監視なしに外には出られないし、未だ天狗攫いの件が落ち着いていない以上、乱丸が許すわけもない。


「これを、どこに届けたらいいんですか?」
 於菊が問いかけると、万里は於菊の頬を両手で掴んだ。そして、周囲を窺うように見渡し――於菊の耳元に唇を寄せる。


「わたしの実家に届けてほしいの」


「……姫さまのご実家に?」
 於菊が聞き返すと、万里は「しっ」と唇を指で押さえてきた。誰にも聞かれたくないようだった。
「於菊は、字は読める?」
 於菊は首を横に振った。畑を耕すのに、読み書きなど必要ない。そもそも習う余裕さえない家の出である。
 それを聞くと、万里は安堵したように息を吐いてから、於菊の頬から手を離した。だからと言って、近すぎる距離が離れるというわけでもなかったが。
「そのなかにはね、わたしが欲しいものをしたためてあるの。母か父に――父に渡せば、きっと理解してもらえるはず。誰にも言ってはだめよ。お須磨すまにも、若たちにも、誰にも。聞かれたら、そうね……『実家においてきた日本書紀の、「阿豆那比あずなひの罪」の写本を取りに行きます』と答えるといいわ」
「あずないのつみのしゃほんをとりにいきます、これでよいのですか?」
 万里はうなずいた。とりあえず、なにをしに出かけるのかが人に知られなければいいのだということは理解した。

「日が沈むまでには戻りなさい」

 万里はそう言いつけると於菊から離れた。同時に、どたどたと荒々しい足音が聞こえる。万里はそれを合図に座りなおすと、入り口に向かって深々と頭を下げた。

「……いたか」

 乱丸は顔色ひとつ変えず、戸を開けるなりそう言った。万里は「どこにも行きませんよ」とほほ笑むと、於菊に「下がりなさい」と命じた。行け、ということである。於菊が立ち上がり、乱丸と目が合わないように気をつけながら部屋を後にした。


      ◇◆◇


 於菊を見送り、万里は強張った肩の力を静かに抜いた。
(於菊ったら……あれじゃ、「なにかしようとしています」と言っているようなものではないの……)
 須磨や、弥の筆頭侍女であるたけに会ったら、間違いなく文を渡してしまいそうである。一抹の不安はあれど、それでも於菊でなければならなかった。

(お須磨は武家の娘……きっと文字が読める。間違いがあったらと、悪気なく中身を改めてしまうかもしれない。文盲もんもうである於菊であれば、中身を見ようとは思わないし、見られたところで問題ない)

 万里は乱丸に茵を明け渡しながら、文が無事に松野屋の主、嘉之助かのすけに届くことを願った。そして、於菊が万里が望んだ返事を携えて戻ってきてくれることを、なによりも。

 茵に座らされた乱丸はといえば――相変わらず、万里のことを見張るように、じっと見つめている。指先から、頭のてっぺんまで、品定めするように。
「……今日は」
「はい」
「顔になにか塗っておるのか?」
「……はい?」
 万里は訝しげに、目の前に座す美少年を見つめた。
「いつもと、白さが違うから」
(……あなたに言われても)
 雪よりも白いような肌をしている乱丸に言われると、意味が分からなくなる。

 確かに城に上がって数日は、白粉もこまめに塗り重ね、紅も差していた。しかし、今は化粧をしていない。乱丸が訪ねて来ない間には弥に習って城内の役割などについて学ばなければならない。意外と動くことが多いので、化粧をしても意味がないと気づいたのだ。
「……化粧をした方が、若の好みでしょうか?」
「いや、どうでもいい」
 乱丸は目を反らした。呆れたように脇息にもたれている。だらしない姿も絵になるが、乱丸の意図が分からない。
 てっきり話をしようと、乱丸なりに近づいてくれているのかもしれない、とも思った。しかし、接すれば接するほど、森乱丸という少年のことが分からなくなる。松野屋に忍んで来ていたころの方が、よほど乱丸と話ができていた。
(相容れるのかしら、この人と……)
 城に上がってから、何度溜息を吐いたのか、数えることもやめてしまった。乱丸が飽きて出て行くのと於菊が帰ってくるのとどちらが先か、我慢比べがはじまった。


      ◇◆◇


 太陽がちょうど、空の真ん中に上がった頃――於菊は、強大な屋敷――否、館の前で、あんぐりと口を開けていた。
(ここで、よい……の?)
 金山城で、長可とその家族が暮らす本丸御殿と大差ない館である。だが、松野屋といえば、美濃みの金山で一番大きな店、と聞いたことがある。地理的にも、於菊が立っている場所が松野屋の前で間違いないはずだった。

 ちょうど、四十路くらいの女が店のなかから出てきた。艶のある黒髪に、赤い唇、なにより一目見たら吸い込まれてしまいそうな、黒い瞳。
(姫さまと、よく似てる……! あのひとが、姫さまのおっかあ、かな……)
 だが、確証を持てない。於菊は握りつぶしそうになるほど、文を強く持った。掌が汗ばんでいるせいか、喉がからからになっていた。声をかければいいのだと分かっているが、かすれた息しか出ない。そうこうしているうちに万里の母らしき女人は店を出たり入ったり、あるいは奉公人に声をかけられたり……と、忙しそうに動いていた。

(ど、どうしよう……姫さまのお使いです、と……そう言えばよいだけなのに……)

 あと一歩気を強く持つことができず、於菊がたたずんでいると、肩を叩かれた。

「いかがした」
 振り返ると、日に焼けた少年が訝しそうに立っていた。於菊と同じくらいであろうか、背はあまり高くないが、利発そうな顔立ちである。が、急に声をかけられて驚き、於菊はなにも言うことができなかった。

 少年は文の裏に書かれた文字を「まつ」と読み上げ、そして店のことを見て、「ああ」と勝手に納得してくれた。
「待っていろ」
 そして、店に入ろうとした女人を呼び止め、なにやら話し、そして於菊のほうを振り向いた。あらま、と女人は慌ててこちらに駆けてくる。

「お嬢ちゃん、どうされた?」

 女人は上品に微笑んだ。抱き着いたわけでもないのに、香のにおいがした。万里も好んでまとっている香りである。
 於菊は安堵して笑みをこぼしながら、必死で万里の使いであることと、嘉之助に取り次いでほしいことを願った。
「どうぞ奥に」
 万里の母はうなずくと、於菊を店の奥に案内した。

(あ、さっきの子……お礼言ってない)

 於菊は、万里の母を呼んでくれた少年の姿を探した。だが、少年の姿はもう人混みに消えていて、追いかけることはできなくなっていた。
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