一夜酒のひとしづく

水城真以

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 つん、と鼻を刺す甘ったるい匂いに、朝太郎あさたろうは顔を顰めた。
 客人のほとんど訪れない古く小さな庵――というより物置小屋と呼んだ方がいいかもしれない――で、その僧侶は暮らしている。名を、月性げっしょうという。「僧侶といっても数珠をはずして袈裟を脱げば頭を剃っただけのただの人間」という方針があるらしく、今も襦袢一枚で酒瓶を抱えて鼾を掻いている。最近の月性は剃髪すらも面倒くさがっている。坊主頭というには伸びすぎた髪が、磨き上げられた床の上に広がっていた。
「……ん?」
 袖を襷がけしようとした朝太郎は、ふと首を傾げた。
 月性は、見てのとおりのずぼらである。朝太郎や、出入りしている弟子達が見かねて動かなければ、雑巾さえ絞ろうとしない。それなのに、床には埃も塵もなく、陽光を浴びてきらきらと輝いてさえいる。
 どういうことだろう――と首を傾げていると、勝手口が開く音がした。振り返ると、手桶を下げた娘がぱたぱたと動き回っている。月性は借金だらけで、下女を雇う余裕はない。身の回りの世話をするような女を囲える甲斐性もない。
 朝太郎の姿に気づくと、娘は驚いたように目を見張った。そして、履物を脱ぐと框に上がり、月性の傍に膝を突くと、その肩を揺さぶった。
「月性さま。月性さま」
 娘が月性の肩を揺さぶった。
「んぁ?」
 酒臭い吐息が鼻に突く。娘は顔を顰めながら、「お客さまですよ」と言った。
 月性は一瞬寝ぼけた顔をしながら、赤い鼻をぐずっ、とすすった。
「月性さま。お客さまです」
 娘はもう一度繰り返す。月性はようやく体を起こした。
「おお、朝太郎」
 月性は嬉しそうにはにかんだ。
「遅くなりました、月性先生」
 朝太郎は慌てて頭を下げた。
 娘は不思議そうに、大きな目で朝太郎を見つめている。夜空に輝く星を吸い込んだような、美しい目をしていた。朝太郎はもごもごと口ごもった。姉妹達とそれほど親しく付き合いのない朝太郎は、若い娘と会話することに慣れていなかった。
 月性は、朝太郎のそんな心情に気づいていないのか、娘に向けて朝太郎を紹介した。
「この男は、月岡つきおか家の嫡男で、朝太郎という。月岡の名くらいなら、おふみ殿も聞いたことがあるだろう」
「ええ。大組の、月岡さまでしょう。兄やお弟子さん達から聞いたことがありますから」
 文と呼ばれた娘は、にこりともしないまま言った。矢絣の袖には、紅色の襷をかけている。簪も櫛も飾っていない髪はややほつれており、日に焼けて汗ばんだ頬に張りついていた。
(怒っているのかな)
 朝太郎はやや気まずい気持ちで、文と呼ばれた娘を伺った。
「ごゆっくり」
 文は襷をほどくと、朝太郎の真横を通り抜けた。嗅ぎ覚えのない、甘い匂いが通りすぎていく。
「今の娘御は、近所の村の子ですか?」
松本まつもと村の、すぎ家の四女さ」
 月性は栓を抜くと、酒瓶を一気に煽った。もはや茶碗も猪口も使わないのは、見慣れた景色である。少し離れた場所に彫られた井戸で、文が水を汲んでいた。
「松本村の、杉家って――」
 その名を聞いたことがあった。
 月性はふふん、と鼻で笑った。
吉田松陰よしだしょういんの妹だ」
 吉田松陰――その名は朝太郎どころか、今さっきようやく立ち上がったばかりの赤ん坊ですら知っている名だった。

 六歳の時に山鹿流兵学の師範吉田家を継ぎ、君主にも教えを説いた天才。――そして、黒船に乗り込むという国禁を犯し、投獄された罪人でもある。
 話には聞いたことがあった。きっとどれだけ醜悪で恐ろしげな男なのだろうとも思っていた。

 ――のだが。
 文、という少女の姿はいつのまにか見えなくなっている。だから、朝太郎は脳裏で少女の姿を描いた。
 夜空に浮かぶ星のように輝く双眸。日に焼けた健康的な肌。分厚く、やや癖のある髪は首の後ろで“玉結び”に結っており、猫の尾のように揺れていた。
 罪人の妹などとは咄嗟に思い浮かばない、可憐な少女だった。
「お文殿は、ここによくいらっしゃるのですか?」
「まあな。松陰が儂のことを心配して、よくお文殿を寄越してくれるのだ。今日もほれ、このように」
 月性は、端に置いていた重箱を引き寄せた。中には、豆と麦を混ぜて炊いた握り飯が詰められている。握り飯は豆と麦がたくさん混ぜて炊いているため、重箱を揺さぶるとぽろぽろと崩れやすい。どうやら、文が月性の食事に、と持ってきてくれたらしい。
「ちと愛想はないが、気立てのいい娘でなぁ。この握り飯にはな、貝や茸の佃煮なんかを入れてくれている。お陰で腹も膨れる上に酒も進むというわけで」
「いや、飯は飯で食べましょうよ」
「そうですよ」
 ややつっけんどんな声が入口に立っていた。文だった。文は盆の上に湯気が立つ茶碗を持って立っている。どうやら、厨の方まで行き、茶を淹れてくれていたらしい。
「月性さま、食事はしっかりと召し上がってくださいませ。先日、久坂くさかさんにも叱られたそうではありませんか。お酒はほどほどに、と」
「そうは言ってもなぁ」
 月性はわざとらしく肩を落とした。
「もう儂も若くはない。残り短い余生だ。せめて好きなものを食べ、好きなものを呑むくらいしても罰は当たらないと思わんかね」
「思いません」
 文はぴしゃりと言い放ちながら、朝太郎の前に茶碗を置いた。香ばしい、ほうじ茶の香りが漂う。
「そうそう――昼間、月性さまのところに行くと伝えたところ、久坂さんからお言伝を賜りました」
「ああ、いい、いい。聞きたくない。どうせあの医者坊主のことだ、またうるさいことを言うのだろう」
「『酒は一日一合にされよ』とのことです。私も、そして兄上も、他のお弟子さん達も思っておりますよ」
 月性は掌で耳を塞ぎながら、あーあーと声を上げている。
 塾生、という言葉で、朝太郎は、そういえば吉田松陰が塾を主宰していたな、と思い出した。もともと当初は親戚や親兄弟を相手に講義をしていたが、評判を聞きつけた近所の村の子や足軽の倅から、藩医・久坂玄瑞げんずいなど優秀な若者も、こぞって入門しているらしい。
(まあ、俺には関係ないか)
 朝太郎は、そっと溜息を吐いた。松下村塾に通うのは余程身分の低い若者くらいだろう。朝太郎は大組の子で、藩校・明倫館に通うことを許されている。松下村塾は身分を問わず門弟となれるらしいが、罪人の私塾に通うことは、朝太郎の父も許さないだろう。
 すると、新たな酒瓶を文に取り上げられた月性が手を叩いた。
「そうだ、お文殿」
「はい?」
「朝太郎を、松陰に紹介してやってはくれないか」
「は!?」
 朝太郎は目を剥いた。文も、声こそ荒げてはいないものの、ただでさえ大きな瞳を瞠目している。
「この朝太郎というのはな、先ほど言ったとおり大身の若様なのだが、まあ泣きべそばかり掻いておってな」
「ちょ、先生!」
「この間も父上に叱られただの、文字がうまく書けないだの、しょっちゅうこの庵に逃げ込んでくる」
「やめてくださいってば、先生!」
「松陰のところに行って、少しは根性を叩き直してもらえるといいのだが、どうだろう」
 朝太郎は、文を恐る恐る伺った。文は黒目がちな瞳を伏せながら、何やら思案しているようである。しかし、やや間を空けてから、小さくうなずいた。
「かしこまりました。今日は比較的、塾生が少ない日ですし、月岡さまのこと、兄に紹介してみましょう」


***

 あーあ、と朝太郎は内心声を上げた。帰ったら父にどう報告――というか言いわけをするのかが悩みどころであった。罪人の妹と連れ立って歩いているだけでも殴られそうだというのに、ましてや罪人の塾に顔を出したとあらば、百叩きにあって爪を剥がされたとしてもおかしくはない。
 前を歩く文という娘は、朝太郎を振り返ることなく、とことこ歩いている。歩く度に、首の後ろで輪にくくった髪が揺れており、愛らしくもあった。
 庵を出るとき、月性は、
「よい刺激になるぞ」
 と耳打ちした。まるで朝太郎のことを思いやった風でありながら、実際には文に取り上げられた酒瓶を取り返す口実が欲しかっただけだろう。完全に売られた形になる。朝太郎はもう一度小さく溜息を吐いた。
 松下村塾は、長門国萩城下、松本村の一画にある。杉家の屋敷――というには小さい敷地内に、松下村塾はある。塾といっても広い間取りではない。杉家の離れ、月岡家からしたら物置にもならないほど小さな建物を増設し、ぎゅうぎゅう詰めになりながら、膝を突き合わせて学問に励んでいるらしい。
「もうすぐです」
 と文が言った。玲瓏な声を心地よく、けれど落ち着かない気持ちで聞いていたら、大きな物音が響いた。朝太郎がぎょっとしていると、
「もういい、慮外者! 早く出て行きなさい‼」
 と、若い男の声が響いてくる。朝太郎が呆気に取られていると、文が小走りで門をくぐった。朝太郎も慌ててその後ろを追い駆ける。
 離れから少し離れた場所に、少年や青年が幾人か立ち尽くしていた。文は、そのうちの一人――一番背が高く見目のいい短髪の少年――に声をかけた。
「久坂さん。今度は、どうされたのですか」
「ああ、お文さん。お帰りなさい。ちょうどよかった」
 久坂と呼ばれた少年は肩を竦めながら、訝しげな顔をする文に駆け寄る。
「松陰先生の、です。新入りが地雷を踏んでしまって」
 はあ、と文は深く溜息を吐いた。帯の隙間に仕舞っていた紅色の襷を取ると、矢絣の袖をたくし上げた。素早く履物を脱ぎ、入り口を駆け上がっていく。急いでいてもきっちりと草履を揃えてからいく辺り、彼女の育ちのよさが伺えた。
 文は裾が捲れそうになるのも構わず梯子をよじ登った。
「寅兄、お客さんですよ」
「うるさい!」
 不機嫌を押し殺すこともしない男の声が響いた。
「なにがお客さんだ。僕はそんなものには会わない。会うものか」
「そんなこと言って。寅兄、さっさと降りていらっしゃいな。皆さん、驚いています」
「うるさい。勝手に驚いておけばよろしい。どうせ僕には失うものなんて何もない、全員絶交してやる」
「またそんな子どもじみたことを……」
 文が梯子を下りてくる。朝太郎の横を通り抜けると、井戸の方に近づいた。手桶に水を汲むと、柄杓を突っ込んでから、それを片手に梯子をまたよじ登った。しばし口論する声が聞こえ、しばらくすると、「ばしゃっ」と水をかける音が聞こえた。
「……え」
 驚く朝太郎に対し、久坂や、他の青年達はほっと息を吐いている。
「よかった。ようやく先生も落ち着くぞ」
「え、あれでいいのか!?」
「ああ」
 驚く朝太郎に、久坂がうなずいた。
「いつものことだ。松陰先生が癇癪を起こして、お文さんが宥めて、それでも落ち着かなければ、お文さんが水をかける。そうすると、なぜか落ち着くんだよなぁ、先生。もっとも、僕達が同じことをしたら、それこそ縁側に投げられるだろうからとてもできないが」
 先生はお身内には甘いのだと、久坂は誇らしげに言った。
 しばらくして、文が手桶を片手に梯子を降りて来た。
「兄がお騒がせ致しました。引き続き学問に励まれてください。――月岡さま」
 文のまっすぐな視線が朝太郎を射抜く。どきりとしているのを知らずに、文は言葉を続けた。
「兄が、一刻ほどお待ちいただきたいそうです。お茶を淹れますので、どうか中でお待ちください」
 朝太郎が案内されたのは、塾生達が待機している部屋だった。部屋といっても六畳あるかというほど狭い部屋だった。そんな中で十代半ばを過ぎた少年や青年達が雑魚寝したり、荷物なども置いていたりするせいで、より一層狭く感じた。
「月性殿の弟子だって?」
 朝太郎に声をかけて来たのは、久坂と呼ばれていた少年だった。上背があるので見落としていたが、顔立ちは思ったよりもうんと幼い。もしかすると、二つ三つは朝太郎より年下なのかもしれなかった。
 朝太郎が名乗ると、塾生達がざわざわとどよめいた。萩では高杉家や高須家などと並ぶ家禄だから、知らぬ者はいないのだろう。
 唯一久坂だけは「ふうん」と、言っただけだった。
「ここでは、家の身分などは問われない。ただ、学びたいという思いだけだ。どうか、よろしく頼む」
「あ、ああ。こちらこそ」
 恭しく礼をしながら、朝太郎はしまったな、と頭を掻いた。月性に言われるがまま文について来てしまったが、朝太郎は入門したいという気持ちは非常に薄かった。この後、どうやって松陰に断りを入れようか考えていたほどである。
 少しして、文がまた梯子から降りてきた。
「月岡さま、お待たせ致しました。兄が、お会いになられるそうです。どうぞ」
 朝太郎は言われるがまま、文に従い梯子を登った。松陰が自室代わりに使っている屋根裏部屋に登るために。松陰はよくここで文机に向かい、読み物や書き物をしているらしい。
 文は朝太郎が屋根裏に登るのを不安げに見つめていた。年の頃でいえば、今年で二十歳になる朝太郎よりも年下だろうに、まるで母親が子を心配するような目をしている。亡き母が生きていれば、こんな風に自分を見つめてくれていたのだろうか――朝太郎はそんなことを考えながら、梯子をよじ登った。
 梯子の上には、着流し姿の男がいた。力強い眼光が朝太郎を射抜く。男は朝太郎をじ……っと見つめた。
「君が、月岡朝太郎君ですか」
「は、はい」
 朝太郎がうなずくと、男は破顔した。
「はじめまして。僕は吉田松陰と申します」
 きっちりとした居住まいで、松陰が頭を下げる。朝太郎も釣られて深々と礼をした。
 文も目力が強いと思っていた。しかし、松陰は更にその上をいく。文の瞳を川のせせらぎと称するなら、松陰の両目には濁流のような力強さを感じた。
「君は、藩校・明倫館に既に通っていると聞きました。それなら、僕のところで学ぶことはないと思うのですが――君は、ここでなにを学びたいですか?」
「なにを――」
 朝太郎は答えに詰まった。
 月性に言われるがまま来ただけだった。朝太郎自身に、何かを成し遂げたい、あるいは学びたいという気持ちがあったわけではない。
 自身が空っぽな器であったことを自覚し、朝太郎は頬を朱に染めた。
 しかし、松陰はそれを咎めたりはしなかった。表情を緩めると、朝太郎にわずかに体を近づける。
「ならば、僕は君が成し遂げたいことを見つけるお手伝いをしましょう。月岡君、君のなかにある『志』を一緒に探します」
「私の、志……?」
「人は誰しも天命というものがあります。それを見つけるために、人は生きるのではないでしょうか。僕も君の師として――否、君の友として、一緒に探す手伝いをしたいのです」
「はい」
 朝太郎は無意識に首肯していた。松陰は満足げにうなずくと、改めて朝太郎にこれからよろしく、と挨拶した。
 何気なく下を見ると、文がほっと胸を撫でおろしていた。

***

 その晩の幽囚室は賑わっていた。朝太郎に限らず、松下村塾では新しい塾生が入る度に、宴を催すのだという。
「――なんて言っているが、ただ理由をつけて騒ぎたいだけさ」
 久坂が酒を飲みながら笑った。朝太郎より三つ下の十七歳の久坂は、藩医として久坂家の家督を継いでいる。年少でありながら松下村塾の古参であり、ゆくゆくは松下村塾を切り盛りしていくのではないかと噂されていた。また、藩の医学所、好生館の奨学生でもあるなど、優秀な男である。
 久坂は、朝太郎に向かって銚子を差し出した。酒はあまり得意ではないが、断るのは気が引ける。恐る恐る猪口を差し出すと、久坂がなみなみと酒を注いできた。朝太郎は薬でも飲むように一気に飲み干した。久坂はいい飲みっぷりだと喜び、また同じ量を注いだ。
 その時、久坂の手から銚子が抜き取られた。
「いけません」
 文だった。文は咎めたてるように銚子を自身の方に引き寄せると、朝太郎の前に湯冷ましの入った茶碗を置いた。
「飲ませ過ぎですよ。お医者さまなのに、患者を増やす気ですか」
「無礼講です。主賓に飲んでもらわなければ意味がないでしょう」
「それでは月性さまを叱れなくなりますよ。飲んでばかりいないで、少しはお腹に物を入れないと」
 文は朝太郎に、皿を差し出した。
「あ、おやき」
 久坂が表情をほころばせる。どうやら文の手製らしい。小麦を練って伸ばした生地で炒めた野菜や餡子などを包んで焼き、囲炉裏の灰の中で蒸し上げて作るのだ、と文は言った。そして言いおいてから、失礼致しました、と目を反らす。
「大身の若さまにお出しするほどのものではありませんでしたね。なにか新しいものをお持ちします」
「いえっ!」
 朝太郎は頭を横に振った。
「このおやきを、いただきます。ぜひ! わ、私は、下戸なので……小腹が空いていたところです」
「そうですか」
 文がふっと表情を緩めた。
「田舎料理でお口に合うかは分かりませんが、もう何品かお持ち致します。どうぞごゆるりとお過ごしくださいませ」
「……なんだか不思議なところですね」
 朝太郎は、焦げ目がついたおやきの表面をそっと撫でた。
 まだ出会って半日も経たない朝太郎のために宴を開き、酒を酌み交わすなんて。
 ――実家では到底考えられないことだ。
 酒は人に取り入るためのもの。食事は体が動くよう、飢えないようにするもの――そして、家がどれほど繁栄しているかを見せつけるように、無駄に豪勢にするものだったから。
 酒に弱い相手のために食事を用意してくれる文。朝太郎と楽しそうに酒を酌み交わす久坂。志なんてものを考えたことのない朝太郎に、一緒に学ぼうと誘ってくれる松陰。
「まだ、出会って一日足らずな私に、皆さんとてもよくしてくれる」
「出会った時間は関係ありませんよ」
 文が優しい声音を出した。戸を開け放していたせいで、風が通り抜け、文の髪を撫でた。
「おう、ご両人!」
 そこへ、若い男が割って行った。高杉晋作たかすぎしんさくという若者だ。大組の高杉家の嫡男で、久坂の幼馴染でもあるらしい。高杉は久坂と文を交互に見ると手を叩いた。
「またおやきをこさえたのか、お文さんは! 久坂は果報者だなぁ!」
「し、晋作」
 久坂が頬を赤らめた。文はつまらなそうに溜息を吐きながら高杉の手を払いのけると、朝太郎に「ごゆるりと」と言い、部屋を出て行った。
「お、お文さんがまた気を悪くしてしまったじゃないかっ」
「いつものことだろ!」
 高杉晋作は久坂の肩に腕を引っ掻けた。
「本気で嫌がっていたら、お文さんだって厭だってはっきり言うさ。お前みたいな美丈夫と似合いだと言われて厭な思いをする娘はおらんだろう!」
(あ……)
 朝太郎は、胸に澱みが生じはじめていることに気がついた。
 久坂は松下村塾の筆頭塾生にして、松陰の後継と称されている。将来的に、松陰は文を久坂に嫁がせる気があるのかもしれない。
 朝太郎は酒瓶を取ると、猪口に注いで一気に煽った。
「お、おい。下戸なんじゃないのか」
「いいじゃないか! 飲め飲め!」
 高杉の煽りを受けるように、朝太郎はますます盃を重ねた。

***

 ふらつく頭で井戸に近づくと、足元に影が下りた。矢絣模様の裾が目に入る。朝太郎が顔を上げると、文が柄杓を持っていた。朝太郎が柄杓を受け取ると、文は井戸から水を汲んだ。酔っぱらった朝太郎と違い、文は慣れた手つきで軽々と水を汲んでいる。皸だらけだったが、柔らかそうな手をしていた。
 朝太郎は、手桶に柄杓を突っ込み、水をごくごくと飲み干した。
「なんだか、不思議な気分です」
「不思議、ですか」
「ええ。……なんだか、一日の間に、一気に色んなことが起きているものですから」
「世の中、そういうものだと思います」
 文は夜空を見上げた。夏が近く、夜だというのに風は温かかった。
「私も、兄が黒船に乗り込んだ時は生きた心地がしませんでしたから。その兄が、今や萩でも評判の塾の主宰をしているなんて」
「あなたは、月性先生の世話をしてくれているのですよね」
「ええ。兄の言いつけで。月性さまのことを案じているのもあるでしょうけど、兄自身が、色んな人と出会いたいんです。だから、面白い人がいれば月性さまを通じて私に紹介させているの。久坂さんもその一人なんですよ」
「久坂さんは、妹君の許嫁ですか」
「まさか」
 文は顔を顰めた。
「ですが、高杉殿は、あなたと久坂を夫婦のように扱っていたではありませんか」
「ありえません。確かに兄は久坂さんを気に入っていますし、目を掛けていますが、私があの人と特別親しいわけではありません。本当です。高杉さまはああいうお方だから、ムキになるとかえって面白がるので、放っておくに限ります。男の人というのは、いくつになっても子どもだから」
 朝太郎は思わず噴き出した。まるで自分は立派に大人なのだと言いたげな態度だ。はじめて文が年相応に見えたのだった。
「妹君は、おいくつですか?」
「今年で、十四になりました。子どもではありません。よく、赤子のように扱われますけど」
「松陰先生からすれば、あなたは年の離れた可愛い妹君ですから。幼いまま、手元に置いておきたいんでしょう」
「それは……そうかもしれません。私は年が離れているぶん、寅兄と一緒に暮らした時間は、兄弟のなかでも少ないですから。どうしても気になるんでしょうね」
 松陰が久坂と文を娶せたいと願っているのは、幼い妹の幸せを祈るだけではなく、松陰自身、文をもうしばらく傍に置いておきたい気持ちがあるのかもしれない。松陰と文は十三も年が違う。兄妹というより、感覚としては親子に通ずるものがあるのかもしれない。
「月岡さま、また明日もいらっしゃいますか?」
 文の問いに、朝太郎はうなずいた。
「明日は、明倫館の講義が夕刻まであります。そのあとに、お邪魔しようと思っています」
「では、お待ちしております。握り飯くらいしか、用意できませんけど」
「あ……いえ、嬉しいです。い、妹君は優しいのですね」
 朝太郎が目を反らすと、文が唇を尖らせた。十四の、大人と子どもの中間地点にいる、少しあやふやな年頃の娘らしい表情だった。
「文です」
「え?」
「私の名です。――妹君、でも、あなた、でもありません。文と呼んでくださいまし」
「え、っと……」
 朝太郎は頬を染めた。まっすぐな少女の瞳は、朝太郎には眩しすぎる。だが、朝太郎が応えなければ、文は解放してくれないだろう。
「文、さん」
 朝太郎が呼ぶと、文はこくん、と満足したようにうなずいた。
 文は朝太郎のことを門まで見送ってくれた。朝太郎が角を曲がるまで、ずっと。
 離れからは、美しい男の声が聞こえる。久坂が詩吟を諳んじているらしい。
(似合いな二人だな)
 朝太郎は、ちくりと針を刺されたような痛みを覚えながら、重たい足を引きずりながら家路へと急いだ。

***

 屋敷に戻ると、むっ、と庭から血の臭いが漂った。悲鳴と、肉を叩くような音が響く。妹達が朝太郎をちらりと見上げたが、一言も声をかけてくることはなかった。朝太郎も、わざわざ呼び止めはしなかった。
「この、無礼者めが! 儂の皿にひびを入れるとは!」
「お許しを、旦那様!」
 父が下人を鞭で叩いていた。朝太郎は胃液がせり上がって来そうになるのを堪えながら、そっと自室に急いだ。戸を締めても、下人の悲鳴と鞭打つ音は続き――やがて、音が消えた。
「……はあ」
 朝太郎は、頭を掻きむしった。髪油で固めた髷が乱れるのも構わなかった。
「……あなたは、俺の家を見たらどう思うんだろうな」
 清廉で、家族から愛されて育ったあの少女は――きっと、朝太郎の本当の姿を見たら、軽蔑するに違いなかった。
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