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白鷺
五、
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乱丸は――雪が降るようになっても、折を見ては万里のもとに来てくれた。年越しの支度のために須磨や於菊が奔走しているのを横目に、万里も子どもたちに着せる衣が少しでも温かくなるよう、古着を重ねて縫い合わせていた。縁側に座っての作業は寒々しいが、冬のにおいが好きだった。
乱丸は万里たちが外に出る必要がないようにと、松千代ともども寺にくるときは大量の薪を拾って来てくれた。
「今年はみんなで年を越すことできそうでんなあ」
竜泉和尚が上擦った声で言った。その言葉で、万里は年を越せることが当たり前ではないのだ――と今更ながらに思い至った。松野屋で暮らしていたときは餓える心配などなく、薪も炭も満足にあった。金山城で暮らしていたときもそうだ。
「ここでお世話になってから――自分が如何に世を知らなかったのか思い至ります」
於菊や須磨相手に世の仕組みだなんだと偉そうに語ったところでなにも知らなかった。畑仕事も水仕事も満足にできなかった。文字が書けなかったら、手習いさえもまともに教えてやれず、ただ飯食らいになるところだった。
「ほらそうでっせ。わしだって、若い頃はなんも知りまへんでした」
「和尚さまも?」
「皆、ほないなものでっせ。藤芽どのが特別能があらへんというわけやおまへん。努力して形にできる者もおったら、努力してもどうにもならん者もおる。そやさかい、ひとはひとりやのうて、互いに力を合わして生きていけるんよ」
「わたしに、できること……」
万里だけにできることなど、あるのだろうか。厨のほうから、於菊のはしゃぐ声が聞こえる。味噌に漬けた木通の皮が食べ頃のはずだと、今朝嬉しそうに言っていたから、そのことだろうか。
「……わたしにできることが、いつか見つかるでしょうか?」
「もちろんです。藤芽どのはお気づきになっとられまへんが、藤芽どのにできることは、ぎょうさんあるんやで。たとえば今年の冬が楽に過ごせそうなのは、藤芽どののお陰です」
薪や炭のほかに――蔵には、食べ物もやまほどある。乱丸と松千代が必ず「餓えないように」と、食べ物や衣なども運んでくれるからだ。それと、以前会ったことのある保月長直という男。万里のことをなにかと気にする文が竜泉和尚のもとに届いているのだという。
「藤芽どのの気ぃ惹きたい殿方たちの恩恵に、わしらも預からせとっただいてるんです」
「そんなこと――皆さま、わたしの境遇を哀れんでくださるだけです。気を惹きたいと思っていただけるほどのものは、わたしにはもう」
「冬どころか夏まで問題のう暮らせるだけの物を届けてくれはるさかい有難い限りでっせ。ここだけの話、森乱どのは藤芽どののこと、安土にお呼びしたいと常々――」
「和尚」
だんっ、と音を立てて麦が入った袋が落とされた。乱丸が目を怒らせながら、竜泉和尚を見下ろしている。
「……少しばかりですが、麦を持ってまいりました。この程度であらば、和尚も持てるでしょう。どうぞ、お弟子たちに振舞って差し上げよ」
「ほう、こらこら……」
竜泉和尚は満足そうに微笑むと、麦が入った袋を大事そうに抱えた。
竜泉和尚が座っていた場所に座りながら、乱丸は万里に部屋へ行けばいいのに、と言った。
「火鉢に入れる炭が足りないか? なら、次はもっと持ってくるから遠慮せず使え」
「いえ、そうではありません。温石なら入れてますし。冬のにおいが好きなんです」
「……冬のにおい?」
「若君は感じませんか? 冬のにおいを。冷たくて、しっとりしていて、でもどこか乾いているの。雪が降りそうなときは、もっと強くなる。春には春のにおいがあるし、夏には夏のにおいがあるし、秋には秋のにおいがあるんですよ」
乱丸が鼻をひくひくと動かした。だが、返ってきたのは「分からん」という答えだった。
存外乱丸が風流を解さないことは、円臨時で暮らすようになってから知った。よくそれで政務に支障を来たさないものだと驚いたが、相手の好みさえ知っていれば、贈り物を選んだりするのには問題がないらしい。
「小倉さまはそのあたりがお詳しいのですけど」
何気なく松千代の名を出すと、乱丸が顔をしかめた。まるでドクダミを嗅いだ寒花のような顔をしている。金山にいた頃は知らなかった。乱丸は意外と感情が豊かだ。許婚であったころは知らなかった乱丸を、別れた今のほうが知ることができている。
「この間も、子どもたちに着せる古着をもらってきてくださったんですよ。あと、文をくださるときは紙の選び方も――」
「文だと? そなた、文までもらっているのか」
あの野郎、と乱丸が歯ぎしりした。
「若君は、お友達が絡んだときは、本当にお顔が変わりますね」
「友達などではないっ」
乱丸が吠えた。
「大体あやつは、はじめから気に食わんのだ。上さまご側室の子だかなんだか知らぬが、俺がここに来るとき融通を利かせる代わりに、晩のおかずを奪ってきたり、非番を変わらされたり……そのくせ、俺が知らん間にそなたに会いに来たり文を送って来たり」
「まあ、夕餉のおかずを?」
万里は顔をしかめた。ただでさえ多忙な乱丸の食事を邪魔されているというのは、いただけない。
「わたしから、小倉さまに言って差し上げます。いじわるするな、と」
「いい、もう松千代が来たときには部屋に通すな。それこそ侍女たちに言って、肥溜めにでも突き落とさせろ」
「そこまではしないわ。小倉さまは聞き分けのよいお方だもの、話せばわかるはず」
すると、急に頬が軽くつねられた。乱丸の睫毛の長さを羨みながら、琥珀のような双眸に映った自分と目が合った。
「俺と2人きりでいるときに、他の男の話はやめろ」
万里がうなずくと、乱丸の掌が離れて行った。手を伸ばすと、乱丸は受け入れた。床に縫い留めるように重ね合わされる。
「やはり、縁側では寒いな」
目を反らした乱丸の言葉に万里は同意した。しかし、2人とも相手が動き出すのを待っているだけで、どちらとも手を離すことはなく、今にも雪が降りそうな空を静かに見つめていた。
乱丸は万里たちが外に出る必要がないようにと、松千代ともども寺にくるときは大量の薪を拾って来てくれた。
「今年はみんなで年を越すことできそうでんなあ」
竜泉和尚が上擦った声で言った。その言葉で、万里は年を越せることが当たり前ではないのだ――と今更ながらに思い至った。松野屋で暮らしていたときは餓える心配などなく、薪も炭も満足にあった。金山城で暮らしていたときもそうだ。
「ここでお世話になってから――自分が如何に世を知らなかったのか思い至ります」
於菊や須磨相手に世の仕組みだなんだと偉そうに語ったところでなにも知らなかった。畑仕事も水仕事も満足にできなかった。文字が書けなかったら、手習いさえもまともに教えてやれず、ただ飯食らいになるところだった。
「ほらそうでっせ。わしだって、若い頃はなんも知りまへんでした」
「和尚さまも?」
「皆、ほないなものでっせ。藤芽どのが特別能があらへんというわけやおまへん。努力して形にできる者もおったら、努力してもどうにもならん者もおる。そやさかい、ひとはひとりやのうて、互いに力を合わして生きていけるんよ」
「わたしに、できること……」
万里だけにできることなど、あるのだろうか。厨のほうから、於菊のはしゃぐ声が聞こえる。味噌に漬けた木通の皮が食べ頃のはずだと、今朝嬉しそうに言っていたから、そのことだろうか。
「……わたしにできることが、いつか見つかるでしょうか?」
「もちろんです。藤芽どのはお気づきになっとられまへんが、藤芽どのにできることは、ぎょうさんあるんやで。たとえば今年の冬が楽に過ごせそうなのは、藤芽どののお陰です」
薪や炭のほかに――蔵には、食べ物もやまほどある。乱丸と松千代が必ず「餓えないように」と、食べ物や衣なども運んでくれるからだ。それと、以前会ったことのある保月長直という男。万里のことをなにかと気にする文が竜泉和尚のもとに届いているのだという。
「藤芽どのの気ぃ惹きたい殿方たちの恩恵に、わしらも預からせとっただいてるんです」
「そんなこと――皆さま、わたしの境遇を哀れんでくださるだけです。気を惹きたいと思っていただけるほどのものは、わたしにはもう」
「冬どころか夏まで問題のう暮らせるだけの物を届けてくれはるさかい有難い限りでっせ。ここだけの話、森乱どのは藤芽どののこと、安土にお呼びしたいと常々――」
「和尚」
だんっ、と音を立てて麦が入った袋が落とされた。乱丸が目を怒らせながら、竜泉和尚を見下ろしている。
「……少しばかりですが、麦を持ってまいりました。この程度であらば、和尚も持てるでしょう。どうぞ、お弟子たちに振舞って差し上げよ」
「ほう、こらこら……」
竜泉和尚は満足そうに微笑むと、麦が入った袋を大事そうに抱えた。
竜泉和尚が座っていた場所に座りながら、乱丸は万里に部屋へ行けばいいのに、と言った。
「火鉢に入れる炭が足りないか? なら、次はもっと持ってくるから遠慮せず使え」
「いえ、そうではありません。温石なら入れてますし。冬のにおいが好きなんです」
「……冬のにおい?」
「若君は感じませんか? 冬のにおいを。冷たくて、しっとりしていて、でもどこか乾いているの。雪が降りそうなときは、もっと強くなる。春には春のにおいがあるし、夏には夏のにおいがあるし、秋には秋のにおいがあるんですよ」
乱丸が鼻をひくひくと動かした。だが、返ってきたのは「分からん」という答えだった。
存外乱丸が風流を解さないことは、円臨時で暮らすようになってから知った。よくそれで政務に支障を来たさないものだと驚いたが、相手の好みさえ知っていれば、贈り物を選んだりするのには問題がないらしい。
「小倉さまはそのあたりがお詳しいのですけど」
何気なく松千代の名を出すと、乱丸が顔をしかめた。まるでドクダミを嗅いだ寒花のような顔をしている。金山にいた頃は知らなかった。乱丸は意外と感情が豊かだ。許婚であったころは知らなかった乱丸を、別れた今のほうが知ることができている。
「この間も、子どもたちに着せる古着をもらってきてくださったんですよ。あと、文をくださるときは紙の選び方も――」
「文だと? そなた、文までもらっているのか」
あの野郎、と乱丸が歯ぎしりした。
「若君は、お友達が絡んだときは、本当にお顔が変わりますね」
「友達などではないっ」
乱丸が吠えた。
「大体あやつは、はじめから気に食わんのだ。上さまご側室の子だかなんだか知らぬが、俺がここに来るとき融通を利かせる代わりに、晩のおかずを奪ってきたり、非番を変わらされたり……そのくせ、俺が知らん間にそなたに会いに来たり文を送って来たり」
「まあ、夕餉のおかずを?」
万里は顔をしかめた。ただでさえ多忙な乱丸の食事を邪魔されているというのは、いただけない。
「わたしから、小倉さまに言って差し上げます。いじわるするな、と」
「いい、もう松千代が来たときには部屋に通すな。それこそ侍女たちに言って、肥溜めにでも突き落とさせろ」
「そこまではしないわ。小倉さまは聞き分けのよいお方だもの、話せばわかるはず」
すると、急に頬が軽くつねられた。乱丸の睫毛の長さを羨みながら、琥珀のような双眸に映った自分と目が合った。
「俺と2人きりでいるときに、他の男の話はやめろ」
万里がうなずくと、乱丸の掌が離れて行った。手を伸ばすと、乱丸は受け入れた。床に縫い留めるように重ね合わされる。
「やはり、縁側では寒いな」
目を反らした乱丸の言葉に万里は同意した。しかし、2人とも相手が動き出すのを待っているだけで、どちらとも手を離すことはなく、今にも雪が降りそうな空を静かに見つめていた。
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