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十一、
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不意に勝蔵が立ち上がった。
「どこに行くのじゃ」
「厠です!」
「そうか。気をつけて行ってこい」
勝蔵は、すたこらさっさと厠に駆けて行った。
「忙しない奴だなぁ」
と、勝九朗が溜息を吐く。
だが、勝九朗に頼み事があった奇妙丸にはちょうどよかった。
「勝九朗」
胸がうるさく音を鳴らす。黙れ。奇妙丸は己の心の臓を𠮟りつけながら、勝九朗をまっすぐに見つめた。
――彼女と同じ、蘇芳の双眸を。
「於泉は息災か」
勝九朗が驚いたように目を丸くした。
「その、深い意味はないのだ。ただ、於泉は体が弱かったろう。季節の変わり目だし、心配になって……会わなくなって久しいし、勝三殿に問うても、体が弱いからとしか教えてくれなくてな」
言い訳じみた口調になった。
「於泉は、相変わらずです。意外と元気にしています。今日も、乳母と一緒に寺へ説法を聞きに出かけています」
「そう、か」
「ただ、お城に上がれと言っても難しいかもしれません」
「……勝蔵がおるゆえ?」
勝九朗はこくりと頷いた。
イモリの一件が原因で、於泉は勝蔵のことを嫌っている。以来、城に上がろうとしない。
表向きは体調が悪くて、などと言っているが、毛嫌いしている勝蔵に会いたくないからだというのは明白であった。
城下では、池田家と森家は隣家である。
父親同士仲が良く、勝蔵と勝九朗も親しく家を行き来している。
だが、於泉は垣根越しに姿が見えただけで勝蔵を睨みつけ、勝蔵が池田家を来訪している時は、意地でも外に出ようとしないらしい。
「……勝蔵がいなかったら、会うことは叶わないだろうか」
縋るような、情けない声が出た。
今回の上洛は、家中でも反対の声が多い。特に、義母である帰蝶を筆頭に、美濃衆が反対しているという。
時に厳しく、時に慈悲深く奇妙丸を見守ってくれている帰蝶がそこまで反対する。
上洛するということは、それも秘密裡に行われることの危険性は、幼い奇妙丸にも分かる。
命を懸ける覚悟で挑まなければいけないということが。
(だが、ここで逃げるわけにはいかぬ)
将軍候補に謁見するということは、奇妙丸の嫡男としての立場を固めることができる。
信長が背負っているであろう重責をすべて、奇妙丸は受け継いでいかなければいけない。無論、敵も味方も。この秘密裡の上洛は、そういう覚悟の証でもあった。
無邪気な笑顔を思い出す。あの笑顔を瞼の裏に描くだけで、胸が温かくなる。
あの笑顔を見ることができて、あの鈴が転がるような声で「行ってらっしゃい」と手を振ってもらえたら、上洛への不安も解消される気がした。
「……承知致しました」
やれやれ、と勝九郎は溜息を吐いた。
「於泉を、連れて参ります。ただ、於泉を連れてくる時は、可能な限りの御人払いを。特に勝蔵は――」
「分かった」
食い入るように、奇妙丸は頷いた。於泉に会える――それだけで嬉しかった。
呆れる勝九郎の眼差しを浴びながら、奇妙丸は於泉に宛てた文をせっせと書きはじめた。
***
勝蔵と勝九朗が連れ立って帰ると、池田家の前で少女が侍女とともに歩いているのが見えた。
池田家の一の姫、於泉である。
於泉が振り返るより先に、侍女の初瀬が勝蔵と於泉の間に立ちはだかった。
初瀬は勝蔵には目もくれず、勝九朗に「お帰りなさいませ」と頭を垂れた。
(厭な女だな)
勝蔵は、於泉の乳母であるこの女があまり好きではなかった。
「於泉、後で話があるから部屋に行くぞ」
勝九朗は於泉に行っているのに、初瀬が「恐れながら」と口を挟んだ。
「姫様はお疲れのご様子です。どうか明日に――」
「いいよ」
しかし、於泉が口を挟んだ。
「兄上、泉はお部屋でお待ちしてます」
「姫さま、また熱を出しますよ」
「大丈夫よ、初瀬」
舌足らずな声で、於泉が言う。
「もうずっと熱なんて出てないじゃない。大袈裟」
「大袈裟なくらいで良いのです。姫さまは大層な難産で、母君ともども命が危うかったのですよ」
「でも、母上も泉も今は元気じゃない。それに、兄上とお話しするくらいで熱なんて出ないよ。ね、兄上」
初瀬の物陰から於泉が顔を覗かせる。相変わらずの丸顔で、零れ落ちそうな目をしている。
「そうだな。もし於泉が疲れているなら、於泉は寝ながらでいい。それならば文句はないな、初瀬。父上にはお許しをいただいておく」
勝九朗が畳みかけると、初瀬は渋々承知した。
そして於泉は勝蔵と目が合うと、「べー」と舌を出してから初瀬の後ろに隠れていた。
***
「どこに行くのじゃ」
「厠です!」
「そうか。気をつけて行ってこい」
勝蔵は、すたこらさっさと厠に駆けて行った。
「忙しない奴だなぁ」
と、勝九朗が溜息を吐く。
だが、勝九朗に頼み事があった奇妙丸にはちょうどよかった。
「勝九朗」
胸がうるさく音を鳴らす。黙れ。奇妙丸は己の心の臓を𠮟りつけながら、勝九朗をまっすぐに見つめた。
――彼女と同じ、蘇芳の双眸を。
「於泉は息災か」
勝九朗が驚いたように目を丸くした。
「その、深い意味はないのだ。ただ、於泉は体が弱かったろう。季節の変わり目だし、心配になって……会わなくなって久しいし、勝三殿に問うても、体が弱いからとしか教えてくれなくてな」
言い訳じみた口調になった。
「於泉は、相変わらずです。意外と元気にしています。今日も、乳母と一緒に寺へ説法を聞きに出かけています」
「そう、か」
「ただ、お城に上がれと言っても難しいかもしれません」
「……勝蔵がおるゆえ?」
勝九朗はこくりと頷いた。
イモリの一件が原因で、於泉は勝蔵のことを嫌っている。以来、城に上がろうとしない。
表向きは体調が悪くて、などと言っているが、毛嫌いしている勝蔵に会いたくないからだというのは明白であった。
城下では、池田家と森家は隣家である。
父親同士仲が良く、勝蔵と勝九朗も親しく家を行き来している。
だが、於泉は垣根越しに姿が見えただけで勝蔵を睨みつけ、勝蔵が池田家を来訪している時は、意地でも外に出ようとしないらしい。
「……勝蔵がいなかったら、会うことは叶わないだろうか」
縋るような、情けない声が出た。
今回の上洛は、家中でも反対の声が多い。特に、義母である帰蝶を筆頭に、美濃衆が反対しているという。
時に厳しく、時に慈悲深く奇妙丸を見守ってくれている帰蝶がそこまで反対する。
上洛するということは、それも秘密裡に行われることの危険性は、幼い奇妙丸にも分かる。
命を懸ける覚悟で挑まなければいけないということが。
(だが、ここで逃げるわけにはいかぬ)
将軍候補に謁見するということは、奇妙丸の嫡男としての立場を固めることができる。
信長が背負っているであろう重責をすべて、奇妙丸は受け継いでいかなければいけない。無論、敵も味方も。この秘密裡の上洛は、そういう覚悟の証でもあった。
無邪気な笑顔を思い出す。あの笑顔を瞼の裏に描くだけで、胸が温かくなる。
あの笑顔を見ることができて、あの鈴が転がるような声で「行ってらっしゃい」と手を振ってもらえたら、上洛への不安も解消される気がした。
「……承知致しました」
やれやれ、と勝九郎は溜息を吐いた。
「於泉を、連れて参ります。ただ、於泉を連れてくる時は、可能な限りの御人払いを。特に勝蔵は――」
「分かった」
食い入るように、奇妙丸は頷いた。於泉に会える――それだけで嬉しかった。
呆れる勝九郎の眼差しを浴びながら、奇妙丸は於泉に宛てた文をせっせと書きはじめた。
***
勝蔵と勝九朗が連れ立って帰ると、池田家の前で少女が侍女とともに歩いているのが見えた。
池田家の一の姫、於泉である。
於泉が振り返るより先に、侍女の初瀬が勝蔵と於泉の間に立ちはだかった。
初瀬は勝蔵には目もくれず、勝九朗に「お帰りなさいませ」と頭を垂れた。
(厭な女だな)
勝蔵は、於泉の乳母であるこの女があまり好きではなかった。
「於泉、後で話があるから部屋に行くぞ」
勝九朗は於泉に行っているのに、初瀬が「恐れながら」と口を挟んだ。
「姫様はお疲れのご様子です。どうか明日に――」
「いいよ」
しかし、於泉が口を挟んだ。
「兄上、泉はお部屋でお待ちしてます」
「姫さま、また熱を出しますよ」
「大丈夫よ、初瀬」
舌足らずな声で、於泉が言う。
「もうずっと熱なんて出てないじゃない。大袈裟」
「大袈裟なくらいで良いのです。姫さまは大層な難産で、母君ともども命が危うかったのですよ」
「でも、母上も泉も今は元気じゃない。それに、兄上とお話しするくらいで熱なんて出ないよ。ね、兄上」
初瀬の物陰から於泉が顔を覗かせる。相変わらずの丸顔で、零れ落ちそうな目をしている。
「そうだな。もし於泉が疲れているなら、於泉は寝ながらでいい。それならば文句はないな、初瀬。父上にはお許しをいただいておく」
勝九朗が畳みかけると、初瀬は渋々承知した。
そして於泉は勝蔵と目が合うと、「べー」と舌を出してから初瀬の後ろに隠れていた。
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