散華記

水城真以

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残り香

七、

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 藍色と緋色が空の中で交じりはじめた。弥がそろそろ火を灯すべきかと立ち上がると、障子の前に人の気配を感じる。竹に戸を開けさせると、小さな悲鳴を上げた。物心ついたときから傍にいる侍女とは違い、弥はと言うと、――ああ、来るべきときが来たのか、と感じただけだった。
 夫は、返り血を浴びているわけではない。刀を抜いているわけでも、槍を背負っているわけでもない。しかし、夫が背に負った気は、家臣たちが称するとおり、まさしく”鬼”のものだった。
「お帰りなさいませ。すぐに湯の支度を」

「人払いせい」

 弥の言葉をかき消すように、長可は侍女に命じた。
「何人たりとも、近づくことは許さん」
 竹が縋るような目を向けてきたが、弥はうなずいた。戸を締め直し、足音が遠ざかったのを確かめると、弥は夫の前に座りなおした。
 弥は日に焼けた夫の頬に手を伸ばした。思ったとおり、氷のように冷たかった。長可はしばらく妻の掌を黙って受け入れていたが、やがて掴むと、自身の腕のなかに引き寄せた。耳朶に向けて紡がれた言葉にああやっぱりか――と思っている間に解放される。
 長可はそれ以上なにも言わない。だから、弥も異を唱える気はない。ただひとつ、疑問を訪ねるだけだ。

「殿は、どのように始末をつけられるおつもりで?」
 長可は弥のほうを一切見ないままだった。
「人質じゃ」長可は拳をきつく握りしめた。「それ以上の意など、あるわけなかろう。これまでどおり、片づける」
 弥は夫に膝を寄せた。胸に抱き寄せた髪を梳く。
(この方は――案外、武士には向いておられぬ……)
 鬼と呼ばれるほどに強い武士であることは知っているし、短気ゆえに婚儀が決められたときは、実家でも心配された。しかし、夫婦として暮らしてきた長くはない時を刻んでいるが、少しは人となりが分かっている。森長可というひとは良くも悪くも真っ直ぐな男だということが。
「……殿方というのも、楽ではないお役目にございますね」
 長可は「つらくはない」と言ったが、弥の胸から離れることなかった。長可が弥の部屋を出て行ったのは、翌朝のことだった。

   ◇◆◇


「あ、殿」
 明け方――庭に出た長可が物思いにふけっていると、小鳥のさえずりのような声が聞こえた。一瞬幻聴が聞こえる年になったのかと衝撃を受けたが、近づいてくる足音も衣擦れも、幻ではなく現なのだと告げている。
 弾けるような笑顔も、桃色の唇から鉄砲の弾より勢いよく飛んでくる言葉も、気だるい体には響くものだった。
「岐阜に行かれていたんですか? それとも、安土? 安土の町は、美濃よりも商いが発展されていると聞くのですけど、本当ですか? あ、安土といえば、京に近いですよね。この間、京から反物を仕入れて若君に小袖を仕立てようと思うんですけど、丈が足りるか不安で――」
 次から次へと飛び出す言葉。いつもなら、額に指弾のひとつも食らわせるところだが、今日は煩わしさを感じなかった。
 万里が掲げたのは、花色の反物だった。今はまだ少々余るかもしれないが、乱丸もまだ育ちざかりなので出来上がる頃にはちょうどよくなるだろうと教えてやると、万里は弾けるような笑顔を見せた。
 長可は、ふと思い立って掌を上げ――万里の頭の上で弾ませた。眉をしかめてまばたきを繰り返す万里に長可は苦笑する。
「屈託がないのは、お前のよきところじゃ。なれど、これからはもう少し考えてから行動せよ」
「……それ、殿にだけは言われたくないです。殿だって、普段なにも話さないわりに、考えなしで動かれていること、知っているのですよ」
「もっともじゃな」
 万里は反物を抱きしめると、縫い上がったら乱丸に届けてほしいと言った。了承してやると、鼻歌まじりに、万里は居室の方へ歩いて行った。小鳥のさえずりのような声が遠くに行くのを聞きながら、長可は後ろを振り返った。
 木の隙間から、加藤辰千代が文箱を携えて現れる。長可は渡された文を広げ、目を通すとすぐに突き返した。

「中将さまにお伝えせよ。つつがなく済ませまする、と」

 辰千代は小さくうなずくと、文を文箱に戻し、また木の隙間に戻って行った。


   ◇◆◇


 今年は雨がほどよく降った。おかげで、作物も花も見事な出来である。揺れる紫陽花を満足げに抱えながら、於菊は北の物見櫓の方角へ急いだ。
 数日前、偶然見つけた抜け道だった。躑躅など、小さな目隠しが多く、整備も雑ではあるが、人とあまり出会わずに通ることができる道がある。万里にも須磨にもまだ教えていないが、近いうちに教えてあげようと思った。万里がお忍びで城の外に出かけるときも、役に立つはずだった。
 しかし、今日の帰り道は、先客とぶつかりそうになった。

「加藤さま」

 信忠の使いで来たのだろうか。まだ早朝、ようやく日が昇ってきたところである。辰千代は一瞬両眉を上げたが、手で口元を覆いながら於菊を見つめた。
「あ、朝早いな。元気そうではあるが」
「毎朝、姫さまのお部屋に飾る花を探しにいくんです。今朝は雨も止んでいたから、散歩も兼ねて。加藤さまは、お元気ですか?」
「文に書いておいたろう。息災であると。……もっとも、お前からは返事がないゆえ、俺が於菊のことを知る術はないのだが」
「す、すみません……まだ、名前しか書けないんです」
 万里に習って名前は書けるようになったが、文をしたためる域には至っていない。
 名前を書くのも、筆がよれてしまったり、墨が滲んでしまったり、とても辰千代には見せられない出来である。
「そういえば、そなたの姫君は息災か? 変わったところなどはないか」
「少しお疲れみたいです。お風邪を召されているわけではないから、心配しなくても大丈夫だと思います」
「姫はご実家に戻られたりはしておらぬのか?」
「たまにお帰りになることはあります。母君とは仲がよろしいみたいですから」
「父親とは? 会っている様子はあるか」
 質問攻めにされていることに於菊は頬を膨らませた。辰千代は万里に興味津々らしく、万里を話題にすることが増えた。父親と会っている様子がないことを告げる声は、自然と硬くなっていた。
 辰千代も菊の機嫌が悪くなったことには気がついたらしく、眉間に皺を寄せていた。頭を乱雑に掻いた後、辰千代は強引に話題を変えた。
「今、出入りの職人に頼んで鏡を作らせている」
 鏡――そういえば以前、そんな約束をしたこともあった。些細な戯れのようなものだったのに、辰千代が覚えていてくれたのが分かると、於菊はみるみるうちに機嫌を直した。
「次に会うときには持って来られると思う。……それで許してくれよ?」
 辰千代は片手を上げ、背を向けた。少し痛くなった首の後ろを撫ぜ、菊は溜息を吐いた。
 ほとんど同じだった目線は、今では辰千代の顔は首を上げなければ見ることが叶わなくなっていた。

(あたしも……なんか、お返しに作って差し上げたいな……)

 辰千代が鏡を持って来てくれた時、菊も何か贈り物をしようと決めた。万里が乱丸に贈った、匂い袋のようなものを。綺麗には縫えずとも、名前も分からない想いだけは十二分に込めることができると思っていた。

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